僕は今、漂流している。







漂泊 〜ヒョウハク〜







 僕にとっての天井は憎々しいまでに晴れ上がり、僕にとっての外壁はたぶん数日の先にある。
 僕にとっての床板だけが尻のすぐ下にあり、貧弱な板で構成されたそのかくも頼りない「床板」のすぐ下を、僕が生まれるずっと前から、たゆたい波打つ海原が駆ける。
 腹立ちまぎれにどん、と一回床を蹴ると、裸足の裏にじわりと湿り気が伝わった。
 今のところ静かに漂流している(あくまで今のところ、だ)僕であれ、結局のところ命が惜しい。腹が立っても床を蹴られない欲求不満が沸き起こり、それがこの漂流が始まって以来初めての欲求不満であることに今更ながらに驚いた。
 驚いて、やめる。
 驚くときっと、腹が減る。
 邑の連中にあった最後の僕への気遣いは、たぶんこの貧弱な板でできた小さな船を傾がせるほど積まれた水だったのだろうと、ふと思う。そのわりに、パンはただのひとかけらも乗せられていない。罪人を流すのにパンなど要らないと言った若者の顔を思い出し、それならばなぜ水だけは執拗にも乗せたのかと、今更ながらに疑問が募る。単なる気まぐれと片付けてしまってもよかったが、それにはあまりにも、僕は暇すぎた。
 雲ひとつ無い青空は、本当にじりじりと音をたてて肌を焼く。
 僕の数少ない趣味の一つは泳ぐことで、青空の下泳ぐのは本当に楽しいことだったが、こんなに肌を焼かれたことはなかったはずだ。
 泳ぎが得意だろう、泳いで帰って来てみろよ。
 嗤った子どもの顔を思い出し、彼にとっていつか過去を振り返ったときに、単なる厭らしい台詞を吐いたという記憶にしかならないことを言ったことを叱責する大人が果たしてその場にいなかったのかどうか、今更ながらに後悔した。僕がその大人になってもよかったんじゃあないだろうか。罪人ではかえって迷惑か。
 貴方の無実を信じている。
 そう言った女の顔も、ついでのように思い出した。
 凡庸な女だった。自分自身と、物語の中に出てくるような情景に酔ってそんな台詞を囁いたのだろうその女に、僕は好かれていた記憶がない。もちろん真実僕は無実ではないのだから、思い出せば思い出すほど滑稽な女ということになる。
 今更ながらに笑いがこみ上げる。
 なんと愚かな女だろうと。
 今更ながらに頬をかく。
 もっとましな男に酔えばいいものをと。

 考えれば全てが今更なのであり、つまりは僕が罪を犯したときからこの漂流は決まっていたのだから、いずれ無くなり結局は僕を餓死させるパンがあろうが無かろうが、僕がいない邑でいくら不良になろうとも関係のない子どもが暴言を吐こうが、僕を弁護する女がいようがいまいが、全ては結局今更なのだ。

 カモメが1羽、ひぃいと人の悲鳴にも似た鳴き声を上げた。

 今更を、何故今更僕はしているのだろうか。
 今更に今更疑問を覚えるのならば、今が今であったその時に、全部片付けられたのではないのだろうか。
 今、パンをくれと泣き叫んでもよかった。
 今、お前それはいけないことだと子どもを叱りつけてもよかった。

 今、ありがとうと、あの女に言ってもよかった。

 僕を信じなくてもいいよと、言わなくてよかった。

 …言えなかった。

 もうはるか昔にくすんで出なくなったと思っていた涙が今更あふれてなぜか目から溢れず心臓にたまり、それがつかえて何も言えなかった、あの時。
 それでよかった。
 今更、よかった。
 ありがとうだけは、言ってもよかったのだけれど。

 カモメがもう一度、鳴いた。
 今更気がついた僕は、あわてて、しかし船を壊さぬように細心の注意払いつつ天井を仰ぐ。
 真っすぐに翼をひらいて滑空するカモメが二羽、いつの間にか、それ以外は何も無かったはずの真っ青な天井に白と黒と黄色を添えている。
 流されたのは昨晩のことなのだから外壁は考えてみれば1日の距離以上のはずもなく、床板は、少なくとも僕の尻の下では頼もしくも乾いている。

 今更僕は、空になった小さな水樽のひとつに取り掛かった。
 カモメのくちばしの向く方を見据え、僕の手の中に小さな櫂を作るために。
 それが漂流の終わりになるのか、はたまたもっと酷い、いうなれば漂泊の始まりなのかは分らなかったが、後悔するのは今が今更になった後でよいと、今の僕はそう思う。








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