大井ゆき江<会員/主婦>
ある日、相模原市広報で「ボランティア」募集を見て、市役所に電話しました。その後、ボランティア団体の名称、代表者、連絡先の一覧表がぽーんと送付されただけ。正直言って、この対応には不満があります。(が、さておいて)その中で、息子の高校の先生でいらした永瀬さんに連絡しました。すると、なりゆきで、どちらも初体験となる「ボランティア」で「日本語を教える」ということになりました。
私の生徒はカエットさん。24歳のカンボジア人男性。来日したばかり。ヒムさんという20歳の奥様もいます。私はABCがわかるだろうから、ローマ字で覚えられるとばかり考えていました。ところが、クメール(カンボジア)語しかわからなかったのです。さあ、大変!!
五十音のカードを作り、「あ・い・う・・・」を覚えてもらうことから始まりました。部屋の壁にも表を貼りました。現在ほんの少しひらがなが読めます。ヒムさん(来日2年以上)が通訳です。女同士ということもあり、私達だけで盛り上がることもあります。
カエットさんは最初「上目使いの、ちょっと暗い淋しそうな青年」でしたが、最近はよく笑います。日本にも、私にも慣れてきたようです。「日本語を教える。覚えてもらう」という道はまだまだ試行錯誤と前途多難です。
ヒムさんは来年赤ちゃんが産まれます。日本で保育園に入れるには、費用だけでない問題もいろいろあります。カンボジアに仕送りして、おばあさんに育ててもらうという考えもあるようです。でも、彼女が「本当はここで、自分で育てたいの」と言った時は、思わず涙が出そうになりました。
彼女は私にとても気を使ってくれます。何度かカンボジア料理を作ってくれました。役場や県に電話する必要があり、私の携帯を取り出すと、すぐに「これを使って」と自分のを差し出します。自分達のことは私に負担させないように考えています。ホロリとしてしまうことが多々あります。感性の素晴らしい、こまやかな女性です。
彼らにとって、私が役に立ったのは、国勢調査や団地の申し込みの時でした。町も県も、他の言語(スペイン語、ポルトガル語、タイ語など)は案内書があるのですが、カンボジア語はないのです。ということは(残念ながら)彼らが日本語覚えるしかないのです。
もし、自分が外国で生活しなければならない時に助ける人間がいたら、私はすご〜く嬉しいと思うのです。今も、これからも、彼らにとって、その「ありがたい人間」になれたらいいなあと思います。その『自己満足』だけが、私のボランティア初体験の感想です。
【3年後、ある日…】
今日はカエット・チャンナートさんの27歳のお誕生日でした。小さなケーキでお祝いしましたら、生意気に息子のノピエ君が、ろうそくを【ふー】と消すのですよ。どこで覚えたのやら。また今日は、初めて【チェンチェ】と私の肩をたたいて話かけました。記念すべき日です。。。なんてババ馬鹿ですね。
ヒムさんは、私に【私たちは何の恩返しもできなくてごめんなさい】と言います。あの子は、どこで、どうやって、そういう【心】を学んだのでしょう。ですから【私がおばあさんになったら、いっぱい助けてね】とお願いしましたが。
私の(多分後半の)人生の喜びの一つの出会いに感謝!!でした。
【さらに1年後…、初めてのカンボジア】
カエット家は、ほぼ毎年末にカンボジアに帰郷しています。
毎年(一緒に行きませんか?)というお誘いを受けていたので、2003年末にはじめてのカンボジア訪問をしてきました。ちょうどチア君(カエット家のいとこ、愛川町在住)の結婚式がプノンペンでとり行われるというので、そちらにも列席という欲張った計画でした。同行者は夫と私の友人です。
一足先に着いたカエットさんとヒムさんがプノンペン空港で迎えてくれました。未だに誰が誰なのか不明なのですが、ともかく大勢の親戚の方々から、本当に暖かいもてなしを受けました。ヒムさんの育ての親のおじいちゃん、おばあちゃんにも会いました。このお二人やこの親戚の方々の教育が、若い二人を育ててくださったことに感謝!(でもカンボジア語のできない私は、チェムリアップスオーのみ。情けない!)
カエット夫婦の故郷(コンポントム)は、まだまだ開けていません。水道や電気が無いのには驚きました。ここでも昼食を用意してもらって、村の皆さんはトラック2台で、私たちはワゴン車で悪路をシェムリアップへ。アンコールワットの遺跡群は想像以上の感動でした。ここで観た、朝日と夕日は一生忘れられないと思います。
いよいよ結婚式。2日に渡る中、僧侶の読経の中の様々の儀式は、とても興味深いものでした。2日目の披露宴は、午後4時から10時位まで。延々と歌い踊り、食べて飲んで。この時、私はカエットさんが、心から楽しそうにはしゃいでいる姿を初めて見ました。彼は、日本では、いつもどこかで(緊張)しているんだなあと思ったら、私は涙が溢れるのを抑えきれませんでした。そんな私を察したのか、カエットさんが(踊りましょうよ)と私の手を引っ張って踊りの輪の中に連れて行きました。そして暫くの間、私に付き添って、踊ってくれました。
ヒムさんは、日本語も本当によどみなく話しますし、元来明るいので、私にも色んな話をしてくれます。カエットさんは、まだまだ言葉が、私との間に壁となっているように、いつも思っていました。私にも、ヒムさんほどには、うちとけてないなあと、いつもどこかで、そのことが心残りでした。そういう3年半でしたから、私はカエットさんのあの日の手のぬくもりを忘れることができません。今でも思い出すとうれし泣きです。
ひょんなことから始まった(私の初体験のボランテイア)ですが、ますます(カンボジア)や(カエット家)の魅力にとりつかれて、深みにはまっていきそうです。カエット家のノピエ君(私たちは、お猿!と呼んでますが。。。)が、私たちと別れる時に、ぐずって泣いていたことも、ますますはまっていく理由の一つなんですが。
河内恵<会員/理学療法士>
☆目標額を越えるなんて思ってもいなかったなあ。
