笑えるだろう。 体が勝手に動いていた。 勝手とは何だ。 打算では、なかったのか。 この旅の始まりも。 少女を守るという、その誓いも。 笑えるだろう。 いったいわたしはどうしたのだろう。 笑うしかないだろう。 そして、その笑いは自嘲の笑みかもしれないが、ともかくも笑ったついでに手に取った本は、重く、重く。 重く、彼の手にのしかかった。 彼の右手に2冊の本 〜カレノミギテニニサツノホン〜 ノックの音に緊張したのは瞬間だけで、すぐに聞こえた自分の名を呼ぶゆったりとした声色に、トラン・セプターは彼自身もゆったりと応えた。 「はいどうぞ、鍵はかけていませんよ。ノエル」 「あ、じゃあ失礼しますね」 ふわりとたわむ茶色の髪の毛。大きな緑色の瞳が笑んでいる。元気に戸を開け放って部屋に入ってきたノエル・グリーンフィールドは、両手で重そうな包みを抱えていた。 「どうしました?」 「これ、トランさんにお届け物みたいですよ」 「わたしに?ああ…」 「ダイナスト・カバルさんからって書いてます〜」 「はい、送ってもらえるように頼んでいたんです。わざわざ持ってきてくれたんですか?重かったでしょう、ありがとう」 「いえいえ〜。今下に下りたら宿の受付に届いていたんで、ついでですよ」 「下に…」 包みを受け取りつつ言われてノエルの格好を見ると、旅装ほどではないものの、外に出る準備をしていることが分かった。 思わず外を見る。宿屋の客室がある二階の窓から見た外は、相変わらずのひどい雨模様だった。この悪天候で足止めされてもう3日。街道が土砂崩れで通れなくなっているらしいから仕方が無いとはいえ、そろそろ飽きが来るころである。 「…外に行くんですか?雨、まだひどいですよ?」 クリスじゃあるまいしと呟くと、くすくすとノエルが笑う。 この子は本当によく笑うと、脈絡もなくふと思った。 「さすがに退屈で。近くだけですけど、エイプリルさんと散歩に出ようってことになったんですよ〜。トランさんもどうですか?」 「すみません、わたしは早速この中身を確認しておきたいので」 「ああ、そうですよね――――って、それ、何なんですか?」 無邪気に訊かれて、少し詰まった。 両手で持っていた包みを右手に持ち直し、答える。 「本ですよ」 「本?」 「ええ。…実際使うか使わないかは、まだ考え中ですが、ね」 屋根を叩く雨音は、少しだけだが小さくなったような気がした。 包みを剥いで出てきたのは紛れもなく彼が大首領に頼んでいた本で、古びた見た目はいつも彼が携えているものと大差無い。ベッドに腰かけ、パラパラとめくってみる。当たり前だが彼が求めた通りの内容に、なぜかため息が洩れた。 なぜか。 いや、理由は分かっている。 今更ながらに、この本を求めた理由が、トランの手には重かった。 ダイナスト・カバル極東支部長、トラン・セプター。 それが自身の存在意義であり、存在理由。 創られた存在である自分にはそれ以上もそれ以下も無く、当たり前のようにそれで満ち足りていた。 たとえ今、フォア・ローゼスという冒険者ギルドに加わっているとはいえ、それも任務のうちなのだ。 トラン・セプターという自分は変わりようが無い。 変わらない。 …そのはずだった。 「…どうしましょうかねぇ…」 思わず使い慣れたいつもの魔道書に手を伸ばす。 そう、あのときも自分は、思わず手を伸ばした――――― 「入るぞ」 「えっ!?」 声と同時に唐突に戸が開いた。 「?…何を驚く」 「…クリス…」 ポタポタと、金色の髪の先から雨のしずくが床に落ちる。手ぬぐいで体を拭きながら入ってきた少年神官戦士が、びくりと肩を上げたトランを訝しげに見た。 「いえ、いきなりだったもので」 「気付かなかったのか?」 お前が?と少し眉を上げたクリス・ファーディナントはしかしそれ以上追究せずに、自分のザックから少し大き目の布切れを取り出した。この雨の中体が鈍ると宿の庭先に鍛錬に出て、しかもフル装備。がしゃがしゃと煩い鎧の音は壁の薄い宿では階下からでも聞こえてくる。呆けすぎだったなとトランは苦笑して、2冊の本を膝に置いた。 「それにしてもよくやりますね、この雨の中」 「1日鍛錬を欠くと、取り戻すのに3日かかる。お前こそ、たまには体を動かしたらどうだ」 鈍るぞ、と本気の口調で言いながら、淀みなく鎧を外す。その体つきは年齢のせいもあるかもしれないが、戦士としては華奢なほうだろう。しかしそんな彼の役目といえば、体を張って前線に切り込み、仲間を守ることである。鍛錬が必要と言われれば、否定する理由はない。 「体を動かすのはあなた方に任せますよ。わたしはこっち担当です」 トントン、と本と己の頭をつついてみせる。 クリスはふん、と小さく鼻を鳴らすと、上半身裸になって衣服を干し始めた。 