CWSプライベート:ブログ総集編(1)
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■CWSプライベートがスタートしまし April 28, 2004
CWSコモンズをマネジメントしている佐藤修です。
CWSコモンズはリゾーミックで共創的な世界を目指していますが、
そのサブシステムとして、新たにこの、CWSプライベートをつくることにしました。
CWSコモンズは、いくつかの仕組みで構成されていますが、
その重要なメディアの一つが、CWSコモンズ(コミュニケーションのホームページです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/
これ自体が、リゾーミックな複雑なホームページなのですが、
さらにメーリングリストやディベートコーナーなど、KO
いくつかの試みをしてきました。
しかし、なかなかうまく成長しません。
まあリゾーミックな仕組みとはそんなものですが、
今度はちょっと見える形でのサブシステムをつくってみました。
それがこのウェブログです。
誰でも書きこめますので、こちらのほうが、むしろコモンズになっていく可能性もあります。
しかし、これまでの経験で、たぶんそうはならないでしょう。
そうわかっているのに、このプログラムを開始しました。
これまでのホームページも無防備でしたが、
このウェブログはもっと無防備です。
もしお時間があれば、
私の15年前の雑文をお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/jikoshoukaibunn.htm
このウェブログも、この小論のビジョンの延長にあります。
私は一応、言行一致を信条にしています。

■虎の尾を踏んだ政府 April 29, 2004
国民保険の料金未納をめぐって、議員への信頼が堕ちています。
福田官房長官にはあきれました。
ここまでの嘘つきだとは思いませんでした。
例が悪いかもしれませんが、浅田農産の浅田さんたちと同じですね。
もちろん事の大きさは浅田事件よりもずっと大きいです。
ここまでくると犯罪者としかいえません。
まあ罰するにも値しない哀れな人だと思いますが。
自らの誇りを取り戻して、自己責任で自らを処してほしいですが、
そんな誇りも勇気もない人でしょうね。
哀れな人なのでしょうね。
今日、テレビで政治評論家の森田実さんが、
政府は「虎の尾を踏んだ」と話していました。
つまりさすがの国民もこれで政府の実体がわかり、動き出すだろうといっていました。
国会が決めた法律の規範性も揺るぐだろうともいいました。
そうなってほしいです。
しかし、私たちは相変わらず小泉政権を支援する行動を繰り返しとっています。
先の議員選挙も当選した3人とも自民党です。
日本の国民は自虐的ですね。
いや、日本全土がアウシュビッツになっているのかもしれません。
今回の事件に対しては、それぞれの立場で、どんどん意思表示していきましょう。

■改憲問題  May 01, 2004
今日の朝日新聞のトップ記事に、国民世論調査の結果として、
半数の人が改憲に賛成だと書いてあります。
こうした議論の危険さを指摘したいと思います。
改憲って何でしょうか。
もちろん憲法を変える事です。
しかし、憲法を変えると言う事は何でしょうか。
大切なのは、変える内容や方向です。
たとえば平和について言えば、
9条を無くすのも改憲ですし、
9条を非武装化に向けてさらに進化させるのも改憲です。
つまり全く内容が反対なことが「改憲」には含まれています。
プラスとマイナスを足せば、相殺されてしまいます。
こうした記事や物言いには危険があります。
そんなことを編集者や調査者が知らないわけがありません。
何らかの隠された意図があるのです。
まあ、最近の朝日新聞にはそれほどの知性や意思がない可能性はありますが。
改憲論者が何人いるかが問題なのではありません。
大切なのは、改める内容と方向です。
そうしたことがあいまいなまま、議論されることがあまりにも多すぎます。
言葉は吟味したいものです。

■ロードオブザリング王の帰還  May 01, 2004
アカデミー賞を総なめした映画「ロードオブザリング王の帰還」を観ました。
一言で言えば、駄作です。B級映画と言うべきでしょう。
前の2作はテレビで観たのですが、そのせいかまあほどほどの映画と思っていましたが、
今回、劇場でしっかりと観るとあまりのひどさに驚きました。
ハリーポッターの時も同じでした。
こんな愚作がアカデミー賞では、映画はもはや終わったと言うべきでしょう。
なぜかイラク攻撃や経済のグローバリズムと同じ、思考停止と暴力主義的脅迫を感じました。
それにしてもお粗末なシナリオとキャラクターづくり、編集不在と物語不在です。
メイクやキャラクター設定も問題です。
それに根底に人権問題にかかわる醜い含意を感じます。
イラク攻撃と同じ話のように思います。
ケアやノーマライゼーションの視点から考えると到底受け入れられません。
想像力が微塵もない人がつくった映画です。
いや、権力者の手先としてのプロパガンダでしかありません。
とまあ、悪口の限りを尽くしてしまいましたが、
これがあの「指輪物語」と思うと、腹も立ちます。
私は学生の頃、大学に行くよりも映画館に通っていた日が多かった年があります。
3年の頃です。3本立ての映画館をはしごしたこともあります。
映画評論家になろうかと思った時もあります。
映画からの影響はとても大きかったと思っています。
もしそうであれば、最近の映画がどういう人を育てるか、いささかの不安があります。
映画人は、そうした事をもっと考えてほしいです。
映画の持つパワーはとても大きいです。
また当分、映画は観にいかなくなるでしょう。

■住民主役のまちづくり計画  May 02, 2004
茨城県の美野里町というところでは、住民たちを主役にしながら、都市計画マスタープランをつくってきました。
それがほぼ完成しました。
外部協力者として、3年間、かかわってきたのですが、
昨日から、改めてその計画書を読み直しています。
計画と言っても、住民の意見が中心の、いわば住民意見集なのです。
住民の意見がまちづくりの拠り所になるのであれば、
住民意見集をまちづくり計画(都市計画マスタープラン)にしてしまおうという、
美野里町行政の英断で実現した、新しいスタイルの行政計画です。
1700の意見を、改めて読み直しました。
実に生々しい住民感覚がそこにあります。
さまざまな意見がありますから、
編集の方法で、いくらでも方向付けを変えられると思いますが、
その一方で、それらに通底する共通の思いも伝わってきます。
「自分たちのまちをよくするためには汗をいとわない」という思いです。
住民参加の方式は、編集者の意図でいかようにも料理できます。
その思いから、
私は、参加型まちづくりではなく、共創型まちづくりに取り組みだしました。
両者は、似て非なるものです。
取り組みだしてから、もう8年目です。
その原点のひとつが、美野里町です。
そろそろ行政依存のまちづくりは終わらせる時期です。
みんなの意見を読んでいると、改めてそう思います。
今年は、新しいまちづくり組織を制度化するための、条例づくりに住民主導で取り組む予定です。
CWSコモンズのホームページで報告して行く予定です。

■沢蟹騒動  May 03, 2004
私が好きな動物のひとつが、沢蟹です。
私の夢は(とても小さいのですが)、自宅の庭に、沢蟹と蛍がいることです。
なにせ小さな庭なので、絶望的な夢なのですが。

沢蟹を近くのお店から2匹買ってきました。
520円でした。
本当は買わずに、自然の山沢から見つけてきたかったのですが、
最近はなかなか見つける機会がありません。
友人にも頼んでいるのですが、誰も送ってきてくれません。
そこで、心ならずも、購入してしまったのです。
お店で売っている沢蟹は、あんまり強くないのです。

すぐに庭の池に放すと家出してしまいます。
今までも何回か体験していますので、まずは水槽で飼うことにしました。
ところが、今朝、起きてみると、1人がいないのです。
慌てて部屋中を探しました。
あんまり広くない部屋だったのですが、
そこに我が家の息子が同居していますので、彼に食べられたのではないかと不安になりました。
ちなみに、息子は犬なのです。

幸いに散らかった物品の中に、まぎれているのが見つかりました。
ホッとしましたが、同時にムッとしました。
せっかく居心地のいい生活環境を整いてやったのに、
蟹ですら、ホームレス願望があるようです。

そういえば、昔、湯島のオフィスで、10匹以上の沢蟹を購入して、放し飼いにしたことがあります。
この時は大変でした。
結局、全員が2日で死亡しました。水場がなかったためです。
一応彼らのためにオフィスに一角に水のみ場を用意したのですが、私の善意は伝わりませんでした。
コミュニケーションとは難しいものです。

とまあ、今日はたいした話題ではないのですが、なにやら、イラクや北朝鮮の話につながるような要素があるような気もしないではありません。

今日は一日、仕事です。

■国民の休日 2004年5月4日
今日は国民の休日です。
お風呂に入りながら、「国民の休日」というのが気になりだしました。
余計なお世話だという気がしてきたのです。

この連休、私は仕事漬けです。
NPO関係の活動であるコムケア活動の報告書をまとめているのです。
その恨みのせいかもしれませんが、ちょっと気になりだしました。

私は15年前までは組織人でした。
会社から給料をもらっていました。
今から思えば、高給でした。
当時は、祝祭日が多いと、何だか得をした気分でした。
しかし、会社を辞めて、個人で活動しはじめたら、受け止め方は全く違ってきました。
時間に対する感じ方が一変したのです。
時間がとても大事になってきたのです。
サラリーマンの意味がわかりました。
私もサラリーマンだったわけです。反省です。

こうした経験から考えれば、
休日とは、組織や制度からの解放なのです。
ですから、組織に属していないものにとっては、マイナスの価値しかありません。
銀行や役場は閉まっているし、人の集まるところは混んでいます。
いいことは何一つありません。

私が政治に最初の不信感を持ったのは、成人の日が1月15日ではなくなったことです。
なんとまあ、瑣末なことかと思われるかもしれません。
しかし、それは歴史や文化や生活のリズムを壊すことです。
許されることではありません。

祭日と休日は、意味合いが全く違います。
祭日は、やるべきことがあるから労働や日常生活をちょっと休みわけです。
休みことに意味があるのではありません。
墓参りをし、子どもと遊び、成人を祝い、憲法を考えるところに意味があります。
休日は、労働や規則から解放されるだけの意味しかありません。
この違いは大きいです。

日本がおかしくなったのは、きっと祭日を休日にしてしまったからです。
ましてや、国民の休日などと、傲慢な名前をつけたのは誰なのでしょうか。
国民の休日は、これからは無視しようと思います。
また祭日も、私はかたくなに昔の日を大切にしたいと思います。
昔の祭日を決めたのも国かもしれませんが、
まあ、そこはあんまり難く考えないことにします。はい。

国家や組織から休日の施しなど、もらうのはやめなければいけません。
そう思いませんか。
また仕事に向かいます。

■障害者と障がい者  2004年5月5日
今日もまた仕事です。
しかし、ちょっと風邪気味になったので、ゆっくりのペースです。
漢方と化学薬品の薬とサプリメントと果物と、
まあ手元にあるあらゆるものを昨日は飲みまくりました。
これでよし、とうっかり早々と風呂に入ってしまったのが失敗でした。
状況は悪化しました。
しかし、仕事の締め切りは延ばせないのです。
いやはや。

さて、今日の話題は「障害者」と言う表記に関するものです。
いま、コムケアの報告書を編集しているのですが、
その原稿を各NPOに確認してもらっています。
そこで問題提起を受けたのです。
問題提起したのは、共同作業所づくりに取り組んでいる五十嵐さんです。
とても素晴らしい活動をしています。

五十嵐さんの活動を書いた記事に、「障害者」という言葉が出てきます。
これを私が「障がい者」と書きなおしたのです。
それに対して、五十嵐さんから、こんなメールがきました。

町田市でもこのような表記を使っていますが、私は賛成しかねています。
「害」という字が好ましくないからと言う理由だと聞きましたが、
「害」を「がい」と書いて何が改善できるのでしょうか。

共感しました。
私も、最近は「障がい者」という表記に従っていますが、
問題の本質を見えなくさせることになるのかもしれません。

私は差別語狩りが好きではありません。
行きすぎた動きを、時に感じます。
それに、言葉を問題する人に限って、差別言動を感ずることが多かったからです。
従って、私は、かつては無頓着でした。

しかし、1年前に少し変わりました。
女房の病気が契機です。
それ以来、少し過敏になっていました。

CWSコモンズのホームページに、君が代と日の丸の話を書きましたが、
渡邊さんのメッセージもこたえました。
よかったら読んでください。
日の丸と君が代(2004年3月13日)です。
探すのが大変かもしれませんが。

日和見傾向のある私は、今また迷っています。

障害者と障がい者。
皆さんはどちらを使っていますか。迷いますね。

いや、そもそもこんな言葉があるのがいけないのですね。
五十嵐さんは

世の中には障害者に対する無意識の差別が蔓延しています。
「本当に暮らしやすい社会」と彼らが思う社会は、「障害」、「障害者」という概念
がない社会だと思っています。
人は場面場面によって「助けたり」、「助けられたり」ではないでしょうか。

と言っています。
まさにそうです。
障害者という概念を捨てたいですね。

14年前に、杉並区の児童館の若いスタッフと話したことがあります。
そこで、「障害者」という言葉を使ったら、
「佐藤さんから、そんな言葉が出るのはとても残念です」と言われました。
そのことを時々思い出します。
言葉のパワーは大きいです。

■常識の間違い    2004年5月6日
三菱自動車の事件が刑事事件になりました。
被害にあった家族の方は「会社ぐるみの殺人」と話していました。
私も同じ立場なら、そう言うでしょう。

それに続いて、「大きな会社なのに」と言う言葉がありました。
そこが、実は問題なのです。

10年ほど前に、あるフォーラムで、企業の社会性をテーマにしました。
大企業の経営幹部の方が主なメンバーでした。
ある巨大企業の部長が、こう発言しました。
「私たちのような大企業は、社会貢献活動にも取り組み、社会性もある。
問題は、数の上では圧倒的に多い、中小企業ではないか。」

コーディネーター役の私は、さすがにムッとしました。
「そんなことはありません。
中小企業は、反社会的なことをやれば、すぐ批判を受けて、つぶされます。
だから、お客様や地域社会のことをしっかりと考えています。
考えていないのは、みなさんたちのような大企業です。
悪いことをやっても、大企業は、つぶれないのです。」

この意味が伝わったかどうかはわかりません。

私たちは大きな間違いをしています。
大きければ信頼できる。

事実は逆だと、私は思います。
大企業だからこそ、会社ぐるみの殺人的事件ができるのです。
大企業だから反社会的な活動を社会的だと言い変えられるのです。

その典型が、国家です。
今日、米軍によるイラク人射殺の映像がいっせいに流されました。
国家ぐるみの殺人の典型です。

浅田農産の例があるではないかというかもしれません。
しかし、あれこそが典型的なことです。
反社会的なことをすればすぐに淘汰されるのです。
だから、殺人ではなく、自殺になってしまうのです。

常識とは、思考停止のためのツールです。
間違っていても、常識としては成り立つのです。
常識を捨てることも、時には大切です。

ところでオウム組織と三菱自動車の違いはなんでしょうか。

■カラスのこと   2004年5月7日
テレビで東京のカラスが少し減ったと言う話を誰かがしていました。
それでもまだ2万羽以上いるそうです。
都民はカラスが嫌いだそうです。
私もそう好きではありません。

カラスを追い払うのは簡単だそうです。
ハチを飼えばいいそうです。
カラスはハチがきらいなのだそうです。
これはローカル・ジャンクションの会で話題になったそうです。
都知事に教えてやればいいと誰かがいいました。
そこで、私が、ハチが増えたら困るんじゃないか、と言ったら、
みんなから、ハチのすごさを知らないと怒られました。
ハチは働き者で、蜜をたくさん集め、人間には役に立つのだそうです。
私の真意が伝わらなかったので話は終わりにしましたが、
今日、カラスの話を聞いたので思い出しました。

カラスはなぜ嫌われるのでしょうか。
ゴミ捨て場を汚すからでしょうか。
地球を汚しておいて、何と身勝手な、などとはいいません。

カラスが黒いからでしょうか。
それにしても最近の若者は何でみんな黒いスーツなのでしょうか。
カラスに憧れているのだろう、などとはいいません。

カラスが賢いからでしょうか。
私も賢いので嫌われているのでしょうか。
いや、自分を賢いなどと言う人は賢くないはずですね。

カラスもミミズも、悪魔も鬼も、嫌ってはいけません。
みんな、いのちでつながった仲間なのです。
我が家では節分の日には、
「福は内。鬼も内。」と言って、豆まきをします。
そのせいか、最近、いいことがありません。
でも、鬼を追い出したら、イラクはもっと悪くなるかもしれません。

風邪で熱があるせいか、よくわからないことを書きました。
しかし、実はこのわからない文章に深い意味があるのです。
なにしろ賢い人が書いた文章なのですから。

それでは寝ます。
おやすみなさい。
明日は、風邪を終わりにしようと思っています。
もう3日間、風邪菌たちに身体を貸してやっていたのです。
もういいでしょう。
出て行ってくれるといいのですが。

■嘘の蔓延   2004年5月8日
日本では嘘をつくことが奨励されていると、一昨年、私はホームページで書きました。
読んでくれた人はいるでしょうか。
ぜひ探して読んでください。

学校でも嘘をつくことは結構奨励されているように思いますし、
企業では蔓延しています。
三菱自動車では嘘をつかないと出世できなかったのでしょう。
行政でも嘘は何の疑いもなく、認知されています。
政治家は嘘が中心です。

福田さんは嘘をついたから辞任したのではありません。
嘘をつくために辞任したのです。
そのからくりがなかなか見えてこないところが恐ろしいです。

日本だけではありません。
イラク事件も嘘から始まりました。
ベトナムもそうでした。

最近の新聞やテレビでは、嘘をつく人の話題ばかりです。
最近は誰も彼もうそつきに見えますが、
なかには嘘をつかない人もいます。

嘘をついた人をしっかり記録に残す仕組みは出来ないものでしょうか。
政治家嘘つき番付をどなたか作りませんか。

■ 空白の3日間   2004年5月12日
ここに毎日、書きこもうと思っていたのですが、
この3日間、書き込めませんでした。
疲れきっていたのです。
風邪は何とか治りましたが。

その上、不幸続きです。
私だけではないのですが、悪いことが続いています。
気がなくなると、ドッと悪いことが寄ってきますね。
この2日間、とてもめげています。

またCWSコモンズには書こうと思いますが、
昨日は3人の人がやって来ました。
11時から5時まで、相談タイムでした。
3つの壮大な構想の話です。
大学、医療、福祉が、それぞれのテーマですが、
いずれも大きな話です。
それに取り組みたいという3人の人が来たのです。

いずれにも関わりたい気分がしています。
せっかく昨年、いろいろな活動から抜けたのですが、
また新しい活動にどんどん吸い込まれそうです。

世の中には、どうしてこんなに面白いテーマがたくさんあるのでしょうか。
しかも、それをやろうとしている人が極めて少ない。
不思議な時代です。

また時間がさらになくなりそうです。
スローライフとは程遠い生活から、抜けられません。
困ったものです。
心を失わないようにしないといけません。

■極悪非道な人間はどこにいるのか  May 13, 2004
書きこみを再開します。
風邪は治りました。

昨日の米国人殺害の映像は衝撃的でした。
この映像の話を聞いて、私自身、一瞬、思考停止におちいりました。

10日に企業経営幹部の方々が、これからの企業のあり方について議論して来た結果を発表する会がありました。発表の前に、私から問題提起させてもらいましたが、そこで、「三菱自動車」と「イラク捕虜虐待」の話をしました。
一見、無縁のようですが、同じ話だと私は思っています。
文化や状況は、人を一変させるのです。
今回の事件も、そうした事件に隣り合わせています。

彼らも、殺害をしたくてやったのではないでしょう。
我々は、彼らの残虐な行為を見て、彼らを極悪非道な人間と決めつけがちですが、
果たしてそうでしょうか。
もし、私も、彼らと同じ立場に立ったら、同じ言動をしたかもしれません。
状況によって一変するのが、人間ですから。
それは決して「極悪非道」ではなく、極めて人間的な行為なのです。

私は、むしろ彼らがそうしてしまった状況をつくった人を問題にしたいと思います。
彼らが極悪非道なのではなく、
彼らを追い込んだ人が極悪非道なのです。
その因果を探って行くと、おそらく、「痛み」とは無縁のところで、ぬくぬくした生活に埋もれながら、必然性の無い、非道な言動をしている人がいるはずです。
しかも、彼らは一人ではなく、「自己責任」など全く感じることのない仕組みの一員であることも少なくないように思います。

そこにこそ、焦点しぼるべきでしょう。

哀しい事件です。
しかし、私が、加害者か被害者かになる可能性は十分あります。
もしこうした事件に、対立構造があるとしたら、
加害者と被害者の対立ではありません。
もっと大きな対立構造があるのです。

このテーマが、私のこの数十年のテーマです。
CWSの二つのホームページのテーマでもあります。

なにやら難しいことを書いてしまいました。
明日からは、また気楽に書きます。

■厚生労働省の犯罪   2004年5月14日
またしても信じられないことが起こりました。
明らかに国家犯罪です。不作為の犯罪です。
これまでも繰り返し犯罪を重ねている厚生労働省です。

フィブリノゲン納入先公表問題です。
2月に、このCWSコモンズのホームページのメッセージの欄に次のことを書きました。
再録します。

厚生省とミドリ十字によって引き起こされた犯罪は、いつの間にかうやむやに終わった感じがしますが、
厚生労働省と医療業界は全く何も変わっていないことが、今回のフィブリノゲン納入先公表問題で明らかになりました。
C型肝炎の感染源になったとされる血液製剤を納入した医療機関は7000を超えているといいます。
それを使用された可能性のある患者が検査を受けるようにしていくためには、
そうした医療機関をできるだけ早く公表していくべきですが、
厚生労働省と医療業界は、またしても結託して、事務局分たちの利益を守るために公表を500に絞ろうとしていたのです。
犯罪は繰り返し行われます。
しかも、フィブリノゲンの製造元は旧ミドリ十字の三菱ウェルファーマ社なのです。
信じられない話です。まだ利権のつながりは存続しているとしか思えません。
なぜ彼らには恥の概念がないのでしょうか。

この事件はもう決着したのだと思っていましたが、
今日のテレビによれば、相変わらず公表出来ないことになったということです。
一時、厚生労働省は発表を決めたようですが。
医療機関からの反対で、また止めたというのです。
人の生命を最優先していない医療機関などは、医療機関とはいえません。
むしろ反対している医療機関を公表すべきです。
それができなければ、厚生労働省も犯罪者というべきでしょう。
しかも、これは殺人罪に当たると、私は思いますが、いかがでしょうか。
未必の殺意です。
友人もいるので、ちょっと辛いのですが、
厚生労働省という組織は一体何なのでしょうか。
これでは経済産業省と一緒です。
イラクの戦場でもあるまいし。
しかし、狂気の状況は同じかもしれません。
ひどい話です。

■沢蟹の定住  2004年5月15日
気持ちのいい朝です。

沢蟹ですが、庭の人工的なビオトープもどき(還暦の祝いに家族みんなで手作りしてくれました)に、うろとをつくり、そこに放しました。心配したのですが、ほぼ1週間たちますが、どうやら住みついてくれたようです。
広島の折口さんの近くの蟹とはちがい、極めて狭い住居ですが、
定着してもらえるとうれしいです。

しかし、やはりお店から購入した蟹は弱くて、
放す前に1匹は死んでしまいました。
沢蟹の飼い方に詳しい方がいたら教えてください。

■卑怯な新聞でいいのか  2004年5月16日
今日の朝日新聞のトップ頁に、コラムニストの早野透さんが、
「卑怯な政治でいいのか」というメッセージを書いています。
こんな内容です。

「(年金保険料未納・未加入に関して、小泉首相をはじめ、多くの国会議員は)法案の衆院通過までは口をぬぐっていた。いかさま賭博みたいな卑怯なゲームである。」

共感できます。
早野さんも書いていますが、
未納や未加入が問題ではなく、それを隠し、嘘をついていることが問題の本質です。
しかも、最高責任者の首相は、
年金制度は複雑でわかりにくい、わかりやすくしなければならない。
などと他人事の発言です。
本当にこの人は首相なのでしょうか。
だれかの傀儡なのでしょうか。

話がそれていますが、
実は私の今日の怒りの矛先は、そんな哀れな小泉首相ではありません。
彼は間違って首相にされた人であり、森首相と同じく、犠牲者です。
能力のない人が、無理な仕事を引き受けた結果でしかありません。

問題は、こうした意志も能力もない人を首相にしてしまう仕組みです。
そして、それに大きく関わっているのが、マスコミだと思います。
その最たるものは、新聞とテレビです。
政治を茶番劇にしたのは、テレビですが、
新聞にもまた、意志や能力がなくなってきています。
今や広告媒体でしかなく、広告料金を高くするための記事でしかありません。
日経で一番発言力があるのは広告部門だという話が、以前ありました。
日経のスキャンダルは、その結果の一つでしかありません。

これまでも、新聞の論調は権力に迎合して、ころころ変わります。
信念も定見も感じられません。
地方分権にしても、市町村合併にしても、構造改革にしても、
小選挙区制導入にしても、年金問題や医療問題にしても、
事実をしっかりと把握し、分析し、洞察し、意志表示するなどという姿勢はありません。
情報をしっかりおさえていたら、もう少しまともな問題設定と編集ができるはずです。

かつて朝日の有名な論説委員が小選挙区制度に関して、私は社内誌の考えとは違うのだがといって反対論を後で語っていた現場に出くわしたことがあります。
自社に影響を与えずして、何が論説委員だ、といいたかったです。
しかも、小選挙区制度が導入された後の話です。
それ以来、私は新聞者の論説委員を信頼できません。

いまの社会風潮を育ててきたのは、新聞やテレビです。
その反省がなくて、何をいまさら、「卑怯な政治」などというのでしょうか。
せめてもう1か月前に言うべきです。
衆院を通過してからいいだすのは、小泉首相と同じです。

新聞社の皆さん。
あなたたちは大きなメディアをもっているのです。
たった一人の若者でも、大きな社会変化を起こす時代です。
それなのにあなたたちは、卑怯な政治に迎合して、
戦いに勝ち目が出てきたら、今度は卑怯とののしり始める。
せめて、リスクをとってがんばっている若者を応援するくらいやってもいいはずです。
しかもそれどころか、あなたたちは、弱い者いじめが得意です。

自分は安全なところにいて、痛みに耐えよ、とかイラク復興を支援しよう、などと言っている、卑劣な誰かと同じではないでしょうか。

そういいながらも、新聞購読をやめられない自分に少し嫌悪感をもちます。
私も卑怯なのでしょうか。

■プラグを抜く難しさ  2004年5月18日
新聞をとるのをやめようというお勧めをいただきましたが、
なかなかふんぎれません。
それどころか、
パソコン依存の度合いが高まり、今やパソコンがないと動けなくなりそうです。

最近、どうも主力のパソコンが具合が悪いのです。
買ってから2年半ですが、余計なことばかりしているせいか、具合が悪いのです。
この頃は週に1度、いうことをきかなくなります。
その時間ロスを考えれば、買い直したほうが経済的かもしれませんが、
なかなかその気になれません。
貧乏性なのです。

具合が悪くなったのだから、しばらくパソコンから自由になったらいいのではないかとも思うのですが、最近は仕事も生活もすべてパソコンに大きく依存してしまっているのです。

さて、どうしたらパソコンから自由になれるか。
新聞やテレビを問題にする前に、自らの生き方を改めなければいけないのかもしれません。

生きづらい時代です。

■ホテルでの出来事  2004年5月19日
昨日は長野に泊まりました。
そして、それは今朝の4時頃に起こりました。

一人でホテルに泊っていたのです。
右を下にして、横向きに寝ていたのですが、
夜中に後ろで人の気配を感じました。
半分眠りながら、手をそちらに伸ばしましたら、人の指に触りました。
軍手をしているような指で、しかもその軍手?にはアナがあいている感触でした。
ビクッとして、寝返りをうとうとしました。
しかし、どうしても寝返りもうてず、目もあけられないのです。
そのうちに指がスーっと離れてしまいました。
そして、また眠ってしまったのですが、
すぐまた気配を感じて、半分目が覚めました。
今度はだれかが私の手に触ってくる感触です。
今度こそ必死になって目を覚まそうとしました。
寝返りも精一杯がんばりました。
しかし、身体は全く動かないばかりが目も開きません。
そのうちに、触られた感触から相手の手のひらをつかむことができたように思います。
さらに数分、頭を振り向く努力に全力を向けました。
但し、まだ半分寝ている状況です。
何度かの努力の末に、ようやく頭をグッと振り向かせることに成功しました。
瞬時に目も覚めました。
部屋は真っ暗ではなく、外の明かりがうっすら入っていました。
しかし、そこには誰もいませんし、いつの間にか手の感触も消えていました。
もちろん人がいた気配は全くありません。
私は汗をかいていました。

まあ、それだけの話です。
不思議なことに、怖さはありませんでした。
むしろなにか気持ちがやさしくなる雰囲気が残りました。

久しぶりの体験です。
そう言えば、最近は、向こうの世界との交流が途絶えていました。
以前はいろいろと不思議なこともあったのですが。

■鈍感なのは都会人だけ?(2004年5月20日)
ビレッジハウスの山本さんから、とてもいいお話を聴きました。
山本さんが企画デザインした、アウラと言うレストランが二宮にあります。
話題が高まっているところです。
そこには、いくつかの水場があるのですが、
井戸水を使っているところと水道水を使っているところがあります。
トンボが卵を産むのは、井戸水を使った池のほうだけだそうです。
もちろんトンボが集まるのもそちらのほうだそうです。
彼らはしっかりと見分けているのです。

以前、コモンズのほうのホームページに、スズメが稲穂を食べるのは農薬や化学肥料をあまり使わないところだけという話を書いたことがあります。
スズメもトンボも、みんないのちにやさしい本物を見分けます。
知らぬは私たち、都会人だけかもしれません。

たまたま昨日、科学技術倫理フォーラムの杉本さんが、
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」に関する論文を送ってきてくださいました。
いつか許可を得て、ホームページにも掲載したいです。

沈黙の春の警告に関しては、アメリカでは化学者たちによるフォローがあったように記憶していますが、日本ではどうなっているのでしょうか。

興味あるテーマです。
どなたか何か情報があれば教えてください。

■傘を失くしたら探しますか?  2004年5月21日
昨夜、仕事で伊東に行きました。
大雨でした。
にもかかわらず、傘を電車の中に置き忘れてしまいました。
まあ、よくあることですが。
伊東を降りた時も、大雨でした。
しかし、すぐにタクシーに乗ったために気づきませんでした。
傘を忘れたことに気づいたのは翌朝でした。
翌朝はいい天気でした。

さてそこで問題です。
みなさんはこういう場合、駅の人に探してもらうように頼みますか。
ちなみにその傘は、ユニクロで買った1000円の折りたたみ傘です。
たぶん多くの人は、失敗してしまったと思うだけで探す努力はしませんね。

私の湯島のオフィスに、傘を忘れて行く人が時々います。
しかし、取りに来た人は10年で2人くらいです。
後の傘は誰のものかわからないままに、私が無断借用したり、
誰かが雨の時に持っていったりで、今は1本しか残っていません。

このことからわかるように、もはやみんな傘など無くしても気にしないのです。
だとしたら、傘をみんなの共有物にしてしまったらどうでしょうか。
忘れた傘はそれを拾った人が自由に使っていいようにすれば無駄がなくなります。
忘れ物の傘を保管しておくのは大変でしょう。
電車に忘れた傘は駅の構内において、みんなで自由に使うようにするわけです。

駅前の放置自転車が問題になりますが(最近は少ないですが)、自転車はすべて共有物にしたらどうでしょうか。無駄がなくなります。
所有者がわからずに、廃棄処分にするよりは、誰かが有効活用したほうがいいはずです。

自転車や傘などは、もうみんなのものと言う概念で、考えてもいい時代です。
もちろん自分だけのお洒落な自転車や傘を持ちたい人もいるでしょうから、
その人たちは自己所有にすればいいでしょう。
所有の概念を、そろそろ変える時期だと思いますが、どうでしょうか。

ちなみに私は持ち物に名前をつけることに反対です。
落とした場合、有効活用されずに無駄になるような気がするからです。
子どもの頃から持ち物に名前をつけるのが馴染めませんでした。
むしろ「拾った人は大事に使ってください」ということを明記できれば、
何かを落とした時に、残念がらずに誰かの役に立ったと言ううれしい気分になれるかもしれません。
どうでしょうか。
いい案だと思うのですが。

■怒った横田滋さんを初めて見ました  2004年5月23日
昨日、初めて怒った横田滋さんを見ました。
家族会のみなさんの怒りに共感します。

非人道的な国家の支配者に、人道支援をするということは論理的に成り立ちません。
人道支援の名前の下で、また私の税金の一部が、弱いものいじめに使われるのが残念です。
人道支援というのであれば、NGOを通して、北朝鮮の生活者に支援すべきです。

■国民参加の裁判員制度  2004年5月24日
司法制度が大きく変わり、新たに国民参加型の裁判員制度が導入されます。
みなさんはどう評価されているでしょうか。

私にはとても違和感があります。
第一に「国民参加」という発想に嫌悪感を持ってしまいます。
何をいまさらです。
それに、だいたい「参加」などとは傲慢です。
行政の「住民参加」や「市民参加」と同じく、やる気のない人ほど、高い目線で「参加」などというのです。

その前にやることがあるだろうと思います。
たとえば裁判の透明性を少しは高めてほしいものです。
その方がよほど「国民参加」性は高まるでしょう。
被害者の写真すらもちこめない法廷って何でしょうか。
裁判官の私物ではないのです。
オウム事件の裁判ですら、写真さえ撮れずにイラストで紹介。
なんというおかしさでしょうか。
オウムの松本被告がやってきた権威付けどこが違うのでしょうか。

もし参加志向を高めるとしても、いまさら陪審員制度ではないでしょう。
これだけ情報環境が変わっているのです。
時代錯誤もはなはだしいと思います。
少しは勉強しろといいたいです。

法曹界の人たちには自らの社会常識を高めてほしいです。
特殊な世界になっている仲間主義を壊してほしいものです。
正義は六法全書のなかにあるわけではありません。
法は手段であって、しっかりした時代認識と世界観をもった、リーガルマインドが法の意味を決めていきます。
大切なのはそれぞれの生き方です。
生活者の生きた感覚が、専門知識より上位になければいけません。
それは、陪審員制度のようなかたちで取り入れることではありません。
裁判官や検事や弁護士が、そうした感覚を育てなければいけません。
私は、いまどき、このような制度を持ち出すこと自体に、彼らの常識のおかしさを感じます。いわゆる有識者も検討に参加されたのでしょうが、有識者の多くは時代を生きていない人たちだと私は思っています。例外がないとは言えませんが。

裁判にとってもう一つ大事なのは、判断材料です。
つまり、判断するための事実によって、判断は全く変わってきます。
「判断過程」と同じくらい「判断材料の収集と編集」が重要なのです。
そしておそらく今はこちらのほうにこそ問題があるのです。
その解決策のほうこそ大切ではないでしょうか。
これも情報環境の変化によって状況は激変していますが、
それをどのくらい活かしているのでしょうか。

同時に自らの能力を高める努力も必要です。
自分の能力不足を「参加の論理」でごまかしてはいけません。

どうも今回の司法制度改革は、
自らを正さずに、責任逃れをしようとしているのではないか。
地方分権、市町村合併、年金改革、それらと同じ動きの一つのように思えてなりません。

最近、腹立たしいことが多く、少し八つ当たり気味ですが、
ともかく昨今の「制度改革」は、すべて疑ってかかったほうがいいという気がしてきました。
専門家が考えたのだからと安心していてはいけません。

■大銀行の業績   2004年5月25日
多くの大銀行が業績を回復している中で、UFJ銀行だけが大赤字だという発表がありました。
いずれにもおかしさを感じます。
つい最近まで税金をつぎ込んでいた銀行が、赤字だとか黒字だとかいうこと自体おかしいと思うのですが、それよりも彼らの業績は「社員の今期の実体活動を反映したもの」ではなく、数字操作の結果であることにおかしさを感ずるのです。
赤字であろうと黒字であろうと、当該銀行の社員たちは実感が持てないのではないかと思うのです。
しかも、その背景には、社員たちの、正式には元社員たちの大きな犠牲があります。
組織にとっての黒字が、社員にとっての赤字につながる構造は、どう考えてもおかしいです。利益は、そうした人たちにこそ向けられるべきです。
しかし、誰もそんなことは気にしていないように思えます。
それに会社が黒字だろうと赤字だろうが、振込みなどの手数料は変わりません。

こうしたところに、経済システムの破綻の原因があるのではないでしょうか。

新聞の勧誘がよく来ます。
すごいサービスを提案してきます。
働きかけようによっては、新聞購読代以上のサービスを受けられるかもしれません。
それが可能なのは、おそらく広告料金なのでしょう。
以前もどこかに書きましたが、大新聞がいまや広告メディアであり、フリーペーパーの内容になっています。まもなくマイナス購読料金制度になるかもしれません。
そういう中で、きっと新聞社の人たちは仕事への意欲を失い、ひどい新聞づくりに荷担するようになっているのでしょうか。
いずれにしろ、ここでも仕事の実体と収益構造とは無縁になっています。

私は今の銀行は、ノンバンクやサラ金を支援しながら、社会を悪化させている悪の権化だと思っています。それに荷担しているのが金融庁です。彼らの「不作為の罪」も大きいです。
そうした悪の権化たちの世話にならないといけない自らのふがいなさを恥じなければいけませんが、かくもおかしい金融業界を刷新する人は出てこないのでしょうか。

■年金制度の論理矛盾  2004年5月26日
もし、年金が自らの老後保障のためだとします。
そうであれば、積み立てた人が積み立てていてよかったと思うように制度設計すれば、それだけですべて問題は解消します。
加入呼びかけは不要です。
未加入であろうと未納であろうと問題にはなりません。
未納者が多ければ、納入者は有利になるはずですから。

もし、年金が同時代の高齢者の生活支援のためだとします。
そうであれば、税金と同じに考えれば、すべて問題は解消します。
保険料などは不要で、税金を高くすればいいのです。
未納者は許されません。
フリーライダーはペナルティーを与えることで解決します。

こういう簡単なことすら整理されておらずに、
政治家も霞が関も制度が難しいとか騒いでいるのですから、お話になりません。
問題は簡単なのです。
2年で時効などと言うのは、前者の発想です。
未納者が3割もいる状況を引き起こしているのも、前者の発想だからです。
にもかかわらず、ある時はしゃあしゃあと後者の大義を振り回すのです。
誠意も知性も全く感じられません。

まあ、これはほんの一例です。
こうしたやり方が、霞ヶ関の部長以上の人と政府のやり方です。
一言でいえば、狡猾で性悪なのです。
霞ヶ関のプライドも知性も、今の部局長には全くないと言うべきでしょう。

ところが、霞ヶ関の若者世代は全く違います。
そこに私は大きな期待を感じます。
その世代が横につながってほしいものです。
そうすれば生活者の知恵や汗とつながれるはずなのですが。

このホームページに出合った霞ヶ関の若手官僚の方が、もしいたら、
横をつなぐ霞ヶ関サロンを始めませんか。
もちろん自分の所属する組織を創造的に破壊するための活動拠点を育てるために、です。
ご連絡下さい。協力します。
このままでは、強欲な中高年者たちに、この国は破壊されてしまいます。

もっとも私も、その強欲な中高年世代なのですが。
これは念のため。

■吉野家の牛丼がなくなったので米の消費が減ったという話 2004年5月27日
昨夜、福島市の人から聞いた話です。
吉野家の牛丼がなくなったため、日本人の米の消費量が減っているそうです。
吉野屋はすごい存在だったのですね。感心しました。

我孫子市の生協は山形の高畠町の有機米を扱っています。
高畠といえば、星寛治さんのところです。
1キロ870円です。しかしよく売れるそうです。
このつながりを、私は最近知りました。
我孫子市の生協のメンバーは援農活動に高畠にも行っているそうです。
行動している人はきちんとしています。
私などは理屈だけですので、そうやって行動している人に出会うともう脱帽です。

美味しいお米は、まさに一汁一菜で十分です。
私は「グルメ」ではありませんが、一応味は少しわかります。
美味しいお米は、実に美味しいです。
おかずなどいりません。

吉野屋型の米消費量の促進も否定はしませんが、
やはり米飯のもつ本来の美味しさや健康性を、もっと正面から取り組むべきです。
1キロ870円で売れる米をつくれば、農家も少しは救われるでしょうし。

ところで、私が一番美味しいと思うおかずは漬物です。
しかし、女房には悪いのですが、この40年、美味しい漬物に出合ったことがほとんどありません。ですから、美味しい漬物の味を忘れてしまっています。
たかが漬物と思うかもしれません。
しかし、私は漬物にこそ、日本の文化が凝縮されているように思います。

そうした日本の食文化を壊してきたことを、改めて問い直す必要があります。

食育に取り組む人がまわりに増えてきました。
うれしいことです。
私も食育の雑誌の編集を一度したいと思っています。
友人に提案したら、私には編集長はできないと言われました。
どこかの出版社で、私を編集長にしてくれないでしょうか。
とてもいい企画を持っています。1年間任せてくれるだけでいいのですが。

■家族会の怒りに共感します 2004年5月28日
今週は怒りのメッセージが多かったのですが、
表現も含めて、少し品格がないと女房に指摘されました。
それで咲く実は怒りをお休みさせたのですが、やはり怒りが静まりません。

拉致被害者家族会に批判メールがたくさん届いているそうです。
昨日見てみたら、横田さんがそれに対して、コメントを書いています。
もしまだの方はお読みください。
http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200405/20040525.htm

それにしても哀しいことです。
朝日新聞(まだ止められずにいます)の昨日の朝刊にこんな市民の声が載っていました。

・ 被害者家族の怒りの言葉を聞いて「ちょっといいすぎじゃない」「小泉さんがかわいそう」と、応援していた気持ちに変化がでました。
・ あせる気持ちもわかりますが、批判ばかりしている皆さんを見ていてさみしくなり、テレビを切りました。
・ 何の権利があっていいたい放題なのか。

きっと素直な意見なのでしょうし、
これだけ読むとうなずく人もいるでしょう。
とても私たちのこころにはいりやすい言葉です。

しかし、私がもっとも嫌いな発言です。
こうした人たちがアウシュビッツを支えてきたのです。
つまり私たちが、という意味です。

統治のための情報体制は整備されてきています。
異論を挟むことのできない社会に向かいだしているのかもしれません。

相手の立場を思いやれない、非当事者たちが、寄ってたかっていじめを行う構造をどうすれば、変えていけるのでしょうか。
米兵のイラク人虐待が私たちの社会でも行われだしているのです。
しかもその本人たちは、善意の顔をして、そのいじめに荷担しています。

朝日新聞の記者の悪意(「善意」の悪意ですが)も感じますが、
こういう発言をした人たちに、怒りを感じます。
しかし、どうして彼らにその怒りを伝えればいいのでしょうか。

あるいは、
私の感覚がおかしいのでしょうか。
その可能性もかなりありますが、
とりあえずは家族会にエールのメールとカンパを送りました。

■ 流れが止まらないことへの怒り 2004年5月29日
今週はついに「怒り週間」になってしまいました。
最後もまた「怒り」です。

わかっていても流れが止められない、
こうしたことが多いのが気になります。

国民の税金を注ぎ込んでいる大銀行の役員の報酬の報道がありました。
3,000万円近くでした。
これを高いと見るかどうかは様々でしょうが、やはり割り切れません。
自分で稼いだお金であれば、1億円でもいいですが、
国民の税金に依存しながら、相変わらず経営を放棄している経営者が、
国民の平均年収より多いのは納得し兼ねます。

年金制度を子どもたちに教えるための副読本が作られています。
CDも作られています。
それを使って社会保険庁のOBが学校に教えに行くそうです。
それらの予算が2億円以上です。
そして、それらはほとんどが使われていないそうです。
今朝のテレビで、内部告発があったと報道していました。
無駄遣いは一向に直っていないのです。

ついでいえば、
日本の行政のコミュニケーション活動は全くコスト・パフォーマンス意識がありません。
役場に行くとたくさんの、おそらく誰も見ないような立派な資料がカウンターに山積みされています。昨日も美野里町の役場に行ってきましたが、相変わらずたくさん積まれています。それはいずれも市町村ではなく、国や県から送られてくるのです。市町村はそれを受け取らなければいいと思うのですが、そんなことのできる市町村はないでしょう。
資源の無駄や空間の無駄、人件費の無駄。馬鹿げたことです。
行政の無駄遣いは、さらに加速されています。
市町村合併にまつわる無駄遣いはすごいものです。

ところで、下山さんからテレビに関するコメントがありました。
内部告発者にテレビを開放するのはどうでしょうか。
内部告発24時間テレビというのをやったら、そしてできれば毎月1回やったら、テレビの存在価値も回復できるかもしれません。
スポンサー依存のテレビ局では無理な気もしますが、考えてみる価値はありそうです。

ところで、小川さんはとても残念でした。
心より冥福をお祈りいたします。
NHKには思いのある人が時々います。
彼らが横につながったら大きな仕組みができると思うのですが。

■朝市の賑わい  2004年5月30日
朝、近くの道の駅に野菜を買いに行きました。
朝市でにぎわっています。
朝取りの野菜がたくさん出されています。
みんな生産者の名前が書かれています。残念ながら価格は同じですが。

大量生産主義をやめた場合、流通経路は一新されます。
もしここで売れ残りのリスクを担保できる仕組みができれば、
販売価格を維持しながら、倍のエネルギーと心遣いを生産に向けられるかもしれません。
そうした場合、誰が損をするでしょう。
農薬や化学肥料、農機具が売れなくなり、流通業者が困るかもしれません。
しかし社会的なメリットは大きいです。
環境負荷も医療費も介護費用も減るかもしれません。
その分、損をした人に保証してやってもいいでしょう。
それくらいの経済メリットもあるはずです。

朝市の賑わいは、単に経済活動だけではありません。
そこで触れ合う人間のつながりも大きな効用です。

市の回復。
それこそがまちづくりの基本かもしれません。
市と市場は、似て非なるものです。
朝市に行くといつもそう感じます。

■身勝手な生き方から抜けられません  2004年5月31日
今日は銀行の人と会っていました。
融資を受けるためです。
あんまり真面目に働いていないせいか、時々、活動資金がなくなります。
元気な時は仕事を増やすのですが、最近はちょっと元気がありません。
それで銀行融資を受けることにしました。
ビジネスローン担当の方に来てもらいました。

先日、あれほど銀行に対して罵倒していたのに、その銀行に支援を頼むなどというのは、つじつまが合いません。困ったものです。

まあこれはほんの一例でしかありません。
なかなか言動を一致させるのは難しいものです。

汗をかかずにお金を得ては行けないと考えながら、宝くじを買ってしまいます。
環境負荷を最小化しようと思いながら、短い距離でも自動車に乗ってしまいます。
テレビを批判しながら、馬鹿げた内容のテレビを見てしまいます。
家事分担をするといいながら、何もしません。
困ったものです。

63歳にして漸くですが、最近、自分の身勝手さに気づきだしました。
しかし、その身勝手さはなかなか直りません。
いや、ますます高じそうです。

今日も私が取り組みたいと思っていることを説明し出したのですが、
銀行の方にはほとんど興味を持ってもらえずに、
「運転資金がいるのですね」
と総括されてしまいました。
確かにそうなのですが、プロジェクトの意義を感じて銀行が寄付をしてくれるかもしれないと思うのが、私なのです。そんなことは夢にも起こらないのですが。

銀行の方は淡々と説明してくれました。
そして親切に、もっと有利な資金調達の方法まで教えてくれました。
この人がもし私のホームページを読んでいたら、こんなに親切ではないでしょうね。
そして、融資はしてくれないでしょうね。
読んでいないことを感謝しなければいけません。

教訓。
弱い立場の人間は権力に異議申し立てしてはいけません。
権力に従うのが賢い生き方です。
銀行がいくら融資してくれるか心配です。いやはや。

■沈黙の春  2004年6月1日
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」はお読みになりましたか。
環境問題を最初に警告した本です。
日本では、私が会社に入った年に出版されましたが、
私が自称エコロジストを称えだすきっかけになった本です。
当時は「生と死の妙薬」という題で翻訳されました。
その題が私にはとても違和感があり、装丁の悪さも含めて、書棚には置きたくない本でした。出版社の新潮社のセンスを疑いました。こんな馬鹿げた書名にしなければ、きっともっと売れたはずです。そして社会に影響を与えたはずです。
10年ほどたって、書名が原題の「沈黙の春」に戻って、新潮文庫として出版されたので、ホッとした記憶があります。

レイチェル・カーソンは、最近は「センスオブワンダー」が有名で、その読書会も各地で行われています。
彼女は科学者ですが、沈黙の春の寓話のように、詩を感じさせることがあります。
彼女の作品のひとつ、「われらをめぐる海」には詩があると言われて、彼女は次のように答えています。
「海について真実を語ろうとすれば、詩にならざるを得なかったのです」
こうした彼女の姿勢が、私はとても好きです。

しかし、にもかかわらず、翻訳で読む彼女の作品はいずれも難解なのです。
それが気になっていたのですが、先日、科学技術倫理フォーラムの杉本さんから、「沈黙の春」の翻訳は技術者からするとわかりにくい。できれば改訳したいというお話を聞いて納得できました。真実をきちんと伝えないと、美しくはならないのです。

杉本さんから新潮社に打診してみるように頼まれたので、間接的に打診していたら、今日、連絡がありました。それによると、誤訳が多いという読者からの苦情があって、2001年に改訳をしたそうです。それも知りませんでした。早速新訳を読んでみようと、書店に行きましたが、残念ながらありませんでした。

杉本さんは、この本をしっかりした科学技術の素養を持った人が訳せば、もっと影響力を発揮できるだろうと考えています。
同感です。
そして、改めて、沈黙の春のメッセージをしっかりと受け止める動きを起こしたいものです。
ちなみに、米国では、1987年に「Silent Spring Revisited」という本が出ています。カーソンの問題提起を化学者たちが検証したものです。杉本さんは、技術士として、日本でもそうしたことを行いたいと、きっと考えているのでしょう。

ところで、今のところ、沈黙の春は避けられているようです。
鳥の声もよく聞けますし、花も昆虫も増えているような気もします。
しかし、本当に安心していていいのでしょうか。
いろいろと気になることの多い毎日です。


■親知らず歯の活用  2004年6月2日
歯医者に行きました。
近くのミドリ歯科です。そこの先生の石川さんがすごく話し好きなのです。
今日はこんなことを教えてもらいました。

私には1本、まだ埋っている親知らずがあります。
埋まっているが故に、虫歯にもならずに健全です。
最近は、その親知らずを掘り出して、他の場所に移植することができるようになったそうです。ですからむやみに親知らずを抜いてはいけないのです。いざという時の財産なのです。
さらに最近は、歯の種のようなものを育てる試みも進んでいるようです。
歯が抜けても大丈夫の時代が来るかもしれません。
人間の身体はまだまだたくさんの可能性を秘めているようです。

しかし、その一方で、いとも簡単に生命は突然断ち切られます。
イラクの橋田さんや小川さんもそうですが、
今日はまた佐世保で子どもの殺人事件です。

経済的に豊かになったにもかかわらず、多くの人は豊かさを実感できないでいます。
医学は進歩したにもかかわらず、多くの生命が軽んじられだしています。
どこか似た感じがします。
どこが間違っているのでしょうか。

今日は女房の胃がん手術1年目です。
1年が無事過ごせたことに感謝しています。
がんになったおかげで生命や時間の大切さに気づいたと、多くのがん患者の方が話します。私もその思いを少しだけ共有させてもらっています。

■テレビタレントのサブリミナル効果  2004年6月3日
佐世保の小学生殺人事件によって、私たちはまたひとつタブーを失ったように思います。
子供同士の殺人という、思ってもみなかったことが、この数年、次々と起こりました。
不謹慎ないい方ですが、そうした事件が「解禁」されたのです。
こういう「解禁」が、この数十年、次々と起こっています。
生命現象の危機かも知れません。

私たちの社会が何とか安泰を保てている大きな理由の一つは、タブーがあるからです。
天の摂理として、生命の一つひとつに、それは埋め込まれています。
陽光を浴びると元気になり、血をみると恐怖に陥る。
笑顔を見ると心和らぎ、涙を見ると涙が出てくる。
困っている人がいたら、自然と救いの手が出てしまう。
それは、生命現象が個々ばらばらにあるのではなく、つながっているからだと、私は思っています。
人が喜ぶと自分もうれしくなるのも、そのおかげです。

ところが、最近、どうもそうではないのです。
どこかで生命の連鎖が切られてしまっているような気がしてなりません。
埋め込まれているはずのタブーがどこかで動かなくなっているのでしょうか。

タブーは、誰かが破ってしまうとタブーであることをやめてしまいます。
問題は、誰も破らなくても破れることを確信させてしまうことがあることです。
タブーは実際には破らなくとも、頭の中の空想の世界で破ってしまうことがあります。
皆さんも、頭の中でタブーを破ったことはあるでしょう。
それが現実にならないところにタブーのタブーたる由縁があります。
もちろん全く気づかないタブーもありますが。

では誰がタブーが破られたと思わせたのでしょうか。

サブリミナル効果が話題になったことがあります。
多くの場合、隠し画面として特定のメッセージを入れることを指しますが、
それ以上に大きな影響は、テレビを舞台に活動している有名タレントたちの言動です。
最近のテレビは、彼らの主観的言動の露出空間になっており、そこからの繰り返しメッセージがサブリミナル効果を持ち出しているような気がします。
そうしたシグナルの中に、自らの頭の中のタブー破りを含意している言動が、かなりあるように思われます。しかもそれらは特別の物語としてではなく、日常的な人間生活の中につながっているために、現実との境界が見えなくなってしまっているように思います。
しかもそうしたことを売り物にしている存在が少なくありません。
要するにテレビの中が、日常をベースにした非日常になっているのです。
たとえば北野たけしは世界的に高い評価を得ていますが、私には全く理解できません。
私の体内に埋め込まれた感性からすれば、目を背けたくなる言動があまりにも多いからです。どこにでもいるただの人が、無理をして騒いでいるだけにしか感じません。
私の感性が狂っているのかもしれませんが。

いまや子どもたちの最大の「学びの場」になっているテレビに関わる人たちに、
今回の事件と自分の言動をつなげて考えてほしいと思います。
もちろんニュースキャスターも含めてです。

■年金改革法の成立をとめる方法 2004年6月4日
年金改革法が成立しそうです。

いまさらという話をします。
とめる方法はひとつだけあったと思います。
民主党か筑紫哲也チームにメールしようかどうか迷いましたが、
これまでもいろいろメールしても反応があったことがほとんどないのでやめました。
自分で活動を起こせばいいのですが、それもやめました。

方法は国会デモの呼びかけです。
国民の多くが反対しているのですから、誰か影響力のある人がテレビを通じて呼びかければ、大勢の人が国会に参集したと思います。そうすれば事態は変わったはずです。
国会を埋め尽くすほどの人がきっと集まったはずです。
イラクでは埋め尽くせませんでしたが、年金では埋め尽くせたと思います。

その呼びかけをできる立場にいる人はたくさんいます。
委員会の暴挙がなされた夜のニュース23で、筑紫さんが呼びかけるかと期待していました。
しかし、その期待は実現しませんでした。
民主党が呼びかけるとも思っていましたが、それもありませんでした。
だれも本気で年金改革法を止めようと思っていないのですね。
私も、その一人ですが。

それとも、みんなまだ民主主義を理解していないのでしょうか。
民主主義の最大のパワーは武器や戦術ではなく、人の言動です。
国民は誰かが声をかけてくれるのを待っているのです。

ちなみに私は年金制度にはあまり関心はありません。
国家に対する信頼感がもてないからです。
年金がなくても気持ちよく暮らせる社会づくりに関心があります。
それにもう年金の受け取り側になっていますので、制度変更の主役にはなれません。
もっとも不思議なことに、そうした人たちが年金制度改革出の主役になっているようですが。
坂口厚生相には失望しました。

■朝のあいさつ  2004年6月5日
最近、女房と二人で30分の早朝サイクリングをやっています。
今日は手賀沼のあやめを見に行きました。明日からあやめ祭りなのです。
自転車で15分、途中は自転車も通れる散策道です。
人に会うたびに、「おはようございます」の挨拶をかけるのですが、必ず返事が返ってきます。
ヘッドフォンを聴きながら散策している若者ですら、気配を感じるのか返事を返してくれます。
とても気分のいいふれあいができるのです。

「おはよう」の一言で、人はつながりを感じ、つながりを育てられるのです。
それなのになぜ人は追いやられ孤立化し、犯罪を起こすのでしょうか。
人がつながっていれば、困ったことがあれば、きっと誰かが助けてくれます。
誰かを助けてやることもできます。
しかし、その「おはよう」がどんどんなくなってきているのです。
子どもの世界も、そうなのでしょうか。

たとえば一昨日の年金に関する委員会でのありさまは、そうした世界とは別世界です。
つながりをつくるどころか、つながりを壊そうとしています。
そこに、民主党の間違いがあったように思います。
国民に向けて、挨拶をしてくれたら、みんな動いたはずなのです。

日本の文化は、まだしっかりと残っています。
しかし、どうも国会や大企業にはもうなくなってしまったようです。
学校はどうでしょうか。

■ネットを介したコミュニケーションの難しさ 2004年6月6日
佐世保の事件で、ネットによるコミュニケーションの問題点が議論されています。

私もネットを使ったコミュニケーションの輪を広げている一人ですが、
確かに難しさを感じます。
ほとんどニュアンスが伝わらないのです。

5月31日の記事の最後に「教訓」という3行を載せました。
橋本さんがコメントしてくれました。異論の提出です。
橋本さんは私のことをよく知っているだろう人です。
翌日、コムケアセンターで矢辺さんから、
あの記事を読んで、「佐藤さんは疲れているのかな」と思ったと言われました。
つまりコミュニケーションができていないのです。
ある人からメールが来ました。
佐藤さんのジョークは若者には伝わっていない、と。

これは、しかし、ちょっとした世代文化の違いかもしれません。
ネットのやりとりのおかげで、それが顕在化したのです。

折口さんが、CWSコモンズのホームページの「折口さんのつれづれ日記」に、
言の葉の発する恐ろしさ。(6月5日)を投稿してくれています。
そうした恐ろしさもたしかにあります。

私はネットのやりとりで、これまでに舌禍事件を3件起こしています。
CWSコモンズのホームページでも一人の知人を失いました。
ですから、最近はかなり注意しています。
私自身は一応、ネットの性格を理解していますので、それなりの準備はできていると自負しています。

しかし、です。
その私ですら、週に1回は、メールや書きこみで、なにやら滅入ることがあります。
相手の善意や真意は一応理解した上での、何とはなしの不快感を味わいます。
すぐにおちつくのですが、そうした気分が自然と起こるのです。
そんな嫌なことがあるのなら、止めたらいいと思うかもしれません。
しかし、それを上回るうれしいメールもあるのです。

もっとも、うれしさと嫌さは、実は相殺できません。
別々のものなのです。
ですから、こうした言い方は正確ではないでしょう。

気持ちのいいネットのやり取りをできるようにするためにどうしたらいいのでしょうか。
私は、それは不可能なことだと思います。
時に不快感を味わうことこそ、健全なことなのです。
利便性や快適性を追求しすぎた結果は、退屈な人生です。

今日はどんなメールに、一喜一憂するのでしょうか。

■ユニバーサルデザインへの違和感 2004年6月7日
ノーマライゼーションへの違和感について以前書きましたが、
今日はユニバーサルデザインへの違和感です。
4日のユニバーサルデザイン生活者ネットワークのシンポジウムで話したことの一部を少し書きます。補足しながら。

ユニバーサルデザインという言葉が広がっています。
この分野で活躍している中川聡さんは、「あらゆる使い手に快適で使いやすい環境やモノを提供することを目指す社会的な意識や態度」と定義しています(「ユニバーサルデザインの教科書」)。
誰にでも使いやすいことを目指す設計思想。なんとなくわかったような気になる言葉ですが、商品や空間を設計する際には、「使いやすさ」を重視するのは当然であって、何をいまさらという気がしないでもありません。しかし、なぜかこの言葉が流行しています。いかに、そうでない状況になっているかの現われかもしれません。

ユニバーサルデザインには有名な7原則があります。
原則1:誰にでも公平に利用できること
原則2:使う上で自由度が高いこと
原則3:使い方が簡単ですぐわかること
原則4:必要な情報がすぐに理解できること
原則5:うっかりミスや危険につながらないデザインであること
原則6:無理な姿勢をとることなく、少ない力でも楽に使用できること
原則7:アクセスしやすいスペースと大きさを確保すること
どうですか。退屈でしょう。
当たり前すぎるほど当たり前であり、しかも言葉があいまいです。
なぜこんな内容のない言葉(概念)が流行するのか。

誤解のないようにいえば、ユニバーサルデザインへの関心の高まりはとても良い事だと思っています。ただ、その取り組みが、概念の吟味もせずに、言葉だけが安直に広がっていることに違和感があるのです。

そもそも「ユニバーサル」という言葉に違和感があります。ユニバーサルな発想で、本当に使いやすさが生まれるのか、むしろ作りやすさのための発想ではないか、などとひねくれて考えてしまうのです。
もっとも、中川さんによれば、ユニバーサルには本来「個を目指す」という意味があるそうです。「誰にでも」という意味は、「様々な個人一人ひとりにとって」ということなのです。でも何か違和感があります。

言葉はともかく、重要なことは、こうした動きの中に、作り手からではなくて、使い手、つまり個人の具体的な生活から発想するという視点の転換が込められているということだと思います。
提供された商品や環境に使い手を合わさせるのではなく、使い手に合わせた商品設計ということです。それも、目指すところは、マスとしての客観的な使用者ではなく、それぞれに事情をもった使い手、生活者ということです。

だとすれば、ユニバーサルデザインとは作り手にとっての商品開発のためのデザインではなく、使い手の生活支援のためのデザインということになります。
まさに、私の言葉でいえば、組織発想から個人発想へのパラダイムシフトです。
デザインの対象が変わったという点も重要です。もちろんデザインのプロセスも変わります。

ところで、生活は一人一人によって表情が違います。
ですから、実は誰にでも使いやすいということは、実は誰にでも不満が残るということでもあります。
カスタムメイドではなく、量産を基本とする企業と個人事情を持った生活者をどうつなげていくか。ここにユニバーサルデザインの大きな課題があります。
それは、実はモノづくりの思想や産業の枠組みを根底から変えることなのです。

しかし、今のユニバーサルデザイン議論には、そうした視点があまり感じられません。
これまでのパラダイムの延長でしか考えられておらず、ユニバーサルデザインは改善策なのです。
ユニバーサルデザインを、これまでの発想の先に位置づけるか、これまでの発想を壊す視点で考えるかで、内容は大きく変わります。
ちょうど、地方分権と地域主権が全く正反対のものであるにもかかわらずに、混同して議論されているのと同じです。百害あって一利無しです。

長くなりました。まさに論文ですね。いやはや。
読む人も飽きたでしょうが、書く私もつかれました。
なかなか書きたいことに辿り着けません。
メディアをまちがったようです。すみません。

■突然報道されなくなった年金改革法  2004年6月8日
夢を見ていたのでしょうか。
年金制度改革法が「成立」した途端に、マスコミからその話題が消えてしまいました。
あれほどの混乱や国会欠席までしていた野党の声も聞こえません。
あれは夢だったのでしょうか。

7割にもおよぶ国民の反対は、何だったのでしょうか。
狐につままれた気分です。

マスコミがとりあげないと、事件は事件にならないことがよくわかりました。
イラク戦争って、本当に行われているのでしょうか。
すべてがマスコミがつくった虚構なのでしょうか。
自分の存在も少し不安になってきました。

■つながり  2004年6月9日
ある社会実験によると、すべての人は5〜6人を介してつながっているといいます。
日本のテレビでも、北海道の身寄りの全くないお年寄りが東京の全く知らない人に、個人的なつながりを介して手紙を届ける実験をし、たしか7人ほどで無事手渡された結果を放映したことがあります。
そのテレビを見た、ある若者起業家が、私のところに飛び込んできて、
「佐藤さん、ひとはみんなつながっているのですね」
と、感動を伝えて、すぐに帰った「事件」がありました。
その後、彼と会っていませんが、いつかまた会えるでしょう。
人は会うべき人には必ず会えるものです。

昨日、地下鉄日比谷駅で岸田弘さんに会いました。
この駅は不思議な駅で、よく知り合いに出会います。
それも、その人のことを思い出したり、誰かと話題にした直後にです。
岸田さんは千葉の大原に民家を購入して、そこに徐々に転居している人です。
先週、ある人と帰農の話をしていて、そういえば岸田さんはどうしているだろうと思ったところでした。その数日前にテレビで大原のニュースを見たのがその誘因でした。

東京は様々な出会いに恵まれています。
数年前に御徒町の駅近くで、突然声をかけられました。
寺田実さんです。
異色の人です。
銀座のギャラリー悠玄で、17日から個展をやりますが、
17日のオープニングパーティに行くと彼に会えます。
作品はすばらしいです。彼の人柄も魅力的です。
彼の個展に誘われたのは、御徒町で偶然であったおかげです。
彼とは一度しか会ったことがないのです。
それもあるイベントに講演に来てもらっただけです。
それが偶然の出会いのために、個展の案内が届いたのです。

個展に夫婦で行ったら、私たち夫婦の共通の友人も出展していました。
彼の教室に参加していたのです。
2人とも滋賀の人なのです。
人は確かに無限につながっています。
そして、会うべき時に会うのです。

今日、コムケア仲間のCS21の叶内さん、村上さん、川副さんが訪ねてきてくれました。叶内さんの思いのたけをお聞きしました。私の思いとかなり重なりますが、まあそれはまたコモンズのほうで紹介します。
3人が帰り際に、私が美野里町の名前を出しました。
そうしたら、叶内さんたちは何と美野里町を訪問し、そこの文化センターを見てきたそうです。「文化がみの〜れ物語」も知っていました。私がそれを編集したことには気づいていませんでした。
コモンズのほうに何度も出てきていますが、私は美野里町やそこの文化センターとかなり深いつながりがあるのです。
あまりの意外な話に驚きました。
しかし、こうした偶然は私だけではなく、叶内さんもたくさん経験し、そしてその結果、今日、仲間と一緒に私を訪ねてきてくれたのです。

明日は誰と出会えるでしょうか。
東京の魅力のひとつは、偶然の出会いです。
念じていると、必ず会えるのです。
不思議なまちです。

■出生率低下は未来への夢とつながっています 2004年6月10日
合計特殊出生率が1.3を切りました。衝撃です。
さまざまな委員会で議論されていましたが、下げ止められずにいます。
そろそろ方法論や議論するメンバーの間違いに気づくべきでしょう。
現場に立脚しない人の議論は何の役にも立たないのです。

10年以上前にある研究所が、
「あなたの子どもたちの時代はあなたよりも幸せになると思いますか」
という調査をしました。
私は講演の時に、この質問をさせてもらいます。
イエスと答える人は極めて少ないです。
10年以上前の調査結果は20%でした。
8割の人が将来に希望を持っていないという社会は異常です。
子どものいじめや自殺や事故の増加。
すべてがここに象徴されています。

そして出生率が下げ続ける社会。

会社を辞めてから、初めて関わりだしたことがいくつかありますが、
その一つが保育の世界です。
私の関心は幼児教育(保育という意味での教育)でしたが、
出生率が1.5を切ったので、話題が高まっており、そのおかげで研究会も開催できました。厚生省や日経連の人にも参加してもらいましたが、私自身がついていけませんでした。みんな産業論で考えているのです。

しかし、素晴らしい保育関係者との出会いもありました。
しかし、数年前から、保育の現場にも違和感が出てきました。
国庫からたくさんの補助金が流出したのでしょうか、なにかバブルを感じさせるような話がいろいろと耳に入りだしました。子育てに資金を出したら出生率が高まるという発想が、出生率を下げてきたのです。

