タトラ
PINZGAUER ピンツガウアー関連資料 CCV-36より抜粋 文:石川雄一
設計者
ハンス・レドウインカ
CCVを色々と見ていると、その車を企画したり設計した人のことが気になる。多くの場合は「こんな設計した奴のツラが見たい」と言うものだが、そんな奴に限って雑誌の提灯記事で恥ずかしげもなくツラを見せている。ところが中には、数こそ少ないが興味をそそられる設計者もいる。勿論多くは故人であるが、VW166シュビムワーゲンを造ったポルシェやR/Rのスペン・キングよりも筆頭に上げたいのが、ハンス・レドウインカとその息子と後継者だ。
レドウインカは、20世紀で最も優れた車を選ぶカーオブザセンチュリーと共に選考が進んでいる個人への栄誉の中で、最も優れたカーエンジニアの候補26人にも入っている。ちなみにカーエンジニアとカーデザイナーには、日本からの候補はいないし、最終選考の25台の中に日本車はない。ただ本田宗一郎、豊田英二の名前が16人の優れた起業家の中に挙がっている。
しかし日本では彼は無名に近い。約40年間もタトラの主任設計者として活躍していたが、当時からヨーロッパではフェルディナンド・ポルシェと同様に有名であり、設計のユニークさでは抜きん出ていたのにだ。
1878年オーストリア生まれのレドウィンカは、機械好きな叔父さんの影響から工場で働きながら学んだが、後にはチェコのタトラのチーフデザイナーとなった。そして欧州の終戦までの間に、偉大な設計を多く成し遂げた。氏が乗用車だけではなく、トラック等の商用車でも異才を発揮したのは、前号から連載している「タトラ」の記事にある通りだが、自動車のみならず鉄道車両から航空機にまで設計を行った。革新的な乗用車として有名なのは、1934年に発表したリアエンジンの小型車T77である。それまでもリアエンジン車はあったが、タトラは更にT87、T97と発展させて行き、その後各国のメーカーが次々とリアエンジンの小型乗用車を開発する起爆剤となった。
これはヒトラーの関心を呼び、後にポルシェの設計となる国民車フォルクスワーゲンの登場に大きな影響を与えたとされる(ヒトラーもレドウインカと同じオーストリア生まれ)。事実フォルクスワーゲンはV570/T77のコンセプトに非常に近く、しかし安上がりな構造であった。タトラは特許を侵害されたとして抗議したらしいが、全ては当時の第三帝国とチェコとの関係の中でウムヤムになってしまったようだ。
個人レベルでは、レドウインカとポルシェは年齢も近く友人関係であり、アイデアの交換をしていたとも言われる。しかし作品を見る限りでは、レドウインカがポルシェから学んだものは多くはないだろう。確証はないようだが、タトラのV570は開発から生産までの間に謎のブランクがあったこと、ポルシェやVWに対してタトラは「属国」の小メーカーに過ぎなかったことと、ヒトラーがVWを政治的に支援したこととは、無関係ではなかったろう(あの独裁者もオーストリアの出身なのだが)。
いずれにしても、後に大成功したビートルがタトラの影響を強く受けていたことは否めないと思う。VWのフロアパンの形状は、タトラ・コンセプトのバックボーンの廉価版とも見える。そうなると、それに続く356や911にもレドウインカのアイデアが流れていることとなる。
戦争中タトラは、ナチのために性能も耐久性も優れた軍用車両を生産し続けた。そのことからレドウィンカはポルシェと同様に戦争中にナチに協力して多くの車両を設計したとして連合国軍によって投獄されてしまった(日本の敗戦に際して、軍用車の設計者が巣鴨プリズンに収監されたであろうか)。 色々と連合軍側の政治的な動きがあったにしても、ポルシェが1947年の8月に開放されたのに対して、レドウインカは1951年まで開放されなかった。それだけレドウインカの方がナチへの貢献度が高かった。つまり設計者として優れていたということではなかったろうか。そしてポルシェは同じ1951年に他界したが、レドウインカはスタイアーで10年以上も働いたのであった。
開放後は、次男のエリックが設計陣を率いていたスタイアー・プフに対しての仕事を行ってきた。レドウィンカが没したのは1967年の3月2日で、89歳の誕生日の直前であった。おそらくハフリンガーの設計には強く関与したと思われる。ハフリンガーは、小型ながらバックボーンシャーシーのリアに空冷水平対向エンジンをフランジ搭載し、スイングアクスル(デフは普通だが)を採用していて、タトラ・コンセプトそのものだからだ。氏が1965年の4月には自分で最高傑作のT87を運転している写真が残っているので、生前にピンツガウアーの図面くらいは見ているかも知れない。
