ブログ総集編2(2007〜2008)
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■しきたりや年中行事をもっと大切にしたいものです(2007年1月1日)
今年は幸いなことに初日の出が見られました。
30日にも早く起きて日の出を見たのですが、
なぜか30日の朝と今朝では印象が違います。不思議です。
初の祝い膳の後、近くの子の神様に初詣をしました。

日本には古来、さまざまなしきたりや行事があります。
そうしたことが急速に失われたのが、この30年です。
驚くほどの速さで、なくなってきたように思います。
加速した人がいたのです。
そうしたしきたりの節目になる祝祭日も、いまや「連休」政策のもとで毎年動くようになってしまいました。
今年の成人の日は8日だそうですが、政府は成人の日を休日としか考えていないことが象徴されています。
成人の日に若者が荒れるのは当然のことでしょう。
歴史的な意味のある祝日はさすがにまだ勝手な変更はなされていませんが、時間の問題かもしれません。
歴史や文化、しきたりや慣習をおろそかにすることの意味をもっと私たちは考えるべきでしょう。

神仏の前での祈りの瞬間は、多くの人にとって「祈り」の時間であり、平穏な時間です。
少なくとも1年に一回、こうして自らの生き方を問い直し、懺悔し、祈りをささげることの意味は決して小さくないはずです。
1億人の国民が、もし初詣で、平和や安寧を祈るならば、ものすごいエネルギーになるはずです。
毎日のように起こる殺傷事件や不祥事件もなくなるかもしれません。

日本には、初詣に始まって、実に様々な年中行事がありました。
それに支えられて、世界から「美しい国」と讃えられた社会があったのです。
それを壊してきたこの数十年の政策や経済活動を改めることが大切です。
しかしそれは誰かがやってくれるわけではありません。
まずは、私たち一人ひとりが、そうした歴史や文化への関心を高めていくことから始めなければいけません。

初詣がまだの方は、ぜひ神社で手を合わせてきてください。
喪中の方は別ですが。

年中行事や古来のしきたりが回復してくれば、社会は変わっていくはずです。
私たちの生き方が変わるのですから。
年中行事や古来のしきたりをもっと重視していきましょう。
もちろん産業化や愛国心教育の対象としてではありません。
私たち一人ひとりの豊かな人生のために、です。

ちなみに、
靖国参拝などは、そうした文化に根ざす行事ではありません。
騙されてはなりません。
そうやって、古来大切にされていた文化が壊されてきたのですから。

■希望の年(2007年1月4日)
CWSコモンズのほうに、新年の挨拶として、今年は「希望の年にしたい」と書きました。私自身にとって、昨年は「希望」を見失いがちな年だったからです。
私だけではありません。
日本社会が見失ってきたのも「希望」だったかもしれません。

最近の日本に欠けているものは「希望」です。
「品格」も「成長」も「改革」も、希望の前には瑣末なことです。
希望があれば、学校も変わり、経済も政治も変わるでしょう。
この数十年、私たちは「希望」を壊し続けてきたのです。
自らの希望とコモンズの希望を。

全く予想していなかったのですが、何人かの方からメールをもらいました。
思いがけない反応で、半分うれしく、半分はやはり希望がなくなっている時代なのだと思い知らされて寂しい気分でした。

ある友人はこう書いてきてくれました。

”希望”という力づよい言葉を、久々に眼にしました。
誰にとっても、希望の1年でありますように。

“希望”とは、
hopeでもない、wishでもない、desireでもない、requestでもない、expectationでもない、prospectでもない、
名利とは無縁の、智恵子が望んだ、阿多多良山の上に毎日出ている青い空のようなものですか?
“品格”も“成長”も“改革”も、東京に空がないといった、智恵子の見たくない東京の空の一部かもしれません。

あまり会う機会はないのですが、私のことをかなり冷ややかに、そして温かく見守ってくれている、40年来の友人です。
彼は、ある時、思い立って百名山を短期間に踏破したのですが、こうも書いてきました。
無断引用ですみません。

ぼくも、山の上の青い空がすきです。
たった一人ではるか遠くの山の頂へたどりつき、水平線のかなたから、“勇気”というものを貰うことにしています。
夏バテした人間が、秋風をきいて、急にシャンとなるくらいの、ささやかな気力を貰うに過ぎませんが。
“希望”と“勇気”。  
しかし、その目指すところは同じような気がします。

そう思います。
希望と勇気とはコインの表裏のような気がしています。
昨年の私には勇気が失われていたのです。
小賢しくなっていたのかもしれません。
みなさんからのメールでいろいろと考えさせられました。

よかったら私のホームページ(CWSコモンズ)の新年の挨拶も読んでみてください。

■「安直な諦め」ではなく「希望」からの発想を(2007年1月5日)
3日のNHKテレビで、五木寛之さんと塩野七生さんの対談がありました。
ちょっと噛みあわない感じもしましたが、そこがまた面白かったです。
ところで、そこで、塩野さんが「パレスチナでは目の前に死があるから、親殺しもいじめも自殺もない」というような趣旨の発言をされました。五木さんもほぼ同意されていました。私もそうだろうと思います。
戦争における死も不条理な死ですが、戦争に巻き込まれていないにもかかわらず、今の日本には不条理な死が多すぎます。
塩野さんは、それは「平和のつけ」だと言い、五木さんは「見えない戦争」だと言いました。(記憶違いがあるかもしれません)
ここにも実に大きな示唆が含意されているように思いますが、
それはともかく、なぜ目の前に死があるかないかで、こんなにも違うのでしょうか。
パレスチナには「希望」があるでしょうか。
自爆テロに志願する人には希望があるのか、ないのか。

ある人からもメールをもらいましたが、
「希望」について考えた時に思い出したことの一つが、アウシュビッツです。
希望を持てた人は生き残り、希望を失った人は持ちこたえられなかったといわれています。
しかし、なかには自らが隣人のために死を選んだコルベ神父のような人もいます。
コルベ神父は希望を持っていたはずです。
この場合は、希望があればこそ、死を選べたのかもしれません。
自爆テロ志願者も、そうなのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99

「希望」という切り口から、時代の動きや世界の事象を見直してみると、
さまざまな気づきに出会います。
なんと「安直な諦め」が横行していることでしょう。
自らの生き方も、きっと同じなのです。
パンドラの箱の底に残されたという「希望」を、私たちはもっと大切にしなければいけません。

■ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク(2007年1月6日)
ホワイトエグゼンプションが日本でも導入されるというのでいろいろなところで話題になりだしています。
何をいまさらという気がしないでもありません。
この10年の企業経営の動きから考えれば当然の帰結であり、反対するのであればもっと早く対応すべきだったように思います。
ニーメラーの教訓は、平和だけではなく、こうした分野でもあてはまります。
もっとも、私自身はこの制度に必ずしも反対ではありません。
もちろんいまの状況の中での導入は賛成できません。
制度の発想の起点が違うからです。
日本の企業経営者や経営学者の間違いは、個別制度だけしか考えずに、その拠って立つべき全体のパラダイムを無視してきたことです。
これまでどれだけの欧米の経営制度が導入され、見事に失敗したかを思い出さなければいけません。
コンサルタントの仕事は失敗すればするほど、仕事が増えるという構造を持っていますから、それは彼ら(私も本業は経営コンサルタントですが)にとっては好都合なのかもしれません。
さて、ホワイトエグゼンプションのことです。
現在の雇用契約体制の枠組みの中でホワイトエグゼンプションを考えるか、ホワイトエグゼンプションを起点に雇用契約を再構築するかによっても、その意味合いは変わるでしょう。
私自身は、もはやこれまでのような管理型雇用労働の時代は終わり、個人を起点にした組織原理やマネジメントへと移行することで新しい事業主体が元気になってくると考えていますので、うまく設計したらそれこそ三方良しの経営のポイントになるのではないかとも思っています。
問題は、いまの企業経営の実態が「経営不在」であることです。
サルでも経営できるのが今の大企業の実態だと思いますが、経営者自らは管理だけで責任をとらず(管理責任は取りますが、そんなことは誰でもやることです)、個々の従業員にホワイトエグゼンプションという形で責任を押し付けて、経営の重点を移していくのはどう考えてもおかしな話です。
いまの大企業の従業員は、アントレプレナーシップはあまりないでしょうが、これからの企業を元気にしていくのは、社内アントレプレナーです。彼らは言われなくてもホワイトエグゼンプションをいまでもやっています。ただ、そのモティベーションはお金ではなく自らの夢の実現、希望の実現です。
ところが今の組織原理はそれが認識できませんから、たとえば青色ダイオード訴訟裁判のような、寂しい事件が起こるのだと思います。
ホワイトエグゼンプションが悪いのではなく、その展開の仕方が間違っているのです。
ところで、ディーセントワークという考え方が数年前から広がりだしています。
私もこれまで何回か言及してきましたが、これは仕事の価値を重視しようという考え方です。定訳はまだありませんが、私は「納得できる仕事」と読み替えています。
労働時間短縮は、仕事に価値がないという前提にたっています。
労働よりも余暇に価値があるなどという発想は、私には全く理解できませんが、これまでの労働実態を考えるとあながち否定はできません。だとしたら「余暇」などというひどい言葉を使うのはやめたほうがいいはずですが、余暇政策もまた労働政策であった日本では、何の疑いもなく余暇という言葉が広がりました。まあ、これはまた別の問題ですので、いつか書きたいです。
成熟社会では仕事の価値が問われなければいけません。
それが従業員のモチベーションを高め、社会にも受け入れられるはずなのです。
近江商人の経営の原点も、ここにあったはずです。
日本の企業人たちのモチベーションの低さは、仕事に価値が見出せなくなったからです。
ちなみに仕事の価値は社会状況によって変わってきます。
ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク。
この二つをつなげて考えていけば、新しい組織原理や経営の本質が少し見えてくるように思うのですが、どうでしょうか。
新しいマネジメントスキーム作りの仕事を私に任せてくれる会社はないでしょうか。
成長はともかく気持ちの良い会社を実現できると思うのですが。

■絶望を知っている人間が希望を語る資格がある(2007年1月8日)
私の新年の挨拶を読んで、ある人がメールで、
12月27日の毎日新聞の夕刊のインタビュー記事を教えてくれました。
「この国はどこへ行こうとしているのか」という題で、理論社の創業者で作家でもある小宮山量平さんのインタビュー記事です。
出だしの小見出しが、
「絶望を知っている人間が希望を語る資格がある。だから、絶望を感じないといけないんだ」です。
心がえぐられるようなメッセージです。
その記事によれば、90歳になった小宮山さんは、これから長編小説の執筆を始めるのだそうです。
題は「希望=エスポワール」。完成は2年先らしいです。
ぜひ読んでみた本です。
小宮山さんのインタビュー記事はとても刺激的です。
まだ毎日新聞のサイトで読めますので、ぜひお読みください。
http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/news/20061227dde012040043000c.html

ところで、絶望を知らない人は希望を語れないのか。
私はそうは思いませんが、この言葉にも共感できます。
人は自分の体験した世界しか語れないことを最近痛感しているからです。
では、絶望を知った人は希望を語れるのか。
絶望と希望は、もしかしたら同義語なのではないかという気がしています。
うまく説明できませんが、いまの私には同義語に近いのです。
希望があるから絶望できる。
絶望したから希望が見えてくる。
なにやら禅問答のような話ですが、
私の今の心境です。
気楽に他の人に「希望」を持て、などとは言ってはいけないと改めて自戒しています。

今日はちょっと重くて暗い話になってしまいました。
我孫子の空はとても青くて美しかったのですが。

■郵政民営化の成果が見えてきました(2007年1月9日)
あまり利用されない郵政公社のATMが次々と撤去されだしています。
当然のことですが、その影響は極めて大きなものがあります。
昨年秋くらいから、マスコミでも問題にされだしていますが、困る人が増えていくでしょう。
しかし、そんなことは最初からわかっていたことですから、困った人のほとんどは自業自得です。
これからこうしたことが続出するでしょう。
最悪の内閣だった小泉内閣が残した負の遺産は想像を絶するほど大きいように思います。
小泉内閣を支持した人たちはみんな苦汁を飲まされることでしょう。
ざまあ見ろ、といいたい気分も皆無ではありません。
私も最近、かなり性格が悪くなりました。反省。

郵政民営化が時代に逆行していることは少し思考能力のある人なら誰でもわかることです。
以前も書いたように、民営化とは権力者と悪徳資本家が儲ける仕組みなのですから。
もっとも今までの郵便局も、これまた悪徳権力者と悪徳資本家が跋扈していた世界かもしれません。
つまり、問題の立て方は正しかったのですが、解決策で小泉某という悪質な人物に騙されただけの話です。

しかし問題は郵政民営化に賛成した無知な国民が不便になって、経済的に損失を大きくするというだけの話ではありません。
明治維新以来、先人たちが構築してきた社会の仕組みを壊してしまったということです。
民営化するくらいなら廃止して、完全に民間企業にすれば良い話なのですが、自分たちの利権世界を育てるために、社会的なインフラストラクチャーともいうべき郵便の仕組みを金儲けの世界にただ同然で投げ出してしまったのです。
この意味は極めて甚大です。
古来からの地名を変えた浅薄な官僚がいましたが、それと同じくらい罪深い行為です。
その被害の大きさを考えれば、世間に広がっている詐欺行為など可愛いものです。
もし彼らが罪に問われるのであれば、郵政民営化に加担した経済官僚や政治家は重罪に処すべきだと私は思ってしまいます。
歴史が苦労して創りあげてきた社会資本ともいうべき、そうした仕組みや文化が次々と金儲けしか頭にない人たちによって、壊されていくのがとても寂しいです。

それは経済システムや社会システム、伝統文化だけではありません。
平和も同じです。
憲法9条は日本の宝だという、かつては政界や財界で活躍した老人が少なくありません。
その発言は傾聴に値します。
しかし、まてよ、と私は思います。
あなたたちが、それを壊してきたのだろう。
何をいまさら寝ぼけたことを言っているのだ、と思ってしまうわけです。
最近、急に、日本はおかしくなってしまったと、テレビや新聞で発言する人も増えてきていますが、社会が壊れていく時の現象なのでしょうか。
今の社会に責任を持ってもいいだろうと思う人までそういう言葉を発しているのを聞くと、老人は信頼できないなと思ってしまいます。

と、こんなことを書いている私もまた、その一人かもしれません。
がんばってもっと権力や財力を持つ存在になっていればよかったと悔やまれますが、そうしたことに半分背を向けて生きてきたために、社会的にはほとんど影響力がありません。
しかし、その世界に入ったら、今のような納得できる生き方は出来ていないでしょうね。
やはり私もまた、自分のことしか考えずに生きてきた、悪質な老人の一人かもしれません。

あれれ、書き出した時に考えていた内容と全く違う内容の話になってしまいました。
当初はもっと大切なメッセージを書くつもりだったのですが、困ったものです。
このブログは、思いに任せて書きなぐっているために、こういうことが多いのです。
今日は実は、社会が壊れていくことへの警告を書くつもりだったのですが、老人批判になってしまいました。
すみません。
私も老人の一人なので、自己批判と受け止めてください。

■「脆いつながりの時代」と「一方的な情報発信の時代」(2007年1月11日)
最近、年賀メールにしています。
反応がビビッドで、やりとりができるからです。
ただあまり長いメールだと読んでもらえないので、メールそのものは短くし、私のホームページで少し長いあいさつ文と近況を読んでもらうようにしています。
今年はアドレス帳が壊れていたので、半分以上の人に発信できていないのですが、いまアドレス帳の修復に取り組んでいます。これがまた大変なのです。

ところで、年始メールでいくつかのことに気づきました。
まずアドレスを変える人が多いということです。
発信した5%くらいの人からアドレス不明で戻ってきました。
最近のスパムメールなどのためにアドレスを変えることも少なくないと思いますが、新しいアドレスの通知がなかなか徹底しないのだろうと思います。
かつての手書きの住所録管理の時とは違い、発信先が桁違いに増えているでしょうから、修正も難しくなっているでしょう。注意していないといつの間にか「つながり」が切れてしまっています。

次に、先方から連絡を受けたアドレスなのに、なぜか跳ね返されてくるものが時々あるということです。
これは理由がわかりません。繰り返し送るのですが、届きません。連絡の方法もないので困りますが、結局は放置です。
私のアドレスが受信拒否になっている可能性もあります。
私の所に私のアドレスで、スパムが届くことが以前何回かありました。
それでうっかり受信拒否手続きをしてしまったら、私が自己発信したメールも届かなくなり、あわてて拒否解除をしたことがありますが、自分のアドレスでなければ拒否したままになっているでしょう。
私と同じアドレスで発信できるということは最初理解できませんでしたが、プロバイダーの担当者に苦情を申し入れましたが対策不能ということでした。
メールアドレスでのつながりは、とても脆いものだということを感じました。
創りやすいが壊れやすいのがメールのつながりです。

もう一つ気づいたのは、多くの人が(私も含めて)発信に重点があるということです。
改めて年始メールは読まれないものであることを実感しました。
時代そのものが「情報発信の時代」になっていると思いますが(つまり情報共有ではなく、情報の一方的発信に偏重している時代という意味です)、そうした時代状況がここにも出ています。みんな発信したがっているのです。このブログもそうですが。

そんなことから、「脆いつながりの時代」と「一方的な情報発信の時代」を改めて実感しています。この2つは深くつながっています。

しかし悲観的なことだけではありません。
中にはていねいに読んでくれて、いろいろと生きた言葉を送ってくださった方もいます。これは年賀状ではなかなか難しいことです。もちろん電話を使えばいいことですが、電話とメールでは行動を起こすバリアは全く違います。
昨年一度しかお会いしたことのない人と何回かのメール交換ができたケースも3人もあります。思わぬことをお互いに気づきあうことも少なくありません。
情報交換コストがほとんどかからない時代になったことを実感します。

使いようによっては、開かれた対話の時代の到来を予感できます。
情報社会の本質はなかなか見えてきませんが、改めて情報リテラシーの大切さを痛感しています。

■「恥の文化」から「罪の文化」へ(2007年1月12日)
また企業の不祥事件です。
今度は不二家が期限切れの牛乳でシュークリームを製造していたことを隠蔽したという事件です。
雪印の時と同じく、「期限切れ原料の使用」とその隠蔽と二重の意味での反社会的行為が行われたわけです。
隠蔽の理由が、「期限切れの原料使用がマスコミに発覚すれば、雪印(乳業)の二の舞いとなることは避けられない」ということだそうですが、すでに「雪印の二の舞い」をやっていることに気づかないことに驚きを感じます。
しかし、これはいまの日本社会を象徴する事件です。

「見つからなければいい」という文化が日本を覆っています。
かつて「恥の文化」だった日本社会も、いまや「罪の文化」の社会に変質してしまったのでしょうか。
そういえば、複数の閣僚の事務所経費問題が話題になっていますが、当事者である閣僚の説明を聞いていると、これもまた同じ線上にあるように思います。
最近の政治家の不祥事をみるにつけ、健全な政治家などいないのではないかと思いますが、「マスコミに発覚しなければよい」というのが、いまの日本の権力者の常識なのかもしれません。
経済界も政界も、行政の世界も、です。

どうしてこんな社会になったのでしょうか。
私が子どもの頃は、「お天道様が見ている」ということが社会の規律を維持していたように思います。それこそがソーシャル・キャピタルだったのですが、いまやみんな「罪の文化」に逃げてしまっています。
しかも、それを先導しているのが、私と同じ世代の人たちだというのが、なんとも悔しくて哀しいです。

「罪」は受動的な概念であり、「恥」は主体的な概念です。
主体性のない人たちは「積み」を基準に生き、恥には関心を示しません。
企業のコンプライアンスが責任転嫁の論理であることに気づかなければいけません。
電車の中で化粧をする無恥な女性たちと同じなのです。

■猟奇的事件の過剰報道(2007年1月13日)
最近、いろいろな人と話していると、テレビのニュースを見たくない、という話がよくでます。
いまやテレビすらが、悪趣味の週刊誌のように、猟奇的な事件をしつこく報道するようになってしまいました。
テレビからも社会性が失われてきているのでしょうか。
自殺やいじめもそうですが、マスコミの報道は暴力的な効果を発揮することが少なくありません。事件を相対化するのではなく、突出させながら普遍化していくのが最近のマスコミの姿勢ですが、その刺激が状況をあおったり、判断を偏向させたりしていく可能性は小さくはないでしょう。
それにしても、どうしてこれだけ猟奇的な事件を、しかも画像で細かく執拗に報道するのでしょうか。
マスコミが取り上げる事件は、時代の象徴であるとともに、時代の解釈でもあります。
最近のテレビのニュース関連の編集に当たっている人たちは、すべてが偏執狂ではないのでしょうが(そうであってほしいと思います)、おそらくかなりの人たちは異常な事件に触れているうちに、少し異常値を高めているのだろうと思います。
そうでなければ、こうした事件にこれほどの社会的(報道的)意義を感じないでしょうし、執着しないでしょうし、報道の仕方もこれほどまでに犯罪支援的な視点を持ち得ないでしょう。
そうした人たちは、ぜひ家族との団欒を思い出してほしいと思います。
そして、自分がとりあげているニュースが、愛する家族たちに見せたいニュースなのですか、と自問してほしいです。

テレビに限りませんが、マスメディアは社会を動かしていく大切なものです。
人々を元気にし、生きる力を与え、社会的な問題を解決していくこともできます。
しかし、それは両刃の剣でもあります。
資本の論理(視聴率)や利権確保のために悪用されることがあれば、極めて危険な存在になるでしょう。
ヒットラーはそれで権力を掌握し、ベッカーは300億円を獲得しました。
猟奇的事件をこれほどしつこく報道することの背後に何があるのか。
いささかの恐ろしさを感じます。

テレビの報道局のみなさん。
1週間休みをとって、家族と一緒に自らの生き方を考え直してみませんか。
そして、もう少し、みんなを元気にするニュースに目を向けてくれませんか。
自分の人生もきっと楽しくなりますよ。

■ニーメラーの教訓と家永三郎さんの選択(2007年1月14日)
ニーメラーの教訓に関して、何人かの方からメールをもらいました。
それで思い出したのが、家永三郎さんです。
教科書検定が憲法違反だという訴訟を起こした、家永三郎さんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%B0%B8%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E8%A3%81%E5%88%A4
家永さんは、法廷で次のように語ったといいます。

「私は戦争中に、わずかに個人的両親を守ることにのみ専念して祖国の破滅を傍観するあやまちを犯した。私は力の弱い一市民ですが、戦争に抵抗できなかった罪の万分の一でも償いたいという心情から、あえてこうした訴訟に踏み切った次第であります」

3回にわたる家永教科書裁判はいずれも敗訴しましたが、この裁判のこともあって家永さんはノーベル平和賞の候補にもなりました。
家永さんの訴訟は大きな話題になり、大きな論争を起こしましたが、残念ながら時代の流れは変わりませんでした。
いま、家永さんがご存命であれば、何をしたでしょうか。

家永さんのような、行動を起こしている人は今も決して少なくありません。
しかし、なぜ流れを変えられないのか。
きっとどこかに間違いがあるのでしょうね。
それが何かがわかるといいのですが。

■戦争を直視する姿勢(2007年1月15日)
ドイツと日本の戦後教育の違いはよく指摘されることです。
子どもの教育は20〜30年後に結果として出てきます。
今の社会の状況は、20〜30年前の子どもへの教育の結果でもあります。

古い話ですが、1991年11月8日号のニューズウィーク誌は、真珠湾50周年特集を組みました。
そこに次のような記載がありました。
「ドイツが戦後の教育で自国の戦争犯罪を戒めてきたのに対し、日本では文部省の方針によりタブー視され、戦争を直視する姿勢がない。こうしたことの反省の弱さは若年層のナショナリズムをあおる土壌になっている」

最近、こうした指摘が日本人からよく出されていますが、遅きに失しています。
ニュールンベルグ裁判と東京裁判がどう違っているのか、私は不勉強で知らないのですが、少なくとも東京裁判にも広田弘毅さんのような人もいました。
戦争をきちんと総括しようという人はいたのです。
しかし私たちはドイツのように現代史をきちんと教えることを避ける為政者の下で、教育を受けてきました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_ce4e.html
ニューズウィーク誌が予言したように、今の日本は危険な状況になってきているように思います。
私たちの親が体験した戦争の実態をもっと真摯に直視すべきだと思います。

ちなみに、雑誌「軍縮問題資料」ではいま、「法廷で裁かれる日本の戦争責任」を連載しています。学校では決して学ばなかった事実が語られています。
ぜひ読んでほしいと思います。
そうしたら防衛庁を防衛省にすることの恐ろしさも実感できるかもしれません。

ちなみに、教育改革が話題になっていますが、こうした視点をしっかりと入れて議論すべきではないかと思います。
「改革」には歴史観がなければいけません。
昨今の「改革」は、すべて欲得視点の小手先の詐欺でしかありません。
ちょっと言いすぎでしょうか。

■社会奉仕活動の義務化(2007年1月16日)
教育再生会議は、その第1次中間報告に、高校で社会奉仕活動を必修化するよう明記する方針を固めたそうです。
子どもたちが社会との接点を体験するということはとても良いことですが、あえて「必修化」といわなければいけない現実が問題なのでしょう。
それに、「社会奉仕活動」と、あえて「奉仕」という文字をなぜ使うのかも気になります。「社会活動」ではいけないのでしょうか。
こうしたところに、問題の本質が見えているように思います。

子どもの頃から社会活動を「奉仕」の視点で義務化されてしまうことに危惧を感じます。
そこからは「楽しい」イメージはでてきません。
社会活動は本来楽しいものであり、喜びにつながる要素を持っています。
そうでなければ継続はしないでしょう。
教育再生会議のメンバーたちは、社会活動をしたことがあるのでしょうか。

私自身は「奉仕」という言葉が好きになれません。
「滅私奉公」の偽善を思い出してしまうのです。
「奉仕」は自らが「するもの」であって、他人に「させるもの」でも「勧めるもの」でもないと思います。ましてや素直な子どもたちに押し付けるものではありません。
大人たちが自らそうした行為をしていれば、素直な子どもたちは義務化されずとも自然とそうした行動をしていくものです。
必修化してできるものではありません。

企業はよく「社会貢献活動」と言う言葉を使います。
これも白々しい言葉です。
以前も書きましたが、「社会活動」で充分でしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/02/post_ce06.html
自分たちが、社会を構成している一員であることを自覚していたら、「貢献」とか「奉仕」などという言葉は使わないように思うのですが、どうでしょうか。

こういうことを20年前からいろいろなところで話しているのですが、なぜかほとんど理解されません。
私が間違っている可能性もありそうです。

■シニアライフをどう生きるか(2007年1月17日)
九州のKさんがまたどっさりと野菜を送ってきてくれました。
大企業に勤めていたのですが、定年退職後、郷里に戻り、百姓生活をしているのです。
今回は何と関鯵の天日干しまで入っています。
手紙によると自分で釣りあげた鯵を自分で干したのだそうです。
Kさんは毎年、アサリもどっさり送ってくれます。
これも自らが浜で採集してくるのだそうです。
CWSコモンズでも紹介したことがありますが、野菜も中途半端ではなく、実に立派です。女房が今回も感動しています。
いつもレシピまでついています。

Kさんは農業だけをしているわけではありません。
地域活動にも取り組み、行政とも付き合っています。
もちろんしっかりした主体的な視点をもってです。
こうしたシニア層が増えてきました。
お金のためではなく、仕事(人生)のために生きる人たちです。
私とは仕事の関係で付き合いが始まったのですが、仕事を離れてもこういうお付き合いができるのがうれしいです。

定年後にどういう生き方をするか、そこにその人のそれまでの人生が感じられるものです。
昨日お会いしたAさんの生活も感動的なほど、豊かです。
もう70才近いのですが、私の娘のスペインタイルの教室に通ってくださっているのです。
たまたま昨日、いらしていたのですが、私も自宅にいたので、教室終了後、コーヒーをご一緒しました。コーヒーが大好きなのです。
この人も大企業の役員だったのですが、そんなことは微塵も感じさせない、見事な人です。
退職後、仕事は一切やめて、自分の世界を楽しんでいます。
たとえばヘブライ語の勉強や陶芸などをやっているのですが、昨年からスペインタイルも学びだしたのです。そんなわけで、私の娘が「先生」なのです。
たまたまその人と私に共通の友人がいることがわかり、私もお付き合いさせてもらうようになりました。
お話をしていて、アッカド学などという話が、ごく自然に出てくるのです。
いま大学で学生たちと一緒に学んでいるのだそうです。
ともかくそういう学びの時間が至福の時間なのだそうです。
「社会には役立ちませんが」とおっしゃるのですが、実はこういう生き方をしていることこそが、もしかしたら社会に大きなお役立ちをしているように思います。
NPOだけが社会ではありません。自らの暮らしぶりからの情報発信もあるのです。
最近はシンプルな生活を目指し、自動車はもちろん自転車もやめたそうです。
歩いているといろいろなことがわかるし、いろいろな人に会えます、とおっしゃいます。
同感です。

高度経済成長時代を生み出し、そこを生き抜いてきた体験を踏まえて、どんな生き方をしていくか。
私の周りで、実に様々な生き方が広がりだしていますが、KさんとAさんの生き方は全く違うようで、私には同じ生き方のように見えます。
お2人は自らが納得した生き方をしているだけでなく、社会のあり方に強いメッセージを送り出しているように思うのです。
私はまだ、お2人の域には達していませんが、学ぶことがとても多いです。

■未開は文明から生じたもの(2007年1月18日)
文明退化論というのがあります。
ムー大陸を提唱したチャーチワードが有名ですが、他にも様々な論者が展開しています。
ムー大陸理論は大陸移動説など地球物理学の視点から今ではほとんど否定されていますが、全く否定されているわけではありません。
私は充分にありえる話だと思っています。
デニケンやウィルソン、最近ではグラハム・ハンコックなどの著作もまた、そうした論の一つといってもいいでしょう。
いい加減な話もありますが、すべてを否定する気にはなりません。
日本でも世界でも、超古代史の世界が大好きな私としては、いわゆる反「進歩主義」とは違う、文明退化論に大きな魅力を感じます。

私は、もっと短い私自身が実感できる「人生時間」においても、進歩よりも退化を実感しますが、進歩と退化は同じ事実の両面なのかもしれません。
チャーチワードは「未開は文明から生じたのであり、文明が未開から生じたのではない」と主張しています。
たしかに歴史的事実としても、アフガンやイランに見るように、あるいは南北アメリカに見るように、文明がある域を超えて破れると未開状況が発生しています。
一見、それは近代化の波に乗らなかった世界の状況との表層的類似点があるために、トルーマン以降の「開発」史観は、その文明を「未開」と一括してしまいましたが、表情の豊かさにおいては、そちらのほうがよほど豊かだったのかもしれません。
大文明が滅んだ時に、生き残った人たちが自分で生活する術を知らなかったから、わずかに残った道具にすがりながら、生き抜くしかなかった、というのがチャーチワードの考えです。
たしかに、各地に残るさまざまな遺跡を読み解く上では、こうした考えは有効です。
オーパーツという、歴史的にはありえない存在(たとえば古代ギリシア時代のコンピューターや南米の墓石に描かれた宇宙船、南極を正確に描いたピリ・レイス地図)もまた、その存在が納得できます。

パラダイムの転換とか発想の転換という言葉があります。
言葉はありますが、実際にこれを行うことは、そう簡単ではありません。
なぜならば、否定されている「非常識な前提」を受け入れるところからパラダイムシフトは始めなければいけないからです。
「常識」とは、思考を縮減するための知恵だと私は思っていますが、その「常識」を疑うことは行動の拠り所を自らが引き受けるということでもあります。
つまり自らが問われるということです。
それは結構大変なことなのです。
しかし、その一歩を歩みだすと、意外と新しい世界が開けることも事実です。
地球文明は私たち人類の祖先が育てたものという常識から自由になって発想してみると歴史がとても面白く見えてきます。いまの文明の危うさも見えてきます。

常識から解放される。
いま私たちに求められているのは、それではないかと思います。
そうすれば、不二家の問題も政治家の問題も、教育の問題も談合の問題も、すべてが素直に見えてきます。
裸の王様が素直に見えてくるのです。
そして社会が劣化し、私たちが退化していることもあながち否定できないことに気づくかもしれません。
そして、「進歩」に焦点を当てずに、「退歩」に焦点を当てると、新しい問題解決策が見えてくるように思います。
新しい文明は辺境から生ずるとよく言われますが、その意味もわかってきます。
常識の呪縛から解放されてみると、人生がとても楽しくなってきます。

ちなみに、コリン・ウィルソンの「アトランティスの遺産」(角川春樹事務所)の表紙に湖沼に浮かぶスフィンクスの絵が描かれています。
この本には、古代エジプト文明の前に、エジプトで栄えた「新文明」の話も載っていますが、この絵を見ているだけで、かつての超古代の世界が見えてくるような気がします。
私は時々、この絵を見ては、超古代から元気をもらっています。
いささか危ない話ですが。

■2つの価格方程式と不二家事件(2007年1月19日)
不二家のように、コストダウンのための不適切な経営行動に陥ってしまう企業が最近増えてきていますが、この一因は商品(サービス)の価格決定の考え方にあるのではないかと思います。
現在のビジネスの根底には、顧客満足と市場主義がありますが、その影響が価格決定方式にも影を落としています。
いや、そこにこそ、現在の経済システムあるいは経済学や経営学の問題が象徴されているようにも思います。

価格とコストと利益の関係は2つの対照的な方程式が成り立ちます。
20年前まで一般的だったのは、
コスト+利益=価格(価格方程式1)
でした。
これはフルコスト発想という考え方です。
私が会社に入った頃の価格決定の主流がこれでした。
コストをかけるほど、良い品質のものができ、利益も上がるという時代でした。
コストをかけても売れなければいけませんので、コストパフォーマンスが重要になります。
つまりこの方程式は、価格が「価値」に見合うかどうかがポイントなのです。

ところがある時期から、この価格方程式は通用しなくなりました。
代わって登場した価格方程式は、
価格−利益=コスト(価格方程式2)
です。
価格はコストと関係なく、市場の厳しい競争のなかで所与的に決まります。
そしてそこから利益を引いた範囲で商品をつくらなければならなくなりました。
そうしないと市場での価格競争に敗れるからです。
そしてコストダウンが最重要の戦略課題になってしまったのです。
ちなみ、行政や公益事業でも経営発想が必要だといわれだした当初の「経営発想」はコストダウンでした。
今でもそう考えている人は少なくありません。
いうまでもありませんが、コストダウンと経営とは全く違う概念です。

価格方程式2の場合に、どのようなことが起こるでしょうか。
ここでは価格方程式1の場合と違い、コストとパフォーマンス(品質)は切り離されてしまいます。
ともかく安くすること、所定のコストに押さえることが至上命令になります。
そこに耐震偽装事件が起こる素地が生まれます。
雪印の時も、日本ハムも、今回の不二家のケースも、こうした枠組みの中で意思決定が行われてしまうわけです。

おそらく不二家の事例は氷山の一角です。
価格競争の対象になった商品やサービスの世界では、同じようなことが多くの企業で行われているのではないかと思います。
そこから抜け出すためには、価格方程式を2から1に戻すべきです。

適正なコストと適正な利益。
これをみんなで守ることが大切ですが、そのためにこそ企業は透明性を高めるとともに、社会の評価を受けやすくしていくことが必要です。
それこそが本来のCSRであり、ブランディングではないかと、私は思っています。
その仕組みを創ることは、そう難しいことではないと思うのですが。
残念ながら時代の流れは、どうも違う方向を向いてしまっているようです。
まもなくまた壁にぶつかるのでしょうか。

■司法権の独立と刑法のパラダイム(2007年1月20日)
最近、刑事事件などの刑が軽すぎるのではないかと思っている人が増えているように思います。
犯罪者が数年して刑を終えて、その直後にまた犯罪を繰り返すというようなケースも増えているように思います。
生活の苦しさを考えると軽犯罪を犯して禁固刑になったほうが良いというような冗談もあるくらいです。
国民の多くが納得できない刑罰の制度は規範性を持ちえません。
なぜそうなっているのかについて、しっかりと議論すべきではないかと思います。
それは「法とは何か」という問題につながってきますし、社会の構成原理にもつながっている問題です。
もっと平たく言えば、法は誰のためにあるのか、という問題です。
これに関しては断片的にですが、何回か書いてきました。
誰のための法かによって、解釈も内容も変わってきます。
刑法を例に取りましょう。
かつての日本では、権力的な官憲による不条理な処罰が少なくありませんでした。
その名残は今でもかなり残っています。
刑事事件における冤罪はかなり多かったはずです。
そうした状況の中では、「疑わしきは罰せず」の法理と容疑者保護の仕組みが必要です。
したがって、処罰の刑量も上限を決めることが望ましいわけです。
法は、権力者に対する規制になるわけです。
いいかえれば、刑の上限が決められている法体系は強い権力者が社会を牛耳っている社会のものであるといえるかもしれません。
しかし、司法権が独立し、権力者の所属物でなくなり、
社会のメンバーが自立した存在になっている社会では、法のパラダイムが変わります。
主眼は容疑者保護ではなく、被害者保護になるはずです。
そこでは刑の上限ではなく、下限が基本になるはずです。
死刑の意味も変わってくるでしょう。
そして同時に、司法の世界の透明性や公開性、公正性や開放性が重要になってきます。
余談ですが、その段階で初めて裁判員制度は検討課題になるのだと思います。
今のパラダイムの中での裁判員制度は百害あって一理なしです。
社会の構成原理との形式的類似性はありますが、
司法制度のパラダイムとは逆に食い違っていますから、
ホリスティックな整合性がないのです。
昨今の制度改革は、そうしたことが多いのですが。
おそらく現在は、そうした社会のパラダイム、あるいは法原理のパラダイムが過渡期にあるのではないかと思います。
そのため刑罰が軽すぎるというケースが増えてきているのです。
いま交通事故による傷害致死事件の刑罰の上限が少し重くなる議論が出ていますが、そうした小手先の対処では効果は出てこないでしょう。
法の規範性がますます失われるだけです。
法原理のパラダイム議論をしっかりとするべき時期に来ているように思います。

■政治的に正しい表現運動への違和感(2007年1月21日)
人にはさまざまな違いがあります。
平安な社会では「違い」は個性として活かされ、競争社会では「違い」は差別につながっていきます。
差別をするのは多くの場合、多数派です。
人は自らを基準にものごとを評価し、社会の意識は構成員の評価基準の集合ですから、多数派と違う少数派は多くの場合、垂直的な差別の対象になります。
しかし、少数派が、権力や資産、知恵を背景に差別する側になることも少なくありません。
政治や経済の基本構造は、むしろこうした少数派による差別構造に立脚しています。
そこではさまざまな手段によって、差別が不可視化され無意識化されます。
時には被差別者を差別側に取り込んでしまうこともあります。
むしろ「支配構造」はそうしてつくられます。
北朝鮮の政治体制はわかりやすい実例です。
日本も今、そうした構造が広がっています。
アンタッチャブル層の虚構の創出も政治家がよく使う手です。
かつての「部落問題」ほどではないですが、今の日本の格差社会化の背景にも、そうした動きが垣間見えます。

最近良く使われる差別を隠蔽する方法の一つが、言葉狩りです。
この数十年で、タブー語として排除された言葉は少なくありません。
排除すべきは言葉ではなく実体ですが、言葉が実体を持続させるという論理で言葉が捨てられています。
それによって問題は見えなくなりがちですが、一時の満足感は得られます。

アメリカでは1980年代にPC語運動が広がりました。
PCとはパソコンの意味ではなく、Political Correctness(政治的に正しい表現)の略です。人種、性、身体、精神などの差別につながると思われる言葉を正しい言葉にしていこうという運動です。
有名なのは人類をmankindではなくhuman-beingsに置き換えた例です。businessmanもbusinesspersonに代わりました。障害を持つ人はchallengeする人になりました。
幸いに日本語はそうした「差別性」の少ない言語ですので、私たちは単なる言葉の問題だと思いがちですが、これはおそらく文化の問題です。
もっとも日本でのタブー語批判は、言葉だけのような気もしますが。

文化の問題は言葉や文学に象徴されます。
童話に関する新しい解釈の本が最近いろいろと出ていますが、これはとても示唆に富んでいます。自らの価値観を問い直す契機にもなります。
たとえば「白」と「黒」という言葉と色があります。
童話では必ず「白」が正義を示し、「黒」が悪を示します。
白雪姫は決して黒雪姫にはなりません。
スターウォーズのダース・ベーダーは黒装束です。
暗黒という言葉はありますが、暗白という言葉はありません。
もしかしたら、黒人の世界では、暗白という言葉があるかもしれませんが。

ところで、政治的に正しい表現というときの「政治的」とはどういう意味なのでしょうか。
ピアスの「悪魔の辞典」によれば、政治とは「仮装して行う利害得失の争い」「私欲のため国政を運営すること」とあります。とても納得できますが、そうは思いたくありません。
私は大学では岡義武教授の政治学を学びました。試験は「優」でしたが、余りわかりませんでした。
政治とは何か、に関する議論はこれまでも何回か起こっているようですが、定義議論こそが政治をだめにするという論もあるそうです。
定義はともかく、政治、politicの語源が古代ギリシアのポリスにあることを考えると、人間の共同体を維持するためのものであることは間違いなさそうです。
英和辞書によると、politicには「賢明な」と「狡猾な」という意味が出ています。他にも「適切な」「便宜的な」「思慮分別のある」「策を弄する」などがあげられています。実に意味の深い言葉ですが、なにやら胡散臭さを感じます。それが政治の本質かもしれません。

長々と書いてしまいましたが、今回、私がメッセージしたかったのは、「政治的に正しい表現」ではなく「政治的に正しい実体」に関心をもっと向けるべきではないかということです。
CWSコモンズの「折口日記」の最新記事に、先日八尾市で起きた「幼児投げ落とし事件」についての報道についての言及があり、そこに折口さんが、

「知的障害」がなんであるのかを知らぬまま、また「知的ハンディ」を持つ人とのかかわりさえ持たぬ人達が平気で発言する言葉の一人歩きが心配です。

と書いています。
本当にこうしたことが増えています。
問題がノーマライズした結果かもしれません。
教育再生会議の中間報告にも、それを感じます。

今日は、差別意識を消すもっともいい方法は、自分がその立場に立ってみることだということを書こうと思っていたのですが、いつものように最初の思いとは違う内容になってしまいました。これだけ長く書いてもそこにたどりつきません。困ったものです。

■「司法改革」のドキュメントを読みました(2007年1月22日)
いま日本の司法制度が大きく変わろうとしています。
関係者によれば、明治維新、戦後改革に匹敵するほどの改革だそうです。
その改革に大きな影響を与えたのが日本弁護士連合会(日弁連)です。
日本の司法制度改革の幕開きは1990年だったそうです。
その5月に行われた日弁連の定期総会で「司法改革に関する宣言」が採択されたのです。
私は法曹界とは裁判官も検事も弁護士も同じ仲間だと考えていましたが、どうもそうではなく、その宣言のはるか前から、日弁連は司法権独立の強化と民主化促進に取り組んできており、しかも「法曹一元化」を提案しつづけていたようです。
これは私の認識不足でした。
日本の法曹界は裁判官を頂点にして、自らの権益を守り、汗して働いている国民のことなどは真剣に考えていない人たちが主流を占めているものとばかり思っていました。
日弁連が、戦後すぐに司法改革に取り組んできたとは知りませんでした。
反省しなければいけません。

上記のことを知ったのは、間もなく出版される「司法改革」(大川真郎著 朝日新聞社)を読んで知ったことです。
「司法改革」の著者の大川さんは、私の大学の同窓生です。
私は検事になりたくて法学部に入りましたが、司法試験の無意味さを、少し早とちりしてしまい、その道を早々と放棄した、いわば脱落生です。
その対極にいたのが、大川さんです。
大川さんと再会したのはつい数年前です。
当時、大川さんは日弁連の事務総長でした。
まさに司法改革の中心で激務に取り組んでいた時だったのです。
その時も「司法改革」に取り組んでいる話はでましたが、どうせ行政改革や政治改革のような実体のないものだろうと私は思っていました。
法曹界の既得権者たちが「改革」に取り組むはずがないと考えていたのです。

私は裁判官はもちろんですが、弁護士にもかなりの「偏見」を持っていました。
弁護士の友人知人は少なくないのですが、付き合いたくないという思いがどこかにありました。
しかし、最近、感動的な弁護士に何人かお会いする機会がありました。
どうも私の弁護士嫌いは学生時代からの先入観だったのかもしれません。
何しろ私は検事志望だったのです。

しかし、裁判員制度に関しては、私は反対論者です。
大川さんともそんな話をしたこともあります。
そのせいでしょうか、大川さんが「司法改革」を送ってきてくれたのです。
ちょうど受け取った日に、このブログ「司法権の独立と刑法のパラダイム」にトラックバックがありました。
裁判員制度徹底糾弾というブログです。
http://cgi.members.interq.or.jp/enka/svkoya/blog/enka/archives/2007_1_20_513.html
それもあって、ブログに「司法時評」というジャンルを新設しました。
過去に書いた司法関係の記事を、改めて自分でも読み直してみました。
よくまあ口汚く書いているなあと我ながら少し反省する一方で、大川さんにも一度読んでもらって感想を聞きたいと思っていたのです。
まさにシンクロニシティです。

そんな状況だったので、すぐに読み出し読了しました。
いかにも大川さんらしく、主観的評価を抑えて具体的かつ資料的な司法改革の経緯を誠実に書いています。
そのため、正直に言えば、法曹界以外の人には難解で退屈なのですが、その分、大川さんの情念や思いが見えてきます。
視点はいうまでもなく、日弁連の視点ですが、自らに対しても厳しい事実や資料もきちんと掲載しています。とてもフェアで好感が持てます。
司法改革の本質が少し垣間見えたように思います。
大川さんは、おわりに、こう書いています。

司法改革は、ある特定の組織や勢力がすべて計画し、遂行したのではなかった。(中略)司法にかかわる様々な組織・機関、さらには個人が、21世紀のあるべき司法を目指して、さまざまな立場でせめぎあい、最終的には妥協し、改革の中身が決まったのであった。(中略)しかし、日弁連が司法改革にこれほどの取り組みをしなかったとしたら、できあがった改革の中身は、相当ちがったものになったと思われる。

本書を読むと、その意味がわかります。
そして彼はこう続けています。

日弁連の目的は、すべての人々が個人として尊重される社会を目指し、そのために「法の支配」を社会の隅々まで及ぼすことにあった。この点で日弁連が牽引車として大きな役割を果たしたからこそ、抜本的な改革がなされ、「市民のための司法」がここまで実現したといってよいであろう。

本書の副題は「日弁連の長く困難なたたかい」です。
日弁連の中心になって、改革に取り組んだ弁護士の苦労は大変なものだったことがわかります。

「市民のための司法」。
それがどういうものか、私にはまだわかりませんが、
しかし、否定的に見るだけではなく、もう少し改革の実体を理解してみようと思います。
司法を私たち生活者のためのものにするには、肝心の私たちがその気にならなければいけません。
単なる批判からは何も生まれないからです。
ただ、今の段階では、これまで書いてきた司法批判は撤回する気にはなっていません。
裁判員制度も大反対であることには変わりはありません。

ちなみに、この本はじっくりと読むと面白いと思います。
大川さんの前著「豊島産業廃棄物不法投棄事件」(日本評論社)もそういう本でした。

■学校の先生をなぜみんな信頼しないのでしょうか(2007年1月23日)
私が物事の真偽を評価する時の基準は簡単です。
当事者が本当に関わっているかどうかです。
ですからたとえば、昨日の「司法改革」で、日弁連が「民の司法」と表現している時に、「民」のだれが直接参加しているかが、私の評価の基準です。
当事者が参加していない場合は、疑いを持って吟味します。
「○○のため」という輩は、これまでの私の体験ではほとんどが信頼できません。
「社会のため」「会社のため」もそうです。

そういう視点で考えると、いま話題の「教育再生会議」の議論は茶番劇にしか見えません。
教育改革を考えている人たちは、子どもたちのことをどのくらい知っているのでしょうか。学校のこともですが。
それにいくら立派な政策を打ち出しても、現場で子どもたちに接する先生たちに共感を持ってもらえなければ、実効はあがりようがないはずです。
そんなことすら考えずに、教育改革などを唱える人たちの目的は明確です。
子どもたちのためではないのです。
もし本当に学校を変えていきたいのであれば、学校の現実をしっかりと把握することから始めるべきです。
有名人であるだけで選ばれた委員は誠意があるのであれば辞退すべきです。
それこそがこの国をまともにするための第一歩です。

いじめが問題になると、決まって校長は否定しますが、いじめを直視している先生の声はきっと抹殺されているのでしょう。
現場でしっかりと子どもたちに付き合っている先生であれば、わかるはずです。
もし仮に本当に誰にもわからないのであれば、それはその学校の仕組みが悪いのです。
その悪い仕組みをなくすることから始めればいいのです。
仕組みを変えられるのは、それぞれの学校の現場の先生たちのはずです。
改革には難しい議論や仕組みは不要です。
しっかりした方向性を打ち出し、現場の人たちがその実現に向けて本気になれる状況をつくればいいのです。

しかし、親たちもなぜ子どもを預けている先生を信頼しないのでしょうか。
親と先生の間に信頼関係がなければ、学校が子どもたちにとって安心できる空間になるはずがありません。
学校改革、教育改革の主役は、親と先生です。
つまり昔風に言えば、PTAです。
PTAが出てこない教育改革案は実効性がないと思います。

私は日教組には特別の感情はありませんが、学校の現場で汗している先生たちが主役になっての改革でない限り、改革などは絵空事でしかありません。
現場情報を一番持っている先生たちが中心になって、子どもたちも参画したかたちでの教育再生プロジェクトが実現しないものでしょうか。
現場を知らない有識者たちの机上の議論は、そろそろやめられないものでしょうか。

日教組はもっとがんばってほしいものです。
もっとどんどん情報発信していってほしいものです。
どうせこれからは納得できる教育は行えなくなるのですから、解雇される前に学校の現実をもっと社会に公開していくことはできませんか。
社会のためでも、子どもたちのためでもありません。
あなた自身の人生のために、です。

タウンミーティングではなく、もっと開かれた公開フォーラムを毎週、学校で開催したらどうでしょうか。
PTAが協力したら、いくらでもできると思うのですが。
渦中の人が主役になって動き出さないと改革は起こりません。
「改革」もまた「自動詞」で語る言葉だと思います。

■そのまんま東さん知事就任への賛否(2007年1月24日)
そのまんま東さんが宮崎県の知事になりました。
出馬した時に私は大きな違和感を持ちましたが、
最近の報道情報から時間をかけてしっかりと取り組まれてきたことを知りました。
しかし、にもかかわらず違和感は消えませんでした。

今日、家族でテレビを見ながら、もし私が県の職員で突然に彼が知事としてやってきたら、おそらく辞表を出すだろうと、ついつい発言してしまいました。
テレビでは、東さんの挨拶を神妙に聞いている県庁職員の姿が映っていましたので、ついでにこの人たちも心の底ではそう思っているだろうなと、これまた余分なことを言ってしまいました。
その途端、女房と2人の娘から手厳しい反論が出てきました。
タレントという職業を差別している。
目線が高くて、自分だけが正しいと思っているのではないか。
この数年の彼のまじめな取り組みを知っているのか。
職員の気持ちまで決め付けるのは傲慢だ。
などなど。
いやはや、徹底的に3人からやり込められました。
30分近くの大論争になってしまいましたが、結論的には私が完敗してしまいました。
かなりむきになって反論してしまったのですが、女房からもう少し冷静になったらといわれました。
冷静になるまで10分くらいかかりました。
いやはや困ったものです。
わずかに賛成してもらったのは、お父さんなら辞めるだろう、ということだけでしたが、それも私への批判的な意味での賛成です。私の生き方への批判のようにも聞こえました。
父親の権威はどうやらまた大きくダウンしてしまいました。いやはや。

ところで、私の違和感の理由は、テレビで大きな影響力を発揮できる立場にいた時に、何をしていたかということと、これから立ち向かおうという仕事への思いの格差なのです。
タレントが悪いわけではありませんが、もし世直しや社会変革を考えるのであれば、それぞれの立場でできることはたくさんあります。
特にメディアでメッセージを送れる立場にある人たちが、もし「政治」への関心を持っているのであれば、自らのテレビでの言動に思いを込めるべきです。
そして行動を起こすべきです。
テレビの番組でも、充分に社会活動も政治活動もできると思うのです。
しかし、先ずタレントで知名度を上げてから、政治の世界に入るという発想は、どこかに違和感をもってしまいます。
タレントという職業を蔑視しているわけではありません。
タレントでも知事でも政治家でもキャスターでも、それぞれの分野でもっと誠実に、真剣に、社会活動をし、政治活動をしてほしいと思うのです。
娘が、タレントが政治家になるのよりも、政治家がテレビでタレントまがいをしているほうが問題ではないかといいました。もちろん私もそう思います。
タレント議員よりも、議員タレントのほうが、私にも違和感は大きいことは、これまでも書いたことがあります。
しかし、有名なタレントが選挙に出ることには大きな違和感があります。
どう考えてもフェアな選挙にはならないような気がするのです。
みなさんはどうお考えでしょうか。

ちなみに、宮崎県民の選択は納得できます。
私も県民であれば、そのまんま東さんに投票したでしょう。
しかし、県庁職員であれば、・・・・・。
冷静に考えると、迷いますね。
この文章を書き出したときには、まだ辞めると書ききるつもりだったのですが。

とここまで書いたところに、女房がやってきました。
辞めるよりも、新しい風を起こしたいのならば、
知事を活かす努力をすることこそが、あなたがいつも言っていることではないのか。
というのです。
はい、そうでした。忘れていました。
事実をきちんと受け止め、変えられない事実は活かしていくこと。
http://homepage2.nifty.com/CWS/keieiron12.htm#07
それが私の目指す生き方でした。
言っていることとやっていることが違うと、また娘たちから糾弾されそうです。