10年前から日本は福祉バブルです。今もそうだと思います。
福祉の世界で真面目に仕事に取り組んでいる関係者の人は、今も資金不足に悩んでいるでしょうが、バブルとはそういうものです。
産業バブルの時も、結局は汗をかく真面目な働き手は辛いだけだったのです。

なぜ出生率が下がり続けるのか。
なぜ子どもの世界の事件の話題が多いのか。
なぜみんなが弱いものいじめをするのか。
夢が持てないからかもしれません。

「あなたの夢は何ですか」

■田中真紀子さんへのエール 2004年6月11日
日本の政治家の中で、私が言動に期待と共感を持てるのは、田中真紀子さんだけです。
ほとんどの政治家はうさんくさいですが、彼女は素直だと思うからです。
まあ、独善的で傲慢で世間知らずで、冷たくてわがままで、自分勝手かもしれませんが、これまでのほとんどの言動に、私は好感を持っています。
田中角栄もそうです。確かに日本を駄目にした一人でしょうが、ずるくはなかったように思います。不勉強だと怒られそうですが、なぜか2人とも嫌いにはなれません。我ながら、矛盾しているとは思うのですが。

今、田中さんは日本に戻ってきた中国残留邦人の生活支援のための法案に取り組んでいますが、田中憎しという自民党政治家たちに邪魔されているようです。今の政治家が政治を私物化していることがよくわかります。国民などはどうでもいいのです。

様々な法案に対して政治家どう反応するかは政治家を選ぶためのとても重要な判断材料になるはずです。
しかし、今のような党議拘束が強い政党制度の中では、個人の言動はほとんど意味を持ちません。彼らはもはや生きた人間ではなく、歯車なのです。自分では誰も「自己責任」をとらないのです。歯車を演ずることで、ただひたすら私利私欲を追及する雇われ人なのです。しかも、雇い主は国民(選挙民)ではなく、政党という組織なのです。政治はいまや、人の手を離れ、コンピュータの手に移ったといってもいいかもしれません。ですから政治家にはだれでもなれるのです。
ちょっと飛躍があるでしょうか。まあ、私の考えはいつも飛躍と独断があるのですが。

政党政治の時代は終わりました。
二大政党政治などは全くの時代遅れです。
小選挙区制などは論外です。
そう思いませんか。
馬鹿な政治学者や無知なジャーナリストにだまされてはいけません。
最近また怒りがこみ上げてきています。
小泉首相のはしゃぎようは見苦しいです。
新聞はすべてお追従しか言わなくなりましたし。

みんな自分の生活が不安なのですね。

■メールが減ってきました  2004年6月12日
最近、受信メールが減っています。
にもかかわらずウィルスによって発信されたであろう、無意味のメールは減っていません。
私は、発信者が日本名でなく、件名も日本語ではないメールは、原則として、読まずに削除します。例外はありますが、そのために、せっかく送ってもらったメールに気づかないことあります。できれば発信者名は日本語がいいと思います。

もうひとつ気になることがあります。
件名を見直さずに、古い受信メールへの返信で送ってくる人がいます。
ちょっとムッとします。

メールでの照会に回答しても、その後、音沙汰のないことも少なくありません。
私の照会に音沙汰ないのは、気にはなりません。
メールとはそういうものでしょうし、勝手に送って回答を要求するのは欲張りです。

メール上のマナーが盛んに言われた時期がありました。
ネティズンシップなる言葉もあり、私はその欠如を指摘されたこともあります。
最近はあまり言われなくなりました。

メールは味気ない、手紙がやはりいい、と言う人がいます。
いずれもそれぞれの良さがあると私は思っています。

最近、受信メールが減っているのは私だけでしょうか。
みんなに嫌われてきたのでしょうか。
そうであっても不思議はありません。
自分の性格の悪さに、ようやく最近気づきだしました。
困ったものです。

メールは、多いと多いで嫌ですが、
少ないとまたさびしいです。
人間の心情は複雑ですね。

■強制と自発  2004年6月13日
コモンズのほうで何回か話題にしましたが、
学校の式典で国歌斉唱が強制される動きがあります。

これまで何の抵抗もなく、国家を歌っていたのに、
強制されることによって歌うのを止めて、処分された体育系の教師の話が、テレビで紹介されていました。私とほぼ同世代の教師です。

イソップの寓話に、こんな話があります。
小学3年の時に読んだのですが、ずっと頭に残っている話です。
山にきこりがやってきて、樹に「枝を1本くれないか」と頼みました。
親切な樹は、枝の1本くらいならいいだろうと思い、分けてあげました。
きこりは、その枝をもらうと、持参してきた刃を枝につけて斧をつくりました。
そして、森の樹木を伐りだしました。
枝をあげた樹木も含めて、森はすっかり伐られてしまいました。

ナチスが欧州で活動を広げだした時に、
欧州の労働組合関係者は、まあポーランドくらいはと思って、侵攻を見過ごしました。
自らに被害が及びだした時には、もう止める力はなく、欧州はナチスに席巻されてしまいました。

ちなみに、私は国家も国旗も好きです。
しかし、強制は大嫌いです。
石原都知事も小泉首相も、愛国心の全くない人だと思います。

■平和に向けての個人訴訟傍聴記 2004年6月14日
CWSコモンズのホームページでご案内していた、イラク派兵に関する憲法違反訴訟の北沢洋子さんの第1回口頭弁論を傍聴に行きました、私のホームページを見て、前沢知成さんとも会場でお会いしました。残念ながらほかにはいませんでした。
私にとっては初めての裁判傍聴でした。

傍聴席は満席で、入れない人が出るほどでした。
しかし、補助椅子や立ち見は認められませんでした。
傍聴者の一人が、裁判書の建物はきれいになったが、昔は見とめられていた立ち見や補助椅子がなくなったのは改悪だと大声で話していました。
始まる前に、面白いやり取りがありました。

原告は北沢さん、被告は国ですが、国側の人が3人、被告席に座っていました。そこで北沢さんは名刺交換をしようとしたのですが、相手の人は名詞を出さなかったようです。そのためか、裁判官が来る前に、弁護人の人が、国側の人の所属省庁を教えてくれないかと呼びかけました。見事に断られました。答える義務はないというのです。北沢さんは、誰に話しているかを知りたいので、教えてほしいと重ねて頼みましたが、裁判官を通してたずねてくれとの返事でした。いやはや。裁判官に言われたら答えるのでしょうか。
傍聴席から、国民の税金で仕事をしているのに、国民に所属を言えないとは何事だと怒りの声があがりました。きわめて同感。

コミュニケーションの出発点は相手を知ることです。言いかえれば、自らを開くことです。
それを拒否しているのはコミュニケーションを拒否していることです。
この3人はよほどの悪行を重ねている人なのでしょうか。
あるいは悪いことをしているので自らの所属を明らかにできないのでしょうね。
そうは見えませんでしたが。
きっと誇りのない仕事をしているのでしょうね。同情しなければいけません。
それにしても国を代表するとはどういうことなのでしょうか。
それをなぜ誇りにできないでしょうか。
これが今の政府の実態ですね。

裁判が始まる最初に、北沢さんと弁護人が裁判官に国側の3人の所属省庁を明らかにしてほしいと頼みましたが、判事は、そう言う申し出があったことを記録します、と回答するだけでした。
この段階で私は日本の裁判は腐っていると思いました。そこにいるのは人間ではないのです。サルでも裁判官はつとまるのです。知的レベルと人間的なレベルの低さにあきれました。彼らの子供たちは不幸ですね。彼らに裁かれる被告も不幸ですが。
パサジェルカをまた思い出しました。

北沢さんの口頭陳述は、残念ながら私には退屈でしたが、これもまた手続き上、仕方がないのでしょうね。すべてが儀式です。前沢さんに聞いたら、弁論は書類でやり取りされのだそうです。北沢さんは10分間の陳述をしましたが、それもほとんどないのだそうです。多子化に次回は15分だそうです。信じられない話です。全く、税金の無駄遣いです。裁判官が忙しいのは仕事をしていないからですね、きっと。やはり裁判員制度は仕事ができない彼らの責任逃れでしかないように思えてなりません。

余計なことばかり書いてしましたが、こんなことをやっていて、平和は実現するのでしょうか。いや、みんな本当に平和を望んでいるのでしょうか。
このごろ、何か空しさだけが覆い被さってきます。
隠居すべきなのでしょうか。

■コミュニケーションできないほどの情報のやりとり  2004年6月15日
昨日の記事は、裁判を傍聴して、まだ怒りの気分が弱まらないうちに、急いで書いて、出先からアップしました。できるだけ生の感想を残したいと思ったのです。
もう少し時間をおくと、気持ちが治まり、きれいに書きかねないからです。

今、読み直しました。
やはり感情的で説得力がありません。
記事自体に、「知的レベルと人間的レベルの低さ」を感じます。余計な一言も入っています。消去したい気分です。私の性格の悪さや欠陥を象徴しています。
これは、ネットやメールの怖さを示唆しているのかもしれません。
手紙だと投函するまでに時間があるので、どこかでストップがかかり、表現が直される機会がありますが、メールは即座に発信できます。まさに瞬時です。私のように、ほとんど読み直すこともなく、発信するタイプにとっては、便利ですが、生々しすぎて誤解や反発を与えてしまうこともあるでしょう。それではコミュニケーションは成立しません。

ネットやメールは、情報伝達量を激増させましたが、コミュニケーションを激減させたのかもしれません。佐世保の事件は、その結果なのかもしれません。コミュニケーションできないほどの情報のやりとりが可能になったのです。

昨夜は大学時代の仲間と会食しました。
そのひとりは、3月まで日本弁護士連合会の事務総長でした。
いまの司法改革に取り組んでいる情熱家です。
そこでの話はCWSコモンズに書きこみます。

■動いていないエスカレータでつまずいたことはないですか 2004年6月16日
止まっているエスカレータに、なぜか2回乗りました。
もちろん動いているものと思って乗ったのです。
危なくつまずきそうになりました。
2回ともです。
動いていないのに気づいて、歩き出したのですが、おかしな気分で、うまく歩けません。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、嘔吐感に襲われました。
実に不快で、めまいがして、自分が頼りないのです。
動いていないのに、私の五感は動いているように受け止めているのです。
動いていないエスカレータは、私の頭の中には存在していないのかもしれません。

人間は、事実を見るのではなく、思い込んでいるイメージを見ていることがよくわかります。
みんな思いこみで生きていることを、この頃、強く感じます。

一昨日、大学の同窓生仲間で会食をしましたが、
みんなそれぞれが創りあげた相手と話しているような気がしました。
それぞれが思っている「私」と私が自覚している「私」とはかなり違います。
私が思っている「相手」と、その人が思っている「自分」とも大きく違うのでしょうね。
まさに人は、付き合いたい相手を勝手に創りあげて、付き合っているのでしょうね。
時にそれが破綻するわけです。

コミュニケーションなど、できるはずがない。
私が若いころ、書きたかった小説のモチーフは、「ディスコミュニケーション」です。
ちなみに表題は「メビウスの男」でした。

■参議院選挙への関心の低さ  2004年6月17日
マスコミによれば、6月の参議院選挙への関心は低いそうです。
争点がないためだそうです。
「争点がない?」
イラク派兵も年金も、争点ではないのですかね。
日本にはジャーナリズムは不在ですね。能力がないのです。
それを争点にする政治家もいない。志がないのです。

イラク派兵も年金も国論を二分した大きなテーマです。
政治家は、それらを自分の欲得のツールにしたために、争点になりませんでした。
ジャーナリズムは、それを表層的な話題にして消耗させてしまいました。
残念です。

国民の半分が異論をもっている大きなテーマがあるのですから、
国民のほうを向いて、一緒になって行動を起こせば、流れは変えられます。
岡田さんも永田町から出てくれば、世界は変わるのです。
脱永田町を標榜しながら、国民のほうに目を向けない岡田民主党は、やはり小泉自民党と同じに見えます。
万一、民主党が勝っても、同じ政治が続くと思うと、
たしかに選挙には無関心になりますね。

しかし、変化を起こさなければいけません。
バタフライ効果が起こることを期待して。
みなさん、参議院選挙には投票に行くように、まわりに働きかけましょう。

■オブコニカの攻撃 2004年6月18日
先週末に庭の草花の攻撃を受けて、皮膚に炎症が広がっています。
痒くて、夜に目が覚めるくらいです。顔にまで飛び火しだしました。
皮膚科の医院にいったら、オブコニカに触らなかったかと言われました。
オブコニカは外来の桜草です。
あまり記憶にありませんが、いずれにしろ草木との接触によるかぶれです。

オブコニカはやさしそうな花です。
とてもそんな毒性を持っているとは思えません。
しかし、彼らにとっては、自らを守るための反応なのでしょうね。

自衛と攻撃はコインの裏表です。
子どもの殺傷事件やイラク事件に、どこかでつながっていそうな気がします。
どちらから考えるかで、事態は全く別の見え方になります。

薬を飲んだり、塗ったりしていますが、皮膚の炎症はまだ変化なしです。
1週間くらいはかかるそうです。
気が萎えていると、次々と不幸がやってきます。

■「常識」の呪縛からの自己解放 2004年6月19日
17日の記事へのコメントを坂谷さんからもらいました。
そのコメントを材料にさせてもらって、
私の生き方の根底にある考えを少し書かせてもらいます。
坂谷さんのコメントには直接答えていないのですが。

坂谷さんは次の2点を書いてくれました。
@ 日本の少子化がすすみ、逆ピラミッドの人口構成では、改革するとなれば、年齢層により、どんな改革でも不利益をこうむる人が出てきます。「年金改悪反対」だといっても、どのようにするかを具体的公約なり改革案になると、総論賛成、各論反対的状況になります。
A イラク派兵についても、「自衛隊を撤退させることで、日米案を基軸とする安全保障はどうなるのか、石油がこなくなったら、どうするんだ。」という恫喝には、沈黙せざるをえない、そんな構造があるのではないでしょうか。

このコメントには賛成です。それを前提に読み進んでください。

子どもの数が減れば、年金の保険料を上げ、給付額を減らさないといけない、という発想に、私は間違いを感じます。子どもの数が減るから年金の運営がむずかしくなるというのは、今の年金制度を前提にした発想です。それを変えるのが「改革」です。
日本の改革の多くは、行政改革も企業改革もすべて、大きな枠組みを変えるのではなく、制度をいじるだけですから、成功しないのだと思います。
年金についていえば、少子高齢化社会における年金のあり方を考えればいいのです。たとえば、社会的引退時期を70歳にすればいいのです。私の友人は、63歳にして仕事をしていない人がたくさんいます。彼らは働けないのではありません。社会的に「働く世界」から出されただけです。そして、その一部はNPOなどで無償の仕事をしています。それが悪いわけではありません。しかし、彼らはまだ年金保険料を払える生き方もできるのです。そして、それが幸せかもしれません。
壮年時代に徹底的に過剰な労働をさせる仕組み、あるいは本当に役に立つ仕事をせずに役職だけで高給をとる仕組み、そうした仕組みを変えなければなりません。
つまり、年金制度が問題なのではなく、社会のあり方、働き方、支え合い方が問題なのです。
暴論であることはわかっていますが、ともかく、子どもの数が減るから年金保険料を上げ給付額は減らさなければいけないという常識から解放されなければいけません。

「自衛隊を撤退させることで、日米案を基軸とする安全保障はどうなるのか、石油がこなくなったら、どうするんだ」という発想にも、いくつかの呪縛があります。
日米安保体制がなくなったらどうなるか、石油がこなくなったらどうなるか。やって見なければわかりませんが、たいした問題は起きないのではないかと思います。いま起きている「たいした問題」に比較してですが。
これまた暴論ですが、大切なのは、変化を恐れて変革に挑戦しないことです。
いわゆる「ゆでがえる現象」です。
「常識」の呪縛から自由にならなければいけません。

先日、大学の同窓生に会った時に、
「佐藤の常識は社会の常識とは違うから」
といわれました。
しかし、その私の常識も少しずつ社会の常識になってきたものもあります。

常識とは、その社会で生きやすくするためのルールだと私は考えています。
しかし、今やそのルールを根本から見直さなければならない時代になったのです。

日米関係が壊れても北朝鮮は責めてこないでしょうし、
石油がこなくなっても、対応はできるでしょう。
困ったらみんなで工夫すればいいのです。
額に汗して働いている生活者には、そのくらいの知恵があると確信しています。
私は飢え死にするかもしれませんが、もしそうならば、私がしっかりと自活していなかったためです。諦めなければいけません。

■党首会談 2004年6月20日
NHKで党首会談が放映されました。
用事があったのですが、出発を遅らせてしっかりと見せてもらいました。

感想を一言で言えば、コミュニケーション不在の空しい会議でした。
それぞれが単発的に言いたいことをいい、議論にならないのです。
コーディネーターの問題もありますが、とりつく島のないほど、みんなコミュニケーション志向が欠落しています。
みんな、自分の党の姿勢を見せるための場と捉えているのでしょうが、そうした姿勢からは新しいものは創発されません。それでは会議にはなりません。

いいかえれば、5党首とも、国民のほうを向いているのではなく、自党のことしか考えていないような印象を受けました。
国民を意識した発言を、だれからも聞けませんでした。
小泉首相は相変わらず、質問には答えずに、理屈では正しい一般論的な言葉の羅列を重ねていましたが、もしかしたら彼は本当に「善意」で語っているのかもしれないと感じさせるほど、内容のない話でした。内容がないだけに国民には理解されやすく、それが小泉人気の秘密なのかもしれないと改めて実感しました。知識も思慮もない人ですから、迷いもなく反省もなく、かえって堂々としているのです。国民にはきっと受けるでしょう。
あとの4人は、独裁者に異議申し立てする無能な評論家という構図です。
裸の王様と小賢しい知恵者のすれ違いを1時間見せられてしまいました。

国民の目線をもたない限り独裁者や権力者には勝てるはずがありません。
なぜなら、自らもまた、独裁者のミニ版になっているわけですから。
岡田さんが、もし脱永田町を目指すのであれば、こんな馬鹿げた対応をすべきではないでしょう。
私が発言にわずかながら共感できたのは、共産党だけですが、共産党は全国的なシステムがあるのですから、もっと違った戦略があるはずです。党首会談も、相手の土俵ではなく、もっと自分の土俵を用意し、実際の全国的実践を背景に実践的なコミュニケーションを目指すべきです。

責めあうだけの話し合いではなく、
どうしたら年金制度の改革を進められるか、
どうしたらイラク復興に役立てられるか、
そういうテーマで、もっと共創的な話し合いができないものでしょうか。

責めあいからは何も生まれません。
小泉首相を相手にして、いくら議論をしても意味はありません。
彼には話し合おうという意思はたぶんないのです。
そろそろそれに気づくべきです。
以前ホームページ(CWSコモンズ)に書いたように、
小泉首相はクーデターを起こしたのですから、そもそも話し合う素地はないのです。

■自然の力 2004年6月21日
台風です。
湯島のオフィスで空を見るのが、私はとても好きなのですが、
今日の空はとても悲しい灰色です。
昨日の真夏のような空とは全く違います。
私の気分も、昨日とは全く違います。
午後からは雨が降ってきました。

自然の力は大きいです。
自然の大きな力の前では、人間は微力な存在です。
「沈黙の春」の著者であるレイチェル・カーソンは、
環境が、動植物の形態や習性をつくりあげてきたと言った後で、こう書いています。

地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、
生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものに過ぎない。
だが、20世紀というわずかのあいだに、
人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。

この下りが、私をエコロジストに引き込んだのですが、
数年前から少し疑問を持ち出しています。
CWSコモンズでもいつか書きましたが、
宮崎の綾町の照葉樹林に出合ったのが契機です。
結局は自然の前では、人間などは小さな存在だと思ったのです。
目前に広がる照葉樹林の迫力にただただ圧倒されました。

30年ほど前に、ベトナム上空を飛行機で飛んだ時に、
ベトナム国土がまさに砂漠のように見えた記憶があります。
米軍の焦土作戦は自然を破壊したのでしょう。
しかし、まあ自然の尺度から見たら、そんなものは瑣末なことだったのかもしれません。

こういう考えが間違っていることは自覚していますが、
豊かな自然やパワフルな台風をみていると、
なぜか環境問題への取り組みが小賢しく思えてなりません。

風が強くなってきました。
わくわくします。
私は台風が大好きなのです。
急いで帰って、台風を満喫します。

■情報はだれのものか 2004年6月22日
「知は力」といったのはベーコンだったでしょうか。
しかし、実際には「情報」こそが力です。
いや、正しくは、その情報のもとにある事実こそが力です。
事実をどう「情報」化するか、
そして、その「情報」をどう使っていくか。
それによって、世界は変わってきます。

情報社会では情報はもはや隠せません。
しかし、情報が広がっていくには、今の段階でもまだ時間がかかります。
その時間差を利用してきたのが企業であり政府でした。
今もなお、その延長で行動している人がほとんどです。

その時間差を埋める動きのひとつが、内部告発です。
名前がよくないですが、要は情報活動を支援する活動です。
三菱自動車の場合、ちょっと遅きに失しましたが、
もっと早く情報が公開されたら、会社にとっての被害も少なくなったはずです。
今ではもう遅すぎます。

イラクを破壊した後で、大量殺人兵器がなかったなどといっても取り返しはつきません。
死刑を行使した後で無罪が立証されてもどうしようもありません。

意思決定の判断基準になるような情報(事実)を後から出してくる、最近の政府のやり方が問題になっています。
いまなお各地で行われている悪徳商法と同じやりかたです。
確かに問題です。
しかし、政府の責任者がその情報に触れる前に、情報を知っている人がいるはずです。
問題は、その人がどう行動するかです。

組織活動のなかで得た事実認識(情報)はだれのものでしょうか。
たとえば出生率のような、個々の事実の集積結果は、その情報を得るための仕組みをつくった人のものでしょうか。もしそうであれば、この情報は国民に所有権があると言っていいでしょう。
三菱自動車のクレーム情報はだれのものでしょうか。その情報によって深刻な被害を受けるかもしれない人には権利はないのでしょうか。
医師会が公表を妨害しているフィブリノゲン納入先の情報はだれのものでしょうか。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/05/post_12.html

事実をどう情報化し、いつ発表するか。
それが、人命に関わることもあり、歴史を変えることもあります。
情報ガバナンスの問題はもっとしっかり考えて行く必要があります。
「知る権利」は民主主義国家の基本です。
情報が共有化される社会に向けて、少なくとも情報所有権の考えを改める時期に来ているように思います。これはソーシャル・キャピタルの議論にもつながります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/sc2.htm/

あまりに情報を私物化し、小賢しく操作している政治家たちに怒りを感じます。
お上意識をそろそろ捨てないと、革命が起こるかもしれません。
不幸なことですが。

ちなみに、
企業における情報参謀(CIO:Chief Information Officer)が話題になったことがありますが、定着しませんでした。組織内部志向ガ強すぎたためです。日本においては、組織のコミュニケーション戦略や危機管理に、社会的視点がないですから、結局はこれまでの経営手法のサブシステムにしかならないのです。
社会的視野で情報問題を考えたら、全く違うスタイルになるはずです。そして、きっと、社会にとっても組織にとっても、win-winになるでしょう。組織は社会につながってこそ、発展していきます。
情報の問題を考える場合は、基本的な視座を社会に置かなければいけません。
情報格差で利益をあげたり、支配したりする時代は終わろうとしているのです。

■法の規範性と権力性   2004年6月23日
携帯電話を使用しながら自動車を運転することを禁ずる法律が成立しました。
しかし、相変わらず携帯電話しながらの運転を見かけます。
今日も帰りの狭い道で見かけて、ついつい横に逃げました。
ナンバーを記憶して、法律執行責任者に伝えたい気分です。
電話しながらの運転は減っているのでしょうか。
どうやって罰せられるのでしょうか。
多くの場合、処罰されない行為が罪とされている法とは何でしょうか。
目撃情報を警察に言っても、取り上げないでしょうね。
つまり、これは警察にまたひとつ気分で罰することができる手段を与えただけの話かもしれません。

スピード違反にしろ、路上駐車禁止違反にしろ、おそらく違反者に比べて、処罰を受けた人は少ないでしょうね。違反しても多くの場合、咎められない法とは何でしょうか。そして、咎めるかどうかを決めるのは、「公権力」を持っている警察だけというのが、法の本当の意味でしょうか。どこか違和感があります。
それ以上に、こうした法の存在が、法の規範性を否定し、社会を混乱させているのです。
法に違反しなければ出せない速度が出せる自動車まで作られているのも納得できません。

そう言えば、我が家から自動車で15分くらい行ったところに守谷飛行場というのがあります。利根川の河川敷の私有地に個人が開設している飛行機クラブです。
河川敷の場合、たとえ私有地であっても、勝手に建造物を作ったりしてはいけないのですが、そこでは10を超える建造物がつくられ、なんと廃車されたバスも数台放置されています。これは法律違反だそうです。所有者も認めています。
しかし、再三にわたる管理者(国土交通省ですが)の撤去指示にもかかわらず、放置されたままです。穴を掘って(これも禁止されています)、ゴミが捨てられているような状況にまでなってきています。所有者は違法であることが、犯罪だなどとは思っていないようです。なにしろ違反しても罰せられない法律は山ほどあるのですから。

法とは何か。
今の日本では、いざという時に、処罰するためのツールなのかもしれません。
いざという時とはいつか、また誰が処罰するのか。
これが問題です。

国家に盾突く時が「いざの時」。
処罰するのは、顔のない国家。
これでは、法は規範ではなく、支配権力のツールでしかありません。
ですから、警察は内部が壊れてきたのです。

法は、さまざまな人たちが、お互いに気持ちよく暮らすためのみんなのルールであってほしいです。そして、もし罰則法であれば、公平に適用される状況をつくってほしいです。破っても罰せられない法は見直したいです。

電話をかけながらの運転をみたら、どこかに通報する仕組みをつくれないでしょうか。
監視しあう、いやな社会だなと思われるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか。
悪いことには目をつぶらずに、きちんと告発していくことが、もし嫌な社会なのであれば、きっとその告発の基準が間違っているのです。
嘘の告発や嫌がらせが頻発すると思うのであれば、それは社会を信頼していないということです。
社会を信頼せずに、社会をよくすることなどできません。
最初の一歩は、常に相手を信頼することから始まるのですから。

■沖縄「慰霊の日」  2004年6月24日
昨日、ニュースで、平和祈念公園の戦没者追悼式をみました。

平和祈念資料館の壁に書かれていた「展示の結びの言葉」を、CWSコモンズに書き込んだことがありますが、それを再録します。

沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは これほど残忍で 
これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです
この なまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか   
戦後このかた  私たちは   
あらゆる戦争を憎み   
平和な島を建設せねば と思いつづけてきました
これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです

2年ぶりに出席した小泉首相はこの言葉を読んでいるでしょうか。

■商業倫理  2004年6月25日
今日、山形市で家電販売をやっている人から聞いた話です。
プラズマテレビが売れているようです。
40インチが80万円くらいで買えるようになったそうです。
しかし、まだ高価な商品です。
ところがクレジットを組むと月額12,000円。
さらに1日だと420円、コーヒー代と一緒ですというと買おうかという気になるそうです。
コーヒー代でプラズマテレビ。う〜ん。
中高年以上の世帯には、2日間の無料貸出をすると購入する確度は高いそうです。
ともかく2日間、見てもらい、その後、ともかく持ち帰るのだそうです。
そうするとかなりの確度で購入の電話が入るそうです。
さてみなさん、
みなさんはどうですか。買ってしまいそうですね。
こうした販売姿勢は、商業倫理からみるとどうなのでしょうか。
効果的な販売戦略というべきなのでしょうか。
いや、それ以上に、
商品を販売するということはどういうことなのでしょうか。
私は経営学者のドラッカーが嫌いです。
なぜなら、彼は「経営とは顧客の創造」と、かつてその著書で語っているからです。
経営が顧客の創造であるはずがありません。
そんなことにも気づかぬ経営学者のことは信頼できません。
そうした経営学者が社会をだめにしてきたのだと私は思っています。
「経営は愛」。それが私の経営観です。
ドラッカーにはとうてい立ち向かえませんが。

■知は利なり  2004年6月26日
知は力のことを数日前に書きましたが、
「知は利なり」というべきかもしれません。
昔からもちろんそうでしたが、最近の状況は私にはかなり違和感があります。

まず航空運賃がわかりにくいのです。
安く買おうと思うと、半額くらいになることもあります。
得をした気分になりますが、いつも損をしている気分にもなります。

最近腹立たしいのが電話代です。
わけがわかりません。まあ年金ほどではありませんが。
たとえば、家庭の電話から携帯電話にかける時、0036とか0077をダイヤルしてかけるとかなりの割引になるそうです。ご存知ですか。
嫌なやり方ですね。ビジネス倫理に反します。
知らない人が損をする社会は、いやですね。
きっとこの制度で損をしている人は、お年寄りでしょうね。
小賢しい知者だけが得をする社会は許せません。

以前のリクルート事件に象徴されるように、
企業情報を持っている人だけが汗もかかずに大金を手にする仕組みは、おそらく今も変わっていないでしょう。インサイダー取引禁止などは制度化されていますが、その気になればいくらでも制度をすり抜けられるでしょう。
情報がもっとどんどんと共有される状況が生まれるまで、そうした状況はなくならないでしょう。それは仕方がありません。

しかし、最近は小賢しい細工で、知っている人だけが得をする仕組みが多すぎます。
しかも、公益性が高いといわれている企業によって行われていることが多いのです。
さびしいですね。

知は利。言い換えれば、利になる知が、知の世界で大きな顔をしているのです。
知の変質です。知が痴になってきているような気がします。

一番の知性は、額に汗して真っ当に生きている人の中にあります。
そうした人がもっと大事にされる社会に戻していきたいものです。

■100円ショップでの疑問  2004年6月27日
取手の東急にあるダイソーの100円ショップに行きました。
この近くでは一番大きな100円ショップだそうです。
実にさまざまなものがあります。
ほとんどの生活用品が揃ってしまうのではないかと思います。
時計や電卓まで100円です。
モノの価格に対する感覚が混乱してしまいます。

今回初めて見つけたものがあります。
娘がスペインから買ってきた、キツツキが上から下りてくるおもちゃ。
女房がギリシアで買ってきた方解石のりんごと洋ナシの置物。
4500円で購入したヴェネチアンのものと全くデザインが同じガラスのお皿。
いずれも我が家にあるものと区別がつきません。

上記の二つは購入して比べて見ました。
全く同じです。
つまり輸入品です。
キツツキはスペインでも100円以上だったそうです。
方解石のりんごも100円では買えなかったはずです。
いずれも大量に購入することで価格を安くしたのでしょう。
それにしても安いです。
フェアトレードになっているのでしょうか。
いやそれ以前に、こういう形で購入することによって、
それらの国の経済システムや文化を壊すことにはならないでしょうか。
悪評高い日本の海外収奪型ビジネスになっていなければいいのですが。
と思いながらも、買ってしまいました。
長江の石も100円でしたので、我が家の沢蟹用に買ってしまいました。
消費者は勝手なものです。

22品も購入してしまいました。
100円なら捨ててもいいから買ってしまおうと、安直に購買を決定しがちです。
そこにも大きな落とし穴があります。
価格破壊は実は環境破壊でもあるのです。

今日もまた消費者倫理にもとる行動をしてしまいました。
反省です。
しかし100円ショップには、実にさまざまな示唆が充満しています。
大げさに言えば、未来が見えてきます。

■対話ができない首相と連帯できない野党党首 2004年6月28日
参議院選挙の関係で、党首討論が盛んに行われだしました。
しかし、どこも同じ討論で、話の内容に深化がありません。
ほとんど意味のない討論かもしれません。
問題は、おそらく三つあります。

まず、小泉首相には討論の意味がわかっていません。
相手の質問の意味を理解できないのかもしれませんが、ほとんどの場合、答えていません。まさに頭脳のない20世紀のロボットのようです。最初にインプットされた話しかできないのです。話に内容がありません。
しかし、時折、追いつめられて表情を見せることがあります。
野党側が、それを契機に対話にもちこめばいいのですが、
次の問題は野党側が連携していないので、せっかくのそうしたチャンスを壊していることです。
もう少し突っ込めば対話が成り立つと思った瞬間に、また自分のことしか考えていないほかの野党党首が論点を変えてしまうのです。
そのおかげで、小泉首相はまた対話しない機械に戻るのです。
3つ目の問題は、そうした構図を変えられない司会者と構成者です。
テーマを絞り込んでのシナリオが用意されていない上に、司会者が役割を果たさないために、ただのがやがやわいわい会になってしまっています。土曜日のニュース23の筑紫さんが一番ひどかったですが、彼は討論の意味を理解していないのです。
日曜日の報道2001の司会はとてもよかったですが、それでも全体のシナリオがつめられていないせいか、議論はやはり拡散しました。残念でした。これは司会者の責任ではないでしょう。竹村健一のコメントも今回はちょっと趣旨不明でした。

いずれにしろ、どこでも同じレベルのやり取りで、議論が深化しないのです。
つまりここから見えることは、国会の審議も成り立っていないという推測です。
彼らは普段から議論していないことがよくわかります。
国会崩壊が起こっているのです。

しかし、そうした流れの中で、民主党の岡田代表だけが討論を志向していました。
視野の狭い他の野党党首のおかげで、その意図は邪魔されていましたが、思いは感じました。時折、我慢できずに防衛的な発言もありましたが、全体的には具体的に小泉首相に答を迫ろうとしていました。
民主党に投票するつもりはなかったのですが、この2日の党首のやり取りを見て、私は民主党に投ずることにしました。
共産党や社民党は、もっと大きな歴史認識を持ってほしいです。

■殺し合いを止められない社会、止めない社会  2004年6月29日
イラクの殺し合いが止まりません。
毎日のように報道される死者のニュースに、だんだんと慣れていく自分に気づいて、ぞっとします。
この解決策は何でしょうか。

たまたま20年前に書いた論文が出てきました。
「21世紀は真心の時代」。
毎日新聞社の懸賞論文で入選したものです。
そこに、私なりの解決策が書かれていますが、しかし時代はそうはなりませんでした。
この論文を、次の更新時にCWSコモンズに掲載します。ぜひ読んでください。

イラクの惨状は、理由があります。
しかし、私にとって、もっと許せないのは、脱北者を北朝鮮に強制送還する中国の対応です。日本も、つい最近までは同じ姿勢だったと思いますが。
最近、話題の野口さんの事件で中国政府に逮捕された脱北者の人たちは、おそらく北朝鮮に送還され、もしかしたら「死刑」になっているかもしれないといわれています。北朝鮮の「死刑」は「リンチ」かもしれません。
送還したら殺されるかもしれない、と知りつつも、送還するということはどういうことでしょうか。
人間の感情として、どうしてそんなことができるのか。
イラクの「テロ」集団による殺人とどこがちがうのか。
子供たちにもわかるように説明してほしいものです。

もっと違和感があるのは、
北朝鮮の体制を知りながら、国家としての正当性を認めていることです。
テレビで報道されている北朝鮮の社会状況がもし本当ならば、
手をこまねいている私たちもまた、殺人幇助の咎を受けなければいけません。

殺人に加担しないと生きていけない時代の不幸を嘆かずに入られません。

■リゾーミックに絡み合うホームページ  2004年6月30日
ふなばしで多角的な活動をされている、コミュニティアート・ふなばしの下山さん が、最近、コメントしてくれないので、とても気になっていました。
ホームページで自らをさらけ出すことのモチベーションは、私の場合は、反応です。
今日も、高知県の八木さんからメールをもらいましたが、思っても見ない人から反応があるとうれしくなります。
つながりを実感できるのです。
下山さんは、このブログに直接コメントしてくれる一人です。
しかし、私がちょっと消化できなかった内容のコメントを最後に、ぷつんとコメントがなくなっていたのです。
そこで下山さんの「鳩の目日記」をのぞいたりしていたのですが、相変わらず多方面に活動しています。
安心したり、ちょっと気になったりしていたのです。
こんなところもホームページの面白さです。
今日、久しぶりにコメントがきました。
私も鳩の目日記を見に行きました。
そうしたらこんな記事がありました。
「NPOと商店街のコラボレーションはうまくいっていない例が多い、と佐藤修さんが以前いっていらしたが、財力も権力もない我々は足で稼いで築く信頼関係がすべて、と常々から心がけているせいか、ウチの場合はなんとかうまくいっているようです。」
うれしいことです。とてもうれしいです。
ところで、この記事の「佐藤修さん」をクリックするとCWSコモンズのホームページが出てくるのです。
この絡み合い、すごいですね。
まさに私が目指すリゾーミックなホームページです。
そしてこの記事もまた、下山さんのブログにトラックバックしたのですが、
初めての試みであり、うまく行くかどうか不安です。
このやり方を教えてくれたのが、ノーマライゼーションねっとの矢辺さんです。
彼のブログにも、私の言葉を引用してくれています。
こうしたホームページの絡みあいから、次はどういうつながりへと進化していくのでしょうか。
楽しみです。
情報の流れ方やつながり方の進化はすごいです。
ところで、NPOと商店街ですが、
9月に山形市でリサイクル商店街サミット山形大会を開催します。
ささやかに私もかかわっています。
やはりNPOをまきこみたくなりました。
また案内をしますので、よかったら遊ぶに来てください。
商店街の若い世代が楽しみながらがんばっています。

■「食道楽」の人 村井弦斎 July 01, 2004
黒岩比佐子さんが3年かかって書き上げた本を贈ってきてくれました。
岩波書店から出版された「『食道楽』の人 村井弦斎」です。
またCWSコモンズのブックのコーナーで紹介させてもらいますが、本格的な評伝です。

まだ読んでいないので内容紹介はできませんが、
とても安心できる本だなと感じました。
本は持ってみるとすぐに相性がわかります。
そばに置きたくなる本とただ読めばいい本とにわかれます。
帯もとても正統的で安心できます。
最近の本はインクのにおいがあまりしないのが残念ですが、
岩波書店らしい、いい作りです。

村井弦斎といっても、おそらくみなさんも知らないでしょう。
書店にもそうは置かれないでしょうから、皆さんの目にはなかなか入らないでしょう。
しかし、こうした正統的な書籍の出版はみんなで応援したいです。
まずは名前だけでも知っておいて下さい。
できれば、次の日曜日に更新するCWSコモンズのホームページでの紹介記事も読んでください。
もし私が読めない場合は次の週になりますが。

明日、我孫子市の図書館に購入希望を申し込んでこようと思います。
 
■フセインの主張 July 02, 2004
フセインの裁判が始まるようです。
真実がもう少し見えてくることを期待します。
この種の裁判は、「裁く」ことよりも、「真実を明らかにし繰り返しが起こらないようにする」ことのほうに意義があると思います。そうなってほしいものです。そうなれば、歴史は変わるでしょう。
テレビで見るフセインの主張は、いろいろな問題を提起しています。
私にはわからないことばかりです。

「私はイラクの大統領だ」と言う主張に対してどう考えればいいのでしょうか。
どういう経緯の中で、彼は大統領でなくなったのでしょうか。
イラクの憲法ではどうなっているのでしょうか。
憲法よりも米国占領軍の意思のほうが優位にあるのでしょうか。
戦争に負けたから政府が崩壊したと考えるのでしょうか。
しかし、そもそもイラクは戦争をするといったのでしょうか。
ただ米軍が攻めただけだとしたら、侵略でしかありません。
イラクのクエイト侵攻との違いはなんでしょうか。

たしかにフセインは独裁者で、人民に圧政を敷いていたかもしれません。
それといまの小泉首相とどこが違うのでしょうか。
殺人が容認されていたところが違いでしょうか。
たしかに私刑的な死刑が行われていたような報道はあります。
でもそれは本当なのでしょうか。
私たちが住んでいるのは「総理大臣が虐殺を公然と支持している国」なのですから、というコメントも、寄せられています。
もしそうなら、どこが違うのか。
この国はまた、自殺が3万人を超えた国でもあります。
自殺は間違いなく「政治」の結果です。
どうもよくわかりません。

金正日は国民だけではなく、隣国の国民を拉致するという、国を超えての犯罪を行いました。
したがって他国から攻撃されても仕方がないと思うのですが、
その犯罪者には援助を与え、その体制を支援し、
一方の独裁者には暴力的に国家を破壊して、大統領の地位を剥奪する。
どうも頭が整理できません。
国際法をもっと学んでおけば良かったです。

フセインが正しいといっているわけではありません。
ただただ、わからないのです。
フセインとブッシュと小泉。みんな同じに見えて仕方がないのです。
もしそうであれば、裁かれるのはみんなであってほしいです。
しかし犯罪者をトップにいだく国家や組織があまりにも多すぎます。
国家や組織のもつ本質なのかもしれません。
指輪物語の指輪のようなものですね。

■問題の根源と情報社会の本質  2004年7月3日
またか、と思う報道です。
核燃料サイクル費用の比較が10年前に試算されていたにも関わらず、経済産業省や「有識者」は、その存在を否定していたというのです。
こうした「嘘をつく事件」は毎日のように報道されています。
前にCWSコモンズで、
「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002/2/7)」
というメッセージを書いたことがありますが、時代はますます「嘘つき時代」に向かっています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m2

社会における、ほとんどすべての問題の根源は情報基盤の違いにあります。
そして、その情報基盤の共有化を妨げるのが「嘘」の存在です。
つまり、嘘をつくことから、ほとんどすべての問題が始まるのです。
そして、嘘を見逃すことで瑣末な事件が大きくなっていくのです。
夫婦の離婚も三菱自動車の事件も、イラク事件も戦争も、です。

不幸なことは、情報基盤の違いが、経済利益や政治権力の源泉になることです。
そのために、故意に嘘をつく人が後を絶ちません。
その利権に群がって、嘘を見過ごす人も多いのです。

今、急速に進んでいる情報社会の最大の特徴は、情報共有化を促進することです。
つまり、嘘をつけない社会が、情報社会の本質です。  
いまは、そこへの過渡期として、さまざまな事件が起きているわけです。
三菱や霞ヶ関のような大きな組織は、まだその本質を理解できていません。

朝日新聞によれば、
「(その)資料は、1994年2月4日に開かれた旧通産省の総合エネルギー調査会・原子力部会作業部会の非公式会合に提出された。

会議の議事要旨によると、通産省は試算の公表を提案したが、電力会社や研究開発期間の代表から〔中略〕(公表に対して)慎重発言が相次いだ。結局、こうした意見に配慮して試算の公表は見送られた。

ここから2つのことが読み取れます。
そうした部会のメンバーは、おそらくいわゆる「有識者」です。
そうした「有識者」は嘘をつく種族だということです。
実はその呼び方にすでに含意されているのですが、
自らが持っている「知識(情報)」を制度のために、つまり自己利益のために秘匿するという性向があるのです。情報を独占することで、自らのアイデンティティを守るのが「有識者」です。情報の共有を加速させようとする「内部告発者」とは反対の性向を持っています。

もうひとつは、会社の事情が最優先される経済優先社会の現実です。通産省は電力会社に勝てません。医師会に勝てない厚生省と同じです。要は、経済、つまりお金には勝てない構造になっているということです。結局は、それが会社や政府に損害を与えることは三菱自動車の事件やオゾン戦争事件で明らかですが、その時には誰かが利益を得られるのです。

知りながら情報を公表できない組織人の「霞が関官僚」の多くは辛い立場です。だから辞めてしまう人も少なくないのかもしれません。そういう状況にしてしまう、組織のあり方は問題です。組織の機密管理のあり方は問い直されなければいけません。

組織人ではない「有識者」はどうでしょうか。彼らの多くは、発言できるはずです。
知っていながら情報をみんなに知らせない「有識者」にはモラルというものがあるのでしょうか。

出生率の問題もそうですが、知っていながら情報を漏らさなかった人たちがたくさんいます。そうした人たちの名前を公表したらどうでしょう。組織を守った「勇気」ある人という捉え方もできます。責める必要はないかもしれません。
しかし、組織を超えて、もっと大きな組織のために情報をもらしてしまう「勇気」も、これからは必要です。
みなさんはどちらの「勇気」に拍手を送りますか。
またみなさんならどうしますか。
問題の根源は深いです。

■ショッピングセンターの賑わい 2004年7月4日
近くに大型ショッピングモールができました。

その一画は、以前から大型店舗が集積していました。
家電のコジマとヤマダ電機。家具のニトリ。スーパーのジャスコ。ホームセンターのケーヨー。他にも20店舗くらいが集積しています。そこにさらに、大型ショッピングモールです。そこにはホームセンターもスーパーも入っています。

こうした巨大なショッピング空間ができることは、消費者には好都合です。同業が隣地しているために、価格は安いですし、さまざまな店舗があるので、ほとんど何でも間に合うので便利です。それに、レストラン関係もさまざまありますし、それなりのショッピングの楽しさも味わえます。

こうやって、どんどん商業空間は大型化していきます。
大きいところに人が集まり、人が集まると、元気になって、商品の鮮度も高まります。
しかし、どこかに落とし穴がありそうです。

私の近くに、イトーヨーカ堂系のエスパというスーパーがあります。
近くに、いくつかのスーパーがありましたが、そこが一番大きかったこともあって、一人勝ちになってきました。我が家もほとんどがそこで購入するようになりました。生鮮食品の鮮度もよかったです。店内に競合する店舗も入っていました。
しかし、そのため、近隣のダイエーや東急が閉鎖になりました。
その途端、エスパの価格が高くなりました。
さらに、近くに大きなマンションが建設され、数百世帯が一挙に転入してきました。需給関係が大きく変わりました。
価格はさらに高くなり、店内競合店も閉店し、品質も悪化してきています。
しかし、もはやそれに勝つだけの大型店舗は近くにはありません。

大型化は本当に消費者や社会にとって望ましいことなのでしょうか。
9月に山形市で商店街のサミットをやる予定です。
そうした問題も少し考えて見たいと思っています。

■生産者と消費者がリスクをシェアする経済 2004年7月5日
梅雨だというのに、夏のような天気が続いています。
雨が少ないのが気になります。
昨年は雨が多く日照が少なかったので、果物は美味しくなかったですし、お米も不作でした。気候に大きく影響される農業や果実栽培は大変だったようです。
今年は、その反対で、日照も多く、今のところ果物は美味しいです。
しかし、今年の夏はどうなるのでしょうか。

果物や農作物が、天候に振り回されるのは仕方がないことです。
それを克服しようと、さまざまな努力が行われてきました。
身勝手な自然に負けない品種改良も進んできました。
その延長に、農業の工業化がありました。

一見、これはいいことです。
農業生産者にとっても、消費者にとっても、いいことのように思います。
しかし、私はここにこそ大きな問題があるような気がします。
もう一度、自然とともにある食材のあり方を考える必要がありそうです。

生活者は、すでにそうした動きを身体的にはじめています。
身土不二、地産地消、自家栽培、生産者とのつながり志向。
次は、自然に影響される労働成果のリスクをシェアすることかもしれません。
冷夏などによる不作のダメッジは、消費者も負担する仕組みができれば、食の安全性はさらに進められるかもしれません。
生産者のコストと消費者のコストの取り合いの構図が、三菱自動車の悲劇を起こしたことから学ぶことがたくさんあります。

■殺人罪の償い方   2004年7月6日
今日は暴論を書きます。

16年前に殺人を犯した人が10年の刑期を終えて、出所し、また同じような事件を起こすということが起こりました。
殺人事件を起こした人の再犯率は高いそうです。

やりきれない気がしますが、刑罰のあり方を見直すべき時期だろうと思います。
「眼には眼を」がやはり原則であるべきです。それも最小の、です。
殺人に対しては、死刑よりも重い刑罰を与えるべきでしょう。
もちろん、冤罪や特殊な事情を無視しての、原則の話です。

社会を維持していくためには、子供が納得できる原則を大事にすべきです。
そして、子供の犯罪に関しては、もし子供を特別扱いするのであれば、親を罰するべきです。親を罰しないのであれば、子供も厳罰に処すべきです。今の状況は、論理整合していません。
人を罰するのではなく、罪を罰するとは、そういうことだと思います。
必殺仕事人の中村主水やチャールス・ブロンソンの「狼よさらば」シリーズのポール・カージーの人気は、人間の素直な気持ちの現れです。

それはともかく、私が奇異に思うのは弁護士の役割です。
弁護士が弁護すべきは、被告ではなく、社会ではないかと思います。
不法に裁かれない社会を守るために、弁護制度があるのであって、個人としての犯罪者を守ることが目的ではないはずです。
殺人の罪を問われている状況を正すことと、明確な殺人者をかばうことは同じではありません。その境界は難しいですが、明確な場合もあります。

「犯罪者の人権」という表現がありますが、犯罪者はその犯した犯罪の大きさによって人権が考えられるべきです。人を自分の都合によって殺した人に対しては、生きる権利はよほどの条件がなければ認められるべきではありません。
そしてまた、犯罪者を厳しく罰することこそ、犯罪者のためになることもあるのです。
そこを勘違いしているような気がしてなりません。
弁護士のミッションがいい加減に考えられているように思います。
たとえば、オウム事件の弁護士の言動には大きな違和感があります。

ついでいえば、検事が守る対象もまた、社会です。
権威や制度ではなく、社会です。

法は、誰のためにあるのでしょうか。

大学(法学部でした)でしっかり講義を聴いた先生が二人います。
憲法の小林直樹さんと刑法の団藤重光さんです。
卒業して40年ですが、その講座がとても懐かしいです。
日本が法治国家であるということの意味が、最近ちょっとわからなくなってきました。

■選挙に行きましょう  2004年7月7日
11日が選挙です。
私たちの生活を大きく方向づける選挙だと思います。
いろいろ迷うことはありますが、
ここは大きな視点で、ぜひ自分の未来を選択したいものです。

ちなみに、11日に用事がある人は、最近は簡単に事前に投票ができるようです。
ぜひ市役所などに行って、投票してください。

選挙結果がどうであれ、私たちがしっかりと考えて投票するのであれば、
納得できるはずです。
いずれにしろ、歴史を方向づける選挙に参加できるのです。

最近の政府のやり方を見ていると、いかにも選挙対策とつい詮索したくなりますが、
そんなことでごまかされるようならば、それもまた仕方がないことです。
しかし、そんなことにはならないでしょう。
楽しみです。

■プロ野球への違和感  2004年7月8日
私はプロ野球にほとんど関心のない人間です。
一度も観戦にいったことはありません。
そういう人の意見として聞いてください。

いよいよ1リーグ制に向かっての動きが現実のものになりました。
しかし、選手やファンを無視した、オーナーたちの密室会談で進められているためか、批判が多いです。たしかに、老人たちにいいように扱われているような気がします。それに対して、ファン離れが進まないかなどという、内容のないコメントが多く、建設的なコメントはあまり聞けません。

選手たちは不安でしょう。反旗を翻したくても、翻しようがありません。自らの首をしめかねないからです。選手会の古田さんのコメントは、極めて良識的で、共感できます。しかし、どうしたらいいかは難しい問題です。

私がプロ野球に対して違和感というか、反感を持つ点は、二つあります。
まずは優勝時のビールのかけあいに象徴される姿勢です。見ていて不愉快になります。
大げさに言えば、資本主義の悪しき側面を象徴していますが(大きな意味を含意しているように思います)、しかし、それはまあ、たいした問題ではありません。
一番の違和感は、契約金や年俸の高額なことです。
確かに大変な努力と選手寿命の短さなど、説明はいろいろあるでしょう。
しかし、額に汗して働いている人から見れば、夢のような話です。
プロ野球選手だけではありませんが、こうしたタレントたちの契約金の額が話題になるたびに、経済の崩壊を実感します。

しかも、不思議なことに、その高額な年俸をファンが喜んでいることです。
高額な年俸を得る選手がいる一方で、安い給料しかもらえない選手もいる。
しかも、そうした人たちが同じチームを構成している。
権力管理型組織です。
とても人間の組織とは思えません。
金で動機付けられただけの組織にしか感じられません。
そうした組織であればこそ、金の世界を抑えているオーナーたちの私物になりうるわけです。
選手たちは自立した存在ではないのです。
稼ぐための組織の要素でしかありません。そして、選手はそれに甘んじているようにしか思えません。年俸を競いあうことの意味にすら気づいていないのです。

もし高額な年俸の一部が、自らの立場の自立性やプロ野球の発展の正常化に使われていたら、こうはならなかったかもしれません。
現状は自業自得と言うべきかもしれません。

プロ野球だけが問題なのではありません。
お金至上主義の社会の、一つの象徴がそこにあります。
まだまだバブル経済は続いています。

■平和に取り組むことの覚悟  2004年7月9日
新聞では多分報道されていませんが、7月4日に行われた、ワールド・ピース・ナウのピースパレードで事件が発生しました。3人の参加者が逮捕されたのです。
私は最近、参加できていないのですが、メーリングリストで知りました。
なぜ逮捕されたかは、メーリングリストの情報しかありませんが、非暴力をかかげているピースパレードで、こういう事件が起きるのはとても残念です。
私が参加した時には、いつも楽しい雰囲気でしたし、警備の警察官も好意的でした。
しかし、今回は違ったようです。
7月6日には、逮捕された3人の自宅や、WORLD PEACE NOW実行委員会の連絡先である「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の事務所が家宅捜索を受けたというのです。この事実だけで、背景が見えてきます。
早速、WORLD PEACE NOW実行委員会は抗議を呼びかけました。
みなさんもぜひWORLD PEACE NOWのホームページを見てください。
http://give-peace-a-chance.jp/118/pub/040707seimei.html

国家の平和と生活者の平和は対立概念なのです。
個人が平和に取り組むことは覚悟がいるのです。
逮捕や家宅捜査の危険を犯してまで、皆さんは平和に取り組みますか。
私は正直、躊躇します。
三菱自動車の社員も、きっとそうした葛藤に悩み、動けなかったのでしょうね。
さて、どうするか。
答えが出ません。
田舎暮らしをするか、金儲けのビジネスにのめりこむか。
そうしたい気持ちが高まっています。
歳と共に、気が弱くなり、防衛的になってきました。
恥ずかしい限りです。

■税金を湯水のように使う首相のアカウンタビリティ  2004年7月10日
財政赤字といわれますが、私の知る限りでは、中央も地方も、依然、無駄遣いは減っていません。霞ヶ関は、相変わらず形だけのプロジェクトにたくさんのお金を出していますし、助成金はむしろ増えているように思います。

私が一番気になるのは、イラクにしろ、北朝鮮にしろ、
私たちにはわからないままに、税金が湯水のように使われていることです。
そして、その大きな判断基準が、首相の自己利益に拠っているように思えることです。
かつて「外交機密費」なるものが話題になりましたが、
ここ数年の首相官邸が使った費用の内訳は公表されるのでしょうか。
「官官接待」や「議員の公費転用」などが糾弾されていますが、小泉首相の乱費に比べれば、かわいいものです。
企業経営者には背任訴追があり、賠償を要求できますが、
首相には背任と言う概念はないのでしょうか。
かなり高額なお金を使っているわけですが、
少なくとも、その大枠は公表されるべきです。

しかし残念ながら、行政が使う費用実態はなかなかわかりません。
なにしろこれだけの赤字になりながら、倒産もせずに借金がふやせるのです。
実態がわからないようになっており、責任が特定できず、
国民への説明のための数字はいかようにも創れるようになっているのでしょう。

しかし、それを支えているのが、私たち国民です。
いまなお小泉首相をお金ももらうことなく支援している人がいることが不思議ですが、
それは今なお麻原某に帰依する人がいるのと同じことかもしれません。

曽我さん家族のインドネシア報道を見ていて、どうもすっきりしません。
お金で処理し、お金で着飾る文化は、私たち国民の隅々にもう行き渡っているのでしょうか。果たして、それでいいのでしょうか。国民も騒ぎすぎです。関心を持って応援していくのと、騒ぐのとは違います。

私には最近の政府のやり方が、北朝鮮化しているように思えてなりません。
国民も同じです。
国民のレベルに合った首相しか選べないのでしょうね。
多数決原理は、まさに少数者支配のためのツールであることがよくわかります。
反省しなければいけません。

■明るい非暴力マニュアル  2004年7月11日
2日前の「平和に取り組むことの覚悟」の記事に、一輪庵のブログがトラックバックしてくれました。
早速、そのブログを読ませてもらいました。
グサッと来ました。

そこにこう書かれています。

>相手の良心の最善の部分に呼びかけるのが、非暴力的手法というものです。効果はゆっくりしか出てこないかも知れませんが、戦争という暴力で人間が押しつぶされるのはイヤだ、という思いがあるのなら、まずは自分自身が、怒りや憎しみの連鎖を断ち切るよう、少しだけ努力してみて下さい。

そうでした。最近、この心を忘れていました。
心が荒んでいたのです。
島田 理聡さん、ありがとうございました。

今日はコメントを書きません。
もしお時間があれば、一輪庵のブログを読んでみてください。
前後もぜひお読みください。
http://pearldiver.txt-nifty.com/door/2004/07/post_2.html

■選挙結果への失望  2004年7月12日
11日の参議院銀の選挙結果には失望しました。
まず投票率。事前の調査では、必ず投票に行くという人が50%以上いたはずですが、相変わらずのこの低さは何なのでしょうか。もうみんな諦めているのでしょうか。
次は結果です。新聞では自民が負けたとありますが、あれほどのことをやりながらこの結果では、むしろ勝ったというべきでしょう。民主党が伸びたのは、二大政党制のもとで共産党と社民党を吸収しただけの話です。
見方によっては、自民圧勝といえるかもしれません。
そして、テレビでコメントする人たちのひどさにもあきれました。
田原総一郎は論外として、もう少しまともな報道や評論ができないものでしょうか。
選挙はいまなお、金儲けのお祭りでしかないのですかね。

少し期待していただけに、前回に次ぐショックでした。
気力も萎えました。
もう勝手にやったらいいと思いたくなります。
信頼できるのは自然だけですね。
人間社会に期待してはいけません。はい。

ちなみに、二大政党制の意味が、少しは見えたでしょうか。
以前も書きましたが、政党政治はもはや過去のものであり、
なかでも二大政党制は最悪の仕組みです。
全体から発想する時代には意味はありましたが、個人から発想する時代には全く時代錯誤の制度です。

■沢蟹に最近会えません 2004年7月13日
私の還暦の祝いに、家族がミニミニビオトープをつくってくれました。
3年もたつと、それらしい雰囲気も出てきました。
そのビオトープのどこかに、沢蟹と赤手蟹が住んでいるはずです。
といっても、この1か月、会ったことがありません、
放し飼いにしたときは、きちんと住処を作ったのですが、
毎朝、覗きに行っているうちに、いつの間にかいなくなってしまいました。
過干渉だったのです。
しかし、まあどこかに生息しているとかたく信じて、時々餌を与えています。

見えないところに、私の蟹が住んでいるというのはちょっと楽しい気分です。
もっとも、我が家の庭には他にもモグラと土蛙もいるようです。
彼らに食べられてしまったのではないかと家族はいいます。
庭から出て行ってしまったのではないかという意見もあります。
そう言えば、今まで蟹が定着したことがないのです。

しかし、今回は必ずどこかに棲んでいると確信しています。
何か彼らの気を感じるのです。
来春、沢蟹の子どもが庭にあふれてくることを期待しています。

■花の水やり 2004年7月14日
我が家の庭における植物の密度はすごいです。
生物多様性の大切さが叫ばれていますが、とても狭い空間に数百種類の多様な植物が共生しています。平等に支援して行くためには、たっぷりと水をやらねばいけません。
しかも高台のため、風が強いのです。
ですから朝晩の水やりが欠かせません。
私も時々ですが、担当します。

ただ水をやればいいのではありません。
一つひとつの花木の表情をみながら水をやらなければいけません。
作業としては大変ですが、実にぜいたくな時間でもあります。
こうした時間が最近はどんどんなくなってきているのです。

環境問題が叫ばれていますが、
人と自然とのふれあいがなくなったのが最大の問題かもしれません。
花に水をやる時間の幸せはなんともいえません。
毎回、とても幸せになります。
選挙のことなどすべて忘れられます。はい。

■パピルス  2004年7月15日
我が家のミニミニビオトープには時々、パピルスががんばっています。
残念ながら冬を越せたことがないのですが、懲りずに春に購入してくるのです。
土着の花木が望ましいとは思うのですが、パピルスが好きなのです。

そういえば、我が家の庭の花木の多くが、なぜかカタカナの名前です。
カタカナにしたほうが売れるからでしょうか。
それともみんな外来種なのでしょうか。
私の机に置きたくなる花も、どうも最近はカタカナ品種です。

そういえば、カタカナ用語を漢字に変えようという、馬鹿な答申をした有識者委員会がありましたが、あれはどうなったのでしょうか。

選挙で社会がますます嫌いになった私としては、
できるだけおとなしい話題に気を向けていますが、
どうしてもついつい「愚痴」や「批判」が出てきますね。
いやはや、まだまだ人間ができていません。
このブログも少し休みましょうかね。
朝青龍も昨日、連勝をストップしたことでもありますし。

■中国サッカーのサポーターたちの根底にあるもの  2004年8月9日
先の参議院選挙結果のショックで、しばらく書き込みをやめていました。
気持ちはいまなお萎えていますが、また書き出すことにしました。
社会の質の悪さは、そこに所属する自分の質の反映でしかないでしょうから、自己嫌悪と反省をこめて、このブログを再開します。

今日の話題は、アジアカップでの中国サポーターの態度に関して、です。
私は、2つのことを感じました。

第1は、中国の選手からなぜ、たしなめる発言がないのかという疑問です。
スポーツの政治経済化は、選手同士のつながりを壊しているのでしょうか。
彼らはゲームを楽しんでいるのでしょうか。
もし彼らが楽しんでいないとしたら、イラクの米国兵士とどこが違うのでしょうか。
スポーツもまた、国家の争いのツールになっているようです。
芸術や文化、スポーツや科学が、国家を超えた人のつながりを育てていく時代は、どうやら終わったようです。

第2は、こうした動きがここまで高まるにはそれなりの背景があるのではないかという不安です。
尖閣諸島の問題や過去の日本の悪行が口実にされていますが、理由は他にあるような気がします。もっと現実的、現在的な理由があるはずです。
江沢民の抗日キャンペーンという話もありますが、それを顕在化する何かの事件か事実があるのでしょうか。
それが何か、なんとなく想像はできますが、確信はもてません。
しかし、おそらく私たちには見えていない問題が、彼らには見えているのでしょう。
われわれは、そうしたことを察知するジャーナリストや情報メディアをいまや失っているのではないかと心配です。世界や歴史が見えなくなっているのです。

昨今の動きは、パンとサーカスのローマ帝国を思い出させます。

気のせいか、今年の広島と長崎からの情報発信は弱々しく、平和の議論は盛り上がりません。
小泉首相をボイコットするくらいの気概をもたなければ、広島や長崎すらが、どんどん逆方向へと利用されるだけのおそれがあります。
暑い夏ですが、心の冷えた夏でもあるような気がしてなりません。

■美浜原発の事件  2004年8月11日
原発事故で4人の方が亡くなりました。
悲しい事件でした。

このブログを再開した契機は、CWSコモンズのホームページに書きましたが、平井憲夫さんの講演録「原発がどんなものか知ってほしい」を読んだからです。
あまりにもタイミングがよくて、
天の啓示を感じずにはいられません。

私は原発に否定的です。
それでは電気を使うなと言われますが、それは別の話です。
また原発絶対否定論者でもありません。
どんなものにも、良い面と悪い面があります。

なぜ私が原発に否定的かと言えば、20年以上前に東海村の原発増設時に発電所を見せてもらったのがきっかけです。
その定期検査や操作作業に、下請けの下請けの季節労働者が秒を競って仕事をするほど危険な仕事だと言う話を聞き、その現場を見せてもらったからです。
私は企業人でしたが、その労働環境と管理システムに大きな違和感をもったことです。
20年前の労働者観が、そこにあったからです。
こんな現場から成り立っている原始的(原子的ではありません)な産業は続くはずがないという思いが強くしたのです。そして、その後のさまざまな事件をみていると、そうした状況が改善されたようには思えなかったのです。

次に違和感を持ったのは、朝までテレビでの何回かの議論です。
話がすれ違ってばかりで、コミュニケーションができていないというよりも、コミュニケーション姿勢がないのです。もちろん電力会社側に、です。
反対運動をしている人たちも、コミュニケーション姿勢はそうあるわけではありませんが、それは情報の非対称を考えれば当然のことです。これに関しては米国のオゾン戦争がいい例です。情報を多く持っている人が情報開示しなければコミュニケーションは成立しません。

今は国会議員になられた加納時男さんが、広報活動に取り組まれた当初は大きな期待をもちました。しかし、それはほんの束の間でした。
東京電力は広報で有名ですが、私にはお粗末としか思えない会社です。金の力に依存したアマチュアリズムでしかありません。

ちなみに、コミュニケーション志向がないと言うことは、なにかを隠していたり、操作したいということであり、相手を信頼していないということですから、自らもまた信頼できない存在だと宣言していることです。自らを開示せずに、コミュニケーションや信頼関係は成り立たない。そんなことは子供でもわかります。欲にくらんだ人には理解できないかもしれませんが。

ちなみに、理解できない人の一人、小泉首相は記者会見で、
「事実を解明してきちんと発表する」
という基本的な一言が、今回も言えませんでした。
哀しい人です。

みなさん
ぜひ平井さんの講演録を読んでください。
美浜原発事故は決して不可避の事故ではありません。
責任者は自殺などせずに、しっかりと事実を公開してほしいです。
電力会社にとって、それが最高の選択なのです。
広報の基本は、正直に事実を開くことなのです。
電力会社の広報部門の人に教えてあげたいです。
あなたたちがやっているのは会社を、そして社会をつぶすことなのだと。
もう少し広報について勉強してほしいです。
自分たちのためにも。

■JR我孫子駅のタバコの自動販売機 2004年8月13日
今日は、私の娘からの問題提起です。
JR我孫子駅の改札口の横に、最近、タバコの自動販売機が設置されました。
それが気になったようで、どう思うかと質問されました。

我孫子駅の場合は、まだ一部に喫煙コーナーがありますが、JRはタバコ締め出しの方向で動いています。その駅にたばこの自動販売機の増設はおかしいというのです。
そういわれると、たしかに問題があります。
現代社会の本質が象徴されているような気がしてきました。

たとえば、
一方でタバコを締め出しながら、一方でタバコを販売する。
JRは、構内を禁煙にしたことで大幅な経費削減になったはずですが、禁煙されている場所でタバコを販売して利益を得るわけです。そこで買われたタバコはどこで吸われるのでしょうか。どうも首尾一貫しません。
そこには、社会コストを考えない、直接的な自己利益だけを追求する現代の企業の本質が見えてきます。個の利益の追求が、見えざる手によって、社会利益になるという、アダム・スミスの仮説には、それなりのルール(道徳感情)が必要なのです。

たとえば、
喫煙者の便宜を図るための顧客サービス(CS)の一環だと言う考え方もあるでしょうが、ビジョンのないCSは利益目的の商業主義でしかありません。大切なのは、もっと「大きな消費者満足」です。小さな経済に目がくらんだ企業にはそれが見えなくなっています。
そのことを少し書いた昔の小論をお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/cs-ronnbun.htm
顧客サービスと言いながら、顧客を追い込む現代のマーケティングの本質が見えてきます。企業の昨今のCSのCは、コーポレートのCでしかありません。

ビジョンのない小賢しさは、自らを滅ぼします。
そろそろ「小さな経済」「小さな経営」の発想を捨てなければいけません。

たかが自販機、されど自販機、です。
ちなみに、私はこの7年、自販機を使ったことは3回くらいしかありません。
さまざまな商品の自販機がなくなることを願っています。
ATMには抵抗できずにいますが。

■日朝協議とオリンピック競技  2004年8月15日
日朝協議の結果のひどさが、オリンピック報道のなかで見過ごされて行くのがとても気になります。
マスコミもまた、完全に商業主義のとりこになってしまいました。
私たちの意識もまた、同じですが。

それにしても、今回の協議結果を見るにつけ、国家と言うものの変質を感じます。
国家が壊れてきているのでしょうか。
企業がそうなってきているように、国家もまた私物化されてきています。
言い換えれば、社員と同じく、国民が私物化されて来ていると言うことですが。

昨日は終戦記念日でしたが、一体どれだけの人がそれを思い出したでしょうか。
日本が戦争に向けての二歩目を踏み出した年のせいか、今年は6日も9日も15日も、平和に関する報道が少なかったように思います。
皆さんはどう感じているでしょうか。

報道はオリンピック競技一色です。
ヒトラーの時代のドイツもこうだったのでしょうか。

ところで、イラクや北朝鮮では、オリンピックで良い成績を上げないと厳しい「お仕置き」が、また良い成績をあげると望外の「ご褒美」が待っていたようですが、日本でも状況は同じようです。さすがに「お仕置き」はないでしょうが。
もしかしたら、最近のスポーツは、戦争への入り口かもしれません。
どうも忌まわしい歴史が目の前にちらついて仕方ありません。

■温泉場の常識  2004年8月17日

温泉に薬品を入れている話から始まった温泉騒動は、どんどん広がっています。
何を今さらと、いう気もしますが、どこまで広がるのでしょうか。
きっと際限がないでしょうね。
いまや日本は嘘が奨励されている社会だからです。

2年ほど前に、CWSコモンズのホームページで、
「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう」とメッセージさせてもらいましたが、その後も、小泉政権は嘘を重ねてきました。いや、嘘を奨励してきたようにさえ思えます。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m2
そのせいか、日本には今や嘘が充満しているのです。

昔は、「嘘は泥棒のはじまり」と言われたものです。
しかし、いまは「嘘は出世のはじまり」です。
本当に皆さん嘘ばかりで、真実がありません。
泥棒を捕まえる警察にも、嘘は蔓延していますし、
食品の安全を保証したり、商品の品質を保証したりする認証シールなどにも嘘が広がっているようです。だれもそうしたものを信用しなくなってきています。
そして、多くの人が嘘に対して咎めることを止め出したのです。
「裸の王様」のように、嘘を知りながら、だれも真実を言わなくなってきたのです。

そうした時代の中で、温泉場の嘘が問題になりだしています。
テレビで見ていると、温泉場の人には全く「罪の意識」が感じられません。
見事なほどです。
みんな首相や政治家や警察や財界トップの方々を見倣っているのでしょうか。
それとも、今や嘘は美徳になってしまったのでしょうか。

嘘をつかないというのが、私の信条の一つなのですが、これからどうしようか悩ましいことです。時代の風潮に棹差しては生きにくいですし。
死後、閻魔様に舌を抜かれるのが恐ろしいですが、
ここまでくると抜いている暇がないので、大丈夫かもしれません。
みんなでわたれば怖くないではないですが、ここまで嘘が蔓延してくると、嘘をつくのも罪悪感がなくなりますね。
さて、どうしましょうか。

■「昔はこんなではなかった」  2004年8月19日

福島のタクシー運転手から聞いた話です。
福島では今年も果物泥棒が多いそうです。
見回りも強化しているようですが、巧みにすり抜けて、きれいに収穫していき、しかもプロ並のもぎ取り方。
悪い時代になったと、タクシーの運転手が嘆いていました。

「悪い時代」。本当にそう思います。
こんな社会にするために、私たちはがんばってきたのでしょうか。

果物泥棒がいるということは、必ずそれを購入する人がいるということです。
私が出来る唯一のことは、自動車で売りに来る人からは果物は買わないということぐらいです。しかし、もしかすると、それはせっかく遠路はるばる売りに来たまじめな生産者を疑うことになるかもいれません

果物だけではありません。
いろいろなところで、「昔はこんなではなかった」というお年寄りの言葉を聞くような気がします。
20年前までは、その言葉が、プラスの意味をもっていました。
しかし、最近は反対です。
どうしたら、時代の流れを反転させられるでしょうか。
少子化がとまらないのも当然かもしれません。

「昔はこんなではなかった」事例をもう一つ聞きました。
秋になるとサルの群れが民家の柿をとりにあらわれるそうです。
最近は、ほとんどの民家が柿はとらないのだそうです。
昔はどの家も柿をとって、干し柿にしました。むいた皮も無駄にせずに活用しました。
しかし今はそんなことをする人はいなくなったそうです。
これは福島に限りません。
豊かになったのでしょうか?