★1994年にカンボジアに行って、観光だけでは絶対触れることのないカンボジアを、きっとまだわずかだろうけど知ることができた。その時、見たよりも、物産の種類も多くなってきているようだ。きっと他のことも変わっているんじゃないかな。
◇種類は増えても、正直、カンボジアの絵や商品の出来などを考えると、買ってもらうのも申し訳ないような気がした…。
◆でも、このプロジェクトを機に、カンボジアについて知ってもらうことができたのではないかな。それで、その人の中で何かが始まってくくれればうれしいのだけれど…。
△私自身もこれでまたいろいろ考えちゃうんだよなあ。
▲バザー終了後一ヶ月程経ったある日、電車の中で見覚えのあるクロマー(カンボジアの布製品)をかっこよく首に巻いている女の子を見かけた。最近はクロマーは日本でも結構出回っているけれど、あのクロマーはCICRのルートで入手したもの。日本のカンボジア物産店にもあまり出てないはず。絶対バザーのものだとは言い切ることができないけど、すごくうれしかった。
○バザーの会場に借りた相模原教育会館も、東京日産八王子営業所も、どちらも職員・社員がすごく協力してくれて驚いた。こんなに親切にしてもらっていいんだろうかと思った。これって一般的なことなの? 誰か教えて。
●このプロジェクトでご一緒した他のCICR事務局の方、相模原教育会館職員、東京日産八王子営業所社員の皆さんと話したこと、考えたことは普通に仕事をしているだけだったら絶対得られない経験だった。大切にしていきたい。
<チュロイコール小学校再建のカンボジア物産展&バザー終了後に>
坂本愛美<大学生>
初めまして。私の名前は坂本愛美です。現在(2002年)、神奈川県立新磯高校3年生です。卒業後は桜美林大学に進学します。以上、簡単な自己紹介です。多くの方は、この自己紹介を読んで、どこにでもいる普通の高校生だと思うかもしれません。しかし、私にとって、ここまでくるのはとてもつらく長い道のりでした。
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坂本愛美 日本生まれのベトナム難民2世。両親が南ベトナム政府崩壊後、ボートピープルとして南シナ海に脱出、来日した。現在、神奈川県相模原市に両親兄姉と共に住む。 中学3年次は、5人のボランティアが各教科の勉強を応援し、愛美さんも必死で喰らいついてきた。新磯高校合格は、愛美さんの努力とボランティアの支援の一体化した見事な事例だと率直に思う。 高校では常に上位の成績を維持し、01年秋、公募推薦で桜美林大学に合格した。 |
私は今は日本国籍を取得しましたが、元々はベトナム人です。中学校2年までは成績が1と2がほとんどという最悪の状態でした。親は日本語が不自由なため何も手助けができず、私のことを心配していました。私自身は友達に追いついていけないことがとてもくやしくつらかったです。そこで私はCICRに相談しました。こうして国、社、数、理、英のボランティアの先生方が、毎日のように、忙しい時間の合間をみて、私に勉強を教えて下さることになりました。
中でもボランティアの上坂さんの家は通っていた中学校の近くなので、中3の時には学校が終わればすぐにお伺いしました。教えていただいたのは国語ですが、日本の熟語、言葉の由来、日本文化、目上に対する態度などたくさんのことを教えられました。以前の私は勉強をすることに不安を感じていました。そんな私に知識や経験が豊富な上坂さんは一つ一つの物事の意味を教えて下さいました。
勉強がわかってくると、今度は勉強をすることが好きになってきました。友達にも追いついていけるようになりました。おかげさまで成績はぐんぐんと上がり、新磯高校に入学することができました。
高校進学後も勉強にしっかり取り組むことができました。そして、高校卒業にあたっても、ボランティアの先生方のおかげで桜美林大学の入学が許可されました。私は本当に幸福だと思います。今、私は上坂さんを「お母さん」と呼ばせていただいています。先生と呼ぶのが普通でしょうが、本当に母のような存在で、私を娘のように可愛がって下さいます。このような上坂さんをはじめ多くの方々に支えられ、土台をつくっていただいたから、ここまでくることができました。これからは大学に進学し頑張って勉強し、最低限の常識、知識を身につけ、今まで助けていただいた方々の期待に応えられるようにしたいと思います。
最後に、私を助けて下さった上坂さんはじめCICRボランティアの皆様に心から感謝しています。「本当にありがとうございました」。
上坂寿子<会員/主婦>
“お母さん”、呼ばれる響きの心地よさ。
この度、桜美林大学国際学部へ見事に推薦入試で合格されました坂本愛美さんご一家では私の事を“お母さん”と身に余る言葉ながら、こう呼んで下さいます。
思えば愛美さんが中学三年生になったばかりの春、何としても県立高校へ入学したい、しかしそれには、教科の補習が必要との事、国語の勉強をみてあげて欲しいと、CICR事務局より依頼を受けました。
“仰げば尊し”を歌って紅涙を絞って以来、半世紀が過ぎた私です。忘却の彼方へ押しやったものを手繰り寄せるは至難の技、しかしぐずぐず言っている暇はない。自分自身の勉強のためという我欲でお引き受けして以来、寸暇を惜しんで下調べの日々でした。
熱心に通ってこられる愛美さんに会うのが楽しみでした。礼儀正しく、真剣で、素直で、5人兄弟の末っ子らしい純真さには、いつも心を打たれました。私のほか英語や公民のボランティアの先生方がお付きになり、愛美さんは寝食を忘れての取組でした。頑張った甲斐あって、神奈川県立新磯高等学校普通科合格の吉報をもらった時には思わず受話器を濡らしました。
そして3年。時おり訪ねては楽しい高校生活の話や、その上、主要教科最高点の通信簿を見せてくれます。謙虚にも「ボランティアの方々に入れてもらった高校です。一日たりとも無駄には出来ない。」と言います。素晴らしい姿勢ではありませんか。この恩恵は将来発展途上国の方々に還元したい、とのこと。会う度毎に成長していく娘の様に愛おしくも、眩しかった。
トップクラスに躍り出たのは一体なぜでしょうか?