というわけで、今日は娘たちと女房に教えられました。
このブログも、どうやら私の一人よがり記事が多いかもしれませんね。
自信をなくしそうです。

ところがよくしたもので、夕方、ある大企業の部長からメールが来ました。
そこにこう書いてあるのです。

CWSプライベートを81歳になる私の父に読ませたところ、感激していました。
これからも思っていること、怒っていること、考えていることをどんどん載せてください。父とともに楽しみにしております。

すぐその気になるのが、私の良いところです。
懲りずに書き続けることにします。はい。

■学校を良くする方法(2007年1月25日)
一昨日の記事にコメントがありました。
コメントはなかなか読んでもらえないこともありますので、ここに勝手に再録させてもらいます

私も今ある学校の推進委員というのをしているのですが、そこで見る現場の先生は、仕事が多くて消耗しているサラリーマン、という印象でした。
こんなに余裕が無くて、一人ひとりの生徒に目配りする余裕があるものだろうか、と疑問に感じました。
さらに、たとえ先生にやる気があって、生徒のプラスになることをしても、それが必ずしも先生の評価につながらないような仕組みも問題だと思いました。
いろいろな「悪い仕組み」をどうやって作り変えるのか?とても難しい問題です。

そのヒントになることを、ある委員の大学の先生が教えてくれました。
ある風紀が乱れた学校で、親たちが立ち上がり、全生徒の家庭を訪問し、そこの親に一緒に子供の指導をしっかりやりましょうと話し込んでいったとか、それで数ヶ月で学校が見違えるようになった。というような話でした。
親が本気になること、というのが解決の糸口なのかもしれません。

とても納得できる話です。
こういう動きは、もしかしたら各地にあるのかもしれません。
しかしテレビではあまり報道されないような気がします。
私の見落としかもしれませんが、こういう事例こそをテレビはもっとどんどんと伝えていってほしいです。
悪い情報だけではなく、良い情報のほうを、最近みんなは求めているのです。
例外的な事件が多くの場合、ニュースになります。
例外現象と標準現象が、いまや今や逆転しているのです。
その変化に気づいてほしいです。

これは女房から聞いた話です。
女房の友人が娘の学校の授業参観に初めて参加したら、授業中に生徒たちが席を立って、勝手に動いているのだそうです。先生が注意しないので、驚いたそうです。
私は親が注意すればいいだけの話だと思いますが、親も注意しなかったのでしょうか。
もし私が、そうした授業に参観したとして、離席したのが自分の子どもでない場合、注意したでしょうか。
注意すると胸をはって答えたいですが、実際の現場になると100%の自信はありません。なにしろ電車の中での隣席の女性の化粧行為にも注意できないでいますので。
みんな問題の解決を誰か他の人に期待してしまう。
これが最近の動きかもしれません。

まずはそうした生き方から抜け出そうと思っています。
化粧行為への注意は今やできなくなってしまいましたが(今や車内の化粧は「常識」になってしまっているようですので)。

■介護の社会化の虚構(2007年1月26日)
高齢社会の到来に向けて20年ほど前から「介護の社会化」が主張されだしました。
その一つの成果が「介護保険制度の導入」といっていいでしょう。
介護問題はいまのような核家族社会の中での家庭では解決しようがなく、しかもその負担が女性に覆いかぶさるということで「介護の社会化」が勢いをつけてきたわけですが、それに関しては否定しようがないことだったと思います。
しかし、「介護の社会化」の唯一の方策が、今の介護保険制度や福祉制度であるわけではありません。そもそも「社会化」などというあいまいな言葉は気をつけておかないと危険です。
介護の社会化を大義にした介護保険制度に関しては、たとえばこんな意見もあります。

 実際に施行され、その全体像が浮き彫りになってくるにつけ、この介護保険は、われわれ国民を「介護の社会化」という幻想をダシに、高齢者や低所得者などの弱者を切り捨てたとんでもない制度であることが現場で介護に携わる者には明らかになってきた。ホームヘルパーをはじめ介護現場では江戸時代につくられた「生類憐れみの令」以来の悪法とさえ囁かれているというが、家族介護者にとっても近年にない不公平・非効率の悪法と言わざるを得ない。

「現金給付を求める家族介護者の会」世話人の松井省吾さんのホームページからの引用です。書かれたのは2002年です。
続きを読みたい方はぜひホームページにアクセスしてください。
http://www.fujinsya.co.jp/index.html

「生類憐れみの令」以来の悪法とは、さすがの私も驚きましたが、共感できるところも少なくありません。

「社会化」とは何か。
単なる問題解決をするために制度をつくることではありません。
「介護の社会化」に関して言えば、「介護問題を解決できる社会をつくること」だと思います。
社会は人の集まりです。
私の知人の川本兼さんは「2人いれば社会が生まれる」という視点で、新しい「新社会契約説」を唱えています。(「どんな世界を構想するのか」明石書店)とてもわかりやすい本ですので関心があればお読みください。
家庭も地域社会も「社会」です。
昔はそうした社会で、子育ても高齢者介護も障害支援も行われていました。
つまり福祉とか介護はもともと社会的に行われていたのです。
それが人間という種が他の生物を押しのけて大きな存在になってきた大きな理由ではないかと私は思っています。
つまり、愛を制度化したのです。
ところが、この50年の日本はそれを壊してきました。
徹底的に壊れたのはおそらく1990年ごろからでしょう。
最後まで何とか残っていた企業と行政が壊れてしまったのです。
1990年頃を境に、日本の企業も行政も変質してしまったような気がします。

「社会」を壊しながら、解決できなくなった個別問題に対処する制度をつくり、そこにビジネスを発生させる。まさに「産業のジレンマ」の典型的な事例です。
最近、老老介護の厳しい現実が良く話題になりますが、その基本にあるのは、家族や血縁社会、地域社会などといった、人間的なつながりを軸にした社会の崩壊です。
その問題に目を向けることが大切です。
その問題から解いていけば、きっと他の問題、たとえば教育の問題も今とは違った「再生のシナリオ」が見えてくるはずです。
介護保険制度もきっと今とは違うものになっていくでしょう。
そういえば、学校もまた、本来は人間的なつながりを軸にしたあたたかな社会だったのではないかという気がします。

■鳥インフルエンザの犠牲になる鳥たち(2007年1月27日)
また、宮崎県で鳥インフルエンザによる大量死が起こりました。
調査結果次第では、殺処分するなどの防疫措置としてまだ元気な大量の鳥が処分されることになります。
この数年、病気を理由にした家畜の大量殺処理が頻発しています。
そのニュースを聞くたびに、悲しくなるだけでなく、恐ろしさを感じます。
人間の場合は罹病すると治そうと努力してもらえますが、家畜は処分されるのです。
身の毛の立つほどの恐ろしさを感じますが、それが堂々と報道されるのです。

まだ罹病していない鳥や牛が防疫のために殺される。
これをどう考えるべきでしょうか。
私には答が見つかりませんが、しかし、殺すことはないだろうと思ってしまいます。
同じ「生命体」として、生命を活かすことをベースに考えられないものでしょうか。

私がこうした大量の家畜の処分や野菜の廃棄に恐ろしさを感ずるのは、生命を粗末にする社会は、自らの生命をも粗末にすることにつながるのではないかと思うからです。
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せにならないと自分の幸せはない」という時の、「みんな」には鳥やキャベツの幸せは含まれないのか。

テレビでそうしたニュースをみる度に思い出すのが、モンクの遺作映画「パサジェルカ」の一画面です。
収容所のユダヤ人たちが列を組んで、静かにガス室に入っていく光景です。
人間も時には処分されてきました。
いや過去形で語るべきではないかもしれません。

アメリカ大陸の「開拓時代」に白人によってネイティブのアメリカ人の98%が殺されたということを昔呼んだことがあります。98%というのはいかにもすごい数字ですので、私の記憶違いかもしれませんが、かなりのネイティブ、いわゆるインディアンが殺されたのは事実でしょう。
南米でもアフリカでもオセアニアでも、かなりの人が殺害されました。
家畜の処分と同じだとは言いませんが、違うとも言い切れません。
私たちはいまもこういう、防疫処分行為を続けているのかもしれません。
ブッシュがその推進者というのは論理の飛躍でしょうが、何か無縁でないような気がして仕方がありません。

家畜の大量処分ニュースを聞くたびに、こんなことを考えます。
そして家畜や野菜を育ててきた人たちの哀しさに手を合わせています。
どこかで何かが間違っているような気がしてなりません。
この先に、自分たち自身を処分する私たちの歴史が見えてくるのは、私だけでしょうか。

■希望と生命:「希望サロン」の呼びかけ(2007年1月28日)
今日はちょっと「暗い書き込み」です。
昨日、「パサジェルカ」に言及したのですが、正確だったかどうかが心配になり、確かめたくなりました。私の記憶はかなり最近危ういですので。
手元にあるDVDで画面を探したのですが、確かにユダヤ人たちは整然とガス室に入っていくのです。まあ、これは映画ではありますが。
希望がないと死は怖くはないのです。
だから自爆テロもできるのでしょうか。
そこでは「死」が「生」に転化するのかもしれません。

映画ついでに「ソラリス」のことも書きます。
ロシアのSF作家レムの作品「ソラリスの下で」の2回目の映画化作品です。
原作の小説は、私がSFに目を開かれた作品で、私には思い出深い作品なのです。
最近映画のリメイクが増えていますが、私の感覚がついていけないのか、退屈なものが多いです。リメイク版のほうが面白かったのは、「オーシャンズ11」くらいでしょうか。他は愚作としか思えないものばかりです。
「ソラリス」も最初の作品のほうが面白かったですが、最近、テレビで「ソラリス」が放映されたの、ついつい見てしまいました。ところが、見終わった後、またまたアウシュビッツを思い出してしまいました。いいかえれば「希望」の意味を考えさせられたということです。
私の勝手な解釈ですが、人は「希望」が見えなくなると「生命」への執着がなくなってしまうということです。その時点で「生命」の輝きも消えてしまうのかもしれません。
逆に希望が芽生えると、生命を超えて、生きてしまうというようなことが起こってしまうのです。
意味不明で何を言っているのかわからないという方は、ぜひリメイク版「ソラリス」を見てください。

今年は、「希望の年」にしようと決めたのですが、希望とは結局、生きるということではないかと気付きました。
言い換えれば、相手から「希望」を奪ってしまえば、自在に操作することができるということです。また、自らの「希望」を捨てれば、主体的には生きられない存在になってしまうということです。
どうも回りくどい言い方になってしまいましたが、もしかしたら、いま私たちは「希望」を奪われ、「希望」を捨ててしまっているのではないか、という気がしてきました。
どうやら私だけが「希望」を見失っていたのではなく、社会が「希望」を忘れてしまっているのではないか、そんな気がしてきました。
小難しいことを書いてしまいました。
「希望」を語り合うサロンをやはり開きたいと思います。
どなたか一緒にやりませんか。
しっかりと自らを生きるために。
連絡をお待ちします。

■「自分の意見を言う自由」のない政治空間(2007年1月29日)
角田義一参院副議長が政治資金不記載問題で副議長職を辞職しました。
国会が開催される、まさにその時という、絶妙のタイミングに問題が顕在化したわけですが、これは偶然ではないでしょう。
角田さんは、誰も引き受け手がいない連合赤軍事件の国選弁護人として彼らの弁護士役を引き受けた人だそうです。いわゆる「左派」に属する人です。
それはそれとして、国会議員にまつわる問題指摘は、実に見事なタイミングで行われることが多いように思います。
同じような問題を抱えている人が少なくないなかで、ある人に目標が絞られ、追い込められていく。つまり、これは社会操作の典型的な事例ではないかと思えて仕方がありません。
企業不祥事などでも、そういう印象を持つことは少なくありません。

ところで、久間章生防衛相の最近の発言が話題になっています。
24日にはイラク戦争を起こしたのは間違いだったといい、27日には普天間飛行場問題でアメリカ批判をしました。
この意味はなんなのでしょうか。
いろいろなことが考えられます。
昔、「陰謀のセオリー」という映画がありましたが、最近の日本の政治状況を見ていると、何かそんな裏話を疑ってみたくなることが多いです。

もしそれが考えすぎであるとすると、
また別の意味で、久間発言事件は考えさせられることが多いです。
一言で言えば、日本の政治空間には「自分の意見を言う自由」がないということです。
先の郵政民営化問題は、その象徴的な事件でした。
しかし自由の議論ができないのであれば、議員などは不要だと思うのですが。
毎日新聞によれば、安倍首相は「対米関係上、久間氏の発言を不安視している」そうです。
それもまた象徴的な話です。
自らの主張を述べることが、社会的抹殺や生物的抹殺につながるのが、今の日本社会だとは思いたくありませんが、そんな事件が増えているように思います。

ちなみに、考えすぎだと思われていた「陰謀のセオリー」の主役のタクシードライバーは、結局は正しかったのですが、私の考えすぎは間違いであることを願っています。

■死んだ学力と生きた学力(2007年1月30日)
たまには社会と無縁な世界の話を書きます。
今日、水谷千秋さんの「謎の豪族 蘇我氏」を読んでいて、葛城氏は「氏制度」が広がる前の豪族なので、その実態が把握しにくいという文章に出会いました。それで、鳥越憲三郎さんの「葛城王朝」を思い出しました。
もう30年以上前の本ですが、鳥越さんの著書「神々と天皇の間」のなかに出てくるのが「葛城王朝」です。この言葉に出会った時に、すごくわくわくしたのを今でも覚えています。王朝交代の歴史にはドラマがあります。
その本の数年後に、鳥越さんは「大いなる邪馬台国」という本を出されました。それは「物部王朝」の物語でした。大和朝廷以前に存在した、もうひとつの日本の王朝です。とても説得力がありました。
そして、その後、葛城王朝や物部王朝を統合した「蘇我王朝」があったと私は思っていますが、万世一系の天皇家の歴史と考えるよりも、こうしたさまざまな王朝の物語の集積として、日本の古代史を読み解いていくと歴史はわくわくするような輝きを感じさせてくれます。
しかも、その広がりは日本列島に留まるものではありません。
いま以上に、古代の日本はアジアとの交流が深かったという前提で考えると、古代史の物語はさらに壮大に広がります。
聖徳太子が突厥の人という説もありますし、天武天皇は高句麗の王子、天智天皇は百済の王子という説もあります。物語の舞台は、日本列島などには閉じ込められてはいないのです。言い換えれば、昨今のように国家などという枠にはこだわっていないのです。
これが世界の古代史になると、もっと壮大です。文明はシリウスから来たという話もあります。
こういう壮大な話を読んでいくと萎縮した頭脳が活性化されるのです。
私たちが学校で学んだ歴史は、その後、大きく変化しています。
大化改新の存在も危うくなり、志賀の島から発見された金印も偽造説が出ています。物部氏が仏教に反対したことも否定されだしていますし、山背大兄王の人格には疑問が出ています。スフィンクスの建造も1万年前にさかのぼりそうですし、シュメールの文化はまだまだ奥が深そうです。人類の誕生物語も変わってきています。
とまあ、こうして学校で学んだ常識的歴史観をはずしてみると、歴史の風景は大きく変わります。
それがどうしたといわれそうなので、蛇足をつけます。
学校で教える知識には行動を抑制する機能と行動を支援する機能があります。
試験のための知識は、与えられた正解に呪縛されるため世界を見る目を曇らせる恐れがあります。しかし、学び方を支援するための知識は、学ぶ面白さを教え、世界を見る目を輝かせます。
その好奇心を鼓舞し、世界を見る目を養うことを「学力」というべきではないかと思いますが、今の「学力」は呪縛される知識を覚えることなのです。
柳沢厚生労働大臣の言葉を借りれば、子どもたちは「知識を詰め込む機械部品」なのかもしれません。
学ぶことが楽しくなるはずがありませんし、学校は工場のようになってしまいます。
最近の教育再生会議の提案は、どこを目指しているのでしょうか。
およそ教育とは無縁の人たちが多いですから、今の学校からは「自由」になれるのかもしれませんが、視点において呪縛されているような気がします。
この提言を実現したら、きっと学校は効率の良い工場に変わるのかもしれません。彼らが目指している生き方のように。死んだ学力は向上するかもしれませんが、生きた学力はどうなるのでしょうか。
学ぶことの楽しさや喜びを広げていけない学びの場になっていることが、今の日本の最大の問題のように思えてなりません。
みんな、学力をはき違えているのではないでしょうか。

あれ、今日は社会と無縁な話をする予定でしたが、いつの間にかまた社会問題になってしまっています。
なかなか社会の呪縛からは自由になれません。

■法に違反していなければ胸をはれるのか(2007年1月31日)
相変わらず国会の議論では、違法なことはしていないとか、法の範囲でやっているとか、大の大人が恥ずかしげもなく、答弁しています。
柳沢大臣の発言は、別に法に反していたわけではありません。
だから許されるのでしょうか。
そうした実例が、いま目の前にあるにもかかわらず、事務所経費に関する答弁では、相変わらずそんな答弁が行われているわけです。
彼らの頭は一体どうなっているのでしょうか。
少しは知性とか思考力とかいうものがあるのでしょうか。
これは「恥の文化」とか「罪の文化」とかいう以前の問題です。

企業でもコンプライアンスとか遵法精神とか盛んに言われていますが、ともすると、それは法に抵触せずにどれだけ悪さができるのかということに知恵を出すことの意味になりかねないのが、いまの日本社会です。
だからこそ、今回の司法改革でも「大きな司法」が話題になっているわけですが、いかにも残念で仕方がありません。
遵法などという、いわずもがなのことをいう企業は信頼できませんし、違法行為はしていないと抗弁する人はそれだけで信頼に値しないでしょう。
法には反していないという言葉は、やましいことのある人の常套句でもあります。
やましいことがなければ、むしろ「法に反しているかもしれないが」というような気もします。
つまり、法とやましさの階層構造でいえば、本来は後者のほうこそが上位概念ではないかと私は思います。
それでは秩序維持が難しくなってきたので、やむを得ず判断のよりどころとしてルール化したのが法律ではないでしょうか。
その構造が逆転しているのが今の日本社会です。

それにしても、国会の議論は本当に無意味な時間の浪費ですね。
あんな形で意味のある議論ができると、一体誰が思っているのでしょうか。
小学校の話し合いでも、もう少しは真実味があるのではないでしょうか。
いや、最近の学校の議論は国会並みの低次元になっているかもしれませんね。
テレビの影響は本当に恐ろしいです。

■柳沢大臣の発言が意味すること(2007年2月1日)
柳沢発言事件をめぐる国会議員の発言で気になることがたくさんなります。
たとえば、首相は「不注意な発言をしないように」と閣僚に注意したそうです。
どこか違和感のある発言です。
大本を正すことなく、発言に注意せよというわけです。
言い方を変えれば、「うまく騙せよ」と奨励しているわけです。
ここにすべての問題が象徴されているような気がします。

柳沢大臣の辞任や解任を求める議員の発言も、私にはなにやら違和感があります。
たとえば、「女性を代表して」という辻本さんの発言には素直にはうなずけません。
わざわざ代表する必要はありません。
こういう発想が個人を傲慢にさせます。
彼女は前回の自らの事件の意味を全く理解していないのでしょう。
それに代表するにしても、なんで「女性」なのか。
つまりこの発言は「女性を侮辱した」発言だと受け止めているようです。
たしかにそうですが、それだけではないでしょう。
そうした発想と柳沢発言のもとにある発想はつながっているような気もするのです。

こういう大臣がいる限り、国会審議には応じられないというのもよくわからない議論です。
もちろん、議論するのにふさわしくない相手とは議論しない、というのは理解できますが、この場合は当てはまらないでしょう。
それにこの問題もただ「辞任」を唱えるだけではだめでしょう。
何が問題かが、明確にされていません。
こうした事件が起こると、野党は必ずといっていいほど、抗議的な姿勢で権力闘争に持ち込みます。
問題の議論はほとんどすることがありません。
与党もまた選挙対策の視点からしか問題を受け止めません。
いずれの側も問題の大本などは関心がなく、波風が立ったことを利用しているだけの話です。
ですから事態はなにもかわりません。
そして形式的な男女平等参画とか少子化対策とか、ほとんど意味もない法律や政策提言を出しつづけるわけです。
本気で、問題の大本を議論しようなどという人はいないのでしょうか。

ところで、こうした批判は、私自身にも向けられています。
娘から、男性たちで本当に怒っている人はどのくらいいるか。お父さんだって、こういう発想がゼロではないでしょう、といわれました。それも具体的な私の言動を例示してです。心外ですが、冷静に考えれば娘の指摘は正しいのです。
もしかしたら、女性だってどうかわかりませんね。

みなさんはどうでしょうか。
そもそも少子化問題の最初の取り上げ方は、労働人口と消費人口が企業経営にマイナスだというところからだったと記憶しています。
今もその延長で議論されていますから、柳沢さんの考えは決して特殊例外ではないのです。
長く男性社会といわれる状況が続いていましたし、実態としてはいまなおその要素はかなり残っています。
そうした環境で育っていると、どうしてもみんなの発想の大本に女性蔑視の視点がうまれるのかもしれません。
それをうまく使い込んで成功する女性たちも少なくないわけですから、それがすべて男性を利しているわけではありません。

しかし、たぶんそうした社会はそろそろ限界に来ているように思います。
少子化は、その一つの現れでしょう。
社会原理の大本から変えていかなければ少子化の流れは変わらないように思います。
児童手当を増額したり、保育支援の仕組みを充実したりすることも大切ですが、社会のあり様を真剣に考えることも大切です。

先ずは自らの生き方を見直してみることから始めるのがいいです。
さて今日は家の掃除から始めましょうか。

■自由の牢獄(2007年2月2日)
ミヒャエル・エンデといえば、「モモ」や「エンデの遺言」で有名ですが、彼の小品に「自由の牢獄」という作品があります。

インシアッラーという盲目の乞食が、イスラムの教主に語った体験談の話です。
彼は若い頃、ギリシャ哲学に心酔し、イスラムの戒律を守らず、ラマダンの最中も勝手気ままに飲み食いしていたために、召使たちに逃げられてしまいました。
その彼の所に、ある日、悪魔がやってきます。
そして気がつくと彼は丸天井に覆われた広大な円形の部屋の中にいました。
部屋には窓がなく、代わりに同じ形の111(オリエント数学で狂気を意味する)の扉で囲まれています。
そして悪魔の声が聞こえてきます。
「ある扉の向こうには楽園が、別の扉の向こうには財宝が、また別の扉の後ろには食人鬼がいるかもしれない。どの扉を開いて、外に出るかはお前の自由だが、どれかを選んだ途端に、他のすべての扉は永遠に閉ざされる。つまり他の扉の後ろに何があるか永遠に分からなくなる」

あなたならばどうしますか。
生命さえも賭けなければならない自由とは難しいものです。
インシアッラーは選ぶ決心がつかず、数日がたちます。
日がたつにつれて扉の数が毎日一つ減っていくことに気がつきます。
早く選ばなければ扉はどんどん減るぞ、という悪魔の呼びかけにもかかわらず、彼は決断ができません。
そしてついに扉は1つになってしまいます。
しかし、今度は開けるべきかいなかの決断ができません。
111であろうと1つであろうと、実は同じことなのです。
それに気づき、結局、インシアッラーは扉を選ばないで、その場所に残ることを決めるのです。
そして翌日、目覚めると、扉は一つもなくなっていたのです。
そして、彼は初めて彼はアッラーに帰依します。
たくさんの扉があれば選べず、一つしかなくても開くべきか留まるべきか選べず、ついに扉がなくなり選択の自由がなくなったときに初めて心の平安を得たのです。
インシアッラーはこう言います。
「完全な自由とは完全な不自由なのだ」
その次の瞬間、彼は盲目になってバクダッドの門の前にいる自分に気づくという話です。
紹介の仕方があまりうまくないのですが、10数年前に読んだ時からずっと頭に残っている話です。

私たちはいま、無数の扉のある「自由の牢獄」にいるのかもしれません。
扉を開く勇気を持たなければいけません。
もし神に帰依しないのであれば。

■裁判員制度よりも裁判の透明性の実現を(2007年2月3日)
内閣府の世論調査によれば、「裁判員制度について8割の人が制度が始まることを知っていたが、3人に1人が「義務でも参加したくない」と答え、参加に消極的な人が8割近くを占めた」そうです。
タウンミーティングの「やらせ」でも裁判員制度は多かったようですが、
産経新聞などのマスコミも同じようなことをやっていたようです。
まあ予想されたこととはいえ、そこまで落ちたとは哀しいです。。
裁判を職業裁判官の閉ざされた空間から引き出し、「開かれた裁判」にしていくということは極めて納得できることです。
官の司法から民の司法への司法改革にとっても重要な課題です。
しかし、だからといって、それが裁判員制度であるかといえば、もう少し真剣に考えるべきでしょう。
国民の多くが消極的なのには、それなりの理由があるはずなのです。

よくいわれるように、職業裁判官以外の人を裁判に参加させる方法には、陪審制度と参審制度があります。
私はこの前提がすでに間違っていると思うのですが、それはともかく、いま実現に向かっている裁判員制度は、一般市民である裁判員が裁判に参加する参審制度の一つです。その長所は、たとえば次のように言われています。
@裁判に国民の声が反映される。
A市民が法的責任感を強める。
B裁判をわかりやすくする。
C裁判(裁判官)をコントロールする。
D当事者が判決を受け入れやすくなる。
E司法に対する市民の信頼を確保する。
(平成法窓界サイトhttp://www.hiu.ac.jp/campus/club/heisei/sansin.html)

しかし、いずれもほとんど根拠がありません。
私などはむしろ、反対ではないかと思うほどです。その理由をお話しすることもできると思います。
逆に、もしこれらのことを実現したいのであれば、裁判員制度など導入しなくても簡単です。
裁判を公開にし、そこに傍聴者の意見が言える仕組みをつくればいいだけです。
複雑な裁判員制度など導入する必要など全くありません。
裁判の透明性が高まり、様々な目にさらされれば、裁判の公平性は高まるはずです。
これもまあ根拠はないかもしれませんが、たくさんの目でチェックされることで間違いは排除される可能性は高まるでしょう。

公開の場では自由な議論はできないとよく言われます。まして個人のプライバシーが問われる場ではないかという人がいるかもしれません。しかしプライバシーは何のために守る必要があるのかを考えなおす必要があります。
教育再生会議もそうした理由で、公開にはなっていません。
しかし、公開の場で発言できない発言というのは一体なんでしょうか。
たしかにそういうことが全くないとは言いませんが、もしあれば、その場合だけ例外をつくればいいのです。もちろん例外にする理由は公開にし、その理由も大方の賛成を得なければいけません。

冤罪の場合はどうなるのか。
報道被害や風評被害が加速されないか。
問題を挙げだしたらきりがありませんが、そうしたことも含めて透明性を高めることは可能です。隠すから報道被害や風評被害が起きるのです。
但し、「司法」の概念を広く捉える必要はあります。
警察行政や検察までも透明性の中に加える必要はあります。
司法は「裁判」に凝縮されますが、その前後の透明性も不可欠なのです。
捜査と透明性は両立しないといわれそうですが、
何でもかんでも透明にすれば良いという話ではありません。
反対者の使うゼロ100論理に騙されてはいけません。

今の裁判は、余りにブラックボックスが多すぎます。
第一、裁判官の服装自体も権威的でブラックボックスを演出しています。
よくまあ恥ずかしげもなく、あんな服装を続けていると私などは思いますが、自らを人を裁く神と勘違いさせなければ、自らも、そして被告や原告をも説得できないのかもしれません。そういう意味ではああした形式も意味を持つのでしょう。
しかし、もしそうであれば、そもそも裁判員制度には無理があるのです。
人は人を裁けません。
その前提で司法は構想されなければいけません。
国民の多くが裁判員制度に消極的なのは、とても素直な反応なのではないかと思います。
そこから出発することこそが、「市民のための司法」に向かう道ではないでしょうか。
その意味で、日弁連は勘違いしているような気がしています。
私のほうが勘違いしているのかもしれませんが。
弁護士の方が、どなたかご指摘いただければうれしいです。

■「産む機械」発言を生んだ問題の立て方(2007年2月4日)
先日、このブログに大西さんが次のようなコメントを寄せてくれました。

少子化が困るのは、経済成長にとってマイナスと考えられているからですよね。(ほんとうはプラスにできるかも)
それはそれとして、今求められているのは、人々がこどもを楽しく育てたくなる幸せな社会を創るにはどうしたらいいかということじゃないでしょうか。
それは「少子化対策」ではなく、「幸せ化施策」です。
女性就労のサポートだけじゃなく、男たちが会社生活から家庭生活へ軸足をシフトするための施策を、
みんなで考えなければならないと思います。

「少子化対策」ではなく、「幸せ化施策」。
問題の立て方が間違っているというご指摘ですが、全く同感です。
「問題の解き方」と「問題の立て方」とどちらが大切でしょうか。
それらは別の次元の話で、比較するべき話ではないという人もいるでしょうが、両者は深くかかわっています。さらにいえば、問題をどう設定するかをしっかりと議論していけば、その過程で答が見えてくることも少なくありません。問題を立てること自体が、実は問題を説くことである場合が少なくないのです。
私の本業は、企業や行政のコンサルティング、昨今の言葉ではソリューションビジネスですが、そこで一番重要なのは「問題の明確化」です。ところが残念ながら、日本の社会はそうしたところには対価を払う文化がなく、問題解決にお金を払いますから、私のビジネスはなかなか成立しないのです。困ったものです。
脱線してしまいました。すみません。

いずれにしろ、問題がなかなか解けないとしたら、それは問題の立て方が間違っているからです。
そう考えてみると、そもそも「少子化対策」などという問題設定が間違っていることに気が付くはずです。
「少子化」は何らかの問題の結果であり、あるいはシグナルなのです。
大西さんが指摘するように、「少子化対策」という問題設定をしてしまうと、「女性は産む機械」という考え方が出てきてしまうのはそれほどおかしなことではありません。
そして問題設定が間違っていますから、いつになっても事態は変わりようがないのです。

こうした事例は他にもたくさんあるように思います。
もし「少子化社会」を変えたいのであれば、大西さんが指摘されるように、男たちが会社生活から家庭生活へ軸足をシフトするための施策を考えていくことだろうと私も思います。
男女共同社会参画の「社会」は会社ではないのですから。

■国会審議拒否の是非(2007年2月5日)
多くの野党が欠席したまま、国会での補正予算審議が進んでいます。
この状況を国民がどう評価するかは、愛知県や北九州市の選挙結果などから読み解くのはとても妥当とは思いませんが、幸か不幸か、その結果は一勝一敗の終わり、いずれにも大義を与えませんでした。

わが国の最高決議機関は国会であることを考えると、野党の多くが審議参加をボイコットすることは、議会政治というか、わが国の政治体制の危機というべきだと思いますが、そうした危機感はどこにもないのがとても不思議です。
要するに国会は不要なのかもしれません。

たしかに、与党が過半数の議席を持ち、党議拘束という仕組みによって、その与党に意見は一元化されており、しかも、その与党を管理(代表というよりも昨今の内閣は与党管理型です)する内閣そのものが対話よりも主張を強行しようとする指向が強いという状況の中では、国会審議の意味はあまりないといってもいいかもしれません。
小泉政権以来、国会は変質しました。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか。

野党の審議拒否は論理的には説明可能ですし、戦術としては成立するでしょう。
しかし、今のような社会状況の中で、多くの国民の共感を得ることはできないように思います。
私はこの戦術は明らかにマイナスであり、
せっかく野党のほうに向きかけた風の流れをまた変えてしまったように思います。
党利党略ではなく、生活感覚で考える多くの国民は、野党のボイコット行為を頭では理解しても共感はしないでしょうし、せっかくの議論の場をみすみす無駄に捨ててしまっている野党への信頼感を低下させていると思います。

柳沢大臣の発言は決して個人的な思いの吐露などではありません。
批判している大勢の野党議員にしても、つまるところそうは大きな違いはないように思います。こんなことを言うと批判されるかもしれませんが、これは個人の問題というよりも、今の社会体制の根底にある考え方なのです。
そこを履き違えては、事実は見えてこないように思います。
私たちの頭のどこかにある経済優先の発想を、みんなで克服しなければいけません。
柳沢大臣個人の問題に帰すべきことではない、大きなパラダイム次元の問題なのです。

野党も含めて、今の政治家は国民の中には入ってきていません。
中学生の頃、「ナロードニキ」運動を知り、「人民の中へ(ヴ・ナロード)」という言葉に出会ったときの感動が、今でも鮮明に残っています。
「人民の中へ」という発想がなければ、社会のパラダイムは変えようがありません。
いまの野党に欠けているのは、その発想ではないかと思います。

■再びの敗戦に向けての先制攻撃型国家への一歩(2007年2月6日)
野党不参加のままで進められている補正予算ですが、ここに重要な内容が盛り込まれているというメールが流れてきました。
要旨は次の通りです。

軍事費が合計711億円と過去最大規模となっていること。
特に、北朝鮮のミサイル・核実験を受けての対抗措を理由に、「専守防衛」の建前を覆し、先制攻撃型へと変質させる内容が含まれていること。そしてその詳細は、軍事機密を口実にブラックボックスに入っていること。

防衛庁が防衛省になり、日本も戦争をしかける「普通の国家」に変質する準備は着々と詳細は、「核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」のサイトをご覧ください。
http://www.geocities.jp/nomd_campaign/

民主党の小沢さんはこうしたことには賛成なのでしょうね。
だから審議拒否しているなどとは思いたくありませんが、民主党の小沢さんや前原さん、あるいは岡田さんは、こうした予算は歓迎かもしれません。彼らのこれまでの言動は、安倍さんと同じく戦争支援者であることを示唆しているように思います。

みんなの目が違うところに向けられている間に、こうして着々と社会は変質していくのです。
そして気づいたら、再びの敗戦。
そんなことにならなければいいのですが。

■痛みを分かち合うための条件(2007年2月7日)
また、ブログへのコメントに触発されての記事です。
今日は小川さんのコメントです。

その作業がどんなにつらくても、その先に「希望」を抱くことができれば、それは耐えられるものなのでしょうが、
それを描くことができないから(あるいは信じることができないから)、きっと逃げ出したくなるのでしょう。

小泉首相は「痛みを分かち合って」とよく言いました。
痛みを分かち合うには、未来も分かち合わなければいけません。
それはセットのものです。つまり「痛みを分かち合う」ことは手段概念なのです。
痛みの先にある未来が納得できるものであれば、痛みは耐えられます。
つまりこの言葉は、「夢を分かち合う」ということがあって、成り立つ言葉なのです。
しかし当時、小泉首相は夢を語ったでしょうか。確かに抽象的には語りましたが、みんなが理解できるような形では夢も未来も語りませんでした。
ただ「痛みを分かち合う」ことの大切さを呼びかけたのです。

手段概念と実体概念の混同に関しては、これまでも何回か書きましたが、手段概念のほうが具体的なことが多いので、それが目的概念化されやすいのです。
そこにこそ統治や支配、管理のポイントがあるのですが。

似たことばに「協働」という行政が好きな言葉があります。
私も「協働のまちづくり」の活動に関わったりしていますので、いささか気が引けるのですが、「協働」もまた夢やビジョンがあってこそ成り立つ言葉です。しかし多くの場合、そうした夢やビジョンは抽象的にはともかく具体的な形では存在しないままでの協働が多いように思います。これでは単なる行政の下働きとしての住民活動になってしまいかねません。
ですから私は「協働」という言葉がとても嫌いです。

こうしたことから浮かび上がってくるのは、
お上(官)の指示で闇雲に働かされている民の構図です。
こうした「官民構造」を変えていくことこそが、これからの課題なのではないかと思います。

先がしっかりと見えていれば、私たちの生き方は大きく変わっていきます。
いま問題になっているかなりの問題が解決されていくように思います。
今の日本にないのは、未来に向けてのビジョンかもしれません。
それがないと組織は崩れます。
家庭も地域社会も崩れます。
みんなをわくわくさせるようなビジョンを打ち出さない限り、政権交代は単なる名前の変更だけになるでしょう。
自治体の首長選挙もビジョンがなければ、消去法の選挙になってしまい、結局は何も変わらないでしょう。
時代を変えるためには、ビジョンが不可欠であることを認識すべきではないかと思います。
それは個々人の生活においても同じです。
自らの生活の主役になっていくためには、自らのビジョンが大切です。
それも「希望」を生み出すビジョンが望まれます。
私が今年を「希望の年」にしたのは、そういう思いからです。
しかし「先」を描いて、ビジョンを持つことの難しさを、いま実感しています。
時にはめげそうになりますが、めげれば「希望」はさらに遠くに逃げていってしまいます。
小川さんの痛みがよくわかります。
小川さん。
めげずに前に進みましょう。
お互いに。

■柳沢発言と生権力と成長パラダイム(2007年2月8日)
柳沢発言に関して、問題の大本を考えなければいけないと書いたら、その大本とは何だという質問がありました。それは今の日本社会のパラダイム(基本枠組みの起点にある考え方:社会構成原理)です。
小難しい話ですが、少しお付き合いください。

近代に入り、権力のあり方が変わったといわれます。
ミシェル・フーコーによれば、「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという」新たな権力が登場したのです。
つまり、それまでの権力は人々の生殺与奪の権利を持っていました。
「いのちを奪い取る権力」です。
しかし、近代では「いのちを産出する権力」が重視されてきます。
いわゆる「生めよ増やせよ」です。

その根底には「成長」の思想があります。
国家権力(あるいは組織権力)を高めるためには、人口(組織メンバー数)を増やすことが基本です。
人口こそが国家(組織)の権力や富の源泉だからです。
国王が住民を殺すことは自らの権力を弱めることになる、という発見が行われたのです。
事実、過去においてもそうしたことで滅んだ国家は少なくありません。
以来、国力増強は人口増が基本になりました。
しかし、単に人口を増やせば言い訳ではありません。
働ける人口でなければ、余り意味がないからです。
そこで、「生き方」に関する働きかけが行われだします。
フーコーが「規律=訓練」と呼んでいる、個人を「従順な身体」と化すための管理テクノロジーの展開です。
ジェンダー論や男女共同参画論も、この問題につながっています。
また、「時間」が重要な意味を持ち出します。
時間の意味合いが変わったのです。

時間に関する書き込みが中断していたのを思い出しました。
また書きます。

いま問題になっている出生率などの人口政策や社会政策も重要になってきます。
個々人の問題ではなく、人口的に社会全体の「健全さ」(これも柳沢発言に出てきます)を保ちながら成長を確保していくことが目標になります。
健康管理も食育政策もそうですし、もしかしたら「介護の社会化」も、その流れとして捉えられます。少子化対策はそのものずばりです。

この二つを合わせて、フーコーは、「生・権力」と呼んでいます。

安倍政権の根底にあるのは「成長思想」です。
いや、今の日本は成長パラダイムの社会といって良いでしょう。
そこから出てくる生・権力の政策を象徴しているのが、柳沢発言であり、少子化政策であり、福祉政策と考えれば、その問題点も見えてくるように思います。

ちなみに、生・権力の権力者は誰かということです。
生殺与奪の権力を持っていた国王は、その原初的な段階においては、社会の仕組みとして権力の象徴である国王の生殺与奪の権利を持っていました。
状況次第では国王殺しが制度的に行われたのです。
権力の暴走を規制する仕組みが内在されていたのです。
しかし、新しい生・権力においては、権力の所在が見えにくいために、それが難しく、最悪の場合は、国民殺しになってしまいます。
つまり社会全体の自死現象です。

柳沢発言からは、こうした社会の実相が見えてきます。
それが悪いわけではありません。
それを好む人も少なくないでしょう。
でも、私にはなにか違和感があります。

だからどうするのか。
自らの生き方を確立することが出発点だと思いますが、
オルテガが言うように、
「私は、私と私の環境である」としたら、
こうした大きな時代状況に抗して、自らの生き方を全うすることは世俗を捨てるということになりかねません。
実質的な意味で、そういう生き方に転じている人たちも少なくありませんが、私にはどうもそれができません。
かといって、社会変革を志すわけでもなく、何とかこのブログなどで自己満足的な帳尻合わせをしているわけです。
生き方としては、あまり好ましい生き方ではありません。
いつかこの状況から抜ける日がくるような気はしているのですが。

今日は、ややこしい話を自己反省的に書いてしまいました。
すみません。

■「過労死は本人の自己管理の問題」(2007年2月9日)
言葉の問題で国会が機能していない現状を見ていると言葉を議論したくない気もするのですが、どうしてこう毎日毎日、責任ある人たちからとんでもない言葉が出てくるのでしょうか。
今度は奥谷さん(労働政策審議会分科会委員)の発言です。
「過労死は本人の自己管理の問題」
http://www.asahi.com/politics/update/0207/009.html
この発言は奥谷さんの発言全体を踏まえて理解すべきことかもしれませんが、これに関してすぐ思い出したのが、日本ヒーブ協議会の、たしか15周年記念フォーラムで講演させてもらった時のことです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/06/post_d08e.html
ある女性が、「過労死できるほど仕事に熱中できる男性がうらやましい」と本気で主張したのです。
つまり女性は、そういう仕事をやらせてもらえないという指摘をしたのです。
何のためのヒーブかと唖然としましたが、心の狭い私としてはその女性の会社も日本ヒーブ協議会も以来、全く信頼できないどころか、嫌いな組織になってしまいました。
哀しい女性が多すぎます、などと発言すると、私自身の良識が疑われますが、最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
しかし、彼らはジェンダー問題も男女共同参画に関しても、全くその本旨を理解できないでいるように思います。
悪貨が良貨を駆逐するような問題解決の道具にすることは許されることではありません。

人は一人では生きていけません。
昨日話題にした「生・権力」に関して、以前、一度ここでも書いたことがある「社会の喪失」(中公新書)の中で、
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/10/post_6452.html
著者の杉田敦さんは、
「一部の人間が死ぬことによって多くの人間を活かそうというのが、生・権力の核心ではないか」と書いています。
これを自動詞で語れば自爆テロであり、他動詞で語ればコラテラルダメッジです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/01/post_b149.html

さて、過労死とはなんでしょうか。
自死とどう違うのか。
果たして社会的な意味があるのか。
それに関してはいろいろな意見はあるでしょうし、状況によって違いもあるでしょう。しかし、それらが社会の問題を顕在化させる予兆であることは間違いありません。
せっかくの予兆を、個人の問題にしてしまう。
それこそが「組織起点発想」の落とし穴ではないかと思います。

社会のあり方を起点にして個人のあり方を議論するのではなく、
個人の生き方を起点にして社会のあり方を議論することが、大切です。
今はそういう時代なのだと思います。

しかし、こうした問題を議論する人たちのほとんどすべてが、既存の社会のあり方の上にのって成功した人たちですから、そもそも発想の起点も状況認識も違うのです。
社会の体制から落ちこぼれたしまった者の僻みなのかもしれませんが。

馬鹿は死ななきゃ治らないという言葉がありますが、
利口もまた、死ななきゃ治らないのです。
そして、利口は決して馬鹿の上位概念ではないのです。

■ 「戦争への道を許さない!」のリレートーク(2007年2月10日)
「諦めは戦争協力の第一歩!」を合言葉に、26年間、力強く、華やかに、反戦、護憲の祈りを花開かせるために活動している「戦争への道を許さない女たちの連絡会」というのがあります。
そのメンバーが中心になって、昨年12月16日に「戦争への道を許さない!歌い、語る  女たちのつどい」が開催されました。
新聞でも、ほんのわずか報道されましたので、ご存知の人もいるかと思います。
私の愛読誌である「軍縮問題資料」3月号に、そこでの参加者のリレートークが採録されていました。

昨日の記事の中で、
最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
と書いたら、早速、お叱りのコメントをもらいました。

さてまた同じ轍を踏みそうですが、昨日の記事の補足を込めて今回も女性問題です。
私は社会を変えるのは女性たちだと思っています。
いつかも書きましたが、
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/05/post_d384.html
映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親が言った「男たちは壊すことしかできない、創るのは女性たちだけだ」という言葉に真実を感じます。
しかし、もちろん「壊すこと」もまた「創ること」ですから、逆の言い方もできるわけですが、出産という現実と子どもとの一体感という点でのつながりという点では、やはりある種のハンディを私たち男性は持っているように思えてなりません。
だからこそ、
最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
と書いたのです。
無理かもしれませんが、主旨を読み取ってもらえれば幸いです。

私にとっては女性はそもそも信頼できるのです。
いや信頼したいというべきでしょうか。
何しろ未来を生み出している人たちなのですから。
そして、生活を基盤にしながら(つまり国家を基盤にするのではなく)言動している人たちがたくさんいるからです。
このリレートークの皆さんの発言を読みつないでいくと、大きなメッセージになってきます。
ネットで読めないかと探してみましたが、まだどこにも掲載されていません。
できれば多くの人たちに読んでほしいです。

この会に、山田邦子さんが入会したそうです。
マスメディアで活動している人が、政治家になるのではなく、こちら側で、つまり生活の側で活動し出したら、社会は変わるように思います。
山田さんの寄稿も同誌に掲載されています。
とても元気になれます。

■団塊シニアの地域デビューで思うこと(2007年2月11日)
ボランティアフォーラム2007TOKYOにパネリストとして参加してきました。
私が出た分科会は「第二の人生 あなたはどう描く」で、定年を迎える人たちのボランティア入門編です。いわゆる「シニアの地域デビュー問題」です。
時々、こういうセッションでの話を頼まれますが、いつも参加者のほとんどが当事者ではなく、団塊シニアの社会活動を仕組む側の人たちなのです。
今回もそうでした。
行政や社会福祉協議会、あるいはNPO支援組織などが、NPOやコミュニティビジネスに関わる研修セミナーを開催する場合も、集まるのは当事者というよりも仕掛ける側の人のほうが多いような気もします。
その多くは行政の助成金で行われますから、参加者を集めるために動員すら行われています。
これが多くの自治体で行われているNPO支援活動です。
税金の無駄遣いとしか思えないのですが、もしかしたら今度は価値のあるプログラムかなと期待して、時に参加を引き受けることがありますが、いつも失望して、また当分は参加したくなくなるわけです。
今回は行政ではなく、東京ボランティア・市民活動センターの主催ですから、ちょっと違うかなと期待していたのですが、残念ながら今回もまた、参加者の多くは「仕掛け側」の人でした。
まあ、それが悪いわけではありません。
ただそうであればテーマやスタイルを変える法が効果的でしょう。そういう意味では、ちょっと残念でした。
2時間のセッションのあと、何人かの人がやってきました。
いろいろとやっているが参加者が集まらない。どうしたらいいか。
これが多くの人の悩みです。
この問題は解決するのは極めて簡単です。
面白くなく、役に立たないから、参加しないのです。
それにそもそも「集めよう」などと思う姿勢が間違っています。
だいたい、あなたが企画側でないとしたら参加しますか?
と質問したいのですが、それでは実も蓋もありませんから、さすがの私も初対面の人にはいえません。
それにそういうひとたちはみんな誠実でまじめなのです。
ではどうするか。
自分がやりたいことをやるか、誰か楽しそうに遊んでいる人を見つけて、彼もしくは彼女を支援すればいいのです。それが出来なければやめたらいいだけです。実に簡単な話なのです。
小賢しい仕掛けや小手先の技法など約にはたちません。
団塊シニアを馬鹿にしてはいけません。
企画者たちよりも、よほど厳しい状況の中で仕事をしてきた人たちです。
甘言で騙されるような人たちではないのです。
しかし、みんなどうしたら人が集まるのかという技法論に走ってしまうのです。
昨今のボランティア活動やNPO活動のセミナーなどで話している人たちのほとんどが、そういう発想の持ち主のような気もしますが、それでは効果があがらないのではないかと心配です。
ともかく企画する本人が楽しいと思うことをやればいいのです。
参加者が集まるかどうかなど気にすることは全くありません。
その結果、誰も集まらなくても自分が楽しめればそれでいいのです。
そもそも「社会のため」とか「団塊シニアの第二の人生のため」などという発想自体、目線が高い「お上発想」なのです。
団塊シニアをお客様と考えるのは、行政が住民をお客様と考えるような傲慢さの延長なのです。ちょっと挑発的な言い方ですが。
とまあ、こういうことを伝えたいのですが、私の発想はちょっと論理的でないためになかなか伝わりません。
しかし、長野市のある若い男性が、「誰も集まらなくてもいい」という、私の言葉に感心してくれました。
今日はこの若い人に少し理解してもらえたことで、半日を費やした価値がありました。
ところで、こういう発想でありながら、私自身もこれから「団塊シニアインキュベーションコンソーシアム」のような緩やかな仕組みを創りたいと思っています。
どこかに自己矛盾がありそうな気もするのですが、そうでないような気もします。
この構想はCWSコモンズのサイトで時々書いていますが、仲間を探しています。
関心のある方はぜひご連絡ください。

■拉致問題と核問題のどちらが重要か(2007年2月12日)
北朝鮮による拉致問題の進展がとまっています。
そのうえ、6者協議では日本が拉致問題にこだわっていることが核問題解決の足を引っ張っているというような声もあるようです。
そこで今日は、生活者的感覚による、拉致問題と核問題のどちらが重要かについての私見です。

前にも書きましたが、私は重要なのは拉致問題解決だと思っています。
その理由はこうです。
「北朝鮮の核武装」はなぜ問題になるのでしょうか。
問題は「新たに核武装」することでしょうか。
しかし、米ソをはじめとした、いわゆる「大国」は核武装しておきながら、なぜ新たな核保有国を認めないのでしょうか。
核拡散条約そのものも、既存の核保有国が核廃棄するということがあればこそ意味を持つはずではないでしょうか。
その動きがない以上、ある国家が新たに核保有することを止めることは、論理的ではありません。
拠り所は核拡散防止条約ですが、国際法の規範性は保証されているわけではありません。現に地球環境問題に関わる条約は米国によって拒否されています。
先ずは自らが核放棄してから、新たな核保有に異議申し立てすべきです。
とまあ、その道の素人である私は素朴に考えます。

もしそうであれば、問題は「北朝鮮」が核保有することが問題ということになります。
ではどうして、北朝鮮であれば、これほどの反対が出てくるのでしょうか。
それは、北朝鮮は国際ルールを尊重しないし、第一、何をやるかわからない国家だから、そんな国家には核を持たせたくないということでしょう。

なぜ北朝鮮はそう思われるのでしょうか。
偽ドルを印刷し、麻薬を生産し、他国の人を誘拐するような国家だからです。
国家が、というよりも、そこの今の為政者ないしは政権がというべきでしょう。
つまり、北朝鮮の為政者ないしは政権が信頼できないということです。

もしそうであれば、その為政者を変えることが問題解決につながります。
つまり、核開発が問題なのではなく、拉致問題のような行為を改めようとしない政権が問題なのです。

となれば解決策は明快です。
金政権を倒せば良いだけの話です。
それは内政干渉だということになるでしょうが、そもそも他国の人を誘拐するのは内政破壊ですから、干渉どころの話ではないのです。
窮鼠猫をかむように、暴発するかもしれないという危惧もありますが、噛まれるマイナスよりももっと大きなプラスをこそ目指すべきです。ねずみに噛まれたところで、たいしたことではありません。予防策だって、いくらでもあります。

だんだんまた暴論になってきましたので、批判されそうですが、誘拐犯人や偽札作り犯人を放置しておいて、何が国際平和だと、素人で無分別な私などはどうしても思ってしまうのです。
しかし、何もフセインのように金正日を死刑にしろといっているわけではありません。
せめて政権維持につながるような支援はやめたらいいということです。
政権を支援しなくとも、北朝鮮人民を支援する方法はいくらでもあるはずです。

つまり問題の設定が間違っているのです。
拉致問題を正さずして、核開発をやめさせても、問題は何も解決しないのです。
拉致問題と核開発。核などという言葉に脅かされてはいけません。
私たちにとっては、拉致問題のほうがずっと深刻な問題ではないかと思います。

私の問題の立て方が間違っているのでしょうか。

■パノプティコン型社会とお天道様型社会(2007年2月13日)
昨日、このブログへのアクセス数が900に達しました。
毎日、100くらいのアクセスで、多くても200を少し超えるくらいなのですが、あまりの異常値にちょっといやな気分がします。
おそらく誰かが一挙にすべての記事にアクセスしていったのだろうと思うのですが、なぜでしょうか。

ある人からブログはいろいろな人がチェックしているから、気をつけたほうが良いといわれました。無防備すぎるというのです。
しかし、だからといって、書くのをやめたり、内容を自粛したり、実名を消したりすることは、私の信条に反します。
いま共謀罪や思想チェックの風潮が強まっているといわれます。
であればこそ、実名で堂々と意思表示していくことが大切です。
そうでなければ、共謀罪反対とか管理社会反対などという意味がありません。
自分で、そういう社会を呼び寄せているわけですから。
つまり共謀罪や監視カメラは、そういう人には不要なのです。そういう自己規制している必要とは、もはや自由を放棄しているわけですから、そうした法律や監視体制が出来ても何も困らないでしょう。
むしろそうした体制を支援している存在になっているのです。

これに関しては、パノプティコン(一望監視装置)の話がとても示唆に富んでいます。
ミシェル・フーコーは、ジェレミー・ベンサムが考案した「パノプティコン」を引き合いに出して、新しい権力観を説明しています。
「パノプティコン」に関しては、ウィキペディアに紹介されていますが、簡単に言うとこんなことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3
パノプティコンは、円形に配置された独房で、入り口は円の中心に向けられています。その中央部は監視室になっており、そこから各独房の内部が見えるようになっていますが、独房からは見ることができません。そのため独房の囚人は常に監視されている気になり、監視の目を内面化して、自ら行動を律するような「主体」化に迫られています。そして自己規制して生きていくことになります。

なんだか、最近の日本社会を思わせます。
もちろんフーコーもまた、現代の社会を断じているわけですが。
私のまわりのほとんどの人が、すでにこういう意味では囚人化しているような気がします。もちろん私自身も、です。

実はこのブログやCWSコモンズのホームページは、こうしたフーコーのメッセージを少しだけ意識して、監視室の実態を探りたいという意図もあるのです。まあ、ささやかな囚人のあがきでもあります。