■「昔はこんなではなかった」  2004年8月19日

福島のタクシー運転手から聞いた話です。
福島では今年も果物泥棒が多いそうです。
見回りも強化しているようですが、巧みにすり抜けて、きれいに収穫していき、しかもプロ並のもぎ取り方。
悪い時代になったと、タクシーの運転手が嘆いていました。

「悪い時代」。本当にそう思います。
こんな社会にするために、私たちはがんばってきたのでしょうか。

果物泥棒がいるということは、必ずそれを購入する人がいるということです。
私が出来る唯一のことは、自動車で売りに来る人からは果物は買わないということぐらいです。しかし、もしかすると、それはせっかく遠路はるばる売りに来たまじめな生産者を疑うことになるかもいれません

果物だけではありません。
いろいろなところで、「昔はこんなではなかった」というお年寄りの言葉を聞くような気がします。
20年前までは、その言葉が、プラスの意味をもっていました。
しかし、最近は反対です。
どうしたら、時代の流れを反転させられるでしょうか。
少子化がとまらないのも当然かもしれません。

「昔はこんなではなかった」事例をもう一つ聞きました。
秋になるとサルの群れが民家の柿をとりにあらわれるそうです。
最近は、ほとんどの民家が柿はとらないのだそうです。
昔はどの家も柿をとって、干し柿にしました。むいた皮も無駄にせずに活用しました。
しかし今はそんなことをする人はいなくなったそうです。
これは福島に限りません。
豊かになったのでしょうか?

■情報を隠蔽するメディアとしての新聞とテレビ  2004年8月21日

驚くべきことですが、新聞の半分がオリンピック情報に占められています。
テレビニュースもオリンピックから始まります。
私のように、オリンピックにいささか冷ややかなものにとっては辟易せざるをえません。
世界の動きが、見えなくなっています。

マスコミは情報を提供するメディアだとばかり思っていたのですが、昨今の状況を見ていると、むしろ情報を隠蔽するためのメディアだという気がしてきます。
また下山さんから、何をいまさらと怒られそうですが。

最近、新聞を読まない人が多くなってきていると聞いた時は、驚きましたし、とらない人の社会性を疑ったものですが、どうも私が間違っていたような気がしてきました。
新聞はもはや社会の公器ではなくなってしまったようですね。
以前も書きましたが、しかしまだ新聞購読をやめられずにいます。
文句をいうくらいなら購読しなければいいのですが。

それにしても、見たくもないオリンピック番組を見ていると、なぜか次第に引き込まれ、ついつい最後まで見てしまうのはなぜでしょうか。そして、日本が負けると、なぜか残念に思うのも怖い話です。言動が一致できない無念さを感じています。

■構造的暴力の被害者 カミロ兵卒の場合  2004年9月3日
一昨日のニュース23で、共和党大会のニュースに重ねて、カミロさんという若い米兵の事件が報道されていました。
彼は、大学の学費支援を受けるために入隊したのですが、イラクに派兵され、そこでの体験から、この戦争は違法であると考えるようになりました。そして、休暇帰国した際に行方をくらまし、1か月くらいしてから軍に出頭した若者です。結局、禁固1年の有罪になり、今、刑に服しています。その母親と支援者が、共和党大会会場の周りのデモに参加したのです。

彼は戦場で様々な体験をしています。
その話を母親との対話という形でビデオに残しています。
たとえばこんな話です。
仲間と街を巡回している時に、突然、街角から出てきたイラクの青年をみんなで射殺してしまったという体験談に対して、母親が『あなただけ撃たないこともできたのではないか』と質問していますが、彼は振り絞るような口調で、『そういうときは何も考えずに、みんなと一緒に撃ってしまうものだ』と答えています。
彼の場合、後で調べたら、11発も発砲していたと言います。彼を責められるでしょうか。

この話の構造は様々なことを考えさせてくれます。
なぜ彼がイラクにいったのか、人を殺さなければならなかったのか、そして刑に服すことの意味は何なのか。
結局、イラクで殺しあっている人たちの多くは、『やむを得ずにやっている』と言うことです。そして、結局は自らも殺しているのです。
ネパールからイラクに出稼ぎに行って殺された人たちも、イラクではなく、ヨルダンなどの隣国に行き、そこから強制的に派遣されたとも伝えられています。
問題は、そうした構造なのです。

ノルウェイのヨハン・ガルトゥングは、暴力には2種類あるといいました。
「直接的暴力」と「構造的暴力」です。構造的暴力の被害者が直接的暴力に強制的に組み込まれ、構造的暴力を強化させていく。これが昨今の平和活動の構造です。何が「イラクに平和」でしょうか。そんな思いの人たちと時代を共有する事がとても哀しいです。

カミロ事件のような報道が増えてきました。
戦争の実相が見えてきたと言ってもいいでしょう。いや、9.11の実相というべきかもしれません。
にもかかわらず、小泉人気はまた持ち直しそうだといいます。
悪貨は良貨を駆逐する。小賢しさが賢さを駆逐する。
最悪の人が組織のリーダになる、これは成熟した組織の避けられない宿命ですが、国家も同じです。
日米の北朝鮮化が進んでいます。
ガルトゥング風にいえば、構造的北朝鮮化が進んでいるのです。

ところで、最近のニュース23を、少し見直しています。
これまではあまりにひどかったですが、最近はきちんとしたメッセージを感じます。
テレビも少しは見る価値があるかもしれません。

■ 共謀罪の話  2004年9月5日
8月23日の「東京新聞」の特報記事がいくつかのメーリングリストで話題になっています。加熱したオリンピック報道で、新聞を読まなくなったこともあって、私はその動きを知りませんでした。

表題は「『超監視社会』の前夜? 標的は…労組と市民団体」となっています。
刺激的な内容です。ぜひお読みください。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040823/mng_____tokuho__000.shtml

組織犯罪処罰法改正案が今秋の臨時国会で本格審議に入る見通しだといいます。最近の国際テロに対する国際的な対抗活動が、その契機になっているようです。
まあ、これだけ聞くと、いい事じゃないかと思う人も多いでしょう。しかし、どうもそうはいっていられないようです。東京新聞の記事によれば、もしこれが成立すると、「酒場で職場の同僚たちと『あの上司を殴ったろか』なんてグチっただけでパクられかねない」そうです。
まあ、それでもいいじゃないの、という方は、是非とも第二次世界大戦の労働組合史をお読みください。

新たに新設されるのが「共謀罪」です。
自由法曹団警察問題委員会というところが、共謀罪に関するわかりやすい説明をしてくれています。
http://www.jlaf.jp/iken/2004/iken_20040115_02.html
それによれば、共謀罪とは、「団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行なわれるものの遂行を共謀した罪」です。死刑を含む重い罰が規定されています。

まだどこが問題かわかりませんね。
そうです。法律というのは、そういうものなのです。わかりやすくしてはいけないのです。いまの法律は社会契約とは違うのです。
これが権力に向けて施行されるのなら、小泉首相は死刑に相当すると思いますが、実際には法律は権力者が施行します。ですから、とんでもない権力を権力者は得ることになります。死刑をまぬがれるどころの話ではありません。金正日と同じようになれるのです。80年前の日本社会を思い出します。しかし、テロ対策とはそういうことです。
チェチェンの悲劇の環境外者は誰だと思いますか。

1984年の現実が、ひたひたと忍び寄っています。
パンとサーカスに現を抜かしていたほうが、幸せなのでしょうか。

■混乱のはじまり  2004年9月6日

ロシアの学校占拠事件は衝撃的でした。
私はどちらかというと、常にマイノリティの視点で考えてしまう、生理的な思考回路が働くタイプなのですが、今回だけはどうしても、立てこもりの首謀者には共感を持つ事ができませんでした。
今日になって、やっと少し理解できるような気がしてきました。

いずれにしろ、哀しい事件ですが、しかし、異常な事件として位置づけるべきではないでしょう。その意味をしっかりと考える事が大切です。
情報もほとんどないなかで考えるのは無理がありますが、少しだけ考えてみました。そうしないとどうにも前に進めないからです。

悲惨な結末は、彼らがいかに追いこまれているかから考えるべきでしょう。
自爆テロは先の大戦におけり日本の特攻隊とは全く意味が違います。その意味を、もっと世界は真剣に考えるべきでしょう。死をもって抗議するほどの怒りは、どうやって生まれるのかを、もっと私たちは真剣に考えなければいけません。カミロさんが気づいたように、人道支援などとだまされていてはいけません。
しかし、今回の事件は、自爆による異議申し立てを超えています。恐ろしいほどに超えているのです。

一つの理由は、悲しみが組織化されていな事だと思います。組織化されていれば、展望やビジョンによって、統制力が働きますが、個々ばらばらの絶望と怒りの集積は暴走しだしたら、個人の力を超えてしまいます。組織の論理と個人の情念は絶対にかみ合うことはないでしょう。戦争と喧嘩は似て非なるものです。

私は30年前に「21世紀は真心の時代」という小論を書きました。
世界は「管理の時代」に向かうか、「真心の時代」に向かうか、その分岐点が20世紀末だったと思います。そして、人類は真心の時代を選ぶだろうと私は考えたのです。
しかし、歴史はそうなりませんでした。まさに「管理の時代」が到来したような気がします。そして、口では文句をいいながら、その心地よさにみんな浸っています。私には息がつまりますが、まあ、私のような偏屈者が生きるだけの寛容さはまだ残っています。いや残しているというべきでしょうか。

このブログも、関連したCWSコモンズのホームページやコムケアのブログも、私の活動のすべての基本にあるのは、繰り返し延べてきているように、「組織起点の時代」から「個人起点の時代」へというパラダイム転換です。それは、「管理の時代」から「真心の時代」へというテーゼと同一なのです。

長くなりましたが、ロシア学校事件は、その時代転換のはざ間での、それぞれのコンテクストの違いから起こった事件だと、私は考えることにしました。
ですから、こうした事件は、これからまた起こるでしょう。
恐ろしいことですが、時代の変わり目にはこうした混乱は避けがたいのかもしれません。

混乱の時代が始まったのです。
国家が崩れだしたと言うべきかもしれません。
にもかかわらずに、それに代わる仕組みも発想も芽生えさえありません。
いや、ソーシャル・キャピタル論が、もしかしたら、その芽なのでしょうか。
正村公宏さんは、もしかしたらそう考えているかもしれません。
そんな気がしますが、私には接点がないので確かめようもありません。

■地に落ちたスポーツ  2004年9月8日

オリンピックの金メダル獲得選手への対応振りは、いささか常軌を外しています。
ここまで堕ちたか、と思います。
今日のプロ野球のオーナー会議や選手会のスト宣言も、同じような苦々しさを感じます。

福原愛さんのCM出演料が7000万円。
なにか違和感を感じます。
みなさんは感じませんか。
女房には、愛ちゃんをCMに使っている企業の商品は買わないでほしいと頼んでいますが、みんなで不買運動を起こしたいですね。
彼女の人生を商売に使うな、などというつもりはないのですが、
お金をそんなふうに使ってもらっては困るのです。
それはプロ野球の有名選手の契約金や年俸の問題にも言えることです。
その結果がいまのプロ野球の現状でしょう。
スポーツはまだバブル経済を続けています。

しかし、そんなこともまあ、いいのです。
プロ野球について言えば、自業自得なのです。
知恵のない関係者がお金で、しかも組織の金で、選手を囲い込んでいくとどうなるか。2軍選手のことも考えない欲得で、その仕組みに乗っていくとどうなるか。結果は当事者たちに向かいます。
そこまでは口は出しません。哀しくとも、彼らの人生ですから。

私が問題にしたいのは、
そうした心ない人の言動が、私が住んでいる社会をおかしくしてしまうことです。
2つだけ書きます。

まず、お金は「モノ」ではないということです。
システムなのです。
自分の金だから勝手に使っていいモノではないのです。
誰かが使えば、必ず全体の価値に影響を与えるのがお金なのです。
舌足らずのコメントですが、わかってもらえるでしょうか。
ものすごく重要な問題提起のつもりです。

マラソンの野口選手は話題になりますが、他の2選手はほとんど話題になりません。そして、たぶん、報奨金もCM契約料も桁が違うことでしょう。
そこにも大きな問題があります。
いじめの構造、差別の構造、儲け主義の構造、いろいろなことにつながっています。
戦争につながるというと大げさでしょうか。
しかし、ドーピング問題につながっている事は間違いないでしょう。

それにどうして、みんな気づかないのか。

私が、誇大妄想に陥っているだけであれば、とてもうれしいのですが。

■同じ間違い  2004年9月9日
プロ野球問題で今日、オーナーと選手会が6時間の会議をしました。
そこから出てきた選手会の古田会長は、会議の内容を質問されて、
内容は話せないよと答えました。
どう思いますか。

つまりオーナーたちと選手会は同じ穴のムジナなのです。
馬脚をあらわしたと言うべきでしょうか。
もし選手会が自分たちの欲得でなく、社会の目線を持っていたら、
社会を味方にしたいのなら、
すべてを公開すればいいはずです。

これは今回の選手会に限りません。
みんな同じ間違いを犯します。
彼らはみんな同じ仲間なのです。
堕ちた人たちは、救えないのです。

情報を開いていくことがすべてを正常化すると、私は確信している人間です。
あまり賛成は得られそうもありませんが。

■大銀行が倒産するのは当然です  2004年9月10日
私はUFJ銀行に100万円の定期預金があります。
たった100万円といわれそうですが、まあ、庶民はそんなものです。
昨日、UFJ銀行から葉書が届きました。
利子のお知らせです。
利子は税引き後14円です。
こんな葉書が時々来ます。

UFJ銀行の社員の無駄遣い感覚にはあきれます。
こんな葉書を出すくらいなら、その分、利子に入れてくれればと思います。
税金投入額を減らすのに向けても良いです。
この葉書にはどれほどのコストがかかっているでしょうか。
信じられない愚行です。
つまり銀行には経営感覚が皆無なのです。

こんなところに税金を投入しているのかと思うと、税金を払いたくなくなります。

■被害にあった人の笑顔  2004年9月11日
最近、とても気になる事があります。

今年は台風や大雨で多くの被害が発生しました。
その被害にあった人たちが、テレビの取材に応じて回答する顔がとても和やかなことです。笑顔を浮かべて、家が流されたとか、家中がドロだらけになったとか答えているのです。どうも被害のリアリティが実感できません。
むしろ不気味さを感じます。

現実感覚を失いつつあるのは、どうも子どもたちだけではないようです。

実は私も例外ではありません。
昨日、セロのマジックのテレビ番組を見ていました。
昔はこうしたマジックに感心していたのですが、最近は、感激しません。
なぜかといえば、CGとの区別がつかないのです。
CGの世界はもっと驚がく的なショーが可能です。
ですから、どんな不思議なマジックでも、すごいとは思いますが、それがどうしたという冷めた気分がどこかにあります。

40年前にSFの世界で盛んに語られていたことが現実になりました。

■コメンテーター社会の脆弱さ  2004年9月19日

昨日、朝日ニュースターのテレビにコメンテーターとして出演しました。
前月は、コメンテーターを頼まれたことを忘れて、議論してしまったので、今回は自重しました。問われたら答えるという仕組みです。とても楽ですが、どうも性にあいません。

私はいつもテレビを見ていて、コメンテーターたちの冷静なコメントに敬意を払っています。私は感情的になるタイプなので、冷静な発言ができないのです。ですから、どうしてこんなに冷静沈着に発言できるのか、いつも感動しています。これは決して皮肉ではありません。

しかし一方では、最近、コメンテーター文化が広がっているのが気になっています。
コメントは正しいとして、しかし、それがどうしたという気もします。
それにコメンテーターの意見が違う時は、すれ違うだけで良いのかです。
議論をしてほしいですが、最近はみんな議論を避けがちです。
コメンテーターにはコミュニケーション思考はあまりないような気もします。

これはテレビだけではありません。
メーリングリストでも同じようなコメントが盛んです。
コメントというよりも、一方的な発信が多いのです。
しかも事実をろくろく確認しないでの発言が本当に多いです。
最近、「赤ペンを持って憲法読もう」と言う本の紹介を、あるメーリングリストに流しました。即座に、憲法9条を変えようとしようとしているのか、というお叱りの反応がありました。本を読みもせずのコメントです。まあ、こうした人は、すべてにおいて事実を確認せずにコメントして、それで終わりにするのでしょうが、まあそれはそれとして、こうしたコメンテーター文化には辟易です。

コメンテーターは楽な姿勢です。ただコメントしていればいいのですから。
そして、私もまた、そうした社会の風潮に流されて、
このブログもコメンテーターブログになっているのでしょうね。
反省しなければいけません。

■犯罪が許される社会 2004年9月12日
日本は犯罪が横行している社会です。
警察はいうまでもありませんが、社会もまたそれを見逃しています。

たとえば、年金証券を預かってお金を貸す業者の話が時々、テレビで放映されますが、そうした会社は依然として放置されています。法律違反でも、その法律に罰則規定がないと止められないという奇妙な論理まで横行しています。
みんなやる気が全くないのです。
社会がどんどん壊れていく。
そんな気がしています。
しかし、まだ日本には目に見える紛争は少なく、死者も出ていません。

一方、イラクはどうでしょうか。
イラクではまだ毎日のように死者が出る事件が起こっています。
外国人が誘拐され、殺害される不幸な事件も続いています。
しかし、イラクの社会はどうでしょうか。
壊れているのか再生しているのか。
私には、アメリカや日本が壊そうとしているのを、イラクの人たちが一生懸命にがんばっているように思えます。
イラク復興は、イラク国民のためではなく、日米の権力者の私欲のためでしかありません。事情が変われば、ブッシュはまた新たなフセインを作り出し、信念のない追従者の小泉はそれに荷担するでしょう。その資金は言うまでもなく、私たちの税金です。応援しているのも、残念ながら私たちです。

北朝鮮はどうでしょうか。
ここはすでに壊れた社会ですが、壊れた社会に巣くっている犯罪者を、人道支援の名目で日本は支援しています。日本の支援が犯罪者の力の源泉になる事は言うまでもありません。そのために殺される人がいないとは限りません。
しかし、その北朝鮮でも、いくつかの徴候から社会の回復を感じさせられます。もしかしたら日本よりはいいかもしれません。

つまり、日本の場合、ベクトルが反転しているのです。
このままだと、10年後には、イラクよりも、北朝鮮よりも、社会は劣化している気がします。
なぜでしょうか。私たちが豊かになり、権力者の仲間入りをしたからでしょうか。

最近、日本で起こっている殺人事件には、救いがありません。
イラクに関連している人たちの死と、あまりに違うことに、不安を感じます。
社会の凋落はまさにつるべ落としの勢いなのでしょうか。
もう止められないのでしょうか。
賢い人たちは、それを知ってしまったのかもしれません。
犯罪が日常化する社会は、もう直前に来ているのかもしれません。
大地震よりずっと怖いです。
どうすればいいか、私たちが素直な声をあげだせばいいのです。

プロ野球の今回の事件は、そのことを教えてくれました。

■悪貨は良貨を駆逐する  2004年9月30日
どうも書き込みを継続できません。
以前のように毎日書き込む事を日課にすればいいのですが、
書こうと思うと怒りと失望がない混じったような寂しい気分になるのです。
そして、文章にしたら(言葉にしたら)誤解されるような表現になってしまいそうなのです。
それに失礼ながら、どうせ本意は伝わらないだろうな、いや、伝わっても何も変わらないだろうなと思ってしまうのです。
こうやって人は朽ちて行くのでしょうか。
昨日、ある先輩と話していて、そういう思いを強めました。

黒岩さんがブログを始めたので、私もまた書き込むことにしました。
それに、たとえ読み手がなくても書かないと、下山さんに訴えられそうですし。

たとえばライブドアをつぶした楽天と財界人。
たとえば中山参与を追いやった3人の政治家。
その卑しさに、やりきれなさを感じます。
しかもそれがすべてお金で動いているのでしょうから、本当にやりきれません。

救いは、最近のテレビでの若い世代の素直な発言です。
若手キャスターがとても素直に反応し出したように思います。
もしかしたら、彼らがテレビを変えてくれるかもしれません。
もっともテレビのほとんどは、タレントといわれる心を抜かれた道化者に埋め尽くされつつありますので、そう楽観はできませんが、新聞よりは期待できそうです。

悪貨は良貨を駆逐するとはよくいったものです。
質の劣化は人間社会の本質なのだと、最近ようやく気づきました。
進歩主義的歴史観が否定されて久しいですが、私もまだどこかに進歩への信奉があったようです。
SF作家の光瀬龍の年代記ものを読んだ方はいますか。
私は昔大好きでした。
現実的ではないと思っていたからこそ、好きだったのですが、
いま思うと極めて現実的ですね。
そういえば、手塚治虫も限りなく暗かったです。

ブログ再開は暗いスタートになりました。

■人との出会い 2004年10月1日
今日、新しい出会いが4つありました。
10年振りの偶然の出会いも2人いました。
今日はたくさんの人と出会えました。
私は人と会うと元気になるタイプなのです。

企業の人を対象にした講演で、私がよくする質問があります。
あなたはこの1か月で、新しい人と何人出会いましたか?
営業が仕事の人は新しい名刺をたくさん入手したかもしれませんが、
そうではなくて、心を開ける直接的な利害関係のない人との出会いです。

意外とこれが少ないのではないでしょうか。
幸いに私は新しい出会いに恵まれています。
しかし、それを活かせているかどうかは自信がありません。

今日、たまたまですが、旧知の人にぱったり出会いました。
それぞれ別々にです。
本当に偶然ですが、これはきっと何かの意味があるのでしょう。
2人とも10年くらいご無沙汰している人です。
人のつながりを大切にしていないのではないかという天からのメッセージでしょうか。

今日は他にもメールで、とても元気づけられるメールをもらいました。
このブログの読者からも、最近煮詰まっているようで心配だというメールももらいました。
心配をかけてすみません。
CWSコモンズの方に明日にでも書き込みますが、
だいぶ元気が出てきました。
明日からまた、原則として毎日、このブログを書く予定です。
自分のために。

■ ブログがなかなか書けません 2004年10月11日
10日前に、ブログを毎日書くと書き込んだのですが、結局、書けませんでした。
時間がなかったというのは全く理由にはなりません。
「書けない」のです。なぜでしょうか。

腹立たしいことは、相変わらず多いですし、
うれしいこともたくさんあります。
しかし、書く気が起きないのです。

日本国民は、政・官・業・ヤクザの連携プレーの中で収奪されているのになぜ怒らないのかと呼びかけている『泥棒国家の完成』(光文社)を読んでの感想を、今成宗和さんが「東京ライフスタイル日記」に、書いています。

>著者は「なぜこうしたことにみな怒らないのか」と言うのですが、怒るに気にもなれないのです。

私もそんな気分になっているのかもしれません。
そのせいか疑心暗鬼になっている傾向もあります。
たとえば、UFJ銀行の刑事告訴、時を同じくしたダイエーへの再生機構活用の働きかけ。後ろにあるものを勘ぐりたくなります。

今週こそ書き出します。

■断固たる姿勢でテロとの闘いを継続する  2004年11月1日
ブログを再開します。

香田さんが殺害されました。
首相は「残虐非道」と憤り、「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続する」と発言したと新聞に書かれています。

香田さんに関しては、私のまわりでもいろいろな意見がありますが、
香田さんを非難する声が圧倒的に多いです。
しかし、この結果に関しては、みんな「残虐非道」と衝撃を受けているように思います。
私も同じような意見です。

しかし、です。
「残虐非道」といえば、そこまで彼らを追いやった側はそうではなかったのか。
そして、彼らもまた、
「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続」しているのではないか。
そう思えてなりません。

「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続」などという発想が、すでに前世紀の遺物的発想です。こなれていませんが、私が20年前に書いた拙文「21世紀は真心の時代」をお読みいただければうれしいです。http://homepage2.nifty.com/CWS/magokoro.htm解決策は全く別の発想でなければいけません。

イラク復興は進んでいるのでしょうか。
人心面も含めて破壊が進んでいるのではないでしょうか。
イラクでの危険度がますます高まっているということの意味をしっかりと受け止めなければいけません。

香田さんが殺害され、小泉首相がぬくぬくと生き残っていることに不条理を感じます。
小泉首相が憤るべきは、ブッシュや自らの「残虐非道」さではないかとさえ、思えます。
そして、さらにまた、その側に荷担している自分へのふがいなさが残念です。

香田さんのメッセージは、大切にしたいと思います。

■CSRの欺瞞性 2004年11月3日
企業では最近、CSR論議が盛んです。
それは悪いことではないかもしれませんが、
その欺瞞性には腹がたちます。
CSRすらもイメージ戦略の道具になっているからです。
ISO14000もそうでしたが。
所詮はアナリストやインベスター向きの表層的な活動であり、それに便乗したコンサルティング会社の儲け主義を利するだけのものが少なくありません。

その証拠は、各社のCSRレポートの内容を見ればすぐわかります。
社会的視点はほぼ皆無です。

私は企業のCSRのポイントは、そこの社員(経営者と従業員)がどのくらい社会常識を持ち、どのくらい自分らしい生活をしているかだと思います。

それはともかく、こんなことをどう考えますか。
31日のコムケアのイベントを手伝ってくれていた人が、うっかり携帯電話をトイレの水に落としてしまいました。
大変です。使えなくなっただけではなく、データがすべて消えてしまったのです。
昔は、それでも乾かせば、回復することもあったようですが、最近は回復しないそうです。つまり濡らしたら、だめになるのです。
馬鹿な話です。
そうならないようにするのはそれほど難しくはないはずです。
しかし、ドコモ、いや、どこもやろうとはせずに、むしろダメにする方向に進んでいるのです。
これが昨今の商業主義の実態です。

自動車メーカーが、水中に没した時にドアや窓が開けられなくなる方向に開発を進めてきたのと同じです。犯罪に近いと私は思っています。

いずれもCSRでは評価の高いメーカーの姿勢です。
やるべきことをやるのが、CSRの原点です。
それがわかっていない会社のCSRレポートなど、読む価値もありません。
CSRに関するシンポジウムも多いですが、そんなまやかしに疑問を思う担当者はいないのでしょうか。

どこか、本当のCSRレポートを創る会社はないでしょうか。
ぜひお手伝いしたいです。

■人の道を外すことが「人の道」  2004年11月4日
「沈黙の春」を読む会と言うのをやっているのですが、そこで倫理の話が出てきました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/info-kiroku.htm#haru
キリスト教社会では倫理の拠り所があるためか、倫理(ethics)という言葉が実体概念として受け止めやすいが、日本では倫理ということがわかりにくいと、米国で育ったメンバーがいいました。倫理という言葉できてから、まだ120年という意見も出されました。たしかに馴染みにくい言葉です。

倫理という言葉には、私は管理の姿勢を感じ、少し反発したくなります。たとえば、国歌を強要するリーダーシップのない都知事を思い出してしまいます。倫理は国家用語です。私の世界の言葉ではありません。

それに代わる日本語は何でしょうか。
とてもいい言葉があります。
「人の道」です。
これこそは私たちの言葉です。コモンズ用語です。

ところで、その「人の道」に反する事が、最近は評価される時代です。
それは、逆接的に聞こえるかもしれませんが、国家体制が崩壊されつつある証かもしれません。ローマ時代も、1世紀まではきっと「人の道」が大切にされたはずです。ブルータスの悲劇も、そのためかもしれません。

前置きが長くなりました。

楽天がプロ野球参入権を獲得し、ライブドアがだめでした。
これは「人の道」に反します。
中国的にいえば、最初に井戸を掘ったのは堀江さんです。
わりきれません。プロ野球よ、そして応援した卑しい財界人たちよ、地獄に堕ちろ、といいたいですね。

香田さん事件はどうでしょうか。
人の道に反していないでしょうか。
香田さんのことではありません。
彼の救出に誠意を示さなかった日本の人たちのことです。
彼の死に哀悼の意を表しない私たちのことです。

そして、昨日、ブッシュが勝利しました。
嘘をついて、人を殺し、豊かなイラクを破壊し続けている人物が信任されたのです。
人の道を外すことが、今や「人の道」になったようです。
まさに「悪貨は良貨を駆逐する」です。
こうした社会の育つ次世代の子どもたちは、いったいどうなるのでしょうか。
少子化よりも深刻な問題が、そこにあります。
でも誰もそんなことは気にしないのでしょう。
それがこれまでの社会パラダイムだったのです。

■電子ポットが壊れました  2004年11月6日

電子ポットが壊れました。
3年前に購入したものです。
どこが壊れたかと言えば、「ロック解除」ができなくなったのです。
つまり、お湯が沸いてもロックされているため、お湯が出さないわけです。

購入した大型電気店に相談に行きました。
修理をするにはまず見積もり費用が5000円、部品変更で3000円くらい、合計8000円くらいかかるでしょうと言われました。新品を購入したほうがいいですよと言わんばかりです。確かに以前、ビデオレコーダーを、「アドバイス」に従わずに修理したら、またすぐ壊れたことがあります。それで家族の意見に負けて購入しなおしました。
今度は電子化されていないシンプルなものを探しましたが、そうしたタイプは形が悪くて購入気分を起こさないのです。結局、ほぼ前と同じものを購入しました。

さて皆さんはどう思いますか。
この電子ポットを作っている会社は、環境報告書などもしっかり出して、環境経営を謳っている会社です。

解除ロックが壊れたポットは結局捨てました。なにか納得できない気持ちでした。

なぜ解除ロックがついたのでしょうか。これもいま流行のユニバーサルデザインのせいでしょうか。余計なお世話といい対ですが。解除ロックがなければ、あの電子ポットはゴミにはならなかったのです。

こうした話は周辺にたくさんあります。
それが嫌なら、そういう道具を使わなければいい出はないかと言われそうです。
たしかにそうです。
しかし、問題を摩り替えてはいけません。
問題は、ともかく顧客を増やし、市場を拡大していこうという姿勢です。
本当の経営は、顧客を創造することではなく、顧客を無くすことなのです。
ドラッカーの経営の時代は終わらせなければいけません。
今の財界人の発想は問い直さなければいけません。

新しい経済は、そこからきっと始まります。

■イラクの真実  2004年11月8日
イラクの復興への各国の取り組みが始まって、もうどのくらい経過するのでしょうか。
日本の新聞やテレビの報道では、復興に向かっているという実感はなかなか持てません。
むしろ悪化しているようにすら思われます。
果たして多くの人たちの善意は、きちんとイラクの復興に活かされているのでしょうか。

この数日のメールを見ていると、ファルージャ攻撃は半端ではなさそうです。新聞情報の小奇麗さとは大違いです。
ネット情報は、日本のマスコミとはかなり違うものも少なくありません。ファルージャの市民代表が国連のアナン事務総長に出した書簡には、「ザルカウィは実在しない、もしくはもはや死亡した、にもかかわらず、彼を口実に攻撃が激化している」と書かれているというメールも流れています。
何が真実なのでしょうか。

そもそもこの事件は、イラクの大量破壊兵器保有が発端でしたが、その事実はなかったことがほぼ判明しました。しかし、戦いはさらに激化しています。復興の名前での破壊です。

「アラモ」という映画で(新作の「アラモ」ではありません)、
ジョン・ウェイン演ずるクロケットが、仲間のテキサス人をアラモの戦いに巻き込む時の話は面白いです。敵将がよこしたと偽って、クロケットが自分たちを侮辱した手紙を読み上げます。皆は怒り出して、戦う気になるのですが、そこでクロケットは、実はこの手紙は自分が書いた嘘の手紙だと白状するのです。しかし、戦う気になった仲間は、そんなことはどうでもいいと言い出して、結局、全員がアラモで戦死するのです。

どこか似ています。
できれば、ブッシュにも生命をはってもらいたいと思うのですが、そこがクロケットとは違うところです。

イラクの真実は、本当はどうなのか。
香田さんの気持ちが少しだけわかります。
しかし、真実などはないのかもしれません。
テレビのニュースが私の感覚を麻痺させてきています。
怖いことです。

■当事者を除外する文化 2004年11月10日
昨夜、香田さんの夢を見ました。彼は登場しませんでしたが、うなされて目が覚めた時の恐怖感の中で、なぜか香田さんが思い出されたのです。それから目が覚めて、眠れなくなりました。

第3回日朝実務者協議が始まります。
成果のない結果が続いているために、期待ももてなくなってきていますが、こうして問題は風化していくのでしょうか。当事者の立場での交渉手段の選択ではないですから、当事者たちにとっては納得できない進展でしょう。その現実に耐えなければいけない当事者の心境はどんなものでしょうか。

一昨日(11月9日)、家族会、救う会は薮中局長ら政府交渉団に要請書を手渡し、話し合いを行いましたが、その概要が「救う会全国協議会」のホームページに掲載されています。当事者のみなさんの思いが伝わってきます。
http://www.sukuukai.jp/houkoku/index.html
本気で解決しようとするのであれば、当事者を参加させなければいけません。しかし、今の時代文化は、常に当事者は除外されます。それが「管理の文化」です。

ファジャールの記者やバクダッドの人からのメールもネットでとびかっています。どれが真実で、どれが虚偽か、私には見分けはつきませんが、次の言葉は心にグサッときました。

女性、子ども、家族、歴史、人間性、そして平和が。
そして世界は米陸軍部隊が市民を殺す様子、どんな軍用機が使われるのか、
どんな兵器がファルージャで試されるのかをただ見ているだけだ。
世界は死に体になっていて、いなかる感情も、反応も示さない。
あなたはファルージャが意味するものを知っていますか?
 
当事者でなければわからないことがたくさんあります。
当事者を中心に考える仕組みを回復できれば、歴史はかなり変わっていくはずです。
最近の市民活動のパワーの源泉は、当事者が中心にいるからです。
まだまだたくさんの「管理者」がいるために、昏迷は続きそうですが、まもなく時代は変わるでしょう。
変化に荷担するか、管理者側に荷担するか、私たち一人ひとりに、それが問われています。
私はまだ、どちらにするか決めかねています。もちろん変化に荷担したいのですが、ちょっと怖いのです。まだまだ管理者に荷担する生活から抜け出られずにいるのです。

ファルージャが意味するものを、もっと真剣に考えなければいけません。

■奉仕活動が必修科目   2004年11月11日
都立高校で新たに「奉仕活動」が必修科目になることが決まったようです。
どうしてこう本末転倒した施策が次々とでてくるのでしょうか。
立案者たちの貧しい生活が象徴されています。

一昨年、港区のボランティア関係の研究会で、「奉仕」と言う言葉に関して、私の否定的な発言が物議をかもしたことがあります。私自身は、ボランティアと奉仕活動は全く違うもの、むしろ正反対のものと思っているのですが、同じものだと考えている人も多いようです。
奉仕をさせる発想は、自発性にはつながらないはずなのですが。

コムケアの資金助成プログラムで、今年、入選したプロジェクトに、Happy Postmanというのがあります。小学生のボランティア活動起こしです。主役は小学生で、もちろんプレゼンテーションも小学生がやりました。
彼らは決して社会奉仕活動などとは思っていません。たとえば福祉施設に行くことが楽しいからやろうとしているのです。楽しいから自発性が高まり、活動も広がるのです。
結果として、自分たちの生活基盤である地域社会が気持ちのいいものになります。社会がよくなるのが大切なのではなくて、自分たちの生活が気持ちよくなることが大切なのです。そして、その「自分たち」の範囲がどんどん広がっていくのです。だからこそ、イラクにまで行ってしまうのです。

奉仕から発想する社会と自発性から発想する社会は、全く異質な社会です。
前者は組織発想の管理社会、後者は個人発想の真心社会です。
最近議論が起こり始めたソーシャルキャピタルも、後者の視点への気づきから起こっています。

しかし、日本の教育関係者、あるいはその取り巻きの有識者たちは、あいかわらずの発想で教育を考えているようです。
「学校に子どもを合わせる教育」の仕組みを続けている限り、カリキュラムをいくらいじっても、制度をどんなに変革しても、問題は解決しないでしょう。
そろそろ「子どもに合わせた教育」の仕組みにしていかないと問題は解決しないように思います。

ちなみに、もし身近な社会を自分たちの生活基盤と実感できれば、みんな社会をよくしたいと思うでしょう。奉仕などと言わなくとも、みんな行動を起こします。
社会に奉仕という場合の社会は一体なんでしょうか。
自分は入っているのでしょうか。
奉仕活動などと言う人の「社会」は、もしかしたら、奉仕する人と奉仕される人が別々の社会にいるのでしょうか。きっと自らは奉仕される社会にいるのでしょうね。
それこそが、奉仕の論理ではないかと思います。

■環境税が阻害する経済成長って何でしょうか 2004年11月12日
環境税が経済成長を妨げる、と日本経団連のトップの方々は主張されていることが報道されています。もしそうであれば、そんな経済成長などしなければいいのですが、そんな発想は彼らには考えつかないのでしょうね。

経済成長を加速化するのはそう難しいことではありません。
もっと環境を悪化させ、問題を深め広げれば、その解決のための市場が創出されるのです。自動車事故を増やせば、自動車が売れるという論理に中で育ってきた財界の「成功者」たちは、経済成長が判断の出発点なのです。しかし、大切なのは「成長」の中味です。それが問われていることに、なぜ彼らは気づかないのでしょうか。

環境税も経済成長も、いずれも目的概念ではありません。
大切なのは、その先にある社会の姿です。
エコノミーもエコロジーも出発点は同じです。
生活を豊かにするための考える枠組みなのです。

それがいつのまにか、対立概念になってしまったのです。
そのおかしさに、そろそろ気づかなければいけません。
大切なのは、環境税と経済成長を両立させるパラダイムです。
そこから発想すれば、環境税が経済成長を妨げるなどという場かな議論は出てこないでしょう。
本当に最近の議論には、馬鹿らしくてついていけません。
それとも私が馬鹿なのかもしれませんが。
最近は自信がなくなってきました。
困ったものです。

■企業への不信感  2004年11月23日

私のホームページ(CWSコモンズ)に、JALの対応に関して、かなり口汚く書き込んでしまいました。
早速、数人の方から反応があったのですが、書きすぎたかなと反省しました。反省はしましたが、JALへの不信感は消えません。

今日の新聞でも企業の不祥事がいくつか書かれています。
もういい加減にしてほしいですが、かつて企業にいた者としては、三菱マテリアルも三井物産も、何の違和感もなく記事が読めます。私が所属した東レは、極めて公正な会社でしたが、それでもこうした方向に行く危険性は皆無ではありませんでした。自由闊達な企業文化と社会性を重視する見識者が、それぞれの場にいたおかげで、企業は経営を間違えずにいたように思います。東レは素晴らしい会社でした。そこで25年間、過ごせたことを感謝しています。おかげで、私は今でも企業への基本的な信頼を持てています。

NPOや行政との付き合いはそれなりにありますが、
企業への不信感は、また高まっているような気がします。
CSRや環境経営が話題になるのは、むしろその現われとも言えます。報告書が立派なほど、その会社の実態は問題含みであることは、世の常です。

先週、お会いした政令都市の三役経験者の方は、最近、企業との付き合いがふえているのですが、かなり企業(経営者)不信に陥っています。そんな経営者ばかりではないと、私がお話しても、なかなか耳には入らないようでした。残念な話です。
NPOの企業不信も強まっています。せっかく市民活動で広げてきた世界に企業が入り込んできて、これまでの蓄積をダメにしてしまうこともあります。NPO関係者の多い、コムケアのメーリングリストでも、企業は金儲けの仕組みと信じている人も少なくありません。困ったものです。
自らの生活が企業によって支えられているにもかかわらず、企業を批判し続けるのはなぜでしょうか。

このブログでも、私は企業批判をかなり書いていますが、私は決して企業嫌いではありません。それどころか、「企業制度」は人類が創造した制度としては最高のものの一つと考えています。しかし、その制度を、昨今の企業経営者たちは、壊そうとしているように思います。産業再生機構も壊す方向での、短期的な再生を目指しているように思います。
今の日本では、言葉がみんな反語になっています。

企業はいったい、どうなってしまうのでしょうか。
先行きが心配です。

■見えている風景  2004年11月21日
人は、その立ち位置によって、見えて来る風景が違います。
会社を辞めてから、私の社会や会社への風景は変わりました。
日経を読まなくなっただけでもかなり違ってきました。
立ち位置が、その人の世界観や未来への展望を変えていきます。

例えば、ファルージャの風景ですが、どちらに立つかで全く違った風景になります。
ファルージャ事件は、歴史にはジェノサイドの典型的な事例として残るでしょうが、今の私たちにはほとんどそれが見えていません。
そんなことはベトナム戦争ではいくいらでもあったはずです。ソンミはおそらく特殊な事件ではなく、ベトナム戦争が特殊な事件だったのです。
つまり、ソンミからベトナム戦争を見たら、風景は全く変わってくるのです。ファルージャもそうでしょう。そこから見れば、イラク復興の意味も見えてくるはずです。小泉首相と日本国民の犯罪性も含めてです。

金正日体制の北朝鮮はどうでしょうか。北朝鮮の人民からみた国家政権はどう見えているのでしょうか。
もしかしたら、小泉体制の日本と同じかもしれません。
武富士の社員はいまなお武井元社長に仕え、オウム組織のメンバーはいまなお松本某に自らを預けています。卑劣な生き方だとは思いますが、渦中にいれば、そういう風景に馴染んでしまうのでしょう。三菱自動車や雪印食品の従業員たちのように。

金正日と小泉純一郎は、私には全く同じ独裁者に見えます。誰も、その動きをとめようとしないことも同じです。アウシュビッツもそうだったのでしょうか。
私もまもなくガス室に送られるような恐怖感をこの頃、感じています。
ロボットのような首相の顔をテレビで見るたびに、嘔吐したくなります。
税金を払う先を変えられれば、うれしいのですが。
ODAが独裁者の支配体制を強化し、人民を苦しめたと同じ構図が、まさか日本に現出しようとは思っていませんでした。

■経済的損失とは何か  2004年11月26日
日銀の行員が新札の特殊番号をすり替えてしまうという事件が発生しました。
さして気にもしなかったのですが、日銀の記者会見で、
「会社には経済的損失を与えていないので」という発言に、違和感を持ちました。
企業の社会性への意識が感じられないからです。

たとえば企業広告を考えてみましょう。
企業はイメージアップのためにかなりのお金を投入しています。
これは経済的利益を得ると考えているからです。
逆にイメージダウンにつながる事件が発覚すれば、経済的損失につながることは明らかです。時には倒産してしまいます。

日銀は売上が立っていない組織ですから、普通の会社とは同じではないでしょう。
なぜそんな組織が存続できるかと言えば、社会からある役割が課せられているからです。
通貨の発行です。
印刷された紙でしかない紙幣が交換手段として機能するのは、みんなが制度を信頼しているからです。制度は日銀と重なっています。
今回の事件は、その信頼に傷をつけました。
この事件は、もしかしたら氷山の一角かもしれませんし、少なくともそうした疑念を芽生えさせたように思います。
なにしろ信頼していた社会保険の担当組織のひどさがどんどん見えてきている時です。
もしかしたら造幣組織もまた、おかしくなっているのかもしれません。
そう思われても仕方がありません。
つまり、社会の基本的な仕組みに対する信頼性を傷つけたのです。
これはまさに大きな経済的損失です。

最近、ようやくソーシャル・キャピタルとしての信頼関係への認識が高まりだしていますが、日銀の関係者は少しは社会の視点で考えてほしいものです。
紙幣をすり替えた人も問題ですが、その事件への組織の反応こそ、私は問題だと思います。

日銀はCIに取り組んでいるような話がありました。
私も一度話をしてほしいと呼ばれました。
しかし、CI以前の段階ですね。

■納得できないこと  2004年11月27日
たとえば、湯島の駅には我孫子まで43分と書いてあります。
しかし、43分で我孫子に到着したことはありません。
だいたい50分近くかかります。
これがずっと気になっています。
15年間、この区域を私は通勤で利用しています。
1往復で10分以上の差がありますから、年間200回往復したとして、
15年で、500時間になります。
約20日になります。
だから何だといわれそうですが、何だか損をしているような気がします。

問題は、この前提でダイヤが組まれているのかどうかです。
ダイヤと公称所要時間は別なのでしょうか。
それなら良いのですが。
もしそうでないとすると、どこでどう辻褄が合っているのでしょうか。
とても不思議です。気になって仕方ありません。
一度、各駅で降りて確認したい気分ですが、どうやったらそれができるでしょうか。

そんなことより拉致問題や財政改革問題が大切だと怒られそうですね。
わかっています。
しかし、そうした問題は考えても答は見えてきませんが、
こっちの問題は少し考えると解決できそうです。
こうやって、みんな大切な問題よりも解きやすい問題に目を向けて行くのでしょうね。
反省しなければいけません。
この疑問には目をつぶることにします。はい。

■半年前の自動車免許更新講習時に思ったこと  2004年11月28日

私は優良ドライバーです。免許も当然、ゴールド免許です。
何しろ無事故無運転なのです。
この4年間、一度も運転したことがないのです。いやはや。
車を自宅の門にぶつけて、ボコボコにしたため、家族から運転自粛が出て、それを口実に運転をやめたのです。いまではもう再練習しないとあぶないです。
ちなみに、そのせいで、その後つくった我が家には門がありません。これでもうぶつかることはないでしょう。

免許更新の講習会でいつも感じるのですが、何か違うような気がしました。
自動車事故は今でも多いですが、その抜本的な対策が進められていないような気がするのです。
免許更新時のこのような意識づけよりも、もっとやるべきことがあるような気がします。それに5年に一度とはいえ、このような形で更新を義務付けることにも違和感があります。どうせやるなら、もっとしっかりとやるべきです。

車検もそうですが、仕事を作ることが目的なような気がします。
車検を受けた直後に火を出す車があることの意味がもっと問われるべきです。
車検も、免許更新も、視点が違うような気がしてなりません。

福島で、運転手の横にテレビがあるタクシーに乗りました。
これはお客様サービスなのでしょうか。
最高の顧客サービスは無事故です。テレビなど不要です。そもそも自動車テレビなどを認めることがおかしいと思います。
そうしたことをもっとしっかり考えるほうが大切ではないでしょうか。
飲酒運転ができなくする方法もあるはずです。
水中に落ちた時にドアが開く仕組みも、難しい話ではないでしょう。
まだまだ技術的にできることはたくさんあります。

道路整備もまだ余地は大きいです。
私の家の近くにも危険な箇所はいくつかあります。
ドライバーから危険箇所を指摘してもらい、点検していくのも一案です。
トヨタの利益は、たしかにトヨタの自己努力の成果です。
しかし、その利益の1%を、そうした活動に向けられないものでしょうか。
それこそが、本当の事業戦略です。
社会貢献活動などでごまかしてはいけません。
トヨタが、この分野でできることは、まだまだたくさんあります。

テレビのあるタクシーに乗ったので、半年前のことを思い出してしまいました。

■購読する新聞によって世界観が変わります? 2004年11月30日

以前、ホームページに書きましたが、朝日新聞との投稿記事でのやり取りで、朝日新聞に愛想がつきてしまって、この11月から読売新聞に切り替えました。まだ新聞を止める勇気がなかったのです。
それから1か月、気のせいか、世界の風景が変わったような気がします。つまり、時代の動きがほとんど感じられなくなったのです。言い換えれば、とても平和な世界で、まあ、新聞はテレビ番組表だけを見ればいいか、という気になってしまいそうです。
家族の評判もとても悪く、みんなあまり読まなくなったようです。不幸にして、半年予約してしまったため、すぐには止められないのです。
新聞の紙面づくりはかなり違います。好き好きかもしれませんが、それを越しているような気がします。読売はレイアウトやデザイン処理がかなり粗雑です。その分を、カラー化で補っていますが、中途半端なカラー化で、ますます紙面が読みにくいように思います。
しかし、問題は内容です。メッセージ性が弱いとか、コラムが退屈だとかいう話を超えて、どうも世界観が違います。どの新聞を読むかで、意識はかなり変わってきそうです。

複数の新聞を購読したこともあるのですが、その頃は個性の違いだと解釈していました。しかし、もしかしたら意図の違いですね。

もちろん、これまでもそういう性格付けは私も知っていましたし、家族にもそう話して、反対を押し切って読売にしたのですが、思っていた以上に差異は大きいです。

そんなわけで、最近、我が家では、みんな余り新聞を読まなくなっているような気がします。新聞好きの女房までが、最近は新聞離れしているのです。

これで、もしかしたら新聞を止めることができるかもしれません。
ヨン様番組の多さで、NHKを家族が見なくなったのと同じように。
NHKは強制的に有料なのであれば、番組制作をもっと公開で決めるべきですね。

■選挙の信頼性  2004年12月4日

選挙の信頼性が揺らいでいます。
今に始まったことではないかも知れませんが、前回の米国大統領選挙(ブッシュ vs ゴア)の時に民主主義を標榜している国家でも選挙は必ずしも信頼できないことが意識されました。一度、意識されてしまえば、もう壊れる速度は加速されます。制度は、みんなの共同幻想になりたってできていますから、真実が一度見えてしまえば、それは広がるのです。

そもそも、選挙は大きなフィクションですから、制度的な論理性があるとしても、実体としての論理性はありません。
選挙が実体として成り立つのは、情報の共有と投票機会コストの均一性が不可欠です。しかし、そんなことは成立するはずがありませんから、選挙というのは形式論理だけの制度なのです。言いかえれば、多数決ということは、実体としては存在しない概念なのです。多数決の基本単位が不揃いですから、カウントしようがないのです。質の違いを数に置き換える、まさに近代の経済学の論理です。

制度的にも「1票の重さの格差」のように、実は破綻しているのですが、組織発想の社会では幻想を定着させることが可能だったのです。しかし、一度、壊れてしまえば、もはや幻想は成り立ちません。選挙制度はもはや有効な仕組みではなくなるでしょう。

一度ほころびだすとどんどん壊れていくというのは、有名なブロークンウィンドウ理論ですが、たとえば、昨今の子ども事件はまさに、その一例です。最初に壊した犯罪者は、極刑にすべきです。

難しい議論をしてしまいましたが、いずれにしろ、もはや選挙制度は役割を終えてしまいました。
それに変わる仕組みを考える必要があります。
これは実に面白いテーマです。

■思考停止に立脚した社会 2004年12月8日
国家、あるいは組織の立脚点は二つあります。
恐怖と信頼です。
北朝鮮は恐怖を、日本は信頼を基盤にしています。

と思っていました。
ところがどうももう一つの立脚点があることに気づきました。
思考停止です。
思考を停止すれば、恐怖も信頼も無縁になります。
今の日本は、どうやらそこに向かっているような気がしてきました。
忌まわしき歴史の再来です。

最近、現代政治の正当の手続きが行われずに国家権力を発動する仕組みが整いつつあるような気がします。
政治の世界には「単純化」理論と言うのがあります。戦時に例外的に元首や軍に与えられる独断的権限が、平時にも与えられていく傾向です。
わずらわしい問題には関りたくないという生活者と関らせたくないとおもう為政者との利害がぴったり合うのです。それを加速させるのが、「パンとサーカス」政策です。それと、単純な呼びかけ言葉も効果的に使われます。ヒトラーの「わが闘争」のスピーチは長いですが、心に届くマジックワードが繰り返し使われれば、人はそれに捕らえられてしまいます。

いま、改めて信頼の大切さが意識されだしています。
ソーシャルキャピタル論が、そのひとつです。
しかし、信頼行為には主体的な判断のエネルギーとリスクが伴います。
パンとサーカスに浸っている人たちには、あまり人気はないようです。
そのためか、事態はますます信頼をないがしろにする方向に動いています。
それを加速しているのが、多くの政治家と財界人です。
もちろん企業のほとんども、それに加担しています。
今の産業構造は、信頼関係がなければないほど売上が高まる仕組みになっているからです。
いや、それだけではありません。
彼らもまた、思考停止しはじめたのです。
最近やっとそれに気づきました。
教えてくれたのは小泉首相です。そして多くの財界人たちです。

かつての日本も、かつてのドイツも、信頼の基盤を壊すことで、滅びました。
なぜ社会のリーダーたちは、それに気づかないのでしょうか。

最近、あまりにも事件が多すぎて、個々にコメントする気がどうも起きません。
そのため抽象的な書き方になってしまいました。
信頼を大事にする文化は、どうしたら回復できるのでしょうか。
思考停止から抜け出すにはどうしたらいいでしょう。
実は、私もまた、そこに陥っていたことに気づきました。

人生を変えることにしました。
まあ、そとからはその変化は見えないでしょうが、元気が出てきそうです。

■馬鹿にされたことに気づかない馬鹿の責任  2004年12月9日
横田めぐみさんの遺骨と称されたものが偽物だったことが判明しました。
この問題は誰の責任でしょうか。
小泉政権の責任であり、これは政治責任問題ではないかと思います。
これほど馬鹿にされた一国の首相は、最近はあまり例がないように思います。
しかも相手は、小泉首相が「信頼」している金正日です。
嘘がすぐわかることは相手も知っているわけですから、この意味はどう解釈すればいいのでしょうか。
難しく考えることはないでしょう。
ただ小泉首相が、そしてそれを支援している私たちが馬鹿にされただけです。
まあ、馬鹿なのだから仕方がありません。

しかし、国家の最高責任者が馬鹿だと国民は不幸です。
国民が馬鹿だから、せめて国家の指導者にはしっかりした人を選べれば良いのですが、馬鹿な国民は馬鹿な指導者を選んでしまうのが、民主主義制度です。民主主義理念と民主主義制度は全く違うものです。

日本の自治は、明治政府が壊し、シャープ勧告でさらに壊れ、そして今また市町村合併で破壊されつつあります。
いま、改めて福沢諭吉の自治論に関する本を読み直しています。
福沢諭吉はしっかりした地方自治の上に国家の発展があると考えていました。
個人を起点にした国家の展望がそこには感じられます。
馬鹿な国民が馬鹿でなくなる仕組みと言っていいかも知れません。

地域自治の破壊と思考停止した(つまり馬鹿な)国家政府。
これはおそらくセットなのでしょう。

日本に根強くあった名望家自治論が、いままた必要なのかもしれません。
もっとも今の日本に名望家なる存在がどのくらいいるかが問題ですが。

ところで、小泉首相は自らを恥じて、責任を取って辞職するのでしょうか。
だれか諭す人はいるのでしょうか。
馬鹿を諭す馬鹿はいないでしょうね。

ちなみに、私は通常は「馬鹿」という言葉を肯定的に使っていますが、この文章においては否定的に使っています。利口より悪い馬鹿の意味です。念のため。

■会社の資本金はなぜ必要か 2004年12月10日
法制審議会の会社法部会が最低資本金の廃止を考えていると記事を新聞で読みました。昨年施行された「1円起業」が好評だったのが理由だと新聞に書かれています。
1円起業というのも、私には信じられない迎合策だと思いましたが、それが好評なので(だれの評判なのでしょうか)、制度を変えるという話には驚かされます。

社会の制度には信頼性が必要です。信頼が失われれば、制度は有効に機能しないどころか社会の秩序を壊す逆効果を持ち出します。
制度の保証にはそれなりの制約や障壁が必要です。だれでも申請すれば設立できるNPO法が市民活動にどのような影響を与えているか、もっと真剣に考えるべきでしょう。たしかに形の上では市民活動を支援したように見えますが、そのために失われたものも少なくありません。
会社を起こすためには、それなりの努力が必要です。その努力の一つは、その会社の存在意義への共感者を集める努力です。その一つが資本金の調達ですが、その障壁がなくなるというのでは、どうやって起業者の信頼性を担保できるのでしょうか。

今でも「悪徳」企業はすくなくありません。むしろそうした存在を無くしていく方向に議論を向けて、会社制度の信頼性を高めるべき時期なのではないかと思いますが、どうも審議会のメンバーは逆のことを考えているようです。制度の信頼性が高まれば、資金調達の仕組みも今とは変わるでしょう。

これに限りませんが、最近の行政の姿勢は、目的や価値の議論がなくて、ただ目先の問題対応を短視眼的に行うものが増えています。それが社会の劣化を促進しているように思います。利益を上げるためにラベルを貼りかえた雪印食品の管理者と従業員と同じことをみんながやっているのです。

時代は大きな変わり目にあります。
そろそろ、会社とは何か、を根本から考え直す時期に来ているように思います。
米国流のコーポレート・ガバナンスではない、新たな視点が必要です。
米国に追随しているのは小泉首相だけではないのが残念です。

■アクションを遅らす社会の仕組み 2004年12月11日
世田谷の宮澤一家殺人事件に関する情報が新たに公開され、テレビでも改めて報道されています。当日、凶器となった同じ包丁を購入した人や事件当時に路地から走り出した人のスケッチも公開され、情報提供が呼びかけられています。

宮澤さんは知人でした。以前、私は日本CI会議体の事務局長をしていたのですが、宮澤さんはその会のスタッフワークを自発的に楽しそうにやってくれていました。
その関係で、私も何回か話を聴取されました。
たくさんの遺留品が残されていたので、事件はすぐに解決するだろうと思っていましたが、まだ解決していません。そこで情報提供を呼びかけたのでしょうが、いかにも遅すぎます。今頃言われても思い出せるものでしょうか。
この事件に限りませんが、どうしてもっと早く事実を公開して広く情報を集めないかと思うことが多いです。さまざまな事件が広がりだしていますが、公開捜査がもっと考えられてもいいと思います。当局だけで調べる時代は終わりました。
世田谷の事件にしても、事件直後にもっと事実を公開し情報提供を呼びかけたら、有益な情報が集まったかもしれません。大勢の警察官を全国から動員して膨大な数の人への聞き込みをしたと思いますが、テレビなどを通じての公開呼びかけの効果も大きいはずです。情報時代には情報時代の操作の方法があるはずです。

人間の記憶は加速的に劣化しますから、公開捜査は事件直後が効果的なはずです。
しかし、いろいろと公開できない理由もあるのでしょうね。

公開できないといえば、やっとフィブリノゲン使用病院の名前が発表になりました。
これまたあまりにも遅いというべきでしょう。
わたしもこれまで2回ほどホームページに書き込みました。
ここでも、公開できない理由があるわけですが、
そうした「理由」を考えていくと、社会を劣化させているのは誰かが見えてきます。
その誰かを見える仕組みをつくることが、構造改革の出発点でなければいけません。
郵政が悪いのではありません。郵政を操っている誰かが悪いのです。それを棚上げした議論は、その誰かに利するだけではないかと思います。

話がそれましたが、アクションを遅らす社会の仕組みを壊す必要があるというのが今日のメッセージです。社会があまりにも複雑で、その仕組みが見えないことが原因ですが、誰が得しているかを考えると、仕組みも少し見えてきます。

■宝くじ売場での長い行列 2004年12月12日
今日、東京国際フォーラムで日本構想学会の集まりがありました。
9時に有楽町に着いたら、同じ集まりに参加される向谷さんと会場ビルの入り口で会いました。
向谷さんは地下鉄で来たのですが、その途中に長い行列に出会ったそうです。
そういえば、今日はプレステーションの新機種の発売日でした。
長い行列ができる商品がプレステーションという点にどうも違和感がありますが、まあ、ヨン様に会いたくて並ぶ親の子どもたちですから、仕方ないでしょう。

帰りに、ちょっと用事があって、有楽町の駅の反対側にまわったら、そこにも大勢の人が並んでいました。今度は何だろうと思ったら、宝くじでした。
売り場窓口がたくさんあるのですが、100人を超える人が並んでいるのです。
今日は大安吉日なのだそうです。
売り場のところで、マイクが年末には222人の億万長者が生まれると言って、そそのかしているのです。しかし、宝くじを並んで買うのも何か違和感がありますね。

私たちは何か並ぶ対象を間違っているような気がしてなりません。

銀座に出てみたら、今度はブランドショップです。
そういえば、ブランドに並ぶのも日本人ですね。

並ぶ生き方は、私はあまり好きではありません。
並ばせる店舗にはとても違和感があります。
最近の銀行は、この点でも腐っていると思います。
銀行にはまともな人はいないのでしょうか。

■二項対立発想からの脱却 2004年12月15日
新聞によれば、文部科学省は、「学力低下」に対処するために、「ゆとり教育」路線を転換して、授業時間を増やすことを検討しだしたそうです。
「ゆとり」か「学力」か、教育問題が語られる時に決まって出てくる座標軸です。
しかし、それらは全く対立軸にはならない、次元の違う話です。

先日もケアの話し合いで、「厳しさ」と「ケア」が対立軸で語られる場がありました。
これも次元の違う話です。
そうした次元の違う話が、二元的に話されることがとても多いです。
たとえば、「戦争と平和」「対話と圧力」「価格と品質」「公と私」などなど。

発想の視座を変えると対立概念だと思っていたことが、実は組み合わせの要素であることに気づくはずです。
言葉の定義はともかく、
学力があればこそゆとりが生まれ、ゆとりの中でこそ学力が育ちます。
ケアには厳しさも必要ですし、厳しさにはケアが不可欠です。

これらの話は、瑣末な一例ですが、問題は私たちが二元論に基づく二項対立発想にあまりに浸りすぎていることです。
「○○か××か」とすぐに考えてしまう思考から自由になれないのです。
大切なのは、「○○か××か」ではなく、その先にある目的であり、ビジョンです。
子どもたちをどうしたいのか、が明確であれば、「ゆとり」とか「学力」とかの意味も実体化してきます。行為の目的がしっかりしていれば、「ケア」も「厳しさ」も同義語になるかもしれません。

教育改革の問題に戻れば、ビジョンがあいまいですから、議論は迷走します。
明治維新以来、日本の学校教育は産業化社会の実現を目指してきました。
学校も教育はビジョン実現のための手段です。
そういう視点で考えると、学校の存在意義はなくなったのです。
そろそろ小中学校を含めて、学校を全廃する時期だと思います。
代わりに必要なのは、学びの場です。

二項対立発想による退屈な議論はそろそろやめて、
目指すべきビジョンを語る時期にきているように思うのですが、
ビジョンを語る人がいないのがとても不思議です。

■NPOの信頼性  2004年12月17日
今日の朝日新聞の記事です。
マンション建設大手「長谷工コーポレーション」などから現金計3300万円を脅し取ったとして、恐喝の罪に問われた特定非営利活動法人(NPO法人)「消費者問題研究会」会長で、元暴力団組員の榎原一吉被告(56)に対し、東京地裁は17日、懲役6年(求刑懲役7年)の実刑判決を言い渡した。

2つのタイプの組織が出てきます。NPO法人と暴力団です。

「暴力団」という組織が存在を認定されていることを、私は以前から不思議に思っています。
法律(暴対法)によれば、暴力団とは、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」と定義されています。そんな団体は存在しないようにすればいいと思うのですが、法的に存在が認められているということです。しかも、指定暴力団というのまであります。すごいネーミングです。

それとは逆に、NPO法人、正確には特定非営利活動法人は、実態に関係なく、非営利活動に取り組む組織というかたちで、組織の公益性や信頼性を保証されています。最近の社会風潮もまた、NPOの公益性を強調する方向にあります。
しかし、その二つが、実はほぼ同じ活動ができることを、この記事の事件は示しています。
組織や制度は人間が使うものですから、それは当然起こり得ることですが、名前は組織の印象を大きく変えます。言葉にだまされてはいけません。

暴力団とNPOが同じものというつもりはありませんが、
同じこともありうることをしっかりと認識しておくことが大切です。
マフィアは企業になり、NPOになっていけるのです。

昨今の安直なNPO設立ブームに、いささかの違和感をもっています。
本当にNPOは信頼できるものなのでしょうか。
NPO支援にささやかに関わりながら、いつも頭から拭えないでいる悩ましい問題です。