本人の頑張りは勿論の事ですが、ご家庭がベトナムの母国語を使っているためか、愛美さんは“言葉の狭間”に翻弄された小中学校時代が過ぎ、高校生活に入るや、対人関係もワイドになり、チョッピリのバイトによる職場の主従関係など、大人になるにつれ、この“言葉の狭間”の綱掛けが外れ、持ち前の頭脳明晰さが頭をもたげ、拍車がかかり、堰を切った様に相乗効果が現れて、好成績につながったものと考えられます。
“飛び上がるドラゴン” これはベトナムの格言で、愛美さんのお父さんの大好きな言葉で、座右の銘として重んじている言葉だそうです。この格言を愛美さんは推薦入試の小論文の一節に整然と盛り込んだ。自分はこう成りたいと。
戦局たけなわのベトナムを後に“日出ずる国日本”を目指し小舟を仕立てて、乳飲み児を抱えた一家の脱出は、心細さと飢餓と恐怖の明け暮れ、極限状態でしがみ着いた沖縄の岸壁。同時脱出の方々の大半は、海の藻屑と消えたとのこと。涙無しには聞けません。以来難民として世の辛酸をなめ尽くしたご両親の立派な生活態度、穏やかな日常、帰化されて日本国籍を得た尊いご実績には頭が下がります。合格の祝膳には餅をつき、心暖かいベトナム料理のフルコースで招待され、その美味しさに舌鼓を打ちました。
3K労働(キケン,キツイ,キタナイ)を強いられ、いじめ、偏見に晒されている現状を見るにつけ日本人は反省すべきです。“叫べど届かぬマイノリティの悲哀”だけでは片づけられません。これらの方々と積極的に親しくし、でき得ることは支援をし、交流を図る事こそ国際平和につながると思います。これからの4年間、更なる研鑚を積まれる愛美さんは、発展途上国と日本の懸け橋となり、国際舞台でご活躍されることを“お母さん”は陰ながら祈っています。
文章を書くのは大の苦手ですが、敢えてペンを執った訳は、同じ境遇の方々よ! 愛美さんをお手本にして『やれば出来る』を目標にして、後に続く人々の励みになればと思ったからです。どうか頑張って下さい。
コン・サンロート<副代表>
皆さん、Study and Volunteer Tourに参加して頂いてありがとうございました。キツイ一週間、お疲れ様でした。まだ知識の浅い私ですが、皆さんをご案内出来まして本当に幸せでした。
カンボジアに近づくにつれて、一人でカンボジアに帰るのと違い、緊張感がどんどん高まっていきました。一番気になって仕方がなかったのは、やはり皆さんのご健康でした。こんな暑さの中に何かが起こってもおかしくないと思っていたからです。さらに、見学する予定の場所もかなり凄まじいところで、初めてカンボジアを訪れた皆さんがもしかして見るだけでいやな気持ちになって、ボランティアを考える余裕なんかなくなってしまうかもしれないと心配していていました。そして、自分はカンボジア人ですから、自国の恥ずかしいところに皆さんを案内するのは良いことなのだろうかとも悩んでいました。しかし、現地に着いてから皆様の動きぶりを見て涙が出るほど感動しました。暑い、汚いにもかかわらず、皆さんは一生懸命教えたり、遊んだり、物を配ったりしていて同じ民族かのように接してくれました。本当にうれしかったです。同じカンボジア人でも、こんなにまでして貧しい人々を助けたりする人はまだ全然少ないのです。
皆さんの熱心さを見て、私はいろいろなことを考えていました。どうして違う民族である皆さんが遠い所まで来て助けなければならないのでしょうか。血がつながっている同じカンボジア人はどうしてやろうともしないでしょうか。カンボジア人でも幸せな生活で暮らしている人はたくさんいるのに。しかし、よく考えてみると長い内戦にわたって、拷問される苦しい経験、家族や兄弟と別れる悲しい経験、食べ物がなくてひもじい経験などなどがあって、元々とても優しい性格を持っていたカンボジア人は性格を変えてしまったのです。人を助けるよりもまず自分を助ける、物をあげるよりも物をもらっておくという気持ちが強くなっています。皆さんはカンボジア人は図々しいと思われるかもしれませんが、これは人間の生々しい性格です。と言うのは、皆さんが見たカンボジア人はまだ教育されていない人間なのです。そういうカンボジア人でも、教育を受けたら立派な人間になれるはずです。日本人や欧米人と同じようにはすぐにはなれないかもしれませんが、皆さんの今回とこれからの御協力によって、私達カンボジア人は少しずつ立派になれるでしょう。
最後になりますが、今回のStudy and Volunteer Tourで皆さんは本当のカンボジアをご覧になったと言えると思います。でも、決してカンボジア人をいやにならないでください。カンボジア人がこれから成長するためには、皆さんの御協力が必要です。カンボジア人を見捨てないでください。本当に心からお願いいたします。
<日本語原稿/カンボジア公募ツアー終了後脱稿>
本石真紀<会員/小学校教諭>
この夏、私がカンボジアを訪れたのには、二つの大きな目的があった。
ひとつは、去年、私のクラスの子どもたちが、カンボジアのためにと「総合的学習の時間」で集めたバザー等の売上金をカンボジアに届けること。
私は相模原市内の小学校の教員をしている。学校の「総合的学習の時間」がきっかけで、永瀬一哉先生と、先生の行っているボランティア活動(インドシナ難民の明日を考える会)について知った。永瀬先生に講演にいらしていただいて、カンボジアの話をうかがった。子どもたちは、名前を聞くのさえ初めてという子もいたであろうカンボジアという国に強い関心をもち、『この手ひとつで変わるなら 世界へ届けぼくたちの力』と、自分たちで作ったスローガンを掲げ、「総合的学習の時間」に取り組んだ。
そうして集めたお金を届ける今回の旅は、まさにその学習の最終段階だった。はじめは、永瀬先生を通じてカンボジアのために役立ててもらおうという計画だったが、そのうち最後まで自分で見届けたいという気持ちになり、周りの人たちの協力もあって、私はカンボジア行きを決めた。
そして、もうひとつの目的は「私自身のため」である。
永瀬先生の講演の中に、ゴミ処理場で使えそうなゴミを集めて暮らしている人々がいる、という話があった。「ゴミ処理場はとても臭いんだ。服についたにおいがとれないこともある。そんな中でゴミを集めて暮らしている人がいるんだ」と、永瀬先生は言う。でも、私にはそのにおいが実感できない。写真を見せてもらえば様子はわかる。でも、いくら言葉で表現されても、写真を見せられても、そのにおいまでは、伝わってこないのだ。
教科書もそうだ。「世界には、恵まれない(*)人々がたくさんいる」。言葉でそう表現するのは簡単だ。本、インターネット・・・資料だって、集めようと思えばいくらだって集められる。でも、その「恵まれない」人を実際に見たことがない私がそれを子どもに話したとして、本当に教えたことになるのだろうか。一生懸命話せば話すほど、なんだか自分が嘘をついているような気がしてならなかった。
(*)私は本当はこの表現が嫌いだ。本来「恵まれ」ているかどうかは本人の感じ方であって、自分の価値観で比べて他人がとやかく言うものではないからだ
そんな思いから、私は、本当のカンボジアを自分の目で見て、自分の言葉で伝えたいと思った。もちろん、たった1週間やそこらで、カンボジアのすべてを知ったとは思わない。けれど、カンボジアで私が感じたことは、少なくとも私にとって真実だ。自分の言葉で、自信をもって伝えることができる財産だ。
* * *
カンボジアから帰国し、私はカンボジアについて資料をまとめる暇もなく、でもせめて、この感動がさめないうちに、と、夏休みの最終日に今はもう卒業した子どもたちを学校に集め、報告会を行った。直前の連絡だったにもかかわらず、32名のうち16名が集まり、私は子どもたちに「総合的学習の時間」のまとめとして報告をすることができた。自分の言葉で。