このブログは、書き手の私のことは読み手にはわかっているわけですが、
読み手に関しては私にはほとんど見えてきません。
つまり、私は「パノプティコン」の独房にいるような状況なのです。
そこに自らを置くことは、実は自分自身でもまた自らを監視することができるようになります。
管理室を気にする自分、自己規制しようという自分、など、さまざまな発見があります。

しかし、最近、もっと面白いことに気づきました。
日本文化には「お天道様が見ている」という文化があります。
最近はなくなってきたようにも思いますが、私たちの世代であればきっとどこかに埋め込まれているはずです。
この意識が社会の秩序を維持し、管理コストを縮減し、信頼関係を育ててきたように思うのですが、この「お天道様」と「パノプティコンの管理室」とはどこが違うのでしょうか。
私はパノプティコン社会に拒否感を持っており、お天道様社会に憧れているのですが、この二つは結局は同じなのではないかという気がしてきたのです。
なにをいまさら、と笑われそうですが、どうして今まで気づかなかったのか不思議です。

この問題はもう少し考えてみたいと思っています。

■「無知のベール」のもとでの視界の広さ(2007年2月14日)
アミネ一家の強制退去が決定したようです。アミネさん自身は、留学を目的にした再入国が検討されるようですが。
以前も書いたように、国家が法を根拠に、こうした平和な家庭を壊すことには不安がありますが、ブログにコメントしてくれた人のように、違法な入国者を認めることのほうが不安だという人もいるでしょう。
もっとも、このブログで何回も書いているように、違法かどうかはかなり恣意的なものですし、法の精神こそが重要だと思います。
法は問題解決のツールでしかないからです。
それはともかく、この報道を聞いて、改めてロールズの「無知のベール」のことを思い出しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/blog1.htm#mv

自分自身の位置や立場について全く知らずに(それを「無知のベール」と呼びます)判断を下すことで、自分だけの利益に基づいて判断することを避けることができ、それによって社会全体の利益に向けた正義が実現できるようになる、というのがロールズの正義論です。
もし自分の家族がアミネ一家と同じような状況に置かれたらどう考えるか。
そうした想像力が、さまざまな人が一緒に暮らしていく社会ではとても大切です。
国家や宗教は、そうした想像力を遮断しがちです。
内と外とを峻別してしまうからです。
敬虔なクリスチャンがアメリカのネイティブを殺害できたのも、逆に宗教のせいだったのかもしれません。
異教徒への想像力を抑制してしまうことで、仲間内の「無知のベール」の想像力を高め、仲間のつながりを強めることが出来たのかもしれません。
しかし、いま必要なのは、国家や宗教などのサブシステムを超えた、もっと大きな生命の想像力ではないかと思います。
アミネ一家の事件に限りませんが、私たちは国家や宗教などという人為的な制度に呪縛されずに、一人の人間として、「無知のベール」の世界を広げていくことができれば、きっと世界(人生)はもっと豊かになるような気がします。
テレビや新聞で、さまざまな事件が報道されますが、自分が被害者だったら、あるいは加害者だったら、どうするだろうかと時々考えます。
よかったら皆さんもそうした「無知のベール」ゲームをやってみてください。
事件の評価が、ちょっと違ってくることが、きっとあるはずです。

■「障害」を意識しない社会(2007年2月15日)
昨日、盲ろう者の星野さんからとても面白い話を聞きました。
盲ろう者(視覚障害と聴覚障害を持っている人)の集まりがあるのだそうですが、そこに行くと自分が盲ろう者であることを忘れてしまうというのです。
視聴覚障害に限って言えば、みんな相互に理解しあえるからだろうと思います。
つまり違いに違和感を持たないわけです。
日本人の中にいると、だれも自分を日本人と意識しないというのと同じことかもしれません。
おそらくそこで星野さんが意識する「違い」は、それぞれの個性や意識でしょう。
「盲ろう者」という抽象概念ではなく、表情のある「自分」なのです。
その「違い」はきっと肯定的な「違い」なのです。元気の素になる「違い」です。
この話にはとても大きな意味があるような気がします。
その話を聞いてから、その「大きな意味」は一体何だろうとずっと考えているのですが、のどまで出てきているような気がしながら、それが何かまだわかりません。

視覚障害や聴覚障害は、外部からも知覚できますから、客観化しやすいですが、知的な面や精神的な面になると、その違いはなかなか客観化できません。
発達障害や精神障害は、なかなか外部からは見えませんし、自らもまたそれを自覚しにくいはずです。
もし同じような仲間の集まりであれば、そうした障害を意識しないかもしれません。

しかしいずれの場合も、「障害」は存在しているわけです。
つまり「障害」の有無と関係なく、顕在化する場としない場があるということです。

このことを踏まえて視座を逆転させれば、「障害」を意識しない日常生活の中でも、私たちは言葉としては概念化されていないかもしれませんが、それぞれの「障害」を持っているといってよいでしょう。
その「障害」をある人は否定的に捉え、ある人は肯定的に捉えるわけです。
女は社会によってつくられるというボーヴォワールの発見は、障害にも当てはまるわけです。すべての概念は社会の産物です。

「障害」という表現を使ってきましたが、「違い」と置き換えても良いでしょう。
「障害」はどこに基準を置くかで変わってくるからです。
たとえば人は自力では空を飛べませんから、空を飛べないことは「障害」とは意識されません。しかしもし人間と鳥が同じ仲間として暮らすようになれば、空を飛べないことは「障害」になります。

「障害」はつまるところ「違い」ですし、個性や能力とつながっている概念です。
逆の言い方をすれば、人はみんな、何らかの違いを持っていますから、それぞれに「障害」をもっているわけです。
それを「個性」や「能力」と考えるか、「障害」と考えるか。
それによって世界は大きく変わってきます。

「違い」を活かしあう社会を目指したいと思っている私としては、星野さんの話がずっと気になっているのですが、まだそれが含意するメッセージに行き着けません。
しばらく悩まなければいけなさそうです。

■個人情報保護に関する勘違い(2007年2月16日)
あるところで、最近は個人情報保護で会員の名簿すら作れないという話を聞きました。
そういえば、こういう話が良く話題になります。
今週だけでも2回目です。
私自身もいくつかの体験をしています。
名簿を作ろうとすると誰かが大丈夫かというのです。
イベントなどをやった時も、参加者名簿は配布しないほうがいいのではないかと言われたこともあります。
学校からボランティア参加者の名簿を作りたいのだが、自治会内のボランティアの人に了解を取って名簿を提出してくれないかと頼まれたこともあります。私が自治会長だったからですが、最初から学校でボランティア登録してもらった、名簿を作ればみんなで協力できるはずなのです。
なにかおかしいです。みんな萎縮しているのです。
悪いことをしようというのならともかく、そうでない人が困ってしまうことはないのです。
もっと堂々と名簿を作ればいいのです。
個人情報とは、氏名や生年月日や住所など、個人を識別できる情報のことであって、プライバシー情報とは違います。
昔は電話帳に住所も載っていましたし、同窓会名簿や人名録で生年月日なども載っていました。氏名は人に知らせるためのものですから知られて当然のことなのです。
なぜ隠さなければいけないのか。
ITの発展によって情報社会になったからこれまでとは違うというのが大方の考えですが、問題は情報保護ではなく、個人保護であって、使い方の規制のはずです。
あるいは悪用する人たちの規制です。
個人情報保護法が出来たことで、悪用しようと思っている人たちはむしろ喜んでいると私は思います。いかにも中途半端な情報管理体制が現実ですから、その気になればいくらでも集められるでしょうし、その分、悪さは大規模化するはずです。管理統制すれば、必ずその抜け道を探した犯罪が起こるものです。

女性に歳を聞いてはいけないという、まさに女性蔑視の「常識」がかつてはありましたが、それ以外はすべて大らかに社会に出回っていた情報を、なぜ法律までつくって「保護」するようになったのでしょうか。その理由を考えてみる必要があります。
うがった見方をすれば、情報産業支援と行政の責任逃れです。
さらにいえば、犯罪者支援もあったかもしれません。

個人情報保護法が対象とすべきは、個人情報を集積している行政や公的機関であり、情報の悪用を考えている業者でなければいけません。
私たち生活者が、活動しにくくなるような個人情報保護の動きは本末転倒なのです。
しかし、現在の状況はその本末転倒が起こっているのです。

どんどん名簿を作りましょう。
イベント参加者の横のつながりを作るために、どんどん参加者名簿を流しましょう。
市民活動を規制するような法律は、つまるところ「個人情報」保護の名目で、「個人」保護を軽視しているのです。
個人情報保護などという名目での管理体制化の動きに騙されてはいけません。
個人情報は知られてこそ、意味があるのです。
山奥でこっそり暮らしたいのであれば別ですが、そうでないのであればどんどん個人情報は露出していくのが良いように思います。
それが「つながり」を育てることになるはずです。

それに、個人情報を隠そうとする人を、皆さんは信頼できますか。
私はあんまり信頼できません。
またまた暴言になってしまいました。

■不法と違法(2007年2月17日)
アミネ事件の決着は私にはなかなか納得できませんが、一家にとっては最悪の事態は避けられたのかもしれません。
アミネ一家を支援してきているAPFSから次のようなメールが届きました。

アミネさん一家のようなケースは後をたちません。
私たちAPFSは今後とも長期にわたり日本で暮らした非正規滞在者の合法化−在留特別許可取得のため全力を尽くしていく所存です。

「非正規滞在者」。
新聞などでは「不法滞在」と書かれています。

今朝の朝日新聞に、「違法スレスレ 銀行セールス」という記事が出ていました。
銀行は最近、定期預金の満期直前の顧客を狙って、年金保険などの販売をしているのだそうですが、これは顧客情報を保険販売に使うこと禁じている法律に違反していないのかどうか、微妙なのだそうです。
違反しているのは明らかだと思いますが、アミネ一家とは違い銀行は黒でも白といえるほどの力があるのかもしれません。

ところで、「不法」と「違法」とはどう違うのかが気になってきました。

集英社の国語辞典によれば、「不法」は法に反すること、人の道に背くこと。「違法」とは法律に背くこと。とあります。
「法」と「法律」の違いもありますが、どうやら「不法」のほうが実体的な生活概念、「違法」は規制的な管理概念のようです。
そういう視点で、改めてアミネ問題を考えると、やはり納得は出来ません。
不法行為なのでしょうか。

「不正」「非行」という言葉もあります。
これも前者は実体概念、後者は管理概念だと思いながら、辞書を調べてみました。
同じ辞書によれば、「非行」とは不正な行い、特に青少年の社会規範・法律に反する行為、とあります。「不正」は道義上または法律的に正しくないこと、とあります。
私は「非行」ということばは管理概念の言葉と思っていましたが、不正と同じような意味のようです。

どうでもいいような話を書いてしまいましたが、
こうした言葉を私たちはもっとしっかりと理解しておくべきではないかと、改めて思いました。
言葉で私たちの意識は大きく変えられてしまうからです。
言葉をたくみに操る権力者には注意しなければいけません。

■地域社会は自らを元気にする力を備えています(2007年2月24日)
青森県の三沢市で行われた住民主催の公開フォーラムに参加させてもらいました。
三沢市ではこれまで5年間、行政が補助金を出して、花と緑のまちづくり活動を展開してきたのですが、来年度から補助金がなくなることになったのです。
しかし活動を継続したいという住民たちと行政の一致した思いから、行政からの呼びかけで、どうすればいいかを考える住民委員会が作られました。
私は、その活動のアドバイザー役として、昨年2回、委員会に参加させてもらいました。
その活動発表会として、公開のフォーラムが22日に開催されました。
CWSコモンズにも書きますが、予想を上回る住民が参加し、これからの住民主役で活動が楽しみです。
私は、今回は3回目の参加ですが、その途中で、住民たちの表情と発言がどんどん変わってきたのが感動的です。
最初の委員会では行政への要望や陳情的な発言が多かったのですが、2回目には自分たちはこんなことが出来るというような前向きの発言が増えてきました。
それと同時に表情が輝きだしてきたように思います。
委員会の前後に住民の人たちと話しても、1回目とは違って楽しそうなのです。
そして今回。3つの部会に別れて提案をしたのですが、いずれも行政や誰かに何かを頼むのではなく、自分たちはこんなことをするという提案がほとんどです。
受付などをやっている住民たちも楽しそうでした。
会場からも前向きの発言が多かったのも印象的でした。
夕張市の事例もありますが、住民たちみんなは本当は自分たちのまちを自分たちでよくしたいと思っているのです。
それに住民たちの中にはさまざまな専門家もいるのです。
そうした人たちが、お互いに活かしあうつながりを育てていけば、お金などなくても、まちは育っていくのです。
極端に言えば、これまでの行政は、そうした自発的なまちそだちの力を押さえ込んできたのです。
私は、国土交通省の地域振興アドバイザー制度に基づいて参加したのですが、その国土交通省の勉強会でも、地域を元気にしたいのであれば、霞ヶ関は何もしないほうがいいという話をしてしまったことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#323
もちろん何もしないほうがいいというのは、今のような発想であれば、という意味です。
現場を支援するという視点であれば、いくらでもやることがあるのに、今やっていることは現場を支援する形にはなっていないような気がします。
それが漸く夕張市の事例で顕在化してきたように思います。
夕張市から、きっと新しいまちづくりの歴史が始まるでしょう。
これは何も地域を元気にするという分野だけの話ではありません。
学校もそうですし、NPOもそうです。
「支援」と「阻害」はコインの裏表であることを忘れてはいけません。
持続可能な楽しい活動は「支援」からは生まれません。
行政が助成金をばら撒いている状況は、とても寂しい気がします。

■結果としての格差社会、構造としての格差社会(2007年2月25日)
格差社会論や格差是非論が飛び交っていますが、そんな退屈な議論とは関係なく、さまざまな格差が不幸な事件を起こしていることは否定できません。
たとえば一昨日のあずみ野観光バスの死傷事故。家族経営による無理な過剰労働が起こした悲劇です。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200702240024.html
経営に問題ありと断罪するのは簡単ですが、過当な競争状況の中で事業を継続していくには身を粉にして働かなければならなかったのかもしれません。その一方で、不当労働で高利益を得ている人がたぶんいるはずです。
つまり仕事が二重構造になっているのです。
国際貿易の中でのフェアトレードが問題になっていますが、それと同じ構造が国内にもあるわけです。
問題は結果としての格差ではなく、構造としての格差があることです。

今月北海道で起こったフリーダム十勝の理事長夫妻の悲劇も同じ構造が見えてきます。
http://www.tokachi.co.jp/WEBNEWS/070220.html
この事件は、障害者の自立支援に誠実に取り組んできた夫婦が、自立支援法によって展開してきた施設の運営が継続できなくなり、その悩みから夫が妻を殺害し自らも死ぬという惨事です。
フリーダム十勝のホームページをみると、その悲劇がますます哀しく感じられます。
http://freedomtokachi.fc2web.com/index.html
自立支援法に限りませんが、最近の福祉行政にはいろいろの問題が付きまとっているようです。
そこではNPOが格差構造の一翼を担うことがないわけではありません。
サブシステムとして、NPOが便宜的に使われているわけです。
いずれの事件も、当事者たちが疲れきっていたことが象徴的です。

アミネ事件は少し違うような気もしますが、基準があいまいで、恣意的に結果を出せる不条理な権力構造があるということは、やはり構造としての格差を感じます。
その構造が経済的な格差を現出することはいとも簡単なことです。

力の格差を解消する方向で進んできた社会が、この数年、逆転してきていることに大きな問題があります。
所得格差などは結果としての瑣末な現象でしかないように思います。
ここでも多くの誠実な生活者は目くらましにあっているような気がします。

いずれにしろ、この国は誠実に生きている人にはとても住みにくい国になってきているのではないかと思わざるをえません。
誠実に生きることを放棄する人が増えてきても仕方がないのかもしれません。
誠実に生きることが難しくなってきているのですから。
もちろん私はそういう生き方が幸せだとはまったく思ってはいませんが。

■あなたは誰のために生きていますか(2007年2月26日)
みなさんは誰のために生きているのでしょうか。
「何のために」ではなく「誰のために」です。
「何のために」は手段概念であり、「誰のために」は「生きる」ことに内包された目的概念だと考えています。
生命や生活を支えるのは、きっと「何のため」ではなく「誰のため」です。

昨年、東尋坊で自殺予防の活動を続けている茂さんにお会いした時にもそう感じました。茂さんは著書「東尋坊 命の灯台」でこう書いています。(94ページ)

東尋坊で崖の上から身を投げようとするとき、人は孤独です。
でも、そこに辿り着く前に、とっくに人は孤独になっているのだと思います。(中略)
「あなたは孤独だ。あなたは生きる資格がない」 
一度その声が聞こえ始めると、容易には振り払えない。

孤独とは社会的な死かもしれません。
自殺する人は、その前に死を体験しているのかもしれません。
自殺予防の鍵は、そこにあるのかもしれません。

孤独のなかで社会的に大活躍している人がいるではないかといわれそうですが、その人の心の中にはきっと「誰か」がいるはずです。
そうでなければ活動は持続できないのではないかと思います。
あるいは、落語「粗忽長屋」にあるように自分が死んでしまったのに気づかないだけの話かもしれません。

「誰のために」の「誰」を見つけるのは簡単です。
うれしいこと、悲しいことがあった時に、みなさんは先ず誰に話したくなるでしょうか。
その人が「誰」その人なのです。
どんなに大成功しても、有名になっても、それを分かち合える人がいなかったら、喜びも半減するでしょう。
見ず知らずのたくさんの人が喜んでくれるよりも、身近な誰かが喜んでくれるほうがうれしくはないでしょうか。
分かち合ってくれる人がいなければ、悲しさも倍増します。
人は決して一人で完結しているのではありません。
自立とか自律とかいう言葉がありますが、人は関係性の中においてしか自立も自律もできないのです。

あの人のために生きているという思いこそが、人の生命を支えています。
それがなかったら、人はもっと簡単に死んでしまえるでしょう。
死を阻んでいるのは、死への恐怖ではなく、自分でない誰かへの優しさなのではないでしょうか。

自分の生命を支えてくれる誰かの先には、また同じようにその人を支えている誰かがいます。
そうして支えのつながりは、植物の根のように絡み合いながらどんどん広がっています。
そうしたつながりが育ってくると、社会から自殺も殺人も戦争も貧困もなくなるはずです。誰かを傷つけることは、結局は回りまわって自らの生命を傷つけることになるからです。

問題は、生命を支える、そうした「誰」かが見えにくくなってきたことです。
その一因は、お金かもしれません。
誰かのためではなく、お金のために生きる人が増えているのが寂しいです。
お金は決して、私たちの喜びや悲しさを分かち合ってはくれません。

私の生命を支えてくれているのは女房です。
私は女房のために生きています。
そして女房の先にあるたくさんの人たちのためにも、です。
そこにはおかしな話ですが、自分も含まれています。

みなさんは誰のために生きていますか。

■「社会のため」という大義の意味不明さ(2007年2月27日)
私には理解できない言葉がたくさんあります。
たとえば、「社会のため」という言葉です。
私の言動はすべて「私のため」です。
社会のためという意識はありません。
きわめて利己的なのです。
しかし、利己的であることは利他的に通じます。
近江商人が行き着いた商人道、あるいは宮澤賢治の「世界みんなの幸せがあって自分の幸せが実現する」という世界観のように、社会がたくさんの「私」で構成されているのであれば、「私のため」こそが社会を構成しているのです。
「社会のためにやっています」などという言葉は、私には理解しにくい言葉です。
第一、「社会」ってなんでしょうか。
見る視座や視野によって、全く内容は違ってくるでしょう。
そういう言葉が多すぎるのが現代かもしれません。

社会の最小単位は家族だろうと思います。
その原点はもちろん夫婦ですが、その夫婦や家族がいま大きく変わろうとしています。
男女共同参画は今の夫婦や家族関係を壊そうとしていますし、現代の経済システムもまた、これまでの家族関係が阻害要因になってきているのかもしれません。
いずれにしろ「家族」はいま、危機に瀕しています。
少子化の原因は夫婦や家族の制度の崩壊に起因していると私は思っています。
児童手当などはそれを加速するだけでしょう。
家族のあり方を、改めて考えなおすべき時期にきているような気がします。
家族を軽視して、社会のあり方は見えてきません。
もちろんここでいう「家族」は血縁家族に限っているわけではありませんが。

昨日、「女房のため」と書いたら、女房から「家族のため」ではないのかと指摘されました。
「女房のため」か「家族のため」か、あるいは「自分のため」か。
そうしたところから考えた上で、「社会のため」を語ることが大切ではないかと思います。
自分も家族も、社会の構成要素なのですから。

最近、人生について、いろいろと考えることが多いのです。
歳のせいでしょうか。
いや年甲斐もなく、でしょうか。

■お金で豊かさを買うのではなく、豊かさでお金を買う社会(2007年2月28日)
もう一度だけ、生き方について書きます。
お金と豊かさの関係です。
私たちは、豊かな暮らしのためにお金を稼ごうとしています。
確かにお金があれば、美味しい食事も楽しい旅行もでき、豊かな時間がすごせるかもしれません。
しかし、その一時の豊かさの時間のために、どれほどの豊かな時間や気持ちを注ぎ込んだことでしょうか。
豊かではないたくさんの時間を、わずかな豊かな時間を手に入れるために使っているのではないでしょうか。
お金で快適な家を手に入れることが出来たとして、その家でゆっくりと豊かな時間を過ごすことができている人がどのくらいいるでしょうか。

お金があれば何でも買えるという若者もいましたが、お金で買えないのが「豊かさ」ではないかという気がします。
まあ、「豊かさとは何か」という定義にもよりますが。
お金の多さこそが豊かさの高さを示すのではないかという人もいるでしょうが、豊かではない金持ちも、豊かな生活をしている貧乏人もいます。

私たちの最近の生活は、「お金で豊かさを買う」のではなく、むしろ「豊かさを犠牲にしてお金を稼ぐ」生活をしているのではないかという気がします。
いずれにしろ、お金と豊かさが交換されているわけですが、消費の局面ではなく、労働(生産)の局面で交換されていると考えると新しい風景が見えてくるような気がします。
お金がないから豊かではない、のではなく、本来は豊かな暮らしが出来るはずなのに、それを犠牲にして、その対価としてお金を得ているのが、最近の多くの人のワークスタイルです。
そして、その延長として生活的にではなく、経済的に消費行動をしているのが、若者たちの生き方かもしれません。私には、最近の消費もまた経済活動に組み込まれた貧しさを感じてしまうのです。つまり、消費の局面でも実は豊かさを犠牲にする仕組みが広がっているように感ずるのです。

お金で豊かさを買っていたつもりが、実は豊かさでお金を買っていた。
そう考えてみると、きっと違った風景が見えてくるような気がします。

■「君が代伴奏命令は合憲」という最高裁判決(2007年3月1日)
入学式で君が代を伴奏することを拒否して懲戒処分された小学校教諭が起こしていた違憲訴訟は、最高裁が「公務員は、思想・良心の自由も制約を受ける」とした1、2審判決を支持し、上告を棄却したため、合憲が確定しました。
一昨日の新聞で報道されています。
http://www.asahi.com/national/update/0227/TKY200702270392.html

おそらく多くの人が、裁判長の「学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めた以上、音楽教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択。職務上の義務として、伴奏させることも必要な措置として憲法上許される」という判断にあまり違和感を持たないのではないかと思います。むしろ日教組の体制批判的なイメージを思い出すかもしれません。

「君が代問題」については、このブログでも何回も書いていますし、CWSコモンズでも書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132
私も4年前であれば、見過ごしていたかもしれません。
私は君が代も歌えますし、日の丸にも特別の違和感はないのです。
そんなことに目くじらをたてることはないではないか、と思っていたのです。
しかし、君が代を歌えず、日の丸の前では立てない渡辺さんの思いを知ってからは、考えが変わりました。
目くじらを立てていたのはどちらか、ということを改めて考えてみると、違った見え方がしてきました。
強制するのではなく、歌えない人、立てない人が、歌えるようになり、立てるようになるにはどうしたらいいかを考えるべきだと考えるようになりました。
サッカー選手が君が代を歌うのをやめさせようなどとは渡辺さんも考えてはいないはずです。
寛容でないのはだれなのか、答は明確のような気がします。
君が代問題の背後にある、私たちが背負っている歴史を、もっと明らかにしていくことが大切です。

この判決には反対意見が付されています。
5人の裁判官のうち、一人だけが、「原告の思想・良心の自由とは正確にどのような内容か検討し、公共の利益との比較についてより具体的に検討する必要がある」と述べ、審理を高裁に差し戻すべきだとしたのです。
敗訴した教師は、「上告して良かったと思っています。藤田裁判官の少数意見が付いたから」と語ったそうです(朝日新聞)。

先日、テレビ朝日の報道ステーションで、40年前の袴田事件の裁判官だった熊本さんが、自らが書いた判決に関して、自分は無罪だと思っていたと告白したことが報道されていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
報道ステーションのホームページから引用させてもらいます。

「袴田事件」で、元裁判官が新証言
1966年、静岡県の旧清水市で味噌会社の専務一家4人が惨殺され、味噌会社の従業員で元プロボクサーの袴田巌死刑囚が逮捕された、いわゆる「袴田事件」で、担当した元裁判官が心境を語った。「事件の進行具合では無罪だと思った」と語る熊本典道・元裁判官。裁判は3人の合議制で行われ、無罪を主張したのは熊本氏だけだった。法廷に提出された自白調書は45通で、採用されたのは1通のみ。残りの44通は「任意性がない」として却下された。「袴田事件を一生背負っていかなければならない」と語る熊本氏は、袴田死刑囚の再審請求に協力する意向だ。

熊本さんは当時29歳。皮肉にも無罪を主張した熊本さんが死刑判決分を書かされることになったのだそうです。そして熊本さんは、判決の7ヶ月後に裁判官を辞職したのだそうです。袴田さんもですが、熊本さんも人生を大きく変えてしまったわけです。
ちなみに残りの2人の裁判官はもうなくなっています。
なぜ今頃になってと思いますが、熊本さんはその荷物を背負ったままでは死ねなかったのでしょう。いま言っておかねば、という熊本さんの思いが画面から強く伝わってきました。
もし当時、反対意見も併記されていたらどうだったでしょうか。

民主主義とは多数決ではありません。
少数の意見が大切にされることです。
法曹界の人たちが、もし司法の民主化というのであれば、そのことを忘れないでほしいものです。

ひどい裁判が多すぎますが、今回の反対意見の存在には少しホッとしました。

■自殺は卑怯という言葉(2007年3月2日)
先日の朝日新聞の投書欄に、「『自殺は卑怯』胸に残る一言」と題して、命よりも大切なものはないという信念を持って生きよう、という投書がありました。
それに関して、昨日、息子を自殺で失った母親から、「「自殺は卑怯」冷酷な言葉だ」と題して、「意見はもっともだが、私たち遺族にとってはつらすぎる」という投書が寄せられていました。
いずれの人も、何とか自殺を止めたいという思いでは一致しているはずですが、言葉の受け止め方は全く違ってきます。
立場が違うと同じ言葉が全く違った意味を持ってきます。
ですから、相手の立場になって考えることが大切ですが、実際には限界があります。
とりわけ自殺のような問題は、決して当事者にはなりえないのです。
そして、お互いの善意が、お互いの不幸を生み出してしまうことも少なくありません。
私たちは、気づかないうちに、まわりの人を傷つけていることがあるのかもしれません。
言葉とは、本当に難しいものです。
バベルの塔の教訓を、私たちはもっと学ばなければいけないのかもしれません。

昨日投書された方は、最後にこう書いています。
昨年10月、自殺対策基本法が施行された。年間約3万人の自殺者を出す日本の状況を直視することが、故人への批判よりも重要だ。

本当にそう思います。
毎年3万人以上の人が自らの命を絶つというような状況は何とかして変えていかなければならないと思います。
その状況を作り出しているのは、私たち一人ひとりの生き方だとしたら、変えられないはずがないのですから。

■マスメディアの捏造機能(2007年3月3日)
テレビ番組でのデータ捏造行為の発覚がまだ続いています。
まるで、「捏造!あるある大事典」のようですが、そもそもこの事件が最初に起こった時に、どの程度の人が驚いたのでしょうか。
私は何をいまさらという感じでした。
こんなに大騒ぎになるとは思ってもいませんでした。

「産業のジレンマ」と同じ構図がマスコミの世界にもあるように思います。
産業のジレンマとは、産業が新しい社会問題を起こし、市場を自己創出していくということですが、マスメディアもまた、自らが話題を自己創出していくという性格を持っています。
ですから、「捏造」こそがマスメディアの機能ではないかと、私は思っています。
そう考えていますから、何をいまさらと思ったわけです。

「捏造」はマスメディアにはよくある話です。
新聞も含めて、マスメディアに関わって、自らの関わる事実とは違った報道をされて、迷惑を受けた人も少なくないでしょう。
私も何回か体験しました。
マスメディアの「捏造」が犯罪事件を助長した事例もあります。
そもそもマスメディアにおける情報は、編集されるものですから、事実とは別のもう一つの世界になっているというべきでしょう。
ですからそこでの捏造などは日常茶飯事のはずです。
少し思い出してもらえれば、意図的な捏造ではないかもしれませんが、結果としての捏造の例には枚挙がないでしょう。
イラク戦争もサリン事件も、あるいは数々の冤罪も、マスメディアが捏造した(と思える)報道に支えられています。
時に権力は、そうした捏造をマスメディアを使って仕組むこともあるように思います。
マスコミのニュースには、多かれ少なかれ「捏造」の要素が含まれているといっても良いでしょう。
そもそも第二次情報はすべて「意図」と「編集」が入りますから、解釈情報であり、捏造的な要素が入り込むのは当然なのです。
そうでなければ、メッセージ性は高まりません。
「花伝書」を持ち出すこともないですが、事実以上に事実らしくしなければ、情報は伝わりませんし、説得力を持ちません。

そもそもマスメディアとは、そういうものだという認識が大切です。
目くじら立てて、捏造を暴き出していったら、テレビ報道などは成り立たなくなるでしょう。
今回程度の捏造などは、それこそいくらでもあるでしょう。
そんなことよりも、政府や企業や経済界が発信する情報の捏造性をチェックするほうが大切だと思えて仕方がありません。

しかし、捏造って一体なんでしょうか。
そうでないものがあるのでしょうか。
それすらも私にはいささかの疑問があります。

■患者だって医者の役に立っている(2007年3月4日)
今日、NHKで「百万回の永訣〜柳原和子 がんを生き抜く〜」が放映されました。
柳原さんのことは、CWSコモンズにも何回か登場しましたが、「がん患者学」の著書もあり、NHKのがんサポートキャンペーンにも同時進行的なエッセーを連載しています。
柳原さんががんばっている姿は私たちにも大きな力を与えてくれています。
こういう番組は、当事者にはかなり厳しいものですので、見たい気分が半分、見たくない気分が半分というのが正直なところです。
迷っていたのですが、見せてもらいました。
元気そうな柳原さんの姿を見て、とてもうれしく思いましたが、その後ろにある柳原さんの姿も垣間見えて、複雑な気持ちで見せてもらいました。
その番組のなかで、柳原さんがある集まりで、こんな主旨の発言をされています。
患者が喜ぶのを医師が喜んでくれる。患者でも医師に役立つことが出来るんだと思った。
この言葉にとても共感できました。
癒しているのは医師ではなく、患者かもしれない。
そんな思いが、最近強くなっています。
病んでいるのは医師ではないか、というわけです。
病院における医師と患者の関係は、双方向であり、ホスピタルの本質は実は患者が創りだしているのかもしれません。
柳原さんの主治医の一人は工藤医師です。
工藤さんが、自分の専門分野以外は最新の知見は知らないので、他の先生に相談する、というような主旨の発言をしていました。
これにも感激しました。
そんなことは当然なのですが、実際にはほとんど行われていないのも事実でしょう。
最近の医師は忙しすぎるのです。
このブログでも医療時評を始めようと予告したのですが、なかなか書けずにいます。
先週、CWSコモンズには病院の呼び方に関して書きましたが、そろそろこのブログでも医療関係の記事を抑え目に書き出そうと思います。
ところで、タイトルにした「患者だって医者の役に立っている」という言葉ですが、これにはさまざまな意味が込められているように思います。
それはともかあく、この言葉をひっくり返すと、こうなります。
「医者だって患者の役に立っている」
この2つの命題のどちらにより大きな真実があるでしょうか。
今の日本の医療制度の問題の本質は、この2つの命題のどちらに軸足をおいているかに関連しているかもしれません。
視点を変えると風景は全く変わってくることの典型的な一例がここにもあるような気がします。
ちなみに、これから書く医療時評は、そんなラディカルな内容は書かないつもりです。


■冤罪を生みだした検事や警察はなぜ裁かれないのでしょうか(2007年3月5日)
今朝の朝日新聞に富山冤罪事件の被害者への取材記事が出ていました。
http://www.asahi.com/national/update/0304/TKY200703040205.html
富山冤罪事件は、富山県警は1月19日、懲役3年の実刑判決を受け服役した県内の男性(39)が無実だったと発表しました。これが富山冤罪事件です。
いろいろなサイトで取り上げられています。
たとえばこのサイトをご覧ください。
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1634184641/E20070201110429/index.html
こうした冤罪事件は、今もかなり多いような気がしますが、それを正す方策がほとんど行われていません。
それを放置しておいて、司法改革などはないと思いますが、警察の民主化は大きなパラダイム転換をしなければいけませんから、統治側、つまり政府は本気では手をつけないでしょう。
時代は暴力的な支配社会からパノプティコン型の自律社会へと向かっているとはいうものの、逆のそうした状況の中では暴力的な支配構造は見逃されやすくなります。冤罪はそうした典型的な事例の一つです。誰も、そんなことはあるまいと考えてしまうわけです。裁判員精度の前に、こうした状況にこそ目を向けるべきですが、そうしたことを隠すためにこそ、裁判員制度は話題にされているというべきでしょう。そこに法曹界の闇があります。司法の役割は、秩序維持ですが、それは正義論とは別の話です。
新聞報道では、県警や富山地検はそれぞれ「故意または重過失ではない」「職務上の義務に反したわけではない」と、当時の捜査関係者を処分しない方針を示しているといいます。なんということでしょう。権力を傘にきた悪代官そのものの構図が今も存続しているのです。しかも彼らがおかした「犯罪〕の償いは、私たち税金から支払われることになっています。
彼らこそ犯罪者として断罪すべきです。
しかし彼らは重過失罪にも問われずに、これからも平和に生活していけるのです。
パサジェルカの世界です。
なかには熊本さんのような方がいるかもしれませんが、問題は構造の問題です。
権力に支えられた仕事とそうでない仕事は、恐ろしいほどに違うのです。
しかも、だれでもが冤罪の被害者になりうるのです。
恐ろしいと思いませんか。

■地球温暖化論議のむなしさ(2007年3月6日)
今年は暖冬でした。
一昨日、私の住んでいる我孫子市ではなんと20度近い温度になったそうです。
街中をTシャツ1枚で歩いている若者にも出会いました。
昨日は鶯が庭で鳴いていました。
どうなっているのでしょうか。
地球温暖化のせいでしょうか。

友人が「田中宇の国際ニュース解説」というサイトを教えてくれました。
http://tanakanews.com/
そこに「地球温暖化のエセ科学」という記事があります。
http://tanakanews.com/070220warming.htm
昨今の地球温暖化説は政治的なキャンペーンだと言う指摘です。
それが正しいかどうかは私にはわかりませんが、こうした議論を聞く度に思い出すのが、「オゾン戦争」と言われる米国でのフロンガスをめぐる論争です。
これに関しては、三省堂から「オゾン戦争」という本が出ていますので、関心のある方はぜひお読みください。
私もある小論で、その話を書いたことがあります。

フロンガスに関しては今では決着がついているのではないかと思いますが、まだ決着のつかない問題に関しても、予防原則の立場に立てば、対応に仕方はおのずと明らかです。
日本では残念ながら「予防原則」は多くの場合、基準になっていませんが、取り返しのつかない間違いを犯す可能性が少しでもあるのであれば、経済的にも予防原則を採用するべきでしょう。
これは昨日書いた「冤罪問題」のようなことにも当てはまる話です。

私がこうした論争で残念に思うのは、しっかりした相互理解と共創の姿勢が欠落していることです。
たとえば原子力の問題での議論は、多くの場合、すれ違いです。
諫早湾開拓の話もそうでしょう。
みんなが目指す社会はたぶん同じはずなのですが、その判断の元になる材料(情報)と時間軸の取り方で価値基準がかわってしまうのです。
そのため情報のやり取りは行われても、相互に学びあい価値を創りだそうとするコラボレーション(共創)は起こらないことが多いのです。
地球温暖化が進んでいるのかどうなのか、またその原因は何なのか、その速度はどの程度なのか。
そんなことはまだわかっていないはずです。
しかし現実の自然の動きが変調を来たしている事実は否定できないように思います。
その事実をホリスティックに捉えて、さまざまな立場から誠実に議論していくことが大切です。
そういう姿勢がなかなか育ってこないのは残念なことです。
「対立」からは何も生まれませんが、「共創」からはきっと何かが生まれます。

科学とはあくまでもある前提からの論理帰結でしかないのですから、前提の事実が変われば結論も変わります。
そして全知全能の神でないかぎり、その前提要素は可変的なのです。
専門家はそうしたことを自覚しているでしょうが、中途半端な人は前提要素の世界の中でしか発想できません。そうした専門家や科学者が多すぎます。

■病院におけるコミュニケーションの出発点(2007年3月7日)
先日、朝日ニュースターの番組に出た時に、病院におけるコミュニケーションが話題になりました。
済世会関係の病院の院長や入院中の患者もいたので、話はリアルで具体的でした。
その病院では、先ず患者に「セカンドオピニオン」の話をするそうです。
私はこれまで経験したことがなく、セカンドオピニオンをどう切り出せばいいか、今も悩んでいますので、その話には感激しました。
しかしその病院に入院中の人が、「そういわれても実際にセカンドオピニオンを実行するのは難しい」と発言しました。
それもまた同感できます。きっとどこかに制度設計の欠点があるのです。もったいない話です。

以前、女房の主治医とインフォームドコンセントについて話しました。
主治医はとても丁寧に説明してくれますから、何となくわかったような気になります。しかし知識や情報に大きな差があり、立場も正反対ですから、現実には情報を共有するのは至難なことです。
要は医師を信頼できるかどうかというようなことになります。
幸いに私たちの主治医は、そのことがよくわかっていて、制度的なインフォームドコンセントではなく、ヒューマンなカウンセリングを重視してくれています。

コミュニケーションとは何かはいろいろな受け止め方があるでしょうが、単なる情報のやり取りではないということは間違いありません
私は、コミュニケーションとは共有する世界を広げることだと思っています。
そして、コミュニケーションの出発点は「信頼」であり、コミュニケーションの到達点もまた「信頼」であると思っています。

いま通っている病院では、毎回1〜2時間は待たされます。
しかし、医師が「長く待たせてしまい、すいません」と目を見ながらにこやかに言ってくれると、その時点で待たされた時間の不満は氷解します。
そこから効果的なコミュニケーションが始まります。
その一言がない場合は、それだけで疲れてしまいます。
コミュニケーションとはそんなものだろうと思います。
前者の医師は患者の視点で考えていることを感じさせますが、後者の場合は患者を対象物として考えているような気さえします。
医師の忙しさは理解できても、信頼感は生まれにくいでしょう。

病気に関する説明も、まずは患者の話や不安をきちんと聞くことから始めれば、患者が受け入れる話し方が見えてくるはずです。
コミュニケーションにとって大切なのは、「話すこと」ではなく「聴くこと」です。
いくら話しても、相手が聞き入れなければ意味がありません。
そのことを理解している人は決して多くはありません。

最近、病院でのコミュニケーションの問題が話題になってきており、様々な試みが行われだしています。
それはとてもうれしいことです。
しかし、多くの場合、制度的なところにばかり目が行っているのではないかと思います。人間のコミュニケーションは、機械の情報伝達とは違います。
コミュニケーションは、論理の世界の話ではなく、感性の世界の話ではないかと私は思っています。

病院は英語でホスピタルです。
ホスピタリティと同じ語源から生まれた言葉です。
ホスピタリティはサービスとは違い、心を開いた、対等の目線でのもてなしのことです。
病院のコミュニケーションの問題は、そうした視点で考えていくことが大切なような気がします。
そういう視点に立てば、空間設計も含めて、今の病院は大きく変わっていくはずです。

■「鹿児島地検が12人全員の控訴断念」という表現(2007年3月9日)
新聞を読んでいて、時々、あれっ、と思うことがあります。
たとえば、今朝の朝日新聞にこんな見出しがあります。
鹿児島地検が12人全員の控訴断念 
鹿児島県議選で公選法違反の罪に問われた12人全員が無罪になった事件に関する話です。
私が気になったのは「断念」という言葉です。
この事件の真実は、もちろん私には判断できませんが、
控訴を断念したという表現だと、本当は有罪なのだが証明できないので控訴を断念したというようなニュアンスを感じます。底に検察の無念さ、悔しさを感じます。
つまり、裁判では無罪だったのだが、本当は有罪なのだという意味が言外に感じられるということです。
それもそう強くではなく、無意識の次元での話です。
一種のサブリミナリー効果です。
同じ新聞に、この事件に関連して、「警察庁は、全国の都道府県警察に綿密で適正な捜査を徹底するよう通達を出した」という記事が出ています。
この記事は、警察による不適正な捜査の存在を認めているわけです。
警察による不適正な捜査が人権を踏みにじることがあれば、それは立派な犯罪ですが、権力の犯罪の多くは、秩序維持の大義のもとに見逃されるのがほとんどですから、実際には裁かれる犯罪にはなりません。
この2つの記事が含意することをつなげて考えると、いささか末恐ろしい未来が見えてきます。
いや、未来ではなく現在というべきでしょうか。

新聞の見出しは、現場記者ではない人がつけると聞いていますが、
見出しのメッセージの影響の強さを考えれば、もっと慎重であるべきでしょう。
どの視点で記事を総括するかで、メッセージは全く変わってくるはずですから。
ジャーナリストの視点は、常に権力批判的なところに置かれていないと、権力側にとってもその対象側にとっても、良い結果を生まないでしょう。
そうしたことをジャーナリストはもっと認識すべきではないかと思います。
この見出しは、「鹿児島地検控訴せず反省」としたいですね。

■おふくろさん騒動に思うこと(2007年3月10日)
森進一と川内康範のおふくろさん騒動がますます大きくなっています。
先日、川内さんが住んでいた三沢市に行った時に、その話を聞いたのですが、まさかここまで大きな問題になるとは思っていませんでした。
これもまた、今の社会を象徴しています。
私自身は、知的所有権という概念にはあまりなじめない人間なのですが、問題の本質はたぶんそんな話ではないのでしょう。
人と人との付き合い方の基本的な姿勢にあるのではないかと勝手に推測しています。
そういう視点では、川内さんの発言の後ろにあるメッセージに共感してしまいます。
世の中の争いの多くは、ちょっとした考えのずれから始まります。
その小さなずれが、バタフライ効果のように、大きな違いを生み出していきます。
その違いが小さなうちは、お互いに見過ごすか、自分に都合よく理解し問題視しないことがほとんどです。
しかし、その間にそのどちらかにストレスがたまっていきます。
それが閾値を超えると爆発してしまうのでしょう。
そうなるともはや論理の話ではないですから、論理的な解決策は逆効果です。

まあ今回の事件ほど大きくはなくても、こうしたことは誰もがきっと経験していることでしょう。
人の付き合いの範囲が拡大し、時間も忙しくなってくると、誰にも起こりえる話です。
決して他人事ではありません。
みなさんの周りは大丈夫でしょうか。
私の周りは、・・・・、かなり心配です。
私自身の生き方の粗雑さに、この頃、改めて反省をしているところです。

それにしても、日本の社会の支えであった「人のつながり」がどんどんと壊れてしまっている流れを早く反転させなければいけません。
いまの「構造改革」は社会を壊すだけの改革でしかありません。
この数年で失ったものの大きさに、そろそろ気づくべきでしょう。
そう思えてなりません。

■3大関と横綱が敗れました(2007年3月11日)
今日から始まった大相撲春場所で、3大関と横綱が敗れました。
そのテレビを見ていて、今場所の相撲は面白くなりそうだと思った人と退屈になりそうだと思った人がいるでしょう。
皆さんはどちらでしょうか。
私は後者です。
たぶん、今場所の相撲のテレビはもう見ないでしょう。

私は、弱い存在が強い存在を打ち負かすことに拍手を送るタイプです。
典型的な日本人かもしれません。
あるいは自分が強い存在になれない、負け犬的根性が染み付いているのかもしれません。
子どもの頃からいつもそうでした。
このブログの記事も、極めて攻撃的なものが多いですが、
常に攻撃の対象は「強い存在」に向けているつもりです。
もっとも「強さ」と「弱さ」は、コインの裏表ですから、時には弱い存在を批判しているかもしれませんが、私が攻撃して負けるような相手は攻撃をしていないつもりです。
負け犬の遠吠えかもしれません。

にも関わらず、強いはずの大関、横綱がそろって負けてしまうことに、なんとなく気分がスカッとしないのはなぜでしょうか。
別にそんなことに意味などないし、どうでもいいじゃなかいかといわれそうですが、
それで納得せずに、その理由を哲学してしまうのが、私の悪癖です。

きっと私の心のどこかで、
大関や横綱はもはや強い存在ではなく、弱い存在だと考えているのです。
強さと弱さが逆転してしまう。
そんな時代に私たちは生きています。
そんなことをテレビを見ながら感じていました。
先入観を外して考えると、強弱の風景はちょっと変わって見えてきそうです。

■うたごえ喫茶からカラオケへ(2007年3月13日)
女房と近くで開催されたボニージャックスのチャリティコンサートに行きました。
その一部が「うたごえ喫茶」でした。
会場のみんなと一緒に歌うコーナーです。
40年前を思い出して、女房と一緒に久しぶりに歌いました。

私はカラオケが好きではありません。流行していた時にも、仕事の付き合いでカラオケに行くのが苦痛でした。あまり行きませんでしたし、歌いもしませんでした。
会社時代に社長がカラオケというか生オケというか、ともかく好きで、それにつき合わされたのが本当に苦痛でした。全く歌わないわけにもいきませんでしたが、私が唯一歌ったのは、水谷豊の「カリフォルニアコネクション」でした。この歌はアップテンポなのでスマートに歌えるのです。情を込めずに歌えるということです。

カラオケは嫌いですが、うたごえ喫茶の文化は好きでした。
全共闘世代の前の世代なのですが、連帯とか共闘ということにはなぜか心がうずきます。
今でもそうです。

ソーシャル・キャピタル論の原点になった、社会学者パットナムの「ひとりでボーリングをする」という論文があります。
アメリカのボーリング人口はそう減っていないのに、なぜか一人でボーリングする人が増えてきたという問題提起の小論です。
そこから社会の大きな変質が示唆され、ソーシャル・キャピタル論が広がっていくのですが、日本では「うたごえ喫茶からカラオケへ」というのが、まさに社会の変質を示唆しています。
「カチューシャ」や「ともしび」などという、1960年代に大流行した歌を、うたごえ喫茶風に歌いながら、そんなことを考えていました。
コンサートには1500人くらいの人が入場していましたが、少なくとも私の周りの人はほぼすべて歌っていました。しかも1曲は、ボニージャックスは歌わずに、会場だけで大合唱になりました。共通の言語とつながる思いが、まだ残っているのです。
40年前の時代が良かった、などという気はありませんが、思い出すだけでも表情のある物語が際限なく浮かんできます。この30年の思い出とは全く違うような気がします。
日本のソーシャル・キャピタル論を考える視座が、ここにあるような気がします。

うたごえ喫茶で好んで歌われたのがロシア民謡です。
念のために言えば、ソ連民謡ではなく、ロシア民謡です。
ソ連が捨ててきた文化の一つだと思いますが、それもまた実に示唆に富むことです。当時はそんなことには全く気づきませんでしたが。

最近また団塊シニアたちがうたごえ喫茶を再開させているようです。
そのエネルギーは社会と未来に向けてではなく、仲間と現在に向けられているような気もしますが、もしかしたら、また社会が動き出すのかもしれません。
以前、書いた掛川で行われた嬬恋コンサート2006もそうですが、何かが動き出そうとしている気配はあります。
もちろん、それをつぶそうという動きのほうが圧倒的に強いですが、不敵の朝青龍が連敗したように、地盤変化が起ころうとしているのかもしれません。
まあ、私が生きている間には顕在化はしないでしょうが。

■都知事選に4人も立候補してしまいました(2007年3月14日)
都知事選に4人の候補者がほぼ出揃いました。
当選の可能性のあるのはおそらく石原さんと浅野さんだけでしょうが、にもかかわらずなぜ4人も出るのか。選挙はさまざまな意味をもっているのでしょうね。
ただ、上記の2人以外の人が当選する可能性は皆無かといえば、そんなことはありません。過去においても、本命の2人が争っているうちに、予想外の第三者が漁夫の利を得る結果になったことは必ずしも少なくありません。それが良い結果をもたらしたケースもあります。
しかし、今回の知事選に限って言えば、そうした結果にはたぶんならないでしょう。

選挙は啓発やPRの場として捉え、当選は二の次にする考えもあります。
共産党の選挙姿勢は、そうした考えで貫かれているようですが、今回の都知事選もその延長と考えていいでしょう。
もちろん長期的には当選を目指しているわけですが、目先の当選は目指さない考えです。
つまり、共産党にとっての選挙は、啓蒙活動であり、運動といってもいいでしょう。
それもひとつの見識であり、戦略でしょうが、その発想は自らの党利党略を優先していますから、社会の視点は乏しいです。
それが共産党の伸びない理由だと私は思っています。
政党としては、そして主張としては、共産党が一番しっかりしているといつも感じますが、共産党には先ず投票したことはありません。
私が考える選挙ではないからです。

黒川さんやふくろう博士の場合は、どうでしょうか。
まさか当選の可能性があるなどとは思ってはいないでしょう。
黒川さんは石原知事続投を防止するためといっていましたが、そうした選挙観にはとても私は共感できません。
結果的には石原続投を支援することになるでしょうから、その見識も疑わざるを得ません。
強いものに最も利するのは、そうした独善的な視野の狭い言動です。
反権力勢力を無節操に分断する効果しかありません。

もっとも黒川さんの場合は、それを承知でのことかもしれません。
国会議員選挙にも当選の可能性の全くない立候補者が毎回のように立候補しますが、その人たちの動機とそう違わないのかもしれません。
いずれにしろ動機は全く自分勝手で不純だと思えてなりません。
本人はそうは思っておらずに、純粋なのかもしれませんが。

問題は、都知事選で問われるべき課題と都民の判断が結果に的確に伝わることです。
そうした視点から、どういう姿勢で選挙に臨むかを考えるべきだと私は思いますが、そういう視点で考えている人はいないように思います。
おかしな言い方ですが、そういう意味では、石原さんが一番考えているような気もします。
もちろん私は彼のような人はリーダーには相応しくない人だと思いますので、石原さん以外の人であれば、だれでも彼よりはもっと良くなると思っています。

話は違いますが、「平和への結集をめざす市民の風」というネットワーク組織が、平和憲法を守るために、「憲法の平和主義を守り活かす」ことに焦点を置いて、政策の違いや組織の立場を超えて、統一候補に終結しようという活動を展開しています。
その理念に共感して、私も最初は呼びかけ人や運営委員に名前を連ねていましたが、「憲法の平和主義を守り活かす」という一点を基本に、大同団結することの難しさを実感しました。
問題意識の旺盛な方であればあるだけ、小異にこだわり、大同を設計しにくいということも体験しました。そして、活動の目標が、結局は盛りだくさんになったり、小異を捨てられなかったりしてしまい、結集は絵空後地になりかねないのです。
一時は成功したかに見えた沖縄でも、知事選では大同団結できませんでした。
都知事選でも、反石原での結集を働きかけましたが、実現できませんでした。
結果的には浅野さんが立候補したので、かなりの結集は出来そうですが。

体制を変えていくのは至難のことです。
現在の体制が抱える問題はさまざまであり、その批判勢力はどこに重点を置くかで政策や攻め方が変わってくるからです。
その結果、批判勢力はどうしても分散しがちです。
そして反石原の人が3人も出てしまうことになるわけです。
批判票が分散すれば、現体制、あるいは目標が明確な人が戦いやすくなるはずです。
反体制の分散した小さな動きが増えれば増えるほど、体制は強固になっていくのです。
そしてナチスは国家を掌握していったのです。
勢いがついてくれば、それを止めることは難しくなり、このブログのような負け犬の遠吠えは増えても、効果は出てこないでしょう。
困ったものです。

選挙って何なのかを書こうと思って書き出したのですが、どうも違うところに話が行ってしまいました。
最近の選挙って、何なのかについては明日、書くことにします。


■知事選におけるポジティブキャンペーンへの期待(2007年3月15日)
都知事選のことを昨日書きましたが、今日は最近の首長選挙での争点のことです。
最近の首長選挙では、すでに決まったことを中止することを掲げた人が当選することが増えているような気がします。
ネガティブキャンペーンが強い時代になってしまいました。
これは私にとっては、あまり楽しいことではありません。
ネガティブキャンペーンは、人を元気にしません。
人が元気になるのはポジティブキャンペーンです。
ネガティブキャンペーンが優勢になる時代は、決して健全とはいえません。

昨年の滋賀の知事の争点は、すでに工事が始まっていた新幹線駅の新設を中止することが争点でした。
今回の都知事選挙の争点はオリンピック招致中止です。
少し違いますが、長野県知事選の争点も、脱ダム政策の見直しでした。
多くの知事選がネガティブキャンペーンです。
明るい未来のイメージはそこからは見えてきません。

何か新しいことに挑戦するのがリーダーの役割であり、首長を選ぶ場合も、そんなわくわくするような未来への期待や思いがあればこそ、選挙への関心が高まり、そこに政治のハレの場が実現するというのが、私の首長選挙観ですが、そういう選挙は少なくなってしまいました。
ですからどうしても首長選挙には関心が低下しがちです。
それは私だけではないように思います。

どうしてネガティブキャンペーンが増えてきたのか。
それは現実への不満が高まっているということです。
しかも、その現実は未来も含めた現実です。
未来への不安の高まりといってもいいでしょう。