■日本国憲法を読んだことはありますか 2004年12月18日
「自民党は16日、来年11月に公表する憲法改正草案をまとめる新憲法制定推進本部の下に置く起草委員会の委員長に森喜朗前首相を充てることを決めた」と朝日新聞が報じています。小泉首相の独走はますます進みそうです。
憲法に関しては、民主党もさほど思想は違っていないような気がしますので、独走とは言えないかもしれませんが。

ところでみなさんは日本国憲法を読まれたことはありますか。
私は一応、大学で一番熱心に読んだのが憲法ですので、読んでいますが、実はその後は、昨年まで読んだことがありませんでした。読んだきっかけは、平和の話し合いをする場の進行役をやることになったからです。そういうことでもない限り、憲法は読まなかったかもしれません。そのくせ、憲法維持を主張していたでしょう。
最近、ふたりの友人が憲法の本を出したので、改めてまた読みました。
私は法文にはほとんど関心のない人間ですが(その奥の意味や解釈に関心があります)、やはり読んでみるとそれなりに発見があります。

平和に関するメーリングリストがあります。そこに武田さんの「赤ペンをもって憲法を読もう」の本の紹介をしたら、いきなり、きついお叱りを受けました。平和憲法にケチをつけるのかというわけです。恐ろしい時代です。

川本兼さんがまた「Q&A『新』日本憲法」という手ごろな本を出版されました。840円です。若者向きの本ですが、多くの人に読んでほしいです。憲法も読まずに、憲法論議をしている似非「平和主義者」には辟易しています。
皆さんも一度、ぜひ憲法を読んでみませんか。
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1946C.html
読んでどうなるの、と言われそうですが、読んでも毒にはなりません。
ちなみに2月頃、憲法サロンをまたやろうと思っています。

CWSコモンズに明日、掲載しますが、12月13日の毎日新聞に、漢字学者の白川静さんが、こう書いています。
戦争をどこまで知っておるのかね。小泉さん、62歳か、ご存じなかろう。
この記事のとても感動しました。ぜひお読みください。
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2004/12/13/20041213dde012070096000c.html

■砂上の楼閣 2004年12月19日
核問題を中心とする6ヶ国協議の前に、拉致事件に対する経済制裁措置への慎重論が出ています。拉致事件という各論だけで考えるのではなく、もっと大きな視点で考えなければいけないというわけです。
各論的最適解が全体としての最適解ではないことは当然ですが、そんな論理のまやかしにだまされてはいけません。
各論には構造があります。構造を捉えなければ、何が全体かは構造との関係で決まってきます。そこが無視されているのです。学者や権力者の得意な論法です。
拉致事件への対応で見えてくるのは、北朝鮮の金正日体制は、いわゆる国家ではないという現実です。そこには通常の論理は働きません。平気で嘘をつき、約束を破ることを何とも思わないのが金体制です。そんな相手を対象にして、まずは核問題などと言う発想には首を傾げたくなります。まずは嘘をつかず約束を守ることを実現させてから交渉に入らなければ、たとえ核で合意ができても、実効性が疑わしいです。まさに砂上の楼閣です。出発点を間違えてはいけません。

昨日、ローカルマニフェストに関する議論をしてきました。政治家の公約は守らなくてもだれも不思議に思わない。しかし、ローカルマニフェストになれば、内容が具体的で評価もしやすいので日本の政治は変わるだろうという「有識者」は少なくありません。
しかし、約束も守れない人が、あるいは約束を守らないことを咎める仕組みも文化もない社会が、ローカルマニフェストを導入するだけで変わるのでしょうか。
学者や有識者が得意な、言葉の浪費で終わるでしょう。約束を守ることの大切さを回復することもしないで、いくら制度や言葉を変えても、それこそ砂上の楼閣です。

イラクの復興はどうでしょうか。
昨日、めずらしくNHKが、アルジャジーラとブッシュ体制の情報戦を特集していました。それを見ている限りでは、イラクの復興もまた砂上の楼閣になりかねないと思います。

私たちの豊かさも、砂上の楼閣だったわけですが、そろそろそれに気づく政治家が出てきてほしいです。

■義務を権利にし、権利を義務にする社会 2004年12月20日
社員の不祥事などからにわかに顕在化した不信感を払拭するため、「NHKに言いたい」という思い切った番組を、NHKは放映しました。後半部分を見ました。
番組の意義は大きく評価するものの、内容はほとんど意味がなかったので、コメントはやめます。

あまり論点にはなりませんでしたが、テレビマンユニオンの今野さんが視聴料は義務ではなく権利にしたいと言う趣旨の話をされていたのが印象的でした。
権利と義務。これはコインの裏表ですが、どう考えるかでまったく世界は変わります。

今野さんの説明では、椎名誠さん(だったように記憶していますが)は良い放送を確保していくためにNHKに資金を出して応援できることは権利なのだと言ったそうです。それに比べて、民放の場合、資金は作り手が出しますから、視聴者は資金をだせず、当てがいぶちの番組に甘んじなければいけません。ですから、この論理はよくわかります。
ところが現状では、ほとんどの人は視聴料を義務だと考えています。ですからNHKに対する抗議が視聴料不払いになってしまうわけです。
権利発想であれば、番組の内容の評価にも口をだすことになります。これは、今度は逆に権利ではなく、義務になるでしょうか。
この論理構造は今の多くの人の意識とは正反対です。
しかし、これからの社会のあり方を考える上では、とても重要なポイントです。
私は、もちろん、権利と考える社会を望んでいます。

同じようなことが税金にも言えます。
納税は権利か義務か。権利であれば、節税とか脱税は問題にはなりません。
権利として払いたくなるような税金であれば、今のような状況は一変するでしょう。
しかし、国家に税金を収める仕組みでは難しいでしょうから、まずは基礎自治体に税金を納めていくというように、税金の流れが地方から中央へと変わらなければなりません。
そして、もしそれができれば、行財政改革は一挙に進むでしょう。

逆のケースもあります。
教育を受けることは権利か義務か。
憲法には権利と書いていますが、多くの人は義務と思っているでしょう。
国家を歌うことすら、学校では義務なのですから。
権利としての学びの場は、おそらく教育とは原理が違いますから、これは教育を受ける権利ではなく、学ぶ事ができる権利になるでしょう。つまり、教育を受けるのはやはり権利ではなく、義務であるべきです。どこまでの教育が義務かどうかが重要な論点になります。

権利から考える社会と義務から考える社会は、全く違った展開になるでしょう。
「NHKに言いたい」の番組から、私が得た感想はこの程度です。
しかしだれもそんなことには無関心でした。
みんな義務から考える人たちなのでしょうか。

■お金がお金を生む経済の不思議さ 2004年12月22日
私がずっと理解できないでいるのが、お金がお金を生む仕組みです。
銀行に預けていると必ず利子がつくという発想がどうも理解できないのです。
私の発想では、どう考えてもコストを払うのは預金者です。

まあ、しかし、それは私の理解力不足の問題かもしれません。おそらくほとんどの人は不思議に思わないのですから。

でも最近、どうも割りきれない気がしてきています。
ひとつは大手銀行がいとも簡単に巨額の債権を放棄するという話です。
もうひとつは、借金をかかえている政府や自治体が、年度予算のかなり大きな部分を借金の返済に向けているという話です。

後者の問題で気になるのは、誰かがお金を貸しているだけで確実に利益を上げている人がいるということです。何もしなくても利益が入ってくる仕組みを誰かがつくり、おそらくそれに乗って不労所得を得ている人が、ますますの借金構造を増大しているのではないかという気がしてなりません。もちろんそこには政府の大臣が絡んでいるわけです。彼らのお金の使い方を見れば、彼らがいかに現在の借金構造で利得を得ているかは明々白々です。しかし、おそらく彼らは黒幕ではないでしょう。その仕組みに乗っているだけの雇われ人のような気がします。せいぜい1億円の政治献金で責任が問われる程度ですから、そのポジションもたいしたものではなく、所詮は使い捨ての役割かもしれません。
そうした構造に銀行を初めとした金融機関が乗っているのも、また明々白々です。なぜなら、いとも簡単に巨額な債権を放棄できるのですから。しかし、彼らもまたおそらく雇われ人でしょう。

お金がお金を生み出す仕組みが自律的に動き出しているのではないかという気がしてなりません。
借金大国の仕組みから不労所得を得ている人は一体誰なのでしょうか。
あるいは、その黒幕は、人ではなくて、いまや仕組みそのものなのでしょうか。
なにやら不気味ですが、まあ、そんなことはないでしょうね。
きっと黒幕がいるのでしょうね。
あまりに規模が大きいので、私たちには全く想像すらできないのですが。

■権利が売買される社会  2004年12月23日
「権利か義務か」「お金の自己増殖」の話につなげて、今回も経済についての疑問を書きます。
材料は「空中権」です。
月の土地が売買されていると言う話もありますが、もっと現実的な話です。

今日の朝日新聞の記事です。

東京駅丸の内口の正面にある「新丸の内ビル」が、高さ198メートルの高層ビルに建て替えられることが、22日開かれた東京都都市計画審議会で認められた。同駅が利用していない「空中権」を新しいビルに移して高層化する。

前日の読売新聞はこう書いています。

東京・千代田区のJR東京駅の上に広がる空間が、周辺で建設計画の進む超高層ビル4棟の高さを引き上げるのに、“一役”買っている。
JR側が、本来は駅の上に高いビルを建てられるのに使わない空間を、「空中権」として譲渡したからだ。国の規制緩和で、都が同駅周辺に特例制度を適用したためだが、専門家からは疑問の声も出ている。

同紙によれば、「空中権は、米国で発達した概念で、土地の上の空間を利用する権利の総称。日本では法律に明記された権利ではないが、土地にどれだけの床面積の建物を建てられるかを指し、実際には容積率を譲渡する形でやり取りされ、土地のように売買されることもある」ということです。

土地の所有権が垂直方向にどこまで及ぶのかも議論の的ですが、私の違和感はそれ以上に、あらゆるものが経済的な権利となって金銭評価され、金銭経済に組み込まれていくことです。
生活のあらゆる分野が市場化されてきているのも不愉快ですが、それ以上に何でもかんでもが売買の対象になっていくのが不安です。不動産も証券化されましたし、環境を汚染する権利(正確には規制以下の部分だけですが)今や商品化されています。
恐ろしい時代です。
そうした発想の延長に何が出てくるかは、少し想像力を発揮すれば見えてきます。
こうした方向に経済を進めている経済人や政治家は、一体何を考えているのでしょうか。

こうしたことの意味はもっと真剣に考えなければいけません。
それが経済学者の倫理だと思うのですが。

■がんサポートキャンペーンとメディアガバナンス 2004年12月24日
NHKが、がんサポートキャンペーンを開始しました。
やっと、という気もしますが、大きな期待を持っています。
こうした活動を、いろいろな分野で展開してくれたら、視聴料不払いなどは起こらないばかりか、もっと払ってもいいという人が出るだろうと思います。私は、その一人です。
テレビができることはたくさんあるのです。

今日の「生活ほっとモーニング」で、活動の内容が説明されました。
「変えよう日本のがん医療・支え合おう患者と家族たち」をキャッチフレーズに、患者や家族の助けになる情報を提供し、日本のがん医療の改革にも取り組んでいくことが、このキャンペーンの目的です。
ホームページも開設されました。
http://www.nhk.or.jp/support/

私も番組を見ながら、ホームページも見せてもらいましたが、とても期待できます。
がんに関する情報のホームページはたくさんありますが、評価能力がないのとあまりに分散されすぎているので全体像が逆に見えなくなります。
サプリメント情報も、ひどい商業主義にあらされていますので、これまた評価できませんが、こうした問題もこのホームページで整理してほしいと思います。NHKの保証が絶対というわけではありませんが、参加者の広さにおいては群を抜いているでしょう。参加者が多ければ、それだけたくさんの異質の目が集まりますから、全体像が見えやすくなるように思います。

番組には柳原さんや岸本さんがでていましたが、半年前の番組と比較するとNHKの関係者の理解も深まったように思います。よかったです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1022

私が、今回のNHKの試みに大きな期待を持つのは、それがメディアの新しい役割を創出すると思うからです。
しかし、その場合、重要なことは、その役割を誰かの私欲や偏った正義感や理念に支配されることがないようにすることです。
メディアガバナンス。メディアの主役としてのガバナンスシステムが構築されることが緊急の課題です。
その方向性は、いうまでもなく、信頼をベースにした個人起点にあると思いますが、それをどうやって育てていくかも、今回のプロジェクトのこれからの展開にかかっているような気がします。

いずれにしろ、何のわだかまりもなくNHKの視聴料を払えることになってうれしいです。NHKの改革は、番組や事業で変えなければいけません。
このキャンペーンに期待します。

■市町村合併の効果 2004年12月25日
霞ヶ関主導の市町村合併がさまざまな歪みを起こしています。
みなさんの市町村ではどうなっていますか。

私が関わらせていただいている市町村はほとんどみんな合併に取り組んでいますが、すべて問題を起こしています。
なぜでしょうか。
それは住民不在だからです。
組織を管理している人たちが、責任逃れのために合併に取り組んでいるのがほとんどのように思います。
都市銀行の合併と同じです。
銀行の場合、すべてが合併して最後にそれが倒産すれば問題は解決しますが(銀行機能はもうじき不要になるでしょう)、自治体の場合はそうはいきません。

合併問題のために、この数年、多くの自治体の職員は無駄な仕事に取り組まされています。そして、合併が頓挫しそうになると職員の仕事は停滞します。そんな現実をいくつか見ています。本当に無駄な話です。
この数年、私が関わらせていただいている市町村の多くの職員はまじめに仕事をしているようには思えません。

市町村合併は一体どういう効果を発揮するのでしょうか。不思議なことに、そうした議論をする人がいないのです。
どなたか合併の効用を教えてくれませんか。
もちろん住民にとっての効用です。

■ドンキの放火事件 2004年12月27日
ドン・キホーテが連続放火されています。
この事件はたくさんのことを示唆してくれています。
こうした事件が起こるのは、それなりの理由があります。
同社の事業展開のあり方のどこかに問題があるはずです。
同社店舗への放火事件が続いても、誰も同情しないのはなぜでしょうか。あるいはほとんどの人はあまり不思議にも思わないのはなぜでしょうか。それを考えなければいけません。
同社のホームページで、社長のコメントを読ませてもらいました。
http://61.206.41.90/041217.pdf
とても違和感のあるコメントです。
危機管理を履き違えている日本企業は多いですが、同社も完全に履き違えています。
最悪の事態にならなければいいですが。
これまでの同社の事業戦略や店舗活動を評価したり支援したりしていたコンサルタントや評論家、あるいはマスコミや消防署にも反省を期待したいです。消防者は法規違反を警告したと言っていますが、警告してもそれが実行されていないとしたら、しかもそれが何年も続いていたとしたら、悪いのはむしろ消防署ではないかと私は思います。
話が変わりますが。外食産業の和民がいま元気です。
テレビでも良く取り上げられます。
渡邊社長は外食産業のカリスマ経営者だと昨日のテレビはもてはやしていました。
私も渡邊社長の本を2冊読みました。
社長の思いは伝わってきました。
それに娘によると、類似のところに比べてお店の対応はとてもいいそうです。
しかし、昨日の渡邊社長を紹介したテレビを見て、がっかりしました。
もしテレビがやらせでないとしたら、
彼は社員の人間としての尊厳を認めていません。言葉が完全に間違っています。
和民のこれからが心配です。
評論家の皆さんは、もっとしっかりと実態を見据えて、企業を評価すべきです。
利益をあげるのが企業の目的ではありません。
利益をあげるのは企業の目標です。間違ってはいけません。

■イワン・フロール老人の教え 2004年12月28日
昨日のドンキの放火事件に関する記事に、友人がコメントしてくれたのですが、そのコメントは私へのたしなめが感じられました。そこで少し反省して、思い出したことを書きます。

トルストイの小品に、「火を粗末にすると―消せなくなる」というのがあります。
隣人と仲よくやっていたイワン家族が、代替わりしてから、些細なことで隣人と争いだします。争いはどんどんエスカレートして、訴訟合戦にまでなります。そしてついに、その恨みをかって、イワンの家に隣人が火をつけます。放火です。イワンはその現場を見つけるのですが、火を消すのではなく、その犯人を追いかけてしまいます。そしてもみ合っているうちに火は広がり、ついに村全体を燃やしてしまいます。
イワンは犯人を追いかけるのではなく、火が付けられた藁くずをもみ消していたら火事にならずに済んだのにと悔やみます。
イワンには寝たきりの老父がいました。やっとのことで助け出すのですが、死ぬ間際に老父はイワンを呼んで質問します。「イワンよ、村を焼いてしまったのはだれだな?」「あいつだよ、父さん」とイワンは答えます。
老父は、若い世代になってから争いの絶えないことを心配して、相手の立場で考えるように息子を諭しつづけていたのです。
父はいいます。「それはいったい誰の罪だね?」答えられずにいるイワンに父はいいます。「神様の前で言うがええ、誰の罪だな?」。イワンはやっと気がついて「わしの罪だよ、父さん」と言います。
「これからどうしていったらいいのだろう、父さんよ」と訊くイワンに老父は答えます。「ええかの、ワーニャ、気をつけて、だれが火をつけたかってことを、決してだれにも言うでねえだぞよ。お前が人の罪を隠してやれば、神様はふたつの罪を許してくださるじゃ」。それが老父の最後の言葉でした。
イワンと隣人にはまた父親たちのような隣同士らしい暮らしが戻ったといいます。

若い頃、私が好きだった作品の一つですが、恥ずかしながら、なかなかイワンの心境にはなれないのです。もちろん頭ではそうありたいと思っており、かなり身についてはきましたが、時折、その正反対の気分になるのです。つまり許せなくなるのです。
今日、1時間かけて、この本を山積みの書籍の中から見つけました。2回読み直しました。まだまだ意味を咀嚼できていない自分に気づきました。

ドン・キホーテの社長にもぜひ読ませたい小品です。きっと多くのことを学ぶはずです。

■判断が出来ない問題 2004年12月29日
こんなメールが来ました。

北朝鮮側の挑発に乗ってしまい、「制裁」発動推進、容認が大勢になりました。
広辞苑によれば、「制裁」とは、「しおき、こらしめのための罰」です。一国の判断による他国制裁を容認すれば、ブッシュの「ならずもの国家」論を批判できなくなります。イラク開戦反対だった7割の日本人はどこへ行ったのでしょう。

詳しくは、次のホームページをご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/thinkbook/

昨日の「イワン・フロール老人の教え」を思い出します。
まずは「許すこと」から平和は始まります。
オズグッドのデスカレーションへのイニシアティブ理論に私は共感しています。
もし、そうであれば、当然、このメールの通り、北朝鮮への経済制裁は避けなければいけません。
しかし、どうもその気にはなれないのです。

理由はいくらでもあげられます。
しかし、そんなことはどうでもいいことです。
大切なのは原則です。

このメールを読んでから4日目になりますが、
この呼びかけに賛同するかどうか、まだ結論を出せずにいます。

■冷え切った社会  2004年12月31日
スマトラ島沖で起きた地震による津波は10万人近い死者を出す結果になりました。
次から次への天災で、日本の台風や豪雨、さらには地震の災害も忘れられてしまいそうです。これほど天災が続くのはめずらしいでしょう。
人災も同じです。子どもを対象とした事件や家族殺人事件なども次々に起り、どれがどれやら混乱してまうほどです。

これは偶然なのでしょうか。
それとも大きな大事件の予兆なのでしょうか。
社会は冷え切っています。
何が起きてもおかしくないような不安があります。

大晦日の今日は、ものすごい寒さです。
これがその始まりでなければいいのですが。

来年は少なくとも週1回は、明るい話を書こうと思っています。
今年は愚痴と罵りにお付き合いいただき感謝します。
明日の朝は、初日の出を見たいものです。

2005年

■象徴的な年の変わり目  2005年1月2日

象徴的な年の変わり目でした。
ものすごく寒い大晦日が一変して、温かな元日でした。
しかも、厚い雲に遮られて、初日の出は見えなかったのですが、
未練がましく空を見ていたら、40分後に晴れてきて、雲の合間から太陽が見えたのです。そして、一挙に雰囲気が変わったのです。
実に象徴的な年明けでした。
もっとも、これは私の住んでいる千葉県我孫子市の話ですが。

今年はあたたかな年になりそうです。
いや、そうしなければいけません。
昨年のこのブログは、いささか口汚く、品位に欠けていました。
イワン老人の教えに反しました。
今年は少しポジティブに書いていくつもりです。
そして当事者的な視点を少し強める予定です。
CWSコモンズでの呼びかけとも連動させます。

みなさんもぜひ気楽にコメントしてください。
またCWSコモンズの案内にもぜひご参加ください。

4日から書きだす予定です。
明日はいただいた年賀状と年賀メールに返事を書かなくてはいけませんので。
今年もよろしくお願いいたします。

■ 言葉の世界からの脱却 2005年1月4日
昨年末に書いた「経済制裁の当否」について、まだ署名にはいたっていませんが、
少し考えが進みました。結局、私の価値基準である「個人起点」と「真心原理」で考えればいいのだと気がつきました。

「経済制裁」ではなく「経済支援中断」と言うべきだとの意見があります。
それを聞いた時に、なるほどと思いました。
たしかに言葉は世界を構築していきます。
「言葉が世界を構成している」という社会構築主義には私も大きな示唆を受けていますが、だからこそ言葉を大切にしたいと思います。言葉の言い直しで、安心する気にはなりません。言葉の内容の吟味がとても重要です。

こうした議論で必ず出てくるのが、「人道上の理由」です。
人道の対象は個人と考えていいでしょう。
では、制裁や支援(あるいは復興)の対象も個人でしょうか。
北朝鮮で苦しい生活を余儀なくされている多くの人たちに、もし政権経由でなく経済援助がなされるのであれば、おそらくそれは政権を揺るがすことになるでしょう。しかし、政権への援助であれば、苦しい人たちの救いになるでしょうか。逆に現政権を補強することになれば、人道に反することになりかねません。
脱北者を北朝鮮に返還するのは人道に合うのでしょうか。秩序回復のために、子どもたちにまで発砲することは人道に合うのでしょうか。

制裁や支援の対象が、個人なのか秩序(組織や体制)なのか。
それこそが意味の分かれ目なのです。
制裁や支援は、対象によって意味を全く変えるのです。
ですからこれは「手段的な言葉」と言っていいでしょう。
ついでに言えば、構造改革や企業変革も同じです。いや、民営化も同じだと言っていいでしょう。
にもかかわらず、その手段的言葉に振り回されているのが現在の日本です。
今年は、目的的な言葉で物事を見ていきたいと思います。

署名はきっとしないと思います。

■装丁を変えて売り出す講談社のビジネス倫理  2005年1月5日
ちょっと恥さらしの話です。もちろん私の恥です。

昨日、書店に立ち寄って、数冊の本を買い込んできました。軽い新書です。新書は書店に頼むこともないので、月に1回出かけて行って、数冊まとめて買ってくるのが私のスタイルです。

購入した1冊に講談社現代新書の「出雲神話」がありました。書店に平積みになっていた何冊かの新書のなかの1冊です。講談社新書は昨年に装丁を変えました。
帰宅後、購入してきた本を見直していて、この本が30年近く前に読んだ本の新装版であることに気づきました。本棚にある当時の本を調べたら、変わっているのは装丁だけでした。古い現代新書だったわけです。

内容を確認もせずに購入した私が悪いのですが、なにか詐欺にあった感じです。
装丁だけを変えて、新刊と並べて販売することは別にルール違反ではないでしょうが、なにか割り切れないものを感じます。
しかし、対象が本でよかったです。
同じようなことがいろいろなところで行われているのかもしれません。
衣装にだまされてはいけませんね。

■ 軍隊という名称 2005年1月6日
スマトラ沖の地震が引き起こした津波の被害はすごいものです。
自然の力を改めて思い知らされました。
日本の自衛隊が救援活動に動き出しました。
こういうことに向けて税金が使われるのであれば、増税も気になりません。

とても気になっている事があります。
また言葉の問題です。
イバン・イリイチは、25年前のアジア平和学会の講演で、
「英語のキーワードの多くに、今や暴力が潜んでいる」と話しました。
たとえば、「平和のための戦略を計画する」「貧困を撲滅する」などです。
企業経営の世界に戦争用語がたくさん使われていることは言うまでもないでしょう。
言葉が意識を規定していくとしたら、気をつけなければいけないことです。

しかし、そろそろもっとその根源にある考えを問い直さなければいけないような気がしています。言葉の見直しです。

まずは「自衛隊」です。
そもそも今の軍隊は少なくとも建前としては、すべて「自衛隊」でしょう。他国を侵略するための軍隊は存在しないでしょう。北朝鮮にしても、そうでしょう。アメリカもおそらくそうでしょう。イスラムの軍隊もそのはずです。
従って、自衛隊と軍隊は実際には同義語です。
だれもそうは思っていないかもしれませんが、現代の社会では論理的な帰結だと思います。

では、次に、自衛は戦力でできるのかです。
できないと思います。
争いや憎しみは限りなく強まるだけですから。
つまり「自衛隊」という言葉には、そもそも「滅び」が内蔵されているのです。

自衛隊の今回の活動は、自衛の要素はあるでしょう。
しかし、隣に困っている人がいれば手を貸したくなるという、自然の感情の延長での支援活動でもあります。
であれば、支援隊に名称を変えたらどうでしょうか。
「隊」がよくなければ、「支援会」でもいいでしょう。
これからは世界中の軍隊を「支援会」と改称したらどうでしょうか。

しまりのない名称ですね。
戦争になったらすぐ負けそうです。
もしそうであれば、戦争を始めることもないでしょう。

「軍隊」という言葉を過去のものにすることが大切ではないか、とつくづく思います。
私たちの意識の中に、軍隊や戦争への憧れがある以上、それは難しいことですが。

■年賀メールの効用  2005年1月7日

今年から女房が年賀状を手書きから写真に切り替えました。
昨年までは1枚ずつの手作りで大変でした。
私は早くから印刷方式にしていましたが、女房は手書き派で、印刷は手紙じゃないと言うタイプでした。
もちろん、今年も、宛名は手書き、文面もそれぞれに文章をつけています。
写真は恥ずかしながら、夫婦の近況写真です。
女房の友人に対しては、私の初デビューです。
それもまあ、いろいろと面白い反響があったのですが、
今回は私のほうの年賀メールの効用の話です。

年賀メールには女房は反対です。
味気ないというのです。
私も昔はそう思っていましたが、昨年から年賀メールに切り替えてみたら、
実に面白いのです。
返事があり、またそれに返信して、というように、極めてライブなやりとりができるのです。
切りがないので、途中で止まるわけですが、一方的な手紙とは違った面白さがあります。
もちろんすべてがそうではありません。
失礼ですが、どこかのカードサービスを利用した年賀メールも届きます。
これは退屈です。

もっとも、私もそれに似たようなことをしています。
つまり最初のメールは同じ文面で同時に発信するのですから。
しかも、本文は私のホームページをみてほしいというわけです。
まあ、人間は勝手なものです。

受け手の立場でも、年賀状よりも年賀メールが楽しくなってきました。
今年はいろいろと失敗がありましたが、来年はもっと効果的に活かせると思います。

ところで、女房ですが、最近、パソコンにはまっています。
機械音痴ですから時間はかかりますが、メールを楽しんでいます。
おそらく来年は年賀メールの楽しさにはまるのではないかと期待しています。
今年はまだ全く否定的ですが、まあ時間の問題でしょう。
人間は機械によって変化させられるものです。ちょっと不本意ではありますが。

■日本のために働くということ 2005年1月8日

福岡にあるグループホーム縁側の梅川さんは、私が信頼する若者の一人です。
1度しかあったことはありません。しかも、福岡空港であわただしく、です。
なぜ信頼するかといえば、現場につながりながら、自分の視点と信念で行動しているからです。実体のある言葉で語る人は、私は無条件で信頼します。
彼が年賀状に、「日本のために働きます」と書いてきたので、

「日本のために働く」のではなく、みんなのために働く」のがいいです。
この違いはとても大きいです。
私が日本の福祉政策に批判的なのは、日本(国家)のためであって、みんな(そこに住む人/日本国民に限りません)のためではないからです。

とメールしました。
その返事に、とても共感しました。
梅川さんの許可を得て、転載します。
長いですが、ぜひ読んでください。
現場の真っ只中で汗している人の真摯な発言です。

本当にそうですね。日本の福祉にしろ、イラクの復興にしろ、そこに住む人のことを考えない政策ですし、そこに基準を置かない政策や権力は近いうちに崩壊する(お客様のことを考えない会社が潰れるように)のが世の定石ではないかと最近僕は勝手にそう考えています。それに「国家とかいう小さい枠組みで考える時代じゃない」という方が最近、増えていらっしゃるようにも思います。

でも、僕はあえて「日本」にはこだわってみようと思います。

徳川家康にしろ幕末の名を残す志士達にしろ、何も戦いに明け暮れて、ライバルを潰していった結果、そうなったのではなく、「そこに住む民衆を慈しむ心に裏打ちされた国家観」というものがあり、そのことに対して自ら「矜持」を持っていたからこそ民衆が悲しまないようにするための大事業をなしえたのだと考えております。

またそれと同じ比重で、その時代、そこに住む民衆が、その政策(現在批判される士農工商にしろ)を了解し、支持したからこそ、事業の成功がありえたのだと思います。
いくら家康や大久保利通が信念をもっていて、事業をおこしても、民衆の要望(または潜在的要望)に応えていなければ、どんな小さな政策でも実現しなかったのではないかとも思います。

だからやっぱり「渡る『世間』は怖い!」
世の中には「世間知」(各民衆の良心とでもいいましょうか)というものがあって、それに適わない事業は、おそかれはやかれ潰れてしまう。

日清戦争の時の話です。

日本艦隊の発砲した弾が、清の有名な武功を持つ艦長にあたり即死したのを、日本側が知り、日本側も(国や人種を越え)一目おく人物だったので、相手の死を悼み、全軍に発砲を止めさせて、その艦長のために黙とうを捧げたとの話を知ったとき(それまで日本の戦争といえば昭和陸軍の南京大虐殺のイメージしかなったのですが)「自分が矜持をもつからこそ、相手の矜持も尊重できる」(またそうできることが本当の矜持・プライドなのかな)と考えるようになりました。まだこの「矜持」を自分なりにもつことは出来ていませんが。

僕の父は昭和の戦争を経験していますが、よく私は「何で本当のに国(国民・家族)のことを思って戦うのなら銃口を大本営に向けなかったのか」と父にいいます。父の返答は「憲兵がこわか(怖い)ろーもん」ですが。
これが幕末の坂本竜馬たちなら「この国(国民・民衆・そこに住む異国人)が危ない」と思えば、自分の命を賭してでも、たとえ「非国民」になろうが、なんだろうが道を誤らせる者と戦うでしょうし、その相手方もまた「これが正しい道なんだ」と思えば、これも命を賭けて応戦することになるでしょう。本当に自分が正しいと思うことのためになら血みどろになったっていいのではないでしょうか?

しかし、この「血みどろ」がこの戦後、「自分の命を一番大事にしなさい」といって育てられてきた僕には、なかなか出来そうありません。今のところは(情けないですが)せめて雰囲気というか、そんな風な気概だけでも持ちたいと願っております。

「国・国家」といえば昭和の戦争のなごりがあるので、「国民・そこに生きる者」を何か抑圧するもののようなイメージがありますが、僕の「日本(国家)のために」は「地域社会(人さま)のために」と同義です。(国家=日本=地域社会)

この「国家」は今、官僚のものか、マスコミのものか、アメリカのものか、分かりませんが、僕は「国家」は本当はいつの時代もそこに住み、そこにささやか幸せを求めて暮す、愛すべきひとたちのものだと思っています。

ほんと、自分なりにこの地域に役立てるように働きます!
命をどーんと賭けることはできませんが、人生の一部分はかけてみようと決意しております。(そして出来るならあとからたくさんお金がついてくればいいなと思うのですが。)

感動しました。歳をとるとすぐ涙が出るのです。
こういう若者に、私の未来は預けてもよさそうです。

■インド洋大津波  2005年1月9日
インド洋大津波の被害者がまだまだ増えています。
インドネシアにいる友人からのメールでは、インドネシアだけで15万人の死者だといいます。毎日のようにテレビで放映される津波の映像を見ていると、何かを書きたいのですが、書くことに躊躇を感じざるをえません。
何を書いても不謹慎になりそうだからです。

昨日、テレビで「ソラリス」を観ました。最近の映画です。
この原作「ソラリスの陽のもとに」には昔、魅了されました。最近、新訳も出ていますが、読んでいません。この種の本を読む気力が最近はなくなっているのです。想像力を働かせなければいけないからです。

最初の映画化作品は私には期待はずれでしたが、今回は、かなり満足できました。しかし、原作と切り離して、ですが。

ソラリスは惑星の名前です。その惑星の海は知能を持ち、そこに調査にいった科学者の意識にコミュニケーションしてきます。その仕方は現在の物理学のパラダイムを超えているのですが、そこがとても面白いのです。論理を超えているからです。
論理を超えると必ず出てくるのが「愛」です。この映画も愛の映画です。それだけなら私は退屈です。最近の映画が、安直に「愛」を語りすぎることに辟易しています。しかし、この映画は、そこに「恐怖」が埋め込まれているので、私は好きになりました。そのメッセージはスタニスワム・レムの時代よりも現実味を飛躍的に増しています。

話が飛躍しますが、ソラリスとインド洋大津波が私の頭のなかで奇妙に重なったのです。
今回の事件は海からの、つまり地球からのメッセージかもしれません。

映像を見ていると、海がどんどん引いていく場面でも、大きな波の壁が遠くに見える場面でも、それが自らの足元に近づくまでは、みんなその異常を「観察」しているのです。もし現場にいたら、私もきっとそうだったでしょう。想像を超える事件には、誰も危険を感じないのです。
現代は、こうした状況がさまざまなところにフラクタルに起こっている時代です。っしかし、誰も気づかない。これは不幸でしょうか幸せでしょうか。迷います。

津波にえぐり取られた岸壁を見て、歴史は決して連続的なものではないことも知りました。私たちが論理で構築した歴史などは、弱々しい仮説でしかないことを改めて確信しました。終わりは突然に来るのです。

何が始まっているのかわからないままに、私たちはいま、大きな危険にさらされているのかもしれません。しかし、危険は認知しなければ、危険ではありません。

なにやら小難しいことを書いてしまいましたが、
私の価値観をえぐりとられるような事件でした。
最近、友人知人の訃報が続いているのは偶然ではないのかもしれません。

■見たくないものを見ない生き方   2005年1月12日
昨日、新幹線で山形に行ったのですが、同じ車両に10人くらいの人たちが乗りました。
その人たちの半分は、太い紐でつながれていました。
犯罪者でしょうか。見てはいけないもの、見たくないものを見てしまった感じです。
そして、なにか気分が沈んでしまいました。
人が「つながれている」ということは、やはりショッキングな光景です。
事情をわからずにいうのは不謹慎ですが、大勢の人前で、人をつないで連行するようなことは、まさに人権侵害ではないかと思います。

しかし、今日になって、それとはまったく別のふたつの疑問がでてきました。

まず、こうした風景を見たくないと思う、私に対する疑問です。
私は、見て見ぬ振りをしました。おそらくみんなそうでしょう。
見ない振りをしているわけですから、当然、何も行動しません。
「どうしたのですか」などという質問はできません。
子どもであれば、どうでしょう。
きっと質問するでしょうね。
目撃者が多い状況の中でこそ、犯罪や事故は見過ごされるという調査結果がありますが、とても納得できます。
見たくないものは見ないという、こういう態度は、果たしていいのか、という疑問です。

もう一つは、これが犯罪事件そのものである可能性はなかったのかという疑問です。
紐でつながれていたのは被害者で、暴力団に連れて行かれるところだったかもしれません。途中で声を出したら、殺すと脅かされていたのかもしれません。その可能性はゼロではないはずです。
堂々と行動すれば、犯罪も見逃されるという話です。

しかし、目撃したすべての人は、確認もしないまま、紐でつなげて連行するという人権侵害を起こしているほうが正義で、連行されているの人たちは犯罪者と、勝手に解釈しているわけです。何かおかしいですね。
こうして、私たちは大きな犯罪を見逃してきているのかもしれません。

私もまた、裸の王様になりたがっておることに気づいて、愕然としました。
昔はこうではなかったのです。
まあ、それが人生を踏み外させたのかもしれませんが。

■司法制度改革が見落としていること  2005年1月13日
昨日の読売新聞の夕刊に「刑事裁判官 対話に不慣れ?」という大見出しで、裁判員制度に向けて、最高裁は今春以降、一般市民との対話に慣れた民事裁判官を、刑事担当へ「配転」させる方針を決めたことが報じられています。
また、今朝のテレビは青色LED訴訟和解に対する中村さんの「怒りの記者会見」を各局がとりあげています。和解しながら怒りを公開するのはフェアではありませんが、中村さんが日本の司法制度に対して発言していることには共感します。

私は裁判員制度の導入には批判的です。
今の司法制度改革は行政改革や郵政改革などと同じく、ピントはずれだと思っています。
制度の目的に照らして実状を確認し、問題の根幹を正す方策を真剣に考えるのではなく、表層的な問題を解決するために対症療法的な、しかも悪く言えば、問題の焦点をずらすような仮説のもとに、新しい制度を導入し、それをもって「改革」と称しているからです。第一、改革を議論する人たちの人選を間違えています。問題解決を先送りするために、事態はますます悪化することになりかねません。
今の産業再生や銀行の合併、市町村合併、など、ほとんどがそうした取り組みになっています。

人を裁くためには、二つのことが不可欠です。
当事者の思いを理解し、話し合いによって、世界を共有すること。
そして、事件に関わる現場の事実に立脚することです。

中村さんは事件に関わる資料を裁判官は読んでいないと怒っていました。それが事実かどうかは知りませんが、おそらくほとんどの裁判がそうではないかと言う人もいます。私もそう思います。それに、資料を読んだからといって現場の事実に立脚できるわけではありません。
その現場との生きた交流がなければ、それは不可能です。
当事者の思いを理解するためには、さまざまな人との対話や会話能力がなければ、これもまた不可能です。
つまり裁判官にとって大切なのは、法律知識ではなく、社会のおける生活をベースにした人間同士のコミュニケーション能力です。それがなくて、人が裁けるはずはありません。

しかし、残念ながら、そうした社会や生活者と距離を置いているのが裁判官です。
いや法曹界の人といっていいでしょう。
かつての裁判は、神(王)による裁きでしたが、今は違います。主権在民の理念の中での裁きは決して上の目線からの裁きではないのです。
裁きのパラダイムが変わったのです。

そこに気づかないで、裁判の変革はありえないと、私は思いますが、どうでしょうか。

■構造的介入  2005年1月14日
ノルウェイの思想家 J.ガルトゥングは直接的な暴力とは別に、構造がもたらす暴力に着目して、構造的暴力という言葉をつくりました。「社会構造のゆがみや不当な権力の発動による人権の剥奪状況」というような意味です。この概念は、平和の問題に大きな影響を与えてきました。
構造的暴力の対概念は主体的暴力です。つまり暴力の主体者が特定できるかどうかの違いです。誰が加害者か特定できない暴力状況は少なくありませんが、しかしその場合も、それによって誰が得をしているかから考えると問題の構図はかなり見えてきます。

さて、昨日、大きく取り上げられた「NHKへの政治介入」事件です。
何が真相なのかはまだ「藪の中」ですが、ニュースを見ていて、先ず思い出したのが、この構造的暴力の話です。
中川さんや安部さん、ましてや海老沢さんのような小市民の言動は、まあ私には瑣末なことのように思えますが、問題は彼らを生み出し支えている仕組みの存在です。
存在するだけで介入効果のあるカリスマ的な権力者やリーダーは少なくありません。西武の堤さんやダイエーの中内さんはそうだったのでしょう。その存在から生み出された主体を持たない構造的介入が組織を壊していきました。
しかし、そうしたカリスマ的な存在がなくても、構造的介入の仕組みが生まれ育っているのが現在の社会かもしれません。仕組みが人を支配しだしたのです。そして使いやすい小泉さんや安部さんを仕組みの走狗として使い込んでいるように思います。

今朝のNHKのニュースを見たわが家族の反応は、長井さんの話は嘘だったのかというものでした。そう感じた人も多かったでしょう。ここでも見事に構造的介入の仕組みが作動しています。
ちなみに、長井さんの記者会見(2005年1月13日)の放送映像を無料配信しているところがあります。見てください。
http://www.videonews.com/asx/011305_nagai_300.asx

権力者の喜びと利権は「介入」です。しかし、主体的な介入のほかに、こうした構造的介入の実態があるように思います。そして組織人は、その存在的介入の幻想に過剰反応して自己規制しがちです。それが多くの企業不祥事の原因です。
長井さんが「サラリーマンとしての苦しさ」を述べましたが、サラリーマンであることをやめれば、今の時代はとても生きやすい時代です。
組織の呪縛から自らを解き放しましょう。
最近の社会経済生産性本部の調査によれば、納得できない仕事を命じられたら、拒否すると答えた人が半数を超えたようです。
社会は変わってきているのです。

■混雑緩和のために道路をつくるとさらに混雑が増えてくる話 2005年1月20日
離婚が増えているために母子家庭が急増し、離婚母子家庭への支援拡充が課題になりそうだと今日の新聞が報道しています。
何か問題が起こると「支援」です。
まさに今は支援社会です。

自動車の渋滞を緩和するために道路を整備し増やしていくと逆に渋滞が増えると言う話があります。道路を整備すると、自動車の利便性が高まりますから、自動車の利用者が増えて交通渋滞はさらにひどくなるというわけです。
問題の根本解決を図らずに、対症療法的に問題を解決するために「支援」の仕組みを充実していくと、問題はますます深刻になってくることは少なくありません。
なぜそうなるかと言えば、問題の捉え方が間違っているのでしょう。

環境問題解決のために静脈産業を拡大させようなどという馬鹿げた議論が一時期盛んでしたが、それと同じで問題の設定を間違えると解決どころか事態をさらに悪化させかねません。
安直に支援などというべきではありません。
問題をしっかりと見据える姿勢が、最近どんどん失われ、安直な問題設定と安直な解決策が打ち出されて、安直に問題が「解決」されてしまう昨今の風潮が気になります。

ところで、男性の皆さん。
みなさんの家庭は実質的な母子家庭になっていませんか。

■強制送還の権利  2005年1月21日
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民と認めたトルコ国籍のクルド人、アハメット・カザンキランさん(49)と長男(20)がトルコに強制送還されました。その経緯にはいささかの恐ろしさを感じます。

2人は家族とともに、難民認定を求めて国連大学前で座り込みデモを行っていたそうですが、その途中で、品川入国管理局へ仮放免の延長手続きに行ったところ、その場で身柄を拘束されてしまい、なんとその翌日、2人は飛行機で、トルコへ強制送還されてしまったのです。
彼らを支援していた人からのメールによれば、UNHCRが難民と認めた難民が本国に強制送還された例はないそうです。
いうまでもなく、強制送還は生命の危険につながります。幸いに、今回は空港内でトルコ警察の手に引き渡されたものの、アハメットさんは解放され、息子さんは軍隊に入隊させられたそうです。もっともその先はわかりませんが。

社民党の福島党首が20日、南野法相に「政府の措置は極めて不当。UNHCRの勧告や判断を十分尊重することを求める」と申し入れたところ、法相は「日本の裁判所で難民ではないという認定が出たので、国内法にのっとって送還せざるを得ない」と答えたといいいます。国連の勧告は無視されたわけです。
脱北者を強制送還する中国政府のやり方に、私は国家犯罪を感じています。しかし、ほぼ同じことが日本でも行われていることをまざまざと知らされました。しかも、その手際の良さには驚くよりも怖さを感じました。
自らの秩序を維持するために、個人の生命はコラテラルダメッジでしかないのでしょうか。こうした事件は、ほかにもたくさんあるのでしょうか。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013

強制送還できる国家はすごい存在なのですね。
改めて国家のすごさを思い知らされました。

■マイノリティのパブリシティの排除 2005年1月23日
NHKへの政治介入事件、もしくは朝日新聞虚偽報道事件は、真実が見えてきません。
私は両方ともに、あまり信頼感を持てずにいますが、今回の両者のやり取りを見ていて、やはりテレビの暴力性を感じています。

例えば今日のNHKの夕方7時のニュースですが、朝日新聞の言い分は一切出てこずに、政治家の発言で自らの主張を客観化しています。政治家がこれまで証言してきたことの信用度を考えれば、まあどうでもいい話ですが、NHKのニュースだけを見ていれば、朝日新聞は嘘を報じたとみんな思うでしょう。国営放送の恐ろしさです。
スチュアート・ミルは民主主義とはマイノリティのパブリシティが確保されることだと言ったそうですが、今の日本ではマイノリティどころか、大新聞ですら、パブリシティの場での排除の対象になることが示されたわけです。

私はある体験で、朝日新聞に不信感をもち、学生時代以来慣れ親しんできた朝日新聞の購読を止めています。だからと言って、読売新聞が信頼できるわけではないのですが、まあ、それくらいしか選択肢がなかったのです。
いずれにしろ、朝日新聞もおそらくNHKと同じようなことをしているだろうと思っています。つまり自らが信念を持って主体的に報じているとは思っていません。その文化は残念ながらなくなっているでしょう。付き合ってよくわかりました。

ですから私にはまあ、どんぐりの背比べにしかうつりませんが、今回の件に関しては、NHKの現在の報道姿勢には、そうしたことを超えた驚きと怖さを感じます。
せめて反対側の立場の人の声も聞きたいものですが、それが出てこない。それをNHKの人はおかしいと思わないのでしょうか。その一事を持ってしても、おそらくNHKがより多くの非を持っていると思うのは私だけでしょうか。

でもまあ、そんなこともどうでもいいのかもしれません。
もっと怖いのは、真実と無関係に、別の事実を創出していくテレビの怖さです。
身の毛がよだちます。
北朝鮮の放送を喜劇視してきた自分を恥じなければいけません。
同じだったのです。

■衆議院本会議場から退席した民主党を支持します 2005年1月24日
今日は仕事をするために自宅にこもっていました。オフィスに行くと来客で仕事はできないからです。
昼食が終わった1時過ぎにテレビで衆議院の本会議の中継をやっていました。会場で寝ている人も見えました。そういう人をもっとクローズアップしてほしいものです。
代表質問で民主党の岡田党首が質問をしていました。なかなかの熱弁です。そして小泉首相の答弁。ここまではまあ退屈でした。
テレビを切って仕事に戻ろうとしたら、首相の答弁に岡田さんが論点を少し絞って再質問を始めました。それがなかなかのものでした。岡田さんを見直しました。そして、小泉首相が用意されたペーパーなしに、どう答えるか楽しみになりました。
ところがです。小泉首相は再質問された項目を並べ上げた上で、それらについては既に説明してあると答えて、終わったのです。唖然としました。
議会も唖然としたのか、早速、議員たちが集まって収拾策を議論しだしました。そのすぐ近くで、首相はニヤニヤしていました。岡田さんは遠くでムッとしていました。
議長が岡田さんの再質問を認めましたが、岡田さんはそれが納得できず、席を立たずに再調停させる指示を出したようです。また各グループの交渉係が集まって議論を始めました。そして今度は首相が補足答弁することが議長から発せられました。首相は、なんと再質問には民主党の意見も含まれていたが、質問には最初の答弁ですべて答えていると回答しました。これは補足とはいわないでしょう。人を馬鹿にした発言です。私ならすぐに切れて席を立つでしょう。岡田さんはこらえました。そしてまた議員の調整。そしてまた首相の補足とはいえない人を馬鹿にした「補足意見」がありました。ついに岡田さんは呆れて席を立ちました。民主党議員はみんな退場です。そして、その後は、残った人たちで継続です。次の質問者は自民党の幹事長です。もちろんテレビを切りました。茶番は退屈ですから。
この中断の時間はほぼ1時間です。それにすべて付きあいました。腹がたちました。
しかもです、その中継の解説をしているNHKの記者が、ひどいのです。この人は2人のやりとりを聞いていたのだろうかと思うようなバカな解説をオウムのように繰り返していました。主体性は全くありません。自民党に気兼ねしているか、あるいは解説能力のない人かのいずれかとしか思えません。解説記者とは言えないでしょう。小泉首相と同じ種類の人なのでしょうか。

そんなわけで、折角休んで仕事をしようと思っていたのですが、すっかりやる気をなくしてしまいました。首相がこんな手抜きをして許され(質問に答えずにニヤニヤしているだけです)、国営放送でもこんな映像しか送れないのであれば、もっと楽をしても、許されるなと思ったわけです。それで、女房と散歩に出かけてしまいました。また仕事が出来ませんでした。はい、すみません。

この番組をみていなかったら、きっと退場した民主党を非難したでしょうね。しかし、ずっと見ていたおかげで岡田さんの気持ちがよくわかります。
国会中継はやはり日曜日か夜にやるべきですね。平日の昼間では普通の人は見ることができません。やはり実際にみないと理解はできません。新聞で読んでも全くわかりませんし、部分をニュースで見てもモンタージュ効果でいかようにも編集できます。

実にいろいろなことがわかりました。
今日は完全に仕事をやる気分にはなれません。
こうやって、やるべきことを先延ばしている私も、もしかしたら首相と同じかもしれませんね。まあ、サルでも首相がつとまる国家の国民は、そんなものかもしれません。
反省。

■忙しすぎて事実を見ない生活への反省  2005年1月25日
昨日に引き続き、ついつい衆議院本会議の中継を少し見てしまいました。
小宮山さんの質問の、最初の2分間は国民みんなに見てほしかったです。
きっと誰かがネットに採録してくれるでしょうから、わかり次第ここにも掲載しますが。

ところで、昨日の顛末の報道ですが、いささかの失望があります。
マスコミやテレビのキャスターはもっと掘り下げて報道してほしかったです。
私は幸運にも中継を見たからいいものの、そうでなくてニュースだけを見た人は、どっちもどっちだと思ったでしょう。新聞もテレビも、そのトーンでした。つまりリスクをとっていないのです。
またこれは小泉対小沢の政治のかけひきだという指摘もありました。たとえば報道ステーションです。そんなことは瑣末な話です。問題を摩り替えてはいけません。
大切なのは、対話を拒否した首相の不真面目さなのです。そしてそれを批判できない、あるいは適切に表現できず、従って質問もできないジャーナリストの現状です。

彼が首相でいられるのは国民が忙しすぎて、こうした彼の素顔を見る機会がないからなのかもしれません。知らないところで、勝手にやっているわけです。
それは首相だけではないかもしれません。
社会保険庁の偉い人たちが相変わらずの仕事をし、拉致問題はなかなか進まず、企業不祥事もなくならない。みんな忙しすぎて、かまっている暇がないからでしょうか。
いや、私たちはいま、みんな忙しすぎて、事実をきちんと確認せずに物事を判断しているのかもしれません。忙しさは、本当に心を失わせます。反省反省。

団塊の世代に暇ができたら、社会は変わりますね。
もう少しです。

■司法改革の前にやるべきこと 2005年1月27日
昨日、2つの判決が出ました。
東京都管理職試験訴訟と桶川女子大生刺殺賠償訴訟です。
皆さんはどう評価されたでしょうか。
私はまた裁判官と法曹界の非常識さを感じました。
被害者の目線に立つことは今の裁判官には望むことは無理なのでしょうか。
いずれも責任放棄しているとしか考えられません。
彼らをこそ裁判にかけてやりたいです。
事実、裁判の当事者になった法曹界の人が被害者の会に入って活動していますが、
当事者にならなければわからないような人には法曹界には入ってほしくありません。

私は法学部で学びましたが、リーガルマインドを身に付けたと自負しています。
しかし法曹界に入るには条文の暗記や解釈の暗記が必要だったような気がします。
その現実を知って(認識違いだったかもしれません)、目指していた検事になるのをやめたのですが、今から思うと悔やまれます。裁判官になって、内部告発すればよかったです。いや、また口がすべりました。

裁判は何のためにあるのか。
秩序維持のためにあります。
その秩序は、組織の秩序です。
個々人の生活の秩序ではないのです。
組織起点の発想から個人起点の発想に帰ると、裁判の問題点が見えてきます。
司法改革は、その視点を変えることでなければ、悪くなるだけの話です。
裁判員制度を司法改革などと思っている法曹界の人たちは、小泉首相の構造改革と同じ発想の人たちでしょう。
残念でなりません。
先ずは自らを変えずして、改革などは行えないのです。

■全国総合開発計画(全総)制度の廃止  2005年1月30日

「国土交通省は戦後の開発行政の指針となってきた全国総合開発計画(全総)を廃止する方針を固め、06年にも始める新たな国土利用計画の概要をまとめた」そして、「今後の社会資本の整備は、既存施設・設備の有効活用を掲げ、脱開発型に改める」と朝日新聞が報じています。
新たな国土利用計画なるものが、これまでの全総とどう違うのか、またそれを支える「有識者」たちはどういう人なのかをもう少し見極めないといけませんが、方向は歓迎します。
全体から考えていく時代は終わり、個々の現場や個人の生活から考えていく時代へと換わらなければならない時代になったという認識を持っている私は、「国土を利用する人たちのために」と言う統治者の視点ではなく、「生活を豊かにするために」という住民の視点で、社会や国土のビジョンは描かれなければいけないと考えます。もちろん生活を豊かにすることの根底には、宮澤賢治的な豊かな想像力が必要ですが。
http://homepage2.nifty.com/CWS/sa1-2.htm#ko
自分の生活しか考えない「住民エゴ」に任せていたら、それこそ国土はめちゃくちゃになると反論する人がいるかもしれません。そういう人には、そういう判断から、自分の生活を離れて客観的に判断できる「有識者」や「専門家」に任せていた、現在の結果はどうですか、と問いただせばいいだけの話です。
生活から発想するということは、生活者こそが有識者で専門家であるということです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m4

しかし、都市計画マスタープランも地域福祉計画など、これからの行政計画は住民のと一緒に創る方針が以前から打ち出されていますが、寡聞にして、そうした主旨がきちんと守られた事例をほとんど知りません。今回はどうなるでしょうか。たとえば、NPOの広がりなど、社会状況の変化を踏まえた展開を期待したいです。

道路も新幹線も決して悪いわけではなく、公共施設も重要です。
しかし、それらが住民生活に立脚していればこそ、です。
昨今の政治議論は、ほとんどが問題の立て方を待つがえていると私は思っています。
これからの社会資本(ソーシャル・キャピタル)は、開発とかそういう話ではなく、人と人との絆であり、信頼関係です。そういうものを壊す方向で豊かさを追求してきた発想を反転させなければいけません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/sc-1.htm
そういう理念がきちんと踏まえられているか、どういう人がこの方針の支えて担っていくかが気になっています。これまでの全総に関わった人が絡まなければきっといい方向に動き出すでしょう。

■イラクの国民投票の結果 2005年2月1日

イラクでの国民投票が終わりました。
これが「どのような物語」のはじまりなのかは、人によってかなり違うものだろうと思います。

私は、この選挙に関しては投票権もありませんし、その影響をそれほど受けるわけではありませんので、イラクにとっての意味は語ることはできません。
イラクで生活する人たちにとって、どういう意味があり、どういうものであったかは、残念ながらテレビや新聞からでは見えてきません。ただ、その選挙のために大勢の人が死に、憎しみを残していったであろうことは推察できます。

選挙は役割を終えた、と私は思っています。イラクで、ではありません。至るところで、です。アメリカの大統領選挙も日本の国会議員選挙も、民意を代表しているわけではないことが明白になってきましたし、操作可能性が高まっているように思います。つまり、選挙の正当性を保証する情報基盤や公正な手続きの信頼性が損なわれてきてしまったように思います。一度、崩壊した幻想は効用を失います。
選挙も国民の合意も、政治家にとっては自己主張のための道具でしかありません。
権力者が考える「国民合意」とは何なのか、一度、安部さんや小泉首相にお聞きしたいものです。

イラクの選挙で、いったい、何が変わるのでしょうか。
国民の合意が得られたのでしょうか。
その合意は、イラクでの戦いを終わらせられるのでしょうか。

戦いを止めさせることは、第三者にはできません。
しかし、戦わせることは第三者にもできることです。
不本意ながら、戦いを増幅させている側にいる者の一人として、
選挙が戦いを増幅させないことを祈りたいです。

■ニーメラーの教訓  2005年2月3日

岩波新書の「ルポ戦争協力拒否」を読みました。こういう本がなぜ読まれないのかが残念でなりません。書籍文化を壊し続ける出版社には、少し考えを変えてほしいものです。
それはともかく。

昔読んだ、ニーメラーのエピソードが紹介されていました。
丸山眞男「現代における人間と政治」に紹介されている話ですが、それをこの本に登場するある人が語ってくれています。引用させてもらいます。

「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。(「ルポ戦争協力拒否」184頁)

まだ間に合うでしょうか。
2月20日に、「テロリストは誰?九条の会」というグループ立ち上げのための設立茶話会があります。私は同じ時間に子育ち学のフォーラムがありますので、参加できないのが心底残念ですが、みなさんいかがでしょうか。私の代わりにどなたか参加してくれませんか。ホームページをご覧下さい。http://whatsa9.atspace.org/

■銀行の窓口の不思議さ  2005年2月4日
久しぶりに銀行に行きました。
東京三菱銀行柏支店です。
私の住んでいる我孫子市には支店がないので、電車で行かないとダメなのです。
今回はATMで使うカードを発行してもらうためです。

ところがです。
窓口がごった返ししているのです。
係の人にきくと1時間くらいかかるそうです。確かに窓口の前のイスは満席です。
久しぶりの銀行ですが、信じられない風景です。
1時間ですよ。
平日のお昼過ぎです。係の人に午後になるとすきますか、と尋ねたら、ずっとこうです、ということでした。
どこかで聞いた言葉だなと思いました。そうです、羽田空港での事件です。

銀行がつぶれるのは当然ですね。
大銀行を利用するのをやめることにしました。まあ、ほとんど預金はありませんから、銀行には何の影響もないでしょうが。地場の千葉銀行か郵便局にします。まあ、郵便局も民営化されたらこうなるのでしょうか。いや、サービス向上のための民営化でしたっけ?どうも最近は混乱する事が多いです。
こんな銀行を支えるために私たちの税金が使われているかと思うと情けないですね。
頭取は一度でもいいから自分で銀行の窓口に言って、利用してみてほしいですね。

最近は朝日新聞をやめ、日航も利用をやめ、今度は都市銀行の利用をやめ、もう大変です。
不便な時代になってきました。まともな事業家はいないのでしょうか。


■通貨偽造の意味 2005年2月4日

今回は暴論です。
最近、通貨偽造が広がっています。
非常識な話ですが、通貨偽造がなぜ悪いのかがよくわからなくなりました。
偽造によって、通貨の仕組みの信頼性を失わせるとか、インフレを引き起こすとか、偽造した人は得をするとか、いろいろと理屈では考えられますが、それがどうしたと考えていくとわからなくなるのです。

通貨って本当に分かりにくい存在です。
財政がこれほど赤字でも経済がまわっています。
その借金はどこからしているのでしょうか。それを裏付けるお金は誰が発行しているのでしょうか。
大銀行や大会社に絡んでの巨額な債権放棄や国税の投入とわずかばかりの紙幣偽造とどこがちがうのでしょうか。
ノンバンクの金融機関が高率な利子をとるのに比べたら、たかだか数億円の紙幣偽造などは瑣末な問題のような気もします。汗をかかずに、紙幣を創出する仕組みは蔓延するなかで、偽造通貨の意味は一体何なのか、偽造行為は悪いことは理解できますが、どうも腹におちません。

デリバティブとかなんとか、よくわからない仕組みで信用創造している社会のほうにこそ、問題があるような気がします。
なんでも証券化する時代ですし、よくわからない証券は偽札みたいなものにも思えますし。
思いつきで2000円札を創るのと、偽札とは全く違うことなのでしょうが、どこか類似性を感じます。

お金を偽造することは、どこに問題があるのでしょうか。
どうもわからなくなってきました。
どなたか教えてくれませんか。

ちなみに私たちがやっているコモンズ通貨というのがありますが、この通貨は偽造歓迎です。カード式ですが、偽造してもらえれば、作る手間が省けますから。

■刑の与え方がまちがっている社会  2005年2月7日
再犯の増加が増えています。
そうした事件の報道に出会う度に、
「罪を憎んで人を憎まず」という命題に疑問を感じます。

裁判は「罪」を裁くのであって、「人」を裁くのではないのでしょうか。
罰する対象は人ではなくて、罪なのでしょうか。
どこかにおかしさを感じます。

もし仮に、人を憎まずであるとしても、
今の司法の枠組みには大きな疑問を感じます。
刑期を終えて出所した人がすぐにまた犯罪を行うのは、
その人を受け入れる社会の環境が整っていないからだという人もいます。
もしそうであれば、それは刑の与え方が間違っています。
受け入れ体制ができていない社会に出所させてはいけません。
つまりもっと刑期を長くし、それなりの生きる術を習得させるべきです。

飲酒運転で人を殺傷した人が再犯を繰り返すこともありますが、
それもそもそもは刑の与え方が間違っているのです。
問題は簡単です。
飲酒運転で事故を起こした人は、免許を剥奪し、一生、運転を認めなくすれば良いのです。そうしたところで何の不都合も起きません。もし起きるとしたら、自動車運転人口が減少し、自動車が売れなくなるかもしれないと言うだけです。つまり、こんな簡単なことも出来ないのは、自動車産業を初めとした産業界の意向だとしか思えません。それ以外の理由は私には考えられません。もしあれば、誰か教えてください。

さらに、不条理な高利貸しやドラッグの販売など、どこかで犯罪につながる原因を作っている人たちもまた、厳罰に処するべきです。どんどん摘発し、社会から隔離すべきです。
少なくとも、そんな活動が出来なくするべきでしょう。なぜそれができないか、これも問題は簡単なような気がします。

安直な人権主義があまりにも多いのは、なぜでしょうか。
安直な人権主義は、すべての関係者を不幸にしかねません。
司法界の人たちには、もう少し真剣になってほしいものです。
警察行政も司法界も、もっと産業から自立しなければいけません。

■お金を付けて家を売る時代 2005年2月11日
地元の不動産屋さんといろいろと四方山話をしていて、聞いた話です。
私の住んでいる我孫子市ではいま、駅前が大型マンションの建設ラッシュなのです。
シティアという大型開発には、私の知っているまちづくり活動に取り組んでいる長野県の人たちが見学にまで来ています。コミュニティづくりを中心においたコンセプトがいいのだそうです。私にはとても違和感がありますが。
まあ、それはともかく、不動産屋さんの話はとても考えさせられました。
こういう話です。

ある人がマンション購入後、事情があって売ることになったそうです。
ところが価格が2年もたっていないのに、1000万円近くも下がってしまい、残っているローンよりも400万円以上低かったのだそうです。
そのため、マンションを販売するために、その差額を支払わなければならなくなりました。自分の家を売るのに400万円必要だったわけです。売った人がお金を払う、おかしな時代が来たとその不動産屋さんは嘆いていました。
まあ、借金をして購入したわけですから、論理的に考えれば当然のことなのですが、なにか不思議な話です。そういう可哀想な話が最近は増えているそうです。
またマンションを購入した若い夫婦が離婚することになって、奥さんが自分も分担投資して購入した財産であるマンションを売って、せめて自分の負担分だけでも取り戻したいと相談に来たそうですが、取り戻すどころかローン差額をさらに分担しなければいけないという話もあったそうです。

誰が得をして、だれが損をしているのでしょうか。
何かが間違っています。
少ない頭金で変える仕組みも住宅価格の品質保証や価格評価の仕組みも、さらにいえば、その根底にある金融政策や金融産業政策も、どこかに欠陥があります。
少し考えるだけで問題点などはわかりますが、だれも治そうとしません。

ちなみに私も恥ずかしながら、退職金の一部でマンションを購入して、退職金全額以上の損をしました。金融政策にもその原因の一端があるような気がしますが、その原因をつくった金融業界の損失は国家によって補填されているのに、貧しい我が家の損失は残念ながら補填してもらえません。まあ、自己責任ですから当然ですが。

「住宅喪失」(島本慈子著、ちくま新書)という本があります。それを紹介しているreikoyamamotoさんのブログも読んでください。彼女は、「これを読んだだけでは分からないが、日本という国で家を買うのが怖くなった」と書いています。

■表現に気をつけなくてはいけない社会  2005年2月12日
今日は自己告白です。

このブログを読んで下さっている方はおそらく感づかれていると思いますが、
私は言わなくてもいいことを、それもやや過剰な表現で話したり書いたりしてしまうタイプの人間です。しかも感情がすぐ表情に出てしまいます。
大人としての常識がかなり欠落し、自己抑制力が弱く、そのくせ思い込みの強さから判断を間違うことも多く、その弱みを家族には見透かされているのです。

このブログや私のもう一つのホームページ(CWSコモンズ)は、最近、家族のチェックが入るようになりました。最初は反発していましたが、最近は彼らのいう事が正しいような気がしてきました。昨日のブログも2回もリライトしました。

私は自らの価値観をとても大事にしてきました。そして自分の意見を表明することは、大切なことだと考えてきましたから、それを大体においてストレートに出してきました。女房に言わせると、私の言葉は暴力的だそうです。子どもの言葉は、いつも暴力的ですが、その段階からまだ抜け出ていないのです。ですからきっと多くの人を傷つけていると女房はいうのです。

おそらくそうなのでしょう。最近つくづくそう思います。
しかしなかなか直りません。

いろいろな集まりに行くと、そこを支配している常識と私自身の常識とがあまりにも違うために、いらいらすることが少なくありません。参加した以上、おとなしく、そうした意見を拝聴しなければいけませんが、それがとても苦痛です。限度を超すと、ついつい跳ねてしまって、余計な一言を発信してしまうこともあります。途中で気づいて信頼回復につとめるのですが、一度跳ねてしまうと、もうだめで、はじかれものになってしまいます。そういう時は多くの場合、訳の分からない発言になってしまい、真意は伝わりません。そして自己嫌悪に陥ります。

私の個人的なホームページも表現に気をつけなければならないと昨日、家族からたしなめられました。ITの発達により、個人の発言も瞬時に世界に伝わる時代です。だからこそ気をつけろというのです。それに私を知らない人は「言葉」だけで考えるから、冗談が冗談にならないし、反意語もそのまま受け取られてしまうというのです。悔しいですが、納得しました。老いては子に教えられ、です。

私のホームページですらそうですから、マスコミでの表現はもっと大変なチェックが入るのでしょうね。そういえば、署名入り記事まで編集者によってリライトされることがあるようですし。

ITによって多様な価値観がどんどん露出し、そのつながりから新しい価値が創発される、まさに多様性社会が実現する、と私は考えていました。
しかし、これは間違いかもしれません。
むしろITにより発信範囲が広がると、各人の価値観は自己規制によって丸くなり、創発ではなく収斂し、単一価値観の社会へと向かっていくのかもしれません。
多様な意見が増加しているようで、実は意見が没個性化している。
昔書いた非情報化社会論を思い出しました。
因果の法則は時にねじれた結果を現出させるものです。

■信頼を失いつつある金融システムの意味 2005年2月13日
通貨偽造がなぜ悪いのか記事は不評でした。
偽造は悪いに決まっているといわれれば、反論も出来ません。
少し違った視点から書きます。

日本の金融システムは信頼を失いつつあると、私は思います。
信頼を失ってしまえば、金融システムは成り立ちません。
そこに大きな問題があります。

最近の金融に関わる犯罪の多さに、銀行に預金することへの躊躇を感じている人は少なくないでしょう。
カード詐欺にあっても保証もしてくれない銀行を信頼できるわけがありません。
今はまだかつての信頼幻想の中で預金者は不安を抱きながらも他に術がないために、銀行を利用せざるをえないのですが、いつまで続くでしょうか。