カンボジアの町の様子、田舎の様子。大人たち、子どもたち、人々の様子。キリングフィールドやツールスレン、地雷博物館。もちろんゴミ処理場のことも。ようやく、私にとっての「総合的学習の時間」が終わった。でも、これが本当の始まりなのかもしれないが。
金子翠<会員/大学生>
人、車、バイク…。プノンペンの空港に降り立ってから市内のホテルまで、道という道は、帰りを急ぐ人々や家族を乗せたバイクでごった返していました。最初のカンボジアの印象です。道路が整備され、街の活気にあふれたこの街を見て、カンボジアは私の中で、アジアのひとつの国に過ぎなかったのです。
しかし、その思いは見事に、そして迅速に打ち砕かれました。CICRとオーストラリアが共同で掛けた橋を見に、カンダール州の村へ出向いた時のことです。市内から車で30分、快適なドライブは終わりました。徐々に石や土の無舗装の道となり、前日の雨で道はぐちゃぐちゃでした。この悪路で何度車の壁に頭をぶつけたことか…。それから約3時間、スリルと痛みに耐えながら私たちはひた走りました。やっとの思いで着いた村で、私たちはたくさんの歓迎を受けました。たくさんの笑顔にも出逢いました。私たちの掛けた橋が、その村の生活をより良いものにしていることを知って、帰りの道は行きより短く感じました。
翌日、私たちはカンボジアの歴史を学ぶためトゥール・スレンとキリングフィールドを訪れました。ポル・ポト政権期、拷問や虐殺が行なわれ、その遺体が埋められた場所です。学校を改築して建てたというトゥール・スレンには拷問所と独房が当時のそのままの状態で残され、拷問の末殺されて行く人々の写真が飾られていました。彼らはただ知識があって社会での地位を得ているだけで殺されました。時に、眼鏡を掛けているというだけで死に追いやられたのです。私がもしその時その場所に生きていたら、学生という理由だけで殺されていたでしょう。彼ら一人ひとりの写真が、私に死んでいくことの意味を投げかけました。そして、キリング・フィールド―ここには、未だ掘り返されていない遺骨があります。内戦の痛手は、現在もなお、カンボジアから消え去る事がないのです。
それから私は、街の中にも消えない歴史があることに気付きました。不発弾や地雷によって手足を失った方、戦後難民となって路上のあばら家で生活している方、心の傷を誰にも明かせず私たちにそっと話してくれた方…私はそれまで、カンボジアについて少しの知識と関心を持っていました。しかしカンボジアには、“見ようとしなければ見えない歴史”があるのです。それが内戦です。そう感じた時、カンボジアが私にとって特別なひとつの国に思えました。
ある村で、100歳の女性に出逢いました。目は不自由ながらも、私たちの訪問を心から喜んで下さいました。その女性は「ポル・ポト時代に親戚を亡くし、夫も子供もいない。一人は寂しい」とおっしゃいました。時間で癒されない過去は、人の思いやりで補うしかないのです。私たちが学んで、何らかの形で貢献できなければ、歴史は繰り返されるだけなのです。
大塚友香理<会員/専門学校生>
カンボジア難民女性に日本語を教え始めて約半年がたちました。私はこのボランティア活動を、今、とても楽しんでいます。
ボランティアと聞くと、「大変なこと」だと思われがちだと思います。実は、私も先に始めていた高校時代のテニス部の友人に聞いて、「やりたい」とは言い出したものの、日本語を教えるとなると、どうしたら良いのかと不安でした。また、実際に始めたあとも、自分の言ったことがちゃんと相手に伝わっているのか心配でした。
そして、改めて、自分はいかに日本語を理解していないか、という事実を突きつけられました。普段からきちんとした日本語を使っていないと、こうした時に本当に困ります。
私が教えているのはリーさん。二人姉弟の母親です。毎週金曜日18時過ぎに訪れる私のために、いつも食事を用意してくれます。そうした優しい心遣いに触れながら、色々と他愛ないおしゃべりをしているうちに、いつのまにか心からこの活動を楽しめるようになりました。「異文化」に触れて、何か世界観や考え方も広くなったような気がします。ボランティアをしているというよりも、親戚や友人が増えたという感じがしています。
私はこの3月に高校を卒業しました。4月からは、慣れない初めての電車通学です。都内の学校を往復して帰宅してから、また教えに行くのは正直つらいものがありました。ある時、本当に疲れ果てて、やる気のないまま義務感だけでリーさんの家に行きました。リーさんも仕事でずいぶん疲れていたようでした。そこで、その日は日本語の勉強はしないで、何でもない世間話だけで終わりました。ところが、疲れていたはずなのにあっという間に時間が過ぎ、帰る時にはなぜだかすごく元気になっていました。あれには自分でも驚きました。いつの間にかリーさんの家が私にとって居心地のよい場所になっていたのです。
この「無駄話」のおかげで、私とリーさんとは本当に打ち解けられたようです。カンボジア人とか、日本人とか、ということは関係なく、人間、皆、思っていることは同じだと思いました。小学校に入ったばかりの女の子と一歳位の男の子の成長していく様子も楽しみです。今、私は金曜日が待ち遠しくなっています。
「日本語を教える」というと堅苦しい感じがします。でも、学校の教室とは違うのですから、教える側も教えられる側もその時々の「気分」を大事にして、ただおしゃべりをするのも良いでしょう。また、普段使っている堅いテキストから離れて、相手が自発的に読んでみたいと思った簡単な日本語の本を一緒に読むのも良いでしょう。コミュニケーションをとる中で自然に日本語も覚えられます。
ある日、一緒に行っている友達に(ある団地に一緒に行き、別の部屋に別れる)「今日は何をしたの」と聞いたら、「今日はテレビをみて、いろいろ話をしていただけ」という答え。仲間も同じでホッとしながら、「そうそう、それで良いんだ」と思っていました。これがきっかけで、カンボジアという国にも少しだけ近づけた気がします。
私一人の力で、誰かに、何かができるというのは、本当にごくわずかなことだと思います。しかし、そうした小さな行為が友人などを通して広がっていけば、やがては大きな力になるでしょう。皆さんもボランティア活動に積極的に取り組んで下さい。自分に返ってくるものはとても大きいです。
戸上航ー<会員/ジャーナリスト>
[記事]
カンボジア復興の“懸け橋”となるか 異国で生きる日本の技術 メコンに大橋 無償援助65億円

全長4200`に及ぶメコン川。中下流域で初めての橋は、カンボジアの首都プノンペン北東約70`の都市コンポンチャムで建設中だ。
長さ1360bで工事総額は65億円。大成建設と住友建設が請け負い、2002年3月の完成を目指している。
メコン川流域では、周辺六カ国の共同開発が動き出した。橋の建設もその一環で、完成すればベトナムからタイにかけてインドシナ半島を横断するアジアハイウエーの要衝となる。
カンボジアにとっても東部の穀倉地帯とプノンペンが結ばれることで、「内戦で疲弊した経済の発展や住民の
地元からは「メコン川東岸にゴム園を所有する政治家や政府高官にとって確かに都合がいい」と皮肉な声も。
政府開発援助(ODA)の効果が十分ではないケースが会計検査院の検査で指摘されるなど海外援助の質が問われているが、巨費を投じる橋りょうがカンボジアの“希望の懸け橋”になるか注目を集めている。
<褐色の大河を圧倒するようにズラリと並
[記事の真相]
1992年4月に東京新聞相模原通信部に赴任し、インタビュー取材をきっかけに永瀬さんと知り合いました。いまでは、お互いにプライベートにまで関わる“腐れ縁状態”になってしまっています。「永瀬親分」に同行してカンボジアを訪問した回数は10回以上。在日カンボジア難民の一時帰国や在日ラオス難民の実家訪問など、いくつか新聞紙上に反映させることができました。