こうした状況が起こったのは、1990年代に入ってからです。
バブルがはじけてからといってもいいでしょう。
世界都市博覧会中止を掲げて青島さんが都知事に選ばれたのは1995年でした。

小泉内閣のキャンペーンもネガティブキャンペーンだったように思います。
わくわくするような未来への展望はありませんでした。
内容のない、小手先の表現で、巧みに言いくるめはしたもの、改革によって実現するビジョンは何も語られませんでした。
その時代がまだ続いています。

未来を語ることで、選挙がハレの場になる時代はいつ戻ってくるのでしょうか。
今回の都知事選で、浅野さんにはポジティブキャンペーンを展開してほしいと思っています。

■都知事選立候補者4人の討論会をテレビでみました(2007年3月16日)
昨夜の都知事選立候補者4人の話し合いをテレビで聴きました。
話を聞いていて、一番魅力的なのは残念ながら石原さんでした。
個人の人間性が出ているからです。好き嫌いはともかく。
それに論理を根底に置きながら、自分の感性で話しています。
黒川さんは論理的ではない上に、感性というよりも感情という感じでした。
浅野さんと吉田さんは話の内容は共感できますが、論理発想が勝っています。
つまり「正しすぎる」ような気がします。
一言で言えば、退屈なのです。
この2人のいずれかが知事になったら、きっと東京は良くなるだろうなという感じはしましたが、面白くはならないだろうなと思いました。
今のような時代には、「面白さ」はとても大切な要素です。

今回は浅野さんで決まりだと思っていましたが、昨日のテレビを見て、わからなくなりました。
石原さんはオリンピックで夢を与えたいと語りましたが、これはポジティブアプローチです。
結果として、夢は悪夢になりかねませんが、やはり心を揺さぶるのは夢とビジョンだと思いました。
皆さんはどう評価しているでしょうか。

■国会での議論のあり方(2007年3月18日)
都知事選候補者たちの討論はなかなか面白いです。
問題がしぼられているからかもしれませんが、議論の中でさまざまな政治課題とそれぞれの姿勢が見えてきます。
議論にも人間性が出ていますし、なによりも自分の言葉で議論されています。

ところが、国会での議論はいつも退屈です。
最近の例で言えば、松岡農水相の光熱水費問題の質疑を聞いているとまったく国会議員というのはどういう人間なのかと疑いたくなるばかりか、こういう議論のために税金を納めているのかと思うと納税意識はとても出てきません。
それにしても国会での議論はどうしてこうも無意味な内容ばかりなのでしょうか。
私は昨年春までは比較的国会実況はテレビで観ていたほうだと思いますが、腹立たしいことのほうが多かったです。
議論になっていないのです。質問するほうも、そうしたことを前提にしているのかもしれません。

せめて国会での議論も、いまの都知事選候補者の議論の水準にはしてほしいと思います。
そうでないと、国政への信頼感や納税意識は育たないのではないかと心配です。
自分の言葉でしっかりと語る政治家が出てきてほしいです。
都知事選に立候補した4人には、それを感じます。

なぜ国会議員にはそれができないのか、その理由はいろいろとあげられますが、おそらく議論すべき課題の水準が違うのではないかと思います。
その議論すべき課題に正面から向かうのが難しいために、問題を安直に摩り替えてしまうことが多いように思います。
松岡農水相の光熱水費問題はその典型例です。
わかりやすいが故に、盛んに取り上げられているようですが、本末転倒な話です。

それに、多額な光熱水費をはらって環境負荷を与えているのではないかというような質問は、テレビバラエティではいいでしょうが、国会で質問すべきことではないでしょう。質問者の見識を疑います。
最近の国会議員の質問は、アリバイ工作と国民の受け狙いに焦点が置かれているような気がしてなりません。

本当に大切なことは、いったいどこで議論されているのでしょうか。
議論はされていないのではないかと、いささか不安です。

それにしても、国会での審議よりも、テレビでの公開討論会のほうが面白く、内容があることが多いのは、どう考えるべきでしょうか。
国会での審議の方法を、そろそろ考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
党議拘束や組織起点発想の呪縛から、そろそろ自由にならなければならないと思います。

■日本の仏教界からのメッセージは何でしょうか(2007年3月19日)
最近、なぜか「仏教」の話題が、私の周りで増えています。
先月から毎日、般若心経を唱えだしたおかげでしょうか。
友人が仏教を学ぶために大学に入るという話を書いたら、それを読んだ友人が、私もすでに学んでいるとメールしてきました。
先週会った友人も、仏教を学ぼうと思っているというのです。
シンクロニシティが起こっています。
先週は2冊の本が送られてきました。
一条真也さんの新著「日本三大宗教のご利益 神道&仏教&儒教」(だいわ文庫)と五木寛之さんの「仏教への旅 朝鮮半島編」(講談社)です。
CWSコモンズのブックコーナーで「仏教への旅 朝鮮半島編」(講談社)のことを書きましたが、このブログでも少し書かせてもらうことにしました。
いろいろと考えさせられたからです。

たとえば、韓国の仏教界が社会に向けてしっかりとメッセージしているのに対して、日本の仏教界は何をしているのかという疑問が起こりました。
仏教への関心が高まっているのに、有効なメッセージを出せていないのではないでしょうか。もしそうであれば、とても残念な話です。

韓国仏教の根底には華厳思想があるそうです。
いわゆる「一即多・多即一」の思想です。
宮沢賢治の小品の題材にもなっている「インドラの網」も華厳経に出てくる話です。
現代風に言い換えると、ホロニックパラダイムと言っていいでしょうか。
個々の存在と全体像が再帰的に構造化されている世界観です。
近代の基軸になっている要素還元主義とは別の世界観です。
その世界観が、仏教の基本にあることを再認識することはとても重要なことだと思います。
多様性が世界を豊かにする思想が、そこにあります。
同時に、誰か、あるいは何かを傷つけることが、自らを傷つけることであり、自らを傷つけることが誰か、あるいは何かを傷つけることになるという「つながりの思想」が生まれます。
そこでは「自殺」の問題も見え方が変わってくるはずです。
そうしたことを起点にして、発想を広げていくと、おそらく最近の社会とは違った社会が見えてくるでしょう。
韓国が、そうした社会になっているわけではないでしょうが、韓国の仏教界のメッセージは明確なようです。
それに引き換え、日本ではどうでしょうか。
どんなメッセージが出されているのでしょうか。

最近の日本社会の実情を考えると、仏教界が果たせる役割は少なくないように思います。
仏教思想には、未来を解くためのヒントがたくさんあるからです。
いまこそ仏教界が社会に向けてメッセージを出す時期ではないでしょうか。
もっと社会の中に入り込んで、私たちの生き方を問い直す動きを出してもらいたいと思います。
いま動かずして、いつ動くのでしょうか。
宗教は滅びを慰めるものではなく、いのちを輝かすものではないかと思うのですが。

■イラク戦争がはじまって4年目(2007年3月20日)
イラク戦争が始まって4年たちました。
戦争とは不条理で嘘の固まりだといっていいでしょうが、イラク戦争は世界と歴史を壊すほどに大きな不条理と嘘の塊のような気がします。
それを利用した小泉首相の無血クーデター(法と国民の意思を否定しての暴走)によって始まった「日本改革」もほぼ定着してきました。いまや嘘と不条理は、世界を覆ってしまったような気がします。

イラク戦争が始まった時、CWSコモンズのメッセージに、こんなことを書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message17.htm

私は最初、とても悲観的でした。
強者による先制攻撃によって、この数百年、営々として築き上げてきた人類の平和への努力が一挙に崩され、暴力の時代にベクトルが反転したような思いがありました。シジフォスの苦行のように、哀しい奈落のそこへとまた戻ったような気がしたのです。
(中略)
暴力と不条理に向けて、歴史の軸を逆転しはじめたと、先週までは思っていました。
しかし、攻撃が開始されて、違った歴史の始まりを感じ出しています。
そう考え出したきっかけは、世界各地で個人が動き出したことです。テレビの映像がどれだけの真実を伝えているかはわかりませんが、かなり意図的に編集されていると思われるNHKのニュースですら、全国各地の市民の異議申し立てを伝えています。
国家の時代の終わりと個人の時代の始まりを予感させます。

残念ながら、そうはなりませんでした。
イラク戦争が始まる1年半前、女房とテロ対策特措法反対のデモに参加しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#demo
その時、期待と懸念を感じましたが、その後、ピースウォークにも参加したりして、期待のほうが高まっていたのですが、小泉クーデターの勢いには勝てなかったようです。

短絡的だと怒られそうですが、最近の松岡議員のことも電力会社の事実隠蔽も、こうした流れと無縁ではないように思います。
最近、明るい話として流されていることのなかにも、嘘と化粧を感じることが少なくありません。
嘘がはびこる社会になってきてしまったのが、哀しいです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m2

■隠すことのコスト(2007年3月21日)
原発の臨界事故隠しが毎日のように報道されています。
法律上の報告義務はないとしても、当の電力会社自身が、「臨界事故になる可能性も否定できなかった」というほどの重大な問題が発表も報告もされずにいることが「常識」になっているような状況に不安を感ずる人は少なくないでしょう。
電力会社にとっても、これは明らかにマイナスになるはずです。

日本ではまだ「隠蔽文化」が強く残っているようです。
しかし、情報の隠蔽はもはや「過去のこと」になりつつあります。
インターネットのおかげで、情報環境はこの5年ほどでパラダイムを変えたのです。
「情報公開の時代」はとうに終わり、いまや「情報共有の時代」になったのです。
つまり情報は公開されるのではなく、情報は最初からみんなに見えている時代になってきたのです。
情報を隠すことなど、できないのです。
そうした状況の中では、情報を隠すことには膨大のコストとエネルギーがかかりますが、それ以上に隠した情報が発覚した時点で発生するコストは、さらにそれを上回るはずです。
結果として、消滅した会社もありますし、人命すら失うこともあります。
目先のわずかばかりの利得を得るために、取り返しのつかない損失を背負うことは、経済的にも引き合わないはずです。
これは、何も今に始まったことではなく、長年の歴史が明白に証明しています。
水俣病もそうですし、アスベスト問題もそうです。
しかし、問題は利益と損失を受ける人が違うために、そうした不条理なことが起こるのです。
そこを正さなければいけませんが、いまの政治家も財界関係者も、むしろ目先の利益を優先しがちです。
心の貧しい人たちが増えてしまいました。これはたぶん「教育」のせいでしょう。

企業の危機管理の重要性が指摘されだしてから、もう15年はたちます。
しかし、日本の企業は全くといっていいほど、何も学んできていません。
危機管理の教訓は、隠さないことがコストを上回る利益をだすことです。
社会にとってはもちろんですが、当事者にとっても、です。
そのことをしっかりと学んでいれば、隠蔽行為は決して起こらないでしょうし、逆に危機を自らの成長に活かせていくはずです。

原発の臨界事故隠しは、日本のエネルギー政策に悪影響を与えています。
その損失はきわめて大きいことを踏まえて、断罪されるべきです。

ちなみに、私は原発反対論者です。
しかし、それは原発が技術的に危険だからではありません。
専門的な知識がないために、評価できません。
にもかかわらず、反対論者である理由は、原発関係者の情報隠蔽体質です。
当事者に確信があれば、情報は隠しません。
情報を隠すようなことをしている技術や事業には賛成しようがないのです。
素人にはわからないから隠すのだという言い訳は、通らないでしょう。
原発関係者は、自らの情報隠蔽体質や議論回避体質を見直すことが必要ではないかと思います。
電力会社の広報戦略は根本から見直すべきだと思います。
東電や電事連の広報戦略は、結果から見て、完全に間違っていたことは否めないでしょう。
まだ遅くはないはずです。
いまはまさに絶好のチャンスです。
危機管理の本質は、災い転じて福と成す、です。

■徳治国家・法治国家・金治国家(2007年3月22日)
松岡議員に関することで、一番気になるのは、法律(制度)にしたがってやっているのでいいという本人や首相の答弁です。
昨日書いた電力会社も、ホリエモンや村上ファンドもそうですが、経済的な「事件」を起こした当事者がよく弁解に使う理由の一つです。
日本は法治国家ですから、法に従えばいいということのようですが、これに関しては以前も何回か書きました。
「法治国家」とは何なのか。
大切なのは、言葉の定義ではなく、言葉の使い方かもしれません。

法治国家に対して、徳治国家という言葉があります。
しかし、これは対立概念ではありません。
徳が廃れた国家であればこそ、法に頼らなければいけないのではなく、徳があればこそ、法が生きてくると考えるべきでしょう。
言い換えれば、徳がなければ法は、徳を蹴落とす手段になりかねないのです。
最近の日本は、すでにそうなりつつあるのかもしれません。

徳治国家に対しては、金治国家という言い方があるかもしれません。
しかし金(カネ)もまた法と同じく、徳があればこそ生きてくる手段です。
徳を切り捨てた金の横行が目立つ社会は長くは続くことはないでしょう。

徳と法と金。
みなさんは何にしたがって生きていますか。
私はなんでしょうか。
いずれもどうもぴんときません。
人間の生き方を決める、もっと大切なものがありそうです。

■制度にあわせる生き方からの脱出(2007年3月23日)
昨日、最後に、生き方を決める基準はなんだろうかと書きました。
生き方の基準がない人が多くなってきているように思いますが、
そういう人にとっては「制度」(法律もその一つです)に合わせる生き方があります。
問題が生じたら制度のせいにしたらいいのですから、極めて都合のいい生き方です。
最近は、その生き方が大勢を占めているのかもしれません。
いや社会全体が「制度に合わせる生き方」を指向しているともいえるでしょう。
それが「近代化」の一つの側面なのかもしれません。

きのくに子どもの村学園という学校があります。
http://www.kinokuni.ac.jp/
「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに学校を合わせる」という理念に基づいて、創設され運営されている学校です。

ここには大きな発想のパラダイムシフトがあります。
近代の学校はすべて「子どもを学校に合わさせる」発想です。
それが「教育」であり、「教育施設」のミッションだったからです。
個性豊かな子どもたちは、そこで社会の一員として育てられるわけです。
個性が強すぎる子どもは逸脱せざるをえません。

ところが、この学校は子どもたちの多彩な個性を起点に発想します。
一人ひとりの子どもの育ちを支援するために、何が出来るか、何をするかを決めていきます。
そして、生徒である子どもたちの個性に合わせる形で、カリキュラムが設計され、プログラミングされます。
全体から考えるか、個から考えるかの違いです。
個から考えて、全体を構築するのは大変なエネルギーが必要になります。
しかし、全体がうまく構築できれば、管理コストは大幅に縮減できるでしょう。

そもそも個性豊かな子どもたちを一つの制度に合わせさせること自体、無理な話なのです。
かつてのように、管理がアバウトだった時代にはなんのとか矛盾は克服できたでしょうが、最近のように管理が追及され、親の目も届きすぎるほどに届くようになると、逸脱行為は許されなくなってしまい、矛盾は破綻へとつながります。
最近の学校の乱れは、そうしたことの必然的な結果です。
教育再生会議がいくらがんばっても解決できることではありません。
逆に状況を悪化させることになりかねません。

最近の企業も同じです。
企業の実態に合わせないと従業員はつとまりません。
おかしさに気づいても、それを自己納得させないと企業ではやっていけないことが多いからです。
企業は盛んに「企業変革」を口に出しますが、本気で変革しようなどということにはなりません。組織には根強いホメオスタシス機能が働いているからです。
もし本気で企業変革するつもりがあれば、企業を変えるのはいとも簡単なことなのです。企業のパラダイムを変えればいいだけです。
みんなが企業という制度に合わせてしまうと、その企業そのものがパワーを失ってくる時代になってきています。

しかし、制度に合わせた生き方から抜け出す動きも広がっています。
いわゆる「当事者主権」の動きです。
コムケア活動でさまざまな活動に触れる機会がありますが、障害を持つ人たちや社会的弱者といわれる人たちが、自らの声と行動で、制度を変えようとする動きの広がりです。
今のところ、必ずしも成功している事例ばかりではありませんが、制度に合わせて自らを抑えるのではなく、制度を変えようと働きかける人が増えているのは間違いありません。
そして、そうした動きこそが、制度そのものの価値を高め、制度を活かしていくことにつながりだしているように思います。

時代はどう展開していくのか。
それは私たち一人ひとりの生き方にかかっています。
時には制度に合わせることも大切ですが、時には制度から逸脱し、制度を変えるように働きかけていくことも大切です。
制度に合っているからなどという、主体性のない言い訳だけはしたくないものです。

■「病を治すものは自然である」(2007年3月24日)
昨日の朝日新聞の天声人語に、タミフルの問題に関連して、こんな文章がありました。

ヒポクラテスは「病を治すものは自然である」という説を立てたという。治療法として自然の回復力を重んじつつ、病人や症状についての注意深い観察の大切さを説いた。

ヒポクラテスは、ギリシャ時代の人で、医学を科学として確立した「医学の祖」と言われています。

現在の医療体制には大きな違和感があり、素人ながらいろいろと考えることが多いのですが、そうした関心から昨年春に私も「ヒポクラテスの会」を立ち上げて、公開フォーラムを開催しました。
しかしその直後、女房が胃がんを再発し、あまりに当事者になってしまったために、精神的余裕を失い、この会の活動はストップしたままになっています。
会づくりを少し急ぎすぎたため、組織体制ができていなかった結果です。

その後、女房の病気の関係で、当事者的にいろいろと病院体験をしており、いろいろと考える機会が増えました。
書きたいことが山のようにありますが、その反面で書く気力が出てこないという奇妙なジレンマに陥っています。
近代医学や現在の病院への大きな失望感と無力感を、ドサッと背負い込んでしまった感じです。

しかし、この文を読んで、「病を治すものは自然である」ということを私たちはもっと認識しなければいけないことを改めて強く思いました。
ヒポクラテスの会も再開したいと思っていますが、どなたか協力してもらえるとうれしいです。

女房の状況を見ていると、まさにこの言葉が当てはまります。
ちなみに、「自然」には人間の生活やふれあいも含まれていると私は考えています。
アガンペンの言葉を借りれば、ゾーエ(生物的にただ生きている存在としての「素直な生」)としての人間の関係性もまた、広義の自然に含まれると考えるからです。
自然と人間を分けて考えている限り、この言葉は真実味を持ってこないような気がします。
そうした人間さえも含む自然のなかで、私たちは生きています。
ですから病気になるのも病気を癒すのも、基本は自然であることは間違いありません。
そして「自然の治癒力」はとても大きく、時に「奇跡」を起こすはずです。
もちろんそれは、「奇跡」などではなく、小賢しい人智を超えた摂理なのですが。

天声人語は、続いてこう書いています。

ひとりひとりの患者の症状をよく診る。そしてその患者にふさわしい処方をすることを、現代のヒポクラテスたちには期待したい。

日本の現在の病院には「標準治療」という発想があります。
私はこの概念を知った時に、愕然としました。
もし患者の家族ではない時であれば、すんなりと受け入れられたかもしれません。
しかし、患者の視点で考えると、これは結構「冷たい」発想なのです。
昨日書いたことに重ねていえば、これは「制度に合わせた処方」と言えるかもしれません。
私も、天声人語に書かれているように、「その患者にふさわしい処方」を基準にした医療の仕組みが実現できることを願っています。
患者が求めているのは、検査や所見ではなく、治癒なのです。
触診さえしない病院や医院が増えています。
元気づける一言や心和らげる笑顔こそが、最高の治療かもしれないと、最近痛切に感じます。

■ガンジーの予言(2007年3月25日)
CWSコモンズにアンベードカルのことを書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#1227
そこで、アンベードカルに比べたらガンジーは小賢しいというようなことを書いてしまいました。
その後、ガンジー伝を改めていくつか読んで、後悔しました。
ガンジーの偉大さはやはり大きなものがありました。
小賢しさも感じないわけではありませんが、それ以上に大きな人だとも思いました。
私の記事は、その時々の気分で書いてしまうので、後悔することが少なくありません。間違いも少なくありません。知ったかぶる傾向があるからです。
しかし、嘘を書いたことは一度もありません。それが私の信条なのです。

ガンジーのことを書いたのは、昨日、病院のことを書いていて、思い出したからです。
ガンジーは反近代化論を展開していますが、病院に関して、こんなことを書いています。

医者は薬などで表的には病気の苦痛を取りのぞいてくれるが、その結果かえって病気の真の原因(不摂生や油断)を戒めることを人は忘れる。良い薬、良い医者によって、肉体的苦痛を、簡単に一時的に治して貰って健康になったと思っていることの繰り返しで、人は何を失うのか。それは不摂生の助長と自分の肉体に対する精神の支配カである。人の心は弱くなり、自制心をなくし、真の意味で体を大切にすることを忘れてしまうのである。

実に核心をついています。
ガンジーが1907年に発表した「ヒンドウ・スワラージ」に書かれていることですが、その書にはこんな文章もあるそうです。
私は引用でしか読んでいないのですが。

「我々はいますぐ即座にあなた方の妄想を解くことはできそうもないが、あなたがたは遠からず、あなた方の自己陶酔が自殺に等しいものであり、あなた方が我々を嘲笑したのは理知の思い上りに他ならなかったことを悟るでしょう」

ガンジーは、近代の本質が、人間中心主義と人間の欲望の解放にあることを見抜き、それとは違う未来に向けての活動を重ねていくわけですが、それは近代化路線を走っている人たちには理解されなかったのです。
私もかなり勘違いしていました。

それにしても、100年前に書かれたこの文章は見事に現在を言い当てています。
「ヒンドウ・スワラージ」に書かれているガンジーの目線の確かさには感動します。
いまの私たちも、まだ妄想から抜け出していないのかもしれません。

■「貧乏はいただきもの」(2007年3月25日)
「貧乏はいただきもの」。
この言葉は、私の友人が創った言葉です。
彼女(その友人は女性です)は、たぶん貧乏なのです。
しかし、たぶん「豊かな人」でもあります。
病気を克服した人から「すごく大切なものを、病気から『いただいた』と思う」と聴いた時に、この言葉がひらめいたそうです。
それ以来、貧乏が一気に楽しくなってしまって、「もう一生貧乏でもいいや」と思ってしまったのだそうです。彼女は、「それはそれで、問題の多い人生哲学ですが」とシャイに語りますが、いやいやどうして、悟りに近い人生哲学ではないかと思います。
かのラスキンもきっと拍手してくれるでしょう。

この言葉の生みの親である「病気はいただきもの」の心境は、私たち夫婦の実感でもあります。
これに関しては、以前、CWSコモンズにも時々書きました。
柳原和子さんも同じような言葉を書いてきてくれたことがあります。
病気をプラスに転化させることは、そう簡単なことではありませんが、マイナスに受けとめてしまうと、その呪縛から抜け出られなくなり、免疫力を低下させかねません。
そうはいっても、柳原さんですら、時には嘆くこともあるでしょうし、女房は落ち込むこともあります。
いつもポジティブシンキングを維持できるわけではないのです。
しかし、少なくとも女房の病気のおかげで私たち夫婦の生活は大きく変わりました。
そして見えてきたことはたくさんあります。
人の優しさ(と時に忙しさ)も見えてきました。もちろん自分たちも含めて、です。
何よりも、これまでの生き方が良かったのかどうか、いささかの不安を持ちながら、いまの生き方を正したいという気持ちは高まりました。
非礼で傲慢な自分も少し見えてきました。

コムケア活動に取り組んで実感したことの一つは、ケアマインドは、ケアされる立場にある人ほど強いということでした。
自らがそうなって初めて見えてくることがたくさんなるのです。
この3年半、痛いほど実感しました。

「貧乏はいただきもの」。
この言葉で、1冊の本が書けそうですね。
いや、新しい歴史が始まるのかもしれません。
ガンジーの反近代化活動は、そこから始まったのかもしれません。

ガンジーの、自らの生命を脅かすまでの断食行為は、飢餓に直面している貧しい人たちとの壁を壊すためだったという人がいます。
そしてそれは見事に成功したわけですが、しかし不可触民との壁は破れず、アンベードカルに糾弾されました。
アンベードカルは「ガンジーは断食など止めた方がいい。無駄死にをするだけだから」と言ったそうです。
ガンジーほどの人でも、「いただきもの」としての「不可触民」との距離は越えられませんでした。

しかし、この世のすべては「いただきもの」かもしれません。
すべての人に「いただきもの」は与えられるのでしょうが、その中身はそれぞれ違うのです。
ガンジーとアンベードカルに贈られたものは違っていたのです。
「貧乏」もまた、それぞれにとって違うものなのかもしれません。

人生そのものも「いただきもの」だと思えば、きっと生き方が変わります。
粗末に扱うことなどできなくなります。

■病院の予約制度を変えませんか(2007年3月27日)
今日もまた病院で2時間近く待ちました。
予約時間よりも10分早く着きましたので、正確には1時間半強ですが。
担当医によりかなり違いがありますが、
今日の医師の場合はいつも最低1時間は待ちます。
それぞれ事情があり、医師が悪いわけではありません。
システムが悪いのです。
予約時間を設定しながら、1時間待たせるのが状態というのであれば、
予約制度は意味がありません。
それを病院経営責任者は気づいていないわけです。
もちろん医師もそうしたことに気づくべきですが、
現代の病院の医師はともかく文字通り忙しいのです。
つまり「心を失い」がちなのです。
医師に限らず、現代人のほとんどすべてがそうなのですが。

こうした基本的なことに気づいていないということは、
もっと大きな問題にも気づいていないことを推測させます。
組織の病理は、こうした些細なところに出ます。
私も一応、経営コンサルタントなので、そういうことは体験的にわかります。
もちろん解決策も、です。
組織の病理を正すのは、いつの場合も簡単です。
簡単すぎるのでビジネスにはならないために、コンサルタントは難しくして、解決しないです。
解決したらビジネス市場はなくなるからです。
少し言いすぎですが、まんざら嘘でもないはずです。

この病院(国立)はとても良い病院なのですが、この待ち時間だけは辟易します。
ご意見箱などがあるので、それに書こうとも思いましたが、患者の立場としては、なかなかその勇気が出てきませんでした。
おそらく多くの患者たちがそう思っています。
隣り合わせた患者とそういう話をすることもありますが、みんな一種の諦めと病院への「服従」感があるのです。
今日も、初めてこの病院に来た人が受付にまだかと訊きに行きましたが、こういうことも多いです。この人も、そのうち慣れるでしょう。
一人の患者としては、「納得」する以外には選択肢はないのですから。

こういう状況を毎週体験していると、人は無反応になります。
奇妙に納得するのです。
アウシュビッツを時々想像します。そんな風景なのです。
今朝も、また今日も最低1時間は待つのだろうと思って、出かけたわけです。

今日は2時間近く待ちましたが、
そのおかげで、やはりこの状況はおかしいことに気づきました。
おかしいと思ったのは、待たされるという状況ではありません。
おかしいと思いながら、おかしいと指摘しない自分の状況です。
おかしいことはおかしいと言おう、と以前に書いたことを思い出しました。
この件に関して、なぜこれまで言わなかったのかという理由は、実はいくつかあるのですが、それにしてもこの件に関する自分の行為はやはり恥ずべきです。
そういえば、最近、そうした妥協体験が増えているような気もしてきました。

辺見庸さんのメッセージ、鶴見和子さんの悔しさ、いろいろと鼓舞されたにもかかわらず、私は動かずにいる。恥ずべき話です。

さて本論の病院の待ち時間ですが、解決するのは簡単です。
予約システムを現実に対応してしっかり組み直せばいいだけの話です。
私に任されれば、1ヶ月で再構築します。
しかし、そんなことをしなくても、代替的な解決策があります。
しかも、それは病院のパラダイムを変えることにつながるかもしれません。

具体的にはこうです。
予約制度を踏まえて、銀行のように受付番号を発行し、その進行状況を表示します。
そんなことはすでにやっているところは少なくないでしょうが、今日行った病院にはありません。
大切なのは、その受付番号と進行状況表示と併せて、自分の番が回ってくるまでの時間をある程度わかるように、それまでの時間を効果的に活用できる仕組みをつくることです。
健康相談でもいいですし、ビデオライブラリでもいいでしょう。
待合室でのリラックス体操でもいいでしょう。
笑いが起こるような場にすることも考えられるでしょう。
ともかく、「病の場」ではなく、「元気がでる場」を創ることです。
それがうまくいけば、病院に行けば元気がもらえる場になるかもしれません。
「病院」などという、自己矛盾した名前からも解放されるでしょう。

どこかの病院で、こうした挑戦をするところはないでしょうか。
わが社(コンセプトワークショップ)でぜひ受託したいと思います。
3億円もあれば実現できます。
場合によっては、美味しいコーヒー一杯でも受託します。はい。

■自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望むことの意味(2007年3月28日)
全日本病院協会による延命治療アンケートの結果が25日の朝日新聞に出ていました。
アンケート調査の結果、「自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望む」という人が多かったそうです。
詳しくは次のブログが取り上げています。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-711.html

この結果をどう考えるべきでしょうか。
この3日間、ずっと気になって考えていました。
「人は誰のために生きるか」の根底には、「人は何のために生きるか」が、実はあるわけですが、生きることの意味が、このデータにも色濃く出ています。
延命治療もまた、家族のためなのかもしれません。
「家族のため」の意味もまた多様ですが、ここでは素直に「家族のため」と考えたいです。
家族の死を体験した人、死に直面した人にはわかってもらえると思います。
人の生命は、実は自分のものではなく、他の人のものという側面が大きいのです。

ある局面では、生きることよりも生きることをやめることのほうが簡単です。
しかしそうした場合でも、死を選ばないのが人間です。
それは「生命」は私的所有対象ではなく、みんなのものだからではないかと思います。
一昨日の言葉を使えば、「いただきもの」なのです。
そうしたことが生命には内在しているように思います。

「生命」はつながっています。
個人の死は、決して個人では完結していないのです。
だからこそ、「生物多様性」の重要性があるのです。
インドラの網のように、あらゆる生命が、私の生命とつながっており、関わっているわけです。

もう一つのメッセージも感じます。
それは、私たちは、家族を延命治療したくなるような生き方をしているのではないかということです。
しっかりと書かないとうまく伝わらないような不安がありますが、
もし毎日をしっかりと家族と暮らしていたならば、延命治療など選ばないのではないかということです。
家族の愛が強ければこそ、延命治療を望むのではないかという気もするのですが、これは悩ましい問題です。

人の生命にかかわる問題はいくら考えても、いつも結論を見出せません。
自らの延命治療の是非を、自らで決めていいのかどうかも、悩みます。

ところで、調査結果をこう読み替えることは不謹慎でしょうか。
「自分は自殺を望むが、家族は自殺を望まない」
これはたぶん事実でしょうが、では「社会」はどうなのか。
安直な延命治療の仕組みやその反対の自殺に追いやるような仕組みが、いまの社会には広がっているような不安があります。
哀しい社会になってきてしまったような気がします。
これも誤解されそうな文章ですね。

■沖縄密約事件請求棄却に思うこと(2007年3月29日)
毎日新聞の西山記者によるいわゆる沖縄密約事件はいまでも強く印象に残っている事件です。西山記者の歴史的なスクープは、国家権力とそれに追随するマスコミによって、矮小なゴシップ事件に貶められ、本質的な問題はいつの間にか忘れられてしまいました。私もすっかり忘れていました。
しかし、その後、西山さんが暴いた事実は、どうやら真実だったことが確実になってきました。そして西山さんは国家の嘘を暴くために、訴訟を起こしました。その裁判の結果が27日に出されました。不思議なことに毎日新聞にはあまり掲載されていないようですが。
判決は請求棄却でした。今回の訴訟は西山さん自身の損害賠償請求という民事裁判だったのですが、「不法行為から20年が過ぎているので、損害賠償請求権は自動的に消滅する」として請求は棄却されたのです。
西山さんの主張はJANJANの記事をお読みください。
http://www.janjan.jp/government/0703/0703202043/1.php

外交機密という言葉があるように、外交には密約は必要だと、私たちは何となく思っています。
国家防衛上、当然ではないかという人もいます。
本当でしょうか。
そもそも国民主権の国家において、国民に内緒での国家防衛戦略などというのがあるのでしょうか。
密約を締結する権限など、首相にもないはずです。
戦時中であれば、そうしたこともありえるでしょう。
それは古代ローマからきちんと制度化されています。
しかし平和時に、国民に隠してまで国家の根幹に関わるような密約があっていいでしょうか。
まさに、そうしたことが問われているのが現代です。
そうしたことを議論する絶好のチャンスでしたが、裁判官はそれを選びませんでした。

主権国家間の戦争の時代は終わろうとしています。
アントニオ・ネグりによれば、今や世界の日常は戦時状況になりました。
それを加速させたのがブッシュであり、小泉ですが、
それによって一見、主権国家の権力は強化されたようにも見えます。
しかし実際に強化されたのは人間を管理する体制です。
ネグりは、そうした国境を越えたネットワーク状の見えない権力を「帝国」と呼んでいます。
スターウォーズやターミネーターの世界がすでに始まっているのです。
小泉やブッシュは、その走狗でしかありません。

西山さんが暴こうとしている「国家の嘘」は、主権国家というものがどういうものなのかの本質を垣間見せてくれます。
しかし、その先にもっと多くの地平を感じます。
戦時状況の中で生きるのではなく、誰もが気持ちよく暮らせる社会にいきたいとのであれば、西山さんたちの活動を見習わなければいけません。
平安は、向こうからは来ないのですから。

■大統領の陰謀と首相の犯罪が存在した良い時代(2007年3月30日)
昨日書いた西山事件が気になって、昨夜、「大統領の陰謀」を観てしまいました。
ウォーターゲート事件を追って、ついにはニクソン大統領を辞任させたワシントンポストの記者を扱った実話に基づく映画です。
もう30年前の映画ですが、テンポのよい、しかも何となく尻切れトンボのような、まさに最近の映画に似た作品です。
最近の映画はますます尻切れトンボが多いですが、まあ、それは今日の話題ではありません。

ニクソンが大統領を辞任したのは1974年ですが、同じ年に日本では田中角栄首相がロッキード事件で辞任しました。
当時は日本にもアメリカにも、志と根性をもったジャーナリストがおり、司法も一応、良心を維持していたようです。
国家犯罪と大統領や首相の犯罪とはもちろん同じではありません。
しかし、昨今のような大政翼賛会的国家体制のもとでは、それらはかなりかぶさっているようにも思います。
これだけ格差が構造化してくると、強いものの側につくことの意味が極めて大きくなりますから、その流れがますます強まるでしょう。
そう思っていたら、まさにそれを象徴するような笑えない話が新聞に出ていました。

朝日新聞の記事の一部を引用します。

山梨県議選で、初当選したばかりの横内知事派が与党議員を増やすため、小泉前首相流に敵対する県議の選挙区に「刺客」候補を立てようとしたところ、その役を買って出る人が次々登場、標的となった県議の引退が続出している。有権者からは「オール与党体質の中で、勝ち馬に乗ろうとしているようにしか見えない」との嘆きも聞こえる。

勢力拡大に喜ぶ声はあるが、知事の選対幹部だった県議などは「誰も彼もが『知事選で応援した』と言うが……」と苦々しげだ。知事が立候補予定者に贈る「祈必勝」の張り紙の依頼は、知事選で敵対した県議からも絶えないという。
知事の後援会幹部の表情は複雑だ。「自称『刺客』まで当選すれば、オール与党で議会対応は楽になるが、議会のチェック機能は期待できなくなる。知事が裸の王様になってしまわないだろうか」

笑い話のような話ですが、こうした動きは決して少なくないはずです。
日本の地方政治は国政がモデルなのですから。
こうした動きが広まれば、選挙は意味を失います。

もっと残念なのは、もはや大統領や首相の犯罪は成立しない時代になってしまったことです。
30年前は、まだとても良かった時代だったのかもしれません。
あの程度の事件で、というとヒンシュクをかいそうですが、まああの程度の事件で辞任させられたのですから。

ところで、私の知人が熟議投票を広げたいと活動しています。
熟議投票とは、千葉大学の小林正弥教授が「熟議民主主義」の一環として提唱されている考え方で、平和への結集を目指す市民の風で話題になっています。
私も共感している考え方ですが、時代の流れはむしろ無議論投票に向かっているような気もします。ともかく「勝ち馬」に乗ろうとみんな動いているのです。
議論の結果の勝ち馬ではなく、議論以前の勝ち馬です。
私のように、勝ち馬にもなれず、勝ち馬にも乗れない中途半端な人間はどうしたらいいでしょうか。
時代を嘆きながら、思索にふけるのがいいかもしれません。
最近、ものすごく学ぶ欲求が高まっています。
今日からラスキンを読み出しました。

ところで、「大統領の陰謀」ですが、
アカデミー助演賞をとったジェーソン・ロバーズ演ずる編集主幹ベン・ブラッドリーの言動は、何回観てもワクワクします。
こうした上司は今の日本の企業にいるのでしょうか。
もしいたら、その職場のメンバーはきっとみんなモティベーションが高いでしょうね。
部下を元気にしたかったら、この映画を観るといいです。

■「女性の社会進出」は何だったのか(2007年3月31日)
自治会の会長を引き受けて1年。明日、会長役を引き継ぎます。
自治会長を引き受けた時は、いろいろとやりたいことがあったのですが、この1年は女房の体調の関係で、私自身極めて不安定な状況になり、秋以降は仕事もやめてしまい、様々な活動も最小限にせざるをえなかったような状況でしたので、結局、何もやれずに終わってしまいました。
しかし、いろいろな気づきはありました。
近くの小学校の学校評議員との合同会議に出て、最近の小学校のおかれている状況を垣間見たのも、地域の防災演習がいかに形式的になっているかを知ったのも、地域の祭礼が仲間内の閉じられた活動から抜け出られない理由が少しわかったのも、世代間の近隣社会に対する考えや位置づけが大きく違っていることがわかったのも、行政にとって自治会がどう位置づけられているのかが確認できたのも、社会福祉協議会や日赤や赤い羽根などの寄付が出資者の意思とは無縁に徴収されている仕組みに驚いたのも、すべて自治会会長を引き受けたおかげです。
自治会(町内会)がもっている可能性を、改めて確信できたのもうれしかったことです。
たまたま三沢市の花いっぱい運動に関わらせていただきましたが、それも合わせて、これからの社会の方向性を考える大きな示唆をもらえたのも、私には大きな収穫でした。
感謝しなければいけません。
近隣社会に顔見知りが増えたのもうれしいことです。
最後の役員会を終えた後、班長の一人が散歩がてらに家族みんなで、実家に咲いていたと言って、紅白の梅の花を持ってきてくれましたが、これが自治会の仕事をした最高の報酬でした。自治会活動以前は、全く面識のなかった人です。

173世帯の自治会なのですが、さまざまな人がいます。
忙しいので班長の仕事もそんなにできないと言ってくる「忙しい」人もいましたし、連絡をしてもナシのつぶての人もいます。
役所の職員と言い合ったこともないわけではありません。
しかし、基本的にはみんなの協力のおかげで、気持ちよく1年を過ごせました。
ただ、困ったことは、班長に連絡しようと電話をしても、なかなか連絡がつかないことでした。
昼間、不在の人が本当に多いことを実感しました。
多くの人が、かなり遅くまでの共稼ぎなのでしょうか。
地域社会が成り立たなくなるのがよくわかります。

1970年代から80年代にかけて、「女性の社会進出」という言葉が盛んに使われました。
当時、私はその言葉に大きな違和感を持っていました。
女性が会社に勤めることは、社会進出ではなく、会社進出であり、社会からの隔離ではないかと考えていたのです。社内レポートで、そんな報告を書いたこともありました。
ちなみに私が会社を辞めた時に雑誌に頼まれて書いた小論は「会社をやめて社会に入る」でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/jikoshoukaibunn.htm
会社は決して社会に開かれた組織ではなく、むしろ社会の一員たる意識さえも欠落しているというのが、私の25年間の会社生活の実感でした。
会社の常識と社会の常識の乖離の大きさにはいつも戸惑いがありました。
会社人は決して社会人と同じものではありません。

女性の社会進出こそが日本の社会を壊したのだと私は確信しています。
つまり、会社という働く場に取り込まれていった男性たちの不在の中で、社会を支え、男性を支えていた女性たちまでをも、近代産業の規模拡大のために動員していく、政財界のキャンペーンこそが、「女性の社会進出」だったのです。
しかし、今にして思えば、男性の社会進出こそが必要だったのです。
そして、実際に今、そうした動きが出てきています。

こうした「常識」的ではない私の考えが、最近、正しかったのではないかと改めて思うことが少なくありません。
自治会活動から見えてきたことも、きっと数年後には顕在化していくでしょう。
1年間の自治会の仕事は、とても刺激的でした。

■嘘で覆われている時代のエイプリルフール(2007年4月1日)
関西テレビの「発掘!あるある大事典」のデータ捏造(ねつぞう)問題がまだ話題になっています。かなり厳しい処罰がされているようですが、どうも違和感があります。
以前も書きましたが、この程度の捏造などは、マスコミがよくやることではないかと思うからです。罰せられる人が本当にいるのでしょうか。
もちろん意図的な捏造はそう多くないかもしれませんが、未必の故意的捏造は、日常茶飯事ではないかとさえ思っていました。

捏造はマスコミだけではありません。
昨日の新聞でも電力会社の隠蔽事件の日常化が報道されていますし、松岡議員のようなお粗末な例も含めて政治家の捏造行為は数限りないでしょう。
極端に言えば、彼らの言動はほとんどすべて嘘か無知のかたまりです。

教科書での歴史の捏造も少なくありません。
従軍慰安婦問題や沖縄集団自決問題など、どう考えても真実は明らかです。
真実を明らかにした上で、間違いを正すのは難しいことではありません。
しかし嘘をつきだした人は、なかなか後戻りできないのでしょう。
結局は膨大なコストを国民に強いることになるのです。

裁判での犯人捏造や事件捏造も毎週のように報道が行われています。
今もって冤罪などという言葉が生きているのです。
もっとも沖縄集団自決冤罪訴訟なるものも起こされており、話はいささか複雑なのですが、二重三重の捏造が広がっているわけです。

日本社会はいまや嘘で覆われつつあるのです。
数年前に私が懸念したことは杞憂ではなかったようです。

今日は4月1日。
昔はエイプリルフールなどと言われて、嘘をついても許される日でした。
最近は、だれもエイプリルフールなどといわなくなりました。
毎日を嘘の中ですごしているせいなのでしょうか。
嘘に対して、もはやみんな何も思わなくなってしまったのかもしれません。
裸の王様という寓話がありますが、
嘘を嘘といってしまうと、大人の社会では生きにくいのです。
みなさんは嘘の世界に生きることにもう慣れてしまっていますか。

■統一地方選挙に思うこと(2007年4月2日)
統一地方選挙が始まりました。
私の友人知人が各地で立候補しています。
地元の県会議員選挙にも知人が2人立候補しています。
悩ましい問題です。
いずれもがんばってほしいと思う反面、地方議員選挙に関していつも思うのは、地方議会は本当に必要なのかということです。
結論的にいえば、私は今のような地方議会は全く必要ないと思っています。
いまや国会議員の予備軍育成や選挙対策としての役割しかないのではないかと思います。
こんなことをいうと、立候補している友人知人やすでに議員職にある友人知人には申し訳ないのですが、そもそも国会制度をモデルに地方議会制度をつくった時代状況は過去のものです。
それらは全くパラダイムが違うのだと思いますし、ベクトルも違うのです。
それに情報環境がこの数年で大きく変わりました。
代議制度でなければやれない情報環境ではなくなったのです。
古代ギリシアの直接民主主義や古代ローマの元老院制度のような仕組みのほうが、むしろ効果的かもしれません。
それに、国民主権国家の枠組みが壊れだしていますから、そもそも民主主義発想をベースにした議会発想がもはや機能しなくなっているのかもしれません。
議会の性格や役割が大きく変わってきているのです。
そうしたなかで、果たして今のような地方議会が必要なのかどうか。
自治体の財政立て直しの出発点は議会の廃止ではないかと思います。
議員の人件費の節約の効果もあるでしょうが、それは瑣末なことで、議会の廃止によって自治体職員の仕事が迅速になり効果的になると思います。
いまの地方議員は仕事を邪魔する存在になっているはずです。
首長の専横的執行になっては困りますが、インターネットなどの技術的環境整備とNPOなどの住民組織の成長により、そうしたことにはならないようにいくらでもできるはずです。
高齢社会の到来は、自分の生活だけではなく社会に目を向ける余裕のある人も増やしていくでしょう。
もはや地方議会の役割は終わったのです。

私は数年前に2つの自治体で、そうしたことを長期的に視野においた共創プロジェクトに取り組んだことがあります。残念ながら、その試みは見事に挫折しましたが、そこからいろいろなことを学びました。
まだまだ日本の自治体職員の意識は「お上」感覚や「公僕」感覚です。
そうした上下構造意識を持っている限り、地域主権の時代は来ないでしょう。
そして財政再建も実現しないでしょう。
どこかで議会を廃止する自治体は出てこないものでしょうか。

とまあ、こんなことをいいながら、実際には立候補した友人知人を応援しているのですから、困ったものです。

■地産地労の思想(2007年4月3日)
今朝、みのもんたさんのテレビを見ていたら、夕張市が話題になっていました。
みのさんが夕張市を訪問した時に、市役所を退職されて、まだ新しい仕事が見つかっていない人が、「30分くらいで通える仕事はなかなか見つからない」と話したそうです。
みのさんは、それに対して、東京では1時間から2時間かけて通勤しているのが普通なのに、30分以内で探すとは真剣さが足りないのではないかと怒っていました。
それに対して、コメンテーターの池上淳さんは、「1〜2時間かけて通勤するほうがおかしいのではないか」と発言しました。
少しすれ違った議論ですが、とても重要な問題を提起しています。

「地産地消」が流行になっていますが、私は「地産地労」こそが大切ではないかと思っています。地産地労が実現すれば、おのずと地産地消も進むはずです。
そういう視点からいえば、池上さんがいうように、通勤に1〜2時間かけることこそ問題です。
東京の悪しき常識を押し付けてはいけません。
発想のベクトルは逆転しているのです。
それに、環境問題も地域社会の荒廃も、たぶん子育て問題や介護問題も、すべてはここにつながってきます。
職住接近という言葉もありますし、ワークライフバランスも議論されだしています。
そうしたことも含めて、改めて私たちの働き方や「仕事とは何か」を考えるべきです。

よく地方には仕事がないといわれます。
そんなことは全くないというのが私の昔からの考え方です。
仕事がないという時の「仕事」とは「賃仕事」です。つまりお金をもらえる仕事です。
価値を生み出すということを仕事と考えれば、その気になれば、どこでも仕事はあるのです。いや創れるのです。
金銭の呪縛から解放されれば、仕事はいくらでもあります。
そして、すべての人が、子どももお年よりも病人も、価値を生み出す仕組みがある社会こそが健全な社会ではないかと思います。
私がコムケア活動で目指しているのは、まさにこうした社会です。
「お客様」のいない社会といってもいいでしょう。

私たちはいまの生き方にあまり疑問を持たずにいることが多いです。
みのさんは湘南の自宅からテレビ局まで自動車で送り迎えでしょうから、通勤時間の意味は実感されていないかもしれませんが、毎日往復に3〜4時間かかる生き方は、どう考えても異常です。無駄の多い、環境負荷の高い生き方です。
失業してもなお、30分のところで仕事を探す。そんな甘いことを言っていて良いのかという、みのさんの怒りはわかりますが、視点を変えれば、彼らのほうが豊かなのかもしれません。
第一、賃仕事しなければ生きていけない東京とは違って、たぶん彼らはどうにかなるのです。
それが実は社会が成り立っている証ではないかと思います。

地産地労を壊したのは、産業革命以来の資本主義です。
生活と切り離して仕事を工場に集めたのです。
そして、その先に生まれたのが、「消費」を「仕事」に優先させる経済の仕組みです。
さらに、それが「仕事」とは切り離された「金銭」によって主導される経済になってきたのです。
こうした流れの中には、個人の「生活」は見えてきません。
「生活」を基軸にした新しい経済の仕組みを再構築していくことはできないものかどうか。
それが私の関心事です。

■権力の民営化(2007年4月4日)
以前、駐車違反摘発の民間委託について異論を唱えました。

ところで、その後、違反駐車状況は変わったのでしょうか。
いつの間にかまたもとの状況に変わってしまったような気もしますが、みなさんの周りはどうでしょうか。もし何か変化が起こっていたらぜひ教えてください。

ところで、前と同じになっているなと思いながら、今日も歩いていたのですが、その時に「権力の民営化」という言葉が浮かびました。
書き出すと長くなるのですが、忘れると悪いので簡単に書いておきます。
フーコーのパノプティコンともつながってくる話だと思います。

いま進められているのは、国営事業や公益事業の民営化ではなく、権力の民営化なのだと考えると、また風景が違って見えてきます。
かつてのように、外部から見える絶対的な権力主体は少なくなりました。
主権国家といえども、アメリカは別かもしれませんが、それ以外はたいした権力も持っていません。ブッシュがその気になれば、先制攻撃を加えて、主権を踏みにじることができるのです。
その一方で、権力主体は分散し、見えなくなってきています。
9.11事件を起こした主体は見えてきません。
ですから、犯人はブッシュ政権ではないかという噂すら流れてしまうわけです。
絶対的権力ではなく、相対的権力、あるいは相互抑止力が社会を覆いだしています。
相互抑止力は相互支援力とも似ていますが、これは両刃の剣です。

「権力の民営化」は、こういう状況の中で進められているわけです。
パノプティコン社会の中で、権力を分散するほうが、メタ権力を生み出せるからです。
つまり、少数の支配が「民主主義」をテコにして成り立つわけです。
実は、そうしたところに「民営化」の本質があるのかもしれません。
「権力の民営化」という視点に立つと、社会構造原理も再考しなければいけないかもしれません。
ちょっと小難しいことを書いてしまいました。
こういう議論をしに来る人はいないでしょうか。

■多数決は民主主義とは無縁(2007年4月5日)
直接民主主義を追及しているリンカーンクラブ代表の武田文彦さんとは、民主主義と多数決原理について、よく論争します。
もっとも発想の起点が違うので、議論にならずに言葉の応酬になりがちで、平行線で実りの少ない議論ですが。

多数決は民主主義とは無縁だと私は思っています。
民主主義は「思想」であり、多数決原理は「手段」だと思うからです。
民主主義が実現しているところの多数決結果と情報操作が行われたり、強力な権力者がいたり、大きな格差があるような社会の多数決結果は全く違うものになるでしょう。
未練がましいですが、郵政民営化が多数決で決まりましたが、みんなが情報を共有し、熟議が行われていたら違っていたはずです。
あれは多数の声が実現したのではなく、少数の利権者が多数工作をしただけだと、私は今でも思っています。

民主主義とは「少数派の発言の機会が保証されていること」と言ったのは、ジョン・S・ミルだそうですが、私はそれに加えて、不条理な格差がないことが大切な要件だと思います。「保証」の意味に含まれているのかもしれませんが。
もっとも、「少数派」とは何か、「不条理」とは何か、も問題です。
民主主義は、一人ひとりから発想して全体を構築する思想だという捉え方もできます。
そうなると、社会の構造原理は今とは全く違ってきます。
繰り返し書いているように、これまでの社会構造原理は、全体(社会)を起点として発想しています。統治者や管理者や研究者の視点です。

個人起点で考えると社会の構築の仕方は一変します。
先日、地方議会不要論を書きましたが、コモンズ型の地方議会をモデルに国会を構想すると、たぶん新しい地方議会の存在価値が生まれてくるでしょう。

物事を考える発想のベクトルを逆転させなければいけません。
そして、いまはそうしたベクトルの転換が求められているように思います。
転換してしまうと、今の時代は住みにくくなりますが。

■2児拉致容疑事件と国家の暴力観の変質(2007年4月6日)
近代国家を成り立たせている考えの根底には「暴力の独占」という考え方があります。
国家は国内の暴力を規制し管理する、暴力の独占主体になったことで、主権を確立したわけです。
秀吉は刀狩によって暴力手段を独占し、徳川幕府は私的な仇討ちを禁止し、暴力を管理しだしたわけです。
現在、そうした意味では、近代国家の存在はいささか危ういものになっていますが、逆にそうであればこそ、暴力の管理機関(ということは実施主体でもあるわけですが)としての国家が改めて必要になってきているという言い方もできるわけです。
「国家」とは「悪」を「正義」に変えるフィルターですから。

昨日、新聞で北朝鮮の2児拉致容疑事件が報道されました。1973年の事件です。
捜査が本格化されるそうですが、いまさらなぜ、という気がします。
しかし、国家による暴力の独占という視点から考えると、そうおかしなことでもないわけです。いや、それこそが国家の本質だといってもいいでしょう。

北朝鮮の拉致事件は、国家の行為による「正当な暴力行為」です。
ついでにいえば、偽ドル札づくりも、「正当な行為」かもしれません。
これはもう少しきちんと書かなければいけませんが。

最近の風潮は、しかし、その国家暴力への異議申し立てが、人権思想を背景に高まってきているということです。
このことは30年ほど前に、「21世紀は真心の時代」という小論で少しだけ書いたことがあります。まだ状況認識は極めてあいまいでしたが。
そうした流れの中で、いま、北朝鮮の拉致問題が批判の対象になってきました。
つまり、国家が独占していた、暴力の正当性が揺らぎだしているのです。
大きな地殻変動の予兆を感じます。

ところで、2児拉致容疑事件問題ですが、おそらく事件発生当時から日本の当局は「事件」への疑いを持っていたでしょう。
しかし、そこに踏み込むべきかどうか、が議論されたのではないかと思います。
北朝鮮と同じように、日本という国家もまた「暴力」を独占していますから、それを「暴力」と認定するかどうかは考え方一つなのです。
言い替えれば、拉致行為も拉致への対処行為も、実は国家による坊量区行為の裏表だということです。
そこを覆せるのは、個人の生活や人権思想に立った「人間の異議申し立て」活動です。
暴力を正当化する仕組みは、克服されなければいけません。
しかし、まだ1世紀はかかるでしょうか。
せめて「正当な暴力」への批判力は持続していきたいものです。