銀行の社会的存在価値は大きく変わってきているはずですが、銀行は新しいミッションを創りそこないました。いや、その気はなかったとしか思えません。そして、むしろ金融不安や金融事故に依存して、自らの私益を維持することにのみ関心を向けているように思います。銀行統廃合の動きがそれを象徴しています。

カード詐欺にしても、対応策はいくらでもあったはずですが、自らの責任は取らずにきました。銀行を信頼して預けた預金者の保護は彼らの関心事ではありません。もちろん政治家も本気で考えようとはしていません。むしろヤミ金融の世界を利用しながら、問題の本質を摩り替えているような気がしてなりません。
つまり銀行をはじめとした金融関係者は、信頼性を保証するためのビジネスチャンスには関心を持っていますが、金融システムの信頼性にあまり関心はないのです。
まさに「産業のジレンマ」の典型的な事例です。

金融システムがこわれたら、大混乱が起こるでしょう。
金融システムの信頼性の回復は緊切な課題です。
それは、企業や産業の視点で構想するのではなく、個々人の生活の視点で構想されなければいけません。
せめてカード詐欺や振込詐欺の被害者を救済する仕組みはすぐにでもつくるべきです。
システムを管理する側として、それは当然のことです。
その常識を回復するところから、まずは始めるべきでしょう。

■学校がなぜ悲劇の舞台になるのか 2005年2月15日
また学校が舞台の事件が起きました。
事件の背景は全くわかりませんので、この事件へのコメントは避けますが、
学校という空間もまた、信頼を失った殺伐とした空間になっていることを思わせます。
なぜ学校が殺伐とした空間になったかは、社会のあり方と深くつながっています。社会の歪みが学校を通して子どもたちに襲いかかる仕組みになっているのかもしれません。
問題は社会の形に合わせて設計された学校に、子どもたちが無理やり合わせられているのです。そこに大きな問題を感じます。
学校の主役はだれでしょうか。
私は子どもたちだと思いますが、一部の例外を除き、そうはなっていないと思います。

その歪みは、いろいろな形で現れています。
例えば、最近、発達障害が話題になっていますが、昨日、日本教育会館で行なわれた公開研究会に参加した人がホームページにこんなことを書いています。

メディアは全般に、「今まで隠れていた障害が明らかになり、
細かい支援が行なわれるようになった」という論調ですが、
実際には入学前に細かい選別が行なわれているのです。
要するに、障害児の多様化・重層化なんですね。
(中略)
それを支えているのは、学級崩壊を防ぎたい教師と
子育て不安から診断を望む親。
そして、出来る子にエネルギーとお金を注ぎたい文部科学省です。

教室に入れてもらえなかったり、教室から追い出されたり、様々な問題が起きているのです。

詳しくはこのホームページをご覧下さい。
報告者は川西玲子さんです。

こうして創られた学校空間が、いかに子どもたちの心を歪めるかは想像に難くないです。

学校を開くとか閉じるとかの問題は、
学校の透明性を高めるということでなければいけません。
子どもたちの集まる場をマネジメントしている人たちは、実態をもっと社会に情報発信してほしいです。突然に事件が起きるわけではありません。

この事件は、そうしたことが急務であることを示唆しているように思います。

■ライブドアの堀江さんを支持し感謝します 2005年2月21日
今日は勝手な支持表明です。

ライブドアの堀江さんを支持します。
私が支持したところで何の意味もないかもしれませんが、意思表明をしておきたいと思います。
もちろんこの支持は楽天やフジテレビの行動への異議申し立てを含んでいます。
そして、同時にマスコミの報道姿勢への異議申し立ても、です。

硬直し、制度疲労を起こしている現状に、堀江さんは新しい風を吹き込みました。
その新しい風を利用して、リスクをとらずに漁夫の利を得た楽天のやり方には怒りを感じます。こうして新しい風を押さえ込み、悪用してきた大人たちが子どもたちの不信感を強めているのだろうと思います。短絡的ですが、楽天の三木谷社長のような大人が社会をダメにしているのだろうと思います。彼を利用している財界にも失望しますが、彼らは論外で哀れむ対象ですので、むしろ三木谷社長が私には不快です。
フジテレビ事件はどうでしょうか。フジテレビにはもっと大人としての対応もあったと思います。敵対意識はむしろフジテレビの社長発言に感じます。弱く自信がないからでしょうか。それとも「大人」だからでしょうか。
ビジネスゲームとして考えたら、堀江さんの言動は稚拙だったかもしれません。あんなに発言してはダメだと有識者は言いますが、そこに価値観や世界観の違いを感じます。そういう論理の支配していた経済社会を壊そうとしているのが堀江さんです。彼の素直な言動を私は強く支持したいです。しかしマスコミや有識者は、よってたかって彼をつぶそうとしているように思います。それはまさに、今の体制に寄生している彼らの立場と私欲を露呈しています。私は彼らのような大人にはなりたくありません。

堀江さんを支持します。
「命に次に大切なお金」という発言にはいささかの違和感はありますが、
おそらく彼の真意はそこにはないでしょう。大人たちに向けられたブラックジョークだと思います。

堀江さんの志と夢に共感します。
何か役に立てればと思うのですが、定期預金残高ゼロの私には資金的な応援ができないので、せめて支持表明だけをさせてもらいました。

堀江さん
あなたの起こしている新しい風はかならず実っていくはずです。
いや、すでに大きな成果をあげていると思います。
少なくとも私は感謝しています。こういう人がいると知っただけで、元気が出てきます。
ありがとうございました。

■私は民間人なのです 2005年2月23日
川崎市の宮前区に、初の民間人区長が就任したと読売新聞に大きく取り上げられていました。
「民間人」。何とも馴染めない言葉です。

大辞林によれば、民間人とは公的機関に属さない人のことだそうです。
ここでは、公と民とが対峙されています。つまり、日本の公とは官なのです。パブリックではありません。

官は「統べる側」、民は「統べられる側」です。
そこには垂直的な上下関係があります。
民間企業、民間外交、・・・民は官よりも一段下に見られている構造がそこにあります。

議員は民を代表して官とつながる存在です。
まあ、現実はアリバイ工作であり、飼いならされた官でしかないことが多いですが。

言葉の問題ではありますが、士農工商社会の延長の構造を感じます。
この構造を変えなければ、社会は変わりません。
残念ながら、現実はその枠の中で動機付けられた「民間人」たちが上昇志向の競争に追い立てられている状況です。
そこから抜け出なければいけません。

市役所の職員は「民間人」ではないのですが、
「民間人」から区長になった人は、これからは「民間人」ではなくなるのでしょうか。
それが「出世」だと、この記事を書いた記者は思っているのでしょうか。

たかが「言葉」ですが、言葉は大きなサブリミナリー効果を持っています。
差別用語狩りには、私は違和感がありますが、むしろこうした私たちの意識を規定している言葉をこそ吟味していかなければいけないと思います。

これは統治されている民間人のひがみでしょうか。

■次世代育成行動計画が策定されていることをご存知ですか 2005年2月24日
日曜日に、今、自治体で取り組まれている「子ども・子育て応援プラン、次世代育成行動計画」をテーマにした、子育ち学フォーラムに参加しました。
子育て分野で活動をしている人以外は、あまり知らないかもしれませんが、今年度中に自治体はこの計画を策定しなければいけないのです。策定に当たっては、住民の意見を反映させることがうたわれています。
ところが、その策定の実態を知ると「またか」と思うほど、形だけのものになっています。貴重な税金が、外部の安直なコンサルタント会社に流れているケースも少なくありません。こういう状況はまだほとんど直っていません。
詳しくはCWSコモンズのホームページなどで紹介しますが、そこで感じたことをここでも書いておきたいと思います。どうもコモンズよりもこのブログのほうが読者が多いようですので。

各地でこの計画に関わっている4人の方から、生々しい報告がありましたが、その基調にあるのは、形だけの計画づくりへの疑問です。次世代の子どもたちの行動計画を実際には4〜5か月で策定しなければいけないなどというのは、霞ヶ関の机上論者の発想です。それにみんな振り回されているわけです。
住民意見の聴取は、アリバイ工作的に行われていることも少なくありませんし、計画の前提になる意見調査もコンサルタント会社の通り一遍のものも少なくないようです。

また計画の内容も、「・・・を検討する」「・・・につとめる」「・・・の整備を進める」という文言が多く、これが計画といえるのかという疑問も出されました。計画をつくっても市町村合併でどうなるのか不安だという意見も多かったです。
最後に私も少し話させてもらいましたが、そこで、計画は住民にとってのツールになること、行政の合併などは気にせずに、住民生活の視点から行政計画とは別の自分たちの計画と活動を広げていくことを提案しました。
たしかに行政の計画は抽象的ですが、もし「検討する」「つとめる」と明記されていれば、それを材料に行政に実際の検討を働きかけ、具体的な行動を引き出せばいいのです。行政計画は行政の拠り所と位置づけられがちですが、住民と行政とのコミュニケーションメディアなのです。つまり、住民が行政に働きかけていく材料なのです。
また次世代育成までを行政に依存していたら、また戦争に借り出される子どもたちを育てることにもなりかねません。せめて次世代はお上の助けを借りずに、自分たちが中心になって育てなければいけません。市町村合併とは全く別の次元で私たちの生活圏は形成されています。もしそうであれば、合併論議などは気にしないでいいのです。それとは別に住民主役の計画や実践を進めればいいのです。

子どもの問題は、実は大人の生き方の問題でもあります。次世代育成などという言葉には違和感を持ちますが、もっとみんなが関心を持つべきテーマです。
ぜひとも自分の自治体ではどんな取り組みがなされているかを気にしてもらえればうれしいです。

■ ルールを変える競争社会 2005年2月25日
ライブドアの堀江さんが厳しい状況になってきています。
テレビなどでの報道姿勢もどうも堀江さんに冷たいような気もします。
キャスターのみなさんは別ですが。

今日のテレビでもどなたか言っていましたが、
競争していたらルールが変えられてしまうのはフェアではありません。
戦いなのだから、そんな奇麗事は言っていられないといわれそうですが、戦い事だからこそルールは大切なのです。
今回の動きのなかに、強者が勝手にルールを変える競争社会の実態を垣間見る感じです。誰かの都合で、巧みにルールが変えられているのが、これまでの日本だったかもしれません。その実行者は政治家と財界と大学教授の産官財の「三位一体」チームです。

また、会社が自己防衛するのは当然だといわれますが、その会社とは何かが問題です。
ニッポン放送の社員はみんなライブドアの経営権獲得に反対です、という経営者の発言には不快になります。この一言で、経営者が守ろうとしている対象が見えてきます。よくこんな傲慢な発言ができるものです。社員の主体性や人格を認めていない経営者の実像が見えてきます。社員は本当にどう思っているのでしょうか。

2つの問題を感じます。
ルールをおろそかにすることは挑戦者の意欲を損ないます(挑戦者をつぶすのが管理者の特徴ですが)。子どもたちへの影響を危惧します。子どもたちは本質を見抜く素直さを持っています。これは「いじめ」以外の何ものでもありません。
また、社会の視点でなく仲間の視点で組織を守ることは、組織の社会性を損ないます。企業はいうまでもなく社会の子です。守るべき価値を間違っては、制度の基盤が崩れます。

ところで、私自身はライブドアでもなんでもいいのですが、今の放送のひどさに不満がありますから、経営権の移行を歓迎します。今よりはよくなるでしょうから。
まあ、これは余計な話ですが。

■人にレッテルを貼る社会 2005年2月26日
今日はNPOの集まりに参加していました。
いつもそこで気になる言葉があります。
「障害者」です。
15年ほど前に、ある会に参加していて、「障害者」という言葉を発したら、若い参加者の一人が、「佐藤さんから障害者という言葉を聞くのは残念です」と言われました。その言葉がずっと気になっています。
でも、ではなんといえば良いのでしょうか。
以来、私は障害を持つ人とか、障害の強い人、と言っていますが、まだすっきりしません。

山口で開かれたNPOの集まりで、発達障害に取り組む方から、中学まではちょっと変わった子どもくらいにしか思われていなかったのに、高校進学時に、突然、発達障害という烙印をおされて、子どもはパニックになるのです、という話を聞きました。

先日、NEET問題を考える委員会に参加しましたが、
そこでもずっと気になっているのが、「NEET」という言葉です。

イリイチは病院が病人をつくり、学校が劣等性をつくるというようなことを言っていますが(不正確な読み取りかもしれません)、人にレッテルを貼る社会の怖さを感じます。

NEETという言葉さえなければ、多くの若者の人生は変わったかもしれません。
言葉は人を暗示にかけます。
人にレッテルを貼る社会をそろそろ終わりにしたいです。
私が福祉の専門家や実践者が好きになれない理由の一つです。

■3つの企業価値を可視化したライブドアの堀江さん 2005年2月27日
ニッポン放送問題に関連して、気になる言葉がいろいろ出ています。
放送は公共財だとテレビ局の経営者が考えていることも知りました。
最近のテレビ番組は、公共性とは反対のところを目指しているように思っていたのですが、それが公共性だったのですね。
それで最近のNHKの不祥事が納得できました。公共性のモデルだったのですね。
おや、これはジョークです。誤解のありませんように。

しかし、企業価値も、彼らはその延長で発想していますね。
こうなるとジョークとも言っていられません。

企業価値にはキャッシュフローとしての企業価値とレゾンデートルとしての企業価値がありますが、ほとんどの人は前者、しかも株価程度の意味で使っているように思います。不勉強な御用経営学者の言葉をさらに不勉強にしか使っていないのが、日本の企業の経営者だと私は思っていますが(つまり彼らは自分の言葉を持っていないという意味で仲間です)、無理をせずに株価や経営者特権といえばいいように思います。

日枝会長が使う「ステークホルダー」という言葉もわかりにくいです。一方で公共性をいいながら、狭義のステークホルダー論を振り回す。なにかおかしいですね。
こういう言葉のごまかしが蔓延していますが、それをしっかりと追求するキャスターが少ないのも残念です。もう少しまともな質問をしてほしいと思うことが多すぎます。

ついでにいえば、記者会見のスタイルも対照的です。そこに実相が見えてきます。
多くの場合、堀江さんは一人ですが、フジテレビ側は大勢の役員が並びます。ここにいかに大企業は働かない寄生族が多いかが見えてきます。それらがすべてキャッシュフローとしての企業価値にかかわっているのです。彼らが会社を辞めれば企業価値は高まります。どうせ経営などはしていないのですから。
会社を辞めて、早起きして道路の掃除でもしましょう。そうしたら公共性とは何かがわかるでしょう。第一、社会が元気になりますよ。そろそろ後進に道を譲りましょう。今の財界は全くその逆を向いていますが、その意味を考えたことがありますか。

と書いてくるとおわかりだと思いますが、実は第3の企業価値があるのです。それは経営者にとっての価値です。ここで重要なのは、この第3の企業価値は、被用者にとっての働く場としての価値とは似て非なるものだということです。
そして、いま、日枝会長が守っているのは、この第3の企業価値のような気がします。
それが、第1、第2の企業価値のいずれとも対立するものであり、公共性とも対極にあることはいうまでもありません。

このからくりに、産業社会の問題が凝縮されています。
言い方を変えれば、新しい産業社会の可能性も象徴されているように思います。
ちょっと説明不足だったでしょうか。

■いま、ネパールで何が起きているか、ご存知ですか 2005年3月1日

最近、イラクの話があまり聞こえてきません。平和に向かっているのでしょうか。
イラクはともかく、アフガニスタンはどうなっているのでしょうか。
不安があります。私たちとは無縁ではないからです。
ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。
ましてや、私たちの税金が使われていますから、私たちは加害者になる可能性もあるのです。

ところで、昨日、
ネパール・ピース・ネットではネパールの基本的人権の回復のために、
地球市民社会のみなさまのご協力を求めています。
という緊急アピールのメールが飛び込んできました。
私が信頼する人を介してのメールです。
それによると、

2005年2月1日、ネパールでは国王が首相を解任し実権を掌握、国家非常事態宣言が発令されました。その後1ケ月が過ぎようとしていますが、言論や集会の自由は回復されず、人々は沈黙を強いられています。政変後逮捕された著名な知識人や政治家の中には釈放された人もいますが、友達と話をしていただけで「集会」とみなされ拘禁された少年もおり、報道規制がある中、一般市民への影響は新聞等で伝えられることもありません。

みなさん、ご存知でしたか。
あまり新聞を読まなくなっている私は知りませんでした。
こういう事件はたくさんあるのでしょうね。国内外に。

詳しくは以下のホームページをご覧ください。
http://npnet.exblog.jp/i2

いま、世界で何が起こっているのか。
公共性を主張しているマスコミは、本当のことを語ってくれません。
それが公共性なのかもしれません。
これに関しては、いつかきちんと書きたいですが、公共性もまた二義的ですから、恐ろしい概念になりえます。

まあ、それはそれとして、よかったら署名してください。

■働くことは義務か権利か  2005年2月28日
失業率が高まっています。
これは嘆かわしいことだと普通は考えます。
でもそうでしょうか。
失業者がいても、社会は持続していけているのです。
社会を持続させていくための生産活動は十分行われているということです。
社会総体で考えた場合、労働時間短縮が実現したといっていいでしょう。
社会にとっては豊かさの実現です。

しかし、現実にはどうもそうはなっていません。なぜでしょうか。
それは、働くということと成果の取り分が強くリンクしているからです。
「働かざるものは食うべからず」のルールの呪縛があるからです。
働くという義務が食べる権利とセットになっています。

家庭という社会で考えてみましょう。
そこでは働かなくとも生活が保障されている人がいます。
乳幼児やお年寄りです。時には病人もそうです。

話がややこしくなりますが、私はそういう人も働いていると考えていますが、
今回はそこは無視します。
改めてそこは書きます。
今回は、あえて、
「働く義務と食べる権利はセットになっていない」例として家庭をあげておきます。

話を戻します。
失業者の数は、豊かさの指標なのか貧しさの指標なのか。
これはそう簡単な話ではないはずなのですが、なぜかみんな貧しさだと思い込んでいます。
それは、働くことが義務だと考えているからです。

働くことは、ワクワクするような喜びの行為です。
いや、そうであると私は確信しています。
みんな働きたいのです。わくわくしながら。
しかし、そうしたワクワクするような働きの喜びを、誰かが、あるいは何かが苦痛にしてしまったのです。ですから労働時間は短いほど良いと、労働組合も考えてきたのです。
最近になって、ようやくILO(国際労働機構)も、ディーセントワークなどと言い出していますが、本来、働くとはワクワクする価値ある行為なのです。
そうであれば、働くことは義務や責務ではなく、権利なのです。
この価値観の転換が、いま求められているように思います。
その権利を、一部の人たちが独占してはいけません。
昨日も超多忙な若者に会ったら、給料を減らしてもらってもいいから休みがほしいと言っていました。

私は現在の社会が必要としている労働時間を人口で割って、働く権利の平均時間を決めて、それを越えて働く人はむしろ給料をもらわずに社会にマイナス給料を払うのがいいと考えています。何をバカなことをといわれそうですが、累進課税の精神は、そういうことだと思っています。

問題は労働の単価です。
時間急が安いから労働時間を長くしなければやっていけないのだと言う人がいるでしょう。
確かにそれもまた多くの現実です。
しかし、それもまた、働くシステムの基本設計がおかしいからです。

みなさん
働くことと食べることをリンクさせる必要はないのです。
そういう発想で、生産システムや生活システムを設計し直していく時代に来ているように思います。
少なくとも、働かないと食べていけない社会は見直すべきです。

この議論は、私が予定している「コモンズの回復」のキーコンセプトの一つであり、まだ消化不良気味なのですが、最近のニート議論や定年延長などの動きに、大きな違和感があるため少し書いてしまいました。
ご理解いただけたでしょうか。

■愛国心を育てる国 2005年3月7日
宇都宮徳馬さんが創刊された「軍縮問題資料」が休刊されることになりましたが、その最終号が届きました。この雑誌は、私が一番愛読している雑誌です。もっとも熟読しだしたのは、この3年くらいです。それまでは拾い読みでしたが、最近は全記事を読んでいました。

休刊に関しては様々な反響があり、今度の月曜日には再刊に向けての集まりもあるとのことです。私も何か出来ればいいなと思っています。

ところで、今月号に、コスタリカ大学の院生のロベルト・サロマさんが寄稿しています。それを読んで、私の国家観が少し変わりました。私は国家の価値をほとんど評価していないのですが、もしかした間違いではないかと思い出したのです。

アメリカのホワイトハウスのホームページに掲載されていたイラク戦争支持国リストから昨年9月、コスタリカの名前は削除されましたが、そのきっかけは、ロベルトさんが起こした違憲訴訟だったのだそうです。最高裁が「イラク戦争支持は憲法違反」と判決したのです。
彼はこう書いています。

私の提訴は、この国の精神の産物だった。

コスタリカの憲法は、軍隊を禁止し、国のいかなる権力にも他国に宣戦布告することを禁じているといいます。彼の行動は、そうした国家の精神の産物であり、それを支持したのもまた国家の精神だったのです。

さらに彼はこうもいいます。

平和への道はない、平和こそ、その道なのだからということが、おそらく世界に向かって叫んでいる私たちの祖国の精神だったのです。

最後の文章は、こうです。

私たちの国家の歌詞には叡智が満ちています。すなわちー「労働と平和、万歳」

愛国心と何かを改めて考えさせられました。
いまの日本とは、愛国者を育て方があまりにも違います。
コスタリカに生まれたら、私もきっと愛国心が持てたでしょう。
いや、この発想自体が、無責任で他人依存型とロベルトさんから非難されそうですね。
それに、日本はコスタリカに負けない憲法を持っているのですから。

ロベルトさんは先月来日し、8都市で講演されています。
ネットで調べれば、きっとどこかに記録があるはずですが、
詳しい記事はまだ見つけられていません。
関連情報のサイトを下記します。
■コスタリカの歴史と平和憲法の成立について
http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_14754/report/10/s04514to32617/
■イラク戦争合意違憲判決(2003_9_8)コスタリカ最高裁
http://www.jca.apc.org/costarica/siryo/hanketu2003.html
コスタリカ市民の憲法意識
http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N65/N65-10.htm

軍縮問題資料の最終号(4月号)は、次のところに申し込むと購入でします。
1冊420円です。
http://www.heiwa.net/

■人の権威や人気を借りることのおかしさ  2005年3月8日

千葉県の県知事と県議の補選が次の日曜日に行われます。
それで気になることがあります。
いろいろな人が応援に来ることです。
どうもそれが私には馴染めません。

今日は地元の県議候補の応援に石原元国土交通大臣が来るそうです。
この一事で彼への投票の検討はやめました。応援演説に権威や人気が感じられる誰かを呼ぶ人には原則として、私は投票しないのです。
原則ですから、絶対ではありません。
しかし、権威を借りる人には期待は出来ないからです。人気を借りる人よりも信頼できません。

しかし、それにしても応援を呼ぶ人が多すぎます。どういうつもりで、応援を呼ぶのでしょうか。また、そうしたことがどうしてこんなに広がっているのでしょうか。情けない話です。

応援者を呼ぶ効果はきっと大きいのでしょうね。
そうでなければこれほど広がるはずがありません。
しかし、ここにこそ、大きな問題があるように思います。
応援者依存のスタイルの持つ意味をしっかりと考えなければいけないと思っています。
誰かが何かを隠蔽しようとしているような気がします。
主体性を排除する社会は、そろそろ終焉させたいです。

■イラクの真実  2005年3月17日
最近のイラクはどうなっているのでしょうか。
次々と起こる事件の中で、大切なものがどんどん見えなくなってきていることに大きな不安を感じます。

地球公共平和ネットワークの集まりで一度お会いした山梨の久松さんという方がいます。平和のメーリングリストでいつもたくさんの刺激をもらっています。
久松さんは、イラク戦争の実態を伝える会の代表です。

久松さんたちは、先月、フセイン元大統領弁護団のスポークスマンであるジアード弁護士を日本に招き、イラクの実態に関する講演会を開催しました。新聞などでも報道されたので、お読みになった人もあると思います。
なぜジアードさんを招いたかに関しては、久松さんたちが新聞社に送った案内文章に明確に書かれています。

私たちには、何が真実であるかを見定め、今イラクで実際に何が起こっているかに耳を傾ける義務があります。私たちの憲法は、次のように言っています。
「私たちは、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
諸国民の公正と信義に信頼するためには、私たち自らが、公正であろうと懸命に努めなければなりません。
現在、私たちは、一方的な情報しか与えられていません。問題の全体を公正に判断するためには、私たちは、アラブの人々の声に耳を傾けねばなりません。
そういうわけで、私たちは、ジアード氏を招待しました。

とても真摯な姿勢です。共感します。

ジアード氏は、その講演でサマワは、新型爆弾により高濃度の核汚染に晒されていることを指摘し、オランダ軍の早期撤退の理由は、この核汚染によると詳細に語ってくれたそうです。

サマワの核汚染の話はこれまでも出ていますが、日本では余り問題にされません。しかし、もしこれが事実であれば、もっと議論がなされていいはずです。

これはほんの一例ですが、真実はなかなか見えてきません。
見えた時にはもう遅いのかもしれません。
最近は、結果が出てから見える事実が多すぎます。

しかし、ネットの中には膨大な真実や事実が存在しています。
まさに虚空蔵です。膨大な知と事実が集積されているはずです。
それらがもう少し見えてくる仕組みができれば、世界は変わってきます。
いまは苦労しながら時々潜り込もうとしていますが、とても個人には歯が立ちません。

■テレビの新しいミッションやあり方を考える時期 2005年3月27日
情報が多ければ、事実がよく見えてくるわけではありません。

ライブドアとフジテレビの事件のニュースは、いささか食傷気味ですが、
だんだん「事の本質」が見えなくなってきたような気がします。
それにしても、テレビも新聞も、連日、あれだけのスペースを使って、何をメッセージしたいのでしょうか。焦点の当て方はいいのでしょうか。もっと他に重要な問題があるでしょうに。
私は堀江さんの行動を支持しましたが、どうやら事の主役は違うところに移ったようです。
つまりは「情報隠し」へと動き出し、その陽動作戦が仕組まれているように思えてなりません。

マスコミのレベルの問題だと思いますが、最近の報道のあり方には主体性を感じません。しっかりした視座がないせいか、振り回されていますね。
メッセージ性も価値基準もなく、ただ面白さだけを追求しているのかもしれません。
サラリーマンジャーナリストが多すぎます。

ブログが新しい情報インフラになるという指摘もありますが、あまりリアリティを感じません。膨大なブログにどうやってアクセスし、編集し、評価するか。そんなことができるはずはなく、結局はターミネーターやマトリックスの世界になっていくしか考えられないのです。
そうした状況の中で、堀江さんたちの挑戦に対して、テレビが新しい役割やビジョンを打ち出せば、事態は大きく変わったでしょう。それこそが、企業価値を議論することですが、関係者は堀江さんと同じ、私欲的な金儲けの世界から一歩も出ていません。

フジテレビに限りませんが、公共性を名目に放送を私物化し、ひどい番組を提供し続けているテレビ会社の経営者や現場の人たち(下請け会社社員は別です)は一掃されてほしいと私は思っていますから、堀江さんにがんばってもらいたいわけですが、その堀江さんたちが関わっているIT情報ネットの世界も同じようにひどいですので、堀江さんも一掃されてほしいと私は期待しています。いずれもまあ、消耗品でしょうから、それはあながち夢でもないでしょうが。
今回の事件で、そうした全体の制度に寄生している人たちの実態を顕在化させたのは、なんと言っても堀江さんの功績ですが、これを契機にテレビのあり方を見直す動きが出てほしかったです。
テレビに関わっている人たちには、そうした思いを持った人はいないのでしょうか。最近の番組を見て、恥ずかしいとは思わないのでしょうか。堀江さんに、まずはニッポン放送を聞いてほしいとニッポン放送の社員は発言していますが、同じ主旨の注文を彼らにつけたいです。フジテレビに影響を与えられる立場にある人であれば、フジテレビの番組にも責任を持つべきでしょう。
みんな同じ穴のムジナです。
まあ、私もその一人かもしれません。

■校門は原則施錠 2005年4月1日
学校の安全対策に関して文科省が指針を出しました。これまでの「危機管理マニュアル」で示してきた学校側の体制をより強化した内容になっている、と新聞は伝えています。
その一方で、「地域に開かれた学校づくり」も引き続き進める方向だといいます。
難しい問題だと思いますが、「施錠」に安全を求める発想に、違和感を持ってしまいます。

千葉県習志野市の秋津小学校の事例は有名な話ですが、これとはまったく逆の発想です。
もう10年以上前の話ですが、当時校長だった宮崎稔さんが、学校の鍵を住民団体に配ってしまったのです。つまり「施錠の発想」ではなく「開錠の発想」です。そこから、学校と地域の融合が始まり、住民たちの世代を超えたつながりが育っていったのです。

施錠の発想は、昨今の社会の姿勢を象徴しています。
問題の本質に取り組むのではなく、問題の発生を想定した発想です。
話は飛躍しますが、リサイクル産業育成と同じ発想です。
この発想こそを変えなければ状況は変わらないでしょう。

先日、浜松で活動しているNPOガラ紡愛好会を訪問しました。
湖沼の汚染防止のために洗剤ではなく石鹸を使おうと活動し始めたグループですが、活動の課程で、石鹸もまた使用量が増えることで汚染につながることに気づき、結局は消費型のライフスタイルが問題だということになり、そこから洗剤を使わない布巾や石鹸を使わないタオルを開発しました。その商品開発を支えたのが、和綿を使ったガラ紡績という伝統技術でした。
それを使い出すことで、肌が荒れなくなり、アトピーも治り、といった、さまざまな効用も出てきたといいます。

施錠とリサイクル産業の共通点は、問題の存在を無意識的にでも肯定することです。
「肯定」は消極的な「推奨」にもつながりかねません。
大切なのは、問題の存在の意味を考えることだろうと私は思います。
学校空間の施錠(そんなことは出来るはずがないのですが)が、原因の解決の扉にも施錠しなければいいのですが。

■ランディ・キラーの愛国心  2005年4月2日

昨日、大阪に行く新幹線で、久しぶりにダニエル・エルズバーグに「ベトナム戦争報告」を読み直しました。エルズバーグの名前は、最近では忘れられているかもしれませんが、国家反逆罪で裁かれる危険を冒して、ベトナム戦争の真実を世界に知らせた「愛国者」です。
その正義感は健在で、今回のイラク戦争に関しても「愛国的」活動によって、逮捕されています。歴史から学ぶ事のないのは、米国政府も日本と同じようです。

エルズバーグによる国家機密文書暴露事件を映画にした「ペンタゴン白書」の中に、ある大学での反戦集会での若者のスピーチの場面があります。映画によれば、そこでのランディ・キラーのスピーチが迷っていたエルズバーグを決断させます。最初にこの映画を観た時、私は感激しました。涙が出ました。
愛国心はコスタリカにだけあるのではないことを思い出しました。

ランディ・キラーのスピーチを読んでもらいたいと思います。

僕の愛国心について話します。
僕はランディ・キラー。ハーバード大学卒業。
この学歴なら、国家に影響を与える職に就くことができます。
大企業の重役、あるいは政府の高官。
だが、僕は国家に影響を与える人間になることに決めました。
だから刑務所に行きます。
徴兵拒否により服役します。
意義のない戦争のためにはベトナムへは行きません。
だが、僕はアメリカ国民です。
外国に逃げたりはしない。
これが信条による「良心的兵役拒否だ」ともいうつもりはない。
僕はただ自分を犠牲にすることで国に奉仕する。
消せない記録が僕に残ります。企業の重役にも政府の高官にもなれません。
世間の目も冷たいでしょう。
だが、その汚名を甘んじて受けます。誇りを失わずに。

最近、イラクでは何が行なわれているのでしょうか。
イラクが全く見えなくなってきています。
私たちの税金がこれだけ大きなコミットをしているにもかかわらず。
サッカーだけがニュースではありません。
ましてやフジテレビ騒動などは瑣末な話です。

■「どう思いますか 格差社会」の退屈さ 2005年4月2日
NHKの「どう思いますか 格差社会」を、期待を持って、見はじめたのですが、あまりにばかばかしくなって、見るのをやめてしまいました。言葉の定義もなければ、ゲストの発言は金子さんを除いてはピンとはずれで議論にもならず、しかもアンケート調査の質問は意味のない項目です。ディレクターの不勉強さに腹立たしさを感じます。これが「公共放送」の実態です。3世紀のローマを感じさせます。

アンケート調査の質問は、私が見ていた間には2つありました。
ひとつは、今の格差社会を「悪い」「やむをえない」「良い」の三択。もうひとつは成果主義を「進めるべき」「見直すべき」の二択です。
この質問を皆さんはどう考えますか。格差社会や成果主義の定義の問題は大目に見ての話ですが。
前者の質問での「やむをえない」というのは不要な質問です。他の二つとレベルが違うからです。後者の質問もレベルが違いますから二択にはなりません。見直しながら進めるのは当然のことだからです。いずれも現場や実態を知らない人が考えた設問でしょう。

知性は質問によって見えてくる、と私は思っています。
いい質問が出来るかどうかは、とても大切なことです。
最近テレビを見ていて残念なのは、いい質問に出会えないことです。
知性はまた応答によっても見えてきます。
私が我慢して見ていた1時間近くの間では、予備校の先生がいい質問をし、金子勝さんがいいコメントをしただけでした。残念ながら、いずれも発展しませんでしたが。

いささか腹立たしかったので、ブログに書いてしまいました。
今回は番外編です。すみません。

■シュペアーの責任感  2005年4月3日
昨日の続きです。
エルズバーグの「ベトナム戦争報告」(原著1972年 翻訳:筑摩書房 1973年)の最後に、ナチスドイツの建築大臣だった建築家アルベルト・シュペアーの回顧録「第三帝国の内幕」に書かれている話がでてきます。
ランディ・キラーのスピーチとともに、エルズバーグの決断に大きな影響を与えた話です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_1.html

シュペアーは「ヒトラーの建築家」として有名ですが、同時に、ニュールンベルグ裁判で、自分の行為とナチ政権の行為の責任を全面的に認めた唯一の被告としても有名です。エルズバーグは彼の回顧録をアメリカを動かしているすべての官僚に読んでほしいと書いています。私も日本の閣僚と大企業の経営幹部に、ぜひ読んでほしいと思っています。

長いですが、シュペアーの話を同書から引用します(283〜284頁、一部省略)。

あるとき旧友のハンケがやってきて、口ごもりながらいったことをシュペアーは書いている。
「上部シレジアの強制収容所視察の誘いには決してのらないように。どんなことがあってもそれだけはするな。彼はそこで絶対に人に話すなということ、また話すことのできない何かを見たにちがいない。私は彼に何も質問しなかった。ヒムラーにもヒトラーにも何も問いたださなかった。親友にもそのことを話さなかった。自分で調べることもしなかった。そこで何がおこっているかを知りたくなかったからだ。ハンケはアウシュビッツのことを話していたのだろう。
私がニュールンベルグ裁判の国際法廷で、第三帝国の指導部の重要メンバーのひとりとして、あらゆることに閑して全責任を分担しなければならないと語ったとき、私の心を占めていたのはその数秒間のことだった。その瞬間から私はのがれようもなく道徳的に汚染されていた。私の進路を変えるかもしれないようなことにぶつかるのを恐れて、私は目を閉じてしまったのだ。この意識的に目をつぶったこと自体が、戦争末期に私が行なった、あるいは行おうとした善行のすべてが、何の価値もなくなってしまった。あのとき行動することを怠ったために、私は今日でもアウシュビッツに対する全責任を個人的に感じている」

シュペアーは、これに続けて、「知ろうとしない」ことの道徳的重荷について語っている。
「私が事件に無関係だったとすれば、それは私が無関係な態度をとっていたからだ。私が無知だったとすれば、それは私が自分の無知をつづけようとしたからだ。私が見なかったとすれば、それは自分が見たくなかったからだ。
私の場合、ユダヤ人虐殺の責任を決して逃れることができない。私はヒムラーと同様にユダヤ人の死刑執行人だった。なぜならば私はユダヤ人たちが私の前を通って死所に連行されるのを見ようとしなかったからだ。良心の目を閉じてしまうことは驚くほどやさしいことである。私はまるで、だれかが殺害されたことに気づかないで雪の上の血に染まった足跡をたどっている人間だった」

無関係な事件などないのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m11

■ 民営化と私有化 2005年4月4日

郵政民営化の基本骨格が決まったようです。
なにやらごたごたと長くかかりましたが、利害調整が大変だったようですね。
それは当然です。
民営化とは私有化のことですから、関係者の私的利害がすごく絡んでいるわけです。
まさに利権がらみの政治家アイテムといえます。

ところで、日本ではどうしてこうも「民営化」ということがプラスのイメージを持っているのでしょうか。私は民営化礼賛の風潮には大きな違和感を持っています。結局は誰かの私利私欲の世界に投げ込むだけの話なのですから。
民営化とはプライバタイゼーションであり、要するに私化、私有化、私営化のことです。民営化などというと、なにやら私たちの生活の近づくように感じますが、そんなことはありません。「お上のもの」から「誰かのもの」になるだけの話です。正々堂々と私欲のための事業になるということです。
目指すべきは、「「みんなのもの」にしていくべきであり、その手段は経営の透明性を高めることです。あるいはガバナンスの主体を国民に移していくことです。
そういう視点から考えれば、今の民営化路線は時代に逆行しています。
ところがだれもかれもが「民営化」礼賛です。

国鉄を民営化したらサービスもよくなったし、経営業績も良くなったという人がいるかもしれません。
確かにそういう面もありますが、悪くなった面もあります。
よくなったことで言えば、それは決して「民営化」の問題ではないように思います。問題の混同が巧みに使われています。

規制緩和もそうです。これも危険な言葉です。

規制緩和にしろ、民営化にしろ、結局は誰かの利益につながる私的な世界を広げるということです。
私たちの世界はこうしてどんどん侵食されているのです。
福祉の世界も環境も世界も、生活基盤の世界も、すべては株式会社に席巻されて行きそうです。
民営化や規制緩和に対して、もっと違和感をもってほしいです。


■竹島領有問題 2005年4月6日
竹島問題が再燃しています。
今回の教科書検定でも、竹島は日本の領土と明記されたことが韓国の反発を受けているといいます。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/
そういえば、日本最南端の沖の鳥島もあります。
http://page.freett.com/okinotorishima/
北方領土は、そこに住民がいますから、どの国家に帰属するかは住民にとっては大きな問題ですが、住民もいない島であれば、どこでもいいではないかと私は思ってしまいます。

沖の鳥島は水没させないために、50億円近いお金をかけて、コンクリート構造物をつくったりしていますが、たとえば、この問題を子どもたちに説明して、それだけのお金をかける必要があるかどうかと聞くと、全員が「必要」と答えたという報告もあります。http://www.coara.or.jp/~nonaka/tossland/energy/ryoudo2.html
理由は、日本の領土が減るし、魚なども取れなくなるから、ということだそうです。

私はなんだかおかしいと思えてなりません。
日本の領土が減ることがなぜ悪いのか。いや、日本の領土ってなんだろうかと、子どもよりも素朴な疑問が出てきてしまうのです。
領海ということを大学の国際法で学んだときにも、どうも理解できませんでした。海を閉じたり大地を分割占有する発想が、理解できないのです。どこかで私の発想回路に欠陥があるのかもしれません。

ですから市町村合併も理解できません。行政で勝手にやっていいの?という気がします。もちろん建前は住民合意の下ですが、その建前は行政が作っただけの話です。勝手に行政区を変えてしまう政府と、領土にこだわる政府。どうも重なってしまいます。

海産物やエネルギーの権利につながるということも私にはよくわかりません。
日本の領海でとれる海産物は日本のものという概念が私にはうまく理解できないのです。それは漁師や汗して釣った人のものでしょうという気がします。イラクの石油はイラク国民のものでしょうか。掘削採取した企業のものになっているのではないでしょうか。つまり国家の所有権という概念に違和感があるのです。

日本も韓国も中国も、あるいはオーストラリアもロシアも、だれでも自由に魚場として、あるいは油田として使えばいいじゃないかと思うわけです。
めちゃくちゃな論理かもしれませんが、そうした素朴な疑問がどうしてもぬぐえません。
ですから、子どもたちまで「領土が減るのはよくない」という思いを持っていることが私には驚きなのです。いや不気味なのです。
昨日、北朝鮮の小学校教科書の内容がテレビで紹介されていました。日本やアメリカへの恐怖や憎しみを育てるような内容でした。
でもなにかそれを非難してばかりいられないような気がします。
現代の子どもたちの教科書ともいえる、テレビも問題ですし。

■もうひとつのシュペアーの責任感 2005年4月7日
シュペアーの責任感その2です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_3.htmlエ
ルズバーグを動かしたシュペアーの責任感は、実はある側面でしかありません。
事実はいつも裏表を持っています。
エルズバーグは、その表から自らの行き方を学び決断しました。
日本の官僚や有識者にも、そうした決断をした人はいます。

しかし、シュペアーの責任感に関しては、もう一つの記録もあります。
たとえばグイド・クノップの書いた「ヒトラーの共犯者」(1996年、翻訳は原書房から出版)によれば、軍需相(シュペアーは後に軍需相として戦争貫徹に取り組んだのですが)シュペアーはヒトラーの後継者の有力な一人として、ナチス国家で行なわれていた事実にかなり深くコミットし、自らもその重要な一翼を担っていただけでなく、敗北が見てきた時期には戦後の「ドイツ復興」に参加するための狡猾な行動も行なっていると報告されています。
これもまた、ひとつの責任感です。

エルズバーグが感激したくだりも、こう書かれています(翻訳ですが)。
「恐るべきことにかんしてわたしが知らなければならなかったことを考えれば、わたしが知っていたのか、それとも知らなかったのか、あるいはどれほど知っていたか、または知らなかったかなどという問題は、まったくとるにたらないことだ」。この答えは誠実に聞こえるが、ただ狡猾なだけである。シュペアーの結論はこうだ。「わたしはもはや答えられない」。シユペアーがみずからにまったく問わなかったこと、それは、これらの犯罪のすべてに対する、彼自身の関与した割合はどの程度のものか? ということである。

エルズバーグは、こうはなりたくなかったのかもしれません。
私も同じ思いです。
しかし、知ろうとすることは大きなエネルギーが必要です。
だからこそ、知っている人の責任は大きいのです。
エルズバーグとシュペアーは、全く別の選択をしたわけですが、皆さんならどうするでしょうか。
シュペアーの過ちを繰り返している人が、最近多いのが気になります。

■隠れて暮らす社会  2005年4月8日

知人の思いに共感して、署名運動に協力することが時々あります。
今回は「期がん患者の介護保険給付に関する署名」です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/onegai.htm
女房と一緒にいろいろな方々に署名してもらいました。
ところがです。
女房が、プライバシー情報漏洩が問題になるなかで、こうやって氏名と住所を書いてもらっていいのだろうか、そう簡単には頼めない時代になった、というのです。
考えてみると確かにそうです。

しかし、よくよく考えてみると、何かおかしいような気がします。
名前と住所がわかって何が問題なのでしょうか。
女房は、悪質な業者の手に渡ると悪用されるといいます。
そうかもしれませんが、何か腑に落ちません。
もし住所録で悪事を行う人がいるのであれば、それを取り締まればいいのであって、住所や名前を隠すことはないでしょう。
私は電話もメールアドレスも、生活内容も、かなり公開していますが、不都合は起きていません。
確かに迷惑メールは毎日わんさと届きますが、それはまだ我慢の限度内です。
そのために自らの生活を隠そうなどとは思いません。

プライバシー保護って何なのでしょうか。
どこかに勘違いがあるような気がします。

ついでにいえば、
最近は就職面接などで出身地や年齢や家族のことなど、訊いてはいけないのだそうです。
ないも訊かずに採否を決めなければならないわけです。

テレビで一般風景の場面で、よく顔の部分がぼやかされます。
顔を見せない風景もよく出ます。
これも気になります。
福祉施設などでは特にそうです。
顔を見せて、何が悪いのかです。

自分の正体を隠して暮らすのが現代の常識なのでしょうか。
おかしいと思いませんか。
私がおかしいのでしょうか。

■父親の権威がなくなったわけ 2005年4月19日
いろいろな事情で、この10日間、ブログにアクセスできていなかったのですが、いくつかのコメントをもらっていました。コメントはうれしいものです。ありがとうございます。
コメントのそれぞれには不十分ではありますが、それぞれにコメントを書きました。
ここでは「猫」さんが書かれた、フラーを思い出して、横道のコメントを今回は書きます。
長いです。引用があるからです。

「バックミンスター・フラーの宇宙学校」という本の最初に書かれているのが、フラーの発想の基本姿勢です。その一つは、「われわれが強烈に条件づけられた反射作用をもっていることを、ともかく無条件に認識すること」です。フラーはこんな風に書いています。

たとえば「上」と「下」ということばがある。だれもがあらためて考えることなく使っているこれらのことばは、われわれは無限に横方向にひろがる平らな世界に住んでいるという、何百年もの歴史をもつ「誤った概念」に都合がいいようつくりだされたものである。

ちょっと違うかもしれませんが、私は先入観をできるだけ克服したいと考えています。
わかりきったような言葉の意味もきちんと考えていきたいと思っています。
民営化、領土、国家、平和、民主主義、性善説、友好、みんな私にはとても気になる言葉なのです。
いや、私には理解しにくい言葉というべきかもしれません。
また、私の問題の立て方がいつもちょっとピントはずれなのかもしれないと思うことも少なくありません。もちろん私の問題の立て方が、私にはわかりやすく納得できることはいうまでもありませんが。
たとえば、竹島問題にしても、そこから発した中国の反日デモにしても、対立軸は国家間ではなく、「制度」対「生活」だと思っています。
ですから、彼らが投げている石は、国家や制度に向けられているのであって、日本に住むわれわれに向けられているのではないと思っています。
しかしテレビで投石の様子を何回も見ていると、なぜか自分に投石されているような気分になって、腹が立ってきかねないのです。これがたぶん「偏向教育」というものなのでしょう。中国と同じく、日本のテレビもまた、反中国の映像を流し続けています。怖い話です。

バックミンスター・フラーの名前で思い出したことがあります。
「バックミンスター・フラーの宇宙学校」に次のような文章があります。
読んだときには大笑いした記憶がありますが、20年近くたっても内容も覚えています。
書棚から探し出して、その文章を引用することにしました。
世の中の父親族のみなさん、自らのおかれている状況を認識しましょう。そしてテレビを恨みましょう。
なにが「公共性」なものか! テレビ不信の根源を思い出しました。

最近、激しい進化上の動きが自然界に起こった。哺乳類のオスは、メスよりも地理的に広い範囲を動く。なぜならメスは子供を連れているからだ。人間も昔からそうした動きをしてきた、とわたしは考えている。父親が狩人で、母親が家庭のまとめ役だった。父親は単に狩人だっただけでなく、家庭にニュースをもたらすものだった。いつの時代も子供たちは、父親と母親をひとつの権威としていた。父親と母親は子供たちに先行するすべての世代の代表者として、食べてもいいものかどうか、やっても安全かどうか、を子供に伝えてきた。父親はニュースをもって帰り、独特の秘密めいたことばで、子供たちにさまざまな話をしてやった。子供たちは父親のことばに耳を傾け、彼らの権威である父親の話のまねをした。それがだんだん地方のことばとなり、さらに国のことばとなっていった。 わたしが32歳だった1927年の5月のある午後、父親たちが家に帰ると、子供たちがこう言った。「お父さん、早くラジオを聞いてみて。飛行機で大西洋を横断してる人がいるんだよ」。父親はこう言った。「エッ、なんだって。すごいな」。それからというもの父親は2度と家にニュースをもって帰ることはなかった。 子供たちに父親が唯一の権威であると教えた人間がいたわけではない。しかし、たしかに父親は権威だった。ところが1927年に突然、そしてそれ以来、子供たちは父親と母親がラジオに耳を傾け、近所の人たちにラジオのアナウンサーのニュースを繰り返して話しているのを見るようになったのである。こうして口にするまでもなく、ラジオに登場する人間が父親をしのぐ権威となっていった。ラジオのアナウンサーは発音の一般性と語彙の豊かさから、その仕事に選ばれたのだった。子供たちは、新しい権威であるラジオのアナウンサーの発音と語彙をまねしはじめた。子供たちの語彙はアナウンサーからもたらされるようになった。今世紀のはじめ、わたしが最初の仕事についたとき一緒に働いていた労働者たちには、100語ほどの語彙しかなかった。そのうちの50%は卑語か猥語だった。ところがラジオとともに、突然語彙が増し、ずっと的確なものとなり、共通の豊かな語彙が世界中のいたるところに広がっていったのである。

納得できるでしょう。父性の復権などはもうありえないのです。はい。

■ 中国の反日デモ騒動  2005年4月20日
連日の中国の反日デモのニュースを見ていると改めて国家の不条理に怒りを感じます。それとこうした映像を繰り返し流すマスコミにもいささかの疑問を感じます。これはまさに「反中国教育」です。マスコミの教育効果はきわめて大きいです。
対立軸は「日本」対「中国・韓国」ではなく、「制度」対「生活」だと、私は思っているのですが、その(私にとっての)基本軸が、最近は見事にはずされているような気がして残念です。
この問題へのコメントは難しいですが、中国側が公式の場ではまったく謝罪の意を表しないこと、日本もまたそれに異議申し立てしないことに、改めて対立の基本軸の所在を感じます。国家は、結局は同じ存在なのかもしれません。

これが、昨日までの私の考えでした。

竹島問題にしても、靖国参拝にしても、その本当の意味は私も含めてあまりわからないままに問題がどんどん広がっています。私自身の不勉強さを恥じなければいけません。
最近、私自身もどんどん時代に流されて、あいまいな言葉だけで考えているような気がしだしてきました。いろいろな人のコメントは、それに少し気づかせてくれました。

首相が靖国参拝をすることがなぜ問題なのか、私は子どもたちに説明できる自信がありません。ただ言えることは、それが東アジアの人たちには不愉快に感じる材料になりうるということです。

人の言動に関する、当人の「思い」や「意図」と、その言動に触れた人にとっての「意味」や「評価」とは同じではありません。時に正反対になります。この2年、私も実際にそれを体験しました。

私は、日本の国家も国旗も好きですので、なぜあれほどまでに学校の先生たちがこばむのかが身体的に理解できませんでした。もちろん国家や国旗にこめられた「忌まわしい記憶」や「その意味」は理解していましたが。
しかし、1年前にある雑誌で、渡辺さんという方の書いた文章を読んでようやく理解できました。できれば皆さんももう一度読んでください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132

日本の人でさえ、靖国への複雑な思いを持っている人もいます。そうであれば、東アジアの人たちには、首相という国家を代表する人が靖国参拝を行うことに対しては複雑な思いがあるはずです。
そうした人たちの思いへの想像力や感受性が、さまざまな価値観の人たちが共生していくこと、つまり本来的な意味でのグローバライゼーションの出発点だろうと思います。
そうした想像力や感受性のない、一人の人間の独善的な言動が、もし東アジアの平安を壊す材料をつくりだしているとしたら、そういう人を代表に選んでいる私たちの責任は大きいです。

彼らの投石は、甘んじて受けなくてはならないのかもしれません。
繰り返し映し出される破壊の現場映像を見ながら、ようやくそのことに気づきだしました。

■不明を恥じる 2005年4月22日
今回は懺悔です。

ライブドアとフジテレビの問題はあっけなく決着しました。
この問題が起きた時に、私は堀江さんを支持するメッセージをここに書きました。
どうも私の判断ミスでした。

彼の言動が、状況を破り、見えなかったものを見えるようにしたことは、今でも評価していますが、彼のマネーゲーム的な感覚は、私が思っていたのとは違って、没価値的でした。それを理解できなかった自分を恥ずかしく、思います。
一度出したメッセージは消えることはありませんが、自らの不明を恥じるとともに、改めてブログへの姿勢を考え直したくなりました。

こうしたことがこれまでなかったわけではありませんが、表現の行き過ぎはともかく、価値観に関わるところでは評価が変わることは、私の場合、ありませんでした。
残念ですが、今回は評価を変えました。
私にとっては、結局は彼もまた、取り込まれた一人であり、イノベーターではなかったということです。
産業基盤が大きく変わってきているなかで、しっかりした信念や価値観がなくても、あるいはイノベーションがなくても、インスタントな起業家が生まれる時代になったということかもしれません。

その時代を早く終わらせたいものです。
私の周りで苦戦している若いソーシャルアントレプレナーたちに大きな期待を持っています。

■学力かゆとりか 2005年4月24日

全国の小学5年〜中学3年の約45万1000人を対象に実施した学力調査結果が発表されました。3年前から実施された「ゆとり教育」を柱とする新学習指導要領で学ぶ子どもを対象にした初の学力調査だといいます。
最近のゆとり教育批判が、そうした実態把握を踏まえずに議論されていたのかと改めて驚きますが、今回、学力が少し向上したという結果になったのはきわめて皮肉な話です。

以前も書きましたが、そもそも「学力」か「ゆとり」か、などという発想自体に問題があると思いますが、今回の報道を見ていても、そもそも「学力とは何か」「ゆとりとは何か」が見えてこないのが残念です。

その同じ新聞に、
「起業」をキーワードに、小・中学生に英語やマルチメディアなどを総合的に教える講座が人気だ。
という記事が出ています(朝日新聞)。
これもいささか気になります。
そういえば、学校に限りませんが、いたるところで「起業」がキーワードになっています。ここでも気になるのが、起業とは何かです。朝日新聞によれば、小中学生を対象とした起業ブームに共通しているのは、「ホリエモンのような起業家の育成ではなく、「将来、社会で夢の実現が出来るよう」実践的なスキルを身につけることだといいます。まあうたい文句はいか様にも書けますが、多くの人は実際の内容ではなく、こうした「内容を総括した言葉」で判断し、考えるようになっています。フラーが指摘しているように、テレビと新聞が「言葉」を広げたからです。そしてそれをたくみに、最近の「アントレプレナー支援者」は利用しています。

空疎な言葉で語る人たちが経済や政治の主流になっていることがとてもさびしいです。

■総論の空しさと当事者としての言動 2005年4月25日
23日にジャカルタで開催された日中首脳会談は何をもたらしたのかがよくわからないのですが、最近はこうしたことが多いです。私の理解力が弱まっているばかりではなさそうです。

いろいろと動きがあっても、実態は何も変わらない。何も変わらなくても、多くの人はあまり不都合を感じない。多くの人が「おかしいな」と思いながらも実際の行動は起こさない。問題の当事者だけが問題を背負いながら、失望感を強めていく、そんな状況が広がっているように思います。
社会はどんどん不可視化が進んでいます。だからこそ個人情報が市場価値を高め、どんどんと商品化され出回りだしているのです。個人情報保護が法制化されるということは、個人情報がますます裏社会に出回るということです。ここでも「近代パラダイムのジレンマ」が見られます。http://homepage2.nifty.com/CWS/message14.htm

必要な情報がきちんと見えなくなってきた一因は、マスコミにあると思います。新聞やテレビで流される情報と現場情報との格差は、きっと当事者の方にはよくわかるでしょう。マスコミは公共性を失ってきています。しかし、そのマスコミに依存せざるを得ないのも否定できません。

ブログによる多様な情報発信は確かに広がっています。
たとえば、日中首脳会談に関しては、イラク問題に反対して外務省を辞めさせられた天木さんのホームページの記事が示唆に富んでいます。
http://amaki.cc/bn/Fx.exe?Parm=ns0040!NSWhats&Init=CALL&SYSKEY=0010
しかし、ブログはボンディング効果はありますが、多様な意見によって構成する公共性という視点でいえば、まだまだシステムになっていないようにも思います。http://homepage2.nifty.com/CWS/sc-1.htm#bb

北朝鮮拉致問題も、動きがとまったようです。小泉首相にとって、拉致問題がなんであったかを勘ぐりたくなるほどに動きません。
イラクもそうですが、すべてが「総論」と「言葉」で議論され、決せられているような気がします。そこには「現場」や「当事者」がいつも不在です。

当事者の立場になって考え、行動することは難しいです。
しかし、私たちは何らかの問題で、必ず「当事者」であるはずです。
その自らが当事者である問題に関して、言葉を発し、行動を起こすことが、今のような動きが出てこない「総論の時代」を変えていくことになるはずです。

反日デモが問題なのではなくて、「靖国問題」や憲法問題に象徴される日本国家のあり方が問題なのではないか。
当事者になる問題に立脚して言動する前に、まずその問題を自覚する姿勢が、私たちに求められているような気がします。

■責任回避のために不信感をあおる社会 2005年4月26日
最近、電車や新幹線の中で、こんな放送を聞くことが多いです。

JR東日本では警察のご指導ご協力をいただき、車内犯罪防止につとめています。

この放送を聞くたびに、いつも気になっています。
このアナウンスでは、自分たちでは車内安全は実現できないことを表明しているわけですが、これでは利用者はJRを信頼できません。
JRという企業の基本体質が見えてきます。
昨日、福知山線で大きな事故が起こりましたが、これにも通ずるような気がします。

それはともかく、こうした放送はJRに限りません。
人が集まる場所などでもよく流されるものです。
さすがに警察のご指導ご協力という言い方をするような、無責任なところは少ないですが、似たような放送はかなり行われています。ポスターで表示されているところもあります。
そうしたところは、自らの無能力さ宣言と責任回避を行っているわけですが、

自分の空間を自分で責任を持って管理できない会社は信頼しなければいいだけですが、もうひとつ気になることがあります。
根底にある権力依存発想です。管理発想と言ってもいいでしょう。
そして、その放送やポスターが、人間不信を知らず知らずのうちに広げていることが気になるのです。

JRには、ぜひこの放送をやめてもらい、もっと真剣に車内安全、車内安心の実現を考えてほしいと思います。
そこからきっと本当の事故対策が開けていくように思います。

■言葉の価値 2005年4月27日
最近、言葉について、何回か書いてきましたが、豊かな価値を持った言葉もあります。

私の住んでいる我孫子市に、デイヘルプというNPOがあります。
http://members.jcom.home.ne.jp/2125030801/

理事長の森谷良三さんはとても器用な方ですが、それを活かして、高齢者住宅での家庭内事故防止やバリヤフリー化、障害を持った人たちの自立促進を目指して、日曜大工の住宅改善ボランティア集団を1994年に立ち上げました。その頃、我が家も森谷さんたちにお世話になったことがあります。
ずっと地道な活動に取り組まれ、今ではメンバーも20人を超えています。すばらしいのは、人のつながりを大事にされていることです。
活動は、高齢者向けマンツーマン方式のパソコン教室など、広がってきていますが、原点にあるのは「自分たちの町は、自分たちの力で興そう」という姿勢と「人間共生」の理念です。
こう書いてしまうと理屈っぽくなりますが、要は、次の森谷さんの言葉のほうが正確でしょう。
「江戸っ子ってやつは、おせっかいなんだよ。困ってる人を見ると頼まれもしないのに手を貸してあげちゃう」
ちなみに森谷さんは、東京・八丁堀生まれで、もう80歳を超えているのです。

その森谷さんからメールが来ました。
ある要介護シニアの方が、玄関から道路に出る階段に手すりを付けたいと市役所に依頼したのですが、制度の中では対応してもらえませんでした。工務店に依頼すれば10万円はかかるのでデイヘルプに相談がありました。森谷さんたちは、7000円の材料費だけで手すりを付けてきたそうです。
そしてこうメールしてきました。

私は、こんな法律の隙間で泣く人を沢山見てきましたが、こんな人たちに手を貸すのが市民活動なのだろうか、と最近は疑問を感ずるようになりました。
それ以前に、こんな隙間を行政に直言し、改正させるのが市民活動としてやるべきだと思いますし、その上で、解決には官民協力して行く姿勢が必要なのかと思います。

10年以上も地道な活動をしてきた森谷さんの疑問と問題提起の言葉には、とても深いものがあります。そして、たくさんのヒントがあります。
「住民参加」や「住民と行政の協働」という流行語よりも、森谷さんのこの一言のほうが、よほど重いと思いますが、みなさんはどう思われるでしょうか。行政は、もっと現場の発言に対する感度を高めなければいけません。この言葉から、住民との関係の新しい地平が開けていくはずです。

言葉の価値は、発言者の人生に支えられているように思います。
そうした言葉が、少なくなってきています。

■安全よりも定時運転 2005年4月28日
今回の福知山線の脱線事故は、企業というものの持つ特徴をいろいろと顕在化してくれています。怒られそうですが、事件を起こした運転手もまた、被害者であるように思えてなりません。現代の企業が陥っている組織病理を経営者たちはしっかりと実感してほしいものです。

たとえば、JR西日本では「鉄道の最大の使命は定時運転の確保」とされているようですが(読売新聞)、もしそうであれば、手段と目的の倒錯どころか、発想そのものが機械の歯車の視座になっているとしか思えません。そこには人間としての主体性はありません。「機械発想」の企業文化という前提でみると、今回の事件で問題になっている同社の対応がつながってきます。

いうまでもありませんが、鉄道の使命は「安全な移動手段の提供」です。
先日も書きましたが、JRの安全対策は私のような素人から見ても不十分です。
やれることはまだたくさんあります。
もし本気で安全を考えるのであれば、利用者が多いのですから、アイデアはいくらでも集まるでしょう。それをやらないのは、自動車会社と同じで、本気でないからです。「安全」や「環境」を口にする企業は信頼できません。口に出す前にやらなければいけません。

たとえば、定時運転できなかった運転手に対する罰則としての「日勤」の話がありますが、これは学校での「いじめ」の原型です。こうした事例は、なにもJR西日本に限った話ではないでしょう。しかし不思議なことに、内部にいる人は、だれもそれに抗えないのです。抗うことは「辞める」ことです。それが理由で自殺した運転手の父親が訴訟を起こしましたが、裁判所は棄却したようです。その事件がもし、いじめを顕在化していたら、今回の事件は起きなかったかもしれません。日本の裁判官に対する私の不信感は、彼らが組織人に成り下がっていることです。しかも、パーキンソンの法則にしたがって、裁判員制度を作って、自分たちの縄張りと上位構造を広げ高めようとしていることに憤りを感じます。
すみません、また横道にそれました。

ところで、この二つは、間違いなくつながっています。
「日勤」制度が安全性を壊しているのはいうまでもありません。安全よりも定時運転という組織体質が明確に見えてきます。同社の社長は、それに気づいていませんが。

ところで、こうした病理現象は企業だけでしょうか。あるいは経営者だけでしょうか。
どうもそうではないように思います。
私自身もまた、そうした「機械発想」や「いじめ姿勢」を自らの中にかなり強く持っているような気がします。時に自己嫌悪に陥ります。
そして、「安全よりも定時運転」に類した価値の倒錯に陥ることが少なくありません。
そうした人間に内在する弱みや間違いが昇華されるための組織が、最近では逆に弱みを追い詰め、間違いを増幅する組織へと変質しているような気がしてなりません。

どこかで「組織原理」を変えなければいけません。
それはそう難しい話ではないと、私は思っているのですが。

■地域社会は見えてきたのか見えなくなってきたのか  2005年4月29日
私は「住民参加」という言葉に不信感を持っています。
どうも実体が感じられないからです。
「住民」という言葉は、もちろん理解できるのですが、「住民」は集合概念でもありますから、具体的な行動主体としてはあまりに多義的で、実体を特定できないように思うのです。住民参加を誰でも参加できる仕組みという意味で捉えれば何とかイメージはできるのですが、たとえば地域福祉計画を住民参加で作成するという場合の「住民」とは誰のことなのかがわからないのです。誰を「住民」に選ぶかで、全く意味が違ってきますから、その意味は定まりません。意味が定まらない言葉には実体はありません。むしろコミュニケーションを阻害する危険な言葉です。こういう「意味のない危険な言葉」が広がっているように思います。

しかし、住民たちに関しては、いま変わりそう気配があります。
NPOの登場です。多様な住民たちの思いや行動がつながりだして、顕在化し始めたのです。住民がばらばらになってしまった状況では実体化できなかった集合名詞としての住民が実体化されだしたのです。NPOを通して、地域社会が少しずつ見え出してきたのです。
住民と行政との関係も変わりだすかもしれません。

とまあ、私は思っているのですが、一方で反対のベクトルの動きも進んでいることを忘れていました。

昨日、ある自治体の消防署の方から、地域社会が見えなくなってきたというお話をお聞きしました。
地域防災や災害時に対応するためには、地域社会の各戸の過程状況がわかっていないといけません。聴覚障害の方には音声の告知や誘導は効果がありません。昔はそうした状況が見えていたのに、いまは個人情報は同じ行政の立場でも入手が難しいのだそうです。
その人がある町内会の総会に来賓として呼ばれた時に、そこで町内会の住民名簿についての議論があったそうです。ある人が、名簿に住所や電話は載せるのは止めようと言い出したためです。各種名簿が流出し、電話詐欺などに悪用されることを危惧しての発言だったようです。しかし、名前だけの名簿というのは、いったいどういう意味があるのでしょうか。少なくとも地域社会の安全安心を育てるためには役にはたちません。
不信感も、ここまで広がってくると、逆にますます電話詐欺をしようとする人には有利な状況が生まれていくでしょう。

以前も書きましたが、生活の守り方が間違っているような気がします。
この話から、そこにいた自治体の職員のみなさんからいろいろな事例が出てきました。
地域社会が見えなくなってきたというのが、みなさんの共通の実感でした。

さて、地域社会は見えてくるのでしょうか、
見えるか見えないかは、実は実体があるかないかということなのですが。

みなさんは近隣の人たちのことをどの程度ご存知でしょうか。

■時計をはずす生活  2005年4月30日

先日、福島でタクシーに乗ったときの話です。
新幹線に乗るために急いでいたのですが、62歳の運転手がとても話し好きで、運転よりも話に夢中で、時速40キロくらいの走行なのです。話は福知山線の事故の話で、1分30秒の遅れなどは、遅れのうちに入らないと言うのです。
まあ、そんな話なので、急いでくれとも言いだしにくかったのですが、さすがに遅すぎるので、新幹線の時間を話し、間に合わせてほしいと言いました。
そうしたら、その運転手は、鉄道は待ってくれないからね、と速度を速めてくれました。普通は20分弱でつくのですが、30分近くかかりましたが、新幹線には間に合いました。
定時運転より安全を、などと書いたくせに、自分が当事者になると意識は変わってしまうのです。とろとろ運転(つまりは安全運転)の運転手にイライラした自分が恥ずかしいです。福知山線の運転手へのプレッシャーに、私も加担しているわけです。

タクシーの運転手が、このあたりは今でも鉄道以外は田舎時間だから急がないでいいのだといいました。つまり制度で決められた時間に人間が合わせられるのではなく、人間の暮らしが基準になっているわけです。しかし、最近は鉄道を利用する人や会社に勤める人が増えたために、都会時間に合わせなければいけなくなってきたというのです。

田舎時間。人間に合わせた時間といっていいでしょうか。
地方の集まりに行くと、なかなか定刻に人が集まらないことがあります。しかし、だれも急ぐこともなく、まあこのあたりはこんなものだと悪びれもせずに話してくれます。
住民に呼びかける役場の会議も、始まる時間は書いてあるのに、終わりの時間が書いていないことが多いです。終わりの時間を書いておくのが常識でしょう、などとついつい都会時間人間の私は偉そうなアドバイスをしてしまうのですが、直りません。

しかし、今回の田舎時間の話を聞いて、考えを変えることにしました。
時間は、いろいろあるのです。時計の時間は、そのひとつでしかありません。

私は23歳の時から腕時計を使っていません。講演などではカード時計を持参しますが、普通の暮らしには時計は極力見ないようにしています。ですから時々、約束の時間に遅れてしまいます。飛行機にも2回乗り遅れました。それで迷惑をかけたことはありますが、まあ何とかやっていけます。勝手な話ですが。