この記事は東京本社写真部に異動後、1999年12月に取材したものです。CICRのサンロート君の実家があるコンポンチャムに寄った際、日本の援助でメコンに橋が架けられていることを知りました。「橋の建設だけでは記事にしにくいな」と思いながら住民に話を聞くと、「この橋は対岸に大きなゴム園を所有する政治家らのためにつくられているんだ」、「橋ができても(カンボジア人が嫌悪している)ベトナムからの人や物資の通行に便利なだけ」などと非難が噴出。日本の会計検査院がODAの相変わらずの非効率性を指摘したことを絡めて、地元に恩恵が少ない垂れ流し援助が行われている現場を伝える意味があると考えました。
新聞社はどこも夕刊のネタに困っていて、この記事は提稿した翌日の一面に「写真もの」として掲載されました。トーンが弱まり、整理部がつけた見出しも趣旨と違いますが。
ネパールでは日本大使館がヒマラヤで活動する日本のNGOに500万円提供、1村全戸に希望の電灯がともり住民たちから感謝されました(継続取材中です)。有効な小規模援助はあってもアジアで大型支援が成功した例をほとんど聞きません。果たしてこの橋は…。完成したら再訪し、検証したいものです。
関根秋雄<会員/教員>
以下の文は「日本とのつながりで見るアジア4 過去・現在・未来」(関根秋雄著 岩崎書店 ¥3150)の一部抜粋です
〔現代を知る3〕カンボジア/難民とNGO活動
1975年のベトナム・ラオス・カンボジアのいわゆるインドシナ三国における戦争の終結後、社会主義化と内戦の戦火をのがれるために、国をでる人が大勢いました。ボートで海上にのがれた「ボート・ピープル」、歩いて隣国にのがれた「ランド・ピープル」です。
カンボジア難民の多くは、ポル・ポト政権崩壊後の混乱とその後におこった内戦の最中にタイなどに国外脱出した人たちです。
カンボジア国境からタイ側に約10キロほど入ったカオイダン難民収容所は1980年に開設され、国連とタイ国軍が管理しました。このタイ国境につくられた難民収容所だけで、約36万人のカンボジア難民が避難してきました。
やがて難民たちの中には、さらにそれぞれが希望する国へと旅立ち、あらたな生活をはじめる人が多数にのぼりました。約130万人のインドシナ難民がアジア各地の難民キャンプを経て、またボート・ピープルとして、アメリカ、オーストラリア、カナダそして日本などへ渡り、定住しました。
日本へやってきたカンボジア難民の数はおよそ1500人あまりです。その人たちの多くが神奈川県大和市にある大和定住促進センター(1998年に国際救援センターに吸収されました)に入所し、日本語の教育と日本社会への適応教育を受けました。
しかし、かれらを待ち受けていたのは、日本社会にとけこむことのむずかしさと、子どもたちの教育問題でした。日本国内でのカンボジア難民支援活動は、こうしたところからはじまったのです。
現在、在日カンボジア難民を支援するボランティア団体は数多くありますが、そうした活動の一部をご紹介します。
神奈川県東部の相模原市を中心に活動している「インドシナ難民の明日を考える会」(CICR)のボランティア活動は、在日インドシナ難民、とりわけカンボジア難民の子どもたちへの学習の援助や、親たちの相談相手としての活動からはじまりました。現在では、カンボジアからの「よび寄せ家族」への支援や、カンボジア本国で支援を必要とする人たちの問題にもカンボジアの人たちと手をたずさえてとりくんでいます。
カンボジア本国での支援は、村の小学校の再建や耳の不自由な少女の日本での治療支援、プノンペン郊外のゴミ堆積場でくらす人たちへの古着配布、カンボジア初の老人ホームの建設のとりくみなど、さまざまです。まだまだカンボジアには国際的な支援が必要なのです。
つれづれに
永瀬一哉<代表>
日本語が乱れている、と言う。
とはいえ、言語は変わっていくもの。「乱れ」ではなく、「変化」だろうと思う。頭ではそう思う。
だがしかし、である。
外国籍住民に対して「見れます」と、私はどうしても教えられない。あくまでも「見られます」。
これでは「現代日本語会話」を教えることになっていないのかもしれない。実に困ったものである。
「乱れ」であろうと、「変化」であろうと、この際、それは棚上げし、以下、私が気になる用法を思いつくだけ並べてみる。すでにあちこちで指摘されているものばかりである。ともあれ、何年聞いても、これらは「きもい」。
○「パソコンをお使いでよろしかったでしょうか」
●見知らぬ会社からの電話勧誘でいきなりこう言われた。何の関係も持たない状況で、この言い方は変だろう。
言うなら「パソコンをお使いでしょうか」で良いはずだ。
そもそもよろしいか、よろしくないか以前に、我が家がパソコンを使っているか、いないか、見知らぬあなたに関係ない。
○「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
●これも何度聞いてもキモイ。
○「1000円からお預かりします」
●1000円から何を預かろうというのか。
●1997年、国分寺駅(中央線)駅前のファーストフード店で初めて聞いた。唖然とした。
●しかし、今は当たり前のように至る所で聞く。そして、随分言われてきたが、まだまだ世間から消えていない。
そして、さらにポケモンのように進化して、
○「ちょうどからお預かりします」
●などと言うのまで出てきた。ファーストフード店で初めて聞き絶句した。
○「〜で」
●何か選択するような時、最後が「〜で」で終了する。
◎実際の会話から。
<店員>「ご予約は何時頃お入れしましょうか」。
<私>「6時にお願いします」。
<店員>「じゃあ、6時で」。
○「1000円からで。お預かります」
●「1000円からお預かりします」が進化したもの。
●意味が成立しない「1000円からお預かりします」に対して、これはきちんと意味になっている。次の進化形は何だろう。
○「お確かめ下さい」(と言いつつお釣りを出す)
●1円玉、100円玉などコイン1個、あるいは、お札1枚を出す時にも言われる。
●確かめるのは、個数・枚数の正確さ。だから1個、1枚では言う必要はない。何を確かめろと言うのだろう。
●分かった!! 「うーーん、これはニセ金か」。
○「レシートのお返しです」
●申し訳ないですが、このレシートは初めてもらいます。私はこのレシートをあなたに先に渡した覚えはありません。
●最近は「○○円とレシートのお返しです」と言うケースが多い。いつも気持ち悪いと思って聞いていた。
ところが…、
○さわやかな「お返し」
◇2006年4月9日、東京都八王子市内の洋菓子屋さんのレジの若い女性店員。
「○○円のお返しとレシートです」と言って、私にお釣りとレシートを手渡した。
◇この言い方を聞くのは初めて。本当に気持ち良かった。恐らく彼女も意識して言っているのだろう。
こういう店員さんがいるのを知るとうれしくなる。この言い方がどんどん広がって行って欲しいと思う。
余りに感動したので、この店名を言ってしまおう。八王子市椚田町の「シャトレーゼ」。
◇5月になって、またこの店に行ってみた。違う店員さんが「○○円とレシートのお返しです」と言った。残念。やはり個人の問題だった。
○「お先に大きい方から」
●こう言いつつ、札を一枚二枚と数えつつ返す。
●そして、「おあと、○○円です」とコインが続く。
●「お先に大きい方から」と言われると、「トイレの中での(排泄の)順番」のように聞こえて仕方がない。済みません。
○あとに来たのは…
◎2006年6月、とある古書のチェーン店にて。初めて拾った忘れがたい事例。
◎代金は3600円。そこで「5600円」を渡す。当然お釣りは2000円きっかり。
◎レジのお兄さんは「5600円からお預かりします」と私を迎えてくれる。
◎そして曰く「まずお先、大きい方2000円」。
◎「エッ、大きい方? 端数(はすう)のコインを渡し間違えたか」と瞬時、戸惑う。
◎「おあと、レシートのお返しです」。
◎!!!!!??????