■スクエアになった朝日新聞(2007年4月7日)
朝日新聞の紙面の構成スタイルが変わりました。
一言で言えば、「四角」になったのです。
題字の印象も変わりました。
毎日新聞や産経新聞と似てきました。
誌面割りは四角のユニットで切り刻まれてしまいました。
読みやすいのかもしれませんが、なにやら味がなくて、退屈です。
おそらくそれは内容にも通じているでしょう。
それぞれの記事が切り離されてしまい、しかも枠組みに合う分量になってしまったのですから、おのずと記事内容も変わっていくはずです。
読者もきっとお目当ての記事を「スクエア」に読んでしまうでしょう。
これまでの紙面構成に慣れているものにはとても退屈で味気なく、なにやらR21のコラム記事を読んでいるようです。
最近、街はまた「猥雑さ」が見直されてきたように思いますが、新聞雑誌はまだしばらくはスクエア路線なのかもしれません。
バーチャル空間とリアル空間の、こうしたタイムラグはもしかしたらつながっているのかもしれません。
新聞の性格もこの10年で大きく変わってしまったように思います。

■都知事選の常識的な結果(2007年4月8日)
8時からのテレビの報道で、東京都の都知事は石原さんの圧勝と言っていました。
開票前ですが、出口調査でほぼ確実にわかるようです。
他の県知事もすべてもう結果は判明しているような報道でした。
選挙ってなんなのでしょうか。
いつも出口調査報道を見て、納得できない気分になります。

予言の自己実現というのがあります。
予言が意識化されることで、関係者の行動が変化し、予言が現実のものになるということです。
予言は、予言することで実現するわけです。
そうしたことを言い出したR.K.マートンによれば、「最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすること」です。マートンは「自己成就的予言」と呼んでいます。
多くの占いは、こうしたことを背景に成り立っています。
私たちの多くの生活もまた、こうしたことで安定しています。

選挙に勝つ出発点は、勝つという予言を広げてしまうことです。
小泉さんも石原さんも、そうしたことが得意です。

ところで、出口調査ですが、出口調査で結果が読めるのであれば、出口調査的なアンケート調査でも結果は読めることになります。
その技術が精度を高めれば、選挙など不要になります。
それをもう一歩進めれば、予言によって選挙結果は変えられるかもしれません。
20世紀のドイツは、その実例かもしれません。
しかし、現代は当時以上に、そうしたことが簡単に出来そうです。
以前書きましたが、いまは誰もが競って「勝ち馬」に投票する時代なのです。
問題は、予言の神託は誰が発するかです。

私は、浅野さんが当選すると予言していました。
もちろん、そう確信していました。確信せずして、予言は出来ません。
予言は「いのち」を持ち出すからです。
しかし、残念ながらその予言は成就しませんでした。
そういう予言を強く持てる人が少なかったのでしょうか。
つまり、「最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすること」にはならなかったのです。
予言が成就する時と、成就しない時との、分かれ道は何でしょうか。

今回の知事選挙は全国的にみても、閉塞状況を打破するような、新しい風は吹かなかったようです。
予言が不在だったのでしょうか。
予測が勝ったのでしょうか。
いずれにしろ、流れは変わりませんでした。
どなたかから叱られましたが、最初から私の予言は流れから外れていたのです。

しかし、大切なことは、当てることではなく、思いを持つことです。
次回もまた、同じように、当たらない予言を確信するようにしたいと思います。
少し負け惜しみの感がありますが、私は負け戦や予言はずれが性に合っているのです。
そして、きっとまもなく、勝敗の関係は逆転するはずです。
まあ、これも私の強い予言なのですが。はい。

■裁判員制度の意味することの顕在化(2007年4月11日)
裁判員制度実施に向けて模擬裁判が行われていますが、そこから出てきた問題点が朝日新聞で報道されていました。
http://www.asahi.com/national/update/0409/TKY200704090300.html
一部を引用させてもらいます。
市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させるために09年までに導入される裁判員制度で、プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念が強まっている。法曹三者が、全国で行われている模擬裁判の検討を進める中で、課題として浮上してきた。

もしこの文章が正しいのであれば、気になる点が2つあります。
まず、「市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させる」という点です。
市民の健全な常識と司法界の人たちの健全な常識は別だということを意味する言葉です。
市民の常識にはかぎ括弧がついているのも意味ありげですが、これは朝日新聞の書き手の勝手な考えでしょうか。
それはともかく、両者の「健全な常識」の違いこそが問題なのですが、それを正すには、どちらがどちらに合わせるかというのが次の課題です。

それに関して、「プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念」というくだりが問題を顕在化してくれています。
裁判員制度は、「市民常識」を「司法常識」に合わせることを「正す」ことが読み取れます。
そんなことは最初からわかっていたことだろうと思っていましたが、これほど露骨に行われるとは思ってもいませんでした。
意図的なリークとさえ、思えるほどです。
「賢い」司法界の人たちが、「馬鹿な」市民を啓発してやるというのが、今度の裁判員制度の目的だと私は思っています。
それこそが近代のパラダイムなのですから。
この制度は、制度起点パラダイムの延長であり、社会状況への認識において間違っているというのが私の考えですので、批判的に考えすぎているかもしれませんが、実際には模擬裁判によって、そうした真実が露呈してきているのだろうと思います。
発想のベクトルを変えなければいけません。
つまり、「馬鹿な裁判官や検事や弁護士」を「賢い住民」が啓発していく仕組みにしなければいけません。いつの時代も、額に汗して働き生きる人が一番賢いのです。
これはまさに「地方自治」の世界で進められてきたことと同じです。
そのために支払ったコストは膨大でした。
法曹界もまた同じことをやろうとしています。
こうした状況を変える方策がないわけではありません。
ファシリテーターが参加し、議論の外からバランスを取る仕組みを創ればいいのです。
こうしたことは、地方自治やコミュニティ活動などで多くの知恵と体験が得られています。そこから学ぶことは少なくありません。
それによって、裁判員制度導入による大きなダメッジは避けられるかもしれません。
しかし、もっと大切なことは、裁判や取調べの透明化です。
そこをおろそかにして、いくら形を整えても、流れは変わりません。
お金と時間の負担が増えるだけです。完全に時代に逆行しています.
流れを変える気が、もしあるのであれば、発想を一変させなければ、司法改革などできるはずがないのです。
その気になれば、企業を変えるのは簡単なように、社会を変えるのは簡単です。
しかし、誰も本気では変える気がないのです。
裁判員制度のようなことを考えて、ともかく延命を考えるわけです。
しかし、じわじわと社会が変わりつつあるのも事実です.
見えない変化が、見えてくるのはいつでしょうか。
そうした変化が、見え隠れしている時代を、私たちは生きているのだろうと思います。
しっかりした眼を持つことが大切です。

■無党派層から勝ち馬政党層への移行(2007年4月12日)
統一地方選挙の前半結果から見えてきたのは、政党政治が自治体にまで広がっていることです。当選者を見ると政党基盤に立っている人が多いのに、改めて驚きます。
政党離れが始まったのかと思っていた私には意外な結果です。
もっともそれが予想できなかったわけではありません。
私の友人知人がこれまでも何回か地方議員として立候補してきましたが、昨年あたりからみんな政党の公認を受けるようになりました。
私にはとても違和感がありますが、それが現実なのでしょう。
無党派層が多いのではなく、勝ち馬政党層が増えているのです。
政治の質が変わったのです。
個人が個人で社会的に言動することが民主主義の基盤ですから、民主的な社会は霧散したといっても良いかもしれません。

選挙に質も変わりました。
私の友人が立候補した時、応援してくれた私の友人から、何が何でも当選するという意気込みがなければ次は応援できないといわれました。
選挙は当選してこそ、意味があるというのです。
私はそうは思いません。
当選か落選か、選挙の意義はそこにはないと思うのです。
しかし多くの人はそう考えています。
白黒つける偏差値教育で洗脳されているからでしょうか。
そうした考えの延長に、当選すれば何でもできるというとんでもない発想が生まれます。

そうした状況が広がれば、みんな勝ち馬に乗りたくなるでしょう。
ともかく当選しなければならないのです。
それに今や議員は職業になってきました。
私自身は議員と政治家は別のものだと思っていますが、いまや議員こそが政治家です。
まあ、そんなこんなで、私の友人知人もほぼ例外なしに政党に入りました。
そして当選率は急上昇です。
後半に立候補する友人知人も、きっと当選するでしょう。
地方議員の友人が私には増えるわけです。
彼らの社会への影響力は高まり、私の住みやすい社会に近づくかもしれません。
でもどこか違うような気がします。

改めて今こそ、民主主義のあり方を考えてみる時期かもしれません。
硬い組織で成り立っている政党ではなく、やわらかなオープンネットワークのスタイルの仕組みが、政治の世界、とりわけ地方政治を民主化していくのではないかと思うのですが、時代の流れは正反対を向いています。
負け戦が好きな私としては、気持ちが悪くて仕方ありません。

■家事とビジネスとどちらが難しいでしょうか(2007年4月13日)
最近、女房や娘に任せていた家事をちょっとだけ分担しています。
そこで感じたのは家事に比べたら、ビジネスの仕事などいとも簡単だということです。
これには異論のある方もいるでしょう。
もう少しきちんと説明したほうがいいかもしれませんが、たとえば食堂での食事をつくるのと家族のための食事では、前者が簡単なのはお分かりいただけるでしょうか。
なぜ簡単かといえば、前者はつくりたいものをつくればいいからです。できたものを食べたい人が食べればいいのです。それに毎日同じものを作っていればいいのです。食べる人は変わるのですから。
しかし家族のための食事は、家族が食べたいものを、その家族の健康状況や人生を考えながらつくらないといけません。しかも毎日同じ人が食べるのです。毎日メニューを変えなくてはいけません。
先日、CWSコモンズのほうに百姓のことを書きましたが、百姓仕事、最近の言葉を使えば農民の仕事と工業関係の仕事を比べたら、これまた工業の仕事は簡単です。
これも異論があるでしょう。
しかし工業の世界はマニュアルがつくれますが、自然相手の農業はマニュアルなどあてにはなりません。自然は毎年同じとは限らないからです。
いまの時代には、家事はビジネス仕事よりも下位におかれ、農業も工業よりも下位に見られていますが、とんでもない話です。
世界に冠たる大企業の社長も、家に帰ったら奥さんに頭があがらない存在かもしれません。生活面では、たぶん自立していないでしょう。
そうした自立もできない人が現場で汗している自立している生活者に訓示を垂れている風景は、私にはとても滑稽に感じます。
百姓を見下す工業エンジニアにも可笑しさを感じます。
私はただいま、家事見習い中ですが、難しいものです。
最近は資格認定が多いですが、役にも立たない資格認定などやめて、家事資格というのを始めたらどうでしょうか。
目標を与えられるとがんばってしまう男性たちがこぞって家事を学びだすと、もしかしたらまた日本の家庭は世界に誇れる家庭になるかもしれません。
いや、ますます悪くなりますね。
どうせ資格制度をつくるのであれば、百姓資格認定がいいですね。
私などはまだ「十姓」くらいでしかありませんが。
現代社会の仕事観は根本から変えていかねばいけないと思っています。
本当に価値のある仕事をしたいものです。

■不幸と幸せはコインの表裏(2007年4月14日)
コミュニケーションの出発点は自らの弱さ(ヴァルネラビリティ)を見せることだということは以前、金子郁容さんから学んだことです。
金子さんが安積遊歩さんたちと一緒に東中野で障害のある人の支援活動をしている時のことです。
私もささやかに協力していました。
その時に学んだのは、ヴァルネラビリティとアファーマティブアクションです。
その二つは私にとっては、コミュニケーションのことを考える上で大きなヒントになりました。
以来、体験的にヴァルネラビリティ効果の確かさを納得しています。

この数年、私の弱さは見えすぎるほど見えていますので、逆に私もまた周りがよく見えてきました。
見るという行為は一方的な行為ですが、「見える」ということは双方向的な関係です。

昨日、友人から家族の「不幸」を曝けだすメールがきました。
その友人は、何か問題がありそうなのに、とても明るく振舞っているので、軽く考えていましたが、思いもしない問題を抱えていました。
その友人から「生きている気力って何?」と質問されて、驚きました。
そんなだったのかという驚きです。
気づかなかった私は友人失格かもしれません。
笑顔の後ろに、みんなそれぞれの問題を抱えているのです。

久しぶりに会った、幸せそうな家族的な友人が、後で離婚していたことを知りました。
あの幸せそうな素振りは、その裏返しだったのかもしれません。
それに気づかなかった私の感受性のなさにショックを受けました。
突然訪ねてきた人がいます。なんでもない話をして帰りました。
なぜわざわざ来たのかなあと思っていたら、知人から彼は結構切羽詰っているのだと聞きました。
その人は初対面だったこともあり、私はあまり弱みを見せませんでしたので、心を開けなかったのかもしれません。
反省しなければいけません。

自治会の会長をやっているといろいろなことに触れる機会があります。
良いことばかりではありません。
昨夜も電話がありました。もう自治会長は次に人に回したのですが。
お話を聞くといろいろあります。
わが家とはかなり離れているところの、会ったこともない人ですが、近隣社会が壊れていることから発生した問題の相談です。
自治会長時代には気づきませんでしたが、その気になれば気づいたはずの問題です。
自分の問題で精一杯だったので、見ないようにしていた自分がいたのでしょう。
恥じなければいけません。

長々と書いてしまいましたが、この半年、こういう話が毎週のように舞い込んできています。ここに書いた話は、いずれも深刻ではないほうの話です。
みんなそれぞれに問題を抱えていることを実感しました。
いつの時代も、こんなにみんな問題を抱えていたのでしょうか。

「生きる気力」を訊いてきた友人に、こう返信しました。

どこの家も外から見ると平和そうでも、中に入るといろいろ問題はあります。
わが家にもいろいろあります。
そうした悩みも含めて、それこそが人生です。

私よりも辛い状況にいる女房は、
みんなそれぞれにがんばっている。私もがんばらなくては。
といつも言います。
病気になってから身につけた、女房のポジティブシンキングスタイルです。
「病気はいただきもの」と考えるかどうかで、その人の幸せは決まります。

外から見える幸せと中にある悩みや哀しさ。
外から見える不幸と中にある幸せ。
不幸と幸せはコインの表裏かもしれません。

私は今年を「希望の年」と決めました。
昨年は、私のまわりから「希望」がどんどん消えていったように感じていたからです。
希望に満ちた人は、希望などという言葉は使わないでしょう。
3ヶ月経過しました。
少しずつ、「希望」を意識しないですむようになりました。

■新しいNPOのつながり育ての集まりがあります(2007年4月15日)
今日はちょっと趣向の違う記事です。
とても長いですが、ぜひお読みください。

日本のNPOの世界の動きには、当初から違和感がありました。
私は企業と行政が主役の管理主義、経済主義の社会、言い換えれば「公民の社会」から「共(コモンズ)の社会」に向けて、社会は変わっていくことをビジョンにしている人間です。
その視点からすると、日本のNPOは官が育て、経済主義をベースにした、公民の端役になりがちだという気がしていたのです。
そういう状況に、ささやかに新しい風を吹き込みたいと思って始めたのがコムケア活動です。
NPO(その名称が一番違和感のある言葉ですが)の役割や行動原理は別の所にあると思っているのです。
これに関しては、コムケア活動のホームページやこのサイトにもあるコムケア理念をお読みください。

そのコムケア活動も7年目を迎えました。
そこで、改めてコムケアの仲間と一緒に、これからのNPOや市民活動のあり方を考えるフォーラムを開催することにしました。
といっても難しいフォーラムではなく、いろいろな活動に取り組む人たちの、それぞれの「表情」を交換しあうフォーラムです。
そこに企業や行政の人たちにも参加してもらい、新しいつながりを生み出していきたいという思いもあります。
そんなことで1か月前に決断し、4月22日に東京の上野近くの廃校になった小学校の体育館でコムケアフォーラム2007を開催することにしました。
この案内は私のホームページでもコムケアセンターのホームページでも案内しています。

開催を決意してから全国のコムケア活動の仲間に呼びかけました。
急なことだったので、どれだけの人が参加してくれるか不安でした。
ところが、福岡や山口、福井や大阪など、遠方からの参加も含めて、20を超えるグループが展示に参加。30人近い人が会場で呼びかけを行ってくれることになりました。
うれしい話です。
会場では、ミニセッションもいろいろあります。
スタッピング平和展もあれば駄菓子屋もでますし、対話法のミニセッションもあれば、遠隔地介護のミニサロンもあり、ケアプランづくり体験や異文化体験などのコーナーもあります。
まだまだいろいろあります。

参加者による呼びかけもいろいろ出てきそうです。
昨年、「NPOが自立する日」を出版し、NPOの自立を問題提起した日本NPO学会副会長の田中弥生さんも呼びかけに参加します。
事業型NPOで話題になり、団塊世代問題でもテレビなどで活躍のイーエルダーの鈴木さんも来ますし、新しい社会事業モデルに取り組む田辺大さんも来ます。
交流時間もタップリありますので、いろいろとつながりを広げることができると思います。

参加するのはNPO関係者だけではありません。
大企業の部長も、中堅企業の社長も参加してくれます。
学生も主婦もホームレスも社会起業家も、ともかくいろいろです。

ともかく面白い場になりそうです。
できるだけたくさんの人に参加してもらいたいと思い、このブログでも紹介させてもらいました。
このブログを読んで、もし関心をもたれたらぜひ参加してください。
きっと目からうろこがおちます。

もし参加されたら、会場でぜひ声をかけてください。
一応、私はこの活動の事務局であるコムケアセンターの事務局長なのです。

詳しい案内は次のサイトにあります。
http://homepage2.nifty.com/comcare/ccf2007.htm
だれでも歓迎ですので、気楽にご参加ください。まわりの人にもぜひお誘いください。
参加団体の一部を下記します。
もしお会いしたい人がいたら、当日お引き合わせさせてもらいます。

○日時 2007年4月22日(日)13:00〜17:00
○会場 台東デザイナーズビレッジ(新御徒町近く)

<参加予定者の一部>
福祉ビジネス・手がたりの会:新しい事業モデルを創出しだしています
コミュニティアートふなばし:アートのパワーを活かして社会活動をしています
日本対話法研究会:コミュニケーション力を高めるための方法を広げています
NPO法人パオッコ:離れて暮らす親のケアを考える会です。
龍の子学園:先日朝日新聞トップで紹介されたろう者の学校に取り組んでいます
全国マイケアプラン・ネットワーク:介護の世界に新しい風を起こしています
市民活動情報センター・ハンズオン!埼玉:新しいコミュニティビジネスモデル
NPO法人エルマーの会:発達障害児の家族の会です。
NPO法人ふぁっとえばー:障害を持つ人たちが自分たちで働く会社を作りました
NPO法人カドリーベア・デン・イン・ジャパン:ベアドールを活用した活動です。
NPO法人感声アイモ:独特な発声法で、病気や障害の克服を応援しています
共生支援センター:九州で新しい地域コミュニティづくりを進めています
団塊世代プロジェクト:団塊シニアのインキュベーションを支援する活動です
NPO法人デイコールサービス協会:孤独死や独居老人支援の活動です
NPO法人イーエルダー:事業型NPOのモデルを確立しました。
東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂さん:ともかく人間的な人です
NPO法人ライフリンク:マスコミで自殺問題が取り上げられる契機を作りました。
ホスピタルアート:病院をもっと元気が出る空間にしようとしています
日本NPO学会副会長田中弥生さん:今のNPOを革新したいと思っています
ビッグイッシュー:ホームレス支援の活動をしています
GLI:世界中の社会起業家のネットワークづくりをしています
その他いろいろです。

22日、会場で会えるとうれしいです。
ありがとうございました。

■わくわくするほど気に入っている参加費方式(2007年4月16日)
前回、ご紹介したフォーラムに関する話をもう一度させてもらいます。
ちょっと気に入っている新機軸をご紹介したいのです。
この記事はコムケアフォーラム2007のブログにも書いたのですが、ちょっとだけ修正して再録します。

22日のフォーラムの参加費は1000円なのです。
最初は無料の予定だったのですが、実行委員会で無料はだめだとある人が主張しました。
そこで1000円の参加費になったのですが、単なる参加費ではコムケア的ではありません。
そこで新機軸を出そうということになり、会場で出会った共感できる活動に取り組む人に、その1000円を提供できるようにしたのです。
ですから、参加することで、ささやかに「社会参加」できる仕組みになっています。
この仕組みは、ケアップカードで行います。
http://blog.livedoor.jp/comcare/archives/50156839.html

参加費と引き換えにケアップカードをもらい、それが寄付の金券になるわけです。
しかし、これでは前回の公開選考会の時と同じです。
ちなみに、前回の反省を踏まえて、今回はコムケアセンターへの提供は禁止です。
前回は元締めのコムケアセンターへの寄付が多かったのです。

そこで新機軸の登場です。
もし共感できる人に出会えず、自分のほうが良い活動をしていると考えたら、自分に提供することも可能にしたのです。
つまり「自分への寄付」です。平たく言えば、参加費は取り戻せるのです。

自分への還元が多いと問題ではないかと思うかもしれません。
そんなことはありません。
自分に資金を提供すると、その分、責任が発生しますので、これからコムケア活動をしたくなるかもしれません。
そうすればコムケアの仲間が増えるのです。
こんな良いことはありません。

そんなわけで、自分に提供する人が多いといいなと思っていますが、たぶんそうはならないでしょう。
何しろ魅力的な活動がたくさん集まるからです。

私は、この仕組みがすごく気にいっています。
みなさんはいかがでしょうか。
1000円を自分に寄付できるかどうか、試しに来ませんか。
いまこのアイデアにほれ込んでいます。
すべての入場料や参加費がこういうようになると、きっと楽しくなるでしょうね。
そう思いませんか。
いや、社会の経済システムが壊れてしまうかもしれませんね。
しかし、NPOはそういうことも含めて、イノベーティブでなければいけない、と私は思っています。
社会を壊すほどに。

■国民投票法をつくって何が悪いのか(2007年4月17日)
憲法改正の手続きを定める国民投票法をめぐる論議が続いています。
多くの人は、単なる手続法だからどうでもいいではないか、それにどうせ必要なのであれば早く決めればいいではないかと思いがちです。
教育基本法改正だって同じです。
今の教育には問題が多いのだから、その改善のために基本法を見直すのは当然ではないかというわけです。
障害者自立支援法も、なぜ反対するのか理解できない人は多いでしょう。
障害者の自立を支援することのどこが悪いのか。
そうやって、次々と法律が生まれていきます。
法律ができるとそれを施行するための行政組織が必要になりますから、政府はどんどん大きくなります。

さて、法律が出来ると何が変わるのでしょうか。
いろいろあるでしょうが、間違いないことの一つは、法律に通暁している人が行動しやすくなることです。
法律に通暁している人は、たぶん法律が対象にしている普通の国民ではありません。
もしそうであれば、またそれを目指しているのであれば、現在の法律のように「難しい」「多義的な」条文ではなく、もっと短くわかりやすいものにするはずです。
そうでないということは、要するに法律専門家や法律を基準に行動する行政人や、法律を悪用する犯罪者が法律の一番の使い手ということになります。
ちょっと飛躍がありますが、まあ、そう大きくは違わないでしょう。
すくなくとも、法律は決して「国民」のためにあるのではありません。
国民を「統治する」ために、あるいは「統治される」ためにあるのです。

国民投票法は手続法といわれますが、法律はすべてが手段で、基本的には手続法といってもいいでしょう。
統治手続法ということです。
一般には、法律関係それ自体の内容を定める実体法と、実体法が定める法律関係を実現するための手続きを定める手続法、というように区別しますが、よく考えてみれば、法律は価値判断をするための拠り所であり、個人や組織の行動を律したり評価したりするためのものですから、実は実体法と手続法はつながっているはずです。
しかし、なぜか「手続法」と言われてしまうとついつい内容には目が向かなくなりがちなのです。

法律を変える場合、「改正」と「改悪」がありますが、変えようとする側は決して「改悪」とは言いません。
ですから法律を変えることは、いつの場合も「改正」です。
しかし、法律を変える場合、誰かにとっては有利になり、誰かにとっては不利になることは言うまでもありません。法律は価値配分の基準になるからです。
しかし、たとえば「教育基本法改正」という言葉には、状況が良くなるという意味合いが強くこもっています。
内容も読まずに、なんとなく賛成してしまうのが多くの人かもしれません。
ましてや「自立支援法」などといわれれば、反対のしようがありません。
そうした言葉の魔術のなかで、実は私たちを取り巻く管理環境は厳しくなる一方です。
それが法律を整備するという意味なのです。

憲法改正は何も憲法条文を変更しなくてもできることです。
法論理的にさえ、今回の国民投票法は憲法を変える内容になっていると思いますし、たぶん教育基本法「改正」もまた、憲法を実質的には変えてしまったのだろうと思います。

大切なことは「法律」そのものではありません。
その「法律」もしくは「法律の変更」を議論するプロセスです。
そこで実状が明らかになり、問題が共有され、意見が交わされながら、さまざまな考えが吟味されながら、問題が解決され、未来が開けていくことです。
真剣な議論の結果、法律が不要になるのが理想のはずです。
しかし、どうも最近の日本は、法律の制定がなぜか先ず日程を決めてから進められるようになってきました。

法律をつくることが目的なのではないのです。
もし法律の制定を急ぐ人がいたら、その裏にはきっと大きな私利私欲がうごめいているのだろうと思います。
もう少しきちんとした議論をする仕組みが必要なように思えてなりません。


■銃を撃ってしまう不幸(2007年4月18日)
昨日、アメリカと日本で銃による痛ましい事件が起こりました。
バージニア工科大学の乱射事件は死者が30人を上回る悲惨な事件ですが、その報道のさなかに起こった長崎市長銃撃事件は、日本での、しかも長崎での事件だったために、私にはそれ以上に衝撃的な事件でした。
大学乱射事件は銃社会の病理と考えられますが、長崎の事件は銃社会ではない日本での話です。
しかも、報道ではまだ読み取れませんが、本島市長に続いての事件であり、日本社会の行く末を感じさせるものがあります。

名刀をもつと人を斬りたくなる、という話があります。
私はまだ真剣を持ったことはありませんが、そうしたことは何となく納得できます。
人を殺傷する武器が容易に手に入ることは、決して幸せなことではありません。

アメリカの憲法修正第2条には、次のような「人民の武装権」があげられています。
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。
この条文は、アメリカがまだ近代国家としては未熟であることを表しています。
以前も書きましたが、暴力を独占するのが近代国家の特徴の一つですが、アメリカはまだ独占し切れていないのです。

9.11時件はこうした背景の下に行われたわけです。
武器は銃だけではありません。自動車も飛行機も、いうまでもなく武器の要素を持っています。日本の特攻隊やイラクの自爆自動車を考えればわかります。
アメリカは極めて未開な暴力社会を引きずっているわけです。
もっとも、条文には、さすがに「武器を使用する権利」までは書かれていません。
しかし、「保有」「携帯」と「使用」とは、実質的には同義語です。使用できない保有は無意味ですし、自己防衛は解釈問題ですから、いかようにも拡大できます。そこが「法律」の世界の恐ろしいところでもあります。
アメリカは決して先進国ではないのです。
基準を少し変えれば、遅れた国なのです。

もし銃がなければ、今回の事件は起こらなかったかもしれません。
起こったとしても、違った結果になったでしょう。
銃の殺傷力は大きいです。
それに、ナイフなど直接身体を使うものに比べたら、行動を起こすための自己抑制力は格段に低いはずです。ただ引き金を引き、返り血すら浴びないのですから。
銃が安直に入手できるが故に、銃を撃ってしまう不幸が起こってしまうわけです。
撃たれたほうはもちろんですが、撃つほうの不幸も否定できません。
銃のない社会を目指すことが大切です。

が、ちょっと視野を変えると、実はこの銃社会の構造は国際関係の基本なのです。
バージニア工科大学の乱射事件は、イラクやアフガニスタンにおける米国軍隊の行動に重なります。彼らは、銃よりももっと心理的抵抗の少ない武器を作り出しています。
長崎の事件は、日本の自衛隊のあしたの姿を思わせます。

期せずして起こった日米の事件は、とても不幸な未来を予兆しているような気がして、今朝は朝から気分が晴れません。

■「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」(2007年4月19日)
イラクにはなかなか平和が戻りません。
昨日もバグダッドで5件の連続爆弾テロがあり、170人以上が死亡したといわれます。
フセイン時代以上に、イラクはいま戦争状態です。

戦争は20世紀に入ってからも、2回にわたり大きな変質を起こしました。
最初は、いわゆる総力戦への移行です。
それまでの軍隊による戦争が国家全体の争いになったのです。
そこではもはや戦闘員と非戦闘員の区別はつかなくなります。
国家の戦争には否応なく巻き込まれてしまうようになりました。
良心的兵役拒否の動きはありましたが、それは感動的ではあるものの、どこかに裏切りのにおいがしなくもありません。
さらに悪いことに、被害者は非戦闘員のほうが多くなる傾向が出てきます。
先に問題になった沖縄での集団自決などはそうしたことの一つの表れです。
手を下したのは敵軍ではなく、自軍なのです。
対立の構図が変わったわけです。

そして20世紀末に戦争はさらに変質します。
戦争が「事件」から「状態」に変化してしまったのです。
20世紀前半までは、国家間の総力戦になったとはいえ、戦争は一時期の事件でした。
戦争が終結すれば、平和が訪れたのです。
1945年以降の日本の昭和時代は、まさにその最後の平和の時代だったのかもしれません。
しかし、次第に戦争は状況になってきます。

このあたりは、アントニオ・ネグリの「帝国」や「マルチチュード」にわかりやすく書かれています。
ちなみに、この「マルチチュード」は批判もありますが、現代を読み解く視点をたくさん提供してくれます。
その「マルチチュード」の表現を使わせてもらえれば、戦争と政治の区別はますます曖昧になり、「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」というのです。
とても納得できます。

イラク戦争は終わったといわれますが、その後も戦争状態は継続し、死者は決して減少していません。
「戦争とは別の手段による政治の継続である」とクラウゼヴィッツは言いましたが、最近では、「政治そのものが別の手段によって実施された戦争」とも言われるのだそうです。

戦争が変質したのです。
そして敵もまた変わったのです。
こうした文脈で、時代を読み解いていけば、さまざまなことに気づくはずです。
昨日起こった不幸な銃殺事件、イラクでの日常的な爆弾テロと軍隊による市民虐殺事件。
それらはつながっています。

戦争の変質を踏まえて、政治も変わらなければいけません。
そして平和運動も変わらなければいけません。
しかし、戦争を推進している日本の政治家もそれに抗して平和運動を展開している平和運動家も、これまでと同じ発想で、活動に取り組んでいるように思えてなりません。

ちなみに、私の平和運動はコムケア活動なのです。
4月22日に、その集まりがあります。
面白い実践者たちが集まるフォーラムになりそうです。
よかったらぜひ参加してください。
そして声をかけてください。

戦争状況から脱するためには、人のつながりをリゾーミックに育てていくしかありません。
それこそがこれからのソーシャル・キャピタルです。
政治はもちろん、経済のパラダイムが変わらなければいけません。
その一歩を私たちは踏み出すべき時期に来ています。

今日の朝日新聞の天声人語にノーマン・メイラーの言葉が引用されていました。
「次の世代のために毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義」。
小さな一歩を積み重ねていければと思っています。
疲れますが。

■経営における道徳性(2007年4月20日)
夕刊を見ていたら、電力各社のデータ改ざんや隠蔽などの不正問題を調べていた経済産業省が計50事案を特に悪質な法令違反と認定した、という記事が出ていました。
経済産業省こそ問題なのではないかという気もしますが、それはともかく、いわゆる「公益企業」といわれる電力会社ですら、こういう状況が依然続いていることには驚きを感じます。
こうしたことが問題になってから、もう数十年もたつのに、事態は変わっていないのです。

そこには、「産業のジレンマ」の構造が、フラクタルに存在しています。
経営学やカウンセリングにも、また同じような「ジレンマ」があるのでしょう。
企業の目的は「顧客の創造」であるという定義(これこそが「産業のジレンマ」の出発点です)を読んで以来、どうしても好きになれない経営学の泰斗、ドラッカーは、現在の産業パラダイムの中では最高の経営学者だと思いますが、そのドラッカーは1954年の著書“The Practice of Management”のなかで、こう書いています。

経営層によい精神を生ましめるために必要なものは、道徳性(モラリティ)である。そして、道徳性は、人々の長所を強調すること、高潔を強調すること、正義を重んじ、高い行動の標準を創ることを意味する、

近代広報の父といわれる、アイ・ビー・リーは、広報の本質を「フランクネス」といっています。隠すことのコストは以前書きましたが、コストの問題以前に、それは道徳性に関わることです。

道徳性がなぜ必要かは2つの理由があります。
まずソーシャル・キャピタルの視点からの価値です。
ソーシャル・キャピタルが高まれば、さまざまな意味で経済的なコストは削減され、人間的な安寧さが高まります。道徳的であることが、現在の経済パラダイムにおいてさえ、実は最も経済的なのです。

個々人の立場からも、道徳性は価値があります。
道徳的であることは個人に生きやすい状況を提供してくれます。
人が一番、生きやすいのは周りの人の長所と付き合うことです。
これは私の体験からほぼ間違いないと確信しています。
長所だけ見ていたら、すべての人が善人に見えてきますから、毎日が幸せです。
自らが好んで嘘をついたり、明らかな不正義を犯そうとしたりする人は通常はいないでしょう。
そういう行為を行わざるを得ない事情が、それぞれにあるのです。
あるいは、自らの行為の意味が理解できていないのです。
最近の銃の事件も、その例外ではないでしょう。
念のために言えば、そうした考えであればこそ、私は犯罪行為には厳罰が必要だと思っています。
犯した罪よりも、重い罰が与えられなければ、人は救われないと思っています。
ですから、殺人を犯した人は、死刑以上の罰を受けるべきです。
雑な言い方ですみませんが、現代の刑の与え方はあまりにも軽すぎます。
それは冤罪なども含めて、裁判の監視の仕組みがないことと無縁でないようにも思いますが。

友人が始めた「経営道」運動に関わっていますが、どうもどこかで設計ミスがあるような気がしてきています。
そろそろ経済や産業のパラダイムを考え直す時期に来ているような気がします。
同じような企業不祥事のニュースを、いつまでも繰り返し読みたくはありません。
経済同友会が経営者の社会的責任を提言した1956年から、日本の企業の経営者は少しは前進しているのでしょうか。

そろそろ「企業のあり方」を考えなおす時期に来ているのではないかと思います。
経営論の時代ではなく、企業論の時代です。

■優先席には率先して着席という発想(2007年4月21日)
娘が、「リアルシンプル」という雑誌のコラムに載っていた表題の記事を教えてくれました。
一部を引用させてもらいます。

優先席に座るのは、なんとなくちゅうちょしてしまう人がほとんどでしょうが、生活総合情報サイトallaboutのガイドを務める筑波君江さんは、「優先席には率先して座りましょう」と話します。「優先席を譲ってもらえず困っている人はたくさんいます。だからこそ、あなたが積極的に座って“キープ”してあげるのです」。困っている人が乗ってきたら、すかさず声をかけて譲りましょう。

以前から電車の優先席にはどうも違和感を持っていましたが、この発想は気づきませんでした。最初、この話を聞いた時にはとても納得できたのですが、少し考えているうちに、どこかおかしいような気がしてきました。
これは痛烈な日本人批判なのかもしれませんが、奇妙に納得してしまいたくなるところが落とし穴ですね。

3月から私が利用している常磐線にグリーン車ができました。
これも私は違和感があります。
以前、「グリーン車をすべてシルバー車にしたらどうか」と新聞の投稿欄に投書したことがありますが、グリーン車も好きになれません。もっとも、体調の関係で長距離の場合には利用させてもらうことがありますが、それはそもそも長距離列車が疲れすぎる構造にあるからです。
優先席を設けたり、グリーン車や女性専用車両をつくったりすることは問題解決にはなるかもしれませんが、同時に問題発生を加速させているのかもしれません。

残念ながら最近では私も優先席を譲ってもらう年齢になってしまいましたので、筑波さんのお薦めにはどう対処しようか迷うところですが、少し心がけてみてもいいかもしれませんね。
しかし、どこかに抵抗があるのはなぜでしょうか。

■あなたはいつも笑顔でいられますか(2007年4月23日)
私がこの世で一番尊敬でき、信頼できる人は、いつも笑顔でいる人です。
宮沢賢治も憧れた「欲はなく決して瞋(いか)らず、いつも静かに笑っている」(雨ニモマケズ)、そういう人に私もなりたいと思っています。
しかし、私の現在は、それとは全く対極にあるような気がします。
ところが、今日、いつも笑顔の友人がやってきました。
友人というのには、まだ付き合いが短いのですが、不思議なことになぜか昔からの知り合いのような気がお互いにしているようで、その人もブログで私のことを友人と書いてくださったので、友人と呼ばせてもらいます。
その人は、いつも笑顔なのです。
その人を追いかけ取材した30分のテレビ番組を見せてもらいましたが、内容はかなり厳しいものなのに、いつも笑顔なのです。
番組の内容よりも、その絶えない笑顔のことが私の脳裏からは離れないほどの強い印象を受けました。
そういえば、これまで3回お会いしましたが、いつも笑顔が絶えたことがないのです。
そこで、今日は極めて不躾な質問をしました。
「***される前から、いつも笑顔が絶えなかったでしょうか」
実はその人は数年前に大きな事件があって、生き方を変えたことがあるのです。
その事件以来のことではないかと実は私は考えたのです。
人はとても辛いことを経験するとやさしくなれることを実感してきたからです。
ところが、答はそうではなく、事件の前からそうだったそうです。

どんなに苦労しても、笑顔が絶えない人がいるのです。
有名な人では、横田さんや河野さんがいます。
拉致事件とサリン事件の被害者ですが、いつも笑顔です。
この時代にも、笑顔を絶やさないことができるのです。

笑顔の友人と話していて、自分自身の生き方を今日はとても反省させられました。
笑顔を忘れないように、心の平安を維持できるように、今日から少し意識を変えたいと思っています。
いや、きっと、笑顔を絶やさないことこそ、心の平安を維持する秘訣なのでしょうか。
いじれにしろ、笑顔をもっと大切にしないといけません。
今日はたくさんのことを、友人から学ばせてもらいました。
もし、平和を望むのであれば、笑顔を絶やさないことから始めるべきかもしれません。

■コミュニティケアからケアコミュニティへ(2007年4月24日)
このブログでも書きましたが、22日にコムケアフォーラム2007という、全国の表情を持った全国のNPOの集まりを開きました。
急に決めたにもかかわらず、150人近くの人が集まってくれました。
その準備から当日の様子、またその後の動きなどは、コムケアフォーラム2007のブログに書かれています。これからも書き込みがある予定です。
よかったら読んでいただき、ぜひコムケアの輪に入ってください。

私は、その活動の事務局を6年やっていますが、そこで全国の述900のNPOやボランティアグループの活動にささやかに触れてきました。
そのおかげで、日本の社会の実相を垣間見ると共に、日本のNPOの問題点も見えてきました。
数は増えましたが、9割のNPOは自立していませんし、自立しようともしていないという気もします。しかし、新しい社会を創り出そうと健闘している人たちも決して少なくありません。
この活動を始める時に、キーコンセプトを「つなぐ」に決めましたが、6年間の活動を通して、ケアとはつなぐことだと確信しました。
それも表情のあるつながり方、遠心力を持った開かれたつながり方です。
いまの福祉行政には、そうした視点が弱いですし、多くのNPOもまたそういう発想をもっていません。
それはこの半世紀以上の経済至上主義のせいかもしれません。

かつての日本は「つながりの深い」社会でした。
人と人のつながりだけではありません。
自然とのつながり、文化とのつながり、物とのつながり、過去とのつながり、未来とのつながりです。
その「つながりの文化」は、近代化には不都合な側面がありました。
そのために、私たちはみんなで「つながりこわし」をしてきたわけです。
そして核家族社会や企業社会が生まれてきました。
社会は荒廃し、少子化が進みだしました。
そして、そうした状況に中で、産業はますます広がっているわけです。

そういう時代の流れに、棹をさしたい、というのが、私がコムケア活動を始めた思いでした。
その活動拠点が、コミュニティケア活動センター(コムケアセンター)です。
しかし、最近、コミュニティケアではなく、ケアコミュニティという発想を軸にすべきだとようやく気づきました。
ケアコミュニティ。
ケアしあう文化の社会。
つながり、支えあう社会。
コミュニティケアとは視点や視野が全く違ってきます。第一、目線が違います。

いま私たちの周りで欠けているのは、ケアの仕組みや行為ではなく、ケアの文化です。
改めて私たちの先代たちが育て守ってきた「つながりの文化」を復活させることが必要です。
それができるかどうか、それによって、私たちの未来は大きく変わっていくような気がします。
全国のさまざまな実践者と話し合って、改めてその思いを強くしました。
今回のフォーラムで、コムケア活動から少し離れたいと思っていましたが、どうもそれは無理のようです。
人生はなかなか思うようにはなりません。

■不都合な結果は有権者の「誤解」のせい(2007年4月25日)
高知県東洋町長選で、放射性廃棄物最終処分場受け入れ推進派の現職が落選したことについて、甘利経済産業相が記者会見で「(有権者が)誤解をしたまま賛否が諮られると、当然こういう結果が出る」と述べたというニュースには驚きました。
これは有権者を馬鹿呼ばわりしている話であり、受け入れが正しいと決め付けている話です。
馬鹿な住民たちが、理解もしないで反対していると甘利さんは考えているのでしょう。
類は類を呼ぶのでしょうか。
こうした人たちがいまの閣僚には多いように思います。

「住民参加」とか「住民参画」とかいう言葉があります。
この二つは違うらしいですが、そんな小賢しい議論に騙されてはいけません。
もっと大切なのは、そこでの住民は誰かなのです。
一時期、「住民」ではなく「市民」という、これまた小賢しい議論が広がったことがありますが、これもまた騙されてはいけません。
こうした瑣末な議論には共通した発想があります。

つまりこうです。
政府やお上や有識者の考えに楯突くのは、無知で誤解している馬鹿な住民という発想が、そうした議論の根底にあるのです。
ですから、予め「賢い」市民をあつめて、タウンミーティングを開催し、計画にまで参画させるスタイルをとってきたわけです。
市民は「賢い」ですから、無理は言わないのです。いや、無理を言わない人が「賢い」人なのです。
もし彼らが楯突くようであれば、目先の利益しか考えていない住民エゴと切り捨てればいいのです。
しかし、今回の事件は、むしろ受け入れが目先の利益論でしたから、この論理は通用しません。
ですから「誤解」という理由が考えられたわけです。

誤解しているのは自分ではなく、住民だと決め付けるのはなぜでしょうか。
甘利さんにはきっとたくさんの情報があるでしょうし、「頭の良い」官僚や貪欲な学者が取り囲んでいるのでしょう。
しかし、その情報は実際の生活や文化で培われてきた情報に比べたら、どれほどのものでしょうか。
間違いなくほんのわずかな情報ですし、身勝手な編集で集めたものでしかありません。
甘利さんの家族の住んでいる地域の首長が、受け入れを決めたら、甘利さんはどうするでしょうか。
今の政治家には、そうした視点が欠落しています。
学者たちも自らの生活と無縁なところで考えています。
それはいつの時代も変わりはありません。
水俣や四日市を思い出せばいいでしょう。
熊本大学にいた原田さんのような生活とつながった学者も、もちろんいますが、そうした学者は決してメジャーにはなれません。ましてや本当の意味での、政策形成にはかんよすることは出来ないでしょう。

書いているうちに、だんだん腹が立ってきました。
笑顔を忘れるなとつい一昨日書いたばかりなのに、困ったものです。
誰が一番賢いのか。
そして行政とは、どの視点で考えるべきなのか。
これまで何回も書いてきましたが、相変わらず甘利さんのような人たちが政治を押さえている現実を知ると、疲れがドッと出てしまいます。

■学力テストへの犬山市の異議申し立て(2007年4月26日)
24日に実施された全国学力テストに、愛知県犬山市の小中学校は予定通り参加しませんでした。
最後には崩れるかと思っていましたが、日本にも骨のある教育委員会があると感激しました。
犬山市の姿勢は次のサイトをご参照ください。
http://www.janjan.jp/area/0704/0704032972/1.php
今回の学力テストにかかった費用は77億円だそうです。
私は、この一事をもってしても、このテストに否定的です。
どこかの業者が利益を上げ、そこから寄付をもらう政治家が私腹を増やすだけのことでしょう。
教育産業で利益を上げている企業の実態をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。彼らは教育を壊しているとしか、私には思えません。いささか言いすぎだとは思いますが。
今や教育はどんどん産業化されてしまっていますが、犬山市ではまだ教育の片鱗が残っているのかもしれません。
もっともテレビのインタビューでは犬山市の市民は不安を表明していました。
しかし、そのテレビ取材のディレクターの好みで住民を選んだのかもしれません。
まともに考えれば、学力テストなど無意味なのです。
なぜ無意味かといえば、テストで学力などわかるはずがないからです。
いや、テストでわかるような学力にはあまり意味がないのです。
そう思いませんか。
学力テストでわかるのは、たぶん「従順度」や「作業適性」や「創造力のなさ」くらいでしょう。
そういう子どもたちを育ててきた結果が、今の社会なのだということを、なぜみんな気づかないのでしょうか。
市町村合併に異を唱えた矢祭町の町長もそうですが、しっかりした活動を行っていれば、霞ヶ関の机上論には振り回されないはずです。
しかし、昨今はそういう自治の人は少なくなりました。
地方自治はいま、崩壊の危機にあります。
地方分権の時代とは、地方自治とは正反対の時代を意味することを認識すべきではないかと思います。
分権と自治は全く相容れない発想のはずです。
犬山市の教育委員会の勇気ある行動に、大きな拍手を送りたいと思います。

■飲酒運転者から免許を剥奪することがなぜ出来ないのか(2007年4月27日)
飲酒運転事故が後をたちません。
しかし、それを激減させるのは簡単なことです。
飲酒運転が見つかったら、即刻、免許運転を永久に剥奪すればいいだけの話です。
自動車は走る凶器ともいわれます。
もしそうであれば、それくらいの罰則が必要でしょう。
飲酒運転の罰則を強化したら、事故を起こしたり検問にかかったりしたら逃げて暴走する車が増えるという話もありますが、事故や検問で逃げた運転手は、飲酒運転以上に悪質だとして、運転免許剥奪に加えて、10年以上の懲役にしたらどうでしょうか。
無期懲役でもいいくらいだと、私は思います。
もちろんいずれも、原則であって、情状酌量は考えなければいけませんが。

そういうルールにして、なにか不都合はあるでしょうか。
まともに生きている人たちには、全くないはずです。
ではなぜそれが実現できないのか。
その理由も簡単です。
自動車が売れなくなるからです。
経済規模が縮小するからです。
雇用の場も減るという思いに縛られているからです。
それらはすべて、これまでの「古い経済」の論理でしかありませんが。
サステイナブルな経済からは、そういう論理は出てこないはずです。
つまり現在の私たちの経済的豊かさの根幹には、そうした「まともでない人たち」の思惑が蠢いているわけです。
まやかしの持続可能性愚論が多すぎます。

世の中の問題を解決するのは、本当はいとも簡単なのです。
それがなかなか実現できないのは、
問題が解決されないことを望んでいる人たちがたくさんいるということなのでしょうか。

■「騙された者の罪」(2007年4月28日)
マスコミではもうあまり騒がれなくなってきましたが、憲法改正が着々と進められています。
これは日本の問題である以上に、人類の歴史にとっての大きな問題ではないかと思います。
せっかく人類の英知が辿り着いた日本国憲法第9条を、私物化して改正しようと図っているのはいうまでもなく、小泉、安倍と続く日本国の首相です。
そして、それを首相にいだく私たち現代の日本人です。
哀しいことに私もその一人というわけです。
私はこの2人は卑劣な犯罪者であり、その罪は重罪だと思います。
小泉、安倍両名が、未必の故意をもった大量殺人企図者とすれば、私もまたその共犯としかいいようがないわけで、そう考えると新聞をにぎわすたかだか数人の殺人者を断罪する資格があるのかと思うこともないわけではありません。

私が、改めてそう思ったのは、「軍縮問題資料」5月号で、憲法学者の樋口陽一さんと土井たか子さんの対談を読んだからです。
郵政民営化で騙されたのは、当面は私たちがただ経済的な損失を受けるだけですが、憲法を変える話はそれではすみません。
金正日と同じような卑劣な人物が、紳士面をしてテレビで内容のない話をしているのをみると、それを放置している自分の生き方に嫌悪感を持ってしまいます。
なかなか辺見庸さんのようには行動できません。

ところで、その対談の最後に、樋口さんが伊丹万作の「騙された者の罪」の話を語っています。
「騙された者の罪」とは、伊丹万作(伊丹十三の父)が1946年、つまり日本が敗戦した翌年に書いた「戦争責任者の問題」のなかのメッセージです。

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(中略)
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

さらに伊丹万作は、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と続けます。

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
(中略)
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

60年以上前に、すでに現在の日本国民の犯罪は予告されていたのです。
「戦争責任者の問題」の全文はネットで読めます。
ぜひ読んでみてください。
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/itami_mansaku.html

ところで、5月6日(日)夜の10時からNHK教育テレビで、ETV特集アンコール「焼け跡から生まれた憲法草案」が再放送されます。
まだ見ていない人はぜひご覧ください。
騙されないためにも、罪を犯さないためにも、もっと真剣に時代と関わらなければと思っています。
そうでないと、昨日書いた飲酒運転者と同じ犯罪者になってしまいかねません。

■経済的な連休から精神的な連休へ(2007年4月29日)
大型連休のはじまりです。
資本主義経済の発展を支えているのは、いうまでもなく「市場」です。
つまり「消費」こそが経済の原動力です。「生産」ではありません。
しかも、「消費」と「生産」の意味は、資本主義経済の状況によって変質してきます。
たとえば「価値の消費」が「価格の消費」に変化し、「価値を創る生産」が「価値を壊す生産」に変化するようなことが起こるわけです。
大型連休は、過剰な生産を清算する消費にも、過剰な消費を清算する生産にも、大きな効果があります。ですから年々大型化していく傾向にあります。
言葉足らずで、わかりにくい書き方になっているかもしれませんが、ブログではなく、もっときちんと書かなければいけないテーマかもしれません。
しかし、20年前には生活(余暇)のためにあった連休が、いまや経済のための連休になってきていることは、もっと意識されるべきではないかと思います。

私は、この20年近く、連休とは無縁な生活をしています。
この数年でいえば、あるプロジェクトのおかげで、連休はいつも自宅で報告書づくりをしていました。「消費」の対象は、市場的なものではなく、私自身の時間だけでした。経済の発展には全く寄与してきませんでした。
今年の連休は、例年よりももっと無為に、女房との時間を過ごす予定です。
そして自らの生き方や社会との関わり方を考えてみるつもりです。

そろそろ経済的な連休ではなく、そうした精神的な連休のあり方が必要になってきているのかもしれません。
個人の話ではありません。社会全体の話です。

■教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」(2007年4月29日)
「ローマ・ヒューマニズムの成立」(小林雅夫/地中海研究所紀要第5号所収)という小論の中に、古代ギリシア人が「教養」と想定している学科構成というのが出ていました。
20人以上のソフィストたちの考える科目が一覧できるのですが、ほとんどの人が「音楽」をあげているのに興味を持ちました。
プラトンは、教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」としていたそうです。
古代ギリシアでは音楽と体育は重視されていたようですが、その音楽と体育は歌舞の中の統合されていたわけです。
そのいずれも私は得手ではありません。
楽器も出来ませんし、ダンスはフォークダンスですら不得手でした。
大学のころ、仲間たちと1週間、キャンプに行くことになり、新しいフォークダンスをやろうということになりました。私が選んだのが、ウェストサイド物語の挿入歌「アメリカ」でした。知り合いに頼んで振り付けをしてもらい、教えてもらったのですが、どうもそれが覚えられずに、重いテープレコーダー(当時はとても重かったのです)を山まで運んだのに、みんなで踊った記憶がありません。
体育も得手ではなく、苦労しました。運動神経もあまりよくないようです。
したがって、古代ギリシアでは私は「教育のない人」の典型です。
ところが、最近の「学力論議」では、このいずれも出てきません。
いずれも不得手な私にとっては好都合なようにも思えますが、その私でさえ、こうした要素が入らない学力には納得できません。
音楽と体育こそ、生きていくうえでの重要な要素だと思うからです。
さらにここにアート(創作)が加われば、もう人間としてはいうことありません。
それがあってこそ、物理や歴史の知識が意味を持ってきます。
日本の教育体系では、音楽、体育、図工(創作)、家庭科などは入試とは関係なかったが故に常におろそかにされてきました。しかし、人間が豊かに暮らしていくためには、これこそが大切な科目なのではないかと思います。
そこにこそ、学ぶ喜びもあるはずです。
必修科目と選択科目の配置を入れ替えなくてはいけません。
英語を必修にするかどうかの次元で考えている時ではありません。
もう機械のような労働者や技術者を育てる時代ではなくなったのです。
学校のパラダイム、教育のパラダイムを変えてもいいのではないでしょうか。
そういう議論が全くないのが、不思議でなりません。

■「いいことだけ日記に」騒動からの気づき(2007年5月1日)
先週、朝日新聞に私の女房の投稿記事が掲載されました。
「いいことだけ日記に」というタイトルの小文です。
実は女房はいま闘病中なのですが、夫である私が「いいことだけを書く日記」を勧めたという、ただそれだけの話です。
ところが、その記事に気づいた友人が、あるメーリングリストにそのことを書き込んでしまいました。
そのメーリングリストは、「大きな福祉」をめざすNPO関係者のメーリングリストでしたから、その小論は話題を呼びました。
たくさんの方々がメールを送ってきてくださいました。
入院中の女房に、それらをプリントアウトして毎日届けています。
なかには自分も同じ病気であることを告白する衝撃的なメールもありました。
その女性と女房は面識はないのですが、そのメールのやり取りで、心がつながっていくのがわかります。
しかも女房は、ケアされながらケアする立場に変われるのです。
つながりやコミュニケーションとは、こういうことなのだと目が開かれました。