時間は生活しやすくなるための手段の一つであるはずなのに、私たちの生活は時間に支配されがちです。時計によって刻み込まれた時間から、少し解放されるのもいいかもしれません。
この連休、時計をはずしてみませんか。

■英霊信仰とジハード 2005年5月1日
テレビで、イスラエルのプロダクションが制作した、イスラム過激派密着ルポとユダヤ過激派密着ルポの2本の番組を見ました。考えさせられました。
ユダヤ教とイスラム教を利用しながら、漁夫の利を得ているキリスト教という図式は、まだ全く変わっていませんが、その3つを並べて考えると宗教のエネルギーの違いが感じられます。

印象的だったのは、ユダヤ過激派が復讐を強調しているのに対して、イスラム過激派にはまだ希望が感じられたことです。
3つの宗教の争いは、間違いなくイスラムの勝利になるように思いますが(決着は数百年後でしょうが)、それはともかく、番組を見ていて、靖国問題と同じ構造があることを改めて感じました。死を肯定する英霊信仰です。聖の発展が俗化を促進するという、宗教のジレンマの典型的な現われのひとつです。
中国や韓国から見たら、日本政府の靖国信仰はアルカイダと同じに見えるのかもしれないと、ふと思いました。状況の渦中にいると、その意味はなかなか見えません。

パキスタンの女性たちが、自らの息子に、オサマと名づけ、聖戦への参加を歓迎するという発言を、微笑みながら話している画面と、首相の靖国参拝の画面は、もしかしたら同じメッセージを持っているのかもしれません。前者は被害者のメッセージ、後者は加害者のメッセージの違いはありますが。

敵味方の違いを超えて、人の死を悼む文化は、近代国家の登場とともに失われだしたといわれます。そして、それに代わるように、「国のために死ぬ」と「英霊」となり祭神となるという、英霊祭祀が広がってきます。人の死が、国家の戦争に利用されるようになっていくわけです。さらに言い方を変えれば、人の死が国家を支えていく材料になったといってもいいでしょう。私の価値軸で言えば、個人発想から組織発想への転換です。

戦没者を英霊にし、国を挙げて祀る「英霊祭祀」は、自国の戦争を正戦とし、死んだ兵士を英雄と褒め上げる仕組みをつくることで、他の国民が後に続く状況をつくっていくわけです。まさにジハードの思想です。ジハードはイスラムの独占物ではありません。
首相の靖国参拝は、まさにそうしたメッセージを持っています。そこに靖国問題のポイントのひとつがあります。そこにあるのは「人の死を悼む」のではなく、「人の死を勧める」メッセージなのです。それを健在化しないマスコミは、すでにその仕組みに取り込まれているわけです。

自衛とかジハードの虚しさを感じます。
しかし過激派の人たちの真剣なまなざしを見ていると、やりきれない気持ちになります。
その問題を克服する時代が、今開けようとしているにも関わらず、私たちはまだその呪縛から自由になれないのが残念でなりません。

■ホモエコノミクス教育  2005年5月2日
最近のテレビニュースの終わりに必ずといっていいほど、出てくるのが天気予報とマーケット情報(為替と株の動き)です。
天気予報は役に立ちますが、マーケット情報は私にはまったく興味がありません。
株式投資もしていませんし、為替も毎日聞くほどの関心はありません。
関心がないのは我が家だけなのでしょうか。

いつからこうした経済指標が毎日のニュースで報告されるようになったのでしょうか。以前からとても気になっています。
もしかすると、毎日、私たちはホモエコノミクス教育を受けているのかもしれません。
すべての価値判断が貨幣価値で決まるような社会は、こうしてつくられたのかもしれません。

もし毎日のニュースの最後に、為替や株価ではない情報が流され続けていたら、きっと違った社会になっていたはずです。
たとえば、毎日の交通事故数はどうでしょうか。
たとえば、毎日の結婚組数と出産数。
いや、そうしたデータではなくても、一日一言的な前向きのメッセージでもいいでしょう。歴史を振り返る過去のその日の事件の一覧も面白いです。
そうした小さな積み上げが社会の文化を育てていくと思います。

もし放送が公共性を目指すのであれば、こうした問題を少しは考えてほしいものです。
テレビや新聞のパワーは、暴力的と言っていいほどに大きいです。

ちなみに、新聞の複数ページが株価だけで埋まっているのも、とても無駄な気分です。
ページ数を減らすべきでしょう。ネットで代替すべきです。
そうならないのは、きっと何かの理由があるのでしょうね。

■福知山線事故の問題の構図 2005年5月4日
福知山線事故のニュースが連日流されています。
遺族から垣内社長に怒りがぶつけられるシーンも少なくありません。
遺族の怒りには共感する一方で、何か問題が違っているような気もします。
問題の構図は、「制度vs人間」なのであって、人と人の対立ではないはずです。
この事故は、もちろん人災ですが、その背景にある制度や仕組みに大きな問題があることが見えてきたということだと思います。そこに焦点を当てて、考えることが大切です。
特定の個人の問題にしてしまっては、問題は解決しません。
問題の構図を、「制度vs人間」と捉えれば、垣内社長と遺族とは、実は同じ被害者になります。その視点に立って、どうしたら「発生した問題」に対処したらいいか、どうしたら「問題の再発」を防ぐか、を考えていくことが大切なように思います。

危機管理は「事故を活かすこと」、つまり「危」(ダメージ)を「機」(チャンス)に変えていくことだと私は考えていますが、垣内社長ができることはたくさんあります。
JR西日本の経営幹部のだれかが、気づいてくれるといいのですが。
20世紀はじめの米国の鉄道会社の教訓から、まずは学ぶことが必要かもしれません。

■JR西日本の誠実な対応とマスコミの心無い態度  2005年5月7日
福知山線事故に関しては、同じような報道ばかりで辟易なのですが、とても気になることがいくつかあるので、2点だけ書いておきたいと思います。

最近のJR西日本の対応はとても誠実さを感じます。
J&Jのタイレノール事件や米国の鉄道会社の事故対応の教訓をかなり忠実に学び、具現化しているように思います。当初の対応とまったく変わってきました。
事件や、その後の対応にはいろいろと問題はありますが、垣内社長をはじめとした最近の対応は、日本の企業には初めてといっていいくらい、誠実さを感じます。

それに比べて、記者会見でのマスコミの取材態度はひどいものです。ここぞとばかりに弱いものいじめです。第一、言葉や態度が許せないほど不愉快です。彼らには本当に事故にあった人たちへの追悼の気持ちはあるのでしょうか。それがあれば、あのような発言はできないでしょう。
昨今のマスコミの体質が伝わってきます。JR西日本の企業文化も問題ですが、マスコミ各社の企業文化はもっと問題です。そういう記者は即刻担当から外してほしいです。
自分たちに甘く、他社には厳しい日本の雇われジャーナリストは、そろそろ自己変革すべきでしょう。
見識と品格のないジャーナリストは、有害無益です。

もうひとつ気になることがあります。
過剰反応の文化の広がりを感じます。
問題指摘されそうなことはすべて止めてしまう。
そんな「リスク回避社会」に、ますます近づいているような気がしてなりません。

テレビは公共性をほとんど失っています。
それはテレビ番組を作っている人たちに社会性や公共意識がないからです。
恥ずかしくないのでしょうか。
誰か声を上げませんか。

■世界の平和を知るための雑誌「軍縮問題資料」が復刊されました 2005年5月8日
今日、4月で休刊となった「軍縮問題資料」の復刊予告号が届きました。休刊を惜しむ人たちの尽力で、月刊誌としての復刊が実現したのです。
7月号からまた書店にも並ぶそうです。
この雑誌については、以前も何回か紹介しましたが、私がもっとも愛読していた雑誌です。書名は硬いですが、中身は読みやすいです。それに広告がほとんどないのがいいです。
1年間の購読料は約1万円です。月額1000円弱です。コーヒー2杯の値段です。
ぜひともご購読をお勧めします。
世界のもうひとつの側面が伝わってきます。
それ以上に、こうした雑誌を講読することで、平和への活動を応援することにもなります。
次のホームページから申し込みができます。
http://www.heiwa.net/

■アウトプットとアウトカム 2005年5月13日
行政評価の動きの中で、「アウトプット」と「アウトカム」という言葉が広がっています。たとえば、文化ホールの建設はアウトプットです。文化ホールを建設することで、豊かな文化を楽しみ育む暮らしが地域の人たちに広がっていくことがアウトカムです。アウトプットよりも。アウトカムが大切だというのが、行政評価や福祉評価の基本姿勢ですが、現実には私が知る限り、ほとんどそれは言葉遊びに終わっています。アウトカムは評価が難しいばかりでなく、価値観が絡んでいるからです。日本の行政は、ほとんどが没価値的です。いや、企業もそうかもしれません。

アウトプットとアウトカムは、価値観によって対立することがあります。高齢社会に向けて、寝たきり老人の収容施設を増やすというアウトプットは、寝たきり老人をつくらないというアウトカムを阻害することもあります。障害を持つ人にみんなが手を貸しすぎる仕組みをアウトプットすると、逆に自立というアウトカムは難しくなります。
アウトプットとアウトカムをつなげていくためには、現場からの発想、個人からの発想を起点にしなければいけません。

アウトプットとアウトカムの視点で考えると、世界の実相はかなり見えてきます。
郵政民営化、イラク復興、リサイクル法、障害者自立支援法、北朝鮮への経済制裁、産業再生機構、司法改革、いずれもマスコミで語られていることの多くは、アウトプット志向のような気がします。アウトカムから考えると風景は変わってくるでしょう。そして、「民営化」「復興」「自立支援」「制裁」「再生」「改革」などの言葉の多義性が見えてくるような気がします。大切なのは、その中身であり、目指すアウトカムです。

ところで、執行猶予中だった人物が起こした少女連続監禁事件が話題になっていますが、裁判のアウトカムとアウトプットは何でしょうか。

■「疑わしきは壊さず」 2005年5月16日
諫早湾干拓裁判で、福岡高裁は佐賀地裁の工事差し止めを取り消し、国の抗告を認める決定を出し、これにより農水省は近く工事を再開し、来年度末の完成を目指す、と朝日新聞の夕刊は報じています。
前回の「沈黙の春」を読む会で、諫早干拓緊急救済東京事務所の青木智弘さんからお話をお聞きしていましたので、意外ではありませんでしたが、やはり非常にがっかりしました。
これもまた、大切なことが何か別の要素や視点で決められてしまい、いつか後戻りできなくなってしまう一例でしょうか。
自然を大きく変えることになる決断をした裁判官の決断が、いったいどれだけの認識と悩みの上にもたらされたものであるかわかりませんが、私にはとてもできない決断です。

刑法には「疑わしきは罰せず」という論理があります。
それ以上に、自然とのかかわりの中では「疑わしきは壊さず」という論理を大切にすべきだと、私は思っています。

この訴訟は、経済のレベルでの訴訟のようで、問題の本質から離れたところでの議論のような気がします。しかし、それで工事再開や人為的な自然の改造が行われてしまうわけですから、どう考えても納得できません。
要は「お金持ち」が勝っただけの話です。
私たちの生活の論理はどこにも出てきません。

自然は産業の原料市場ではなく、私たちの生活基盤なのです。
その視点が、たぶん、裁判に関わっている法曹界の人たちには欠落しているのでしょう。

「市民による諫早干拓 時のアクセス」という報告書がPDFで提供されています。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%7Eisahaya/isa/libr/ass/ass-rp.html
ぜひ読んでみてください。

■経済としての戦争と当事者としての戦争 2005年5月17日
斉藤昭彦さんの事件によって、この戦争が外部のものにとっては、「ビジネス」、つまり「経済」であることがよく見えてきました。

国王のための戦争が終わり、戦争の主役が市民になった契機はフランス革命戦争だといわれます。もちろんそれ以前にも、たとえばスパルタカスの乱など、当事者が主役になっての戦いはありますが、それらはいずれもサブシステムとして圧殺されたエピソードで終わりました。しかし、フランス革命は違っていました。そして、そこから戦争は変質し始めたといわれます。

フランス革命に立ち上がった市民たちは、まさに自らのために戦ったのです。革命の理念、あるいは共和国の理念に立ち上がったといってもいいですが、その理念はまさに自らの生活につながっていました。
映画「アラモ」の中で、ジョン・ウェインが演じたデビー・クロケットが、「共和国と聞いただけで心が躍る」というセリフをいう場面が、私はとても好きだったので、今でもその時の彼の顔が鮮明に思い出せるのですが、私もまた学生時代、そうしたセリフにあこがれていました。まあ、いまもそうなのですが。

もちろん、すべての参戦者がそうではないことはいうまでもありません。市民兵にしろ、義勇軍にしろ、その多くは「経済目的」だったかもしれません。そのために、フランス革命もまた、俗化し、破綻していくわけですが、当事者としてやむを得ずに戦いの中心になっていた人がいたことは否定できません。アフガニスタンも、イラクも、そうだと思います。

つまり、戦争の主役は2種類なのです。
経済のために戦っている兵士と当事者としての信念のために戦っている兵士です。

日本の自衛隊も含めて、ブッシュの軍隊に参加している兵士は、経済のためです。戦わなくても生きていけます。個人的事情としてそれ以外の要素があることは否定しませんが、基本的には、イラク復興は大きなビジネスマーケットでしかありません。
イラクで自爆を重ねている人たちはどうでしょうか。たしかに経済のために戦っている人もいるでしょう。しかし、その中心は当事者として戦いしか選択肢のない人たちかもしれません。戦わなくては生きていけない人です。
両者にとって、同じ戦争も全く意味合いが違います。私たちはこちら側、彼らはあちら側。しかし、戦争は、その全く次元が違うものたちがぶつかって、現実に殺しあっているのです。よく話せば、殺し合いは不要なはずなのですが。

ベトナム戦争もそうですが、そうした戦いの勝敗は、最初から決まっています。しかし、経済で戦う人にとっては、勝敗は関係ありません。何しろ戦争は市場でしかないのですから。
殺し合いをさせている人と殺しあっている人は別の人ですが、そこが見えなくなったのが、現代の戦争です。
そうした視点で靖国問題も考えてみたいと思います。
靖国問題の定義もあいまいなままの国会論議は混乱を広げるだけだと思います。

■支援と弁護  2005年5月18日
また「言葉」の問題です。
どうも世の中の言葉の使い方が気になって仕方がないのです。

先日、自立支援の活動をしている障害をお持ちの方から、こんな言葉をもらいました。
「家族や施設が障害者本人の意思とは関係なく与えてくれる生活支援も考え直していく必要がある。幼いころより大人にいたるまでの育つ環境が、障害者自身の自己決定能力を育ててこなかったのではないか」。自分自身、障害を持つ人だからこそ言える話かもしれません。しかし、「支援」とは何かはもっと深く考えるべきです。

先日、息子を交通事故で亡くされたご両親のお話を聞く機会がありました。オートバイで走行している時に自動車にぶつけられたのです。目撃者のタクシーが別の車に轢かれないようにカバーしてくれたのですが、亡くなられてしまいました。
裁判で、事故を起こした人の弁護士が「暴走族の一団だった」と裁判で主張したのですが、そのタクシーの運転手に傍聴してもらっていたため、彼が「暴走族などいなかった」と叫んでくれたそうです。しかし、そうした明らかな嘘をついてまで、加害者の刑を軽くしようとする行為は「弁護」と言えるでしょうか。弁護士のみなさんの立脚点は「弁護」ですが、その意味も理解していない弁護士があまりにも多いような気がします。つまり職責を果たしていない弁護士が多すぎます。

こういう視点で考えていくと、いまは職責を果たしている人がどのくらいいるのかいささか不安になります。
皆さんは職責を果たしていますか。
いや、自らの職責を考えたことがありますか。
私は時々、惰性で仕事している自分に気づいてゾッとすることがあります。
困ったものです。

■2つの豊かさモデル 2005年5月21日

10年前にフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールが日本に来て、こう言ったそうです。
「日本が豊かなのは、日本人が貧しいからかもしれない」

豊かさの追求には、「全体が豊かになれば個人が豊かになる」というアプローチと「個人が豊かになれば全体が豊かになる」というアプローチがあります。日本は前者のモデルを選んで成功しました。しかし、そのモデルは15年前に破綻しました。組織から発想する時代は終わり、個人を起点にする時代が始まったのです。しかし、まだ社会は惰性で動いています。

東証1部の企業の昨年度の業績は3社に1社が過去最高の経常利益を上げたと今朝の新聞で報道されています。全体で見ても、3期連続の増収増益です。
景気が回復しない、失業者が増えている、働き口が見つからない、などという社会状況から見るとどうもピントこない話ですが、組織起点の発想では、会社の業績と社員の所得がトレードオフになっていますから、当然の帰結なのです。
このモデルでの発想を捨てなければいけません。両者をトレードオフにしてはいけないのです。
なぜいけないかというと、組織の利益とは、実は組織に寄生する一部の人の利益だからです。つまり、組織発想とは、利益配分の実態を見えなくしてしまう仕組みにつながっていくのです。社会保険庁の実態を考えれば少し理解してもらえるかもしれません。その気になれば、すぐにでも変えられるはずなのに、政治家はいっこうに変える気がありません。彼らもまた寄生側にいるからです。
組織とは、小さな差異を増幅する仕組みの要素をもっています。リーダーによって組織は全く逆な働きをします。個人の視点がないリーダーが引率する組織は、個人を犠牲にして組織利益を優先させ、残った寄生族を懐柔し、仲間にしていきます。そうした企業の発想が、結局は自らを貧しくしていくように思います。

企業変革、経営改革などが話題になりますが、こうした本質的な問題はいつも議論にはあがりません。それはほとんどの場合、企業という組織に寄生している人たちが考えているからです。企業という組織の実体を支えている現場の人たちは、全体が見えないために変革の主役にはなりにくいのです。

その状況が次第に変わりつつあることも感じていますが、
もうしばらくは組織優位の状況は続きそうです。

ジャン・ボードリヤールの言葉を改めて噛みしめてみたいです。

■自動車事故が起きるたびに考えること 2005年5月23日
自動車事故が多いです。
また、飲酒運転で高校生の列に突っ込み、3人の死者が出た事件がありました。
毎週のように起こっています。いや、毎日でしょうか。
この種の事件が起きるたびに、2つのことをいつも思います。
まずは刑の軽さです。それも最大刑が決められていることに違和感を持ちます。
もうひとつは、自動車メーカーの業績の高さです。

まずは刑の問題です。
国家権力に対して、理不尽な刑罰を受けないがために、刑は最大が決められているわけですが、そろそろこの発想や枠組みは見直されるべきでしょう。
国王の国家の時代の法意識だと思います。
その法体系の中で裁判に取り組んでいるうちに、裁判官たちもまた特権階級だと自らを誤解しているのが、今の日本の裁判官のような気がします。
もし視点が個人にあるのであれば、むしろ刑は最小刑方式にすべきだと思います。そうすれば、裁判官の意識も変わるでしょう。
司法改革とは、そういうことを見直すことだと私は思います。
それにしても、今の法律は罪の重さと刑の重さのバランスをかいているように思います。

次に自動車メーカーの業績ですが、これは必然的なつながりはないと言われそうですが、私は自動車メーカーの利益は、こうした事故とつながっていると思っています。
自動車メーカーは、さまざまな社会貢献活動をしていますが、そんなものはすべて止めて、自動車事故を最小化する活動にもっと真剣に取り組むべきでしょう。
自動車事故の責任を、自らの問題として考えている自動車メーカーの経営者はいるでしょうか。

■みなさんは何のために仕事をしていますか 2005年5月26日
昨日、ある会で話をさせてもらいました。企業関係者も行政関係者もいる集まりでした。
最後に、「みなさんは何のために仕事をしていますか」と質問させてもらいました。
少し間があって、最初に返ってきたのが「楽しみ」のためでした。
その人は画廊を経営されています。
そこで「仕事のお休みはあるのですか」
と質問したら、あるというので、重ねて、
「仕事をしているときと休みのときではどちらが楽しいですか」
と質問しました。
休んでいる時だそうです。となると、先の答えはいささかあやふやになってきます。
他には発言はありませんでした。「パンのため」という意見もありませんでした。

「何のために仕事をするのか」などという馬鹿な疑問を持つ人はいないのかもしれません。しかし、これはきわめて重要な問題です。仕事をするには、それなりの理由があります。その理由から考え直すと「仕事」の意味が見えてきます。

世間の常識では、「お金を得ること」が「仕事」かもしれませんが、この定義が問題だと思います。いい仕事をするためには、お金を得るどころかお金がかかるものです。

雇われていることが仕事をしていることという「常識」もあります。しかし、そうした「雇用労働」に対して、いまは「協同労働」と言う言葉もあり、雇われることと仕事とは別物であることへの気づきは広がってきています。

予算を使うことが仕事だと思っている人もいます。
最近は予算がなくて仕事ができないと言う自治体職員がいますが、先週、予算がなかったので知恵を絞って住民たちと一緒に事業を起したという自治体職員に会いました。もしかしたら、彼は初めて仕事をしたのかもしれません。
仕事の捉え方をちょっと変えるだけで、世界は変わってくるはずです。

「過疎地には仕事がない」などとよくいわれますが、ここでも仕事の意味が真剣に考えられていません。仕事の捉え方をちょっと変えれば、過疎地には仕事が山積みのはずです。「失業者が多いのは仕事がないから」と言う発想も無意味な話だと思います。
「仕事」という言葉ひとつからでも、今の社会の構造的な問題点が見えてくるように思います。

社会はさまざまな仕事で成り立っています。そして、そうした仕事は、決してお金で成り立っているのではありません。そこに気づけば、仕事はもっと楽しくて、充実したものになるでしょう。しかも、生まれてから死ぬまで、すべての人が仕事を楽しめる社会が実現するでしょう。

「仕事」って何なのか、たまにはそんなことも考えてもいいような気がします。
この数日、そんなことを考えたくなるような、いろいろな事件のメールが届いています。
仕事から解放されたい人、仕事が見つからずに苦境に陥っている人、仕事に違和感があって悩んでいる人、みんな仕事に対する固定観念から自由になれていないような気がします。

さて、みなさんにとっては、仕事って何でしょうか。
既成概念の仕事の呪縛に囚われていませんか。

■有識者の無知 2005年5月28日
眉村卓の作品に「幻影の構成」というSFがあります。
私たちが見ている社会は、ある意図で操作されている幻影でしかないという話です。
ところがある人が、裸の王様の話に出てくる子どものように、幻想ではない事実を見てしまいます。そこから、その幻想の社会が壊れてしまうという話です。かなり雑駁な紹介の仕方ですが、この話を読んだのは、大学を卒業した2年後です。とても共感できました。「裸の王様」を取り巻く人たちの多さに辟易していたからです。

人は見たくないものは見えないものです。いや、見ないのではなく、見えなくなるのかもしれません。見たいものだけを見ていると言ってもいいでしょう。人ごみの中で、知り合いだけが見える経験はだれもがあるでしょう。
しかも、自分の目ではなく、大多数の人の目で見たくなるのです。これに関しては、たくさんの事例が報告されていますが、
有名なのが「アッシュの実験」です。紙に書かれた3本の異なる長さの線ともう一つの紙に書かれた1本の線の長さをくらべ、3本書かれた方の中から同じ長さの線を答える問題なのですが、被験者一人と7人のサクラがグループになり、一人ずつ順に回答してもらいます。サクラは意図的に間違った同じ答えをするのですが、それに引きずられて被験者も間違った答えをしてしまうことが多いそうです。いわゆる同調行為です。
つまり、私たちは「見たいものだけ」を「見たいように」見ているわけです。

橋梁談合事件が問題になっていますが、10年以上にわたり行われてきたという事実はどう考えるべきでしょうか。周辺の関係者はみんな知っていたはずです。こうした事件が報道されるたびに、何をいまさらと私には思えてなりません。
しかし、知っているがゆえに、見えていなかったのかもしれません。知識と見識が、事実を覆い隠すことはよくあることです。「有識者の無知」とでもいうべきでしょうか。有識者が権力者やマスコミに重宝されるのは、彼らの無知の故かもしれません。

橋梁談合事件は氷山の一角です。社会の仕組みを問い直すべきでしょう。小賢しい犯罪者たちは厳罰に処すべきですが、仕組みが根底にある以上、それもできないのではないかと思います。入札制度などというものがある以上、これからもきっと繰り返されるでしょう。私には、入札制度は小賢しい制度にしか思えません。断じて公平でも公正でもないように思います。談合や不正が寄生しやすい制度です。ですから導入されたのでしょうが。

「王様は裸だ」と気づいた子どもの「純粋な眼」を取り戻したいといつも思っています。そして、素直な眼を持った子どもたちが、素直に育っていける社会はできないものでしょうか。

■経営の本質 2005年5月30日

横河ブリッジの談合隠しは組織ぐるみだったと新聞が報じています。そんなことは当然のことで、最初からわかっていることですが、いつもこの種の事件で、組織ぐるみかどうかが話題になります。もちろんほぼ例外なく組織ぐるみのはずです。いや、正確には組織犯罪というべきでしょう。そして、そうしたことが起こるのは、おそらく今の組織経営のあり方のためではないかと思います。
これに関しては、企業不祥事などの論考で、これまでも何回か書いてきました。たとえば、「雪印事件から見えてくる組織変革の方向性」をお読みください。

私は経営とは変化を創出することだと思っています。
ある本で書いた文章を転載します。

 経営の目的のひとつは組織を生き生きと存続させることです。生きている社会の中で組織が生き続けていくためには、常に自らを変化させていくことが必要ですから、経営とは「自らの変化を創出すること」といえます。不断の自己変革こそが組織を生き生きと存続させることになるわけです。
 ところで組織のホロニックな性格から、組織の自己変化は結果として社会の変化を引き起こします。したがって、経営とは「社会の変化を創出すること」ともいえるわけです。その社会の変化は結局は自らにかかってきます。社会がおかしくなれば、そこに存立する組織もまたおかしくなることは言うまでもありません。
(「保育園の未来経営を考える」(筒井書房)から引用)

 ところが、組織には環境が変化する中で、自らのアイデンティティを変化させまいという性格があります。いわゆるホメオスタシス(恒常性維持機能)というものです。環境に振り回されていたら、組織は維持できないのです。
 ここに、企業経営の面白さがあります。

 多くの企業不祥事の悲劇は、組織防衛の方法を間違っていることです。組織の論理に振り回されているのです。つまりは経営不在です。組織の論理に抗して、生命の論理に立った経営をしなければいけません。コンプライアンスや社会責任の問題の前に、まずは組織に息吹を与えなければいけません。そこで求められるのは、ホメオスタシスに対して、むしろホメオカオスといわれるような変化創出です。難しい言葉を使えば、エントロピーの放出です。

 守るべきは組織ではなく、そこに関わっている人の暮らしです。そういう視点で見ていくと、加害者の暮らしもまた、壊されていたことに気づくはずです。
 最近の企業関係の事件を見ていると、まだまだ経営不在の企業が多いような気がします。CSR議論に、そうした視点が少ないのが気になります。
 

■戦うことへの本能 2005年5月29日
あるメーリングリストで、こんなメールが流れてきました。

>斉藤さんの生き方について、テレビのインタビューなどでは「自分の生き方を見つけ>た方」「あのような生き方はすばらしい」と言うような反応があるようです。
>このような反応をされた方はNGOの高遠さんについての反応とは全然違うなあと>思いました。
>NGOの方が「苦しみを共有しあう」のに対し傭兵を賛美する方は「相手を攻撃」し>たり「激動を体験」することにあこがれているように思えました。

恥ずかしい話ですが、私の中にも斉藤さんの生き方に憧れる気持ちがあるのです。
もっとも私の場合は、イラク側での参戦ですが、まあ、どちらであろうと「相手を攻撃すること」に関しては同じことです。
みなさんはどうですか。

最近、フセインに直接会った弁護士が、フセインが語った逮捕の様子をテレビで紹介していました。アメリカの発表とは全く違う話です。
独房でのフセインの話も出てきましたし、最近の写真も映し出されました。
その話を聞いていて、フセインを応援したいと思っている自分に改めて出会いました。
ビン・ラディンに関しても、そういう感情が否定できません。
彼らのやったことには憤りを感じていますが、その一方で共感をしている自分がいます。
みなさんはどうですか。

映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親がいいます。
男たちは壊すことしかできない、
創るのは女性たちだけだ。

その言葉が衝撃でした。
以来、男性である私には平和活動などできないのではないかという思いが芽生えてしまいました。自らのなかにある、残酷さや好戦気分が否定できないのです。

最近、平和に関するメーリングリストが実に活発です。
にもかかわらず、どうも発言できなくなってきてしまいました。
平和に向けての自信を喪失しつつあるのです。
困ったものです。

■働く場の魅力 2005年6月3日

昨日は昼間も夜も、NPOを主催している大学生2人とかなり突っ込んだ話をする機会を得ました。
昼間会ったのは、大学院を卒業したら、自分のソーシャルベンチャーを起したいと準備活動をしているSさんです。寝る時間もないくらいのがんばりを続けています。その事業の進め方について、いろいろコメントさせてもらいました。
彼の研究テーマは交通工学ですが、せっかく学んだ、その専門知識とは別の分野で仕事をしていくことに少しもったいなさを感じますが、既存の企業に就職する意思は皆無のようです。自分のやりたいことができない予感を持っているからです。

夜は、茨城県の大学でNPOを主催しているIさんです。彼もまた企業に入らずに、自らの納得できる仕事に取り組みたいと考えていることを知りました。なぜ就職しないのかと質問したら、いまの企業には魅力を感じられないと言うのです。

もちろんこの2人は特別な存在かもしれません。
事実、Iさんは、大学時代みんなNPOや市民活動をしていても、結局は普通の企業に就職してしまう、自分はそうではない生き方をしてみたい、というのです。つまり多くの学生は企業への就職を目指しているわけです。
しかし、そうした若者にとっても、企業は余り魅力的な場ではないのかもしれません。入社後、会社を辞めてしまったという若者が時々やってきます。

私は25年間は企業での雇用労働、その後16年は自らが仕事を創りだす生き方をしてきました。大雑把に言えば、雇用労働はいやな事もありましたが楽でした。それに比べ、自分で仕事を創るのは辛いことが多いですが、楽しいです、「楽な労働」と「楽しい仕事」。この2つの違いは大きいです。
「楽さ」よりも「楽しさ」を選ぶ若者が増えてきたような気がします。そうした若者たちを引き付けるような魅力を、企業は回復しなければいけません。企業を元気にするのは人です。
短期的な業績回復も大事ですが、もっと大切なことは、働く場としての企業の魅力を回復することです。そのためにも、企業のあり方(経営のあり方ではありません)がもっと真剣に問われるべきではないかと思います。

■ネクタイをしない国会議員 2005年6月3日
温暖化対策で、ノーネクタイが話題になっています。
国会での議論は、きちんとした服装でしてほしいと思いますので、私はもちろん大反対です。しかし、思わぬ効用もありました。

今日の午後、テレビで国会の郵政民営化特別委員会の中継をずっと見ていたのですが、ネクタイと背広を着用していない閣僚たちを見ていると、その本質が見事に露出されて、だらしなさや不真面目さがしっかりと伝わってくるのです。
表現は悪いのですが、こんな人たちに国政を預けているのかと改めて情けなくなりました。どうみても、まともな人たちの話の雰囲気ではありません。質問者はまじめなのですが、閣僚たちがひどすぎます。

今の閣僚たちは、不真面目な内容のない人たちですから(質問に対する答えを聞いていたら、そうとしか思えません)、せめて背広とネクタイで緊張感を維持してほしいのです。自立していない人たちにはネクタイは必要だと痛感したわけです。

中川さんが、小泉さんがノーネクタイだったので慌ててネクタイをはずしてきたと、しゃあしゃあと語っているのにはあきれました、典型的な「ヒラメ族」です。少しは自分と言うものがある人かと思っていましたので。

ネクタイを外すと確かに人の本性が見えてきます。
彼らがいかにいい加減に国策をもてあそんでいるかが私にも見えてきます。
子どもたちにもきっと見えてきたはずです。

喜ぶべきかどうかは、とても悩みますが。
明日からネクタイをしてほしいです。
私はやはりネクタイをすることにしました。

■郵政民営化よりも銀行国営化 2005年6月4日
昨日の郵政民営化特別委員会の議論を聞いていて、やはり問題は「民営化」コンプレックスにあるという思いを強めました。
非効率さと硬直性、そして不透明性が、国営の欠陥で、だから民営化待望論が広がり、国鉄や電電公社の民営化の成果(落とし穴を感じますが)によって、民営化はいいものだということになったのでしょうが、この論理はいかにも安直です。
非効率や硬直性、不透明性は、民営であろうと国営であろうと起こりえますし、それはまったく別の問題です。議論のポイントはガバナンスの問題です。

郵政は国民の負担と考えるのは、国営事業がすべてコストセンターだと考えるからです。しかし、郵政システムを国民の利益と考えれば、プロフィットセンター的な発想が可能になります。
郵政でもし利益を上げられるとしたら、その利益は民営化の場合は、特定の資本家のものになります。国営のまま利益が上げられれば、それは国民みんなのものになります。言いかえれば、税金が削減できるのです。
その基本的な努力を放棄して、誰かに売ってしまおうと言う発想が現在の民営化論の根底にあります、閣僚や官僚は形だけを整えて、うまく責任を外してしまいたいと思っているようにしか見えません。事業価値論(ミッション論)ではなく、組織形態論(手段論)になっているわけです。昨日の委員会の議論では、閣僚側にはまじめさが皆無でした。報道ステーションの古館さんも言っていましたが、まじめさが欠けています。

私はむしろ、今の金融システムにこそ問題を感じていますので、金融はすべて国営化すべきだと思っています。高い金利での融資はなくすべきで、融資はすべて国が所管すべきだと思います。銀行は私営化すべきではありません。国が通貨を作っているわけですから、その運営も国がやるべきです。それを市場主義者にゆだねて、不労所得を発生させ、その利益の分与を一部の人たちが巧妙に受けている、今の構造には納得が行きません。

ところで、国営化、民営化という言葉の意味なのですが、現在の意味は逆転していると私は思っています。
国営化は、本来は国民に統治権があるはずです。もしそうであれば、統治対象である「民」が主役になるはずで、国営化とは実は民営化のことになるはずです。今の民営化は私営化でしかありません。つまり、言葉の魔術に私たちはだまされているのです。
金融と言う社会を支える基本的な信頼ステムは、当事者みんなのもの(コモンズ)にしなければいけないと、私は思っています。そのモデルは、地域通貨の中にあると思いますが、このガバナンスのあり方をビジョンにすべきです。
したがって、実は国営化ではなく、共営化というのが正確です。それに向けての第一歩として、まずは銀行を国営化し、次に金融システムそのものを共営化していくべきだと思います。以前も書きましたが、郵政民営化は、歴史の方向が逆なのです。
リアリティがないと言われそうですが、今の金融システムは砂上の楼閣ですし、さらに極端にいえば、犯罪の温床でしかないと、私は思っています。少なくとも高利融資を厳罰に処すことで、政治家や銀行経営者などは身の潔白を証明してほしいものです。

■コミュニケーション不在の国会審議  2005年6月5日
国会での委員会での質疑応答を最近はできるだけ見るようにしていますが、とても気になるのは「質疑」どころか、コミュニケーションをしようという意識が答えるほうにないのではないかということです。その背景には立場の上下関係を感じます。三権分立は形骸化しています。
いまの内閣はコミュニケーション志向が極めて乏しく、独裁志向であり、国会の場を私物化しているように思えてなりません。マイノリティや異論との公正な話しあいのなかから、価値を創造していくという、民主主義の本質は見事に否定されています。民主党の審議拒否は愚策だと思いますが、その愚策を選びたくなる気分も理解できるような気がします。もちろん、それは愚策でしかありませんが。

コミュニケーションとは、相手を説得することでも、諦めさせることでもありません。自らの思考を深めることです。私はコミュニケーションとは自らを進化させることだと考えています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/communication1.htm
しかし、国会での議論を聞いていると、相手の質問を「かわすこと」と「拒むこと」しか考えていないように感じます。これを聞いている人はどう思うでしょうか。特に子どもたちや若者たちはどう思うでしょうか。子どもたちは、大人の行動から多くを学んでいきます。
国会審議は、子どもたちにとってもコミュニケーションの「範」でなければなりません。

昨年、ニートに関する委員会に参加しました。そこで話題になったのが、若者たちのコミュニケーション能力を高めるべきだということでした。ほとんどの委員は賛同しました。委員の多くは、企業の経営者OB、大学教授、そして研究者や官僚やジャーナリストでした。私にはとても違和感がありました。コミュニケーション力どころか、その姿勢がないのは、あなたたちでしょう、と発言したい気分でした、まあ、それに近い発言はしましたが、彼らにはそもそもコミュニケーション能力がありませんから、私の思いは伝わらなかったでしょう。

コミュニケーションとは何か、ぜひ国会議員には考えてもらいたいものです。
ネクタイを外した服装を何にするかなどという問題よりも、大事な問題です。
少なくとも、今のような茶番劇からは足を洗ってほしいです。
今のようなやりとりに恥ずかしさを感じる常識は、もう捨ててしまったのかもしれませんが。

■民営化への不信感 2005年6月6日
しつこいですが、民営化への私の不信感をまた書きます。

国鉄が民営化されて、サービスがよくなったといわれます。駅の空間も楽しいものになってきたといわれます。
しかし、本当でしょうか。私には疑問があります。
サービスがよくなったのはたしかですが、それは当然の状況になっただけの話で、民営化しなければ実現しなかったことではありませんし、駅が一見楽しくなったのは商業空間になっただけの話です。わが我孫子市の駅は商業的活用価値がないためか、国鉄時代とほとんど変わりません。
まあ、国鉄は民営化を契機にして、実態が改善されたことは間違いありませんが、民営化しなければそうならなかったというわけではないでしょう。それに、安全対策や福祉面ではマイナスもないわけではありません。

電電公社はどうでしょうか。最大の問題は料金体系がわかりにくくなったことです。それに仕組みがどんどん変わります。そのため、私の手続きミスで、無駄な負担をしていることがよくあります。私には民営化のメリットはありません。電話のような基本的な仕組みは、むしろ国営にして無料にするのが望ましいと思います。その基本を超えた付加サービスを民間に委譲し、応益負担で展開してもらえば納得できます。

民営化によって、NTT関係企業は大きな利益を上げています。だから民営化はいいことだとみんな思っているようですが、それも納得できません。私には利益はないからです。料金体系がわかりにくくなった上に、次から次と目まぐるしく仕組みが変わり、その都度、出費を要求され、挙句の果てはいまどういうお金がかかっているかが全くわからない私のような利用者は決して少なくないでしょう。
最近の有線電話料金体系は、固定費的なウェイトを高めています。電話などしなくても、毎月確実に料金が取られるようになってきていますが、これはいわゆる不当所得です。
不労所得のウェイトがどんどん高まっていることにも、私は大変危惧を感じていますが、これはまた別問題なので、改めます。ただ、そうした仕組みをJRもNTTも拡大しているのは事実です。

いずれにしろ、税金をつぎ込んで蓄積してきた鉄道や通信のハードを安直に民間資本に提供することにどうしても違和感を持ってしまいます。しっかりしたインフラがあれば、だれでも利益は上げられると私は思っています。民営化は、その利益を誰か個人に提供するということです。
明治時代の官営工場が民間に払い上げられたことによって、日本の近代産業が発展してきたわけですから、民営化とはそういうものでしょうが、時代の局面の違いを考えると、やはり私には納得できないのです。

年金の保険料を投入して造られた立派な保養施設が、利用者がいなくて赤字なので、ただ同然で民間に売却されたりすることもありましたが、みなさんはどう思いますか。素朴な生活者感覚からは理解できません。その大規模なものが、電電公社や国鉄の民営化ではないかと私は思っています。
民営化という言葉にだまされていないでしょうか。

■サッカーにあまり興味をもてないのです。 2005年6月10日
サッカーで盛り上がっています。
そんな中で、非国民といわれそうですが、私はサッカーにほとんど関心がないのです。
ですからサッカーが話題になると、どうも肩身が狭いのです。
いや、サッカーだけではないのです。
野球にも興味がないのです。テニスもゴルフも、です。
わが家族には、夫も父親も体育系がいい、と私の評判は余り芳しくありません。
しかし、関心がもてないのだからどうしようもありません。

スポーツだけでもありません。
マツケンサンバも全く興味がありません。
先日、ある結婚式でマツケンサンバが登場しましたが、どうもなじめないのです。

要するに、世間の関心と私の関心はどうもずれているのです。
子どもの頃からずっとそうでした。
まあ、「いじめられっ子」の素質があったわけです。
いや、いまでもそうかもしれません。
同調性がないのです。
あまり人には好かれないタイプですね。

それに、サッカーの盛り上がりの後ろで、
何が進んでいるのか、そんなことが気になってしまうのです。
性格がわるいのでしょうか。

ところが、その私ですら、北朝鮮との試合は最初から最後までみてしまったのです。
そして、日本が得点するととてもうれしくなったのです。
どうしてでしょうか。

サッカーの盛り上がりの後ろで、何が進んでいるのか、
やはりとても気になってしまいます。
困ったものです。

■リサイクル疑惑事件に対する朝霞市の反応 2005年6月11日
今日の日テレの報道特捜プロジェクトで、朝霞市のプラスチックリサイクル業者の不正疑惑が取り上げられました。この問題が取り上げられるのは、4月23日、5月14日に続いて、3回目です。内容に関しては、次のブログが丁寧に紹介してくれています。
http://blog.goo.ne.jp/samidare2005/d/20050611

私は1回目も見たのですが、市役所はきちんと対応したのだろうと思っていました。それほど内容の問題点は明白でした。朝霞市役所にとっては、とてもありがたい問題指摘だったはずだからです。
しかし今日の報道を見て、唖然としました。市役所は事実を否定し、日テレに抗議文を送ったのです。抗議文は朝霞市のホームページに書かれています。
http://www.city.asaka.saitama.jp/index.shtml
その内容は、常識では考えられないようなひどいものです。朝霞市民は完全に馬鹿にされていますね。私が市民ならすぐに市長に抗議に行きます。盗人猛々しいとはこのことです。こんな人が市長になれる社会は、やはりおかしいです。市長の背景を疑いたくなります。いや職員が黒幕かもしれませんが。
私はテレビの報道番組には不信感を持っていますし、この番組の指摘が絶対に正しいなどとも思っていません。大切なのは、そうした問題指摘に当事者がどう対応するかです。危機管理とは、そういうことです。
朝霞市長と朝霞市役所の対応は、見事に自らの「本性」を露呈しました。つまり共犯者と思われても仕方がないようなコメントを出しているのです。そして、それに気づかないほど無知になっているのです。いや、驕りでしょうか。

しかし、こんなことはそう驚くことでもないのかもしれません。
大阪市での事例は有名ですが、行政では日常茶飯事なのかもしれません。なにしろ小役人や小賢しい首長が真似をするモデルは限りなくたくさんあるからです。そして、問題指摘されても頬かむりしていれば、いつか忘れられることを彼らは知っているのです。
今回の番組では、朝霞市の話の前に、失業保険金の無駄遣いとして有名な雇用促進住宅の話が取り上げられましたが、問題は明確で早期廃止が閣議決定されたにもかかわらず、これから30年かけて廃止していくとの事です。誰にも迷惑を与えることなく、3年で廃止できると思いますが、その10年をかけることを彼らは決めたのです。閣議の権威もなくなりましたが、それを咎めないのは内閣もまた共犯者だからです。
国民を馬鹿にしている首相、小役人に馬鹿にされている首相、住民たちに馬鹿にされている小役人、不幸なトライアングルから抜け出さなければいけません。

みなさんは、自分の所属している組織のボスや住んでいるところの首長を尊敬していますか。それとも馬鹿にしていますか。

■拉致問題の構図 2005年6月12日
テレビで見たのですが、最近、拉致被害者と認定された人の家族が次のような趣旨の話をしていました。

私たちは一生懸命働いて、国家に税金を納めてきました。でも国は動いてくれません。

国が「拉致被害者」と認定するだけでも事態は変わるのですが、多くの場合、国の認定は極めて恣意的であり、しかも意図的なのです。
水俣病もそうですし、薬害被害者もそうです。古くからある「分離による支配」の意図が感じられます。最近は裁判にもそんな風潮を感じます。

一生懸命に働いて税金を納めてきたのは何のためなのでしょうか。そういう税金でまかなわれている国は、どういう時に動いてくれるのでしょうか。いざという時に親身になって動いてくれない国に、どうして税金を払わなければいけないのか、そんなことさえ考えてしまうほど、怒りと哀しさを感ずる発言でした。

拉致事件は複雑な問題です。しかし複雑さに惑わされることなく、政治的に判断することなく、こうした家族の素朴な声にどう応えていくかが大切なように思います。

北朝鮮による日本人拉致事件は、犯罪者の不本意な事件ではありません。
北朝鮮という国による外交政策の一環です。日本のイラク派兵とどこが違うのかと考え出すと、私はわからなくなります。
もっとわかりやすくいえば、かつての日本国が朝鮮人や中国人を強制労働させるために日本に強制連行したのは、間違いなく拉致です。同じことが、国家によって行われていたのです。しかも、強制労働どころか、戦争にまで無理やり駆り出されて、戦死したら靖国に合祀されるようなことまで日本国は行っているのです。
そうしたことを考えるとどう対処していいかわからなくなってしまいそうですが、問題は簡単です。

組織発想ではなく個人発想で考え、対立軸を組織(制度)対人間(暮らし)に置いて整理すると問題の本質が見えてきます。
つまり、日本や北朝鮮が犯罪を起しているのではなく、国家や権力機構が犯罪を起しているのです。つまり国家は暴力機構なのです。その暴力機構にも、本来は仁義がありました。それがたぶん戦時や困窮の時代には失われるのでしょう。あるいは品格のない強欲者が権力の座についてしまうと暴力的な側面が暴走するのでしょう。今の北朝鮮と日本は、まさにそうした状況なのだろうと思います。

拉致家族を守る会のメッセージが、どこを向いているのかをしっかりと認識しておく必要があるでしょう。北朝鮮の人たちは、仲間なのです。在日朝鮮人へのいやがらせが起こっているようですが、そういう人は国家の走狗です。拉致の実行犯と同じことをしていることに気づいてほしいものです。

■二大政党体制の弊害  2005年6月13日
二大政党制が国政のみならず地方政治にまで浸透しだしています。
しかし、そうした体制の中での国会審議は退屈です。瑣末な議論で終始しかねません。
日本で二大政党信仰が高まったのはいつからでしょうか。小選挙区制の広がりと同調しているようにも思いますが、いずれも「組織発想の時代」の遺物です。この二つが広がるのに加担したのはマスコミですが、偏差値の申し子たちの軽い発想にはなじみやすい枠組みだったのでしょう。
しかし、社会が成熟し、大量生産時代が終焉しつつあるいま、二大政党の枠組みは社会を硬直化させているように思います。

私の友人の武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)は、議会制は民主主義とはいえないと言っています。「代表の擬制」が重層的過ぎて、結局は「民主」という実態が保証されていないからです。
しかも、党議拘束などというおかしな仕組みで、代議士は組織の歯車にされてしまうわけですから、今の時代、国会議員はサルでもできる時代です。事実、まあそれに近い状況なのかもしれませんが、そこには個人としての主体性は存在しないのです。
二大政党になると、論理は二つしかなくなることになります。しかも二大政党ということですから、当然のことながら、いずれの主張も類似のものになりがちです。国論が二分されるテーマはもちろんありますが、それはあくまでも各論であって、情報さえ共有されれば、多くの場合、国論は類似のところに落ち着きます。
これは武田さんがよく言う話ですが、いずれも国民の半数近くが賛成する意見を代表するわけですから(そうでなければ二大政党にはなりません)、どちらに転んでも大した差はないのです。つまり二大政党とは一大政党と同じことなのです。どこが違うかと言えば、利権の配分構造派閥の違いだけでしょう。ですから、そこでは本来的な政策論議は起こらずに、目先の手段論争が盛んになります。つまり「民営化の是非」「構造改革の手法」などです。その奥にある実体議論は行われません。
「新しい歴史は辺境から起こる」というよく言われますが、そうした辺境にある先端的な議論は二大政党体制の下では土俵に上がらなくなるのです。

組織発想の時代が終わり、個人起点で考える時代になっている現在、二大政党政治は時代に逆行しています。小選挙区制もそうでしょう。党議拘束などはもってのほかです。そこには主体性をもった生き生きした息吹はありません。
そろそろ政治の枠組みを考え直す時期ではないかと思います。

■エスカレーターで歩きますか? 2005年6月14日
みなさんはエスカレーターで歩きますか?
私は歩くタイプです。ですからエスカレーターを利用するかどうか迷うこともありますが、最近は明日カレーターしかない場所もあります。たとえば上野駅では新幹線ホームに行くにはエスカレーターしかありません。上野の新幹線からのエスカレーターはとても長いです。しかし、私は、たいていは歩きます。エスカレーターで止まるのが嫌いなのです。

右側は急ぐ人のためという常識が広がってきました。かなり混雑している場合も、最近ではみんな一列になってエスカレーターに乗るようになっています。しかし、これはとても奇妙な風景です。二列で乗れば効率は倍増するでしょう。右側が空いていて、左側には行列。どうも納得できない風景ですが、私はおかしいと思いながらも、右側を歩きます。時々、その右側に立ち止まる人がいます。もちろんその時は立ち止まるわけですが、この人はマナーをしらないな、と腹が立つこともあります。

ところがです。
エスカレーターを歩くのは危険だと言われだしました。
今日の新聞では某大型店舗が「エスカレーターでの歩行は危険なのでおやめください」という店内放送をしだしたという報道がありました。納得します。確かに危険です。エスカレーターは止まって利用するのがマナーなのだそうです。
マナーを知らなかったのは、私だったのです。

こうしたことはたくさんあるのでしょうね。
まだまだ私の思考回路は独りよがりと管理された枠組みから自由になれていないようです。自分で考えたマナーでは生きてはいないようです。これでは、私の嫌いなサルの生き方とそう違わないですね。恥ずかしい限りです。

先週からエスカレーターを歩くのを止めました。まだ違和感があります。そして、時に無意識に歩いている自分に気づきます。困ったものです。

みなさんはエスカレーターで歩きますか。歩かないほうがいいようですよ。

■高砂義勇軍と靖国合祀問題  2005年6月15日
とても気になる事件です。
毎日新聞によると、

旧日本軍の軍人・軍属として戦死した台湾人の遺族らが14日、靖国神社で合祀(ごうし)された犠牲者の霊を持ち帰る伝統儀式を行おうとしたが、右翼団体とのトラブルを避けるため、中止した。
 集まったのは、タイヤルとプヌン、ピュマの原住民3族や、小泉純一郎首相の靖国参拝を巡る訴訟の原告ら約60人。午前9時から、靖国神社で祖先の霊を返すよう求める「還我祖霊」の儀式を行おうとしたが、右翼団体の約60人が神社付近に集まった。約500メートル先で待機したが、神社側の許可も出ず、約1時間半後に断念を決めた。
 参加者の原住民らは「霊を持って返ろうと思ったが、実現せずに残念」と涙ながらに訴えた。

日本は今もなお、北朝鮮の拉致事件と同じことをやっているのかもしれないという思いをぬぐえません。
合祀問題にはだれも口を出せないようですが、靖国神社とは一体何なのでしょうか。
日本にはまだたくさんの治外法権空間があるようです。

死者は故郷にかえしてやりたいです。追悼とはそういうことではないかと私は思います。

■沢蟹の話2 2005年6月16日
以前、このブログでも沢蟹の話を書きました。私はなぜか沢蟹が大好きなのです。
あのときの沢蟹は結局、戻ってきませんでした。逃亡したか、蛙に食べられたか、今でもどこかでひっそり暮らしているかはわかりませんが、以来、見かけません。
その後、自然の蟹を庭で飼うのは良くないと思って、諦めていましたが、また飼う事にしました。何しろ沢蟹が大好きなのです。
今回は購入ではなく、自然からの招待です。
3か月ほど前に滋賀の石道寺に行ったとき、道のそばを散歩している蟹に出会いました。その蟹を連れてきました。その話を知って、福井の義兄が野菜を送ってくれるついでに、近くの山の蟹を送ってくれました。私には最高の贈り物です。わが家族は毛蟹のほうが好きなのですが。

しばらくは室内の容器で飼っていたのですが、彼らを見ていると、やはり庭に放したくなり、我が家の人工ビオトープに沢蟹たちの住処をつくり、転居させました。とても居心地がよさそうな場所です。彼らはどう思っているかわかりませんが。
しかし、その住処をあまりに奥深いものにしてしまったために、彼らの姿を見ることができなくなったのです。大きな庭石の下に空洞を掘ったのですが、そこがどうやらモグラの穴につながり、地底につながっていたのです。姿は見えなくなりました。
しかし、夜、餌を置いておくと朝なくなっています。きっと蟹は健在で、夜は出歩いているのでしょう。時々、夜、懐中電灯を持って、あるいは早朝に探しに行きますが、まだ出会えません。困ったものです。

実は沢蟹たちのうち、小さな子ども蟹は2匹、まだ室内の容器に住んでいます。元気です。この2匹を庭に放すべきか、迷っています。

この問題と郵政民営化や憲法問題とは比較すべきことではないのですが、私にとっては、沢蟹のほうが気になるのも事実です。
問題への関心は、自分の暮らしとの主観的距離と問題の客観的大きさの掛け算で決まるのでしょうが、最近はどうも前者のウェイトが大きくなってきています。大状況への諦めから、小状況への関心が強まりがちです。この傾向はどうも私だけではないようです。
こうして社会は荒廃していくのでしょうか。あるいは向上していくのでしょうか。
小状況を大状況につなげていく仕組みが求められているように思います。その反対は多くの人が考えていますが、大切なのは小から大へのベクトルのような気がします。

■NPO法人やまびこ会の事件 2005年6月17日
NPO法人がまた事件を起こしました。今回は詐欺事件です。

NPO法人はいまや2万を超えています。しかし、実際に活動しているのはそのうちのどのくらいでしょうか。そして、自立しているのはどのくらいでしょうか。
私はNPOをささやかに応援するコムケア活動に関わっていますので、いろいろとNPOとの接点もあります。さまざまな体験もしています。不愉快なことも少なくありません。もちろんうれしいことが圧倒的に多いですが。
またNPOに対して、行政も企業もかなりの不信感を持っていることも体験しています。

私はNPO法ができるときに、どちらかと言えば、否定的でした。NPOが既存の枠組みに絡めとられてしまう危惧を感じていましたし、なによりも上からのNPOづくりが進むのではないかと思ったからです。違った育ち方があったような気がしますが、代替案もだせずに、ただ批判しているだけでは意味がありません。反省しなければならないのですが、どうも感覚的に今のNPOのあり方には共感できません。そのためもうひとつ、自分が取り組んでいる込むケア活動も完全にははまれないのです。

今のNPOのなかには、行政の下請けであったり、企業の逃げ場だったりするものも少なくありません。また今回のように、犯罪の舞台に使われることも当然あります。登録で社会的保証を与えると言う発想に、私は権力者の傲慢さと市場主義者の社会観を感じてしまうのですが、多くのNPOは経済市場主義社会のサブシステムになっているように思えてなりません。
いうまでもなくNPOは企業と同じく「仕組み」です。犯罪者も営利企業も使い込める仕組みです。一方では社会起業家や生活者も使い込めます。誰が使い込むかで組織は価値が決まってきます。組織に価値観はありません。しかし、なぜか企業というと利益追求の権化とみなされ、NPOというと社会正義の集まりと看做されます。いずれも危険な「常識」ですが、組織で発想する時代にはそうした常識が横行します。

私は今の経済システムはパラダイムシフトすべきであると思っていますので、NPOのみならず企業もパラダイム転換すべきだと思っていますが、とりわけNPOに関して、お上が信頼性のお墨付きや公益性の判断をすることに、論理矛盾を感じています。せっかくの新しい芽をつぶしかねないからです。

法人格やNPOというタイトルに信頼性を与える時代は終わりました。信頼性は実践の中から当事者が積み上げていくべきものです。安直に権力によって与えられた信頼性は実体がないが故にもろいものであり、悪用されやすいでしょう。
ついでにいえば、ISO14000が流行したことがありますし、いままたISO絡みでCSRが流行になっていますが、これらも同じ間違いを犯しているように思います。

やまびこ会の活動は許されないものですが、もしかしたら同じようなことをさまざまな法人格組織はやっているのかもしれません。社会保険庁や雇用促進協会の実態とどこが違うのか、説明できますか。
どこかで組織の作り方や信頼システムの作り方が間違っているように思います。
もちろん国の作り方も、です。

■政治が守る「体制」 2005年6月18日
金正日総書記は、17日、韓国の鄭東泳統一相との会談で、「体制の安全の保証が貫徹されれば、核兵器を持つ理由がない」と述べた、と今朝の朝日新聞は報じています。

北朝鮮が核開発に取り組んでいるのは、現在の体制を守るためということです。そんなことは当然だと言われそうですが、問題はこの「体制」の意味です。その体制が国民の暮らしにいい意味でつながっている場合もありますが、そうでない場合もあります。
一番広義では「国民の主体的な生活の体制」、一番狭義には「国家権力者個人の地位と利権」と考えていいでしょう。その中間に「国家の管理体制」や「エスタブリッシュメントの生活」、さらには「富の分配体制」など、さまざまな捉え方があります。
イラク復興という場合も、その復興の対象が問題になりますが、これも一言で言えば、体制づくりということであり、その体制にはいろいろあるわけです。ですから私は、イラク復興などという言葉は理解できないのです。ODAでよく議論になるように、他者に関わるときには、対象を明確にして働きかけなければならないと思います。

北朝鮮の場合の「体制」とは何でしょうか。金正日の生命の保証という説もありますが、そこまでは行かないでしょう。しかし、大切なことは「体制」の意味を明確にして考えていくことだと思います。ある「体制」は別の「体制」を壊すことで成り立つことが多いですから、捉え方によっては、その意味は全く逆転してしまうのです。「守る」ことと「壊す」ことはコインの表裏です。

政治が守るべき「体制」は何でしょうか。
一般論ではなく、今の日本の政治の場合は何でしょうか。もし日本が経済協力するにしても、あるいは拉致事件の解決を交渉するにしても、いずれも自らの「体制」を守るためです。それは、北朝鮮の、どの意味での「体制」を守るかという問題に深くつながっています。そういうところで、政治の本質が見えてくると思います。

横田さんが、政府は対話も制裁も、何もしていないと発言されていることは当事者の言葉としてとても大きな意味を持っています。
小泉内閣が拉致問題解決に消極的なところに、今の政府が守ろうとしている「体制」が何なのかが見えてきます。そこにこそ大きな問題があると思います。

■地球温暖化促進策としてのクールビズ 2005年6月19日
クールビズというような動きには言及したくなかったのですが、やはり少しだけ書こうと思います。
昨日、カジュアルパンツを購入しに行ったのですが、目に付くのがクールビズキャンペーンです。ネクタイ業界には不評ですが、衣料業界や小売店はここぞとばかり頑張っているようです。ある調査機関によれば、その経済効果はかなり大きいそうです。つまり環境負荷を高め、温暖化推進にかなり役立つと言うことのようです。
環境大臣が率先して地球温暖化に貢献しているのはおかしな話です。

いや、クールビズは地球温暖化促進策ではなく省エネルギーを目指す地球温暖化予防策でしたっけ。まあ、誰もそんなことは真剣に考えていないでしょう。もし真剣に考えているのであれば、方法は違うように思います。もっとやることがあるでしょうに。
短視眼的なこうした思いつき政策が問題なのです。
第一、こんな商業主義的なキャンペーンを展開せずとも、みんなそれぞれの自衛策を実行しているはずです。クールビズなどを言い出す人は、実はエネルギーを浪費している人たちであることを忘れてはいけません。
私は16年前まで会社勤めでしたが、暑い夏にはもちろん背広もネクタイも着用しませんでした。TPOによって、ネクタイと背広を着用することはありましたが、それ以外は不着用でした。不都合のこともありませんでした。それに私一人ではなかったです。状況に合わせて自己判断で対応すればいい話です。
それに、そんなことよりも省エネ効果を発揮できることはいくらでもあります。クールビズでごまかしてはいけません。

2000円札を創った首相がいました。私は受け取り拒否活動をしていました。首相の思いつきの人気取り政策でどれだけの無駄があったことでしょう。しかし、彼はなんら咎められませんでした。2000円札はどうなったのでしょうか。損害賠償を請求したいほどですが、当事者はわかりません。首相に知恵をつけたという人は知っていますが。
クールビズもまあそれと似たり寄ったりだと思っていますが、2000円札よりも弊害が大きいのは、問題の本質から目をそらさせることです。
クールビズのおかげで環境意識が高まったという意見があるかもしれませんが、もしそうならその証拠を見せてほしいです。みなさんの環境問題に対する行動は変わりましたか。意識は行動につながって意味を持ちます。

無責任な政治家たちが日本の文化やマナーをどんどん壊しているような気がしてなりません。しかし、文化は自然と同じく、壊すと元には戻らないのです。
諫早湾を壊すだけでは満足できないのでしょうか。

政治家は責任を取らないでいいですから気楽なものです。
それに彼らにはクールビズなど不要なはずなのです。

■過労死が起こる社会システム 2005年6月20日
最近、自殺の問題がよく取り上げられるようになりました。
これは元NHKディレクターだった清水康之さんたちが始めた活動の成果だと思います。清水さんたちは自殺対策支援センターライフリンクというNPOを設立し、自死家族たちが声をあげていく場をつくったのです。そして、その声を活かす活動に取り組んでいます。政府も動き出しました。ささやかに応援している一人としてはとてもうれしいです。

過労自殺の問題も話題になってきています。過労死と過労自殺はほぼ同義のものだと思いますが、遺族の方の話を聞くとやはりいまのワークスタイルや働きの場の仕組みに大きな問題を感じます。そして過労死や過労自殺を起こす要にいるのが、また過労死や過労自殺の候補者であるような気がして、やりきれなさを感じます。

最近、企業の人が忙しすぎるのが気になっています。忙しすぎて仕事をする暇がないのではないかと思うほどです。なぜそんなにしてまで働くのか、仕事が面白いからでしょうか。そういう人もいますが、そうでない人が多くなってきています。そして、それに疑問を感じなくなっている人に出会うこともあります。
仕事に埋没しては仕事はできないと、私は思っています。私たちは仕事のために存在するのではなく、私たちのために仕事が存在するのです。
会社にとって、従業員は「人材」ではなく「人財」だという人がいます。会社は人によって実体がつくられますから、大切な財産だと言うわけです。しかし、人材も人財もたいした違いはありません。むしろそうした発想から抜け出ないといけないでしょう。従業員は一人の主体性を持った人間なのです。財ではなく「間」に大きな意味があるのです。しかし、そうした人の間をしっかりと育てていく余裕がなく、みんな孤立しています。そうした社会の状況を、自殺者の増加は示唆しています。

以前、日本ヒーブ協議会の年次大会で話をさせてもらったところ、資生堂の役員の女性が、過労死できるほど仕事に夢中になれる人がうらやましいという趣旨の発言をされました。あきれてしまいましたが、そうした人が役員になるような会社はどんな奇麗事を並べても信頼できません。

過労死やメンタルヘルスを解決するのは、やはりワークスタイルの文化を変えることです。ワークシェアリングを導入するだけで事態は変わるでしょうし、会社の従業員が会社以外の活動拠点をもう一つ持てば状況は変わります。

私たち一人ひとりが自分のワークスタイルを真剣に考えることはもちろん大切ですが、しかし実際には仕事のない人もたくさんいます。そうしたことも踏まえて、仕事のシェアの仕方や仕組みを考えた政策や企業の人事システムを考えることが必要でしょう。とても面白いテーマです。その基本は、人のつながり(関係性)です。
しかし、いまはまだ、人事活性化と称して、組織視点での人事制度の検討が行われています。個人起点での発想転換をしなければ、結局は企業をだめにしていくように思うのですが。

■コミュニケーション拒否症候群 2005年6月21日
日韓首脳会談はすれ違いに終わったようです。
会談でもそうだったようですが、小泉首相はよく「人に言われて考えるものではない」というような発言をされます。靖国問題に関して言えば、多くの日本人もそういう意識を持っているようです。

主体性を持った行動は大切なことです。
しかし、また、主体性とは他の人たちとの関係において成り立つものであることを忘れてはいけません。

言動は、行為者の主観的意識によって意味合いが決まるわけではありません。受け止めた人がどう思うかで意味が決まってきます。「どういうつもりで発言し行動したか」ではなく「その発言や行動が相手がどう受け止めたか」によって、言動の意味は決まります。どんな善意も時に悪意になり、どんな親切も時に迷惑になります。

組織起点の発想から個人起点の発想へ、というのが、私の基本的な時代認識ですが、その場合の「個人」とはばらばらの個人ではなく、人とのつながりの中での人間としての個人の意味です。ですから「個人起点の社会」は気遣いあう社会とほぼ同義語です。人は個人では生きていけないですから、関係性の視点から自らを律し、価値観を相対化していくことが大切だと思っています。
「人に言われて考えるものではない」とはコミュニケーションを拒否した姿勢です。一般の市井の人であればともかく、複数の人を代表する立場の人としては、問題でしょう。その姿勢にその人の基本姿勢が象徴されています。

もっとも、コミュニケーションを拒否する人は決して少なくありません。
そして、コミュニケーション拒否から始まる紛争や悲劇は多いです。

知人の浅野良雄さんが「対話法」に取り組んでいます。
対話法はとても効果的なコミュニケーション回復策です。
一度、ホームページをご覧ください。

■サラリーマン増税 2005年6月22日
日本の税制の問題点は納税先が国家であることではないかと思います。
まず国家に税金を集め、国家統治上の視点からその税金を配布していくと言うやり方は、統治者には効率的でしょうが、納税者には使途が見えにくくなり、結果として「税金がとられる」という感覚を高めているように思います。
まあ、それはともかくとして。

昨日、政府税制調査会がサラリーマン増税につながる可能性を強く示唆する報告書を発表しました。記者会見で、石弘光政府税調会長は「就業者の8割を占めるサラリーマンにがんばってもらうしかない」と述べそうです。
最近の私の年収はかなり低いので、ほとんど影響はないと思いますが、しかしいささかの不満はあります。それは「足りなければ民から増税」という思想が感じられるからです。しかも、サラリーマンにがんばってもらうしかないというのは、いかがなものでしょうか。完全にお上の御用学者の姿勢です。これではそれこそサルでも勤まるでしょう。
いやまた失言ですね。はい、反省。反省もまたサルでもできることですが。

税制には政治の思想や社会の文化が象徴されていると同時に、為政者の国民に対するメッセージが示されています。あるいは国のビジョンに向けての政策的意図が込められているといってもいいでしょう。
たとえば、配偶者扶養の廃止は家族のあり方を変えようとするものですし(つまり少子化促進策です)、源泉徴収できる就業者に期待するのは税金とは徴収するものという位置づけを示しています。
今、問題にすべきは、税の使途であり、その透明性です。それに手をつけずに、何が税制改革だ、です。リサイクル法も、企業の声を受けて、回収時に消費者に負担させるというスタイルになりましたが、これは消費を促進させ、かつ廃棄処理業者に利得を与える以外の何ものでもありません。またそうした複雑な制度にすることで、管理者、つまり公務員の仕事づくりも意図されているようにも思います。
そうした本質的なところに目を向けない有識者は信頼できません。
しかし、よくも「就業者の8割を占めるサラリーマンにがんばってもらうしかない」などと平気でいえたものです。彼の書いた著作を少しは読んでいるひとりとして、がっかりしました。