○もうひとつ、ゴメンね
○「まずお先、大きい方2000円・・・」というのも漢字で書けば、「先ずお先」。
○立派な重ね言葉だ。
○「お電話番号を頂けますか」
●電話番号はあげられません。
○「お名前を頂けますか」
●申し訳ない。名前もあげられません。
○お名前は「何様」…
●時にはお名前に「様」がつく。「お名前様」とは一体なんだ。
○「〜だけ」
●例えば「電話番号を教えよ」という時、「お電話番号だけ頂けますか」など、意味なく「だけ」が挿入される。
○お尋ねは、「それだけ」ですか
◎2006年5月、電化製品の量販店にて。
◎申込用紙を示しながら、「会員カードをお作りになりませんか。住所とお名前と電話番号とお誕生日とメールアドレスだけご記入頂くだけですので」
◎これが「だけ」かねぇ。
○「外国人の人」、「カンボジア人の人」、「日本人の人」
●どう考えても、この言い方はおかしい。だが、ちまたでは当たり前のように聞く。
◎「職員の人」、「会社員の人」、「選手の人」、「ピッチャーの人」、「歩行者の人」。こうした用法もある。
●つまり、「人」あるいは「人を意味する語」のあとに「人」を付けている。どう考えても変だ。
◎「業者の者(ぎょうしゃのもの)が参りますので・・・」
○「まだ未定」
●「未定」は「いまだ定まらず」、つまり「まだ定まっていない」の意。そこへさらに「まだ」を冠する必要はない。
◎「まだ未提出」、「まだ未確認」
○「まだ不確定」
●知人のメールにあった。この言い方はどうなのだろう。誰かコメントをお願いしたい。
○「外に外出」
●「まだ未定」に限らず、最近こうした重ね言葉を良く聞く。実際に聞いた例では「外に外出」、「車を納車」など。
●これらは(以下も)最近おろそかになりがちな漢文教育の問題を背景にした現象なのだろうか。
○「今現在」
●「今」とは「現在」のことだろう。これは変。
言うなれば「現時点」。「1999年現在」、「1月1日現在」等の類推だろう。
○「一番最初」、「一番最後」
●「最」に一番の意味がある。だから、その上に「一番」をつけるとどうなるのか。
◎私が聞いた実例。
「一番最初の第一報」。めちゃくちゃ早そう。
○「午前中まで(に)」
●「午前中(に)」、あるいは、「正午まで(に)」と言うべきところだろう。
◎実際のラジオの天気予報から。
「今日は午前中まで晴れ。午後雨が降るでしょう」。
○「〜みたいな」
●現在大流行中。最後を「みたいな」で終えるケースが多い。
私には、この言い方が最近の用法の中で最も気持ち悪い。国語の教師が使っているのを聞いて許し難いと思った。
○「〜じゃないですか」
●これも随分言われた。押しつけがましい言い方だ。
◎「私ってかなり気が小さいじゃないですか…」。
知るか、そんなこと。
○「形」、「格好」
●メディア関係で良く見聞きする。断定を避けるための(責任逃れ?)用法と思われる。
◎「責任をとる形で辞任した」。「この辞任は責任をとった格好だ」。
責任はとったの、とってないの。
○「部分」
●この用法も最近耳につく。ソフト化、曖昧化の一環であろう。
●事例は世間にいっぱいある。スポーツの監督が「これまで彼をちょっと評価できない部分もあったけど、今日は良かった」など。
○「〜かな」
●最後にこれをつけて、ソフト化、曖昧化する。
○「〜かも」
●「かもしれない」の略。最後にこれをつけて、ソフト化、曖昧化する。
○「てか」
●「と言うか」の意。
○「ら抜き言葉」
●「見れない」、「来れない」など。
●ガソリンスタンドで「本日特売、1××円で入れれます」。「入れれ・・・?」、うーーん「あれれ」・・・。
○「行かれない」
●「行けない(cannot go)」の意で用いる。何か変な感じ。
○<後日追加>「行かれない」は文法的に正しいと日本語の専門家がネット上で言っているのを見つけた。ふーーん。
○「〜方(ほう)」
●いわゆる「ホウホウ族」
●「私の方まで書類の方をご提出の方、お願いします」。「ホウ・ホウ・ホウ」、ホントにうるさい。
○「〜とか」
●いわゆる「とか弁」。
●私が聞いた実例。
「済みません。トイレとかどこですか」。君はトイレ以外でも済ます気か。
○「させて頂く」
●「する」、「します」で良いのに、この言い方をするケースに良く出会う。
●「やらさせて頂く」は「やらせて頂く」の誤りだろう。
○「なにげに」、「さりげに」
●なぜ、こうなるのか分からない。
○「こちら○○になります」
◎私が聞いた実例。
「こちらネギラーメンになります」。
別に「ならなくても」良いだろう。素直に「ネギラーメンです」で十分だ。
○「こちら○○になります」
◎私が聞いた実例。あるパーティー会場で、
「こちらリボンになります。胸元におつけ下さい」。
ラーメンは「できました」という意味合いと考えれば、「なります」もまだ分かる気がする。
しかし、リボンは「ならなくても」良いだろう。「このリボンを胸元におつけ下さい」で良いと思うが・・・。
○「大丈夫」
●「問題ない」の意味で用いる。
●図書館へリクエストした本を借りに行った時、若い職員が、「リクエスト頂いたのはこれです」と私に本を手渡し、そして言った。「大丈夫ですか?」。
瞬時、意味が分からなかった。「この本で間違いないか」との意で使っている。強い違和感を覚えた。
「はい大丈夫です。この本、破れていません」と答えたくなった。
○「足元をすくう」
●「足をすくう」の誤り。「足元を見る」とごっちゃになっているのだろう。
◎最近名前をよく見かける朝日のスポーツ記者が過日「足元をすくう」と書いているのを見た。
「乱れ」と意識されないまま、いつの間にか広がって行く用法になるかもしれないと思った。
違うもの
大木悠<会員/大学生>
アゴラ31号所収
何かおかしい。
互いに心で通じあう感覚がない。内に秘めた何かが熱く出てくる感覚がない。
確かにどの国でも、いわゆる通りすがりの人間(観光地ではただの「カモ」)に、心を明かすことはないだろう。社交辞令を並べ、笑顔を振りまき、ものをうまく売りつけようとするのが常識かもしれない。
しかし、どうも違う。
人生の経験を積みどこか鼻高でも良いはずの大人や老人が、一歩引くように、ひっそりとした目で日本人(僕)を見つめている。子供は「ワンダーラー、ワンダーラー(1ドル、1ドル)」と言いながら、小さい体に売り物を一杯抱えて押し売りに来る。子供が金儲けに必死である。
ふと僕は、僕と同年代のカンボジアの若者のことを考えた。普段、仲間とどんな会話をしているのだろう。彼らはいったいどんな考えを持って生きているのだろう。