ところが、送られてくるメールを読んでいて気づいたことがあります。
ほとんどすべてが女性なのです。
そして男性に関しては、3人を除いて、他はみんな闘病中の人なのです。
これは偶然でしょうか。
そうではないでしょう。
コミュニケーションを求めているのは、女性も含めて、社会の中心から外れたところにいる人たちなのです。

新聞を読んで、電話してきた女房の友人も少なくありません。
女房が一番感激したのは、20年前、ある趣味の教室で数か月一緒だった人から突然電話がかかってきたことでした。
女房よりもひとまわり年上の女性ですが、よくまあ電話番号を残していて、しかも電話してきてくれたものです。
しかも、女房はいま入院中なのですが、一時外出が許可されたわずか数時間の間に、その電話はかかってきました。

結論がとびますが、この投稿記事事件で、日本の文化の根底は、女性たちの人生的なつながりや痛みを持った人たちのやわらかなつながりがしっかりとあったことを改めて確信しました。
そのつながりが、日本の文化のしたたかさとしなやかさを支えていたのです。
それが、いま壊されようとしています。
「痛みを分かち合う」社会だった日本の社会は、「痛みを分かち合おう」という言葉に踊らされて、痛みを押し付けあう社会になろうとしているのです。
共済文化つぶしも拝金主義による働く楽しみ奪いも学力テストによる学びの場こわしも、すべてそうしたベクトルで動いているように思えてなりません。

■「病院」(sick center)から「健院」(hospital)へ(2007年5月2日)
CWSコモンズに先日、次のような記事を書きました。

今日も病院だったのですが、待っている間にすばらしいアイデアが浮かびました。
まあ、それほどのものではありませんが。
待合室で健康教室をやるのはどうでしょうか。
足裏マッサージコーナーや太極拳コーナーはどうでしょうか。
健康サロンもいいですね。
ともかく自分の番が来るのがもっと遅いほうがいいと思わせるような、
楽しい役立つコーナーを待合室で行うことが出来ないものでしょうか。
講師はもちろん患者自身です。
もし実現したら、「病院」は「健院」に変わります。

この記事に賛成してくれた人がいます。
こんなメールが来ました。

実現するといいなと思いました。
もっとも病院経営上は困るかもしれませんね。
でも私たちにとっては、とてもいいことです。
私たち一人ひとりが肉体的にも精神的にも健康になれますし、国の赤字を少しでも減らすことができるのですから。
また、西洋医学と東洋医学との融合ができないかなと感じました。
一部の病院では取り組んでいるところがあるかもしれませんが、どこの病院でも、極当たり前のように西洋医学も東洋医学も共存するというようなことにならないかなと思いました。
今回の病気をして特に強く感じています。
自然を克服する対象とするか自然の中にあることを求めるかといったように、基本的な自然観が異なるため、融和は不可能なのでしょうか。

この人は脳出血の後遺症をかかえ、いまリハビリに取り組んでいます。
実はその後、女房は入院し、1週間以上、私も半分の時間を病院の病室やロビーで過ごしました。
私も、ますますこの構想が必要だと実感してきました。

病院の設計は、外来の待合室だけではなく、病室も病棟も問題が多すぎます。
病院建設の取り組んでいる建築家は、きっと自分の入院を想定していませんね。
病院ではなく、健院発想で取り組んだら、きっと違った空間になるでしょうね。

まあ、そこまでは一挙に行かないとしても、今の空間でも、いろいろなことが出来ます。
残念ながら今の病院の多くの医師たちは、病人ではなく病気を診ていますので、おそらくそんな発想は出てこないでしょうが、西洋医学コンプレックスを捨てて、この人の指摘するように、西洋医学と東洋医学の共存を考えてほしいものです。
せめて古代ギリシアに起こった西洋医学の原点くらいは学んでほしい気がします。

■少子化になった理由(2007年5月2日)
昨日、テレビのニュース23で、「派遣労働者の権利を守れ!」という特集をやっていました。
私の身近にもたくさんある話ですので、途中からでしたが観てしまいました。
こういう実態を、格差拡大に向けて「改革」を進めている政治家や財界人は少しは知っているのでしょうか。
どんなきれいごとを言おうと、大企業のほとんどやっていることは、私には犯罪としか思えません。未来に向けての犯罪という意味です。
こうした問題の解決にこそ、経団連のトップは動くべきです。
動けば、すぐに解決できることはたくさんあるのですから。
何がCSRだと、私などはいつも苦々しく思います。
私には、奥田さんも御手洗さんも恥ずべき人間にしか見えません。

しかし、私がその番組で印象に残ったのは、最後に筑紫キャスターがポツリと言った言葉です。
私の聞き違いかもしれませんが、筑紫さんはこういったのです。
こうしたことが小泉内閣が進めてきたことの結果の一つであり、それが少子化など未来にどうつながるかは別の問題です。
かなり私的に表現が変わっている可能性が大きいですが、その時の筑紫さんの「ためいき」のような疲れが私にもドッと伝わってきました。
以前も書きましたが、日本の社会は20年ほど前から未来への希望が持ちにくい社会になってきたようです。次の世代が今より幸せになると感じている人が2割しかいないというのが、当自の調査結果でしたが、私がいろいろのところで同じ質問をしてきた結果は、年々むしろ希望の灯は消えてきているような気がします。
希望のない社会では子どもを生みたくなるでしょうか。
希望のために子どもを生むという倒錯現象は起こるかもしれませんが。

この状況がどこかで破綻しなければいいのですが。
そうならないためにも、「つながり」を広げていくことはとても大切なことだと、私は思っています。
つながりを育てるには、お金も才能も、もしかしたら時間も不要なのです。

■臓器移植報道と思いやる気持ち(2007年5月3日)
米国で心臓移植手術を受けた松田京大ちゃんが元気に帰国しました。
これはとてもうれしいニュースです。
テレビでお母さんが、「日本中の皆さんの暖かい気持ちがなかったら、今の京大はありませんでした」と話していました。
こういう風景はこれまでも何回か見てきました。
しかし、いつも少しだけ疑問に思うことがありました。
このブログでも書きたいと思いながらも、書けずにいました。
一昨日、ある方からメールをいただきました。
その方のメールを読んで、今回は思い切って書くことにしました。
2日間、迷ったのですが。

疑問の一つは、京大ちゃんの問題は解決したかもしれませんが、同じような状況にある人たちの問題はどうなるのか、です。
必ずしも同じ病気でなくてもいいです。
お金が不足しているが故に、受けたら助かるかもしれない手術や治療を受けられずにいる人は決して少なくありません。
いや、それ以前に、健康保険料を払えないために、病院にも行けずに苦しんでいる人も増えています。
医療法の変更で、苦しんだ人もいます。
鶴見和子さんも、その一人かもしれません。
すべてを一挙に解決することは難しいでしょうが、多くの矛盾を一つの美談によって見えなくしてしまうことに大きな疑問を感じるわけです。
仕組みとして、何か考えられないものでしょうか。
もしそうした状況に直面した時に、京大ちゃんの両親のように、誰でもがもし呼びかけられる仕組みがあれば、と思ったりします。

もう一つは、数年前に日本ドナー家族クラブの方から気づかせてもらった疑問です。
京大ちゃんが手術に成功した最大の功績者は、そして京大ちゃんのご両親が一番感謝しているのは、いうまでもなくドナーの方であり、その家族です。
その家族は、京大ちゃんと同じ年頃の子どもを亡くした家族かもしれません。
そうした家族の悲しみが、臓器移植の成功の陰には必ずあります。
しかし、テレビも新聞も、そうした視点がいつも感じられません。
そのために、私たちもまた、そうした報道の後ろにいるドナー家族の複雑な気持ち、悲しみと喜びに思いが向きません。
今回も、あるドナー家族の方から、どうして報道ではそうしたことを思いやる発想がないのか、残念ですとメールをいただきました。
それに続けて、こんなことが書かれていました。

秋には脳死移植法の改正が、臨時国会に上程されるそうです。その中にドナーのケアやサポートの文言はありません。

日本移植学会副理事長の大島伸一さんは、「いくら目の前の患者が生きる死ぬという状態でも、提供するドナーがいて始めて成り立つ。あくまでも、ドナーの人権や利益、意思や考えが第一優先でそれが侵されてはいけない」と発言されているそうですが、物事の後ろにある問題を、私たちはもっと思いやる気持ちが必要です。
意識しなければ、そうしたことはなかなか見えてきませんが。

■チビ太はいつもとても幸せそうに寝ています(2007年5月4日)
わが家の犬(私はチビ太と呼んでいます)はよく寝ます。
いつ見ても寝ています。
一人で読書したりテレビを見たりしている風景を見たことがありません。
若い頃は一人遊びをしたり、哲学したりしていましたが、最近はそうしたこともめっきり減って、散歩と食事以外は、寝ていることが圧倒的に多いです。
いま11歳ですので、人間年齢では私とほぼ同じです。
今日、その幸せそうに寝ているチビ太をみながら、もしかしたら生命の基本は寝ることではないかと思いつきました。
活動するための休養が睡眠の目的ではなく、睡眠のための手段が活動かもしれません。
疲れたから寝るのではなく、寝るために疲れる、というわけです。
働くために食べるのではなく、食べるために働く。
発想を変えると生き方が変わるかもしれません。

まあ、こうした「無駄なこと」を考えたりしているので、人間は寝る暇がなくなるのかもしれません。

私も若い頃は特に、寝る時間を惜しんで学び働き遊んできました。
今もそういう感覚はどこかに残っています。
寝る時間がもったいないと思うことは、さすがに最近は少なくなりましたが、活動できる時間がもっと多ければいいと、ついしばらく前までは切実に思っていました。
最近、それがなくなりました。
生き方がまた少し変わりつつあります。

それにしても、チビ太の寝顔はすばらしく幸せそうなのです。
私も寝ている時は、こんなに幸せそうな顔をしているのでしょうか。
チビ太と私は、どちらが幸せなのでしょうか。
でも、次に生まれる時も、やはり人間がいいですね。
なかなか解脱できそうもありません。

■多数決主義と民主主義と国民主権(2007年5月5日)
先日書いた国民投票法の記事に、予め民主的な手続きをしっかりと決めておくことは必要ではないかというコメントをもらいました。
そこで、少し私見を書きます。いろいろな人がすでに言っていることなので、書くまでもない話ではありますが。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/04/post_b271.html

民主主義と多数決は次元の違う話であり、混同すべきではないということも前に書きました。
多数決は少数の人の意見を正当化する仕組みでもあるのです。それがまさに、いま話題になっている国民投票法のなかに仕組まれています。
「だまされることの責任」という佐高信と魚住昭の対談集があります。2004年に高文研というところから出版されています。私にはとても刺激になりました。
そこに、なぜ日本は負けるとわかっていた無謀な戦争を始めたのかに関して、魚住さんが取材した話が出てきます。そこでは「権力の下降」という言葉が出てくるのですが、ある思いをもった人が力のある上司を情念で説得し、それが次第に積み重なって、時代の流れを変えていくのです。リーダーシップの弱いリーダーはそれを止められません。そして最終的には天皇が利用されるわけです。そうした状況を2人は「無責任体制」と呼び、それがいまなお続いていると指摘します。
ここで重要なのは、ある考えの共感者が増えていくのではないということです。ある考えを実現するために、多数決方式が利用されていくということです。
たとえば、ある主張を持った人が同志を10人集めて、15人の集まりで、自らの考えを組織決定します。
その手法を繰り返していくと、いつか全体を制することが出来ます。
主体性のない人たちは、勝ち馬に乗りたがりますし、少なくとも反対はしなくなるのです。
そうしてナチスは大きくなったのです。
それが多数決主義の落とし穴です。
小泉内閣や安部内閣がよく使う手法です。

今回の国民投票法では、有効投票総数の過半数の賛成で憲法改正案は成立することになっています。最低投票率制度は設けられていません。
したがって、もし国民の半分しか投票しなくても賛成が多ければ成立します。国民の1/4でも成立しえるのです。いや、仕掛け方によってはもっと少なくても可能でしょう。
しかも国民投票することになったら、国会の中に「広報協議会」が発足し、国民に向けての情報提供(働きかけ)が行われることになっているのですが、その協議会のメンバーはその時の国会議員の議席数によって比例配分されることになっています。
情報は出し方によってかなり自由に印象を変えられますから、ここでの情報の出し方で国民の意見は大きく影響を受けることは間違いありません。
小選挙区導入や郵政民営化の時のことを思い出せばいいでしょう。
マスコミも有識者も全く機能しないでしょう。彼らもいまや職業でしかないからです。
新聞社の論説委員や編集委員が必ず政府に迎合し、終わった後で批判しだすのを、これまで何回か見てきています。私が信頼していた論説委員も、そうでした。
ここでも「無責任体制」は健在です。

多数決と国民主権は理念としては正しいし、その考えが社会を豊かにしてきたことは事実です。
しかし、同時に、その思想が悪用されて、あいまいな国民主権の実体を多数決手法で自らの考えを実現する道具に使ってしまう人が出てくるのです。その人も、おそらくそれほどの「悪意」はないのかもしれません。ヒットラーにしても、個人としてはそう悪意の人ではなかったように思います。
ただ、制度に利用されただけなのかもしれません。
だからこそ、日本国憲法は大切なのです。
瑣末なことに目を向けて、憲法改正賛成などといってはいけないのです。
憲法改正賛成だが、9条は変えたくないなどという論理は全くナンセンスなのです。
多数決方式を利用して、自らの考えを正当化する人たちに絶好の材料を与えるだけなのです。

手続きとは理念やビジョンや思想を具現化したものです。
手続きを決めることは、実体を決めることなのです。
気をゆるめて、ニーメラーのような後悔をしたくはありません。
テレビでの憲法特集が最近多いですが、その報道姿勢にむなしさを感じます。

■当事者主権の難しさ(2007年5月6日)
最近、「当事者主権」ということが言われてきています。
私も、そうした動きに関心を持っています。
私が会社時代に取り組んだCIプロジェクトの理念の一つでもありました。
その体験もあって、それがどのくらい難しいことであるかも実感しています。

私が最近取り組んでいるコムケア活動の理念も当事者主役です。
しかし、「当事者」は常にマイノリティであるところに難しさがあります。
その当事者が、自分よりも不幸な存在である場合は、同情し応援しますが、社会的に注目されだすと嫌悪感を持ち出す人がいかに多いかを私は身を持って感じてきました。
私の身近な友人知人や親戚でもそういうことは起こりますし、私自身のなかにも、そうした面がないとはいえません。
それに、「当事者」自身、注目されだすと言動が変わることもないわけではありません。
私の友人から、「社会的弱者はそれゆえに社会的強者である」と指摘されたことがあります。そうした面もないわけでありません。
同じ目線を維持することは、本当に難しいです。
目立つ釘は打たれてしまうのが、日本の社会かもしれません。

当事者主権で動き出した人たちが、社会から石を投げられた事例は枚挙に暇がありません。
私がそのことを意識した最初の記憶は水俣病でした。
最近では拉致家族会やハンセン病患者が、そうした目にあっています。
犯罪被害者の家族の話もよく聞きます。
弱いものほど弱いものをいじめることが多いですから、実は弱さと強さは逆転しているのですが、現実に「いじめ」の対象にされてしまうと辛い状況におかれます。
時に、自殺へとつながってしまう悲劇も起こります。
自殺は決して「自死」ではなく、犯人の姿が見えにくい殺人だという気がします。
しかし、犯罪の概念を変えない限り、この事件は罰することができません。

私が昨日書いた、難病の家族をもつ家族もそうかもしれません。
私自身にも、そうした当事者が苦労して自らの人生を開いていった姿に否定的な発言をしてしまったのかもしれません。
急にそんな気がしてきて、ついつい懺悔したくなりました。
「思いやること」の難しさを感じます。

■生産者主導から消費者主導の経済への移行の幻想(2007年5月8日)
経済の主導権が生産者から消費者へと動いてきていると、いわれます。
私が大学を卒業した時点では、産業構造の川上化か川下化の議論はまだ分かれていました。
私が入社した東レでも、それがテーマになっていました。
いうまでもなく、その当時も少し考えれば川下化は当然の流れでした。
しかし、そうはなりませんでした。
残念ながら東レは川下化路線を取りませんでした。
15年後に、私はトップに川下路線を再度提案しました。
それが結局は私が会社を辞める契機になるプロジェクトの始まりでした。

私が会社に入った1960年代に、すでに日本でもドラッカーは話題の人でした。
彼の本を読んで、私はしかし失望しました。
事業の目的は「顧客の創造」だと書いてあったからです。
以来、私はドラッカーは好きにはなれません。
しかし、企業経営に関して言えば、ドラッカーは的確でした。
「顧客の創造」とは、経済の起点は消費にあると明言しているわけですから。
当時はまだプロダクトアウトの経営観理論が全盛でした。
生産の起点をおいた経営論や産業論がほとんどでした。
しかし、資本主義の本質は「消費」にあることは、後知恵かもしれませんが、明白です。

1990年代になって、ニューエコノミー論が盛んになりました。
ITが大量生産体制の限界を克服し、柔軟な供給体制が可能になったのです。
カスタムメイドの経済が可能になり、ますます個々の消費者が主役になれるようになったのです。
とまあ、これがこの数十年の産業構造や経済システムの大きな流れです。
生産者主導から消費者主導の経済への移行です。

私は、しかし上記の議論には全く与しません。
表層的な動きに騙されていけません。
たとえば、こんな記事が今月号のハーバード・ビジネス・レビューに出ていました。
サプライチェーンを一般家庭まで延ばす、という記事です。
長くなりそうです。
この続きは、明日、書きます。
余計なことを書いてしまったので、肝心のテーマに行き着きませんでした。

■サプライチェーン・マネジメントの家庭への侵入(2007年5月9日)
昨日の続きです。
最近の経営戦略のひとつが、サプライチェーン・マネジメントです。
これも1960年代から議論されていた経営テーマですが、明確な戦略として意識されてきたのは1980年代からでした。
サプライチェーンとは、原材料の源泉から最終消費者にいたるプロセスを統合的につないで考えるということですが、その統合する範囲に「消費過程」までを組み込もうというのが、昨日、言及した記事(「サプライチェーンを一般家庭まで延ばす」DHBR)の内容です。

これまではサプライチェーン・マネジメントは小売店で終わっていました。消費者が購買した後は消費者の管理に入るわけです。しかし、そこで経済的には無駄が発生します。消費者の管理はいかにも気ままだからです。
たとえば、今朝、わが家では朝食のパンが不足しました。昨日、買い忘れたのです。私は違うものを食べましたが、パンのメーカーは売上げを減少させたことになります。パン1枚が何だと思うかもしれませんが、社会全体では大きな額になります。
イギリスでは、そうした消費者の買い忘れで、年間90億ドルの売上げ減少を引き起こしていると、その記事は書いています。
そこで、消費者が購入した後も、商品管理ができないかという戦略が出てきました。
その萌芽は、通販や宅配販売などではかなり前から試みられていますが、それをITで管理し、まさに企業によるサプライチェーン・マネジメントに組み込もうというわけです。
ICタグやIC組み込みの冷蔵庫が、それを可能にします。
記事にはこう書かれています。

未来の家庭では、ハイテクごみ箱が登場し、ICタグのついた日用品が捨てられると。自動的に注文したり、購入を促したりするかもしれない。

すでに冷蔵庫内の使用量がわかるスキャナー内蔵の冷蔵庫の試作が始まっているそうです。
その記事の最後はこうです。

サプライチェーンの概念で喜ぶのは企業だけではない。
言うまでもなく、消費者もそのメリットにあずかれる。

言うまでもなく? ・・・・
こういう発想を持つ人が、産業や経済を主導しているとしたら、私たちがケージに入った鶏に「進化」できるのも、そう遠い先ではないかもしれません。

先週、購入していた地下鉄の回数券の7枚が有効期限切れになっていました。ちょいちょい発生するこうした損失はなくなるかもしれませんが、それ以上に人生の面白さもなくなるような気がします。
ちなみに、私の今朝の朝食は、久しぶりのホットケーキでした。

■冤罪事件報道で感じた恐怖(2007年5月9日)
昨日のテレビ「報道ステーション」で、冤罪被害者の追跡調査の特集をやっていました。
報道ステーションのサイトから引用します。

2002年4月、富山県氷見市で、2件の婦女暴行事件に関わったとして当時34歳のタクシー運転手の男性が逮捕された。ところが出所後、別の事件で逮捕された容疑者がこの2件の事件について供述し、男性の冤罪が発覚したのだ。犯行現場に残された足跡に比べて男性の靴のサイズは明らかに小さく、さらには犯行の時間帯にアリバイがあったにもかかわらず、なぜ逮捕されたのか。そして、なぜ男性は自白に追い込まれたのか。当時の取調官に直接電話をかけ、問い詰める男性に独占密着。警察の杜撰な捜査の実態に迫る。

印象的だったのは、古館さんが心から怒っていたことでした。
私も感情を隠せない人間ですので、感情をあらわにする人が好きなのです。
古館さんの怒りは、そうした杜撰な処理をした警察、そして検察、さらには裁判に関わった人たちが、何の咎めもなく、今なお、冤罪被害者に非礼を重ねていることです。
この番組を見ていると、日本には公平な裁判はないのではないのかと思いますし、警察は暴力団以上に悪質な暴力団だと思わざるを得ません。暴力団でも、それなりに仁義があるでしょう。

しかし、私の周りにもとても誠実でまじめな警察官もいますし、弁護士もいます。
どうもそれがしっくりきません。

警察や裁判官たちが暴力団と同じだということは、ある意味では当然の話です。
彼らは暴力と人を裁く権限を法的に独占していますから、暴力団以上に暴力団になれるのです。両者がつながるのは当然の話です。

それにして、なぜこうした冤罪が繰り返し起こり、その冤罪に対して、常識的な対応ができないのでしょうか。
この2つは、実は深くつながっています。
企業の危機管理の歴史の中で、もはや常識になっていますが、危機に対する処理を間違っている限り、問題はなくなりません。
日本の企業や行政が繰り返し不祥事を起こすのは、それが犯罪だと認識されずに、しかもその処理がきちんと行われないからです。日本における企業不祥事も同じです。

冤罪を起こした警察官や検察官、弁護士が責任を問われない限り、冤罪はなくなりません。
今回の事件で、冤罪を意図的につくりあげた人たちは、免職ではなく、犯罪者として裁判にかけられるべきでしょう。しかも、少なくとも冤罪被害者よりは重罪にすべきです。
専門家とはそういうものでなければいけません。
裁判員制度などという無責任な制度を導入することができるのは、今の司法界の人たちに責任感も専門家意識もないからではないかと思います。

人の人生を狂わせておいて、心が痛まないような人が警察や司法界にいることが、とても恐ろしい気がします。
いや、そういう人でないと務まらないのが、司法界の真実かもしれません。

■「親学」よりも「主権者学」が必要(2007年5月11日)
チェチェンニュース(5月2日)に、
「侵攻」か「進攻」か?チェチェン紛争をめぐる各紙の視点
という記事がありました。
チェチェン紛争に対するロシアの行動に関して、マスコミの表現が違う話です。
朝日と毎日は「進攻」、読売と産経、それに日経は「侵攻」だそうです。
ではイラクの時はどうだったか。
2003年3月、米英軍がイラク領内に爆撃を開始したとき、朝日、毎日はこれを「侵攻」と呼び、読売、産経、日経は「進攻」と呼んで議論を巻き起こした。
と書かれています。
こうしたことの積み重ねが、私たちの意識に大きな影響を与えることはいうまでもありません。

どこから見るかによって、世界の風景は全く違ってきます。
事実はひとつでも、その事実が持つ意味はたくさんあります。
正しいか正しくないかの話ではありません。
しかし、そうしたことの積み重ねが歴史を分けていきます。
そして、自分にとって居心地の悪い社会に生きなければいけなくなるかもしれません。
そうならないために、しっかりした自分の視点で、世界の風景を見ていくようにしたいものです。自分だけの問題ではなく、同時代に生きる人たちや次に続く子どもたちに対して、「騙された罪」を犯すことになりかねません。

問題はチェチェンやイラクなのではありません。
私たちの身近にある問題についても、いま同じことが毎日起こっています。
言葉ではなく、その奥にある価値観を問いただすことが必要です。
言葉で操られる存在になっては、国民主権を定めた憲法が嘆くでしょう。

「親学」が問題になっていますが、「主権者学」こそ必要なのかもしれません。

■余命3か月(2007年5月11日)
今日、女房と2人で散歩していて出会った人から聴いた話です。
残酷な話です。
書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。

その人の親しい知り合いが、がんになりました。
気づくのが遅すぎたため、かなり厳しい状況でした。
医師から「余命3か月」というようなことを言われたそうです。
その方は、涙で話し続けられなくなりました。
他人事(ひとごと)ながら、ショッキングな話です。
なぜそんな話になったかといえば、私の女房も同じガンなのです。
そして、その人は、女房の投稿記事を読んで、女房のことを知っていたのです。

女房から、私もそういわれたのと詰問されましたが、
女房に関しては、これまで一度も、医師からはそうした話はありませんでした。
しかし、こうした表現で話されたという話を聞いたり読んだりしたことがあります。
信じられない言葉です。
そういう言い方をする医師は、医師の資格がないと思いますが、決して少ないことではないのかもしれません。

そういえば、私も信頼していたある医師から、女房に関してアドバイスを頼んだら、死に方の問題ですね、と言われて、その医師への信頼感を失いました。
これに関しては、以前書きましたが、それは医師の発想ではありません。
そんな医師にかかったら、殺されるのが関の山です。
こういう医師がいる限り、日本の医療は良くならないように思います。

がんの怖さは、先が中途半端に見えることです。
医学の知識は絶対的なものではありません。統計的なものでしかありません。
優等生の医学生が、生命体への畏敬の念(センス オブ ワンダー)を学ばずに、そのまま医師になってしまうと、その統計的な知識を具体的な患者に当てはめてしまいがちです。優等生的な医師ほど、恐ろしいように思います。
しかし、統計的な知識を信じてしまうのは、患者もその家族も同じです。
自己暗示にかかってしまうのです。
そして、先が見えてしまうような気がしてしまうのです。
そうなると、希望は失われます。
私たちも半年前までは、それに近かったのかもしれません。

それにして、「余命何か月」などという言葉は誰が言い出したのでしょうか。
創造主である神でも決していわない言葉でしょう。

女房は、自分がいま取り組んでいることをもっと話してやりたいそうです。
がん患者は、みんな同志になります。
自分の体験を分かち合いたいとみんな思うようです。
知的所有権などという小賢しい理屈は成り立たない世界なのです。
病になるとほとんどの人が聖者に近づきます。
病を治すのは、医師ではなく、患者たち同士なのではないかと私は思います。
医師ができるのは、その手伝いでしかありません。
手術などはもちろん別ですが。

自らががん患者と公表した民主党の山本孝史参院議員を民主党が公認する方向だという記事が今日の新聞に出ていました。よかったです。
山本議員は、遅れている日本のがん対策に取り組み、文字通り命をかけて、患者本位のがん医療を実現すべく、「がん対策基本法」の成立に尽力してきました。しかし、この7月の参議院選挙での再選が危ぶまれているそうです。
http://www.ytakashi.net/

そこで、がんの患者会メンバーや自殺対策支援団体メンバーなどでつくる「山本たかしさんを国会に残そう!有志の会」が主催して、下記の通り緊急集会を開くことになったそうです。私の友人から、案内が回ってきました。

日時:5月13日(日)14:00〜16:00
会場:日本薬学会長井記念ホール(渋谷駅から徒歩8分)
お問い合わせは、有志の会事務局bxs00035@nifty.com まで(5/13まで有効)

お時間が許せば、ご参加ください。
私たちは参加できないのですが。

■当たり前のことをやっていないのは誰か(2007年5月12日)
教育再生会議による「子育て指南欽急提言」は、あまりの不評に「待った」がかかりましたが、首相周辺からも「当たり前のことを言っているだけではかえって世論の批判を受ける」という声があがったそうです(朝日新聞5月11日)。
当たり前の例として、たとえば「子どもにうそをつかないように教える」ということがあげられています。
しかし、これは決して当たり前のことではありません。
CWSコモンズでも書いているように、小泉政権以来、日本では「みんなでうそをつきましょう」という風潮が広がっています。その見本を首相や閣僚は見事に果たしています。日本の最近の内閣の騙しぶりは、詐欺師集団より見事かもしれません。
それをつくろっているのが、マスコミと裁判所です。

日歯連の1億円裏献金事件で、村岡被告は逆転有罪になりました。この事件で明らかなことは、村岡、野中、青木、橋本といった自民党を支えていた国会議員のだれか、もしくは全員が嘘をついていることです。そんなことすら裁判が立証で企業なのであれば、裁判の意味がありません。いや、真実を糊塗するのが政治事件の裁判であれば、充分に意味はありますが。
松岡国会議員の国会での答弁はどうでしょうか。
あれは「嘘以前」ではないでしょうか。
そうした事例にいくらでもあります。
いまや嘘をつくことが、立身出世し、経済的に成功する社会になったのです。
それが成功しすぎたりすると、さらにその上の嘘つき者から指弾されますが。

今朝の朝日新聞の天声人語は、こんな文で始まっていました。
「橋のない川」を著した作家の住井すゑさんは、「子育て」という言葉を嫌った。子どもの管理に通じる意識を、そこに見たからである。

■野党は寝ているのですか(2007年5月13日)
10日の国民投票法にまつわる国会議論の実況を見ていて、とても情けなくなりました。
みんなまじめに議論してないのです。
だからこそ、国民投票法は成立してしまうのでしょうね。

それにしても、これだけ重要な争点があるのに、なぜ国会での議論は盛り上がらないのでしょうか。
国民の反対はかなり盛り上がっていますが、マスコミはいつものように、それには目も向けずに、つぶしています。お金で動くマスメディアの存在は有害無益です。

日本の不幸は、野党の存在がなくなってしまったことです。
二大政党制は野党をなくす構想ですから、それは仕方がないのですが、それにしてももう少しがんばってほしいと思います。
本来的な意味での野党とはいえませんが、民主党にさえも、もう少しはがんばってもらいたい気がします。
今の民主党は、自民党もどきの政党でしかありませんが、そこに所属する政治家には、少しは志のある人もいるはずです。私の知人も、そのはずなのですが、一向に何もしません。
立候補する時に、できる範囲で応援するといったら怒ってきた人がいます。
出来る範囲を超えて応援しろというのです。
その本人は、いま何をやっているのでしょうか。
時々、言葉だけのメールが来ますが、いささか寂しい気がします。
そういう人が多すぎます。
民主党は解党するか自民党と合体すべきです。

社民党と共産党は、野党といえる主張があります。
しかし、いずれも自己満足に陥っています。
本気で社会を変える意思があれば、国民の心を捉え、時代を変えていくためのイニシアティブを打ち出せるはずです。
護憲の問題にしろ、格差問題にしろ、福祉問題にしろ、国民はおかしいと思い出しています。
その国民の気持ちを束ねていけば、新しい風は起こるでしょう。
共産党も社民党も、これまでの組織原理や歴史にこだわることなく、新たな次元に向かって大同団結するべき時期に来ています。
政党の面子や利害にこだわっている時代は終わりにすべきです。
政治家は、いまこそ、自分の意志で動くべき時代です。
復党騒ぎに現を抜かす政治家はもういらないのです。
志があるのであれば、政党を離脱して、動き出してほしいものです。

参議院選挙が近づきましたが、政治家は一体何をしているのでしょうか。
保身のためにしか動いていないのでしょうか。
国民の思いに立脚した、本当の野党は生まれないものでしょうか。

■まずプロジェクト、原理はそれから(2007年5月14日)
「真なるものとは単に、信じるほうがより便利なものというにすぎない」。
アメリカのプラグマティズムを代表するリチャード・ローティの言葉です。
おそらく「正義」もそうかもしれません。
以前書いたような気もしますが、「常識」もまた「それに従えば便利なもの」です。

国民投票法が成立しました。
今日、改めてまた、NHKで放送された「焼け跡から生まれた憲法草案」を見ました。
何回見ても、やはり今の日本の憲法状況はおかしい気がします。
現在の日本国憲法は、米国からの押し付け憲法ではなく、私たち日本人が戦争という大きな代償を払って到達した成果なのです。
そして、今の社会は明らかに違憲行為の積み重ねです。
つまり少なくとも小泉前首相も安倍首相も犯罪者です。
それが、私にとっての「真なるもの」であり、「正義」であり、「常識」です。
しかし、どうもそれは間違っているようです。
安倍内閣の支持率が上昇しているそうです。
私にとっては、実に気持ちの悪い社会です。

ローティの定義は、まさに西部劇の世界の話です。
歴史も原理もなかった、アメリカであればこそ、現世的な功利主義が優先したわけです。
そして、そこにこそ、アメリカ型の民主主義が成り立つわけです。

ローティはまた、“FIRST PROJECTS, THEN PRINCIPLES”(まずプロジェクト、原理はそれから)といっています。プラグマティズムの政治スタイルを簡潔に説明しています。

文化は野蛮には勝てません。
インカ文化もアフリカ文化も、そして身近では琉球文化も、近代西欧の野蛮に破れました。文化と野蛮は、これもまた定義次第ですが、私は近代に野蛮を感じます。

日本の文化もそろそろ終焉を迎えるのでしょうか。
それともまだ歴史を大きく変えていく存在になるのでしょうか。
いま、その岐路にあるように思いますが、時代はプロジェクト先行に向かいつつあるようです。
気持ちの悪い時代になってきました。

■「憲法改正手続法」を「国民投票法」と詐称する犯罪(2007年5月15日)
昨夜の報道ステーションに国民投票法成立に取り組んできた自民党の保岡議員が出演していました。そこで、古館さんや加藤さんと議論していましたが、その話の内容に驚きました。古館さんは、最後の切れ味が悪かったものの、とても粘って質問していました。これがいまの「放送法」管理下での限界なのかなという気がしてみていました。
本を読みながら聴いていたので聴き違いかもしれませんが、最低投票率の議論に関して、保岡議員はこんな答をしていました。
35%の投票率で80%の人が賛成した場合、国民の28%が賛成したことになる。
40%の投票率で60%が賛成したら、24%が賛成だから、35%の投票率だったときよりも賛成者は少ない。
もし40%を最低投票率と定めたら、5%の人が投票をボイコットしたら、投票が無効になり、28%の賛成が活かされない。
とまあ、こんな説明でした。
この人は完全な詐欺師ですね。
さすがに加藤さんも古館さんも唖然としていましたが、めちゃくちゃな論理過ぎて、誰も反論する気になれないでしょう。ですから詐欺は成り立ちます。
オレオレ詐欺などはこういう人にかかったら可愛いものでしょうね。
そもそも国民投票法には大きな詐欺要素があります。
その法律名です。
この法律は、「国民投票法」ではなくて、「憲法改正手続法」と呼ぶべきです。
国民投票法と名づけたが故に、これが「国民主権の完成」などという意見が出てきてしまうわけです。
日本の政治はクリプトクラシー(盗賊政治)だと指摘している人もいますが、ますます大掛かりになってきました。なにしろ犯罪を取り締まり裁く側も、すべてが仲間の盗賊団、詐欺団ですから、困ったものです。
自己防衛しなければいけません。まあ、無理かもしれませんが。

■筑紫哲也さんの肺がん告白(2007年5月16日)
一昨日のNEWS23の冒頭で、キャスターの筑紫さんが、自らの肺がん告白を行いました。
「がん」は、実に哲学的な病気です。
思考回路を変えさせる言葉です。
ですから、付き合い方がとても難しい病気です。

私の妻ががんなのです。
家族で現在、闘病中です。
「闘病」という言葉は、少し正確ではないかもしれません。
「がんという言葉」に立ち向かっているというべきかもしれません。
昨日も病院でした。
私も、4年ほど、毎月、多いときは毎週、通い続けています。
妻ががんになったことで、その世界が少しだけ実感できています。
ほんの少しだけですし、もしかしたら間違っているかもしれませんが。

しかし、ともかく、生命に対してセンシティブになります。
健康な人の言葉は強く感じます。やさしい言葉ですら心を刺すことがあります。
同じ病気を体験している人の言葉はやさしく聞こえます。
会った途端に、仲間に感じられて、お互いに何かしてやりたいと思います。
状況が厳しい時には、その余裕がなくなることもありますが、女房をみていると、いつも誰かに役立とうという思いを感じます。
これは彼女の性格というよりも、置かれた状況の成せることだと思います。
彼女だけではないからです。
ほぼ例外なく、私たちが出会ったがん患者はみんなそうです。

一昨日も、自らもがん患者でもあるにも関わらず、女房のために「免疫ミルク」の情報を送ってくれた人がいます。女房の新聞投稿記事を読んで、手紙を送ってきてくれたがん患者からの手紙も昨日届きました。ほぼ毎日、こういうことがあります。
「がん」という言葉は、人をやさしくし、つないでいく言葉でもあることを実感しています。
「がん」という言葉には、心がつながるコミュニティを生み出す力があるようです。

今日、病院で女房の友人に会いました。
彼女の夫にやはりがんが発見されました。
同行していた私の娘も、病院で同窓生に会いました。やはり家族と一緒でした。
病院で時々知り合いに出会います。
おかしな言い方ですが、がんは、今や私たちにとって極めて身近な病気なのです。
筑紫さんも、2人に1人ががんになる時代と話していました。
にもかかわらず、「がん」といわれると心身ともに変調を来たします。
私は妻が「がん」といわれた途端に、世界が変わったのを覚えています。

もしかしたら最大の問題は「がん」という言葉ではないか。
「がんという言葉」で、みんな自己暗示にかかっているのではないか。
そんな気がしてきています。

希望を萎えさせると同時に、人をやさしくし、つないでいく、「がんという言葉」。
そこに何かとても大きな意味があるようなきがしていますが、それが何かまだ見えてきません。

■少し「危うい」話(2007年5月17日)
みなさんは死後の世界を体験したことがあるでしょうか。
私の友人には3人ほど、臨死体験した人がいます。
みんなその時に同じお花畑を見てきたという話で盛り上がったことがありますが、今日の話題はそうした話ではありません。
私の体験談です。

いまから10年ほど前なのですが、自分が死んだ後の現世の風景を2回見ました。
いや、正確には、見た気がしています、というべきでしょうか。
一度は私のオフィスの近くの湯島です。
いつものように歩いていると何か奇妙にあたりから人の気配が消えました。
そしてそこに私が子どもの頃によく見かけた質素な服装のおばあさんと2人の幼子が遊んでいるのです。
なにやら自分の存在が実感できずに、遠くからその光景を見ているような気がしました。音がないのです。ほんの数秒の話ですが、とても奇妙な感じでした。
しかし、なぜか立ち止まらずにそのまま歩き続け、3人は視界から自然と消えました。
その時はちょっと奇妙な感じだけでした。
ところが、そのたぶん数日後、同じ風景に出会ったのです。
私の記憶では、場所は大阪の梅田です。
なぜか記憶があいまいなのですが、少なくとも湯島ではありません。
同じ3人が、同じ服装で遊んでいるのです。
神仙に遊ぶような雰囲気でした。
なぜかそれに疑問を感ずることなく、通り過ぎました。
その数日後、その光景が思い出されて、とても奇妙な気持ちになりました。
ありえない話ですから、すべては私の夢かもしれません。

これはずっと気になっている体験です。
なぜか、その一瞬の風景は、私の死後の、湯島や梅田の風景のような気がしてなりません。

1週間前、近くのスーパーに娘と買い物に行きました。
その時に、この体験が急に頭をよぎりました。
私が死んだ後も、このスーパーは同じようににぎわい、そこに行く途中の街並みは何の変化もないのだろうという感慨が沸き起こりました。
3人組を探しましたが、見つかりませんでした。
しかし、なにか私が死んだ後のスーパーの店頭のような気がしました。
一瞬だったのですが。
人は60代になると死語の世界とつながっていくのかもしれません。
最近、自分が死んだ後の、仕事場の風景が感じられるようになってきました。

両親が亡くなった後、私の生活はどうだったでしょうか。
いろいろと変化はありましたが、世界のほとんどは何も変わりませんでした。
死者にとって、世界はたぶん非連続になくなるわけですが、世界にとって死者の存在は連続的な自然の営みでしかありません。
この非対称の関係は驚きです。信じ難く非対称です。

また母親殺しという悲劇が起こりました。
信じたくない事件ですが、個人レベルではなく、社会レベルでも、死後の世界につながりだした結果の事件かもしれないという気がします。
地下鉄サリン事件が起きた時に、私たちの世界は終わったのではないかと感じましたが、その時の絶望感がますます現実化してきているような気がしてなりません。
人は一線を踏み越えようとしているようです。
すべてが夢であればいいのですが。

わけのわからないことを書いてしました。
ちょっと危うい話でした。

■過剰報道と過少報道(2007年5月18日)
今の日本の社会を象徴しているのはマスコミ報道の内容です。
最近の新聞やテレビは、まさに「パンとサーカス」の世界を感じさせます。

会津若松で起こった17歳の母親殺人事件は、猟奇的であるためか、克明に報道されています。
果たしてこれほど詳しく報道する必要があるでしょうか。
こうした報道が次の事件を生んでいくのか、防止するのか、意見は分かれるでしょうが、私は間違いなく生んでいくと思います。
その可能性がわかると選択肢に入れてしまうのが、人間の常ですから。
そういう意味では、いまのマスコミは私にはこうした事件を生み出す共犯者のような感じがします。
どう考えても過剰報道です。

娘に、そういう話をしたら、大きな事件がないからではないかといわれました。
とんでもない、いま大きな事件は静かに進行しています。
1人2人の死の話ではなく、大勢の人の生死にかかわり、さらには社会の死に関わる事件、がです。
たとえば、国民投票法、正確には平和憲法廃止準備法が成立し、教育関連法、正確には教育管理手続法が成立しようとしています。
これによって、どれだけ多くの人が実際に死に追いやられることでしょうか。
国家がやることですから、犯罪にはならないのですが、
そこに未必の殺意もあると思いますので、論理的には犯罪とほとんどかわりません。

そうした、新法の意味や、それを成立させるための詳しい手口こそを、マスコミは報道すべきです。
そうした動きに対する反対活動の報道も、過少報道になっています。
パンとサーカスの後ろで、何が行われているのか、マスコミに報道してほしいものです。
マスコミにとって、読者や視聴者は市場でしかないのでしょうか。

■basement ethicsとaspiration ethics(2007年5月19日)
相変わらず組織の不祥事がなくなりません。
組織を預かっている人たちにモラルもエシックス(倫理)もないのでしょうか。
科学技術倫理フォーラムの杉本泰治さんから教えてもらったことですが、全米プロフェッショナル・エンジニア協会(NSPE)の倫理規定には、“ don’t do” で始まる条文と“shall do”で始まる条文とがあるそうです。
前者は行動の最下層をきめたもので、このレベルより下のことは、何であれするなという、最下層倫理(basement ethics)、後者は、何かをする気にさせるもので、抱負倫理(aspiration ethics)と呼ばれているそうです。
そして、倫理規程の冒頭に、「公衆の安全、健康、および福利を最優先するようにしよう(shall do)」と明記されています。
日本ではまだコンプライアンスなどということが課題になるレベルですが、コンプライアンスはおそらくbasement ethicsよりも下位の概念でしょう。まともな大人であれば、あえて言うまでもない当然の遵守事項であり、決して免責のためのものではありません。

倫理というと、なにやらうっとうしい気もしますが、aspiration ethicsと考えると楽しくなりそうです。
発想を変えると世界が変わってくることの一例です。
日本の企業倫理論議で欠けているのは、こうした発想ベクトルの転換です。
それがない限り、現実は変わらないような気がします。
倫理を守ることが当事者にメリットになるように設計する知恵が必要になっているように思います。

■どこから考えるか(2007年5月20日)
とても美味しいジュースをコップで半分飲んだところで、
「もう半分しか残っていない」と思うか、「まだ半分もある」と思うか。
よく語られる話です。
物事は考えようで、全く違った風景になります。

話題のTOTOビッグを買うことにしました。
いま6億円あると、ちょっと面白いこともできそうですので。
で、何枚買うかという問題に直面しました。
論理的な私としては、当たる確率から考えることにしました。
確率からいえば、極めて低い確率でしょうから、
1枚でも10枚でもたいした違いはないでしょう。
だとしたら、1枚でもいいことになります。
そこで1枚にしようと思ったのですが、発想を変えると1枚よりも10枚のほうが当たる確率は10倍になります。
数千円の差で、確率が10倍になるのであれば、打算家の私としては、ここはやはり10枚にしたほうがいいと考え直しました。
ところが、10枚にしようと思った途端に、懐疑論者の私としては、どこかで騙されていないかと気になりました。
微小な数字が10倍になったところで、意味があるのだろうかというわけです。
やはり1枚でしょうか。
妥協好きな私として、真ん中をとって5枚にしようか。
いや、この場合、真ん中は5枚と考えるべきなのかどうか。
とまあ、こんなことを考えているうちに、結局、ビッグを買い損ねてしまいました。

風景が変わると決断できないことにもなりかねません。
自分の視点はしっかり持たなければいけません。

結局、優柔不断な私としては、6億円を失った後悔だけが残ったような気もします。
しかし、6億円失ったおかげで、構想していた苦労の多い仕事をしないですみました。
怠惰な私にとっては、6億円当たるよりも良かったのかもしれません。
それに、奇跡を信ずる私として、
もしかしたら買わなかったけれど当たるかもしれないという思いもあります。
それに当たった人がお裾分けしてくれないとも限りません。
ものは考えようでもあります。

ところで、みなさんは買いましたか。
6億円当たったらコーヒーをご馳走してくれませんか。
ドトールでいいです。

■団塊シニアの不安(2007年5月21日)
団塊シニアが会社を定年で辞めだしましたが、彼らは退職後の生活に経済的不安をもっているかどうか。今日、そんな議論をちょっとだけ、団塊世代の人としました。
リストラされずに無事定年を迎える団塊シニアは、何とかぎりぎりでバブル経済の恩恵を受けて、老後の経済的心配はないのではないかと、私は思っていました。
しかし、団塊世代である当人(大企業の役員です)は、そんなことはない、不安に感じている人が多いというのです。
皆さんはどう思われるでしょうか。

私の意見はこうです。
団塊シニアの多くは、会社人間として目いっぱい「生産活動」言い換えれば「金儲け活動」に取り組んできました。その結果、お金を稼ぐことが仕事だと考えるようになってしまったのです。逆に言えば、お金を稼ぐことはできても、お金を使うことが出来なくなってしまったのです。
資本主義経済の発展の両輪は、生産と消費です。男性が生産を、女性が消費を担ってきたのです。20年前に会社を辞めてから、そうしたことを実感することが多かったです。
カルチャーセンターでも、旅行でも、百貨店でも、いつも主役は女性でした。
生産と消費はコインの裏表ですから、そのどちらも必要なのですが、あまりに役割分担が進みすぎて、生産生活を続けてきた男性たちは、お金を使うという発想がなくなったのです。
お金を稼ぐことは、彼らにとって、生きている証になってしまったのかもしれません。
ですから、お金が稼げなくなると自らのアイデンティティが否定されるような気がするのかもしれません。
つまり、経済的不安ではなくて、自己否定される不安なのです。
よく、私は年金生活者だからという人がいます。
あれもまた、稼ぐことしか発想できない男性の哀しさを象徴しています。

団塊シニアが不安に思っているのは、お金が稼げなくなることではなくて、お金の使い方がわからないことなのではないか。そんな気がしてなりません。
お金を稼ぐ点では女性に負けなかった男性たちも、お金を使う点では女性には勝てないでしょう。
したがって、家庭での主導権は女性に移るのです。
その先には熟年離婚が待っています。
稼ぐことでしか居場所がなかった男性たちの冬の季節が始まるのかもしれません。

そうならないために、みなさん、お金を稼ぐことの虚しさに早く気づきましょう。
お金は稼ぐためにあるのではなく、暮らすためにあるのです。
みなさん、もし6億円が当たったら、きちんと使うことが出来ますか。
まさか「貯金する」などという馬鹿なことは考えないでしょうね。
貯金するくらいなら、6億年は当たる必要はないのです。
そう思いませんか。

■不寛容の時代(2007年5月22日)
私の生活信条の一つは「わがままに生きる」ことです。
誤解されそうですが、本意は、「自分が納得できる素直な生き方」を大事にすることです。
この生き方を長期的に実現するには、他者の「わがまま」も尊重しなければいけません。
人間は他者とのつながりの中で生きていますので、そうした関係性の中で、自らの納得の内容を絶えず吟味していくことが必要です。そうしないと、井の中の蛙や裸の王様になってしまい、結局は「わがまま人生」がどこかで破綻しがちです。
ですから、「わがままに生きる」とは、実は自らにも他者にも「寛容に生きる」ことかもしれません。

先週、CWSコモンズの週間報告に「寛容について」を書きました。
そこで、村上陽一郎は「文明の死/文化の再生」の中に書かれている文章を引用しました。再録します。

自己が一つの選択肢としての、ある伝統に依拠していることを自覚することができ、それに基づいて、伝統に関して他の選択肢の可能性を認め、かつそれに依拠する他者の存在を認め、また、その可能性を自ら検討できる、という2つの能力を有するとき、その個人、あるいは共同体は、「寛容」であると定義できるのではないか。

こうした「寛容」な生き方に身を任せると、とても生きやすくなりそうです。
以前書いた、笑顔の人もまた、そうした寛容な生き方をしている人かもしれません。
しかし、残念ながら時代は、日本も世界も「寛容」でなくなりつつあります。

今日の朝日新聞に、全国特定郵便局長会(大樹の会)が、自民党支援か国民新党支援かで割れているという記事が出ていました。
結局は、政権党についていないと利権は守れないということらしいのですが、節操とか信念はどこにいったのでしょうか。主体性すらも失ったのでしょうか。
郵政民営化に反対したのにも関わらずに、自民党に戻った議員たちのように恥知らずの人たちの集団なのでしょうか。いささかの失望です。
信念のない人たちは、決して寛容にはなれません。
ともかく「勝ち馬」に乗るのが「政治」なら、そんな政治に存在価値はありません。
結局は価値議論のない、「勝てば官軍」の世界になってしまうからです。
そうした生き方は「寛容」とは似て非なるものであることはいうまでもありません。

寛容であるためには、自らの価値観をしっかりと持つことが必要です。
何でも受け入れることが寛容ではないように思います。
ましてや日和見的に状況に合わせていくことも寛容とはいえないでしょう。
自らの価値観との関係を踏まえながら、他者の言い分を理解し、その存在を支援することが寛容のポイントだと思います。
もしそうであれば、現代は「不寛容の時代」というべきでしょうか。

私のこのブログは、そうした点で、寛容には見えないかもしれません。
私自身はかなり寛容であることを大事にしてはいるのですが。
思いと言動はなかなか一致しません。困ったものです。

■死刑制度のない社会と死刑のない社会(2007年5月23日)
以前、弁護士の犯罪について書きましたが、またそれが繰り返されています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/03/post_4d71.html

光市母子殺害の被害者の家族、本村洋さんの発言が昨日の報道ステーションで取り上げられていました。
この裁判の大きな争点は、「犯行時18歳だった被告を死刑にすべきか否か」ですが、死刑判決が出る可能性が高まったことで、21人の「死刑反対論者」の弁護士が集まって、弁護団が結成されたようです。
悪徳弁護士の集団としか私には思えません。
「悪徳」というのはひどい言葉ですが、私にはそれ以外の言葉が見つかりません。

弁護士や検事や裁判官は、犯罪を起こさないと思いがちですが、そんなことはありません。
彼らは法の世界に詳しいですから、犯罪を起こしても法的犯罪にならない方法を知っているだけなのです。そうした事例はたぶんいくらでもあるでしょう。
弁護士は、弱い人を助ける人というイメージがありますが、そんなことはありません。
サラ金業者もまた、弱い人を助けるという名目で、弱い人を利用して利益を上げます。
たしかに弱い立場の人を支援する弁護士は、私の知人にも少なからずいますが、仕事として取り組んでいる人も少なからずいます。

死刑廃止はどうでしょうか。
私も学生の頃は、死刑廃止論者でした。
しかし、大切なのは、死刑になるような犯罪が起きない社会を作り出すことです。
制度としての死刑廃止ではなく、実態として死刑がなくなる社会が目指されなければいけません。
今回、集まった「悪徳弁護士」たちは、そうした努力をしているのでしょうか。
彼らは死刑になるような事件を助長しているだけではないかという気もします。
殺人ほう助罪と思いたくなるほどですが、まあこれは言い過ぎかもしれません。

木村さんの昨日の記者会見の話をぜひ多くの人に聞いてほしいと思います。
世間知らずの裁判官の判決よりはよほど説得力があります。
私欲に陥っている悪徳弁護士には通じないでしょうが。
本村さんの発言の記録をいろいろと調べたのですが、ネットでは見つかりません。
もし所在をご存知の方がいたら教えてください。
ちなみに、昔、まだニュースステーションだった頃に、本村さんが久米さんに語ったことに言及しているブログがありました。
http://critic2.exblog.jp/3251270/
市民の法論理と弁護士の法論理とどちらが説得力があるか、不勉強な悪徳弁護士たちに少し考えてほしいと思います。
いまの法科大学院で学んでいる人たちにも考えてほしいですね。
もっともそんなことを考えていたら司法試験には通らないかもしれません。
底にこそ、実は大きな法曹界の問題があると私は思います。
私が検事を目指していたことと、状況は変わっていません。
司法改革の方向性が問われなければいけません。