「…それでも。鍛えるに越したことはないんじゃないか」 「…突っかかりますね。わたしに前線に立てとでも?」 「そうじゃない。誰がひ弱なメイジにそんなこと言うか」 「じゃあ何です」 ひ弱の一言にむっとしながらつっけんどんに問いかける。クリスはズボンまで脱いで干すと、折り目正しく自分のベッドに用意してあった部屋着にようやく手をかけた。 「ノエルさんを庇っただろう」 「………先日のことですか?」 「覚えているなら尚のことだ。…ひ弱なメイジがウォーリアを庇うなんて、私は聞いたことがない」 「あれは―――――彼女はまだ戦士としてはだいぶ未熟ですし。それに、」 ニヤリと笑んで見せる。作ったものではなく、本気の笑みだった。 「忘れたんですか、クリス。わたしはノエルの信頼を勝ち取って、最終的に薔薇の武具をこの手にしなければならない。……あなたとエイプリルも、そうでしょう?」 「…………」 不快そうに鼻にしわを寄せる少年に、こちらは心の中だけで鼻を鳴らしてみせた。意図していることは変わらないくせに、この正義の神官戦士は、己の行動が自分や罪人のエイプリル・スプリングスと変わらぬと、そう揶揄されるのが大層気に食わないらしい。 「私はノエルさんに無理強いする気は無い」 「わたしだってそうですとも!」 「ッ………言ってろ悪の幹部め」 「ふぅ。…これだから神殿は」 二人で会話するとここに帰着しなぁなぁになるのはいつものことだったが、今日はクリスが譲らなかった。上着を羽織ながら、多少不機嫌な目でこちらを睨みつけながら、またゆっくりと口を開く。 「…それにしたって、お前はノエルさんを庇って倒れたんだ」 「ええ、ですから彼女を信頼させるため―――」 「考えなかったのか?」 「何をです」 「―――――……………なんでも、ない」 ふい、と目をそらしたクリスの澄んだ目の中に、もう不機嫌さは見えなかった。 とぼけた手前、自分も目をそらし、本をめくる。内容は頭に入ってこなかった。 クリスが言いたいことは分かっている。 一時的に同盟を結んだとはいえ、自分達は敵同士。確かに伯爵の罠にかかったあの状況では戦力が欠けるのは得策ではないが、―――――もし。もし、クリスかエイプリルが、言葉巧みにノエルを騙し、倒れたトランを見捨てたならば?そんな可能性が、果たしてゼロといえるのか?そんな可能性を、お前が。本当に考えなかったのか? 悪の幹部めと罵りながらも、どこか肝心なところが甘く、純粋すぎるこの少年が、最近ふとした拍子にこちらに気を許した様を見せるのはそのせいか。 全くの打算無しに、とっさにノエルを庇ったと。そう思っているためか。 全くもって甘いですね。これだから、神殿は。 言ってやりたかったが、呑み込んだ。どこか肝心なところで甘いのは自分も同じだ。全くの嘘をつくのは、例え相手が憎い神官でも抵抗がある。 そう。 確かに自分はあの瞬間、何も考えずにノエルに手を伸ばしていた。 意識が戻った後で真っ先に見たのは半泣きのノエルの顔であり、呆れたエイプリルの顔であり、そして――――― 「………あのとき」 「ん?」 きょとん、とクリスが振り返る。濡れた髪をごしごしと拭く姿は年よりも幼く見えた。 「……………いえ。独り言です」 そしてあの時、ずっと俯いていた、金髪の神官戦士。 「独り言?」 「――――それにしても本当、よくやりますね雨の中。風邪引きませんか?」 「きちんと体を拭けば、この程度では引かん。欠かせないんだ、鍛錬は」 「まあそうでしょうけどね」 「…守るのが私の役目だから」 「……クリス…?」 「私が全てを守ろうと、神に誓った」 「…」 「神のご加護を疑うわけじゃない。だけど、最後に残るのは、私自身という盾だろう。だから私は、強くなきゃならないんだ」 ため息を押し殺した自分が、本当に甘くて憎らしかった。 死神クリス。呪われたファーディナント家。 友を失ったことを悔いる少年をからかったのはほんの数回。未だ長いとはいえない旅路の中で、それを彼がいかに辛く思っているかを、いかに全てを守ろうという青臭い考えを真摯に抱いているのかを。その行動そのものから見せ付けられて、いつしかからかうことをやめていた。 ぎゅう、と2冊の本を握り締める。 だからこそのこの本だと、しかし、認めたいわけではない。 そこまで甘い、甘く変わった自分を認めるには、トラン自身が幼すぎた。 「………だが、お前が倒れた、とき」 静かな口調に、思わず正面からクリスを見据えて目と目が合った。澄んだ瞳は揺れていない。 「この身を盾に投げ出して、全てを守れれば良いと思っている自分に、少しだけ疑問を感じた」 ノエルは半泣きで、それでも笑った。 