僕は今、大学一年生。高校時代の永瀬先生の話がきっかけでカンボジアに行きの飛行機に乗った。行きの機内で、僕は偶然両隣をカンボジア人に挟まれた。右は五十代半ばの優しそうな男性。左は若々しく、エネルギッシュな四十そこそこの男性。積極的に周りの乗客に話しかけている。ロサンゼルス在住、実家に帰るところだという。右の同胞が入国許可証を書くのに困っていると、自筆のサイン以外を記入してあげた。僕が初めて話したカンボジア人はきらきら輝く瞳を持っていた。だが、わずかの例外を除いて、この瞳はカンボジアでは見なかった。
カンボジアの風景は、広い原野にサトウヤシと泥色の川、時々見える家並み。これがどこまでも繰り返す。裸の子供、ハンモックにぶら下がるお母さん、タバコを吸う男性。至る所に物売りと物乞い。その大半は子供達。メディアの情報でのみ知っていた「貧困」が今、自分の目の前にある。
早朝六時頃、僕はホテルから街に繰り出した。ためしにビールを二本買った。僕は一ドル紙幣を取り出した。店の若いお兄さんがくれたお釣りは自国の「リエル」。アメリカ紙幣で支払ったお釣りがカンボジア紙幣。自国の通貨を自国で使うのは独立国の常識だろう。この国はそれが半分損なわれている。
カンボジアでお世話になった若い二人のカンボジア人通訳は現在日本で暮らす留学生。彼らの雰囲気は明らかに他のカンボジア人と違っていた。ちょっとした会話の端々に、明日の自分を夢見る言葉がある。外国の大学で学ぶ教養が見える。ベラベラの日本語会話。日本の本が普通に読める。その目は力強くしっかり自分自身の目的地を見つめている。それは機内で出会った在米カンボジア人が醸し出すオーラと同じ。彼らと話をしている時、カンボジアで出会った多くの人達の覇気のない表情がよみがえる。
そうだ。見えないんだ。
自分の可能性が見えないんだ。アジアの最貧国に置かれたカンボジアに住むカンボジア人は毎日同じ景色を眺め、ハンモックに揺られながら同じ空気を吸う。この繰り返しの毎日。遙か彼方の空の向こうに何があるのか。がんばるのと、がんばらないのと、将来の自分がどう違うのか。それが全く見えないに違いない。
僕がカンボジアにいる間に、ある若者が日本留学を決めた。不安がある反面、ワクワクする瞳には強い光がともっていた。すでに日本留学生のそれと同じになっていた。胸を高鳴らせやってきた日本で、まず何に驚き、何に心を奪われるだろう。想像する僕まで興奮してしまう。
約二週間のカンボジアから帰国した。成田空港からバスで家に向かう。レインボーブリッジを渡り、通りにそびえる日本の一流企業の看板。その時、それはいつもより大きく空にとけ込み、僕の前に写っていた。暗い中ライトに照らされ、圧巻だった。
僕は、今ある僕の世界を一から考え直していた。
永瀬一哉
私はカンボジアに行ったことがあります。
ある講演会の帰り道、ご一緒した宮脇正さんが、私の運転する車の中で、こう言った。宮脇さんはCICR会員。本会のメンバーには、過去にカンボジアと関わりを持つ方が少なくない。私はハンドルを握りながら気軽に耳を傾けていた。だが、次の言葉に息を飲んだ。
行ったのは、1970年3月の半ばでした。
2週間後、私は宮脇さんのご自宅に上がり込んでいた。
* * *
宮脇さんは、当時、製薬会社社員。1970年3月、会社の出張で、単身、南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミンシティ)の取引先を訪れた。言うまでもなく、ベトナム戦争の真只中。「サイゴンは、昼、ドンパチの音が聞こえていました」。
ベトナムでの仕事を終え、その足で、カンボジアの首都プノンペンに行った。薬の新販路の開拓のためだった。それまでカンボジアとの取引はなかった。
カンボジア入国は3月12日。折角カンボジアに来たのだからとアンコールワットを訪れてから出国したのが16日。今から35年前、宮脇さんは好印象の5日間をカンボジアで過ごした。
宮脇さん出国の2日後のこと、1970年3月18日、カンボジアでクーデターが起きた。外遊中のシアヌーク国王は帰国できなくなり、親米政権ロン・ノル政権が成立した。それまでのカンボジアは隣国ベトナムの大戦争を横目に、シアヌーク国王による全方位外交で平和を享受していた。それがこのクーデターでひっくり返された。アメリカが関与しているとされる。ロン・ノル政権成立後、カンボジアはベトナム戦争に巻き込まれた。以来、内戦終結を合意した1991年10月のパリ和平協定の締結までカンボジアは冷戦の矛盾を一身に背負い込まされた。
* * *
私の関心事はクーデター前のプノンペンの様子である。宮脇さんは歴史的大事件が、自分がカンボジアを去った数日後に起きようとは夢にも思わなかったと、昔を振り返りつつしみじみ語った。
滞在中、不穏な様子は感じられませんでした。もし分かっていれば、社員を出張には行かせませんよ。
なるほどその通りであろう。このクーデターは世界史に影響を及ぼす重大事件。仕掛けた当事者からすれば絶対漏れてはいけない最高機密。いわば行きずりの旅人が何か変だと察知する状況になっていたとしたら、却ってその方がおかしい。以後20年余に及ぶ戦乱、混乱が始まる数日前のカンボジア、そこは「全く平和な、普通の国」(宮脇さん)であった。カンボジアの人々は、この平和な「シアヌーク時代」を今も懐かしむ。
プノンペンはきれいな街でした。フランス風とはこういうものかというくらい整然としていました。住宅街は碁盤目に区切られ、家には白いペンキが塗られ、庭には美しい花々が咲き、緑が豊かでした。
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カンボジア現代史 |
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1970年 3月 1975年 4月 1979年 1月 1991年10月 1992年 3月 |
ロン・ノル政権成立(アメリカ支援) ポル・ポト政権成立(中国支援) ヘンサムリン政権成立(ベトナム支援) パリ和平協定締結 UNTAC開始 |
これは正直、私には驚きである。私のカンボジア初訪問は1992年12月。前年のパリ和平協定に基づき、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が展開していた。首都の状態は、メインストリートすらデコボコだった。街中に物乞いがあふれていた。夜はホームレスが歩道で段ボールをかぶって眠っていた。それは「惨状」だった。復興が軌道に乗ってきた近年、ようやく首都らしくなってきた。これが私の知っているプノンペンである。宮脇さんと正反対のことしか私は知らない。