またかなりの暴言を吐いてしまいました。
どうも「寛容」にはなれません。
困ったものです。

■かなり「危うい話」(2007年5月24日)
先日、「ちょっと」危うい話を書きました。
今日は一歩進んで、「かなり」危うい話です。
どこかに書いたことがありますが、今から10数年前に、前世の友人から手紙が来ました。
その人は前世で私と親しかったようです。
岩手山によく一緒に登ったことがあるそうです。
その時に、来世のある時期が来たら、会いに来て、前世のことを話してくれと私が頼んだのだそうです。
そして約束通り、彼はやってきてくれました。
私がまだ会社にいたころです。
電話で会いたいといってきました。
どうして私のことを知ったのでしょうか。今では全く記憶がありません。
とにかく突然やってきて付き合いが始まりました。
数年後、そのことを手紙で伝えてきたのです。
そして、前世を思い出すヒントを私にくれました。
それはある場所に行くことでした。
私はちょっと迷ったのですが、行きませんでした。
ところが、数か月後、全く別の友人から、その場所の近くに転居するという電話がありました。なぜ私に電話してきたのか、わかりませんが、電話してきたのです。
ちなみに、その2人は全く面識がないはずです。
偶然だったのでしょうか。そのころ、ともかくいろいろなことが、その場所を示していました。たくさんのシンクロニシティが起こっていたのです。

それでも私は行きませんでした。
その話を信じなかったからではありません。
こだわりがあったわけでもありません。
前世を思いだしたくなかったからでもありません。
単に行かなかっただけです。
もしその時、そこに行ったら、前世が思い出され、人生は変わっていたかもしれません。

そして、また10年以上が経過しました。
その前世の友人は、もちろん今でも付き合いがあります。
私のホームページにも何回か登場しています。
今ではあっても前世の話はしません。必要ないからです。

ところで、その前世の話を軸にして、私のこれまでの人生を振り返ると、いろいろと面白い解釈ができることがたくさんあります。
奇妙に自分の人生が納得できるのです。
人生は、だれにとっても、自分が主役のひとつの物語です。
それをどんな物語にするかによって、これまでの生き方の意味が変わってきますし、これからの生き方も変わっていきます。
この話は、私にひとつの物語のテーマを与えてくれたのです。
もしかしたら、前世の私はそれを期待して、彼に伝言を頼んだのかもしれません。

前世の友人から教えてもらった場所が今でもあるかどうかはわかりません。
もう10年以上が経過しているからです。
でもそろそろ行ってみてもいいかなと思い出しています。
今生への未練はいまやほとんどありませんし、来世も少し見えてきたからです。
来世で、このブログに出会えるかどうか、それが少しだけ気になりますが、きっと出会えるでしょう。
もっとも来世は人間ではなく、蛙かもしれませんが。

■弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか(2007年5月25日)
光市母子殺害事件の差し戻し控訴審が始まりました。
21人もの弁護士団の主張が断片的にしか報道されていないので、報道されている限りの情報からすれば、呆れた話としか思えません。
その発言内容は、まもなく週刊誌などで報道されるでしょうが、とても正常な人が話すような内容ではないと思いました。
彼らは殺人ではないと言い張った上に、殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為と主張したそうです。
何と都合のいい論議でしょうか。
精神的に成熟していないのは、犯人ではなく、21人の弁護士ではないでしょうか。
この人たちには家族がいるのでしょうか。
その家族はどう思っているのでしょうか。

こうした「おかしな人」が弁護士なのです。
それも21人がいとも簡単に集まってしまう。
これが日本の弁護士の実態なのでしょうか。

同じ弁護士たちは、なんとも思わないのでしょうか。
弁護士という職業に、もし誇りを持っている人がいるのであれば、なぜ声をあげないのでしょうか。
恥ずかしくないのですか。
「おかしいことをおかしいという」基本を失ったら、人を裁く資格などなくなります。
ということは、おかしいと思っていないのでしょうか。
生活者との大きな溝を感じます。
難しい法議論の前に、社会が積みかさねてきた文化の規範があるはずです。
人を裁きに関われるのは、そうした社会の規範の上に立っているからこそです。

21人の弁護士たちの言動が、それを壊そうとしています。
この事件の裁判以上に、大きな裁判が必要になってきています。
21人はそれを求めているのでしょうが、彼らは「原告」ではなく、「被告」になるべきです。
その罪の大きさを彼らは自覚しているのでしょうか。

せめて、こうした人たちには弁護士の資格を返上してほしいです。
裁判員制度導入の前に、こうしたおかしな法曹人の資格審査をする公開の評価機関の導入が必要だったのではないでしょうか。
この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています。
現れ方が違いますが、日本の司法体制の本質的な問題点が感じられます。

この弁護士団の言い分については、私の友人知人の弁護士にメールで感想を聞いてみようと思います。
弁護士の友人を、また何人か失いそうですが。
このままであれば、私は日本の弁護士はもう信頼できません。

■弁護士の反応(2007年5月26日)
昨日の記事の続きです。
7人の、私が信頼できるだろうと思っている弁護士の方にメールしたら、すぐに2人の方から返信がありました。
お2人とも誠実に回答してくれました。
ただ残念ながら論点がかみ合いませんでした。
私の昨日の記事はどうも誤解されているようです。
そこで念のため、昨日の主張の論点を整理しておきます。
もしかしたら他の弁護士の方が読んでくれるかもしれませんので。
読んでいただけたらぜひご意見をお聞かせください。
私に直接メールしていただければうれしいです。
個人名での公表などはもちろん一切いたしません。

昨日の記事の論点です。
@「殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為」などという発言の是非
これは思想の自由や発言の自由という問題ではありません。価値観の違いや異論を封じようというのではなく、単にその主張の内容を問題にしています。もちろん弁護活動という社会的地位を踏まえての是非論です。
A制度論争を個人の事件を利用して展開することの是非
もし死刑制度反対であれば、大きな社会運動にすべきです。司法制度は法曹界の人たちのためにあるのではありません。制度を独占している法曹界の発想を問題にしています。
B裁判に取り組む姿勢の誠実さへの懸念
弁護士というプロフェッションとしての職責をどう考えるかという問題です。人を「裁く」ということへの誠実さをもってほしいと思っています。

繰り返しますが、「死刑制度」の是非とは全く関係ありません。
それに関してはさまざまな意見があることは望ましいことです。

それと補足です。
昨日、「この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています」と書きました。
その意味は、今回の加害者を利用しての自己主張の行為と松本サリン事件も含めて冤罪が防止できないことは共通の原因を持っているということです。
そこにあるのは、真実を見ようとしない法曹界の姿勢です。それには人間の機微への感受性の弱さも含まれます。冤罪事件の弁護士に、そうした姿勢があれば、多くの冤罪は防止できるはずです。もしできないとすれば(そしてこれまではできなかったことが少なくないのですが)、それは現在の「裁判制度」に欠陥があるからです。それを正すのが、本当の意味での「司法改革」ではないかと思います。そこを怠っている弁護士たちに私は不信感をもっているのです。
弁護士と検事が対立しているような裁判には、人を「裁く」ということへの畏敬の念が感じられません。弁護士はもっと国民のなかにはいってこなければ、真実などは見えようはずがありません。
そういうことを私は、このブログの司法時評で言い続けているつもりです。


■「ホテル・ルワンダ」(2007年5月25日)
話題になっていた「ホテル・ルワンダ」をDVDで観ました。
気にはなっていたのですが、最近、この種の映画を見るのにはかなりの勇気が必要です。
どうしても滅入ってしまい、気力を吸い取られるからです。
5年前までは逆にこの種の映画で元気をもらえたのですが、最近は無力感のほうが強くなります。あまりに現実が、そうした悲惨な状況に近づいてきているからかもしれません。

最初は虐殺場面があったら、そこで観るのをやめようという程度の「逃げ腰」で見始めたのですが、ぐいぐい引き込まれてしまいました。サスペンスがあるわけでもなく、涙が出るほどの感動的場面があるわけでもないのですが、ぐいぐいと自分の心に入ってくるのです。自らの生き方を問いただされるような、そんな映画でした。
2つの場面が印象的でした。
一つは取材していたカメラマンと主人公ポールとの会話です。
映画のサイトのストーリーから引用します。
カメラマンのダグリッシュは狂乱と化した街で精力的に取材を続けていた。彼の撮ってきた映像を観てショックを受けるものの、これが世界で放映されれば国際救助が来ると確信するポール。しかしダグリッシュの答えは違った。「世界の人々はあの映像を見て──“怖いね”と言うだけでディナーを続ける」。
それはまさに私の生き方です。
そうやって私たちは、事件を消費し、看過しているのです。そしていつか自らがその立場になった時に、世界を恨むのでしょう。
そこからどうやって抜けたらいいのか。
もう一つは、結局、世界はルワンダを見捨てて、外国人たちは退去するのですが、その時、雨の中を飛行機に向かうダグリッシュたちにポールの仲間が傘を貸そうとすると、傘などいらない、自分たちだけが退去するのが恥ずかしい、傘をさしてもらう価値などないとつぶやく場面です。
涙もろい私は、涙が出るよりも乾く感じだったのですが、この場面だけは涙が出ました。いま、こうやって書いていてもまた涙が出てきました。
人はみんなやさしいし、誇りを持っています。
にもかかわらず、なぜルワンダのようなジェノサイドが起きるのでしょうか。
いや、ルワンダの話ではありません。
最近のテレビのニュースは殺人事件ばかりです。
なぜ人は人を殺せるのか。
殺せるはずがないのですが、どこかで何かが壊れてしまっているのです。
そうした状況を変えるための一歩は、自らの近くにある人を愛しているかどうかだと思います。
あなたは家族を愛していますか。友人を愛していますか。隣人を愛していますか。
そして何よりも、自分を愛していますか。
そんなことを考えさせられた映画でした。
ぜひ多くの人に観てほしい映画です。

■多様な行動するネットワークへの期待(2007年5月27日)
先週、座談会でお会いしたことが縁で、早稲田大学の古賀勝次郎教授の「西洋の法と東洋の法」(「法の支配」研究序説)を読みました。
久しぶりに、「実定法の不法」という言葉に出会い、学生時代に憲法と刑法にはまっていた頃のことを思い出しました。
今日はちょっと時間があったので、いろいろとネット検索して、いくつかの論文を読むことができました。
ラートブルフのナチスへの言及が面白かったです。

このブログを読んでくださっている方はもうお分かりでしょうが、
私は法実証主義の立場はとっていませんし、
実定法には解釈による多義性がある以上、論理的にも実定法に規定されることはありえない、法とは関係性の中で浮遊する文化の表象でしかないと思っています。
やや危険な発想かもしれませんが、むしろ自らが住む社会の文化に根ざして生きたいと思っています。
ですからコンプライアンスという言葉には違和感を持つわけです。

また、私は最近のリベラリストほどには他者の言動に無関心ではありません。
その一言一言が私の暮らしに深く関わっていることを感ずるからです。
たとえ異質な意見であろうと、お互いにケアしあうことこそが寛容さの基盤と考える私は、
無関心と不寛容とは同義だと考えています。

先日、このブログに掲載した弁護士へのメッセージはやや言葉が過ぎたせいもあって、いろいろな批判ももらいました。
それは心して聴かなければいけないのですが、どこかで「全くわかってもらえないな」という傲慢さが私の内部にあることも事実です。
一番わかっていないのは私自身であるということかもしれませんが。

しかしネット上では同じようなブログ記事がかなりあることにも気づきました。
私は決して特異ではなく、また独創的でもないわけです。
いってみれば、よくある退屈な意見の一つとも言えます。

ある事件が起こると、ネットの世界ではワッというほどにたくさんの反応があるのです。
私のブログはマイナーですが、大きな影響力を持つブログもあり、
そこからのメッセージが大きなネット世論を形成しているようです。
それは私が予想している以上に大きいようです。

しかし、そこで私自身は萎えてしまうのですが、「だから何が変わるのか」ということです。
さまざまな問題で、テレビでもネットでも議論が活発に展開されますが、それで何が変わるのか。
個別の問題は解決することは少なくありませんが、大きな流れは変わっていないように思います。
もちろんその積み重ねが時代の流れを変えていくのでしょうが、
ナチス台頭の時期の世界も、昭和初期の日本も、もしかしたら同じだったのかもしれません。
そう思うとますます気分は萎えてきます。
テレビで古館さんが怒り、ネットで多くの人たちが声をあげても、時代は流れを変えることなく進んでしまう。
そしてある時に破局を迎える。
これがおそらく歴史の本質かもしれません。

しかし、と、そこで思うわけです。
そうした状況を変えられるほどの情報交流と価値創発の仕組みを私たちは持ったのではないか。
ITはビジネスツールではなく、社会のツールなのだと思うのです。
たとえば、古館さんがテレビで呼びかけて、ネット世論をつなげてビジュアライスするだけでなく、実際の行動につなげていったら、大きなことができるはずです。
これは両刃の剣ですが、そうした多様な行動するネットワークがたくさん生まれていけば、どこかで調和点が目指せるかもしれません。

こうした視点で時代を論じている、ネグリの「マルチチュード」論には賛否両論でしょうが、私には実に魅力的で刺激的な主張です。
なにやらスターウォーズの世界を思わせますが、帝国と共和主義連合との闘いが始まっているような気がします。

そんなわけで、最近は気持ちが揺れ動く毎日です。

■松岡農相の自殺(2007年5月28日)
松岡農相の自殺のニュースは衝撃的でした。
家族の方々には、心よりお悔やみを申し上げます。
キャリアから考えると、充分予想されたはずですから、おそらく周辺の人たちはかなり注意していたのでしょうが、事前に食い止められなかったことは残念でなりません。
こうした事件が繰りかえされるのが本当にやりきれません。
しかもいま、政府は自殺対策基本法に取り組みだした矢先です。
政治家は範を示す立場にいます。
それが、なぜ食い止められなかったのか、しっかりと考える責任があります。
本当に哀しいことです。

石原都知事は、彼もサムライだったのだ、とコメントしていましたが、こうしたコメントが、自殺を礼賛していることに気づかないのでしょうか。
また、安倍首相にはしっかりとその責任を受け止めてほしいものです。

自らの生命を軽んずることは決して許されることではありません。
死者に鞭打つことは避けたいですが、殺害者は非難してもいいでしょう。
自殺者は死者であるとともに、殺人者でもあります。
生命は、たとえ自らの生命であろうとも、自らだけのものではありません。
生命はすべてつながっているのです。
一人の死は、決して当人だけでは完結しないのです。

しかし同時に、いわゆる殺人事件と同じように、実行犯だけではなく、その背後にある「殺害に追いやった多くの人たちや社会の仕組み」を見落としてはいけません。
実行犯だけを罪に問うのではなく、もっと大きな状況の中で事件は裁かれなければ、同じ事件が繰り返されます。
自殺に関しては、特にそうだと思います。
その認識と展望がなければ、自殺予防対策は難しいでしょう。
グランドデザインのない構想は実効性が乏しいものです。

もう政治家の死はなくしたいものです。
政治に透明性を持ち込めば、不条理な死はなくなるはずです。
政治家はそうしたことを自覚してほしいものです。
政治家の死は、政治の死にもつながることを理解してほしいものです。
松岡農相が抱え込んだ政治家の「毒」を社会に公開したならば、松岡さんご自身の生命が失われなかったばかりでなく、政治の死も避けられたでしょう。
生物的に死ぬ前に、これまでの生き方のしがらみを捨てて素直に生き直せば、死に追いやられた状況を反転することができ、自らも、また自らが生きる社会も、甦らせることができるかもしれません。
自殺を実行する前に、まずはそれまでの生き方を捨てることに取り組んでほしいものです。
松岡さんには、その勇気を持ってほしかったです。
しかし、きっとそれ以上に追い詰められていたのでしょうね。
とても嫌な時代になってきているのかもしれません。

■Comfort isolates(2007年5月29日)
松岡農相の自殺から考えさせられることがたくさんあります。
そのひとつが、「人のつながりの多さは、人を幸せにするか」です。
私のこの十数年の活動は、ほぼすべて、「つながり育て」の活動でした。
しかし、「つながり」は両刃の剣かもしれません。

松岡さんは豊かな人脈により、社会的地位を獲得し、大臣にまでなったのでしょう。
しかし、その豊かだったはずの人とのつながりが、逆に彼を追い詰め、死に追いやったのかもしれません。
松岡さんが創りあげた「つながり」が金に支えられていたというだけのことかもしれませんが、しかし「つながり」そのものの持つむなしさや冷たさも感じられます。
それは松岡さんに限らず、私もよく体験することでもあるからです。
悪意や善意という話ではなく、「人のつながり」はもろく冷たいものでもあります。

Comfort isolates(安寧は人を孤立化させる)。
2002年に開催されたシンポジウム「この時代に想うー共感と相克」でスーザン・ソンタグが話した言葉です。
ソンタグは、精力的な批評活動を展開している米国の作家です。
このシンポジウムの記録は、「良心の領界」(NTT出版)として出版されています。

そのシンポジウムで、ソンタグはComfort isolates.と述べたのです。
「つながり」をテーマにして、さまざまな活動に取り組んでいた私にとっては、忘れられない言葉でした。ずっと心にひっかかっていました。前にもホームページで書いたかもしれませんが、否定したくなりながらも、うなずきたくなる命題です。

このブログでも、時に「安寧」という言葉を使ってきました。
「平和」という意味合いを込めて使ってきたつもりです。
「平和」という言葉は、私にはなかなか実感がもてないのですが、個人の安寧は平和を実感させる言葉なのです。
そして、私の平和観は、突き詰めると「つながり」を育てることです。

そこで、頭が混乱してきてしまうわけです。
「平和」→「安寧」→「孤立化」→「つながりこわし」→「平和の破綻」
という関係になってくるからです。
「安寧は人をつなげる」という、私のビジョンは、この命題とは相反します。
しかし、ソンタグの命題は、昨今の日本社会を見ると、あながち否定できません。
鍵は、「安寧」と「つながり」の定義なのでしょうが、悩ましい話です。

安寧を目指す中での孤立化の広がり。
松岡さんの事件には、まさにそれを感じます。
そして、それは松岡さんに限ったことではありません。
みんな「安寧」を求めすぎて、孤立している自分に気づいていません。
孤立していては決して「安寧」は得られないのですが。

松岡さんは自らの生命を絶つことで、安寧を手に入れたでしょうか。

■孤独から抜け出るのは簡単です(2007年5月30日)
一昨日、Comfort isolatesについて書いたら、
ある人から、現代はみんな孤独なのだというメールが来ました。
それに安直なつながりや連帯よりも、孤独であることの自覚と主体性も大事なのではないかというのです。
たしかに、一理あります。
昨日紹介したシンポジウムで、ソンタグはまた、
Solidarity corrupts solitude(連帯は孤独を堕落させる)
とも言っています。
堕落していない孤独とは何か、これまた難問ですが、でも何かわかる気がします。
私も安直な連帯やつながりは好きではありません。
功利主義的なつながりには嫌悪感すら持ちます。

まあ、しかし、それはそれとして、
現代はみんな孤独なのだと決め付けることもありません。
私が地方に行って感ずるのは、とても気持ちの良い「つながり」です。
外から見るからそう感ずるので、中に入ると結構冷たい、と地方に転居した友人は言いますが、きっといつか心を開きあう仲間になっていくでしょう。

私も決して孤独ではありません。
勘違いかもしれませんが、孤独と感じたことはありません。
孤独と感じていないから、孤独ではないのかもしれませんが。
孤独は自分で創りだすことかも知れません。
ソンダクが言うように、どこかで「安寧」にもつながっているのです。

生前の松岡さんはどうだったのでしょうか。
孤独だったのでしょうね。
孤独でなければ、少なくとも自殺や殺人は避けられるはずです。

ところで、孤独から抜け出るのは簡単なことです。
隣の人に(自宅の隣人に限りません)声をかけ続ければいいのです。
返事がないかもしれませんが、返事があるまで声をかければいいのです。
もちろん声のかけ方は充分に注意しなければいけませんが、素直に声をかけていけば、いつかは返ってくるでしょう。

人は決して孤独ではありません。
人間は幼児の時は母親や看護師に「依存する存在」であることから、他者と協働して、「共通善」を目指すことが必要な動物だとする、アメリカの哲学者マッキンタイアの考えに従えば、依存を受け入れる姿勢が人間には内在しているのです。
人間はみんなつながっているのです。
そう思えば、人生はずっと楽になります。
自分は孤独だなどと思うのはやめたいものです。
安寧は人を孤立化させるかもしれませんが、孤立した中での安寧は、決して本当の安寧をもたらしません。

■文化とは、一体何でしょうか?(2007年5月31日)
昨日の記事に出てきた、地方に転居した友人というのは大分県国見町の竹沢孝子さんです。
先月、東京に来たのでお会いしましたが、見事な百姓暮らしをしています。
農民ではありません。百姓です。まあ、私の勝手な定義なのですが。
彼女のブログがあります。これも以前、私のホームページ(CWSコモンズ)で紹介しましたが、竹沢さんの思考や行動の一部が、前後の脈絡なく唐突に現出するブログなので、ついていくのが大変ですが、面白いメッセージが書かれています。
よかったら読んでみてください。

そのブログで次のような問いかけがありました。
正確な問いかけの文章はブログを読んでください。
以下はその中の文章をつなぎ合わせたものでしかありませんので。

「文化は辺境にある」と最初に教えてくださったのは、鶴見俊輔さんでした。
すると、ここには文化が残っているのでしょうか? 
文化とは、一体何でしょうか? 
どうぞ、教えてください。

竹沢さんが私に問いかけているのが感じられたのですが、こんな問題に簡単に答えられるはずがありません。
放置していたのですが、竹沢さんからまたメールも来たので、ついつい答えてしまいました。
文化の問題はもっと考えなければいけないテーマだと、私も思っています。
なぜならいまや文化は死に絶えそうになっているような気がするからです。
そんなことはない、文化はますます高まっているといわれそうですが、私の生活の周りにはあまり文化のにおいがしません。
私の生き方が、文化的ではないのでしょうが。

文化とは何か。
悩ましい問題ですが、私はこう考えています。
文化とは、ある集団のメンバーに共有されている生き方で、変化する「生きたもの」。
それが制度化されたのが文明。
「文化鍋、文化包丁、文化住宅」は、その過程にある、文化の残渣、あるいは死んだ文化の象徴。
「文化」は言葉にした途端に、その生き生きしたダイナミズムを失いだすのだと思います。
文化は辺境、もしくは周縁にあるのは、一種のトートロジーで、制度化された死んだ文化の中心が、これまでの社会認識の底流にありましたから、そうなってしまうわけです。
視点を変えれば、東京などはまさに文化の辺境なのです。
統治者たちの視点で、私たちは歴史や社会を見ていますから、そうなってしまうわけです。
というのが、私の考えです。

以上は竹沢さんのブログにコメントしたものを少し変えただけのものです。
私が「文化は死に絶えそうになっている」と感ずるのは、文化が商業化されているからです。いま広がっているのは、「文化鍋」レベルの文化のような気がします。
「文化」という言葉もまた、浪費されてきているように思います。最近の都心再開発地域のおぞましさは、私には息が詰まります。新しい文化住宅でしかなく、経済遺跡にはなっても、世界遺産にはならないでしょう。
売り物にされた文化やアートは、私には退屈です。
もちろん文明として受け止めれば、それなりの魅力はありますが、あんな街に住んでいたら人間もまた死んでしまうのではないかと不安になるのです。
モヘンジョダロを思い出させます。
そうした、都会での文化の死が、地方にも広がっているような不安があります。

私の誤認であればいいのですが。

■知的成果の囲い込みの弊害(2007年6月1日)
アップルがインターネットを通じた音楽配信事業で、コピー防止機能なしの楽曲を配信する初のサービスを全世界で始めたそうです。
これが知的所有権とどうかかわるのか、よく知らないのですが、知的所有権に関して、今日は書きたいと思います。これにはかなり鬱積した思いがあるからです。

これまでも何回か書いているように、私は知的所有権制度には違和感を持っています。
私が大切にしていることに「コラボレーション」「共創」、つまりみんなで創りあげていくということがあります。その視点からいうと、知的所有権、つまり「知の囲い込み」は好ましいことではありません。

マルクスが整理した労働価値説によれば、商品の価値はそれを創った労働者にあります。そして、現在の私的所有権は労働者の労働に基礎を置いているといっていいでしょう。「自分の創ったものだから、自分のもの」というわけです。
これって正しいのでしょうか。私にはそうは思えません。
これは工業型生産社会の発想であって、農業型生産社会では出てこない発想です。
百姓(農民)は、自分で農作物を創ったなどとは思いません。
自然の恵みと考えるのです。ですからいつか書いたように、出来た農産物は気前よく、他の人にもあげてしまうのです。時には野鳥たちにも残します。

実は工業型生産においても、事情は同じです。
たまたま購入した原材料を使って商品を生産するので、自分たちだけで生産しているように勘違いしますが、原材料も廃棄物もすべては社会とつながっています。第一次産業の枠組みとかわらないのです。しかし、そのサブシステムとして捉えてしまうと、なんだか自己完結しているような気がして、「自分だけで創った」などと思ってしまうわけです。その結果が、たとえば資源浪費であり環境破壊です。
たとえば青色ダイオード特許訴訟の中村修二教授は、自分で発明したと主張していますが、彼の発明は人類が誕生して以来のたくさんの知の蓄積の上に実現したに過ぎません。
物財以上に、知識や情報はつながっていますから、知的発見はすべて人類全員のコラボレーションによって可能になるはずです。
科学の世界に限りません。
松本零士とマキハラの歌詞盗作事件も同じような話です。みんな勘違いしているように思います。

だれが「知的所有権」制度をつくったのでしょうか。
建前上の意図は、よく言われているように、創造的活動への動機付けでした。しかし、そんな動機付けなど本来は不要なのです。
本当の意図は、知的発見の囲い込みに過ぎません。
中村教授の問題提起は、まさにそれだったと思いますが、訴え方が間違っていたと私は思います。
知的発見の成果の還元は個人にではなく、広く社会に、あるいは歴史に向けて行われるべきです。
その最高の手段は、知的所有権の廃止であることは言うまでもありません。

知的発見の成果の囲い込みは、社会の進化を妨げるだけですし、中途半端な消化によって社会的弊害を引き起こすおそれがあります。

そういえば、数日前の新聞で報道されていましたが、「介護」という言葉はある企業が持っている商標だそうです。しかし、その会社はその知的所有権の独占を主張しないそうです。
そのおかげで、今では「介護」概念は日本国中に広がりました。
言葉を独占したり、知識を独占したりする制度は、愚かしい行為でしかありません。
そう思いませんか。

■市況商品の上に乗っかっている生活(2007年6月2日)
原油価格の上昇で、ガソリンがまた値上げになっています。
いやガソリンだけではありません。
いまや産業は原油の上に立っており、私たちの暮らしはその産業の上に成り立っていますので、原油価格上昇は私たちの暮らしに大きく影響を与えます。
工業製品だけではありません。
農産物もサービス産業も、いまや原油とは切り離せません。
まあこういうことはよく言われていることです。

問題は、今の経済の基盤ともいえる原油が、市況商品になっていることです。
つまり、誰かの操作と思惑で価格が決められる。
そのことの意味をもっとしっかりと認識する必要がありそうです。
今の経済は、つまり私たちの暮らしは、そうした誰かの思惑の上に展開しているわけです。
この経済システムを変えていくことが必要です。
50年くらいはかかるかもしれませんが、決して不可能なことではありません。
問題は、しかし、変えるどころか、そうした不安定さをますます強めようとする方向に時代が動いていることではないかと思います。

■国民主権国家という壮大な幻想(2007年6月3日)
年金保険料の納付記録が5000万件もなくなってしまったという報道があります。
本当に5000万件なのかどうかわかりませんが、判明後の政府の対応も含めて、国民主権国家という壮大な幻想の実態が見えてきます。

そもそも政府の役割は何でしょうか。
大きな役割の一つは、国民の財産の保護です。
そこには税金や政府主管の保険料も含まれます。
もちろん税金などで創られた施設も含まれます。
税金や保険料は国民から「政府」に財産権が移ったわけではありません。
しかし、そのあたりの仕組みや考えは、残念ながらあいまいのままできています。
なぜあいまいにしているかというところに、事の本質があるわけですが。

国民の財産の保護という場合、課題は3つあります。
「国民」とは誰か。
「財産」とは何か。
「保護」とは何か。
いずれも明白なように思うかもしれませんが、考えていくと全く明確ではありません。
たとえば「国民」。
日本ではまだ基本的人権すらしっかりとは保障されていない人たちがいますが、彼らは国民でしょうか。国籍も認められず、選挙権もなく、「棄民」のような扱いを受けた人もいます。いや、今もいないとはいえません。
税金を払っている人が国民という捉え方もできますが、税金を払っていても選挙権もなく保護対象にならない人たちもいます。
「財産」。
これも難物です。私的所有物と考えれば比較的簡単ですが、誰かに帰属しない財産はたくさんあります。むしろそうしたものがあるから、私たちは生きていけます。
たとえば、きれいな空気、人をつなげあう言葉や文化、心和ませる自然などの「コモンズ財産」はどう考えればいいでしょうか。
大切なのは「私的財産」ではなく、「コモンズ財産(共的財産)」です。
しかし残念ながら政府はどちらかといえば、それを壊すほうに重点がありそうです。
「保護」もまた多義的です。
単に「現状」を維持することではないでしょう。
先日書いた「知的所有権」制度は、短期的には特定の個人の利得を守るかもしれませんが、長期的には知的財産を活かし大きく育てることにはならないかもしれません。

また長くなりそうです。
今日、書きたかったことは、
政府が守ろうとするのは、一部の人の私有財産だということです。
その「一部」の範囲は時に変化しますが、決して全員ではありません。
つまり今の国民主権国家は「コモンズ国家」ではないのです。

保険金給付は、保険料名目での国民財産徴収のための見せ掛けのものでしかないのかもしれないと疑問さえ沸いてきます。
実際にこの数十年、所管部署の関係者はそれを好きなように浪費し、そのお咎めもなしに、今もかなりの浪費が行われています。
もちろんまじめに働いている人はいますが、かれらも収奪されるほうの人なのです。
まじめに働く人たちで外部との壁を構築するというのは、組織の本質です。
現状では、国民年金保険や厚生年金保険は、国民の財産を保護する仕組みではなく、収奪して一部の人たちの私欲を満たすための制度ではないかと思われても仕方がありません。
もしそうでないのであれば、保険金の計算根拠はもっと当事者に分かるようにすべきですが、そうしたことは全く行われていません。
少なくとも、契約に基づくものではなくお上による民の支配の仕組みであることは間違いありません。
自分がもらっている保険金額が正しいのかどうかなど、おそらく誰も分からないのです。
そうしたことの現われが、今回の納付記録不明事件です。
国民主権国家とは、大いなる偽装です。

しかし偽装とはいえ、理念があるのであれば、実体を育てていく契機にはなりえます。
そうしたビジョンとグランドデザインが不在なのが問題の本質だろうと思います。

■脱北者を人道上、受け入れるという発想(2007年6月4日)
北朝鮮から4人の脱北者が日本に辿り着きました。
「人道主義の原則に基づき、本人の意思を尊重して処理する」と日本と韓国の政府の関係者は語っています。
乗ってきたのは腐りかけた木船だったといいますが、無事、辿りつけたことを他人事ながらホッとします。どれほどの恐怖を味わったことでしょうか。

こうした脱北者のニュースが流れるたびに、「人道上」という言葉が気になります。
なぜ生命の危険をおかしてまで自らの生活地から脱出するようなことが起こるのでしょうか。
そこにこそ、「人道上」の目は向けられるべきではないでしょうか。

問題は2つあります。
「国境の存在」と「北朝鮮という国家の実状」です。
往来を制限する国境がなければ、人は自由に行き来できます。
国家を超えて自由に自らの住む場所を決めることができることこそ、私は基本的人権ではないかと思います。
今の基本的人権は国内での「許可された人権」でしかありません。
人道上というのであれば、そうした国境を越えて自由な往来をこそ議論すべきでしょう。
国家や国境があっても、自由に往来できれば問題はありませんが、なぜか近代国家は国民を囲い込むようになりました。
そこに国家の本質があるのかもしれません。

次の問題は死を覚悟で脱出しなければいけない北朝鮮という国家状況の存在です。
その存在を許しておいて、人道上議論をしても始まりません。
たまたま今回の4人はその世界を抜け出られましたが、大勢の人たちがその世界にまだいるわけです。
人道上というのであれば、むしろ脱出すらできない人たち、いや、そうした人たちが存在するような状況を問題にするべきです。
念のために言えば、これは北朝鮮に限ったことではありません。

人道問題は定義も難しい問題です。
いつも思うのは、問題を引き起こす原因というべき実態は問題にされずに、例外的な人だけが「人道主義的扱い」を受けて、何となく事が決着していくことが、いつも納得できないのです。
本当に関係者は「人道上」と本気で考えているのでしょうか。
もしそうなら、もっと能動的に動くはずではないか。そんな気がします。

「人道上」などという言葉は使わないほうがいいような気がして仕方がありません。
そういえば、イラク派兵も「人道支援」でした。

■「もうひとつの地産地消」(2007年6月5日)
枚方市発注の清掃工場建設工事を巡って、また談合の事実が発覚しました。
企業も行政も、よくまあ懲りずにと思いますが、これだけ根強く残るにはなぜでしょうか。

そもそも談合は、取引費用という視点で考えるとわかりやすいです。
いかにコストダウンを図るかが、事業を成功させる一つのポイントだと思われています。
その際の「コスト」は、当初、組織内部の生産費用が対象でした。
そこでトヨタ方式のようなものが考えられていきます。
そして1960年代後半から、コスト発想は組織の外に広がり、物流革命が起こります。
同時に、顧客開発やマーケティング戦略が重視されていきますが、そうした流れの中で、たぶん、談合もまた制度化されてきたのでしょう。
もちろん談合の事実はもっと昔からあったでしょうが、市場主義の流れを逆手にとって、取引コスト縮減の仕組みとして、各社に受け入れられ、企業を超えて組織化さてきたのだと思います。
そもそも「入札方式」そのものが、責任回避と利権発生を育てやすい仕組みですし、入札と談合はセットのものと考えるべきだと私は思いますが、もしそうであれば、談合だけをやめるのではなく、入札方式もやめるべきです。
入札でコストダウンしたことがあるのでしょうか。
入札信仰はそろそろ捨てるべきでしょう。

取引コストを縮減する方法は他にもあります。
それは信頼関係と業務遂行の柔軟性の回復です。
地産地消が盛んに言われますが、これは何も農残物だけの話ではありません。
地域で働く人たちに業務をやってもらう体制をしっかりつくれば、責任関係が育ち、信頼関係が高まっていくはずです。
そうなれば、取引コストだけではなく、さまざまな効果が出てくるでしょう。
不在企業の不労所得は縮減され、地元で働く人たちや地場企業の利益は増えていくでしょう。

しっかりと顔が見え、長い付き合いができる、地域の事業主体に頼んでいくことは、「もうひとつの地産地消」です。
つまり、地域の産業(地産)は地域の人たちで消化(地消)していくわけです。
少しこじつけ的ですが、考えは繋がっているはずです。
東京のコンサルタントやプランナーに仕事を頼むのは、そろそろやめていくのがいいです。
となると、私にも仕事が来なくなってしまいますが、まあそれが時代の流れなのです。
もちろん地域の外にいる人に関わってもらうのが良いことも少なくありません。
しかし主役はあくまでも地域の企業です。

「もうひとつの地産地消」が広がれば、談合などはなくなるでしょう。
いや反対だといわれそうですが、そうした動きに対処するのは、たぶんそう難しくはないでしょう。
地域の長老支配はもう終わろうとしています。
彼らは中央と繋がっているからこそ、生き延びているのです。

これは産業だけではなく、政治の世界も同じです。
ベクトルを反転させる時期がきました。
地方選挙で中央の議員を応援に呼び込むような立候補者を信じてはいけません。
いやこれも時代は反対のようですね。
どうも私の発想は時代に逆行しているのかもしれません。
困ったものです。

■平和か年金か(2007年6月6日)
7月の参院選の争点が「年金」になってしまいました。
平和につながる「憲法」が争点になるのかと思っていたので、なにやら「やられた」という気がします。
自民党と民主党が、まさか「つるんで」やったことではないでしょうが、両党の後ろで何かが動いているような気さえします。

国民は、平和よりも年金、それも自分の年金に関心が高いようなのも嘆かわしい話です。
戦争になったら年金などとんでしまいますし、第一、軍備にかけるお金をみんなの暮らしに向けたら年金など少しくらい少なくともやっていける社会はつくれるでしょう。
「平和」と「年金」は深くつながっているのです。

年金は本来ある意味での貯金でした。自分の老後のために積み立てて、そこに政府(国民すべてが預託した機関)が補助していくという仕組みだったはずです。
それがいつの間にか、世代間負担の話になり、高齢者を若者が支える発想が出てきました。
これは年金ではなく税の発想です。
保険庁の官僚たちと国会議員は、膨大な保険料を見事に好き勝手に使える仕組みに改変したのです。施設をつくる費用などは、おそらく些少な金額でしょう。陽動作戦でしかありません。もっと深いところで、その資金は使われたはずです。

資金を個人的に使った人も少なくないでしょう。
しかし彼らは一切の経済負担はしていません。せめてそれぞれが可能な範囲で賠償責任を負うべきだと思いますが、制度的には難しいでしょう。それよりも、今なお利得を得ている状況を即刻打ちどめにするべきです。
5000万件問題処理のために、彼らはまた働き場を確保できるわけですが、いま仕事がなくて困っている人にこそ、そうした仕事の場を提供するべきです。
不始末をすればするほど、雇用が確保されるという行政の仕組みを変えなければいけません。

この問題はまた項を改めるとして、今日は参院選の争点の話です。
国民が年金問題に目を奪われているうちに、平和憲法はどんどんと侵食されていくおそれがあります。
平和憲法を変えようという思いは、自民党も民主党も同じです。
民主党には「護憲派」がいるといわれますが、もしそうだとしても、彼らは「護憲」は中心の価値ではないと思っています。ですから本当の意味での護憲派ではありません。

せっかく盛り上がるかに見えた「平和論議」、憲法問題が、また見失われそうで心配です。
「日本の青空」の映写会が広がっています。
年金よりも大切な課題があることを忘れたくはありません。

■民主党の存在感のなさと新党への期待(2007年6月7日)
参院選が迫っていますが、民主党のパワーがなかなか伝わってきません。
自民党の支持率は低下していますが、ではその分、民主党が伸びているかといえば、そんなことはないようです。
二大政党などといいますが、そもそも二大政党のそれぞれの違いを明確に言える人はいないでしょう。
つまりは基本的には同じものであり、主流派と反主流派のような関係でしかありません。
昨日も書きましたが、政治思想に違いがあるのであれば、わかりやすいのですが、ほとんどの政策で自民党と民主党は入れ替わってもそう大きな問題がないくらい、政策や思想は連続的です。
たとえば、9条を守るとか、年金は税金で対応していくとか、教育のパラダイムを変えるとか、市場原理主義をやめるとか、民主党独自の政策があれば、自民党との違いが見えてきますが、今の争点は極めて技術論的な次元の話でしかありません。
日本の将来にとって、最大の課題は、9条問題だと思いますが、この点に関しては民主党も自民党も一緒です。
政策も細かな話になると私などは理解しにくくなりますが、その基本にある考え方であれば、明確です。
たとえば9条は変えないとか、学校は訓練の場ではなく教育の場にするとか、福祉には当事者の事情に合わせた共創思想を持ち込むとか、市場原理主義は見直すとか、ともかくコアバリューを明確にしていくべきです。今の自民党と民主党のアイデンティティはそう違わないように思います。逆に言えば、アイデンティティ不在です。
自由主義と共和主義といった思想の違いも感じません。
その点、思想を背景とした共産党や社民党は明確です。新党日本もメッセージが伝わってきます。しかし民主党は亜流自民党のイメージしかありません。それでは選挙でも勝てないでしょう。結果的に勝ったとしても、それは政治状況を変えることにはならないでしょう。
しかし、そんなアイデンティティもあいまいな政党になぜみんなしがみついているのでしょうか。不思議です。
ここは思い切って、新しいスローガンを掲げた政党は生まれないのでしょうか。
共産党と社民党と新党日本と、一部の民主党党員で、共和党を立ち上げたらどうでしょうか。
マンネリ化している既存政党の共産党、社民党、民主党などの有志が、新党日本に移籍したら、日本の政界は一変します。
今こそ「共和主義」が必要になってきているように思うのですが。

■弁護士の反応の報告(2007年6月8日)
いささか挑発的な弁護士へのメッセージ「弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか〕の記事のその後の報告です。
一度、簡単な報告をしましたが、残念ながらその後まだ残りの5人からの返信はありません。
あまりメールをされていなくて、まだ見ていないのかもしれません。
あまり長くなってもいけないので、とりあえずの報告と私見を書きます。

返信してくれたお2人のうち、お一人は個人的には「あきれはしました」と書いてありました。もうお一人は個人的な評価は読み取れませんでしたが、肯定的なコメントはありませんでした。
お2人に共通するのは、
いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮はあってはならない。
という点でした。
そしてまた、お2人とも、「死刑制度の是非」ということに、コメントの中心を置かれていました。
私が問題提起したのは前にも書いたように、死刑制度のぜひとは無縁だったのですが。

ところで、
いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮
ということを少し考えてみたいと思います。
そこにまさに問題の本質があると思うからです。

まず「いろいろな価値観の人がいることはいいこと」だというのは私も全く同感です。
問題は「いろいろな価値観」の範囲です。
人を勝手に殺してもいい、他人のものを勝手に奪ってもいい、という価値観も入るのでしょうか。私が問題にしているのはその点です。
ある社会を維持していくためには、その成員に共通した何らかの価値観の領界があるはずです。多様な価値観を許容することは何でもありということではありません。
自分以外の価値観の存在を許さないという価値観も認めることは、「自由のジレンマ」と同じようなジレンマに陥ります。
つまり結果的には、多様な価値観の存在を否定することになりかねません。

「主張すること」も悩ましい言葉です。
主張すると行動するとはどう違うのかです。
おそらく連続的です。
発言はいいが、行動はだめというのでは、犯罪教唆は成り立ちません。
さらにいえば、価値観を持つことも連続的というべきでしょう。

実際問題として考えてみましょう。
表現の自由が存在する状況においても、「許されるべきではない価値観」が存在することは否定できないと思います。
言い換えれば、ある範囲の中で、表現の自由は意味を持ってきます。
問題は、その範囲が狭くなっていくことです。
そして単一の価値観が支配しだし、価値観が意味をなくしていくことが結果として社会を壊してきた歴史は少なくありません。

価値観の許容範囲を狭くする道筋は2つあります。
一つは価値観が次第に収斂していく道筋です。
ナチスはその典型でしたし、いまの日本の経済システムはそれに近いです。
もう一つは、価値観の許容範囲が失なわれ、社会の自生的秩序が崩れる場合です。
どんな価値観も許容するというのであれば、おそらく価値観の意義そのものが失われていき、結局は一つの価値観に収斂していくことになりかねません。
今の日本がそうした入り口にあるようです。
社会が許容できない価値観は正さなければいけません。そうでなければ、社会の自生的秩序は維持できないでしょう。そのためにこそ、司法は存在しているはずです。

今回の弁護団の主張は、私には日本社会では許容範囲を外れるものだと思います。
しかも、司法を預かっているプロフェッションの主張です。
だから問題にしたわけです。

寛容に関しては以前も書きましたが、すべてのものを受け入れることが寛容ではないと思います。
社会を維持し、成員の多様な価値観の存在を保障していくためにも、価値観の許容範囲は大切なことです。
それを司るのが「司法」ではないかと思っていました。
だから問題は深刻なのです。

他の弁護士の方からの返信がないので、とりあえず中途半端な報告になってしまいました。
相変わらず独断的なコメントですみません。

お2人が「表現の自由」を書かれてきたことに異論があるわけではありません。
それはとても重要な問題です。
私が思い出したのは、立川テント村自衛隊官舎ビラ入れ裁判の東京地裁での内田雅敏弁護士らの弁論です。
その弁論と今回の弁護団の主張の、あまりの格差に驚きを感じます。
この裁判は、その後、思わぬ方向に向かっていますが、この弁論は多くの人、とりわけ多くの弁護士に読んでほしいと思います。
http://www.bund.org/opinion/20050115-1.htm
ニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のこともぜひ思い出してほしいものです。
問題が違うではないかといわれそうですが、私は通底していると思います。

いずれにしろ、ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。

■「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」(2007年6月9日)
昨日のニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のことが気になって、書庫にあった「ニュールンベルグ裁判」のビデオを引っ張り出して、観てしまいました。
この映画は、まだ私が検事志望だった大学生の頃に観た映画です。
私が司法の世界を志望したきっかけは、高校の時に観た八海事件を題材にした「真昼の暗黒」という映画です。
冤罪といわれた八海事件をドキュメント風に描いた映画で、私は場末の3本立ての映画館で観たのですが、映画館から自宅までの間、怒りで震えながら帰ったことを今でも覚えています。その時に法律を学ぶことを決めました。
そして、弁護士ではなく検事になろうと思った理由の一つがこの映画でした。
リチャード・ウィドマーク演ずる検事が、ともかく私には共感できたのです。その反面、マクシミリアン・シェル演ずる弁護士には「むしず」が走りました。映画ではシェルがアカデミー賞をとりました。

その「ニュールンベルグ裁判」を久しぶりに観ました。
20年ぶりでしょうか。前に一度だけ観ていました。だからビデオがあったのですが。

この映画は、ナチス首脳を裁いた有名なニュールンベルグ国際軍事裁判ではなく、それに続いて行われた各分野の政権協力者を被告とした裁判のうち、司法関係者の裁判をテーマにした法廷劇です。
実話を基本にしているようですが、実名ではありません。
被告の中心はナチ政権下で司法大臣などの要職をつとめたヤニングです。
ストーリーは映画紹介のサイトをご覧ください。
http://moviedev.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=6730
3時間を越える超大作です。
早送りして、最後のヤニング被告と判事の会話、つまり「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」という場面だけを観ようと思っていたのですが、観だしたらきちんと観たくなり、結局、観てしまいました。
いろいろと考えさせられることが多かったのですが、昨今の日本の司法界の人たちに見てほしいと思いました。司法研修所で、こういう映画を観ながらワークショップをしてほしいです。登場人物の発言は実に含蓄に富んでいます。
ヤニングは、自らの責任を進んで受けいれた上で、ナチスの暴挙に関して「私は知らなかった」と裁判が終わった後で判事に話すのですが、それに対して判事が即座に「ヤニング君、最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」と言い放つシーンは、上田弁護士が述べている通り、実に印象的です。
ヤニングはシュペアーのように、自らの責任を真正面から受け止める、正義の人として描かれていますが、正義とは何かを考える上でも示唆に富む言葉です。
「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」
これは決してナチ政権の時代の話ではありません。
同じような状況が、まさに今の日本で展開されています。

映画の中で、判事はこうも言います。
ヤニングのような正義の人がナチ政権を成り立たせたことこそが重要なのだ。
狂気のヒトラーの個人的犯罪ではなく、ビジョンと信念を持った人たちが、狂気を膨らませ、歴史を誤らせた、というわけです。
こうしたことは決して少なくありません。
小さな事件ではオウム集団(宗教集団と呼ぶべきではないでしょう)、大きな事件ではポルポト政権。そこでの主役は、多くの人に信頼されていた人たちの組織なのかもしれません。
歴史を狂わせるのは狂人ではなく、信念を持った誠実な人たちなのかもしれません。
そこに恐ろしさを感じます。
いまの日本は大丈夫でしょうか。

■コムスン事件は民営化路線の氷山の一角(2007年6月9日)
訪問介護最大手コムスンの不正申請事件は、実態がわかるにつれて、問題が広がってきています。これに関しても、何をいまさらという気がしないでもないですが、耐震偽装事件と同じで、しっかりとチェックする仕組みがないままで、民営化してきた結果の一つでしかありません。
また書き出すと長くなりますが、「公私」ではなく「官民」と捉えること自体に問題を感じますが、同時に民営化は市場主義に乗せることという捉え方にはさらに大きな危惧を感じます。
これに関してはこれまでも何回か書きました。
現在の日本の経済の根底にある市場主義の原理は、「自立した個による自己利益追及」です。その結果、「見えざる手による」社会の効率化が達成されるというわけです。
小泉政権時代の「官から民へ」というスローガンに熱中した人たちが、推進してきたのは、この路線です。その路線の中で、公共サービスだった郵便局も福祉事業だった介護事業も市場化されました。いや学校さえもです。
市場主義の世界では、「自己責任」とか「自立」が叫ばれました。
そこではホリエモン事件やファンドの動きに象徴されているように、他者への配慮は軽視されました。
一方、福祉や暮らしの世界の原理は、「支えあいによる共同利益追求」であり、他者への配慮の重視、つまりケアです。
両者の大きな違いは、人をつなげるのが「金銭」か「愛」かです。
愛というと大げさに聞こえるかもしれませんが、人間はパンだけで生きられるわけでは在りません。
愛、ケア。ちょっと気にかける「人と人のつながり」がなければ、人間社会は成り立ちません。そのつながりを、心や愛ではなく、お金にしてしまったのが、昨今の市場原理主義です。
換言すれば、福祉の世界が市場化されたのです。
そこからこうした結果が出てくることは必然的とさえいえるでしょう。
「官から民へ」ではなく、「民から共へ」こそが、必要なのではないかと思います。
これが63歳までに書こうと思っていた私の本の題名「コモンズの回復」でしたが、怠惰なためにまだ1行も書けていません。
しかし、日に日に劣化する日本社会の中にいると、苦労して書くこともないかという気が強まります。
つまり、私自身が「劣化」しているということなのですが。

<民営化に関するこれまでの記事の一部>
民営化と私有化
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_4.html
民営化への不信感
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/06/post_0ce2.html
民営化再論
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/07/post_d5bc.html
民から共へ
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_290f.html
民営化コンプレックス
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_0991.html
民の本質
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/05/post_79fa.html

■価格の裏側(2007年6月11日)
昨日、私の住んでいる我孫子市はかなりの雨でした。
手賀沼沿いの道路の一部が水浸しになり、自動車が一時通れなくなりました。
自然の力のすごさを改めて実感しましたが、テレビなどで報道される集中豪雨はこんなものではないのでしょうね。
自然には勝てません。

昨日の朝日新聞の記事を思い出しました。
「リンゴ農家借金苦 作っても作っても返せない」という見出しの記事です。
今年2月、弘前市のリンゴ農家の奥さん(52歳)が一家心中を図った事件がありました。幸いに、間一髪で同居の義母が異変に気づき、未遂に終わったのですが、その裁判で、作っても作っても借金を返せない津軽のリンゴ農家の窮状が見えてきたのです。
台風などの被害続きで、5年に一度しか黒字にならなかったと被告は供述したそうです。そして、地元では寛大な刑を求める嘆願書の署名運動が起こったのです。
署名した男性の言葉が載っています。
「人ごとではない。1000万円単位の借金は半分以上の農家である。数年前も、仲間の一人が自殺した」

リンゴ御殿といったバブル時代の話もよく聞きますが、自然に依存した第一次産業の場合、豊作もあれば不作もあります。その収穫は不安定です。
それに最近は、豊作でも農家は喜べない仕組みになっています。
市況価格が下がり、農作物を破棄するおかしなことが起こるのが今の経済システムです。
一方では、中国に高い価格で輸出している知人もいます。農家の努力で状況は変えられるのではないかと思う人もいるかもしれません。それは正しいのでしょうが、問題は自殺を決意するほどの現実があるということです。

私はリンゴが大好きなので、今でもよく買ってきてもらいますが、いつも思うのは、さくらんぼの高価さとリンゴの安さです。
このリンゴをもう少し高く買えば、こうした悲劇は防げるのであるとしたら、高い価格を払いたいと思いますが、そうした「価格の裏側」は消費者にはなかなか見えません。
自然との関わりの中で営まれている農業が、工業化され、工業の発想で考えられているところに問題があるのかもしれません。
工業製品と農業製品は、似て非なる「商品」であることを私たちはもっと認識すべきかもしれません。
汗水流して働いても、生活が成り立たないような状況は、決して当事者だけの責任ではありません。どこかに問題があるはずです。

金融操作で莫大なお金を得ている人がいる一方で、こうした現実が「国内」にさえあることを忘れてはなりません。
国内のフェアトレード問題は、もっと注目されていいように思います。

念のために言えば、これは農産物だけの話ではありません。
同じ工業の世界でも同様なことが起こっています。
工業に内在する、そうした垂直構造の発想を経済学はもっとリアルに問題視すべきではないかと思います。それは実に刺激的なテーマのはずなのですが。

■裁判における弁護の意味(2007年6月13日)
福岡市3児死亡飲酒事故初公判で、弁護側は「飲酒は間違いないが、正常な運転が困難になるほどではなかった」と述べ、危険運転致死傷罪については否認したと報道されています(朝日新聞)。
この論理におかしさを感じないでしょうか。
しつこいですが、弁護士たちの発想のおかしさを、もう一度、書きます。

裁判における弁護とは、事実を明らかにすることによって、被告の人権が踏みにじられ、過重な量刑が課されないことだと思います。
決して、被告の罰を軽くすることではありません。
そこで目指されるべきは、多くの人たちが納得して受容されるような裁きがなされることです。
これは弁護士に限らず、法曹界に関わる人たちすべてに課されたミッションです。
それを実現することが、彼らのプロフェッションであり、そのために彼らには社会的権威と特権を与えられているのです。

そうした裁判の原点に戻って考えると、やはり先の論理には首を傾げたくなります。
もし家族が同じ事故にあったら、同じ論理を展開するでしょうか。
もしするとしても、問題は残りますが(いつか書きます)、
もししないのであれば、商売としての対応としか思えません。
私情とは別の判断をすることこそがプロフェッションだという人がいるかもしれません。
たしかにそういうことはあるでしょう。
しかし、この論理は、光市母子殺害事件の弁護団と同じレベルのものだと思います。

なぜこうした「ためにする論理」が横行するか。
それは裁判の役割がおかしくなっているからです。
ここでもたぶん、市場原理主義が蔓延しているのでしょう。
繰り返しますが、裁判は社会の安定のための仕組みです。
検事と弁護士が対立するのは本来はおかしい話です。
アメリカ型の法廷論争は決して正しい裁判の姿ではないはずです。
優秀な弁護士がついたら無罪になり、
優秀な検事なら死刑になったりする裁判が良いと思いますか。
弁護士と検事が力を合わせて、より正当な裁きを実現し、同じ過ちや不当な行動が繰り返されないことが、裁判の存在意義ではないでしょうか。

裁判とは何か。
それを弁護士たちには真剣に考えてほしいものです。
もちろん検事や裁判官にもですが。

■さくらんぼの憂鬱(2007年6月14日)
昨日、福島に行ってきました。
そこで乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。
話は最近のさくらんぼは高価だが、地元の人たちもあんな高いとそうそう食べられないでしょうと質問したことから始まりました。
60歳を超えた運転手の方は、私も他所の知り合いにお土産に持っていく時くらいしか買わなくなった、というのです。子どもの頃はいくらでも生っていて、よく食べていたが、最近は「ぜいたく商品」になってしまい、桃や梨とは違うものになってしまったというのです。
そして、果樹栽培は儲からないので、止める人が多いが、さくらんぼは儲かっているようだと続けました。
先日、書いたリンゴ農家の悲劇を思い出しました。
桃や梨は生産者には儲けが少ないようで、その時期になると1カートン1000円で売られているというのです。運転手さんによれば、仲買いだけが儲けているそうです。
なにやら最近の経済の問題点がたくさん示唆されているような話です。

ついつい同調してしまい、最近は汗して働く人は報われずに、汗しない人が儲ける時代になってしまいましたね、と言ってしまいました。
実は行きのタクシーの運転手とは、そういう話をしていたのです。
景気がよくなったというのはどこの話ですかね、とその運転手から質問されて、話しているうちに、そんな話になってしまったのです。
福島のタクシー運転手は、もはや生活を支える仕事ではなくなったと、毎回、運転手さんたちは言うのです。
汗している人たちが報われない社会。本当にそんな社会に向かっているような気がします。

横道にそれてしまいました。
話を戻します。

地産地消が叫ばれているなかで、さくらんぼは「高級商品」になってしまい、地元の人たちにも高嶺の花になりかけているのは、ちょっと考えさせられる話です。
その運転手によ拠れば、山形が福島のさくらんぼのお鉢を取って、そうした高額商品化戦略をとったのだといいます。それが福島にも戻ってきたというのです。
生活に繋がる食べ物から市場価値のある商品への変化。
市場主義に乗ってうまく「商品化」すれば、儲かるわけです。
「商品化」していない桃や梨は儲からないのです。

食べ物から商品になると何が起こるか。
さくらんぼ泥棒が出てくるのです。
食べるために盗むのではなく、売るために盗むのです。
地元の人はそんなことはしませんよ、と運転手さんはいいますが、私もそう思います。
商品になるとおかしなことが始まるのです。
食べ物の時代には、これもよく書くことですが、生産者は天地の恵み者として、ほしい人にはあげるものです。飢えた人には断らないのが生産者の常でした(反論はありそうですが)。時に1つくらい無断で失敬する人が出るかもしれませんが、それにはそれなりの理由があったのです。カラスにも収穫の一部を残すのが、生産者の知恵なのです。
しかし商品になると、そう簡単にはあげることにはならないでしょう。
生産者の意識もまた変わるわけです。
なにやらたくさん反論をもらいそうな舌足らずの内容になりましたが、自然や人間とともにある経済のあり方とはどういうものだろうか、帰りの新幹線ではいろいろと考えさせられました。
やはり今の経済の仕組みは、どこか私には違和感があって仕方ありません。

■社会保険庁の相談窓口対応(2007年6月15日)
年金記録消失に関する相談窓口対応がいろいろと問題になっています。
自分の年金がどう記録され、どう処理されているのか、気になる人は多いでしょう。
私も気にならないわけではありません。

社会保険庁の杜撰な管理にも問題があるでしょうが、本当の問題は制度の仕組みです。
制度の透明性や自分での計算が不可能になっているのです。
ですから調べてもらって、大丈夫ですよと言われても、何が大丈夫なのかわからないはずなのですが、なぜかみんなそこで安心してしまうわけです。
ですから仕組みの問題は全く改善されないのです。
こうした考え方を変えなければ問題は解決しないはずです。

個別相談に対応するのにどのくらいのコストがかかるか、保険庁が使う税金の問題だけではなく、問い合わせに向ける国民のエネルギーの損失もあります。
しかも個別問題に対応することに目がいってしまい、根本の問題の解決は先送りになりがちです。いやおそらく誰も考えていないでしょう。
各人の心配は大きいとしても、半年はともかく待ってもらい、その間に仕組みの透明性と自分である程度確認できる仕組みを構築し、そこから段階的に相談に乗っていくというような、解決策のプログラミングが必要だと思いますが、いまは目先の問題を対症療法的に解決するやり方です。
おそらくコストのかかり方も解決にかかる時間も桁違いに大きくなっているはずです。
こうした取り組みが最近の日本の多くの問題対処法です。

それでいいのか。
この問題の報道が連日続いていますが、それを見る度に、何か本当の問題から目がそらされているような気になってしまいます。
こんなお茶濁しに満足してしまうのは、国民の視野が狭くなったことの現われでしょうか。
みんなの関心は、自分の年金額だけに向いてしまっているのでしょうか。
社会保険庁の職員と私たちは、一体どこが違うのか、最近それがわからなくなりました。

ところで、国民年金(厚生年金)って、いったい何だったのでしょうか。

■あっちゃんの雑記帳(2007年6月16日)
知人のSさんから小冊子が届きました。
「あっちゃんの雑記帳」。38ページの手づくりの小冊子です。
手紙にこう書かれていました。

同封の冊子を家族みんなで作りました。
私の母の想いがつまっています。多いに個人的な内容なので、ご迷惑かもと思いますが、佐藤さんにお目にかけたいなあ・・・と、つい思ってしまいました。
いろいろな活動からの経験で、この冊子を作ることが出来ました。母にも喜んでもらえましたが、一番楽しんだのは私です。ちょっと(かなり)自慢のこの一冊、ご笑納いただければ幸いです!