■知性は質問の仕方に現れる  2005年6月24日
卓球の福原愛選手が中国のテレビの取材を受けたものが、日本のテレビで紹介されました。質問者も回答者もなかなかの、面白いインタビュー番組でした。
内容はかなり辛らつなものもありましたし、インタビュアーの主観的コメントもありました。
ところがそれを紹介していた、日本のテレビのキャスターや同席したタレント?などは、辛らつすぎると批判的でした。中には、私がこんな質問を受けたらすぐに立ち上がって席をはずという若者もいました。日本のいまを象徴しています。
今朝、またテレビで報道されていました。「いい歳」のキャスターが、同じようなコメントをしそうだったのですが、同席したコメンテーターの3人がみんな中国のインタビュアーに肯定的なコメントをしました。ホッとしました。

インタビュー中、愛選手が「日本での質問と違いますね」と切り替えしました。すると相手は「日本ではどんな質問をするのですか」と再質問し、愛選手は「たとえば好きな食べ物は何ですか」と応えました。相手は「では好きな食べ物は何ですか」と質問しました。
実に含意に富むやり取りです。

その人の知性は「質問の仕方」で見えてくると若いときに本で読んだことがあります。とても共感できます。私の質問は、いつも知性を感じさせないものが多いと思いますが、質問の仕方はずっと意識してきたことです。
私の場合、直接話法が多いのです。たとえば相手の発したよく使われる言葉を捉えて「○○って何ですか」と質問します。とても性格が悪いのですが、その反応で、相手がどこまでしっかりと考えて言葉を発しているかがすぐわかります。そして、話すレベルを設定できるのです。もう少し知的に質問すればいいのですが、残念ながら、それが私の知性レベルなのです。性格の悪さは知性を妨げるものなのです。いやはや。

以前も書きましたが、日本のテレビのキャスターはどうしてこうも内容のない質問しかできないのだろうかと思います。それはたぶん日本のテレビ文化の影響なのでしょう。日本のテレビは迎合と持ち上げの文化です。ろくろく声も出ない人を歌手にしたり、ただ食べるだけのことをタレントと位置づけたり、そうしたお互いに持ち上げあう文化をつくってしまったのです。そして強いものに味方する文化が広がっています。かつての判官びいきの文化はどこに行ったのでしょうか。
それがキャスターにまで広がっているように思います。
そのことの影響はとても大きいです。
やや強引ですが、この数日の若者の悲惨な事件も無縁ではないでしょう。

キャスターの人たちは、もうすこしまともな質問をするように世界を広げ深めてほしいものです。片手間にやって、ことの本質を覆い隠すことに加担してほしくはありません。それこそジャーナリズムの死につながることなのです。

私ももう少し知的な質問ができるように心がけたいと思います。

■誰が2人の子どもを殺人に追いやったのか 2005年6月25日
また家族間の殺人事件が起きました。しかも立て続けに2件。
それぞれの被害者と加害者は誰でしょうか。
両親を殺害した事件の被害者は両親と考えて良いでしょう。では加害者は子供かといえば、そうとも言い切れません。
兄を刺殺した事件の被害者はだれでしょうか。私は弟だと思います、では加害者は兄かといえば、これも不安があります。この場合は両親がどう対応していたかも問題です。

それぞれの子どもたちにとって、家族はどういういう意味があったのでしょうか。

家族を取り巻く親戚社会と近隣社会。それらが壊れてきてしまっています。
家族は孤立した閉鎖空間になってきています。
家族の内部においても関係性が壊れてきていますが、経済的に自立しにくい子どもにとっては、関係性を失いながらも、同居せざるを得ないが故に、その家族に縛り付けられています。さらに「血のつながり」という生命的関係性も大きくのしかかっています。
閉じられた家族は良い時はいいでしょうが、悪い時は極めて危険な装置になりかねません。
外部とのつながりが失われれば失われるほど、最後の拠りどころとしての血のつながりや同居関係にひずみが集中し、矛盾が蓄積されていきます。2つの事件は、そのひずみの暴発と言えるでしょう。

家族のあり方が問われているのではなく、社会のあり方が問われているのです。
少子化問題も年金問題も、介護問題もDV問題も、取り組む視座をかえなければ解決しないように思います。
家族だけを見ていては、おそらく問題は見えてこないでしょう。
誰が核家族モデルを扇動したのでしょうか。
核家族モデルは砂上の楼閣でしかありません。
産業のために家族があるのではなく、家族のために産業があるはずなのですが。

■全体像の喪失と距離感の増大 2005年6月26日
今日もまたテレビで、税金の無駄遣いが報じられていました。最近は毎日のように税金や社会保険料の無駄遣いが報じられています。これを見ていると、税金や保険料は払いたくなくなります。現代社会の社会制度はすべて「信頼」に基づいて構築されていますから、信頼を壊すことは非常に大きな問題です。しかし、なぜかそうした報道に対して政府も当該機関も何の対策も講じていません。もしかしたら「当事者」がいなくなってしまったのが、現代社会かもしれないと思うほどです。コメンテーター社会です。

マスコミの報道を見ていると、行政は無駄遣いと私腹肥やしに全力を挙げているようですが、ではその無駄が全体のなかで一体どのくらいの比重を占めているのかはよくわかりません。テレビ報道を見ているとすべての公務員や社会保険庁の職員が私腹肥やしと無駄遣いをしているようにさえ思われますが、ほとんどの人はまじめに仕事に取り組んでいるはずです(私はそれこそが実は一番罪深いことだと思っていますが、それを言い出すとややこしいので今回は止めます)。果たして全体の中で、そうした無駄遣いや不正支出はどのくらいなのでしょうか。そうした全体像を見せずに、ある部分だけに焦点を当てて、騒ぎ立てるのは詐欺行為に近いと思いますが、それが昨今の権力者とマスコミの常套手段です。しかし、それでは大きな運動にはつながりません。

もう一つの問題は、問題の現場と自分の生活の距離感が物理的にも意味的にも離れすぎてしまったことです。ですから、みんな「ひどい話だ」だと腹を立てても、結局は自分の問題だとは思わずに行動を起こすには至りません。こう書いている私もほとんど事例でそうなっています。せいぜいが署名への協力と寄付くらいです。後は忘れてしまいます。ですから諫早湾は世論が盛り上がっても何の変化も起こりませんし、年金保険料の無駄遣いはさらに加速されているようにすら思える結果になっています。

この二つの要素は、いずれも「つながりこわし」の結果かもしれません。つながりを無視する風潮の中で全体像が見えなくなり、現場の距離が離れだしたのです。

無駄遣いに加担した公務員や職員、それに便乗した企業は、株主訴訟ではないですが、法律で過去にさかのぼって責任をとらせるようにすればいいと思います。もちろん利息もつけてです。子孫から詐欺まがいに奪取した財政赤字のかなりの部分はこれまでの官僚に返済してもらうべきです。それくらいのケジメをつけなければ、社会の基礎となるべき「信頼」は回復されません。無駄に造った施設は超安値で売るのではなく、当時のコストを回収する値段で関係者に引き取らせるべきでしょう。それが「社会の常識」ではないでしょうか。
いや、これは私だけの「偏見」かもしれませんね。負け犬の遠吠えでしょうか。

■真面目さの功罪 2005年6月29日

先日のブログの次の記事に質問がありました。
真面目に仕事に取り組むことがなぜ罪深いのだという指摘です。

テレビ報道を見ているとすべての公務員や社会保険庁の職員が私腹肥やしと無駄遣いをしているようにさえ思われますが、ほとんどの人はまじめに仕事に取り組んでいるはずです(私はそれこそが実は一番罪深いことだと思っていますが、それを言い出すとややこしいので今回は止めます)。

真面目さの功罪を考えてみたいと思います。
組織の中で与えられた仕事を真面目にこなすことはいいことなのか、です。
そう簡単な問題ではありません。

まず、組織人は与えられた仕事の価値を主体的に評価し、問題があれば異議申し立てできるかどうかという問題があります。組織が複雑になると個々の作業単位で仕事の価値を評価するのは難しくなってきます。仕事を「無意味化」し、単純な作業に分割することで作業効率を上げてきたのが工業化社会の発想ですが、そこに大きな問題があります。
次に、与えられた仕事はともかく、同じ組織の中で行われている活動に関する価値評価と問題があれば、それを社会に情報発信していくという問題です。自分の仕事だけに目を向け、他人の仕事には口を出さない組織人が多いように思いますが、それでは組織は育ちません。

組織の中で与えられた仕事を真面目にこなす、という場合の「真面目」の意味もポイントのひとつです。
主体的に考えることなく、ただ作業をこなすことは必ずしも「真面目」とは言えなくなってきているように思います。自分の行動には自分で責任を取る覚悟が「真面目」の言葉には含意されています。
組織の中にいることで見えてくることがありますが、もしそこに問題があれば、それを組織の外部に伝えていくことも「真面目」に入ると思います。

いま大切なのは、与えられた作業に忠実な真面目さではなく作業の目指すミッションやアウトカムの視点からの真面目さです。
これを「大きな真面目さ」と呼びたいと思いますが、とりあえずの小さな真面目さに埋没していては、いつかニーメラーと同じ後悔をすることになるかもしれません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

■畑の雑草の生命力
自宅の近くの宅地を借りて、野菜作りを始めました。
といっても主役は女房です。私は時々の手伝いです。
昨日はたまたま地元の人との話し合いなどが重なったので、自宅にいたのですが、用事の合間に、その畑の雑草取りを命じられました。
雑草の成長の早さは驚異的です。
そこには昨日とは違う今日があるのです。
自然の生命力には驚かされます。

それほどの生命力をもつ自然を壊してしまう、私たちの文明とは何なのでしょうか。
私たちが壊しているのは本当に自然環境なのでしょうか。もしかしたら私たち自身の生命を壊しているのかもしれません。

最近の気象はとても不気味です。
梅雨なのに初夏だったり、水不足と豪雨が並行して進んだり、自然が私たちに警告している感じがします。
生き方を悔い改めよ、という天の声が聞こえます。

■史上最高のボーナス 2005年7月1日
今年の夏のボーナスはとてもいいそうです。
この時期になると新聞やテレビではボーナスの話題が持ちきりです。
そしてそれを目当てにした商戦も活発です。

私は会社を辞めて17年経過します。
以来、ボーナスをもらったことはありません。
個人企業ですから、毎月の給料すらもらえないことも少なくありません。
それが零細企業や個人事業主の実態かもしれません。
体調が悪くなっても誰も助けてくれません。

会社に勤めていた頃は、ボーナスは当然の話でしたし、新聞記事にも違和感はありませんでしたが、今ではボーナスの話は全く無縁の世界で、もちろんボーナスセールには残念ながら参加できません。
今果たしてどのくらいの人がボーナスの恩恵を受けているのでしょうか。
史上最高のボーナス実現のために、どのくらいの人が犠牲になったのでしょうか。

企業にいた当時は、ボーナスをもらえることは当然と思っていましたし、毎年給料が上昇することも当然だと思っていました。ボーナスの額が少ないなと不満だったことすらあります。しかし、今ではそのことを少し恥ずかしく思っています。

一方でたくさんのボーナスに浮かれている人たちがいる、一方で仕事もなく給料さえもらえない人たちがいる。自殺者や過労死がこんなに多く、しかしたいして働きもせずに多額の報酬を得ている人がいる。悪事を働いても罰せられずに、悪事だという自覚もなく生活を保証されている人がいる。真面目に働いても給料は安く、人をだまして詐欺的な仕事でも高給取り。議論も真面目にせずに高級をもらう議員もいれば、汗して働いても月1万円ももらえない障害のある人もいます。
やりきれない気がします。

せめてボーナスの報道はやめてもらいたいものです。
ボーナスと無縁の人たちの思いをシェアしてやってください。

蛇足ですが、
ボーナスを予想よりもたくさんもらった人は、ぜひCWS基金に寄付してください。
3億円たまったら効果的に使い出す予定です。
ちょっと詐欺っぽいのが問題ですが。

■私のアドレスで発信している人がいるようです 2005年7月3日
迷惑メールが飛び交っていますが、私のアドレスを発信者にしたメールが私のところに来ることがあります。
いわゆる迷惑メールが多いですが、中にはウィルスメールもあるかもしれません。
私はメールの「送信者名」を「佐藤修」または「おさむ」にしていますので、アドレスが発信者名になっていることはありません。したがって、そうしたメールは最初から無視して削除していますので、問題はないのですが、なかには私のアドレスを知っていて、私と勘違いして開く人がいるかもしれません。
そこで、まず発信者名が私のアドレスになっている人の発信メールアドレスを調べてみました。そうしたらそれもまた私のアドレスと同じなのです。
ということは、私のアドレスと同じアドレスが存在すると言うことです。
そこでプロバイダーに相談してみました。
だいぶ話し合ったのですが、問題は解決しませんでした。
まずアドレスをID形式から独自のものに変更したらどうかと言われました。模倣される確率が少なくなると言うのです。よく理解できませんが、これは解決にはなりません。
私のアドレスと同じアドレスを使っている人を拒否することはできないのかと質問しましたが、プライバシーの問題でそれはできないというのです。これまたわからない論理ですが、埒があかないので相談は打ち切りました。

みなさんはそういう経験はありませんか。
対抗策をご存知の方は教えてくれませんか。

それにしても、自社のドメインを詐称している人を拒否できない仕組みには納得できません。技術的に難しいのでしょうか。
これもどなたか教えてくれませんか。

■住民と市民  2005年7月4日
一昨日、地元の住民の集まりで、「市民」と「住民」という言葉が少し問題になりました。ある「市民活動」をしている人が「住民は何もわかっていない」と言うようなニュアンスの発言をしたのです。
私は「市民」ということばよりも「住民」という言葉にリアリティを感じます。自分の住んでいる場所をしっかりと持ち、しっかりした住民活動をしていてこその市民活動だと思っているからです。そういう意味では、まだ私自身の住民度は高くはありません。
しかし、美野里町や山形市で少しだけ「まちづくり」に関わった体験からいえば、一番しっかりした取り組みをしているのは「住民」です。

NPOやいわゆる市民活動にも、ささやかに関わっていますが、私の体験では、活動の真ん中に問題の当事者もしくはそれに近い人がいるかどうかで活動のリアリティや発展性に違いがあるような気がします。今、全国の100近い広義のNPOと付き合いがありますが、元気な活動はほぼ例外なく当事者的な人がど真ん中にいます。つまり私の感覚では「住民主導」なのです。決して「市民主導」ではないのです。
私がまちづくりに関心を持ったのは30年以上前ですが、当時は「住民」ではなく「市民」にならなければいけないという言われ方がされていました。私もそう思ってきました。
しかし、17年前に会社を辞めて、少しずつまちづくりに関わりだすようになってから、大切なのは市民感覚ではなく、住民感覚だと思うようになったのです。

今日、郵政民営化特別委員会の議論をラジオで聴いたり、テレビで見たりしていました。
なぜか「住民」と「市民」のことを思い出しました。
日本の政治は市民がやっていることに問題があるのではないかと思ったのです。
住民の政治を根底において、そこから積み上げていくような政治の仕組みがあれば、今のような空疎な議論はなくなるでしょう。
政治だけではありません。経済も、です。

住民の知恵と汗の効用を見直すことが必要かもしれません。
今年は私も住民度を高めるつもりです。

■反対と欠席 2005年7月5日
郵政民営化法が衆議院を通過しました。5票の差でした。
昨日の亀井さんの自信に満ちた発言で否決を期待していたのですが、私には残念な結果でした。まあ亀井さんの自信に満ちた予想は当たったためしがありませんが。

これまでも書いてきましたが、私は郵政の民営化には反対なのです。というか、「民営化」の意味が極めてあいまいな日本の経済至上主義発想に異論があるのです。民営化の意味をみんな考えていないような気がしてなりません。言葉にごまかされてはいけません。日本の民営化は私営化にすぎないのです。ガバナンスの欠如です。まあ、そんなことは堂でも良い、まずは民営化だというのが小泉首相の論ですが、これは同時に多くの「有識者」の意見のようです。いやはや。

ところで、非常に面白かったのは、自民党の反対派の人たちが胸を張って反対票を入れていたことです。綿貫さんの顔は極めてさわやかでした。党議拘束という呪縛から解き放たれた快感でしょうか。今日だけは綿貫さんがとても輝いて見えました。
党議拘束は「組織起点の発想」です。代議制の矛盾をさらに増幅するものであり、少数者による支配システムを目指す非民主主義的なルールです。党議拘束がある以上、政治家は歯車でしかありません。
二大政党制、小選挙区制、党議拘束、すべてが機械主義的な近代の仕組みですが、そろそろ政治はそこから脱却すべきです、日本ではむしろベクトルはその深化に向いているようですが。

しかし今日、書いておきたいのはそういうことではなくて、欠席した自民党議員のことです。テレビではチラッとしか見えませんでしたが、たとえば古賀さんの退席の姿は誇りを感じさせなかったです。自分の意思表示もできずに、逃げていく哀れさを感じました。やや主観的過ぎる見方ですが。

欠席と反対。私は欠席者が一番許せません。責任逃れをするような政治家は理解できません。古賀さんに少しシンパシーを感じ始めていたのですが、残念です。
今回の国会は、とても面白かったです。次の総選挙での投票の方針が決まりました。内緒ですが。はい。

■お金がお金を生み出すことへの疑義 2005年7月7日
投資サービス法がつくられ、預金を除く金融商品への消費者保護が来年の国会に提出されることになりました。政治家の都合による郵政民営化法に膨大な時間をかけるよりも、こうした私たちの生活につながり、しかも切実な問題の議論をしてほしいと思います。早くても施行は2007年夏だそうです。それまでの間にもいくらでも手は打てるでしょうに。
それに、この問題は単なる消費者保護だけの問題ではありません。新聞によれば、お年寄り保護が主眼のようですが、そうではなくもっと抜本的な検討がされるべきです。
私のところにも金融商品や商品投機の電話がかかってきます。明らかに演出している電話もありますが、そうした電話には、相手に「仕事を変えたほうがいいですよ」と余計なお世話をしていました。最近はもうやめましたが。
若いと思われる人からの電話が多かったのですが、この延長に、振込み詐欺があるように思います。つまりその仕事を通じて、若者の仕事観が毒されていないとはいえません。
商品投機が悪いとは言いませんが、それは業界内の仕事であって、一般に広げるビジネスではないように思います。ワンクッション置くべきです。
それは外貨預金にも言えることです。儲け主義の銀行が市場を拡大したのです。
残念なことですが、私の住んでいる我孫子市で、水道局が2億円のお金を外貨預金し、1100万円の為替差損を出してしまいました。市長が、自らと水道事業管理者に賠償請求することになりましたが、これは非常に大きな問題です。経済的な問題ではなく、考え方の問題であり、モラルハザードにつながる問題です。
私は我孫子市の市長の言動にとても共感していますし、我孫子市は今の市長になって大きく変わりだしました。それだけにこの問題はとても残念です。ちょっとした常識があれば、食い止められたことなのです。おそらく市長もしくは水道事業管理者に適切な相談相手がいなかったのでしょう。
お金がお金を生み出すことに依存してはいけません。
銀行の利子がゼロなのは健全なことだと私は思います。日本の銀行が健全でないのは、預金利子はゼロで貸付利子は高く、しかも手数料による不労所得が高いことです。それにミッションを忘れていますから、いまや存在価値はありません。国営化すべきです。http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/06/post_16ce.html
価値を生み出すのは、人間の知恵と汗です。
我孫子市では古利根の湖沼の環境保全を目指して、市民債を発行しました。http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#101522億円集めました。その2億円で、価値を生み出し、償還するものとばかり思っていましたが、そのシナリオが見えません。今回の事件を知って、いささかの不安を持ちました。単に問題を延ばしただけなのかもしれません。
2億円集めて、新しい事業を始めて、それで償還していくのが普通の発想です。行政はこれまで「コストセンター」でしたので、そうした発想が欠落しているのです。
無尽講の文化を思い出すべきでしょう。理念と循環思想のない市民債は、もしかしたらマイナスかもしれません。安直に市民債を引き受けたことを少し反省しています。

■民営化再論 2005年7月9日
今日は解散の意義について書くつもりでしたが、今、テレビで猪瀬さんの話を聞いて、気になったことを書くことにしました。

猪瀬さんは郵政民営化が必要な理由として民営化すれば活性化するというのです。言葉としては成り立つでしょうが、内容はあまりに多義的で実体のない言葉です。こうした言葉の操作が、いわゆる「有識者」の常套手段です。
猪瀬さんはその事例として、クロネコヤマトの宅急便をあげました。たしかに宅急便は評価できますが、それは「民営化」の成果ではなく、クロネコヤマトの成果です。レトリックにだまされてはいけません。一般論にすりかえるのはまさに小泉手法ですが、大切なのは「民営化」の内容です。

民営化の「民」は、いうまでもありませんが、「統治されるもの」です。民営化とは「統治されるものに経営を任せる」ということです。その発想にすでに「お上発想」があるわけですが、問題はその「民」「統治されるもの」の捉え方です。集合名詞ですから、いかようにも内容をいじれるわけですが、今の現実を考えれば、NTTがそうであるように、この「民」は「公私」の「私」に近いのです。つまりは「プライベート・ガバナンス」に任せると言うことです。しかも「官」(統治するもの)の統治下に置きながらです。ちなみに「民営化」はおそらく“ privatization ”の翻訳ではないかと思います。
最近、「ソーシャル・ガバナンス」と言う言葉が使われだしていますが、もし「民営化」が「ソーシャル・ガバナンス」を意味するのであれば、私は大賛成です。しかし、その時には「ソーシャルな視点」が基本になければいけません。それは議論の過程においても必要です。
Privatizationの進行が、実際にどのような問題を起こしているかはもっとしっかりと考える必要があります。そうした体験の中から、改めてコモンズセクター、ボランティアセクターが再評価され、市民社会が注目されてきたのです。
もっとも、日本の場合、その市民社会までもが政府の管轄下に取り込まれそうなのですが。いまのNPOの分野にはビジョンを持ったリーダーが不在のように思います。

アメリカ発の市場信仰に基づく競争型の自由主義経済の幻想に惑わされてはいけません。政府に対置されるのは市場だけではありません。コモンズセクターがあることを忘れてはいけません。そして、それは決してサブシステムではなく、システムパラダイム転換の起点になりうると、私は考えています。

■解散はなぜ脅迫材料になるのか 2005年7月10日
衆議院で郵政民営化法が辛くも成立したのは、首相が廃案になったら衆議院を解散すると脅したからだといわれます。真偽のほどはわかりませんが、状況証拠はかなりあるように思います。リーダーシップの不足は、いつも権力行使で補われるのです。

しかし、なぜ「解散」が脅しの手段になるのでしょうか。自らの信念を国民に問う絶好の機会であり、国民と国政との距離を縮める効果的な手段でもあるはずなのですが。
脅迫効果のひとつは「公認」せずに「対立候補」を立てるといわれたからとも言われますが、もしそうであれば、政治家は信念を持つ主体的存在者ではなく、政党の雇われ人でしかないことを認めていることにもなりかねません。あるいはお金の問題かもしれません。選挙のあり方が問題でしょう。

もし自分の判断に自信があるのであれば、選挙は、広く国民の信を問うことのできる、また自らの考えを広げていくことのできる主舞台です。国会での不謹慎な議論をしているよりも、ずっと大きな意味があります。政治家は「まちに出よ」です。語りかける相手を間違っているのです。

解散をちらつかせて翻意をそそのかす卑劣さは論外ですが、私には「解散」というものの積極的な効果や意味への認識がないことのほうが納得できません。

ちなみにこの問題に関しては、公約論や党議拘束論がありますが、公約は「言葉」ではなく「内容」であり、党議拘束は本来的に見直すべきであり、しかも今回は手続き的にも問題があるように思います。蛇足ですが。

■拉致問題と核開発問題の重みをどう考えるか 2005年7月11日
6か国協議が再開されそうですが、北朝鮮は日本が拉致問題に言及しないことを求めているようです。
「拉致問題」と「核問題」とを比べたときに、どちらがより優先されるべきでしょうか。
私の周りの人にさりげなく質問すると例外なく核問題のほうが重要だといいます。
みなさんはどうでしょうか。
私は躊躇なく、「拉致問題」の解決が優先されるべきだと思っています。

核開発が行われたら日本はもちろん世界が危機に陥るというイメージがありますが、ではアメリカやロシアが核を大量に持っているのはどう考えるべきでしょうか。北朝鮮が核を持つこととどこが違うのでしょうか。
問題は「所有」ではなく、それを所有する人(体制)ではないかと思います。だからといってアメリカなどの核保有を肯定するわけではありませんが、北朝鮮やイラクが核を持つことを問題視するのは国家(ガバナンス)としての信頼性の問題だろうと思います。まあ身勝手な論理ではありますが。
もしそうであれば、その国家のあり方(ガバナンス)を正すことが重要です。つまり拉致問題の決着なしに、核問題を議論することは無意味だろうと私は思います。
それに核問題は「未来の蓋然性の世界の話」ですが、拉致問題は「過去と現在の確実性の世界」の話です。実際に被害者もたくさんいるわけです。その問題を解決せずに、どうして核開発問題を議論できるでしょうか。
核問題と拉致問題。前者は人類の問題あり、後者は個人の問題であるというような、ステレオタイプな発想をしていないでしょうか。
これほど明確な犯罪を解決できずに、核問題を解決できるはずがありません。現実問題の解決を先延ばしするために、次元の異なる問題を出してくる。これは誠意のない権力者がよく使う手なのです。

核問題よりも、拉致問題の解決のほうが優先されるべきであり、重要性も比較にならないほど高いと私は確信しています。
だからどうするのだといわれそうですが、どうしたらいいでしょうか。
真剣に考えなければいけません。

■寒い日の電車冷房 2005年7月12日
今日はちょっと寒かったです。
上着を着ようかとも思いましたが、上着なしで出かけました。
9時半頃、我孫子駅で千代田線に乗りました。おそらくJR管轄ですが。
我孫子発なのですが、出発直前になってなんと冷房が入ったのです。
この寒い日になんで冷房なのか、しかも車内はすいています。
車掌に苦情を言いたかったのですが、離れているので伝えようがありません。
実は千代田線では時々こういうことがあります。

省エネが叫ばれていますが、みんな真剣に考えてはいないようです。
我が家の前の街灯が日中でもついています。いつも無駄だなと思っていたのですが、そのまま見過ごしていました。
今日の電車体験のときになぜかそれを思い出しました。
私もまた省エネを真剣に考えていなかったようです。
明日、市役所に電話しようと思います。

私にもできる省エネ行動はいろいろありますね。
ちなみに最近はエスカレーターにも極力乗らないようにしています。

■古館さんが好きになりました 2005年7月13日
昨日の報道ステーションに日本道路公団の近藤総裁が出演しましたが、近藤さんへの古館さんの質問は迫力がありました。聞いていてすっきりしました。近藤さんの回答は全くすっきりしないものでしたが。
その後、ニュース23で同じように筑紫さんが近藤さんに質問しましたが、気のせいか古館ライクなスタイルも感じられましたが、内容は相変わらずのコメンテータースタイルでした。終わりもしまりませんでした。

古館さんの良さは主体的に対応することです。時に考えが違うことがありますが、視聴者と同じ立場を感じさせます。久米さんの目線と質問は観察者的でしたが、古館さんは当事者的です。まあかなり贔屓目かもしれません。
しかし、昨日の質問のリズムの取り方はとてもよかったです。苛立ちを表現したのが好印象です。古館さんの質問はことごとく無意味な回答でごまかされましたが、状況はかなり視聴者には伝わったと思います。
質問は「内容」だけではなく「仕方」も重要なことを改めて実感しました。

談合が発覚したにも関わらず、おそらく事態は何も変わっていないのでしょう。
報道ステーションにはぜひ継続してこの問題をしっかりとフォローしてほしいと思います。
常識的に考えて、道路公団の現職が無縁であるはずがありません。近藤さんもいまや無縁ではないでしょう。
勝負は1年目で決まります。延ばしてはいけません。

■拉致問題は二国間問題でしょうか 2005年7月20日
テレビを見ていたら、山崎拓さんが核問題は6か国問題、拉致問題は2か国問題と話していました。この発想を変えなければおそらく未来は開けないでしょう。いささか大仰な物言いですが。
これは「想像力」の問題なのです。

拉致問題は国家のあり方を象徴しています。つまり国家という組織維持のために個人の生活を壊すことはコラテラルダメッジなのであって、許容されるという枠組みを象徴しているのです。
国家の平和のためには個人を死にやることすらも是認されます。イラクがそうです。
そうした場合、行為そのものはすべて浄化されてしまいます。よく言われるように、個人が人を殺せば犯罪ですが、国家の平和のために人を殺せば英雄になる仕組みが作られているわけです。担い手は民間企業や傭兵でも公務員でも同じですから、当然、暴力団体や犯罪者集団と国家はつながってきます。ここに国家の闇の部分が秘められています。
談合などは当然過ぎるほど当然の結果なのかもしれません。関わった人たちの意識は暴力団や犯罪者と同じでしょう。だからこそ彼らを罰することはできないのです。みんな同じ仲間ですから。私たちもそうした暴力機制に依存している面がありますから、実は同罪なのです。しかし、それでは未来は開けません。
政治システムは、「暴力という強制力を独占し、支配関係を形成して社会統合するシステム」(神野直彦)ですが、その具体的な形態が現代の国家です。残念なことですが、そこでは国民は量的存在として扱われます。
そうした枠組みの中で考えている以上、拉致問題は二国間問題になってしまいますが、その枠組みの中では本当の信頼関係は生まれませんから、実は核問題もなんら解決しません。まだハーマン・カーン流のエスカレーション理論が根底にあるのです。これはまた近代産業の論理でもあります。
そうした発想に基づく枠組みの問題を指摘したのはオルテガです。
オルテガは、2つの信念の体系のはざまにあって、いずれにも落ち着かない過度的状況を危機とよびました。その危機的状況がかなり明確にあり、在来の信念体系の破綻がかなり明らかになってから、すでに半世紀近くが経過します。にもかかわらず相変わらず政治の世界は旧来信念の中で暴力を独占し続けています。イラクなどでは健気に国家組織ではない集団が自爆までを取り込みながら異議申し立てをしていますが、彼らもまた国家を倣っていますので、そこでも個人の視点は軽視されています。自爆がそれを象徴しています。産業が引き起こすジレンマと同じような政治のジレンマが発生しています。
半世紀前にアメリカで始まったカウンターカルチャー運動はなぜ失敗したのでしょうか。あれがもしもう少し広がれば歴史は大きく変わったと思いますが、まだ当時は国家が情報独占をしていましたから、サブシステムにしかならなかったのでしょう。

話が大きくなってしまいましたが、拉致問題こそ、人間に深くつながる根源的な問題であるという発想が必要です。それを理解するほどの想像力は政治家にはないでしょうが、真面目に汗しながら生きている私たちにはわかるはずです。そして、実はそれは国家関係の問題だけではなく、身近なところでも同じ発想が必要です。
個人的な問題こそが、実は社会の問題に一番深くつながっている。そうした発想が重要になってきています。まちづくりはまずは自分の庭づくり、生活づくりから始まるのです。しっかりしたNPOの根底には、そうした思想があるように思います。

また話がそれそうですね。
それにしても安直な問題に目を向けさせる政治家とマスコミには腹が立ちますが、対抗力がありません。イスラムの民が自爆しかないと思う状況に、もしかしたらつながっているのかもしれません。いささか怖い話です。自爆はしたくありません。

■朝青龍の負けを期待している自分への嫌悪感  2005年7月22日
朝青龍が2回負けました。それも微妙な負け方です。物言いが入り、検討の結果が発表されるとみんな拍手喝さいです。
そして負けた途端に座布団が異常に飛びました。私も拍手しました。

おそらく多くの観衆は朝青龍が負けることを期待しています。勝って当然なのですから、みんなもしかしたら負けるかも知れないと、それが楽しみで見ているわけです。少なくとも私はそうです。

しかし考えてみると、これはいかにも性格が悪い話ですね。人が負けるのを期待するとは何とも情けない発想です。今日、朝青龍の相撲を見ていて、それに気づきました。
生き方を反省しなければいけません。
社会が劣化していく契機はこんなところに潜んでいるのかもしれません。
パンとサーカスの戦略が少し理解できました。
危ないところでした。

■ステルス作戦は三権分立の崩壊を示唆しています  2005年7月23日
郵政民営化法案に関連して、ステルス作戦なる言葉が広がっています。
何と無神経な言葉を使うものかと、私は強い憤りを感じます。この言葉を得意気に使う、郵政民営化反対の政治家たちは、私が犯罪者だと考えている小泉首相と同じ穴の狢だという気がします。

なぜそれほどに怒りを感ずるかは3つの理由がありますが、ひとつだけ書いておきます。
後の二つはやや個人的な理由からですので。

ステルス作戦は、国会を議論の場ではなくだましあいの場にするということです。賛否を鮮明にせずに議論できるとは思えません。国会はそれぞれの意見をぶつけ合って、それぞれに考え直し、より多くの人が合意できる結論を探していく場なのだと思いますが、これではだましあいの場でしかありません。だまし合いのために巨額な国税を使う必要はありません。
つまり、今、国会は機能していないと言うことを自己表明しているわけです。
日本では司法の世界に続いて国会もまた機能を放棄したように思います。
日本ではいまや、三権分立は絵空事になったのでしょうか。

司法の世界は、かなり前から行政の走狗に成り下がっていると思えてなりません。行政による明確な司法介入があるかどうかは確認できませんが、どう考えても日本の司法には行政府の影を感じます。とりわけ憲法や企業(公害や買収疑惑など)に関する裁判はそう感じますが、もしそうならば他の問題も同じことでしょう。同じ文化が支配しているはずですから。
また司法への八つ当たりをしてしまいました。
今回の問題は国会です。

見識をもって判断することを拠り所にしているのが参議院議員です。自己の意見をはっきりと表明し、それに正直にしたがえないのであれば、参議院の存在意義はありません。権力と私欲の亡者は衆議院議員だけで十分です。
ステルス作戦などと馬鹿なことを言っていないで、堂々と信念に従って議論してほしいものです。圧力や買収の動きがあれば、それを公開すれば良いだけの話です。それが開かれた議論、つまり国会に期待されていることなのです。茶番劇のために国会はあるのではありません。

政治家の皆さんの耳には届かないでしょうが、子どもたちに顔向けできないような生き方をしていていいのでしょうか、と問いかけたいものです。

■なぜ今頃アスベストなんでしょうか 2005年7月24日
アスベストが話題になっています。それで初めて知ったのですが、アスベストはまだ使用禁止にはなっていなかったのですね。
アスベストが問題になったのはもうずっと昔ことです。その当時、禁止され、もう施設からの除去も行われたものとばかり思っていました。
そういえば、フロンガスはどうなのでしょうか。あれも禁止されたと思っていますが、もしかしたらまだ使われているのでしょうか。

とまあ、こういうことが決して少なくありません。
アスベストの禁止には石綿協会の強い反対があって、禁止法ができなかったと言うようなニュースもありました。それに関して協会の幹部の方が言い訳していましたが、これも呆れた話です。常識的に考えれば未必の故意があるに決まっています。組織犯罪ではないかと思えてなりません。
それはそれとして、一番問題なのは、問題が指摘されても、その解決が先延ばしになり、その間にさらに被害が広がっていくということの多さです。そして関係者は目先の利益のために、大きな問題を発生させ、ツケを次世代に残していくわけです。
今もさまざまな問題が次々と顕在化していますが、それらの解決は進んでいるのでしょうか。マスコミは事件や問題を消費する体質を変えて、その解決までをきちんと報道してほしいです。
またこうした「組織犯罪」にもっと警察や検察は目を光らせてほしいです。現在の体制はいかにも甘すぎるように思います。

問題指摘で満足してしまう社会から抜け出ることが必要だと思います。
まずは自らの周りで実践したいと思います。

■不信感の増幅という「冷たいテロ」の予感 2005年7月25日
ロンドンでの地下鉄爆破事件に伴って発生したブラジル人誤射事件は不幸でした。
それぞれにたぶんかなり納得できる理由があると思います。
その基本にあるのは「不信感」です。
一度生まれてしまった不信感はなかなか消えません。そして、どんどん増幅されていきます。安全安心のコストは乗数的に増大し、過剰防衛が過剰攻撃を生み出します。その行き着く先は破綻しかありません。

問題は、今回の無縁の若者の不幸は、実はすべての人に無縁ではないということです。いつ私に起こってもおかしくないということです。問題は不気味なほどに身近なのですが、おそらくほとんどの人はまだ遠くにしか感じていないかもしれません。

9.11事件、そしてロンドン地下鉄爆破事件。そこで死傷された人たちの数も決して少なくありませんが、もっと大きな被害はその事件が創出した「不信感」ではないかと思います。それは「冷たいテロ」といっていいかもしれません。まだあまり実感はできないかもしれませんが、「熱いテロ」よりも恐ろしい気がします。
世界が静かに壊れだしている、そんな不安がぬぐえません。
自爆テロとは、実は社会そのものを支えている信頼感を壊してしまうことなのかもしれません。
「21世紀は真心の時代」と考えていた私の思いは、完全に逆方向へと動き出しています。「冷たいテロ」はすでに日本社会に静かに広がりだしているのかもしれません。
それに抗して生きていかなければいけません。
大切なのは、隣人を信ずることです。たとえだまされたとしても。

■組織犯罪と組織を使った個人の犯罪 2005年7月26日
一昨日、アスベストに関して組織犯罪という言葉を出してしまいました。
「組織犯罪」とは何かとある人から言われました。「組織犯罪」という言葉はいかにもあいまいな表現でした。「組織」は単なる「仕組み」であって、行為の主体にはなれません。にもかかわらず、組織を主語にした議論が行われるところに問題があるのかもしれません。私もその間違いに陥っていました。

組織の行動を決めるのは意思決定者としての経営幹部です。したがって犯罪や事故の責任を問われるべきは法人格ではなく、経営者個人です。そこをあいまいにすることから、さまざまな問題が発生します。
株式会社は「有限責任」の考えを導入することで、大きなパワーを持ちました。しかし、その半面で個人の責任をあいまいにしてしまったように思います。そして、行政組織はさらにそれを増幅させ、「匿名の職員」が仕事をするスタイルを長らく続けてきました。匿名であることは犯罪の温床になりやすいです。

組織とは設計次第で責任の所在を明確にもあいまいにもできる仕組みです。そして今の日本の多くの組織は「責任を回避するための仕組み」になっています。行政組織もそうです。そこに、大きな問題があります。

日本における組織の意思決定は責任があいまいにできるのでだれも犯罪意識がなくても「犯罪」が可能になります。いいかえれば。「気がついたら犯罪者」というわけです。組織の設計原理が間違っているのです。しかも、そうした犯罪は法律上裁きにくいので、特定の個人は有罪にはなかなかなりにくく、なったとしてもダメッジは少ないのが普通です。
昨日も日本道路公団の内田副総裁が逮捕されましたが、あれだけ卑劣な行動を続けながら(彼の行動によって死んだ人がいるかもしれません)、ほとんどの人は殺人犯罪者と同列に見ることはないでしょう。ノンバンクの経営者も同じことです。三菱自動車やミドリ十字の関係者も同じです。組織は、個人の「犯罪」をあいまいにする装置なのです。
しかし実際には彼らはほとんど罰せられることはありません。時に社会的に名誉を失いますが、それは彼らにとっては何の痛痒も感じないでしょう。そもそも名誉や良心や信頼とは全く無縁の存在なのですから。そうでなければ、こんな犯罪は起こしません。

組織犯罪などという言葉は使うべきではありませんでした。
正しくは「組織を使った個人犯罪」です。
厳罰に処するべきでしょう。しかしおそらく処罰もあいまいに終わるでしょう。日本の司法の世界の視座は、生活者の側ではないからです。いいかえれば、司法組織にもまた、同じような組織原理が働いているように思います。
犯罪の温床になる組織の設計原理をそろそろ根本から変えなければいけません。それこそが、最近話題のCSRの本質だと考えています。

■司法の死 2005年7月27日
あるMLで、こういう題名のメールが回ってきました。つい最近、このブログで中途半端に書き込んだことの実証報告ですので、少し書いておきたいと思います。
舞台は、山梨県の甲府地裁、日時は昨日(2005年7月26日)です。
山梨日日新聞では次のように報道されています。

自衛隊のイラク派遣は憲法違反として、山梨県内の住民ら284人が国に派遣差し止めなどを求めている訴訟の第4回口頭弁論が26日、甲府地裁であり、新堀亮一裁判長は原告側の証人尋問申請を却下し、同日結審、10月25日に判決言い渡しを伝えた。原告側は「審理は尽くされていない」などと猛反発、地裁内は一時騒然となった。原告団は同日、同裁判長を含む裁判官3人の交代を求める忌避を同地裁に申し立てた。
この日の口頭弁論では原告側が本人陳述を行い、イラク派遣の違法性を訴え、被告の国側に具体的な反論を要求。次回以降の弁論で7人の証人尋問を申請した。国側の代理人は意見陳述で「主張、立証は尽きている。弁論の終結をお願いしたい」と述べた。
新堀裁判長ら3裁判官は合議を行った上で申請の却下と同日の結審、判決日を伝えて退廷。申請却下などの理由説明がなかったことから、原告や原告側の傍聴人が裁判官の後を追おうとして同地裁事務官らに詰め寄り、もみ合いになる場面もあった。
その後、原告側の要求に裁判官が応じ、原告代理人と原告一人、裁判官が面談。裁判官は「合議の秘密」として、結審などの理由は明らかにしなかったという。
原告団は県弁護士会館で会見し、裁判官の対応を批判。原告男性の一人は「裁判の審理は互いの言い分を聞いた上で進められるもの。強引に弁論を打ち切り、審理を終結するやり方が許されるわけはない」と強調した。
取材に対し、同地裁総務課は「個々の裁判官が下した判断の理由を説明することは困難」としている。

これだけだと、司法の死とは大げさではないかと思われるかもしれませんが、現場にいた人からの生々しい報告を読むと怒りが湧き上がります。
実は、こうした事態は予想されており、そのために原告の一人から、きちんとした議論をするように裁判所に要望書を送ってほしいという呼び掛けが事前にありました。
私も東京での同種の裁判を傍聴したこともありますので、状況が少しはわかったので、早速、ファックスを送りました。ファックスはかなり集まったようで、それが一部の裁判官の心を動かしたような報告も前日にありました。
しかし、昨日の裁判は結局は被告である国の代理人の主張がとおり、議論無用の突然の結審になったのです。そのやり取りがここに掲載できないのが残念ですが、関心にある人はご連絡を頂けたら、メールを下さった方の了解を得て、メールを送るようにします。

なお、司法の死をもう少し長い目で知るためには、最近出版された「憲法9条の戦後史」(岩波新書)をお薦めします。司法も国会も、すでに議論の場ではなくなってしまいました。議論の無いところに民主主義や平和はありません。
司法の死、立法の死は、未来の死でもあります。
どうしたら蘇生できるでしょうか。

■エスカレーターで歩かないことの難しさ 2005年7月30日
エスカレーターでは歩かないことにしたのですが、これがまたなかなか難しいのです。
ついつい歩いてしまうのです。それに二列に並んでいる時に必ずしも右側に乗れるとは限りません、不幸にして右に乗った場合、歩かざるを得ないのです。
そのため、できるだけエスカレーターを使わずに、階段を歩くようにしているのですが、エスカレーターしかないところが意外と多いのです。
選択肢が増えているわけではないのです。

エスカレーターでは歩かない、こんなことだけでも実行してみるといろいろなことに気づきます。
人生を変えるのはそう難しいことではないのかもしれません。


■アスベスト労災認定事業所の発表姿勢 2005年7月30日
厚生労働省がアスベスト労災認定事業所234箇所を発表しました。但し、具体的な所在地は発表されませんでした。厚生労働省の犯罪体質は変わっていません。
組織の場合、犯罪は事実を隠すことから始まります。これまでも何回も繰り返してきたことです。そして何と多くの死者を出してきたことでしょう。しかも、誰もほとんど責任を取らないままできています。
所在地を伏せたのは「風評被害」などを懸念したためと朝日新聞には書かれています。風評被害とは事実を中途半端に隠すことから始まります。少しは現実に目を向けてほしいです。アメリカの危機管理やコミュニケーションの出発点は常にフランクネスであり、事実を積極的に発信することです。日本のリスクマネジメントコンサルタントは、それとは逆の指導をしているような気がしてなりません。悪質なコンサルタントに、日本の組織は食い荒らされているのかもしれません。同じ職種の者として反省しなければいけませんが、寂しいことです。

今回の事件は、フィブリノゲン納入先公表の時を思い出させます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/05/post_12.html
厚生労働省には情報参謀はいないのでしょうか。
まあ癒着している情報コンサルタントにだまされているのかもしれませんが、風評被害のことくらいは自分でも少しは勉強してほしいものです。
すぐにでも詳細の所在地を発表し、対策や事実収集に取り組むべきだと思います。

■いじめの手段としてのテレビタレント族 2005年7月31日
不思議な光景でした。自分の価値観が間違いではないかという気になりそうでした。
テレビの生番組で、今話題の次世紀ファームの堀代表がテレビタレントの人たち10人くらいを相手に質問に答えるという番組がありました。タレントの中には元裁判官だとか現医師だとかいう肩書き依存のタレントもいました(娘の話ではテレビにも良く出る有名な人だそうです)。1時間くらいの番組だったのですが、なぜか観てしまいました。
テリー何とかという極めて見識のなさを感じさせる人を初め(この人は言葉遣いを知りませんね)、大勢の人たちが堀さんに質問し、怒りをぶちまけていましたが、とても不思議だったのは、なぜか堀さんが正しいような気がしてしまったことです。恐ろしい話です。一応、私も堀さんが起こした事件の概要はテレビで知っているのですが。
タレント側で唯一論理的だったのは梨本勝さんだったように私には感じられましたが、他のタレントたちの発言にはいささかの共感も持てませんでした。現医師の女性は最初から人を馬鹿にしたような表情で不愉快でしたし、元弁護士の人もコミュニケーションしようという姿勢が皆無でした。これでは魔女狩りでしかありません。同じ穴の狢のだましあい、ののしりあいでしかありません。大勢で弱いものをいじめている構図でしかないわけですが、私が最後まで見てしまった理由は、堀さんが(論理はかなりめちゃくちゃではあっても)最後まで謙虚な姿勢と丁寧な言葉遣い(表情も含めて)を貫き通したことです。子どもの頃からきっと厳しい「いじめ」に耐えて鍛えられてきたのでしょう。そんな気さえしました。
それにくらべて、他の人たちの言動はひどいものでした。テレビは人間性を破壊するのかもしれません。彼らもきっと、それほどの性悪ではないのかもしれません。しかし、彼らの品格と優しさのない対応が、堀さんを善人に感じさせてしまうとしたら、怖い話です。同じ穴の狢としか言いようがないわけです。
これが現代の「知性」の正体なのかもしれません。

堀代表が売っている商品のうさんくささや経歴などの不正確な表現は、おそらくこの番組に登場したタレントたちの売っているものや自己表現とたいして変わらないだろうと思います。だからこそ、彼らは寄ってたかって同類をいじめているのだと思いますが、こんな番組を創っているマスコミにはやはり失望しますね。
もっとも、それを1時間も見ていた私は、それにわをかけた俗悪な存在なわけですが。いやはや。

とても気になるのは、こうしたタレントや番組が、おそらく本人の本意とは別の効果を生んでいると言うことです。テレビは、まさに両刃の剣です。もう少し真剣に番組作りに取り組んでほしいと思います。

<2005年8月>

■カネボウ粉飾決算における責任追求と原因究明(2005年8月1日)
この記事はCWSコモンズの週間報告にも書きましたが、ここで時々議論している「組織の倫理」と「組織の論理」につながる話なので再録させてもらいました。

カネボウの粉飾決算が話題になりだしました。
そして、ついにかつてのトップが逮捕されてしまいました。
テレビを見ていたら、その一人の宮原卓さんの映像が移りました。
私の知人の宮原卓さんでした。

カネボウの粉飾決算は、おそらくかなり広い範囲でささやかれていたことであり、私ですらかなり前から何となく聞かされていました。
まあ、そんなことはそうめずらしいことではありませんので、そう気にもしていませんでしたが、
その規模はかなり大きいのと経営幹部の意図的な操作のすごさから、問題になるのは時間の問題だとは思っていました。
しかし、そのトップに宮原さんがいるとは知りませんでした。

宮原さんは三井銀行出身です。
私が東レにいた時代、三井系の会社の企画調査関係のスタッフの集まりをやっていました。
その時に一人が宮原さんです。
私とは大学卒業年次が同じですので、親しみを感じていました。
それにとても真面目な人柄でした。
宮原さんが三井銀行からカネボウに派遣されたのは19995年です。
当事のカネボウはすでにさまざまな問題を山積していたはずです。
最初はまさか彼がと思いました。いや今でも信じられない気分です。

これもたまたまなのですが、今日、その集まりのメンバーの一人から40数年の会社生活を無事終了したという挨拶状が届きました。
そして宮原さんの事件です。
安定した大企業に入社し、真摯に仕事に取り組んできた2人の知人の明暗をわけたのは何でしょうか。

安全学を提唱している村上陽一郎さんが「第三者機関による事故情報の収集と分析」の大切さを指摘しています。
そして、事故に対して「責任の追及」よりも「原因の究明」が大切だと言っています。
同じことが企業活動にも言えると思います。
宮原さんがなぜこんな不運に巻き込まれたのか、彼の責任を追及することも必要ですが、
それ以上に必要なのは原因です。

責任の追及は「倫理」問題ですが、原因の究明は「論理」問題です。
そうした発想が、残念ながら日本にはほとんどありません。
西武鉄道で自殺した社長も、組織の論理に負けたのです。
思考のパラダイムを変えないと、こうした悲劇がまだまだ繰り返されるでしょう。

■犯罪にどう立ち向かうかで社会の枠組みが見えてきます  2005年8月2日
世田谷一家殺人事件の犯人が着ていたのと同一のトレーナーを売っていた店が公表されました。事件後、4年半経過しています。この感覚がどうも理解できません。
私は最近、1週間前のことが思い出しにくくなりましたが、そうでなくとも4年半前のことを思い出すのは難しい話です。なぜ今頃になってと思わざるを得ません。もっと早く公開していたらと思うのは私だけでしょうか。
この事件では、いろいろな情報が小出しに出されてきたように思います。
どこかで捜査方法に間違いがあるように思えてなりません。

あの事件は衝撃的でした。
宮澤さんとは面識がありました。事件の翌日、まず新聞記者から電話がありました。しばらくして警察の人がやってきて、宮澤さんのことをいろいろ質問されました。
残された情報の多さからすぐ解決するだろうと思っていましたが、まだ解決できていません。公開捜査は難しいのでしょうか。
この事件に限りませんが、最近は事件にまつわる情報も、プライバシー問題があるせいか、なかなか公開されません。カメラなどに残された写真をもっときちんと公開すればすぐにでも被疑者の特定ができるのではないかと思うようなことも少なくありません。しかし、テレビでは顔が消されることが少なくありません。

情報は公開せずに、捜査官にとどめておくことが効果的な場合もあるかもしれません。しかし、多くの人の目を活用したほうが効果的な場合が多いはずです。
犯罪で迷惑をこうむるのは社会であり、一般生活者であることが多いでしょうが、もしそうであれば、犯罪にまつわる事実はもっと公開されるべきです。
なぜ公開されないのか、それは犯罪で迷惑をこうむるのは社会や生活者という視点が不在だからかもしれません。そんなばかなと言われそうですが、十分ありえる話です。
もしかすると犯罪の定義は「秩序を壊すこと」なのかもしれません。そう考えると犯罪の見え方は全く変わります。秩序が壊れて困るのは誰か、そこで生活する人も困りますが、最大の困り手は社会を管理し統治する人です。北朝鮮の国家秩序が壊れて一番困るのはだれでしょうか。
同じように、イラク復興の意味も、かなり違って見えてきます。

生活者の安心安全のための犯罪対策や犯罪解決の方法はどうあるべきでしょうか。
とても重要な問題です。
視点を組織や全体から個人に変えたときに、警察や犯罪対策の取り組み方も大きく変わるように思います。しかし、今の捜査方法は江戸時代とそう変わっていないでしょう。

視点を変えると、さまざまな風景が一変します。問題解決の方法も一変します。
犯罪にどう立ち向かっているかで、その社会のパラダイムが見えてくるような気がします。

■費用徴収文化の恐ろしさ  2005年8月5日
7月末時点でのNHK受信料支払い拒否・保留件数(速報値)が117万件に達したそうです。昨年7月に発覚した元チーフプロデューサーの番組制作費着服事件以来、不払いが増えているようです。不払いまでは行かなくとも、当然のように徴収されることに不満を持っている人も少なくないでしょう。
制度的にお金を徴収される仕組みは他にもいろいろとあります。
源泉徴収もその一つです。国民である以上、当然と考えがちですが、たとえば参政権のない在日外国人の人も当然のように徴収されることには違和感があります。また、税金の使途があいまいでとても許容できないことに使われることもあるわけですが、その部分相当は納税したくないという人もいます。イラク派兵や自衛隊などに関して、軍事費支払拒否訴訟も起こっていますが、きちんと議論されたことはありません。みんな納税は当然だと思っているからです。
問題は納税ではなく、税の使途や徴収方法などですが、郵政民営化と同じで、実体を考えるのではなく、言葉で議論する人が多いので、問題すら共有されません。
納税者基本権は日本ではまだ裁判官の理解にはいたっていません。彼らはほとんどが支配構造の上での裁判官に自己規定し、組織からの発想の呪縛から脱却できないでいるからです。
国民から有無を言わさず資金を徴収する仕組みは他にもいろいろあります。赤い羽根募金はどうでしょうか。これも多くの場合、自治会費から徴収されています。それがどう使われているかの報告は一応ありますが、内容はみてもわかりません。
社会福祉協議会の会費もそうであることが多いのはご存知でしょうか。
社会福祉協議会の名前すら知らない人も多いですが、その組織は知らないうちに徴収された私たちのお金で運営されていることが少なくありません。今ようやく支払拒否の動きが出てきています。
お金を制度的に徴収するのであれば、その使途に関する説明は必要ですし、それに関する負担側の評価システムが必要です。それがないのは、どこかに「お上」意識があるからです。いいければ、官民思想です。いうまでもありませんが、官は統治するもの、民は統治されるものです。
その思想は昨今の民営化にももちろんしっかりと繁栄されています。民営化の意味をみんな少しは真剣に考えるべきです。

高速道路を無料にしようという提案がありましたが、あまり共感は得られませんでした。日本人は統治者にお金を徴収されることになじんでいるのだと言うことの証左かもしれません。
その根源には、納税体制があるのかもしれません。税金をまず国家に納めると言う枠組みが、そうした感覚を育ててしまったのかもしれません。
年金も社会保険も、すべてそうした文化の中で、徴収した側の責任が曖昧になっているのが現状です。構造を変えなければ事態は変わらないように思えてなりません。

■広島宣言と小泉言動  2005年8月6日
広島被爆から60年です。
記念式典での市長の広島宣言と首相の話をテレビで見ました。
小泉首相がこの席にいることに、私はかなりの違和感を持ちますが、気のせいか、小泉首相の目は落ち着きがなく、言葉にも力がありませんでした。もちろん内容はいつものことながら空疎でした。
小泉首相は、秋葉さんの言葉や子ども代表の言葉を、どう聴いていたのでしょうか。
きっと何も感じていないでしょうね。

日本は小泉内閣の下で大きく非平和に向けて舵を切りました。
歴代内閣の延長線でしかないといえるかもしれませんが、大きく変質したのは間違いないように思います。壊したものはなかなか戻りません。

いつものことながら、
沖縄平和祈念資料館に書かれていた言葉を思い出しました。

■民営化コンプレックス 2005年8月7日
郵政民営化には私は反対、というとみんなから怪訝な顔をされます。
いつまでにという時間軸を別にすれば、みんな民営化賛成のようです。
今の進め方は強引かもしれないが、小泉首相の時代に民営化しておかねば、もうだれもやれないだろうという有識者や国会議員もいます。不思議なことに、この数日のテレビキャスターの多くもそんなニュアンスが感じられますし、大手新聞の論調はみんな民営化賛成なのだそうです。新聞はいい加減にしか考えていませんし、有識者やキャスターは迎合的ですから、まあどうでもいい話ですが、真剣に考えていると思っていた若手の国会議員までもそういう意見を言うのを聞いていると、民営化コンプレックスの深さを改めて実感します。みんな国家を信頼していないわけです。私のような国家が嫌いな人間よりも、彼らは国家を信じていないのでしょう。そうでなければ、安直に国営よりも民営がいいなどと言うはずがありません。不思議な話です。
なぜ民営化が望ましいことなのか、私には理解できないのです。

私が民営化に反対なのは、官と民の構造がそのままでの民営化は、開かれた私有化よりも危険だと考えるからです。いうまでもなく、「官」とは統治するものであり、「民」とは統治されるものです。つまり上下関係の構造なのです。民に任すとは責任を曖昧にすることでもありますし、利益配分を統治者もしくは経営者に集中させると言うことです。地方分権が中央集権の延長であるように、民営化とは権力集中の延長のように思えてなりません。それを避けるためには、官のガバナンスを変えなければいけません。そこには「共」という概念が出てきます。民営化でも国営化でもない、ガバナンスの仕組みがあるはずです。
民営化は、これまで国民の税金を使って作り上げてきた資産利権を一部のものに格安で提供すると言うことでもあります。JRやNTTが高収益を上げられるのはただ同然で膨大なインフラ資産を入手したからです。その上で、利益が上がらない路線は閉鎖したり、ただ同然のインフラを使ったサービスをかなりの高価格で売り出したりしたわけですが、それは私企業の論理です。それが日本の社会の形を大きく変えたように思います。
税金が節約されたと言う言い方がありますが、それは単に税金の使い方が間違っていただけの話です。その管理と是正の仕組み、つまりガバナンスの仕組みがなかったわけですが、民営化によって、ますます実態は見えなくなるでしょう。民営化されたら、その使い方も評価できませんし、経営の基準も変わるのです。カネボウを考えればよくわかることです。
ちなみに、民間活力の導入と民営化とは全く違う話だと思うのですが、民活導入には私は当然ながら賛成です。

こうした構造的な問題をもっと整理してほしいですが、それ以上に違和感があるのが、ビジョンやグランドデザインがないままに、効率性や財政問題で民営化が議論されていることです。日本の社会の形は、そんな要素から議論すべきではありません。民営化は手段であって、目的ではないですし、ましてや民営化万能などではないのです。

そうした認識にそって結論された民営化であれば安心ですが、どうもそうは思えません。公社化からさらに民営会社へ。その過程で一体どのくらいの費用が発生するのでしょうか。市町村合併を推進した片山議員には損害賠償を請求したいくらいですが、民営化も膨大な新たな利権と無駄が発生します。政治家が群がるはずです。

こんなふうに考えるのは、あまりに不勉強な結果でしょうか。

解散選挙で、この数か月の政治的空白を解消してほしいと思っていますが、世間の常識はどうも反対のようです。ここでも私の感覚は世間とはずれているようです。困ったものです。

■郵政解散における問題構造の本質 2005年8月9日
郵政法案が否決され、解散になりました。ようやく国民が意思表示できるようになりました。とてもいいことです。解散が悪いなどと言う人がいますが、この人たちは民主主義に反対していることに気づかねばなりません。500億円もかかるとだれかが馬鹿な発現をしていましたが、今の状況での無駄遣いは500億円どころではありません。いずれにしろこれで政治的空白はなくなる可能性が出てきました。

小泉首相はまた得意な嘘を突き出しました。
国会が郵政民営化を否定したと昨日の記者会見で話しました。この人の嘘つきは日本を誤らせてきました。彼がついたうその多さは犯罪を構成すると私は考えています。これについては、昔、ホームページのメッセージでも書いたことがありますが、その一つを紹介しておきます。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m2
議員の嘘は彼に始まったわけではありませんが、森首相を選んだ時に青木さんと野中さんがついた嘘から、嘘の次元が変質したと思います。この人たちが日本を変えてしまったように思います。

国会は郵政民営化を否定したのではなく、民営化の内容とその進め方を否定したのです。両者は全く違います。きちんとした郵政民営化を否定しているのは小泉首相だと言っていいでしょう。猪瀬さんも同罪です。

北朝鮮との関係で、拉致問題と核問題とどちらが基本かを書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/07/post_c1da.html
拉致問題を放置している国家と、いかなる取り決めをしても意味がありません。まずは相手が取り決めをするにたる資格があるかどうかが先決問題なのです。順序を間違ってはいけません。
同じことが今回の郵政問題でも言えます。
大切なのは政治のあり方であり、民主主義の原則です。
今回の小泉政権はそれを踏みにじっているのです。
そこにこそ大きな問題があります。
郵政民営化は数年遅れてもたいした問題ではありません。すでにその第一歩は踏み出されていますし、問題の所在は見えているからです。
しかし、国政の形ややり方は、そうはいきません。
言葉のごまかしを重ねながら、小泉首相は日本の平和憲法を踏みにじり、戦争に向けて一歩踏み出させた人物です。国会を私物化し、無血クーデターまがい(法と国民の意思を否定しての暴走)を起こした人物です。そしてその周りには、それを支える人たちが群がっています。この構図は道路公団と同じに見えます。いや、数十年前の戦争に進んでいった時の政府と同じかもしれません。

国民が問われだしました。
その選択に私はかなり悲観的ですが、まずは解散を歓迎したいと思います。

これは私の「コモンズの回復」につながる大きな問題ですので、ゆっくり書き込みたかったのですが、時間がないため、ともかく書きました。

■裸の王様たちへの失望 2005年8月10日
日本の政治の流れがもしかしたら変わるかもしれないと思っていました。
しかし、解散後の政治家たちの発言を聞いたり、マスコミのオピニオンリーダーやキャスターの話を聞いたり、あるいは世論調査結果などを読んでいると、どうもそれは難しそうな気がしました。
私見では、まともに発言しているのは民主党の岡田さんだけですが、民主党には戦略参謀も広報参謀も不在のようです。川端幹事長の発言にはビジョンと戦略を感じません。特にコミュニケーション戦略が不在なのでしょう。かつて民主党の勉強会に呼んでもらったことがありますが、進歩していないようです。
岡田さんは真正面からの発言で私は好感をもちますが、小泉首相ほどではないとしても、やはり裸の王様になってきているような不安を感じます。
岡田さんに質問するキャスターなどの姿勢はひどいもので、岡田さんの話など全く聞かず、しかも民主党は批判だけで政策もないという紋きり型の質問だけです。少しは勉強して、主体的に考えろと言いたいですが、今のタレント化したキャスターや有識者には無理な期待かもしれません。
それに輪をかけて、国民の意識調査には驚きを感じます。
こうやって世界は戦争に進んでいくのでしょうか。
パンとサーカスにすっかり洗脳された日本人とは、付き合いたくないと言う嫌世気分に陥っています。しかし、今日は3組のNPOの人と会い、その後、NPOの集まりにも出なければいけません。政治とは別の生活現場ではみんな真剣に生きています。言葉だけの世界では、やっていけないからです。

それにしても、法案反対の議員たちは、ただ反対だけで、ビジョンもプログラムもなかったのでしょうか。これでは最初から勝負は決まっています。千載一遇のチャンスを活かそうとする知恵者は小泉首相だけなのでしょうか。小賢しい悪知恵が勝つ社会には未来はないような気がします。

■パンとサーカスの饗宴 2005年8月14日
選挙に「刺客」が登場しました。
小泉首相の本性を少しだけ露出しましたが、それを歓迎する世論もあるようです。
小池議員が「くの一」を引き受けたようですが、これはまさに俗悪なB級映画を見ているようですね。彼女には知性というものがないのでしょうか。
私が参加している平和を語り合うネットワークでも、それならば小泉首相に「平和の刺客」を送ったらどうかなどと言う議論も起こっています。ばかげた話です。日本の平和活動の底の浅さを感じます。しかし、その一方で、ちょっと賛成する気分があるのも事実です。悪は悪を育てていきます。
人気だけが取り柄で政治家になったタレント議員のひどさにはあきれますが、またぞろ官僚から政治の世界にかなりの人数が送り込まれるようです。
財務省の片山さんという方は、今こそ時代の分かれ目といっていますが、そうした人たちが時代の流れを一生懸命に守っているわけです。彼らは決して時代を変えようとしているわけではありません。変えられては困るから、権力の座を守れる社会構造を死守しようとしているわけです。権力に寄生する野心家は、いつの時代にもたくさんいます。官僚はその巣窟ですから、きっと人材には事欠かないでしょう。
しかも、表層的に見ると、小泉内閣は時代を変えようとしているように見えてしまいます。今日もテレビで竹中さんと管さんが対論していましたが、聞いていると竹中さんのほうに余裕があり、視聴者はきっと竹中さんに軍配を上げたでしょう。

いま問われている問題はあまりに大きいですから、個別論に持っていったほうが勝つに決まっています。しかし、そうした部分対応での政治が破綻を起こしているわけですから、そこでの勝ちはきっと負けになるのですが、短視眼で各論しか認識できない私たちは舞台を創った人には勝てないのです。
今日も竹中さんは「民営化に賛成か反対か」と管さんに質問していました。管さんはうっかり反対と答えてしまったのです。それは今の民営化法案に反対と言う意味ですが、聞いた人は菅さんが「民営化」に反対だと思うわけです。事実竹中さんもそういって菅さんを追い詰めていました。性悪な小賢しさです。権力者の常套手段ですが。
民営化は手段です。価値評価すべきはその内容なのです。そんな簡単なことすら理解できないほど、私たちは愚民化してしまったのです。そこを小泉首相を動かす人たちに突かれてしまっているわけです。

こんなサイトがあります。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/
たとえばこのサイトの2005年森田実政治日誌[246]を読んでみてください。
こんな話もあるのです。
民営化の罠を少しは考えなければいけません。
小選挙区制や二大政党制などというひどい仕組みを導入した時に、それに加担した日本の大新聞社の論説委員が、導入後になって反対意見を述べた現場に居合わせたことがあります。その時から新聞社の論説委員は信じられなくなりました。新聞社もきっともう主体性を維持できなくなってきているのでしょう。

それにしても、私の多くの友人たちも危機感を持っていないのが不思議です。私だけおかしいのでしょうか。
新党づくりもできない反対自民党員の人たちの最後の良識を期待します。

■戦争で死んだ人は英霊になってうれしいのだろうか 2005年8月15日
NHKで、「アジアの中の日本」に関する長い話し合いの番組がありました。視聴者参加番組です。会場には50人くらいのさまざまな人が参加していました。アジア各国の若者も多かったです。桜井よしこさんや寺島実郎さんや町村外相も参加していました。

日本はますます80年前の道を歩みだしたなと改めて失望しました。
もちろん、いくつか共感する意見もありました。たとえばある若い女性は、沖縄の戦没者の慰霊碑のような場所にこそ、首相は行ってほしいと涙ながらに発言しました、私も現地でそう思ったことがありますが、つられて涙が出そうになりました。安達さんという女性教師は靖国問題で桜井さんの発言を真っ向から遮りましたが、これにも拍手を送りたかったです。寺島さんは東条英機の遺言を引用して、もっと未来を見据えて本質的な議論をしようと示唆しましたが、桜井さんの瑣末な邪魔が入って思いは実りませんでした。全体を通して桜井さんの発言にはがっかりしました。理屈にもならない理屈が多かったように思います。いや、理屈だけの人なのでしょうか。

女房ともども、今まで見てしまったのは、ある高齢者(谷田川さん)の発言に感動したからです。
その人は、盛り上がっている議論に水をさすかもしれないといいながら、私の戦友たちは決して喜んで死んでいってはいない。そして彼らは靖国などで英霊として祀られることを望んでなどはいないと思う。ただただ、二度とこんな無意味な戦争で死ななければいけない人が出てこないことを願っていると思う、と言うようなことを、もっと感情を込めて、感動的な表現で語ってくれました。涙が出ました。残念ながら、その発言は発展させられませんでした。とても残念です。