氏がポルシェほどは有名にならなかった理由としては、車名に名前を冠したことがなかったことがある。また彼は、モータースポーツが技術の進歩に役立つとは思わなかった。タトラもレースには参加していて、レドウインカもレーサーの設計を行ったことはあるが、より実用的な車を作ることの方へと才能を傾注していった。
彼の設計のもう一つの特徴として、モジュラー式のエンジンがある。最近でこそ珍しくないが、同じピストンを用いるなどして、設計の初期段階から異なる気筒数のエンジンを作れるようにしたのだ。ギアボックスやデフをチューブのシャーシーにフランジで結合した構造もパワートレインのモジュラー化と言えるもので、組み合わせによって4×4にも6×6にも出来るのだ。
スタイアー・ダイムラー・プフ
さて、レドウインカを失ったタトラは、戦後のコメコン諸国の間での役割分担の中で重トラック、それもオフロード用のものを得意として独自の路線を歩んでいる。年間数百台という少量生産であるが、高級な乗用車の生産もまた継続している。タトラのトラックはレドウインカの確立したコンセプトを忠実に守っているが、乗用車の場合、それは随分と薄まってしまっている。そしてスタイア、正しくはスタイア・ダイムラー・プフもまたレドウインカ父子と継承者によるタトラの技術と、スタイア独自の製造技術を融合させて世界の自動車産業の中では異色の存在となっている。
この会社も歴史は長い。戦後はフィアット500のライセンス生産であるプフ500を作ったりしたが、現在では数社のメーカーからの開発や生産の委託を主な仕事としている。主な顧客はフォルクスワーゲングループやダイムラーベンツだが、日本を含む多くのメーカーにその経験と技術を提供してきている。特に四輪駆動の分野を得意とするようだ。自社の製品としては、1959年から1974年までに約17,000台のハフリンガーを生産し、1971年から現在にかけてはピンツガウアーを生産している。現在の委託生産はゲレンデワーゲンとEクラスの4マティックモデル、クライスラーのボイジャーとグランドチェロキーの一部で、総生産台数は年間約10万台程度と、メーカーとしては小規模である。
また、長い経験から総輪駆動車の開発については他のメーカーからも高く評価されていて、開発の委託を多く受けている。おそらくその多くは公開されていないだろうが、わかっているだけでもフィアット・パンダ4×4の開発とシャーシー生産、シビックシャトル4WDの開発が知られている。ゲレンデワーゲンの開発も多くはスタイアによるもので、発表前の噂ではピンツガウアーと同じシャーシーかとも言われたが、結果としては実直な造りだが伝統的な内容のもので、価格だけがR/Rとのライバル意識を感じさせるものであった。1987年に日産がモーターショウに出品した意欲的な四輪駆動のスポーツカーMID4も同社の仕事と言われる。
スタイアー・ダイムラー・プフがメーカーとして知られていないのは生産規模が少ないだけではなく他社から委託された仕事が多く、自社ブランドのものはピンツガウアーだけだからだ。
ハンスレドウィンカの設計で個々の技術を見ると、彼が発明したものは少ない。バックボーンシャーシーでもスイングアクスルでも先達がいる。しかし、それらの技術は車として成功したものは少なかった。レドウインカが偉大なのは、それらの多くのアイデアを巧みに組み合わせて、1台のバランス良く完成された車として結実させたことである。それも瞬間的な性能だけを追求したスポーツカーや奇を衒った車ではなく、実用性が高く、燃費や整備コストにも配慮して長寿命な車として設計している。
勿論、彼のタトラ・コンセプトが重トラックとピンツガウアーでしか残らなくて他のメーカーでは、より廉価な伝統的構造を採用している理由は、コストに尽きると思う。私は、レドウインカという設計者には強く興味を抱いている。しかし彼よりもはるかに尊敬する人々がいる。それは、タトラやスタイアー・ダイムラー・プフで彼の設計を受け入れた経営者達であり、技術や品質を評価出来ることからコストの高さを受け入れた顧客達である。
参考文献:「TATRA The Legacy of Hans Ledwinka」
Ivan Margolius & John G.Henry著
「Great Tatra Story」 Super CG 05号/06号 二玄社
最新モデルの動画と WIKIPEDIAでの説明
空冷モデルのファクトリームービー 激走モノ、ただし腹下が275mmというのは間違いで450mmくらいはあります。