よかったです、トランさんが死んでなくてよかったですと、繰り返して笑った。 エイプリルは呆れ顔で、いつも以上に無口だった。 ただ一言、無茶をするなと言ったときには見たことも無いような真顔だった。 クリスは俯いていた。 握った拳は震えていたか?そこまでは覚えていないが、とにかく黙って、俯いていた。長い長い沈黙だけは、辛うじて覚えている。 「…………それで?だから、どうするんです?」 ずしりと重い本を握りしめる。 だから、どうするんです?神官戦士クリス・ファーディナント。 あなたはあなたでしょう。 今まで作り上げてきたあなた自身を、いったいこれからどうすると? それはそのまま自分への問いかけだった。 だから、どうする。ダイナスト・カバル極東支部長トラン・セプター。 わたしはわたしで。 その存在意義も、存在理由も変わるわけが無くて――――― 「―――どうするもなにも。とりあえず考えながら鍛錬だ。私が倒れては戦えないだろう?」 「…………は?」 「ああ、今のところは格闘術を学ぶのも良いかと考えているんだが。肉体を鍛えるには基本はそこだと思うしな。それが駄目なら―――どうした?妙な顔をして」 「…はぁ…いえ…そこまであっけらかんといろいろ言われると…」 「そんな迷うことでもないだろう?最善を尽くす。それだけだ。お前だってそうだろう?」 「わ…たしは……」 ふいに陽が差した。 雨の合間の重たい雲のすき間からの日差しが、「あたりまえだろう」と首を傾げるクリスを照らす。 「…あなたは迷わないんですか、クリス」 「…何をだ?」 「そんなに簡単に、変わってしまえるものですか?」 「―――――」 クリスは、本当に面食らったようだった。もともと大きな瞳をさらに見開き、こちらを見据える。 縋るような目をしていることは、自身が1番よく分かっていた。 何を。 自分は何をしているのか。 偉大なるダイナスト・カバルの幹部が、神殿子飼の神官に――― 「な―――何を言っているんだ」 「…ええ分かっていますよどうかしていました。わたしがどうして神殿なぞに」 「いやそうじゃなくて」 「え?」 「変わる?私が?どこが、どうして。何が変わるっていうんだ」 ふん、と胸を張る姿に思わずぽかんと口が開く。 「やり方が変わりこそすれ、私は全部守ってみせるぞ。私は私だ。」 馬鹿じゃないですか、あなた。 言葉を飲み込んだのは遠慮からではなく本当に呆れて声が出なかっただけだった。 「何を言っているんだ、貴様は。全くわけが分からない」 分からなかったんですかそうですか。 そう言う気力も無く、引きつり笑いの口元が頬の筋肉まで押し上げた。 「…………なんだそのもの凄く人をバカにした顔は」 「……あー……なんというかもう……」 「…私は」 「…はい?」 「私は仲間を守るために強くなる。変わらないさ。それだけだ」 「……………」 もしかして全て分かっているのかもしれないクリスの台詞に、三度トランは言葉を飲み込んだ。 そして、長くて短い沈黙の果てに口を開く。片手で軽く持ち上げた2冊の本は、考えてみればただの紙切れの束なのだから、そう重いはずも無い。 「…………仲間、ですか」 「………」 変わって口を閉じたクリスが、見る間にまた不機嫌な顔になる。 「今だけだがな」 「そりゃ、もちろん。―――しかしまぁ、そうですね。仲間を守る。ふむ。円滑に旅を進めるには必要なことで、如いては薔薇の武具をこの手に回収するというわたしの目的にもつながるわけです。いやいや。なるほど」 「…だからさっきから、なんなんだお前は」 さすがにイライラとし出したクリスが、ふと、こちらの手に目を留めた。 「そういえばそれ、見慣れない本だな。メイジの書物か?」 「ああいえ、これは……………」 考えてみれば、 それは決断というほどのものでもなく。 例えば今、 今度は自嘲ではなく、笑んだ拍子に霧散する程度のもので。 ああ、本当に笑えますね。 守りたければ守ればいい。 偉大なるダイナスト・カバルの極東支部長が、 たったその程度で変わるはずがない。 笑んだ口元を意識して皮肉げに歪めて見せた。それだけでむっとした顔になる少年神官戦士は所謂神殿の子飼だが、それ以前にクリス・ファーディナントという名を持つ馬鹿正直な少年であり、だから自分が思わず縋ったのは神殿ではなくクリスなのだと思い直してそれはそれで腹が立つ。゛ 腹立ちついでに勿体でもつけてやろうかと思ったが、それには本格的に差し出した陽光が眩しすぎた。 「これは、サモナーの本ですよ。蟲の王、アラクネを召喚する術を学ぼうと思いましてね」 とん、と2冊の本で己の肩を叩いてみせる。 訳が分からず首を傾げるクリスにようやく今日の1本目が取れた気がして、また自然に笑んだ口元はもう歪められなかった。 |