文禄 慶長の役 秀吉の侵略戦争 前戦基地

文禄の役 1592-1593年 講和決裂で 慶長の役 1597-1598年 秀吉死去まで

 
 1590年 秀吉 後北条氏 小田原城を攻め 滅ぼし 日本統一
 信長にもあった 明の侵略 対馬藩 宗氏と通じて 李氏朝鮮に服従を求める  結局 1592年
 16万人が 朝鮮に渡る 先人は 加藤清正 小西行長等々 あっけなく漢城 ソウル征服 さらに
 朝鮮国王した遷都 平城も 王朝はさらに北に避難 最初は調子良かった 秀吉軍 その後
 民衆の抵抗 食料等は現地調達の為 民衆の抵抗で食料不足 又寒気 又朝鮮水軍 李舜臣
 率いる 戦いに被害甚大 ついに明軍が応援で責められ 小西行長 石田三成等が うその内容
 で講和 秀吉は 相手が降伏したと思い 講和を許す

 秀吉は一度も 朝鮮には渡らず 此処 名護屋城に その間 母親が死んだ時は 一次大阪に
 大陸征服の為の前線基地 名護屋城を中心に 多くの戦国大名が回りに陣地を作る。

 この役で 加藤清正 福島正則 等々と 石田三成との確執が深まり その後の 関が原の戦いに

 1595年 朝鮮使節の文章の内容に激怒した 秀吉 再度戦いに それが 慶長の役
 前回ほどの勢いも無い 蔚山城では 加藤清正 何十倍の明軍に囲まれるが 撃破
 
 秀吉の死亡により 秘密りに逃げる様に 秀吉軍 撤兵

 秀吉の思想 民を滅ぼし 天皇を迎えて 王国を作る この時代スケールが大きすぎる
 常識的に考えて 初め上陸した 軍団 まともな地図も無く 兵站も十分でなく 秀吉の願い
 を叶える為に 秀吉の影響は凄いとも思い 但し この戦い 日本に戦いがなくなり
 秀吉が 各大名が 勢いをそぐ為の戦略との 考えも

 死去の前に 家康等に念書を出させ 涙ながらに 秀頼 豊臣家の安泰を頼んだのは哀れ!

 時世の句

 露と落ち 露と消えにし 我身かな 難波の事も夢のまた夢

 名護屋博物館 現在 秀吉と文禄 慶長の役 特別企画展をしていました。
 貴重な品々 朝鮮特使が持参し 激怒した文書 時世の句 など 興味深々

 


全国諸大名の陣屋


名護屋 城址

名護屋城博物館 博物館より城址


大手口 本丸跡


本丸より 玄界灘 対馬 壱岐が良く見えます 又
眼下には 各大名の陣地がありました
唐津城 城主 寺沢志摩守宏高は 名護屋城の解体資材で築城

ソウル(漢城) 昌徳宮 離宮 文禄の役で全焼 景福宮 王朝王宮 同じく 文禄の役で全焼