それにしても、死者の視点が全くない議論にはいつものことながら哀しい気分がします。

この番組を見ていると、何かとても暗い気分になってしまうので、ニュースが入ったので見るのをやめてしまいました。
この番組は、もしかしたら軍国化に向けてのNHK戦略の一つかもしれません。あるいは小泉内閣への応援歌かもしれません。私もすっかり乗せられてしまったのかもしれません。
選挙はきっと小泉圧勝ですね。これだけのメディア動員力があれば国民はだまされてしまうでしょう。

■愚直なまでの平和政策 2005年8月16日
最近、このブログを書こうとするとどうしても政治の話になってしまいます。
どうしてこうもひどいタレント政治家が我が物顔にテレビを独占しているのでしょうか。付け焼刃で勉強したキャスターや司会者の迎合的な質問にもあきれますが、政治家自身の人格に疑問を感じます。高市さんも「刺客」になったようですが、こういう人たちが社会をだめにしていくのでしょう。社会にとってもっとも大切なのは、人としての生き方であり、誠実さと人間性だと私は思っています。郵政民営化はその先の問題です。郵政民営化と民営化法案を意図的に混同して問題の本質を覆い隠している人たちの多さには悲しさを感じます。

まあ、そんな愚痴をいくらこぼしても意味がないわけですが、昨日のテレビは、実はまた最後の1時間を見てしまいました。若者はやはり素晴らしいと思い直しました。やはり我々の世代がいなくなれば、きっといい時代が来るのでしょう。

しかし恐るべき発言もありました。町村外相の発言です。日本の学校で近現代史をきちんと教えないのは、教師がマルクスレーニン史観で教える恐れがあるから、教えないようにしていたのだ、という主旨の発言をしました。それこそが偏向教育であることに気づいていません。権力の走狗とはこういう人を言うのでしょうか。自分では発言の意味がわかっていないようでした。
その町村が司法が、日本は「愚直なまでに」平和政策を貫いてきた、と発言しました。どう思われるでしょうか。もしお時間が許せば、ぜひ田中伸尚さんの岩波新書の戦後史3部作をお読みください。「憲法9条の戦後史」「靖国の戦後史」「日の丸・君が代の戦後史」の3冊です。

■組織起点の時代の政治システムの呪縛 2005年8月18日
私のホームページやブログの根底には、「組織起点の時代」から「個人起点の時代」へという、社会構造原理の変化という認識があります。それが、私にとっての「コモンズの回復」です。きちんと書いたことがないので伝わりにくいかもしれませんが、その発想の転換をすれば時代は良く見えてきますし、企業も元気になりますし、地域も元気になると思っています。もちろん政治も変わります。

政治システムにおける政党政治は組織時代の発想です。
そろそろこうした政治の枠組みを見直す必要があります。

郵政民営化に反対した人たちは選挙で苦しい立場におかれています。無所属では選挙ではとても不利になるからです。いまの選挙制度は、まさに組織起点でつくられています。

組織とは何でしょうか。
一人ではできないことを実現するために、みんな組織をつくります。
組織はあくまでも「使い込むための仕組み」です。
ところが組織の恐ろしさは、組織には権力を集中させる性質があることです。
その結果、組織がメンバーを使い込むようになることなのです。
企業がその典型で、組織に雇用されたメンバーは組織に忠誠を尽くさないといけないという意識を育てていきます。そして最悪の場合は、組織のために過労死したり自殺したりするところまで行ってしまいます。そして結果的には、その組織自体を朽ちさせていきます。
忠誠心を育てる仕組みは組織には内在されていますが、その基本はメンバーにメリットを与えることです。企業でいえば、給料であり、名誉であり、小さな権力です。
英霊信仰の靖国や思考停止の君が代斉唱は、国家にとっての忠誠心育ての仕組みです。年金や健康保険などの社会保障システムもその一つです。

政党では公認とそれに伴い応援体制と資金提供が、その仕組みです。
自民党にみんながしがみついているのは、自民党が一番、参加のメリットが大きいからでしょう。そこには財界も法曹界も教育界も医師会もマスコミも、巨額資金と便宜を提供しています。もちろんそれ以上のものを自民党という組織を使い込みながら、獲得できるからです。この仕組みはそう簡単には壊せません。利益を得ている人たちが余りにも多いからです。

その構造を壊すのが、構造改革です。
しかし、実際には組織に立ち向かって勝てる見込みはほとんどありません。
次元が違うからです。
郵政民営化法案反対派の人たちが、結局は新党を作らなければいけなかったのは、実に象徴的です。彼らは組織起点の発想の世界に生きていますから、できた組織も組織起点のモデルです。新党に参加しなかった人は、自民党とのつながりを維持したほうがメリットが大きいのでしょう。規模の利益の信仰の呪縛から、みんな脱却できません。それは選挙民も同じなのです。

対する野党も、みんな組織起点で考えていますから、新党へのコメントも政党に雇われている人の発言に聞こえます。大きなビジョンを感じられません。
政党のために言動するのではなく、ビジョンのために言動する政治家にはなかなか出会えません。もちろん官僚にもいえることですが。

タレント族の政治参加は、自民党を壊す前に政治を壊すかもしれません。
選挙日が9.11というのは、ちょっと気になる符合です。

■ガザに象徴されていること  2005年8月19日
ガザ地区からの入植者の撤退は強制排除という不幸な状況になっています。当然予想されたことですが、政治家にとって国民とは何かが象徴されています。
いまや近代国家のフレームは、その有効性をほとんど失ってきているように私は思いますが、企業経営者や政府指導層にとってはまだ大きな利益創出装置なのでしょう。
イスラエル建国の話を映画化した「エクソダス」という映画で、パレスチナの地で仲良く暮らしていたアラブ人とユダヤ人がイスラエル建国の家庭で殺し合い関係になって様子が描かれていましたが、もし国家という枠組みさえなかったら、ガザでも仲良く共存していくことができたはずです。「イラク復興」に見るように、国家という枠組みが持ち込まれた途端に、状況は変わっていくわけですが、不思議なのはその対立構図が、国家間の横関係で起こることです。その背景には、国家は個人を守ってくれるという、全く根拠のない信仰があるためです。本来の対立構図は、国家や企業と個々人の生活なのです。やや極端にいえば、人間と制度の対立なのです。映画「マトリックス」の世界です。

ガザの映像を見ていると、なぜか十字架のイエスを思いだします。
ユダはなぜイエスを裏切ったのか。
ユダの裏切りで、イエスは自らの所業を成し遂げられた、とヨハネ福音書には書かれているそうですが、ユダは善意の政治家だったのかもしれません。しかし、展望の不確かさ故に、政治面では失敗しました。

政治家たちの展望は、いつも発想の起点を間違えています。ですからほとんどが失敗します。
汗している住民たちの暮らしから発想しない政治は、住民たちには不要の産物です。
しかし不幸なことに、社会は汗しない人たちによって管理されがちです。彼らは暇だから、管理に時間を割けるのです。

入植した荒地で苦労してきたイスラエル人の悔しさが、パレスチナ人に伝わるといいのですが。そこから暮らしの連帯ができれば、平和はすぐそこにあります。平和は政治の交渉からはではなく、暮らしのつながりから生まれます。しかし、パレスチナにはハマスがあります。うまくいかないものです。
平和を目指す仕組みが、実は平和を壊す仕組みに転化しやすいことを、心しなければいけません。
ガザの光景はたくさんの事を気づかせてくれます。

■野党へのメッセージ:野党が大同団結する時!! 2005年8月20日

日本の国政が小泉首相に翻弄されています。

法案の内容ではなく、「民営化」という言葉だけでのイメージ議論
不誠実で不真面目な国会討論
郵政改革という問題への国民関心の集中による政治空白の意図的創出
同じ党員でも反対者を抹殺するという行動
「守旧派」「造反」「刺客」という言葉遊び
有名人を取り込んだ政治の商業化

あげだしたらきりがありません。

幸いにして、解散になりました。
小泉首相の政治破壊(自民党破壊ではありません)を正すチャンスです。

しかし、野党の言動からは、そうした姿勢は見えてきません。
小泉自民党と結局は同じ行動様式が垣間見えます。
自民党内の内輪もめという捉え方をしていることも適切とは思えません。

今は日本の国政の危機なのです。
最後の曲がり角を曲がろうとしていると言ってもいいでしょう。
そうした歴史観を持った対応をするべき時期です。

野党が団結して、今回の選挙は、決して「郵政解散」ではないことを鮮明にし、
まずは政治を翻弄している現内閣体制を壊すことに全力集中すべきです。
野党同士が争って、自民党を利させていていい時期ではないのです。
ここはまずは大同団結して、選挙では小泉体制に圧勝しなければいけないのではないでしょうか。
それぞれの党が、自らの利害にこだわっているのであれば、小泉自民党と同じ穴の狢と言われても仕方がないでしょう。
今はそんな時期ではありません。

小泉首相は日本を大きく変えつつあります。
80年前と同じ状況が今、進められています。
そこをしっかりと認識し、各党の小さな思いを超えて、大きな思いを創りだし、パンとサーカスに洗脳されつつある、国民とマスコミを変えていかなければいけません。

そうした視点で、野党の連絡会を発足させ、社会に訴求していく運動を展開していくことが必要ではないでしょうか。現在の野党のコミュニケーション戦略は、そうした時代認識が欠けているばかりか、コミュニケーション戦略の面でも素朴すぎて、自民党に大きく負けています。
マスコミのすべてと有識者の多くも、勝ちが予想される小泉自民党に迎合しはじめていますので、ここはしっかりした戦略が必要です。

どこが動き出してもいいと思いますが、鍵を握っているのは民主党と共産党だと思います。場合によっては、国民新党も巻き込んでもいいはずです。
小さな党利党略にこだわっている時期ではありません。
ぜひ大きな行動を起こしてください。
日本の野党には、そうしたソーシャルマーケティングの視点が欠落しています。

党利党略を超えた集まりの動きを是非呼びかけてください。
きっとたくさんの人が反応するはずです。

流れを変えなければいけません。
この問題に関しては野党も与党もない問題かもしれません。
大切なのは誰が動き出すかです。

■個人を手段にする社会 2005年8月21日
現在の選挙報道を見ていると日本社会のさまざまな問題が見えてきます。
私たち国民も、パンとサーカスの饗宴の中で、ほぼ完全に家畜化していますが、権力者もまた人間性を失い、軍国主義の尖兵になってきています。
それは同時に、国家の解体の予兆だと思いますが、しかしどれだけ多くの犠牲を払うかにはいささかの不安があります。

立候補という言葉には、本来は主体性や自発性を感じます。しかし、昨今の自民党の候補者選びは立候補とはいえないでしょう。悪く言えば、徴兵制度のようなものです。もちろん大きな褒章を補償してはいるのでしょうが、その根底にある人間道具視や差別発想、内容よりも見栄えという商業主義など、不快さを感じます。
一番許しがたいのは、人間を手段にしていることです。人間魚雷や特攻隊の悪夢を思い出させます。選ばれた選民たちは自己責任ですからいいとしても、そうした動きが社会意識に与える影響を考えてほしかったと思います。
将棋の駒のように、一応は自分の世界を持っている人を選挙戦に狩り出すことができるのは、政権政党の権力と利得の大きさの故でしょうか。類は友を呼ぶのでしょうが、それにしてもあまりの広がりにあきれています。
個人を手段に使うような権力発想の広がりに抗して、私は人との人間的なつながりを大切にしたいと思います。
手段となった人がもしいれば、みんなでぜひとも人間に戻ってもらうように、応援したいものです。今回起用された候補者は全員が落選することを願いたいです。彼らの気づきのために。

新聞を見るたびに、政治が生活からどんどん離れているのが気になります。

■新党日本の田中代表のメッセージが広がってほしいです 2005年8月22日
政治争いのことはもう書くまいと思いながら、新聞やテレビをみると腹立たしさが募り、ついつい書いてしまいます。最近は私に鬱憤晴らしになってきましたので、読者はどんどんいなくなりそうですが、仕方ありません。
今日、腹立たしかったのは、みのもんたの番組です。どうしてこういう人が政治にまで口を挟むのでしょうか。年金追求もそうでしたが、あまりに不勉強で独りよがりです。最近の郵政問題では目に余る「無知ぶり」を発揮しています。読んでもいないだろうことをさも知っているように話します。しかし、こうした人の影響が大きいのです。現に番組に出ていた、えなりくんなどのタレントもひきづられた対応をしていました。それがまた影響を与えていくわけです。
しかし、そうした中でも田中さんはしっかりした主張をわかりやすく話してくれました。司会のみのもんたは全くそれに聴く耳を持たずに、話題を変えたり、めちゃくちゃな対応でした。
そのやり取りを聴いていて、私は田中さんの近くの人に票を投ずることにしました。やっとまともな話をする人が現れた感じです。岡田さんの、田中さんの話法を学んでほしいです。

但し、党名はひどいです。新党日本。これはみのもんたレベルですね。しかもロゴが最悪です。国旗をイメージさせます。これはかなり致命的です。人によっては強力なメッセージを感ずるはずです。これもたぶん、ただデザインを描く誰かに頼んだのでしょう。最近のデザイナーの無思想性には私は辟易していますが、これは大きな汚点なので、早速、メールしました。

それにしても、朝のテレビはどこも政治家とタレントがジャックしています。これは喜ぶべきか悲しむべきか、いずれにしろ朝から気分はよろしくありません。
働く気力をそがれます。

■陽動作戦 2005年8月22日
日本のマスコミはイラク情報を巧みに隠蔽している小泉首相に迎合するかのように、語るのをやめていますが、一体どうなっているのでしょうか。
メーリングリストなどではかなり流れていますが、ワハジュ・イラクのマジド議長が今月初めに東京で講演されました。マジドさんはファルージャ出身のレジスタンスリーダーですが、いまはイラクの実情を多くの人たちに知ってもらおうと世界を駆け回っているようです。先日日曜日のテレビで少しだけ紹介されていました。
各地での講演会の記録はまだ残念ながらネットには登場していませんが、マジドさんのメッセージは、占領がなくなればイラクの復興が始まるということです。いうまでもありませんが、日本の自衛隊の存在は占領と同じように現地の住民たちには受け止められているはずですし、マジドさんもそう述べています。私も同感です。もし日本に外国の軍隊が、日本復興を理由に駐留したらどんな気分でしょうか。その感受性が求められています。
イラク現地の人の声はきちんと傾聴すべきです。
マジドさんの活動は次のサイトをどうぞ。
http://homepage2.nifty.com/midoritokyo/0801tokyo_p.html

こうした大切な情報は、いまの郵政騒ぎでほとんど扱われなくなっています。
先日、ラジオの永六輔さんの番組で、郵政騒ぎのなかで障害者自立法があぶなく成立してしまいそうだったことへの怒りの投書が読み上げられていました。私はコムケア活動の関係で少しですが、その法案のことは聞きかじっていましたが、嘆かわしい話です。解散になったおかげで、この法案も廃案になりましたが、いつまた提出されるか知れたものではありません。
http://www.arsvi.com/0ds/200502.htm

他にもさまざまな動きがあります。為政者は国民には見せたくないのでしょう。
郵政民営化に目を向けさせておいて、その後ろで何が行われているか、それが問題です。有識者は、そうしたことを知っているはずですが、権力に迎合してか、あるいは寄生しているせいか、情報発信してきません。
そういえば、数年前に公益法人改革法案のときも、NPOの扱いが問題になっていたのに、NPOの中間組織の代表の人たちのほとんどは情報発信してくれませんでした。有識者ほど、信じられない人たちはいないと、改めて思いました。その時は幸いにある志のある人が問題提起し、流れを変えました。公益法人改革オンブズマンの浜辺さんです。
http://www.houjin-ombudsman.org/index.html

郵政民営化などという話にだまされてはいけません。
イラクや拉致問題や福祉の切捨てや年金問題など、本当に大切な課題はほかにあります。小泉首相を応援するのであれば、自分が戦場に狩り出され、不労所得者の贅沢のために増税の負担を引き受け、生活を監視される生活を甘んじなければいけません。その現実をわかってほしいものです。
もしかしたら、学校で近現代史を教えないのは、そのことに気づかれるといけないからかもしれませんね。いま、やっとわかりました。なるほど。

■警察の民事不介入原則と共謀罪 2005年8月24日
また隣人騒音事件です。一宮市の一人住まいの女性が、朝の4時かラジオを大きくかけ続け、フライパンなどをたたき続ける行動を10年にわたって行っていることがテレビで放映されていました。警察も対処できないようです。その背後には「民事不介入の原則」があります。警察は刑事事件でないと介入してこないのです。
これは一見合理的に見えて、全く無意味な原則です。なぜなら「民事事件」と「刑事事件」は連続的であるばかりか重なっていることが多いからです。桶川市ストーカー殺人事件はその典型的な事例ですが、これに限らずすべての刑事事件は民事から出発します。
ですから民事不介入の原則は、解釈によってはいか様にも対応できる多義性をもっていますから、管理発想の下に成り立つ思想なのです。いいかえれば、よくある「無意味な概念」です。
警察や行政は、一宮市の常軌を外した一住民の10年間の暴挙をとめることができなかったわけですが、これは民事ではなく明らかに刑事事件の要件を構成しています。しかし、管理発想からは放置しておいてもいい事件だったのでしょう。
たとえば、これも記憶に新しいですが、イラク派遣反対のチラシを住宅のポストに入れただけで逮捕された事件がありました。10年間の暴挙と比べて、どちらが犯罪性が高いでしょうか。誰にでもわかる話です。しかし、権力者の判断基準は違うのです。警察がもし、生活者の視点で行動しているのであれば、逆に動くはずですが、残念ながら今の警察はそうではないようです。
ところで、一宮市の事件ですが、皆さんが被害者になったらどうしますか。公的制裁が加えられないと言う前提です。我慢しますか。転居しますか。あるいはその人に私的制裁を加えますか。
私は転居しそうです。我慢はできません。また私的制裁となると、いささか自制力に自信がありませんので、それこそ刑事事件に発展させてしまいそうです。まあ警察の思う壺かもしれません。
しかし、きっともうひとつの道があります。共的制裁です。つまりコモンズ発想です。
被害者がみんなで行動を起こすのが一番でしょう。これは、しかし誰でもが考えることです。当然、一宮市の住人たちも取り組んだはずです。にもかかわらず、事態は10年も続いています。どこかに問題があるのです。つまり法体系に欠陥があるのです。その出発点が、民事不介入という枠組みであることはいうまでもありません。
では、みなさんが加害者だったらどうでしょうか。同じような暴挙を繰り返していた奈良の女性は逮捕されましたが、逮捕されるとわかったらやめるでしょうか。たぶんやめないでしょうね。そうした暴挙を続ける原因が解決されないからです。ここでもコモンズ発想が重要になってきます。

ところで、こうした状況の中で、共謀罪が議論されています。
どう考えても納得できません。治安問題はもっと生活の視点で真面目に考えていくべきです。郵政問題のような「瑣末な問題」とは違って、未来を決める重要課題なのですが、どうも世間の常識はそうはなっていないようです。

一宮市の女性はまもなく逮捕されるでしょう。テレビでここまで話題が広がると、さすがの警察も少しは真面目に動き出すでしょうから。しかし、そうした対症療法的な対応でいいのでしょうか。治安は管理できないものです。
民事不介入の原則は、きちんと再吟味すべきです。

■がん患者にとってのサプリメント情報(2005年8月24日)
政治ネタが続いていますので、気分を変えて。

昨日、女房と病院に行きました。がんセンター東病院です。定期的に主治医が対応してくれているのです。できるだけ一緒に行くようにしています。先生に会うと私たちも元気になります。そういえば、ある人が帯津良一さんの写真を見ただけで元気になる患者がいるとお話になっていましたが。心境はよくわかります。

友人が万田酵素を勧めてくれました。試してみようかどうか、迷っています。しかし、評価能力がないのです。
女房のがんが発見されて以来、さまざまな方からさまざまなお勧めや情報をもらいますが、評価能力がないために対応に苦慮します。それに、いずれも高価ですので気楽には試用できません。がん患者学を書かれた柳原和子さんはサプリメント代が毎月10万円を超すと書かれていましたが、よくわかります。
いずれもエビデンスがないが故に、高価なことが「エビデンス」になりかねないのです。月2万円を越すものはやめたほうがいいということを言う人もいますが、当事者にとっては無意味なアドバイスです。
今週、たまたま知人の方がかなり重度の甲状腺のがんであることを知りました。私の知っているサプリメント情報を提供したいのですが、これがまた難しいのです。
以前も書きましたが、がんに効用があるというサプリメントはたくさんあります。しかしいずれもあいまいな情報しかありません。西洋医学の医師の多くはまだ否定的というか情報を余りお持ちではありませんし、きちんと評価しようという姿勢はほとんどありません。その一方で、効用を確信している体験者や開発者もいます。大手企業も発売していますが、ネットで読む限り、あまり正確な情報を開示しているとは思えないものが多いです。一方、利用者は精神的に余裕がありません。そうした状況の中で悪質な商売人も入り込んできますし、信頼性に欠ける噂話も広がります。
NHKが「がんサポートキャンペーン」を展開していますが、そのホームページには投稿欄をのぞけばサプリメント情報はありません。リスクが大きすぎるからでしょう。しかし多くのがん患者にとって、一番関心のあることの一つがサプリメントの評価なのです。
エビデンスのないものは評価できないという医療の世界では医師が評価するのは難しいでしょうが、そもそも医療におけるエビデンスは100%のものなどないはすです。事実、かつて三共のクレスチンが鳴り物入りで売り出され、三共の経営危機を救ったにもかかわらず、その後、効用に疑問が出されたこともありました(また最近復活の動きもあるようですが)。医薬品だってかなりいい加減なのが実状です。だとしたら、こうしたサプリメントに関する情報の評価支援の仕組みに真剣に取り組んでもいいでしょう。いや取り組むべきです。
ネットで時々調べるのですが、よくわかりません。
もしどなたかサプリメントの評価を集めているサイトをご存知の方がいたら、教えてくださいませんか。
また、なにかがんに効用のあるサプリメント情報をお持ちの方はぜひ教えてください。
今回はお願い事になってしました。

■仁義の大切さ  2005年8月26日
新たな小政党がマスコミのキャスターまがいたちのイジメにあっているような気がします。
特に長谷川さんの「移籍」に関する批判が少なくありません。数合わせではないかと言う人がいますが、数合わせなのです。何をいまさら、と言いたいところです。そういうわかりやすいところには、そして相手が弱いところには、みんなイジメを始めます。最近の日本人は昔と違って、弱いものへのイジメが好きになっています。きっと自らがいじめられているからです。いじめに耐えてこそ、有名になれるのが日本の社会なのかもしれません。陰湿な社会です。それをこそ、変えなければいけません。それに比べたら郵政民営化などは瑣末な問題です。

今度の選挙では、日本の未来が問われていると私は思っていますが、そのポイントは、思いやる心や人間的な痛みへの理解や嘘をつかない素直さです。そうしたことを捨ててきた結果が、今の日本社会です。この文化を創出し、そこに乗っているのが、財界と政界の長老たちだと思います。
先日、テレビで田中康夫さんが、「財政の借金を160兆円も増やしておいて、何が構造改革だ」と話していましたが、その通りです。しかし小泉首相に迎合している番組のキャスターやコメンテーターは全く反応しませんでした。彼らが考えている構造改革は権力と富の集中であり、そこに自らを寄生させるポジションの確保です。そうとしか思えない人が多すぎます。

イジメの尖兵たちは、比例区並立という巧妙な枠組みの中で当選が確約されています。自らの生活を守ってもらいながら、相手をいじめるのが彼らの役割ですが、こういう人が成功する社会でいいのでしょうか。次世代に胸をはれますか? 彼ら、彼女らの品格を哀しみます。

しかし民主党の岡田代表もまた、その土俵に乗ってしまっています。「自民党というコップの中での争い」などと言っては、同じ狢であることを露出しています。想像力が完全に欠如しています。自らは小さな問題ではなく大きな問題に取り組んでいると力説していますが、もしそうなら無視すればいい話です。私には岡田さん自身が小さな問題に終始しているようにしか思えません。彼には大局を見る眼がありません。失望しています。しかし、ここは岡田さんに期待せざるをえませんので、もう少し魅力的な話をしてほしいです。誰か原稿を書いてやったらどうでしょうか。

政治の話は書くまいと思っているのですが、やはり1日1回は書かないと胃が破裂しそうです。こんな人たちと同じ社会を創っているのかと思うと、最近は仕事が全く手につきません。人間嫌いに陥りそうです。その上、私の会社がつぶれそうです。いやはや、困ったものです。

■創造と破壊の両義性 2005年8月27日
小泉首相は、日本の古い政治体質を壊していることを評価するという意見があります。自民とも壊したではないか、という論調です。
たしかに反対派議員の一部は離党し、自民党に対立して立候補しました。自民党は壊れてきているようにも見えます。融通無碍な自民党文化は否定されているようにも見えます。小泉首相は自民党による政治の独占体質を壊し、新しい政治文化に向けての創造的破壊に取り組んでいるのでしょうか。
私は明らかにノーと言いたいと思います。

壊すことと創ることは、コインの裏表のような関係にあります。創ることは常に壊すことであり、壊すことは常に創ることです。問題はどちらに意味があるかです。

小泉さんは自民党を壊すと言っています。
自民党の何を壊すのでしょうか。あるいは何のために壊すのでしょうか。壊すことは目的概念にはなりえない言葉です。民営化、構造改革、すべてが手段概念です。手段で議論するのが内容のない作業者の特徴ですが、一国の指導者は手段概念で語ってはいけません。目的が重要なのです。
私は10年以上、企業の変革を仕事にしていました。日本企業は変革を口にしながら、何も変えませんでした。目的概念、つまりビジョンが不在だったからです。所詮は本気ではなかったのです。それゆえに壁にぶつかり、疲弊しているのだと思います。いまバブルなほど高収益を上げている企業も多いですが、それはかつての経済システムの残渣の最終刈り入れをしているだけです。自らのやっていることに気づいてほしいです。それこそがCSRです。また横道にそれました。反省。

小泉首相が壊していることはいろいろありますが、私は自民党や古い政治体質ではなく、日本の話し合い文化であり相互支援の仁義ではないかと思っています。そして、もっと重要なのは彼が創りだしているものです。それは富や権力の集中構造です。
反対者の声に傾聴する代わりに、抹殺を働きかけ、自らに恭順の意を示した八代さんのような日和見者には恥もなく、恩賞を与えるのです。恩賞は権力の象徴です。私たちの税金を勝手にアメリカに提供するのと同じことです。こういう言動を独裁と言わずに、なんと言うのでしょうか。そしてこれこそが一部の大企業経営者と組んで金銭による権力支配を目指す自民党政治の本質なのです。つまり自民党体制をさらに確固たるものにしているとしか私には思えません。
たくさんの反論をもらいそうですが、彼の破壊は陽動作戦でしかありません。何しろ彼は記者の質問にも具体的に答えられないほど、内容が空白の人なのですから。

こんな記事を教えてもらいました。
ぜひお読みください。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000552&tid=beaec0tfhbadba4r5va49a4j&sid=2000552&mid=35

■民から共へ 2005年8月28日
腹が立つのでテレビの政治家座談会のようなものは見たくない気分なのですが、ついつい見てしまいます。また見てしまいました。冬柴さんと武部さんがめちゃくちゃな議論をしていました。私欲だけの人はどうしようもないと思いました。
民主党の岡田さんが「民」にはNPOもあるといっていました。
社民党の福島さんは「民営化」の「民」は民間企業のことだといっていました。
「民営化」とは多義的な言葉です。
唯一つだけいえることは、「民」とは統治される主体性のない存在だと言うことです。

NPOと「民」とは似て非なるものです。
もっとも日本のNPOは「民」発想かもしれません。官に寄生したり管理されたりしているNPOは少なくないように思います。

「民」ではないNPOとは何か。
私が考えるNPOは、主体的な存在としての生活者集団、住民集団です。それをベースにした市民集団も含めていいでしょう。いわゆる「民」と違うのは、統治の対象者ではなく、統治者なのです。コモンズ主体と言ってもいいでしょう。いまの社会システムのサブシステムではなく、社会システムのリフレームのイニシアティブをとる存在です。

郵政の組織変革のモデルは、「民」ではなく、こうした新しい組織原理によって構成されたコモンズ(共)組織であるべきだと思っています。どこが違うのかと言えば簡単で、組織ガバナンスの仕組みが違うのです。コミュニティ・ガバナンスへの関心が高まっていますが、まさにその一例だろうと思います。

「官から民へ」とよく言われますが、私は「官から共へ」が時代の方向だと確信しています。
私たちも、そろそろ主体性のない「民」の立場から脱却しなければいけません。

■隠居は最高の贅沢です。 2005年8月29日
企業を定年退職した後、郷里の福岡に戻った藏田さんが立派な野菜を送ってきてくれました。しかも10種類以上のさまざまな野菜です。もちろん藏田さんの手づくり野菜です。その立派さに女房ともども驚きましたが、しかもそこに「おしながき」までついていました。藏田さんらしいおしゃれな遊びです。

私たち夫婦の友人知人が会社を定年で辞めてから農業に取り組んでいるケースはすくなくありません。やはり土の魅力や手づくりの魅力は大きいのです。
私たちも実は宅地予定地で野菜作りを今年から始めました。まだ土づくりの段階ですが、10種類以上の野菜を女房が植えました。なかなかうまくはいきません。近くの人が時々指導してくれますが。

先日は遅まきのジャガイモを掘り起こしました。植え付けが遅かったことともう廃棄直前の苗だったためか、変形の芋が多く、近所の家に配ったら変な形のものしか残りませんでした。おそらくこういう形のものがお店で売っていたり、誰かからもらったりしたら食べずに捨てていたでしょう。しかし、一応、手塩にかけての作品ですから、丁寧に皮をむいてみんなで食べました。ちょっと考えさせられた話です。
昨日は地元の住民の集まりでいささかストレスが溜まったので、女房の誘いに乗って、また土を耕しました。たいした仕事ではないのですが、運動不足のために立ちくらみがします。やはり生き方が間違っているのでしょうね。しかし気分は爽快になります。

藏田さんにお礼のメールをしたついでに、私も野菜づくりを始めたと書いたら、都会で農業とは最高の贅沢ですね、と返信が来ました。我孫子は都会ではありませんが。
最高の贅沢は、しかし「隠居」でしょうね。藏田さんは農業だけではなく、さまざまな活動を楽しまれています。

つい先日まで、私は「働くでもなく遊ぶでもなく、学ぶでもなく休むでもない」生き方を志向してきました。その生き方では「定年」はありません。その生き方は、しかしもしかしたら小賢しい生き方だったのかもしれません。
定年退職、隠居、などという社会的システムは、長い生活からの英知だったのかもしれません。

定年退社した知人友人の半分は、海外旅行や趣味三昧に入っています。一昨日もある人から、女房と海外旅行を楽しんでいると手紙が来ました。
いい人生です。
私は相変わらずばたばたしています。女房から非難されていますが、そういう女房もまたばたばたしています。似たもの夫婦の生活は、どうもいつになってもゆっくりできないようです。
隠居はとてもいい仕組みです。
隠居こそ最高の贅沢ですね。
生涯現役などと馬鹿な考えは捨てて、これからは隠居を目指すことにします。
それでも歴史は何の変化も起こさないでしょう。

いつもとは違って、最近、こんな気分になっています。はい。

■天木直人さんの立候補 2005年8月29日


■視座を変えると社会の風景は逆転します 2005年8月10日
社会構造原理の起点が「全体(組織)」から「個人(人のつながり)」に変わったというのが私のすべての発想の起点にあります。そうしたパラダイムで社会を見るとほとんどすべての問題の解決策は見えてきます。しかし、その考えはパラダイムの違いからなかなか伝わらないのも現実です。

たとえば、イラク復興のための自衛隊派兵は私にはイラクのみならず世界の人々の安寧を壊す仕業ですし、小泉首相の郵政民営化法案の進め方は民営化壊しに思われます。核問題よりも拉致問題が先決課題ですし、クールビズ宣言は反「省エネ」です。解散は政治的空白を終わらせ、リサイクル産業は環境付加の増大です。介護保険は介護環境を悪化させ、コミュニティ政策はコミュニティ壊しに通じます。こういうことをこれまでこのブログやCWSコモンズで書いてきました。言葉だけで考えるのはやめようというメッセージを書いたこともあります。

しかし、時代の流れはますます「組織発想」に向かっているような気がします。個人の表情は相変わらず輝いてはいないようです。

■耳を失いつつある社会 2005年8月31日
神奈川11区から天木直人さんが立候補されたことが平和に関心を持つメーリングリストなどで話題になっていますが、テレビではほとんど報道されませんでした。おそらく論点が時流にのっていないのかもしれません。ニュース23では取り上げはしましたが、羽柴秀吉さんとほぼ同じ取り扱いでした。それが悪いとはいいませんが、取り上げ方がもう少しあっただろうに、と思います。この番組は「平和」をかなり重視して番組特集などを展開しているはずなのに不思議です。
私は、ホームページ(CWSコモンズ)で選挙開始前荷「緊急のお願い」である呼びかけをしましたが、おそらく読んでくれた人は100人前後だと思います。
私はそこにも書きましたが、天木さんの立候補には不賛成ですし、天木さんご自身にも面識がないので真意はわかりませんが、平和やイラク派兵を議論する契機をもたらす可能性を感じました。しかし、新聞やテレビはほとんど興味を示さなかったようです。
もちろん現地では全国から集まった人たちによる「勝手連」が生まれているようですし、メーリングリストでの呼びかけもあります。今日、集会を開いているはずです。報道されるかどうか、気になります。

昨日、首相官邸の前で自殺を図った女性がいました。テレビでは報道されましたが、なぜか新聞では見つけられませんでした。本来であれば、大きな記事になってもいいはずです。さまざまな意味でとても考えさせられる事件だからです。
一説には、精神状況がおかしい人といわれているようですが、これはなにやら不気味な説明です。
今の社会は、理解できない問題が起こると問題を起こした人の特殊な理由にしてしまい、問題から発信されているメッセージを聞こうとしない傾向があります。
制度や常識から外れた人は、その人が悪いと判断されるわけです。
それがとても気になります。

強い立場の人にはみんな耳を傾けます。
私の気のせいか、この数日、テレビはまた小泉自民党に与しだしたような気がします。昨日の報道ステーションは明らかに小泉支援でした。
個人的な主張があってもいいのですが、中途半端なモンタージュ効果は使ってほしくないものです。映像の威力は暴力的ですから。
キャスターの問題というよりも、その背景に何か大きな力が働いているような気もします。
どうも最近の新聞記事やテレビ番組には偏りを感じざるを得ません。
引きこもりたくなってしまいます。

<2005年9月>

■認知症は病気でしょうか 2005年9月1日
認知症になっても安心して暮らせる町づくり100人会議が展開している「認知症を知る1年」キャンペーンのパンフレットが届きました。認知症のお年寄りのグループホームで働いている若者に見せたら、ちょっと嫌ですね、と言われました。パンフレットに書かれていた『認知症は「病気」です』という小見出しがひっかかったのです。みんな病気などとは思っていないし、病気などといわれたら嫌な気分になりますよ、というのです、
このパンフレットの作り手は、たぶん認知症を差別しないように、だれでもがかかるかもしれない病気なのだという意味で使ったのでしょうが、そこには「健常者」の目線しかなかったのかもしれません。このパンフレットは写真もひどく、私自身もこのパンフレットを手にした時にとても不愉快な気持ちになりました。ケアマインドを感じられない人やものには、私は強い心理的拒否感が働くのですが、このパンフレットにも何か違和感がありました。私だけではない仲間がいたので、少し安心しました。
こうしたパンフレットが、政府の資金でどんどん作られているのです。100人会議の発起人は、さわやか福祉財団の堀田力さんたちですが、このキャンペーンは厚生労働省の提唱です。おそらく堀田さんたちは乗せられたのでしょう。しかし、どうせやるのであれば、もっと心を込めてやってほしいものです。資金ももっといい使い方があるはずです。コムケアに提供してもらったら、10倍は効果的に活用できます。

ところで、認知症は病気でしょうか。あるいは病気といったほうがいいのでしょうか。
これは私にはにわかには決めかねますが、この指摘をしてくれた若者は、認知症の祖父母と同居の家庭で育ち、いまはグループホームで利用者ととてもいい関係を育てています。ですから、彼のコメントや反応は信頼できます。

それにしても私たちは、人に看板をつけることで自分と切り離してしまう傾向があります。
痴呆症を認知症と言い換えるのもどうかと思いますが、それ以前の問題として、病名をつけて差別化するのではなく、連続性を見つけて共生の仕方を深めていくほうがいいように思います。
発達障害にしても、ニートにしても、どうしてみんな、勝手に定義づけて自分とは切り離してしまうのでしょうか。自分もまた連続的にそうした生き方とつながっているのですが。

私は最近、もの忘れが増えています。今年の初め、脳のMRIをとったら、年齢相応に認知症の症状や脳梗塞のシグナルが出ているといわれました。少し不正確な表現かもしれませんが、まあ加齢とともにそうした状況になるらしいです。
もしそうであれば、病気ではなく、健全な加齢症状です。それに痴呆がわるいわけではありません。認知障害などといわれるといささかムッとしますが、痴呆は素直に受け入れられる語感があります。
私の理想は、健全に痴呆化し、家族にそれなりの迷惑をかけて、天寿を全うすることです。そんな贅沢なことができるかどうかは、全く確信はもてないのですが。

■電話で頼まれたらどうしますか。  2005年9月2日
選挙になると久しぶりの電話がかかってきます。
もちろん投票の依頼です。注意しないと同じ学校の同窓生などという危ない電話もあります。
今回、最初にかかってきたのは大学時代の同窓生からでした。
すぐに選挙とわかったのですが、彼の立場から推薦する政党はすぐにわかりました。
いつもだと、この種の電話には「はい、わかりました」とやわらかく対応して、実際には減点します。投票しようと思っていた陣営の人からの電話がいかにもひどかったので投票をやめたこともありますが、少なくとも私の場合は、電話で直接依頼があれば必ず評価は下がります。投票先はともかく投票に入ってくださいという電話は例外ですが、私の体験ではそうした電話は共産党からだけです。
電話作戦はマイナス効果しかないだろうに、なぜやるのでしょうか。時代感覚の欠如としか思えません。私のまわりもだいたいは私と同じ反応です。

実は今回も、形の上ではやわらかく対応する予定でした。しかし、相手が「郵政民営化は賛成だと思いますが」と言ってきたので、見過ごすわけにはいかなくなりました。こうした場合、「民営化って何ですか?」と素直に質問するのが私の基本姿勢ですが、それでは時間がかかりすぎるので、今回は明確に民営化法案反対を表明しました。また友人を一人失ったかもしれません。その上、彼に私のホームページとブログを読んでほしいと言いましたので、もし読まれると怒りをかいそうです。何しろその政党のことをひどく言っていますから、読まれないことを祈りたいです。

さて皆さんならどうしますか。
友人知人からの電話に対してはきちんと意思表示しますか、それとも表向きは否定せずに裏切りますか。もちろん投票しようと思っていた人(党)ならば、正直に言うでしょうが。
選挙は人間関係を壊します。

私は投票先をまだ決断できずにいますが、一番投票可能性の高い党から電話がないことを祈ります。もし電話があれば、変更しそうです。前回もそうでしたが、信念からの投票ではなく、今回も流れを変えるための次善策としての投票になりそうなのですが、そのためにふらついています。この1週間熟考する予定です。

■在宅療養者や病院入院者の投票 2005年9月3日
投票に関して次の質問が私の関わっているメーリングリストに投稿されました。
「在宅で療養中の、投票所へ出かけられない方、当然不在者投票も出来ない方、この様な方の投票についてサポート活動をしている方、またその方法について知っていらしたらお教えください」。
今のところ、まだ見つかっていませんが、ご存知の方はいないでしょうか。いたら私にメールをいただけるとうれしいです。
ちなみに現行制度では、要介護5の人や身障者手帳を持っている人などの重度障害者は郵便等による不在者投票が認められていますが、面倒ですので、そう利用者はいないでしょう。ノーマライゼーションやユニバーサルサービスの体制には程遠いです。

この人は、「在宅療養者向けの専門の投票箱を作成して、選挙管理委員会が、2日ほど設けた日を事前に告知し、1軒ずつ訪問し、投票できる在宅投票システム」ができたらいいなと提案しています。

これまで考えたことがありませんでしたが、こうした問題はまだたくさんあるのでしょうね。

このメールを読んだ方から、個人的に次のメールが来ました。
「入院中の投票が「必ず鉛筆書き、封禁止」となっていました。書き直される可能性を感じても病院にいてはゴタゴタを恐れて言えずに終った経験があります。また、自宅療養の父は投票が出来ませんでした。弱者の基本的権利を切り捨てです。」
続けてこう書いてきてくれました。
「いま元気でも、誰もが明日は身体的にも弱者の立場になるかもしれない、自分の問題です。弱者という言葉が嫌いなのですが、だれもが手を携えて生きてゆける世の中が、一番生きやすいと考えていて、何も出来ない自分にイライラします。」

この方はコムケアの理念に共感して、応援してくれている方です。ご自身がさまざまな障害や病気を抱えながら、です。
「だれもが手を携えて生きてゆける世の中」。これが私の取り組んでいるコムケア活動です。事務局長をやっているおかげで、実にさまざまな話に触れることができます。気が滅入ることが多いですが、その問題に向けて必ず誰かが前向きに取り組んでいることに勇気付けられもします。

それに、問題を抱えている人は、みんな本当に優しいです。
こういう人たちの支えあいの輪を育てていくのがコムケア活動です。
仲間になってくれませんか。
ご関心のある方はぜひご連絡ください。

■ハリケーンの被害から見えてくるもの 2005年9月4日
米国のルイジアナ州のニューオーリンズを直撃したハリケーン「カトリーナ」はさまざまなものを顕在化させてくれました。特に衝撃的だったのは、略奪や暴力事件です。私たちが向かっている世界を見せてくれたのではないかという気がしてなりません。
小泉自民党がめざしているのは、まさにそうした社会のような不安があります。私が憧れる気遣いあう社会とは正反対の世界です。いまの選挙戦で、少しずつ具現化されだしているのが不気味です。

欧米では最近、「ソーシャル・キャピタル」という言葉が広がりだしています。日本語に訳すと「社会資本」、つまり社会にとって一番大切な資源という意味ですが、社会資本といえば、日本では道路やダムなどの公共施設を思い出す人が多いでしょうが、最近、広がっているソーシャル・キャピタルは、「人と人のつながり」「信頼関係」という意味です。つまり、これからの社会にとっては信頼関係こそが社会にとって最も重要になってくるということです。
信頼関係が崩れたために発生した社会問題は少なくありませんし、信頼性の低下により、社会経済の生産性も低下し、社会コストが急増しています。そうしたことを考えると、これからの経済成熟社会にとって、こうした意味でのソーシャル・キャピタルはますます重要になっていくことは間違いないと思うのですが、どうもまだソーシャル・キャピタルを壊す勢力が日本では強いようです。
しかし、その震源地はやはりアメリカだったようです。それを改めて思い知らされた気がします。

気が重くなることばかりの毎日です。杞憂でしょうか。病気でしょうか。

■小泉自民党大敗の期待と予感 2005年9月5日
いろいろな人が、小泉自民党は大勝のようだとメールをくれます。
民主党の選挙事務所の応援をしている人からも、
「一般市民は政治への無力感が強いようです。今回は、自民の圧勝に終わりそうです」
などというメールが来ます。
マスコミの論調も小泉自民の圧勝を予想していますし、多くのテレビキャスターはその予想にしたがってすでに迎合的な発言をしているように感じられます。

どう考えてもおかしい気がします。
私の周りにも小泉自民党に投票する意向の人はいます。
しかし、これは私の偏見ですが、事実をきちんと学んでいる人の多くは、反小泉です。
そして今回は、そうした人のほうが私のまわりには覆いのです。
民主党は好きではないが、今回は対抗上、民主党に投票という人も多いですが。
それは都会人に限りません。
北陸で農業をやっている人も、東北で福祉活動をしている人もいます。
私の実感では民主党が圧勝です。

皆さんの周りはどうでしょうか。
私のまわりが特別なのでしょうか。
そういえば、前回も確か私の予想は全く外れました。

あと6日。
私のいまの予想は小泉自民党大敗です。
確信しています。

■カタカナ言葉と漢字言葉とどちらがわかりやすいか 2005年9月8日
原稿を頼まれて書いたのですが、編集者からカタカナ言葉が多くてわかりにくいので一部の新しいカタカナ用語を日本語に直してくれないかと要請がありました。
その編集者とは親しい仲なので、彼の真意はよくわかります。
が、これは実は重要な問題だと私は考えています。

これに関しては、以前、CWSコモンズのメッセージで二つのことを書きましたので、まずはそれを読んでもらえればと思います。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m20
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_95ce.html

カタカナ用語だとこれは何だと考えます。
しかし感じで書かれていると何となくわかったような気になります。
ちなみに、構造改革とか民営化を皆さんは具体的に説明できますか。
私にとっては、日本語が一番わかりにくいのです。

言葉がコミュニケーションツールであるならば、大切なのは言葉に意味です。
また言葉が実体や概念を創出するものであれば、新しい言葉を使うことが必要です。
わかったような気になることが、コミュニケーションや創造活動では一番危険な落とし穴なのです。

今回、異議申し立てがあった言葉は、ボンディングとブリッジングです。
このコーナーや私のホームページでよくつく言葉ですが、私自身、実はまだ十分には消化していません。ですから過去の記事を読むと自分でもおかしいと思うような使い方もあります。そんな言葉を使うなと起こられそうですが、メッセージを発信し、新しい枠組みを創ることに価値をおいている私にとっては、言葉の呪縛から解放されたのです。ですから、私の文章は、きっとコミュニケーション効果が弱いのでしょう。

さて、どんな言いかえをしましょうか。
考えなくてはいけません。
いい言葉はないでしょうか。

■何が問われているかの大切さ 2005年9月9日
日本人は問題を解くのは得意だが、問題を創るのは不得手だとよく言われます。
これは、きっと日本の教育離縁や教育制度と深く関わっている問題でしょう。
しかし、問題を選ぶのも日本人は不得手であることに気づきました。
今の選挙は、まさに問題をどう設定するかが問われています。
考えのない人たちや不誠実な人たちは、郵政民営化の中身も知らないまま、それが最重要な問題だと思わせられていますが、こういう人は学校では優等生だったのでしょう。
言葉でしか考えないように訓練させられています。
国のために死ねる国民は私の周りにも少なくありません。
かわいそうだとは思いますが、そうした人がイラク人を殺すことを加担しているとなると話は別です。

フセイン暗殺未遂事件の映像が昨日、公表されました。
事件後、フセインは民衆の前で演説し、民衆は「支持します」と小躍りしてフセインを褒め称えています。今、小泉純一郎の前で小躍りしている人たちの映像と非常に似ています。違うのはフセインは冷静に話しているところです。小泉首相の話し方は、ヒトラーそのものです。金正一でも、もう少しは品格があります。

いま、何が問われているのか。
それを真剣に考えなければいけません。
いま小泉自民党を選ぶことは、戦争に狩り出され、教育は洗脳に変質し、信義よりも金が優先され、貧富の差が固定化され、そんな未来を選ぶことだと私は確信しています。
もちろん、違う考えもあるでしょう。
しかし事実を積み上げて考えれば見えてくることもあります。

たとえば、イラクは復興していると思いますか?
年金は改善されていると思いますか?
なんでそんな簡単なこともわからないのか、私には不思議です。
私の間違いだといいのですが。

■さまざまな勘違い 2005年9月10日
勘違いが社会を構成し、歴史を動かしていることを今回の選挙はおしえてくれます。
たとえば、

小泉首相も岡田代表も、強い手ごたえを感じているようですが、日を追うたびに言葉遣いが権力的というか押し付け的になってきています。集まった聴衆が自分のために集まっているという勘違いです。
今日の新聞に出ていましたが、主婦の人が小泉首相の演説を聞いていて、内容がないという主旨の話を夫にしたら、夫は、でも小泉さんはがんばっているからいいじゃないか、といったそうです。「がんばること」が大切なのだという「民」の生き方を叩き込まれているからでしょう。これも勘違いです。
女性はもう少し自由ですが、構造改革も民営化も意味がわかっていないのにいいことだと思っている人が多いですが、これも「がんばることはいいことだ」という男性の悲しい習性と似た勘違いです。
民営化という手段と民営化の内容の違いもわからない、みのもんたのようなタレントは論外にしても、手段と目的、形式と内容はまったく別のものですが、多くの人は混同してしまいます。これもまた勘違いで、この種の勘違いを悪用した商法や住民管理は悪徳企業や無責任行政の常套手段です。

こういう視点で考えていくと、世の中は本当に勘違いだらけです。
その勘違いを見直すだけで社会は大きく変わるのではないかとずっと思ってきました。
私たちの未来を決めるであろう今回の選挙が、そうした勘違いの結果で決まるようなことがなければいいのですが。
勘違いしていないかどうか、ぜひ周りの人にも確認していきたいと思います。

こうした私の考えこそが勘違いなのかもしれませんが。
あと2日。いずれにしろ歴史が変わります。

■民意に従うという欺瞞とマニフェストの欺瞞 2005年9月11日
小泉自民党の郵政を受けて、先の国会で欠席したり反対した議員が賛成に回りだしています。その大義名分が「今度の選挙で自民党が勝てば、民意が賛成している民営化(法案)に賛成せざるを得ない」というものです。
一見、納得できる論理ですが、これは欺瞞でしかありません。
欺瞞であることは発言者自身が一番知っているはずです。

人は「聞きたいことを聞き、見たいことを見る」ものです。
発言者は、都合のいいときには民意を口にし、都合の悪い時には民意を無視します。
さらにまた、民意はいかようにも形成できます。それはアンケート調査や意識調査をやったことのある必要とはわかると思いますが、情報の与え方と設問の仕方でかなり誘導できます。おそらく反対の結論を引き出すことはそう難しいことではありません。

マニフェストが話題ですが、私はほとんど価値を見出せません。
これも欺瞞のかたまりでしかないように思います。
自民党と民主党のマニフェストを読みましたが、なんでこれがそんなに価値があるのかわかりません。今までとどこが違うのでしょうか。解釈が多様にできるような表現が多すぎますし、第一、これを読んでも全体像はおろか、政策評価ですらできるとは思えません。

私は政党時代は終わったと考えています。
私が信任を与えるとしたら、それは信頼できる人物にです。政党などという組織に信任を与えることなどできません。
そして信任を与える材料は、その人の信念と生き様と人柄です。政策に関する意見は、そうしたことを考える材料でしかありません。
ですから、いつも選挙の投票で悩んでしまうのです。

社民党は憲法9条を守ると言い切っています。
共産党は郵政民営化も含めて大企業への財の集中を変えていくと言っています。
こうしたマニフェストはわかりやすいし、全体像も見えやすくなります。
経済的強者に加担する民営化と経済的平等を目指す民営化とは全く異なるものですが、共産党の郵政民営化の姿勢は明快だと思います。

小泉自民党や公明党は、郵政民営化こそが全体を象徴する課題と言っていますが、それはある意味では正しいでしょう。つまり小泉一派の郵政民営化プロジェクトは、世界の財界に富を集中させ、貧しきものは戦場に狩り出される状況をつくる入り口です。これはまさに公明党が考えている構図でもあるでしょう。

マニフェストは明快の基本信条で、しかも検証可能にしてほしいです。
民意を聞くのであれば、民意が正しく育つような情報環境を整えていくべきです。

民意を顕在化させるための選挙です。
落ち着かない1日です。

■不明の自覚  2005年9月12日
昨夜は8時から1時間、テレビの選挙報道を見ました。
その後は見る気が起きませんでした。
ニーメラーの間違いを私たちは犯してしまったようです。
歴史は繰り返される、です。

今朝、大分の知人がくれたメールにこんな文章gありました。
>もうこれでこの国は取り戻せない気がしています。
同感です。

不明を恥じなければいけません。
これで2回目なのですが。

これまで私は現場で汗する人たちを信頼してきました。
無垢な若者たちを信頼してきました。
彼らの良識を確信してきました。
昨日の選挙結果を見る限り、その信頼と確信はどうも幻想だったようです。
生き方を変えようと思います。

テレビでの「有識者」の発言の内容が変わりだしました。
何をいまさらと腹立たしいですが、所詮はその程度の責任感と知性なのでしょう。

当分、このブログもやめようと思います。
これまでのご愛読、ありがとうございました。
また人を信ずることができるようになったら、書き出します。

2005年10月

■雨が降ってきたら走りますか(2005年10月7日)
ブログを再開します。
元気はまだ十分ではないですが、書くことで元気がでるかもしれません。

まずはウォーミングアップを兼ねて、含蓄のある話題?です。
昨日、道を歩いていたら、雨が降ってきました。傘を持っていませんでした。オフィスまで300メートルくらいのところです。
さてこういう場合、みなさんなら走りますか。そのまま同じ速度で歩きますか。

雨の中を歩く時に、いつも思い出すのが、傘を使わない場合の濡れ方の相違です。
降雨の中をあるくということは、空間に水滴があるなかを歩くことですから、歩く距離によって濡れる度合いは決まります。水平面だけは雨を直接受けますから、濡れる度合いは時間の関数になりますが、それを除けば距離の関数になるはずです。ですから頭に何かを置いて歩けば、走ろうと歩こうと濡れる度合いはほぼ一緒です。
いつもそう言い聞かせて、走らずに歩きたいのですが、やはり自然と急ぎ足になり、ついには走ってしまいます。昨日もそうでした。

しかし、どうも納得できません。
やはり走ったほうが濡れない気がします。
みなさんはどうしていますか。

この場合は、たかが洋服の濡れ方の度合いでしかありませんが、
そこにはさまざまな教訓やメッセージが含意されているような気がします。
どんなメッセージがあるのだと質問してはいけません。
そこまでしっかりと考えて書いているわけではないからです。

まあそんないい加減なブログの再開です。

■大人の社会から生命の社会へ(2005年10月8日)
昨日から「社会の喪失」(中公新書)を読んでいます。
実に刺激的な、考えさせられる本です。

社会の喪失とはなんでしょうか。
まだ読了していないので、その意味を理解していませんが、
社会には二つの側面があるといわれます。

私流に表現すると「大人の社会」、つまり合意形成を大事にする全体化志向の社会と、「生命の社会」、つまり異質性を楽しむ複数性志向の社会です。後者の社会で重要なのは合意ではなく、寛容さと認め合いです。
そのいずれかに「社会」の価値を見るかで、生き方も考えも変わります。
さらにいえば、たとえば、このそれぞれの社会に応じたノーマライゼーションの発想があるように(そしてその内容は全く正反対のものになります)、この違いは「異質」というよりも「異次元」なのです。
にもかかわらず、いずれも「社会」という言葉で一括されています。
ちょっと留意すれば、「社会性」という言葉すらも反対の意味を持っていることに気づきます。
全体に同調し自己を抑える社会性と自分をしっかりと主張する社会性とがあるのです。そこを巧みに操るのが権力の常套手段ですが、そこに愚かにも埋没するのが小市民の常なのです。私自身は、愚かさを反省しなければいけません。

どちらの「社会」を生きるか。
私自身は同調する生き方から自らを解放するために、17年前に「会社を離脱」しましたが、辞めたからといって同調社会の呪縛から抜けられたわけではありません。
意識的には「生命の社会」に生きようとしていますが、「大人の社会」の呪縛から生きていくほどの勇気を持ち合わせていません。
ですから私自身、社会性という言葉を曖昧に都合よく使っている気がします。

これからはもう少ししっかりと「生命の社会」を生きようと思います。

■企業変革と国家変革(2005年10月10日)
日本能率協会が企業の経営者を対象に「当面する企業経営課題に関する調査」の結果を発表しましたが、それによると中間管理者層に不満をもっている経営者が多いようです。第一の不満は、変革の推進です。管理者層が企業を変革してくれないと不満を持っている経営者はなんと7割もいます。第2は部下の指導ができていないということで、これも3分の2の経営者がそう答えています。答えているのは、経営者自身ではなく、経営参謀スタッフかもしれませんが、ここに日本の企業の病理を見ます。
先ず、変革は経営者の仕事であって、管理者の仕事ではありません。管理という言葉に象徴されるように、管理者は「管理」者なのです。「変革」者ではないのです。その基本原理を理解していない経営者は、自らの役割を認識していません。管理と経営は異質なものなのです。
次に、管理者を期待通りに動かせないという点で、部下の指導は実は自らの問題なのです。明らかに論理矛盾があります。
つまりこの調査結果は、経営者が自らのシャドー(影としての実体)を顕在化させたものなのです。そして、その役割や責任を放棄しているということの宣言でもあるわけです。

企業の変革は極めて簡単ですが、経営者にはやる気がないのです。
なぜやる気がないかといえば、変革には自己否定が伴いますから、意思決定者にはそれこそ苦渋の選択なのです。第一、メリットがありません。だから、自らは変革せずに、部下の変革を迫るという、論理矛盾が発生します。成功するはずがないのです。

変革といえば、日本という国自体の変革が財界人と官僚と学者たち、つまり産官学によって進められています。小泉首相や前原代表のような歴史観のない政治家は、おそらくその走狗として使われているのでしょう。
彼らがいよいよ手を付け出したのが、憲法です。本物でない学者や有識者もその尻馬に乗り出しました。哀しいことです。
憲法を変えることで、国の本質は変わります。歯止めがなくなるのです。
国民主権のもとでは、変革の主役は国民なのですが、現実には「国民」は実体概念ではありませんから、国民を操作概念にして第三者が変革を進めます。首相は国民が選んだという大義が使われますが、それこそが権力支配の擬制です。
余計なことを付け加えれば、理念としての民主主義と制度としての民主主義は全く違います。勘違いしてはいけません。民主主義を多数決原理などと勘違いする馬鹿な間違いを犯してはいけません。多数決は原理としてはありますが、大状況においては情報基盤が違いますから正当性を持たない抽象概念です。

企業にたとえていえば、外部のコンサルタント(時にはタレント)が企業変革を進めて、結局は企業をだめにしているように、国もまた外部の「知恵者」にのっとられているだけの話かもしれません。国民は実体がないために、対抗できないのです。

ほとんどの支配者にとっては、戦争を引き起こすことほど魅力的なプログラムはないでしょう。そこでは連帯が起こり、感動が生まれ、日常が忘れられるからです。
生活の視点で考えれば、自民党、民主党などという分け方は無意味です。戦争との距離という点では、岡田さんや前原さんと小泉さんは大きな違いは感じられません。中途半端に若いだけに、最近の若者たちのような「優しさ」や「寛容さ」も感じられません。

企業の変革は進まず、国家の変革は進んでいく。
10年後が心配です。
そのころにはどんな生活を送っているでしょうか。
いい時代を懐かしめる私には大きな救いがありますが。

■地方分権と地域主権(2005年10月11日)
昨日のニュースですが、岡山市長選挙で小泉自民党の「刺客」が当選しました。
その経緯がテレビで報じられていましたが、久しぶりにテレビを観てしまいました。
嘔吐したくなりました。
あまりの腹立ちで、今朝、起きたら、めまいがして本当に嘔吐しそうでした。両者の因果関係は不明ですが、半日、安静にしていました。
それでやはり腹にあることを書くことにしました。
どうせわかってはもらえないでしょうが。

小泉自民党がやった3つの「改革」があります。もちろん「改悪」以外の何ものでもなく、貧しき庶民の生活を踏みにじることで経済的な勝者に媚を売る改革ですが。
一つは言うまでもなく、テロ対策特措法にはじまる、軍事国家化への推進です。
第2は郵政民営化に象徴されるような、国民資産の民間企業への贈与です。
そして第3は地方分権化による中央集権体制の推進です
傷害、詐欺、破壊。その3つが揃っています。

納得してはもらえないでしょうね。
こうしたことを、被害者になるだろう人たちが熱狂的に応援して実現したのです。
どこかであったような話です。
しかし、きっと30年後には答えは出ているでしょう。
私はたぶんその結果は見られないでしょうが、その被害もそれほど受けずにすむでしょう。

さて岡山市長選です。
そこにはっきりと片山自治相が目指していた「地方分権の本質」が見えています。
そこに気づいてもらえたでしょうか。
すべては同じなのです。
地方分権は中央集権体制の論理的帰着点です。「分権」は言うまでもなく、権力は中心にあるという思想なのです。少しまともな頭を持っていれば誰でもわかることですが、なぜか日本の「有識者」は、そうは思っていないようです。だからこそ、「有識者」なのですが。
一部の人は「地方分権」ではなく「地域主権」という言葉を使います。中央集権に対するのはいうまでもなく「地域主権」であり「中央分権」です。
もう20年、私はこういい続けていますが、誰も共感してくれません。
よほど説得力がないのでしょう。困ったものです。

地方分権とセットになっているのが市町村合併です。
それがどうやって行われたか、金と脅しといやがらせです。
それで日本の市町村は少なくなったのです。どれだけの無駄があったか、どれだけの企業が役に立たない仕事で儲けたか、新聞は何も伝えません。
ニュースを見ていたら、それと同じことが岡山市長選挙で再現されていたようです。

岡山市民を嘲笑うのは簡単ですが、我孫子市でもあの状況になったら同じ結果になったかもしれません。そもそもがそうした利権と恫喝と謀略で動いているのが政治かもしれませんが、市町村にまでその醜さを持ち込むことはありません。

日本の社会は壊れるばかりです。
もちろん「大人の社会」ですが。
「社会」という言葉は、もはや負の価値しかないのかもしれません。

■箱根の観光客としての怒りと迷い(2005年10月14日)
昨日、仕事の関係で箱根の強羅に行きました。
小田急の特急で新宿から箱根湯本まで1時間20分です。
会場のホテルは、そこから登山鉄道とケーブルカーに乗って行かなければいけません。
論理的には2時間もあればいけるはずです。ところがそうはなりません。
箱根湯本で小田急から箱根登山鉄道に乗り換えるのですが、同じ駅に発着するのに到着時間と発車時間が同じなのです。つまり乗り換えられないと言うことです。これは「いじわる」としかいえません。そこで20分の待ち時間が発生します。
次は強羅駅でケーブルに乗り換えですが、ここでもまた見事に20分近く待ち時間があります。それぞれが1時間に2〜3本しか運行されていないのですから、接続をうまく考えればいいと思うのですが、ここでも「意地悪」が行われており、20分の待ち時間です。信じられない仕組みです。

これは一つの象徴的な事象です。
私は箱根が好きで、年に数回、行きます。しかし、自動車でいけばともかく、公共交通機関を使うとこうした「意地悪な仕組み」が箱根にはたくさんあるのです。箱根が廃れていくのは良く分かります。
ここでは2つの会社が交通機関を提供していますが、それぞれが勝手にやっていますから、観光客には不便で分かりにくいことが多いのです。両者の話し合いが進められているようですが、ほとんど改善されないままにあります。

ここに象徴されるように、関係者がみんなで箱根を気持ちの良い場所にしたいという思いがないのでしょうか。ショップや施設も、みんなばらばらで雰囲気がありません。一つひとつの施設はいいものがたくさんあるのですが、つながっていないのです。
こうした事例は日本各地にあります。

と、ここまで書いてきて、一つの悩みにぶつかります。
20分待たされることがなぜ悪いのか、です。
無駄な時間を切り捨てていったら、それこそ息が詰まる世界になってしまうのではないか。
あえて接続させていないのは、そうしたメッセージをこめた「親切な仕組み」なのではないか。
皆さんはどう思われますか。

■合意形成を目指す社会の行く末(2005年10月15日)
郵政民営化法が国会を通過しました。
信念を持っていたはずの国会議員も変節したようです。
異質性を認めない、今の社会の象徴的な姿です。

非常に象徴的なのですが、村上ファンドの動きが話題になっています。
企業価値を高めることがなぜ悪いと村上さんは言いますが、問題はだれにとっての「企業価値」か、です。いうまでもありませんが、村上さんが話しているのは、株主にとっての企業価値、キャッシュフローベースの企業価値です。あえて極言すれば、生活者にとっての企業価値と往々にして対立する価値であり、私のような生活者にとっての「企業価値」を下げることでしかありません。
郵政民営化の未来が、そこに象徴されています。
残念ながらもう生活者たちは元には戻れませんが。

企業価値論議は以前も一度書いたことがありますが、今日の話題は「合意形成」です。
「民主主義」と「多数決による合意形成」を混同している人が少なくありません。きっと正反対の考えなのではないかと思います。これがなかなか理解してもらえません。中途半端な学校教育の成果でしょう。
国会はさまざまな意見や価値観が議論を通して、お互いをケアしながら、ある仕組みをつくっていく場です。法律は決して単純な基準ではありません。状況に合わせて、判断できる余地を残しながら、判断の拠り所を出していきます。解釈の余地のない法律であれば、裁判は不要です。
つまり大切なのは、作られた法律ではなく、つくる過程での議論です。合意形成が大切なのではなく、多様な意見への配慮やその検討が大切なのです。

国会は見事に強制的な合意形成の場になってしまいました。合意しなければ活動もできないのでは国会の意味はありません。
納得できていないのに、合意してしまう、つまり嘘をつくわけですが、これでは、子どもたちに嘘をつくなとか、自分の意見をきちんと言えとか、信念を貫けとか、いえません。こうした問題も発生させています。

しかし、こうした「合意形成」への圧力や信仰は国会に限ったことではありません。企業でも地域でも、NPOですら、合意形成信仰が強いのです。
合意形成しなければ前に進まないだろう、と言われそうですが、進み方はあるでしょう。そろそろ「合意形成信仰」を見直すべき時期だと思います。
強制された合意形成ではなく、自然に生まれてくる合意にこそ、価値があります。
「合意形成」は、目的語ではなく、主語で考えるべきでしょう。
合意形成を図る、ではなく、合意形成が育つ、です。
これがスローライフの真髄かもしれません。

■焚き火ができないのはなぜでしょうか(2005年10月17日)
空いている近くの宅地を使ってさつま芋を育てました。
女房がそこで、先日、近くの子どもたちと一緒に芋ほりをしたそうです。
私は残念ながら不在でしたので参加できませんでした。
昔であれば、そこで焚き火をし、焼き芋をみんなで食べたでしょうが、今は焚き火ができません。不思議な時代です。
収穫したさつま芋はそのまま各自のお土産になってしまいました。
これでは楽しさ半減です。

なぜ焚き火ができないのか。
においでしょうか。ダイオキシンでしょうか。それとも防火対策でしょうか。
いずれにしろ、私たちの生活は豊かさを失ってきています。

それを「豊かさ」というだろうか、と思われるかもしれません。
しかし、それを豊かさと言わずして、何を豊かさというのかと私は思います。

よく言われるように、私たちの労働時間はどんどん長時間化しています。
経済的収入は、それによって増えている人も少なくないでしょう。
もっとも労働時間と経済的収入は必ずしも比例はしません。
経済的収入が低下するから労働時間が長くなると言う構図もあるのです。

ところで問題は経済的収入が増えている、いわゆる「勝ち組」の人たちは豊かになっているのでしょうか。
経営学の世界に、デシの法則と言うのがあります。
給料などの経済的報酬が高くなると、内発的な動機付け、つまり働くことの喜びは低下する、というのです。これはいくつかの実験で実証されています。
内発的動機付けは、豊かさや幸せにつながっています。
最近はそうした議論が主流になってきました。
この一点だけをとってみても、勝ち組は豊かにはなっていないのかもしれません。彼らの行動を見ているとそんな気がします。誤解かもしれませんが、はい。

豊かさとは一体何なのでしょうか。
どこかで何かが間違っているような気がしてなりません。

焚き火ができる社会はいつ戻ってくるでしょうか。

■被害者が加害者を支援する構造(2005年