つまり、こういうことであろう。
カンボジアの混乱の始まる直前の1970年3月に宮脇さんがカンボジアを訪れ、一方、その混乱を収束しようとしている最中の1992年12月に私がカンボジアを訪れた。だから、宮脇さんと私の会話は、22年9ヶ月の歳月を挟んだ「カンボジアの混乱前」と「カンボジアの混乱後」の対話である。
私はロイヤルホテルに泊まりました。ホテルの敷地内は林でひんやりとしていました。ホテル前にはタクシーやシクロ(自転車タクシー)が並んで待っていました。道路はきれいに舗装され、ホテルから中心街までは大きな街路樹に縁取られたブールバール(並木道)でした。
私は宮脇さんに「悪路」の話をした。最近は、随分改善されてきたというものの、あのデコボコ道はカンボジアの社会発展のマイナス要因になっていることは間違いない。そう言う私に、次の話が返ってきた。
<ロイヤルホテル前/宮脇さん撮影1970年>
アンコールワットまでクラウンくらいの大きさの乗り合いタクシーで行きました。私は車嫌いですが、悪い思い出がありません。日本だと、車に乗っていても、きれいとか楽しいとかという思いはしませんが、この時の車での移動は気持ちが良かったですね。アスファルトの舗装なのか、整地しただけなのかは覚えていませんが、悪路ではありませんでした。対向車はめったに来ず、車はスピードをどんどんあげ、開け放した窓からは良い風が吹き込んできました。時々村に停車し、売店や食堂で一服しました。
35年前の情景がはっきりと宮脇さんの脳裏に刻まれている。対向車はない。車はスピードを上げる。吹き込んでくる風。カンボジアの旅は本当に快適だったのだろう。
宮脇さんはこんなことも言った。
プノンペンでタクシーに乗っている時、小学校の近くを通りました。何人(なにじん)だったかは分かりませんが、十人ほどの男女の子どもが子ども特有の甲高い声でフランス語でわいわい遊んでいるのを見て、微笑ましく思いました。
タクシーの中からふと目にした光景である。ということは日常的なものだったのだろうか。ただ、宮脇さんは、カンボジア人なのかフランス人(欧米系)なのか覚えていない。とはいえ、白人の子どもたちだけでフランス語を話していたのなら、特段の印象に残るとは思われない。少なくともカンボジア人の子どもも混じっていたのではないだろうか。いずれであれ、往時のプノンペンの一断面を伝える興味深い話だと思う。
アンコールワットに行った時の乗り合いタクシーに放送局勤務の若い女性が乗っていました。彼女は英語とフランス語の両方を話せました。カンボジアのインテリは必ずフランス語を話すようですね。
かつてフランス植民地であったこと、また、1954年の独立後も親仏国であったことから、フランス語が教養の証しであった。今は、必ずしもフランス語ではなくなっているようである。英語や、今日、最大の援助国の日本語も人気がある。
それに物売りや乞食にまとわれ付かれた記憶がありません。
1984年、北京で、夜、裏通りの露店をのぞいて歩いていたら乳飲み子を抱えた30歳くらいの女性が物乞いに来ました。少しお金をあげたら、その辺から同じように乳飲み子を抱えた女性が一杯出て来ました。不思議なことに、男性や子どもはいませんでした。しつこかったですし、怖さを感じました。数人にあげて逃げました。そんな体験はカンボジアでは全然ありませんでした。
押し売りがいない、物乞いがいない、これも驚きである。
今、押し売りは観光地はもちろん、市場にも一杯いる。最近は減ったが、90年代後半までは、食事中のレストランの中にまで押し売りが入ってきた。店の従業員が追い出していたが、時には黙認していることもあった。追い出さない姿に貧しい同胞への優しさを感じた。
私は高校生や大学生など若い世代とカンボジアに何度も一緒に行っている。彼らにとってカンボジアで最も印象深いことに物乞いがある。その多さも驚きの対象である。そして、物乞いとのちょっとした関わりの中で自分自身を見つめ直す機会も得ている。
私はプノンペンの空港で物乞いの子どもの群れが差し出す手に迎えられ、1992年、初めてカンボジアに足を踏み入れた。空港敷地内から彼らが閉め出されるまでの数年間、私は機内食をわざと残して、その手に−数人の手でしかないが−渡していた。
外国人がよくやられるタクシーがわざと遠回りして料金をだますこともなかったですね。快適な、まともな旅でした。
まだ数回目の訪問だった1994〜5年頃のこと。小銭がなかった私に「OK, change money」と言い、私の紙幣を持って目の前の店に入り二度と現れなかったバイタク(バイクタクシー)の兄ちゃんがいた。当のバイクは、近くにいた若者が突然運転してどこかへ行ってしまった。昔、カンボジアには泥棒がいなかったという話も時折耳にするが、どうしても宮脇さんの知っているカンボジアと私の知っているカンボジアは噛み合わない。20年余の戦争と混乱の歳月は民心をそれほどまでに変えたのだろうか。
サイゴンはフランス風の美しい街という感じがありませんでした。レストランの料理や、人々が話すフランス語にフランスの名残はありましたが、街の外見からはフランスは感じられません。ある通りでは両側にずらっーとバーが並び、炎天下、ひと気のないウエスタンの街でした。
アメリカに支えられ、アメリカの文化が流れ込み、そして明日生きているかどうか分からないという兵士たちが集まる殺伐とした南ベトナムのサイゴンの様子が宮脇さんの口から淡々と語られる。植民地支配によってベトナムの街がフランス風になったことの是非はともかく、かつてその瀟洒(しょうしゃ)な町並みが「プチパリ」と称されていたサイゴンがこれである。社会的な混乱が人の心をどう変えるのか、知りたいと思った。
* * *
宮脇さんは仕事で世界各地を訪れている。そうした旅慣れた宮脇さんのプノンペンやカンボジアの印象はあくまでもさわやかである。私には「別の国」の話にしか聞こえなかった。
クーデター直前、1970年3月12日から16日、カンボジアは間違いなく平和だった。そして、3月18日のクーデターは確実にカンボジアの歴史を狂わせた。
私がカンボジアと関わりを持ち続ける原点は1992年12月のプノンペンにある。一国の首都が崩れ去った姿を初めて見た。書物から得るのとは違う凄まじい衝撃を得た。「生の歴史」がそこにあった。