Sさんはコムケア活動で知り合った人です。
実に多彩な活動をしていますが、その活動の広がりが絶妙なのです。地元での活動もあれば、全国的な活動もあります。自分の活動もあります。いずれにも共通しているのは「楽しむ姿勢」です。そしていつも「暮らし」につながっています。

そのSさんのお母さんが「あっちゃん」です。83歳です。
Sさんは全国マイケアプラン・ネットワークのメンバーでもあります。
そこで作成した「マイライフプランの玉手箱」を渡して、ともかく今までのことを気が向いた時にメモ書きしておいてね、と伝えていたのだそうです。
4月に実家に戻った時に、びっしりと書き込まれたノートを渡されました。帰りの電車で、それを読んだSさんは涙が出そうになったそうです。
そこには大正13年に東京の本郷で生まれたことから始まり、さまざまなことが書かれていました。それを読んでSさんは、母のメモリアルのための冊子にしようと決めたのです。そして姉妹と孫たちに呼びかけて編集会議が開かれ、みんなが楽しみながら完成させたのが「あっちゃんの雑記帳」です。
あっちゃんの両親のことも、あっちゃんの若い頃の友人のことも、もちろん娘のSさんのことも、孫たちのこともいろいろと書かれています。内容はいずれも個人的な話なのですが、逆にそのおかげで、当自の社会の様子が生き生きと伝わってきます。戦争の話もあれば、物価の話もあります。歴史が見えてきます。
Sさんが結婚した頃、我孫子に住んでいたことも書かれています。Sさんの祖母が新潟の西蒲原出身ということも知りました。

私が一番興味を持ったのは、「あっちゃん」という名前です。
Sさんのお母さんの名前には「あっちゃん」に続く文字がないからです。
それはあっちゃんのお父さんが、戸籍名をきらって子どもたちに、別の呼び名をつけていたのだそうです。戸籍名は喜美子、呼び名は昌子(あつこ)。それで戸籍名とはちがう「あっちゃん」とずっと呼ばれていたのだそうです。
戸籍名と呼び名。面白い話です。まさに言霊の文化が感じられます。
これに関した研究はあるのでしょうか。知っている人がいたらぜひ教えてください。

長々と「あっちゃんの雑記帳」のことを書いてきましたが、この冊子が示唆していることはとても大きいように思います。
認知症予防のための回想法というのがありますが、そのひとつの「自分史法」に、最近広がりだしている「物語」(ナラティブ)発想を入れて「物語法」と言ってもいいでしょう(もうあるかもしれませんが)。認知症予防という消極的発想から抜け出せるかもしれません。多世代交流もできます。
さらにこうした自分史作りが広がっていくと、それは膨大な歴史資料になります。平板な歴史書の時代は終わるでしょう。そして社会の認知症予防にもなるはずです。企業を離れだすだす団塊シニアの皆さんにはぜひ取り組んでほしい活動です。
いや団塊シニアに限りません。子どもの頃からこうした思考をもてば、子どもたちの育ちも変わっていくはずです。家庭も家族も変わるでしょう。
これはおそらく効用のほんの一部です。
「あっちゃんの雑記帳」から社会が変わりだしていくかもしれません。

Sさんは、そんなことは考えていないでしょうが、この小冊子の向こうにはとても大きな世界があるように思いました。
新しい歴史はいつも現場の小さな活動から始まるのです。

ちなみに全くの偶然なのですが、今日、我孫子でSさんに会いました。
実にフットワークがいいのです。コンサートを聴きに来たのです。

■がん対策基本計画の根底にある医療パラダイム(2007年6月17日)
がん死亡率を20%減らすことを目指す、がん対策基本計画が閣議決定されました。
日本のがん医療はアメリカに比べて、大きく遅れているといわれていますし、日本における「がん」への理解にも大きな問題がありますので、こうしたことが議論されることは歓迎したいのですが、どうも最近のこうした議論が「20%削減」というような数値目標に目が行き、その根底にある考え方があまり議論されないのが気になっています。
家族のがん治療体験から、がん対策の出発点は私たちの常識の見直しから始めなければいけないのではないかと、私は強く思っています。

トルコのベルガモンはアテネほど有名ではありませんが、古代世界の文化の中心地のひとつでした。塩野さんの「ローマ人の物語」にも何回も登場します。
私がベルガモンを訪問したのは10年以上前ですが、アクロポリスに残っているトラヤヌス神殿の遺跡はトルコ旅行で一番印象的だったもののひとつです。繁栄していた頃の文化の高さを感じさせます。
ベルガモンには医神アスクレピオスの神殿があります。アスクレピオス神殿は医学校でもあり、また療養所でもありました。私はそこで聖水を飲んできましたが、その診療所のことにはあまり関心を持ちませんでした。
ところが、その診療所を訪れて人生を変えた人がいます。
メキシコのオアシス病院の創設者アーネスト・コントレラスです。
その息子の書いた「21世紀の健康」(河出書房新社)に次のように書かれていました。

その療養所は、我々が現在知っている病院とはかなり違っていた。というのは、患者は3つの建物を通らなければならなかったからだ。最初の建物で、患者は、宗教上のカウンセラーに会った。彼らは、霊的に診察されることの必要性を信じていた。2番目の建物で、患者は、精神状態を診察する心理学者に会った。最後の建物で、患者は、身体的な診察を受けた。その考えに、父は愕然とした。ペルガムムの病院は、患者の身体だけでなく、人間全体を癒す所だったのである。ペルガムムを訪問して、父はこの考えに啓発されたのだ。それは、父が従うべき啓示であった。

これがオアシス病院の始まりだそうです。
息子のフランシスコ・コントレラスはこう書いています。

本質的に我々は、身体、健康、魂が統一された生き物として設計されている。しかし、むやみに忙しい現代社会では、全体的でバランスのとれた生活を営む余裕がない。我々は身体、精神、魂を持つ統一体であり、それぞれを分割することはできない。身体のみを重要視し、精神と魂を無視する医師は、充分な医療を実践できていないことになる。(同書231頁)

女房はいま、サプリメントとしてAHCCを飲んでいます。これはオアシス病院でも使っているものですが、その関係で私もオアシス病院のことを少しだけ話を聞かせてもらいました。そして、その院長が書いた本に偶然、先週出会えました。これはきっと意味のあることです。
並行して、いま、梶田昭さんの書いた「医学の歴史」(講談社学術文庫)を読んでいますが、医学に対する私のこれまでの常識がいかに浅薄なものであったかを思い知らされています。
しかも、ただ知らなかっただけではなく、ちょっと素直に考えれば気づいたことに気づかなかったことの気づきもあります。
病院や医学界への不信感は強まるばかりです。
そして、学校で学んだ知識が、世界を曲解させることがあることも、いま改めて実感しています。子どもたちのような清明な目と心が大切です。

がん対策基本計画の根底にある「がん」観はどういうものなのでしょうか。
昨今の病院や医療行政の不祥事を思い出すにつけ、この計画が悪用されなければいいがと思います。エイズの時のようなことがなければいいのですが。

ちなみに、ヒポクラテスはこのアスクレピオス派の流れをひく治療医でした。
そして重要なことは長生きだったことです。
彼はこう言っています。
「自然は病気の癒し手である」
とても共感できます。
医療と工業はやはりパラダイムが違います。

■事実(THE FACTS)が創られる時代(2007年6月19日)
米下院で審議中の従軍慰安婦問題に関する対日謝罪要求決議案は、まもなく外交委員会で採決される見通しだそうですが、これに関連して、6月14日、ワシントンポスト紙に「事実(THE FACTS)」というタイトルの全面広告が掲載されました。4月末、同紙に掲載された「慰安婦に対する真実」という広告への反論です。
広告主は「歴史事実委員会(the Committee for Historical Facts)」。屋山太郎、櫻井よしこ、花岡信昭、すぎやまこういち、西村幸祐の5人メンバーです。
賛同者として国会議員44名、知識人14名が名を連ねています。

そこでの主張は広告を読んでいただきたいですが、日本政府や軍が慰安婦動員に介入したという文書を見つけられなかったとし「日本軍が若い女性たちを性奴隷に追いやった」という慰安婦決議案内容は歴史的事実と違うと反論しています。
ワシントンポストに掲載された広告とその翻訳文(コメントもついていますが)は、ネットで読めます。
http://nishimura-voice.up.seesaa.net/image/thefact_070614.jpg
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-83.html
これに関するさまざまなコメントもたくさん出回っていますので、それを読んでほしいですが、私が気になったのはタイトルの「THE FACTS」です。

事実は一つでしょうか。
特にこうした広がりのある問題について言えば、さまざまな側面があります。
どこに焦点を当てるかで、全く反対の「事実」を描き出せます。
こうした手法はこれまで多くの人が意図的かどうかはともかく使っていました。

最近、こうしたことがとても気になっています。
たとえば抗がん剤の効果の説明もそうですし、住民参加の意見もそうです。
裁判における検察と弁護の主張のほとんども必然的にそうなるようになっています。
環境政策や福祉政策でも、環境運動や福祉の陳情活動でも同様です。

なぜそうなるのでしょうか。
そこに「対立」や「競争(勝敗)」の発想があるからではないかと思います。
もし「共創」や「共生」の発想で取り組むならば、状況は変わるはずです。

THE FACTS。
不寛容で傲慢な姿勢を感じさせる言葉です。
せめて「ONE FACT」というくらいにしていたら、コミュニケーションが成り立ったかもしれません。
「事実」が創られる時代がまた近づいているようです。

■朝鮮総連の会館売却問題の「事の本質」(2007年6月20日)
朝鮮総連の会館売却問題の主役は、元公安調査庁長官と元日弁連会長です。
2人とも弁護士です。つまり「法の専門家」です。
この事件は政治色が強いので、真理は藪の中かもしれませんが、最近、弁護士のあり方を問題としている関係で、横道ながら書いておきます。
多くの人は、なぜ弁護士ともあろう人がこんなことをするのかと思うでしょう。
弁護士だけではありません。
元公安調査庁の長官がなぜ在日朝鮮人の権利保護などという名目で、こんなことをするのか。
そこに実は「事の本質」があるように思います。

エドガー・アランポーに「盗まれた手紙」という有名な小品があります。
「隠し方」は探偵小説の大きなテーマの一つですが、その代表作がこの作品です。
隠すかわりに、わざと目も前に放り出しておくという、真理の盲点をついたものですが、これはチェスタートンの「見えぬ人」やクイーンの「Xの悲劇」、さらには筒井康隆の「48億の妄想」などに受け継がれていくトリックの始まりです。
目の前で堂々と犯される犯罪は、意外と見えないものですし、ましてやその人の肩書きなどで真実が見えなくなることも少なくありません。
それを巧みに利用する詐欺も少なくありません。

私たちはさまざまな先入観で世界を見ています。
学歴の高い人は賢い、法曹人は正義の人、NPOは公益のために活動、政治家は政策に詳しい、学識経験者は判断を間違わない、イスラム教徒は怖い、民営化すれば効率的になる、医師は病気を治してくれる、ピカソの絵画はすばらしい、クリスチャンは人道的・・・・
そうした概念を捨てると全く違った風景が見えてくるはずです。
しかし私たちは、そうした概念的な呪縛に閉じ込められて、言葉で考えることに慣れてしまいました。
いや、私たちの世界があまりに広がりすぎ、変化が大きいために、そうしないと生きていけなくなってしまったというべきでしょう。
すべて顔見知りの小さな世界で生きられた時代は、ほとんどの人にとっては、遠い昔になってしまいました。
そこに、現代社会の問題の本質があり、それを象徴的に顕在化させてくれたのが、この事件かもしれません。
今回の事件は、法の専門家であり、北朝鮮問題に取り組んできた人だから、成立した事件なのです。
「見えるものを見えなくしてしまう存在」が必要でした。
「ヤニングのような正義の人がナチ政権を成り立たせたことこそが重要だった」ことを思いまします。
事件が起きた時に、そうした発想で考えると、事の本質が見えてくることが少なくありません。
どんな事件にも「意外性」などないのです。

■「裁判に絶望した」(2007年6月21日)
以前、ここでも取り上げた富山の冤罪事件の有罪取り消し再審の初公判が昨日開かれました。そこでまた「事実隠し」が堂々と行われるという、これまでと全く同じ繰り返しが展開されました。
弁護側が、取り調べを行った警察官の証人尋問を求めたに対し、裁判長が「証人尋問の必要はない」としたのです。冤罪を受けた男性は、「裁判には絶望した」とコメントしたそうです。
もし私が当事者だったら、同じ発言をするでしょう。
またまた裁判への信頼性を揺るがす事件だと私は思います。
「裁判には絶望した」
これはとても重い言葉です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/05/post_0a8d.html

今回は弁護士ではなく、検察や裁判官の側の問題のように見えますが、私は一番の問題はやはり弁護側にあると思います。被害者を守れないのでは、何のための弁護かといわれても仕方がないでしょう。
これほど杜撰な捜査や立件に対して、どうして冤罪を予防できなかったのか。
考えてみれば、この事件はそこから端を発しています。
先に問題提起した「弁護士への問題提起」に関しては、冤罪事件が起きないように、被告を守るのが弁護士の役割だと複数の弁護士の方からメールでもらっていますが、冤罪事件を引き起こした場合の責任は弁護士にも半分はあるはずです。その責任をとる覚悟がなければ、その役割(ミッション)は果たせないはずです。
今回の事件は、裁判官に批判の矛先が行くでしょうが、弁護士もまた同罪だと思います。
多いに恥じるとともに、自らの失敗を謙虚に振り返り、社会に公開すべきです。
そういう積み重ねの中で、ミッションは鍛えられ、制度の信頼性は高まります。

法曹界は、裁判の信頼性を回復する努力をもっとするべきではないかと思います。
その方法は明白です。
取調べや裁判の透明性を高めれば良いだけです。
もちろんその前に、「裁判とは何なのか」を再確認しなければいけませんが。

■議論しない国会と世論を育てない政府(2007年6月22日)
教育関連3法も改正イラク特措法も成立しました。
しかし、将来の日本に大きな影響を与えるこうした法律が、きちんと議論されたようにはとても思えません。
国会はさまざまな視点から意見を出し合い、国の方向性を議論していく場ですが、同時に国会での議論と並行して、国民が問題を理解し考え、世論を育てていくことが、代表制民主主義の限界を克服するためには重要な仕組みです。
つまり国会の議論と国民の議論はセットで考えることが大切なのではないかと思います。
選挙だけが民意を具現化する手段ではありません。
国民が日常的に、自分たちの意見を表明する仕組みや環境はかなり整いだしています。その気になれば国民による幅広い議論を引き起こすことがそろそろ可能になり出しました。しかし、現実は残念ながら、議論をさせでずに賛否を問う、まさに○×式の問いかけが行なわれ、国民もまた議論せずに、いずれかを選択するという姿勢を強めています。大切なのは議論であって、○×をつけることではありませんが、訓練型教育を徹底してきた学校制度が見事に効果を出しているとしか思えません。
世の中の問題の答えは一つではありません。

議論をしない、あるいは国民に考える刺激と余裕を与えない国会は存在価値がないように思います。多数派がいつも押し切るのであれば、国費をかけて議員職をかかえる必要はありません。考えることも必要ないですから、最近は誰でも議員になれます。所属する政党の指示に従って投票すればいいだけです。だからテレビタレントの弁護士でも世間知らずの若者でも議員になれるのです。

その結果、学校はますます管理思考を強め、税金の無駄遣いが高まるように思います。生徒に接触する先生よりも、管理者のほうが多くなるのです。
また教科書検定は強化され、価値観の画一化はさらに進みそうです。
沖縄での集団自決問題が話題になっていますが、「事実(THE FACTS)」の創造もますます進むでしょう。学校は息苦しい空間になりそうです。
自衛隊のイラク派遣を2年間延長する改正イラク特措法についても、イラクの現実を見た上で、9条憲法との関係を明確にしてほしいです。
こうした動きに対して、それを疑問に思う政治家や知識人が出てこないのも寂しい話です。

日韓併合に対して批判の声を上げない明治日本の知識人を痛烈に批判した沖縄の伊波月城の言葉を最近、「軍縮問題会議」で読みました。
こう言っています。
「権力の前に頭を下げて、憐れむべきものや、敗北者や、失意の人々のために一滴の涙さえ注ぐことができない」。
知識人だけの問題ではないでしょう。
これほど情報が公開されている時代であれば、この批判はすべての国民が受けなければいけません。
私はとても恥ずかしい気がしました。
皆さんは大丈夫ですか。

■希望のない医療、感受性の乏しい医療の見直し(2007年6月23日)
ベルガモンの古代診療所の遺跡を見て人生を変えた人の話を先日書きましたが、思い出したのが、「病院で死ぬということ」(文春文庫)の著者、山崎章郎さんです。
外科医だった山崎医師は、いまホスピスの活動に取り組んでいますが、その転機となったのが、本で出会った次の文章だそうです。

患者がその生の終わりを住みなれた愛する環境で過ごすことを許されるならば患者のために環境を調整することはほとんどいらない。家族は彼をよく知っているから鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒をついでやるだろう。家で作ったスープの香りは、彼の食欲を刺激し、2さじか3さじ液体がのどを通るかもしれない。それは輸血よりも彼にとっては、はるかにうれしいことではないだろうか」

キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』に出てくる文章です。
私も『死ぬ瞬間』は読みましたが、この文章は覚えていません。
しかし山崎さんは、外科医の医師としての人生をやめてしまったのです。
ひとつの文章が、人の人生を変えることがあるのです。

「病院で死ぬということ」は読むのが辛い本です。
よほどの勇気がなければ読み続けられません。
しかし、そこからのメッセージは強烈です。

医師にとって何が一番大切かは私にはわかりませんが、患者の立場から言えば、感受性ではないかと思います。しかし医師の立場から言えば、感受性が強いと、医師は続けられないかもしれません。がんセンターに通いだしてから、そういう思いを強くしています。
感受性と医療体制。この2つを統合することで病院はきっと進化します。
そもそもホスピタルの原義は、そういう意味だったのですから、改めて原点に戻ることが大切なのかもしれません。

上記の本には、山崎さんが医師に成り立ての頃の体験が語られています。
末期がんの患者の延命に取り組む医師たちの姿です。

医師たちはだれ一人として、患者の病気が治っていくだろうなどとは思っていなかった。医師の使命と信じ込んでいる信念に基づいて、患者の延命に最大の努力を払っていたのだ。

この風景は、たぶん今もなお変わっていません。
いや、がんセンターのような病院では、この空気(がん=死)が病院全体を覆っているような気さえします。医師たちも、この呪縛に囚われているように思います。
私がいつも疲れてしまうのは、この文化に抗しているからです。
この文化を変えていくことが、がん対策の基本になければいけません。
延命と医療は全く別の行為ではないかと私は思っています。
希望のない医療、感受性の乏しい医療は、人の心と気を萎えさせます。

■偽牛ミンチ事件で嘘をついていたのは誰でしょうか(2007年6月24日)
また食品会社の偽装事件です。
ミートホープによる偽牛ミンチ問題は調べるほどに、そのひどさが明らかになってきます。
それにしても、なぜ同じような事件が繰り返されるのでしょうか。
昨今のような情報社会においては、必ずいつかわかってしまうことですし、わかった時の対処のしかたで会社の存続すら不可能になることもそろそろ経営者は学んでもいい頃です。
これまでのように行政や政治家が加担してくれる時代は終わったのです。
にもかかわらず、同じような繰り返しが続いています。

その理由として、「価格競争志向の経済システム」と「嘘を見逃すという文化」の2つを指摘したいと思います。それを変えていかない限り、いつになっても繰り返しは続くでしょう。

まず、価格競争志向の経済システム。
以前も書きましたが、原価とは無縁に価格が設定される仕組みを見直していく必要があります。価格は価値によって決めなければいけません。市場が決める場合には、その自由が自律的に、かつ情報共有が保障されていなければいけません。
消費者も意識を変えなければいけません。常識的に考えて、安すぎる商品はどこかに問題があるのです。
こうしたことの根底には、市場原理主義や自己責任原理があるように思います。
そのパラダイムを変えない限り、こうした事件は繰り返されるでしょう。
防止策として、内部告発や品質チェック機構もあるわけですが、そうしたものがほとんど機能していないことは、今回の事件でも明らかになりました。
いずれも制度の基本思想に間違いがあるのです。
設計者は、意図的にそうしたのかもしれませんが、市場原理主義のなかでは、防止策はあくまでもおまけのようなものです。

そして、嘘を見逃すという文化。
小泉前首相は嘘を奨励しましたが、そのせいか、日本は今や嘘の上につくられたような社会になってしまいました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message2.htm
毎日の新聞記事を読んでいると、いかに責任ある人が嘘をついているか、また嘘にかかる事件が多いか、嫌になるほどです。
日本では、いまや嘘をつくことは「恥」ではないのです。むしろ嘘をつくことが美徳にさえなっているのかもしれないと思いたくなるほどです。
沖縄の集団自決強要の話などは、政府が嘘を子どもたちに教えようということですし、先日の「有識者たち」の広告活動は「日本人は嘘つきだ」と世界に堂々と宣言しているわけです。
今回の事件でいえば、たぶん流通業者も購入者もその気になれば嘘は見つけたはずです。その分野で仕事をしている人であれば、見抜けるはずではないかと私は思います。
みんなうすうす感じていたのに、誰も声を上げなかったのだろうと思います。
そんな話はこの件に限らずよくある話です。

ミートホープ社の社長のやったことは決して許せることではありません。
しかし、例の耐震偽装事件もそうでしたが、嘘をついているのは彼だけではないのです。
もっと大きな嘘が、日本の社会全体を覆っているのです。
田中社長の嘘への怒りの、ほんの一部を自らの反省にも向けたいと私は思っています。

■嘘にかかるコストは、サラ金のように高利(2007年6月25日)
昨日の続きです。
日本の企業の多くは、なぜこうも「嘘」をつくのでしょうか。
嘘をつくコストの高さに、そろそろ気づいてもいいはずなのですが。
企業の広報活動や危機管理の基本は「フランクネス」です。
そしてそれこそが一番、組織およびそのメンバーにとってメリットがあるのです。

嘘は一度ついてしまうとどんどんと成長していきます。
嘘が嘘を呼び、その嘘を撤回することが難しくなり、逆に嘘を「真実」に化粧するために、さらなる嘘が必要になってきます。
そればかりではなく、その嘘の世界に周囲の関係者を引きずり込む力が出てきます。そして、そうした嘘の仲間に入ってしまうと短期的には「いい目」を味わうことができるのです。そして社会そのものも変質していきます。
しかし、嘘にかかるコストは、サラ金のように高利です。
時には松岡議員のように、自らの命でつぐなわなければならなくなります。

成熟社会におけるソーシャル・キャピタルは「信頼」だといわれます。
嘘が横行する社会では、信頼関係は育ちません。
そこで膨大な社会コストが発生します。
企業の広報活動は、私はそうした信頼関係を育てるためのものだと思っていますが、残念ながら日本の企業の広報戦略はそれとは逆なことが少なくありません。
私は、企業の広報問題のコンサルティングも仕事にしていますが、私のような発想はなかなか受け入れてはもらえません。
困ったものです。

ところで、信頼関係の不在が社会コストを発生させるということですが、社会コストを発生させるということは経済活動を発生させる、つまり市場を創出するということです。
ここに近代産業(経済)の出発点があります。
近代経済に埋め込まれている、こうした「ジレンマ」をどう止揚していくか、これがこれからの課題ではないかと思います。
政治経済的な発想から、生活経済的な発想へのパラダイムシフトです。
持続可能な発展が議論されていますが、このパラダイムシフトなくしては、持続可能性は実現できません。
経済パフォーマンスを評価するための現在の経済指標は根本から見直される必要があるように思います。

嘘をなくしていくための、もう一つの切り口は組織のパフォーマンスシフトです。
現在の多くの組織は、責任をあいまいにする仕組み、つまり嘘をついてもそれを見えなくしてしまう設計になっています。しかし逆に嘘を見つけやすくすることを目指した組織構造も可能です。
これは、組織間の構造や関係づくり、つまり社会構造原理にも当てはまります。
嘘のなすりあいは日本の社会の特長であり、問題が起こるとそれが見事に展開されますが、組織構造原理もまたパラダイムシフトすべき時代になっているように思います。

■ミートホープ従業員解雇と社会保険庁ボーナス自主返上(2007年6月26日)
事件を起こしたミートホープ社が全従業員の解雇を決めたそうです。
社会保険庁はボーナスの自主返上を職員に呼びかけました。
問題の性格は違いますが、責任の取らせ方として、どこか共通点がありそうです。
共通点はトップの勘違いと組織と個人の不条理な関係です。

ミートホープ社に関して言えば、私は従業員も全くとがめられない存在だとは思いません。既に内部告発した人もいますが、本気でやるのであればもっとやりようがあったでしょうし、現場の従業員も自分たちがやっていることがおかしいと気づいたはずです。それを受け入れていたのは、厳しい言い方ですが、共犯者のそしりは免れません。これだけ長く、また広範囲に不正をやっていたからには、おそらくみんなわかっていたはずです。
ですから、私は同社の従業員も責任を取るべきだと思います。
しかし、だからと言って、一方的に解雇というのはどこかおかしい。
完全にこの会社は田中社長の私物だったわけです。
会社とはいったい何なのかを考えさせられます。
同社にとって従業員は単なる労働力であり、従業員にとって会社はお金を稼ぐ仕組みでしかなかったのです。
これは極端な事例ですが、最近はこうした「企業」や「従業員」が増えてきているような気がします。

社会保険庁のボーナス返上に関連して、川崎前厚労相は「問題を知らなかったことの責任は取らざるを得ない」と話したそうですが、「知らなかったことの責任」は責任ある立場にいた人にはとても大きいです。しかし、この責任もまたすべての人に当てはまるでしょう。正確に言えば、「知ろうとしなかったこと」への責任ですが、ミートホープ者の従業員は、そのことをしっかりと認識すべきです。
いや、問題を起こしていない企業の従業員も、他山の石とすべきでしょう。
さらにいえば、私も含めて、この社会を生きるすべての人が「知ろうとしなかったこと」を恥じなければいけません。その上で、彼らを責めることができるはずです。

社会保険庁のボーナス返上に関しては、いまさら何をという気もします。
問題になりだしてから一体何年経過しているのかを考えれば、そんな話ではありません。この間、まじめに仕事をしていれば、ボーナス返上額とは桁違いの金銭的カバーが出来ていたはずです。問題が顕在化してからでも、おかしなことは山ほどあったはずです。それに末端の職員も含めて、やはり「知ろうとしなかったことの責任」は否定できません。
しかし、それはそれとして、やはり全員にボーナス自主返上を呼びかけるのは理解しにくい話です。強制減額するのであれば理解はできますが、トップが責任をとらない自主返上方式ではあまりに身勝手なことなのではないかと私は思います。制度的に強制はできないとしても、それは姿勢の問題です。
私が職員であれば、返上はせずに、同じ額をもっと効果的に活かすことを考えます。たとえば職員組合が有志の返上額を集めて、年金面で被害を受けている人を支援する仕組みを作ることはできないのでしょうか。電話で年金相談を受けるNPO活動ならできるような気もします。

いずれにしろ、この2つのニュースはただでさえ気分のよくない事件をさらに憂鬱なものにしてしまいました。
いずれも最高責任者が責任を取らずに、責任を分散したわけです。
組織は責任を分散しあいまいにする仕組みになりきってしまうのでしょうか。

■ミートホープと光市母子殺害事件弁護団(2007年6月27日)
この2つの事件はまさに今の時代の病根を示唆しているように思います。

ミートホープの田中社長が、食肉業界では同じようなことが他社でも行っていることを示唆する発言をしたと報道されていますが、そう考えてもおかしくないように思います。農水省も道庁も、ほかの事例を知っているような気もします。そうでなければ1年前の関係者の報告を拒否したり無視したりすることはないでしょう。
耐震偽装事件と同じく、これは「みんなでやった事件」かもしれません。
ミートホープ社は極端すぎただけかもしれません。
いま信頼を失っているのは、ミートホープ社だけではなく食肉加工業すべてです。
食肉加工業がもっと自分たちの仕事に誇りを持っていたら、自分たちでこのような事件を起こす企業を監視し事件を防止できたはずです。
いやそうしなければいけません。

同じことは弁護士にも言えます。
今日の光市母子殺害事件の公判の被告人質問の報道を見ていると、弁護士という資格への信頼感が大きく揺らぐような気がしました。
これは21人の弁護士たちの問題ではなく、弁護士という資格の信頼性、さらには裁判への信頼性の問題ではないかと思います。
この裁判はいったい何なのでしょうか。
そう思っている弁護士はいないのでしょうか。
弁護士や法曹界の仲間主義がもしあるとすれば、残念なことです。
自らが信頼性を維持できないような資格は、たとえ権力がお墨付きを与えても、決して本当の信頼性は保てないでしょう。
弁護士仲間から何の動きも出ないことが残念です。
日本の法曹界もまた、政治と同じく、正義を忘れてしまったように思います。

弁護士が事実を捏造することは犯罪です。
せっかく築きあげてきた裁判制度への冒涜は許されることではありません。
政治家やジャーナリストによる「事実の捏造」も許しがたいことではありますが。

■分かち合う文化の復活(2007年6月28日)
最近、いろいろな人が手づくり野菜を送ってくれます。
定年で会社や役所を引退した人たちの手づくり野菜は特に見事です。
鶏を飼って卵まで送ってくれる人もいます。
我が家でも近くの空き地で家庭農園をやっています。
私が毎朝、パンと一緒に食べるサラダ菜はプランターで育っているものです。
毎朝、自分でちぎってきますが、時に土がついていてじゃりじゃりします。
まあよく洗えばいいのですが、
近くのお宅に立派なびわの樹があります。
葉っぱをいつももらっているのですが、最近は実までもらってきます。そのお宅では食べないのです。我が家もこれまでびわはほとんど食べなかったのですが、そのお宅のびわの実はお店で買ってくるのと大違いで美味しいので、食べるようになりました。
最近はジャムも良く届きます。ゆずジャムやいちごジャムです。
そういえば、びわの樹のお宅には夏みかんもありますが、それをもらってきて、女房がジャムにして我が家とそのお宅とで食べています。
女房の友人がスイカをもらいました。夫婦2人では食べきれないので半分もってきてくれました。
果物も届きます。
高価なサクランボは我が家には縁遠いものですが、山形から年に一度、ドサッと送ってくれる人がいます。半分は近所や友人にお裾分けします。そうするとそれがまた違うものになって返ってきます。
つまらないことを書いていますが、みなさんのところでも、こうしたことが少しずつ増えているのではないかと思うのです。
食べ物だけではありません。
女房のところには実にさまざまな手づくり品が届きます。

こうした「お裾分け文化」「手づくり文化」が、昔は社会を育てていたのでしょうね。
私の両親の時代は、物が不足し、今よりはかなり貧しい時代でした。
しかし今よりもずっとお裾分けは多かったように思います。
自分が食べる量を少なくしてでも、周りの人にあげるという風習がありました。
人は貧しいほど、「分かち合うこと」を大切にするのかもしれません。
それは一種のセーフティネットでもあるのです。

みんなが、それぞれ得意なことを思い切りできるようになり、その成果をみんなで分かち合えることができれば、社会はもっと豊かになるでしょうね。
もしかしたら、お金がほとんどなくても暮らせる社会がまた戻ってくるかもしれません。
そんなことを最近よく考えます。

■緒方弁護士や田中社長の世界観(2007年6月29日)
朝鮮総連本部売買事件は緒方元公安調査庁長官による詐欺事件になり、緒方弁護士が逮捕されるという意外な展開になりました。
この事件に関しては、以前、「事の本質」と題して少し書きましたが、まさかの展開です。よりによって詐欺事件になるとは思ってもいませんでした。
詐欺事件といえば、「騙す人」と「騙される人」がいるわけですが、その構図がややこしくて、簡単には見えてきません。
しかし「肩書き」と「経歴」が大きな役割を果たしたことは明らかです。
緒方弁護士も被害者、などというつもりは全くありませんが、私が一番気になったのは、社会的職責に対する自覚の不在です。

それは昨日の光市母子殺害事件の弁護団の弁護士にも当てはまるわけですが、彼らは弁護士という社会的肩書きを私欲のために使っています。
表向きは「死刑制度廃止のため」といっていますし、多くの同業者もまた社会もそう思っているようですが、そんなはずはありません。
前にも書きましたが、もし彼らが「死刑制度廃止」を本当に目指しているのであれば、手段を間違っています。
そもそも今回の一連の発言を聞いていると、彼らにはその資格はないでしょう。誠実さが全く感じられません。
私欲のために制度議論をしてはいけません。最も恥ずべきことです。
小泉前首相が「自民党を壊す」と声高に叫んで国民の喝采を受け、日本の政治そのものへの信頼性やこれまで先人が積み重ねてきた政治体制を壊したのと同じ愚挙でしかないと私は思います。
裁判制度が愚弄され、信頼感は失墜しかねません。
あれ、また話がそれました。
戻します。

緒方弁護士の詐欺事件はなぜ発生したのか。
彼が意図的に詐欺を起こしたとは私には思えません。
たぶん結果的に詐欺に加担したのではないかと思います。
まあ、そんな「藪の中」を探っても意味がないのですが、私が感じたのは法曹界の人たちの世界の狭さです。これほどとは思っていませんでした。
彼らもまた、企業不祥事を起こす企業経営者、最近で言えば、ミートホープの田中社長のように、自分たちの小さな世界のなかでしか生きていないのではないかということです。いや小さな世界で生きていればこそ、その世界のトップになれたのかもしれません。
もし緒方さんの世界がもう少し広かったら、そしてもう少し見識を持っていたら、たとえば世間によくいる「おばさん」たちほどの世界の広さと見識をもっていたら、こんな馬鹿げた詐欺事件には巻き込まれなかったのではないかと思います。
私がいつも危惧するのは、人を裁く人たちが、そんな小さな世界で生きていていいのかということです。世界の広さが見識の深さを決めていきます。

意味がわからないとまたコメントされそうなので、少し補足します。
私は現場で汗している人たちの知恵が一番だと考えている人間です。それは体験からそう感じているのですが、世間の常識とは違うかもしれません。
また、いわゆる庶民の専業主婦の「おばさん」たちの生きている世界は、安倍首相よりも広い世界なのではないかと思っています。
何を根拠にそう考えるのかと質問されそうですが、これも体験からそう感じているだけです。
真実を素直に見る目がなければ、世界は広がりようがありません。
いわゆる有識者や知識人の世界の狭さには時々辟易します。
繰り返しますが、世界の狭さは見識の浅さにつながります。
ましてや自分の人生を生きていない人には、世界などないと等しいでしょう。
しかし、そういう人が世界を動かす時代になってきました。
世界そのものが「バーチャル」になってきたとしかいえません。

緒方弁護士、田中社長、安倍首相、安田弁護士。
みんな同じ種類の人たちに見えてきます。
私も、もしかしたらその系列の一人かもしれません。
だから見えるのでしょうか。
いやはや困ったものです。

■民営化が狂乱のごとく行われた時代(2007年6月30日)
議論することの出発点は、相手の意見を聴くことです。
それがなければ、議論ではなく主張でしかありません。
最近の国会は議論の場でなく、作業処理の場になってしまったようです。
そうであれば、高いコストをかけて、代議士を選ぶ必要はなく、人材派遣会社に議員を派遣してもらえばいいでしょう。国会議員もそろそろ派遣に切り替えたらいいように思います。
裁判もまたそうした方向に動き出していますし(裁判員制度はその一歩)、もはやすべては作業で処理できる時代になってきました。

というような「悪い冗談」は慎まなければいけませんが、最近の国会は一体何なのでしょうか。まじめさが感じられません。第一、私などの感覚では、ネクタイもせずに何が国会だと思います。ネクタイが良いわけではありませんが、もう少しけじめをつけてほしいです。クールビズには私は大反対なものですから。

まあそんなことよりも、問題は社会保険庁解体法が成立したというのには驚きを禁じえません。
これでまた問題の本質は見えなくなり、責任はあいまいになるわけです。
しかも「民営化」です。今度は誰が儲けるのでしょうか。
私は年金をもらう年齢ですが、まだ払うほうであれば、やはり払い続けるでしょうか。払うとしても、納得は難しいですね。
どうしてみんなおかしいと思わないのでしょうか。

民営化とは、何回も書いてきましたが、私有化のことです。
ミートホープのようなことが起こりかねない世界にゆだねるということです。

「マルチチュード」という本の中に、こんな記事がありました。
歴史のなかには、民営化が狂乱のごとく行われた時期もある。フランス革命後のルイ・フィリップからルイ・ボナパルトの治世にいたる長い時期がそうだし、ヨーロッパの福祉国家が危機に陥った後の1970年代や、ベルリンの壁崩壊以後、旧ソ連圏の官僚たちが資本主義的新興財閥として蘇った時代もそうだった。(下巻150頁)

そして後世の人は、このリストに日本の21世紀初頭の日本を加えるでしょう。
先日、テレビで銚子電鉄の紹介がありました。
あれは民営化ではなく、「共営化」です。
そろそろ官民の世界から「共の世界」へと発想を変えるべきではないかと思います。

■言葉狩りの時代(2007年7月1日)
「原爆投下はしょうがない」。
久間防衛相の原爆をめぐる発言が問題になっています。
野党にとっては格好な題材でしょうし、マスコミも話題にしやすい事件です。
私は「言葉」にはかなりこだわるタイプですが、この件に関してはあまり気になりません。たとえ防衛相の発言であっても、です。
むしろ最近の「言葉狩り」の風潮に嫌気を感じています。

このブログで、弁護士の発言を問題にしているではないか、それは言葉狩りではないのか、とお叱りを受けそうですが、私の中では全く別の話なのです。
勝手な言い訳と思われるかもしれませんが。

発言には必ず「意図」と「原因」があります。
問題にすべきは、意図と原因(発言を引き起こした実体)であって、単なる表現された言葉ではないはずです。
言葉は手段であり結果なのです。
久間さんの発言は、確かに適切ではありませんが、ある文脈の中で私ももしかしたら言葉に出してしまうかもしれない言い回しです。
繰り返しますが、原爆を認めるとか、戦争終結の手段として正当化しようというような意味では全くありません。
歴史の状況の中で起こってしまったこと、という意味で「しょうがない」という考え方を完全には否定できないということです。
久間さんに、原爆投下を肯定する意図はなかったと思いますし、もしかしたら表現を間違えたのかもしれません。表現の間違いはだれにもあることです。

内山弁護団の発言、つまり確信的な発言とは全く違います。
いや、柳沢大臣の「産む機械」とも次元が違う話です。

現代はポリミッシュな時代、抗議が横行する時代です。
私のこのブログも、もしかしたら、そうしたポリミッシュなメッセージと受け取られているかもしれません。
書き手である私としては、決してそういう意図ではないのですが、最近の内容はそう思われても仕方がないかもしれません。
しかし、単なる言葉狩りだけはしていないつもりです。

国会の審議を見ていても、言葉狩りやら言葉論争が多いのにがっかりします。
中身の議論ではなく、言葉をあげつらう応酬が少なくないのは、抗議者にも良い感じをもてません。民主党の支持が増えないのは、それが一因ではないかとも思います。
それにしても、昨今は言葉狩りが多すぎます。
そんなことよりも、もっと議論してほしいことがたくさんあります。
でも言葉だけの議論は、誰でも参加できるせいか、マスコミは大好きのようです。
それに乗せられないようにしたいものです。
目を向けておくべきことは何なのか。
それをしっかりと持っていたいと思います。

■新しいM&Aの時代(2007年7月2日)
今年の株主総会の時期も、大きな異変はなく終わったようです。
M&A時代の到来に大きな不安を持っている私としては、まあホッとしました。
昨今のファンド主導のM&A(企業の合併・買収)の広がりは、私の企業観、経営観には全く整合しないのです。
昨今の企業価値論やコーポレートガバナンス論にも大きな違和感があります。

ところが、これからはまさに「M&Aの時代」でなければいけないと言う人がいます。
一条真也さんです。
私が敬愛する企業経営者です。
一条さんの新著「龍馬とカエサル」のあとがきにこう書いています。

私は一人の経営者として、ミッション(使命)とアンビション(志)の二つを真の「M&A」として大切にしていきたいと思う。(中略)
これからは「ハード」よりも「ハート」、つまりその会社の思いや理念を見て、顧客が選別する時代に入ると確信している。そのときに、最大の武器となり資産となるものこそ、「M&A」なのである。

使命感(Mission)と志(Ambition)。
まさに企業の原点だったはずです。
昨今の企業がさまざまな問題を起こしているのは、その「M&A」が見失われてしまったからです。
企業の病理を正すのは、それを構成している経営者や社員です。まずは経営者や社員が「心」を取り戻すことです。初心に戻って、「M&A」を思い出すことです。
ミートホープの田中社長も創業の頃の思いを思い出してほしいです。
最初から「悪事」を働こうなどと思う人はいないはずです。
どこかで死刑判決を受けるほどの悪事にかかわらざるを得ない現実が多すぎるのが今の日本社会かもしれません。
それを正すことから、安田弁護士は構想すべきだったのではないかと思います。
最近、このブログで書いている事件は、すべて繋がっています。
小手先で「対処」するようなことの恐ろしさに、そろそろ気がつきたいと思います。

一条さんの「龍馬とカエサル」の紹介は私のホームページに載せました。
よかったら読んでください。
とても示唆に富む、読みやすい本です。

■儲け型経済から稼ぎ型経済へ(2007年7月3日)
株主総会シーズンも大きな波乱なく終わりました。
企業業績も好調のようです。
しかし、企業業績好調のわりには、社会はそれを実感できずにいるようです。

守田志郎さんは、私が学んだ数少ない経済学者です。
いや経済学者ではなかったかもしれませんが、私が若い頃に経済の刺激を受けたのは、守田さんと玉城哲さんです。
経済学が嫌いになったのは、大学で玉野井芳郎さんの経済学を受講したためです。
私には理解できなかったのです。
それから10年、この2人の著作に出会った時には、それこそ目からうろこでした。生きた経済学に触れた気分でした。ちょっと経済学アレルギーがなくなりました。
そしてその後、経済学に興味を持つ契機になったのは、また玉野井さんでした。
沖縄大学に移ってからの玉野井さんの著作は、実に刺激的でした。
私はそこで「コモンズ」の発想を学びました。

まあ、そんな思い出はともかく、今日、庭仕事をしながら、なぜか守田さんの言葉を思い出しました。
守田さんは、著書の「農法」(農山漁村文化協会)でこう書いています。

農業は稼ぐ業であっても、儲ける業ではない。

守田さんは「稼ぐ」と「儲ける」とを峻別しています。
稼ぐとは「家業に精出すこと。励み働くこと」。
それに対して儲けるとは「ひかえを置くこと、利益を得ること」だといいます。
農業では「余剰」を残しておくことはできないのです。
たとえば、先週、わが家にたくさんのトマトが届きました。
3か所から手づくりトマトが届いたのですが、我が家だけでは食べきれません。
しかし、保存は難しいです。腐らせるのが関の山です。
なくなったころに届けばいいのですが、自然に左右される野菜はだいたい同時期に収穫になります。ですから当然、同じ時期に重なってしまうのです。

ではどうするか。
お裾分けです。
農家の人たちはお裾分けが大好きです。
それはまた自らのセーフティネットでもありました。
そして、そこにはコモンズ型の経済理念が感じられます。
稼ぎではなく儲け中心の最近の経済とは全く違う枠組みが感じられます。

守田さんは、さらにこう書いています。
「稼ぐ」と「儲ける」という言葉は、反対のことをいいあらわしている、とさえいえる。「稼ぐ」は、「家業に精を出す」ということで、この言葉の中には、物を右から左へ動かしただけでの利益とか、人を働かせて得をするとかいった儲けの精神はひとかけらもない。

もっとも、百姓は「農業」とは別に「稼ぎ仕事」もしていました。
しかし、そうした稼ぎ仕事(「余稼ぎ」という言葉もありましたが)も、まさに余剰のためではなく、生活のためでした。
つまり、「稼ぎ」は自分が汗をかき、「儲け」は他人が汗をかくのです。

長々と書きましたが、最近の社会はどうでしょうか。
稼ぐ人よりも儲ける人が増えてしまいました。
今朝の新聞に政治家などの所得一覧が出ていましたが、彼らは稼いでいるのでしょうか。儲けているのでしょうか。

業績を上げている会社はどうでしょうか。
汗して働く人たちがしっかりと報われる経済システムが出来ないものでしょうか。
そうすれば格差社会などは解決するでしょう。
格差社会は、儲けることを基本とした経済社会の必然的な結果ではないかと思います。
儲け型経済から稼ぎ型経済へ、と戻っていくのはどうでしょうか。
その先にはきっと「働き型経済」があり、さらには「暮らし型経済」があるように思います。
経済の原点に戻って、パラダイムシフトすべき時期に来ています。

■死に向かう医療、生を目指す医療(2007年7月4日)
今日は暴論です。
まあ、いつも暴論かもしれませんが。

女房ががんになったために、がんを通して医療の問題を考えることが多いのですが、近代医学のありように関してもいろいろと考える契機になりました。
がんという病気が特殊なのかもしれませんが、特殊なものにこそ、本質が現出します。

がんの場合、医師と話していて感ずるのは「がん=死の病」という呪縛です。
その根底には、近代医学のもつ病気観があります。
医師はがんが治るとは考えていないことが伝わってきます。
昨日、緩和医療の医師と話したのですが、医師は病状がだんだん悪くなるという前提で話をします。つまり「死に向かう発想」で取り組んでいるわけです。
私たちのように、治ることを前提として立ち向かっている者には、とても違和感があります。
最近はそうした医師の姿勢に抗うのはやめることにしています。
近代医学というものの本質が理解できれば、それもまた受け入れることが大切だという考えにやっと私もたどり着きました。

ちなみに、「病気」という呼び方もそうですが、緩和医療(ケア)という表現にも、そうした発想の象徴的な現われです。

人間の人生の大半は「死」に向かっての歩みだという考えもあります。
いやそういう考えがむしろ普通かもしれません。
10歳を超えたら、生物的には滅びに向かいだすともいわれます。
しかし、それは一つの価値観に基づく評価でしかありません。
発達心理学の理論では、人間は死ぬまで発達するという捉え方もあります。

この4年、女房のがんを通して感ずることは、パスツール以来の近代医学は、結局は「死に向かう医療」の呪縛から抜け出ていないのではないかということです。
希望を根底におくことのない医療は、病気を治療しても人を治癒することはできません。
余命3か月などという、いかにも近代科学的らしい発想がでてくるのも、そのせいではないかと思います。

そうした「死に向かう医療」に対して、「生を目指す医療」があります。
私も最近知ったのですが、サイモントン療法というがんの心理療法があります。
その瞑想のためのCDがあるのですが、そのナレーションに次のような呼びかけがあります。
がん細胞は弱くて不安定な、混乱した細胞です。
がん細胞は私たちを攻撃したりしてはいません。
白血球は、常にがん細胞に攻撃をして、常に勝ちます。
あなたの体が喜びに導かれ、本質に気づき、ごく普通の働きをはたしはじめたとき、
あなたの白血球があなたの弱いがん細胞に働きかけて、正しい役割をはたします。
そして、そのがん細胞をどんどん取り除いていきます。

これはナレーションの一部ですが、そこには生に向けての希望を感じさせます。
こんなナレーションも出てきます。
病気が、何かを私たちに伝えようとしていることを思い出してください。
常に病気というものは、思いやりあるメッセージを発しています。

ヒポクラテスの医療とパスツール以来の医療とでは、何が変わったのでしょうか。
確かに病気を治す点では、大きな前進がありました。
しかし肝心の生命への意識やケアは、むしろ後退しているのかもしれません。

最近、医療訴訟が増えています。
その原因は、医療パラダイムに原因があるような気がしています。
病気は、医師が治したり諦めたりするものではありません。
治すのも諦めるのも、患者自身です。
病気に立ち向かっている患者にとって大切なのは、「治療」ではなく「治癒」なのです。

医師と患者のコミュニケーションではなく、医師と患者のコラボレーションが必要なのではないかと思いますが、近代医学のパラダイムはそれを拒んでいるように思えてなりません。

■産業のジレンマと医療のジレンマ(2007年7月5日)
昨日の記事はいささか舌足らずで、何を言いたかったのかあいまいなので、少し補足します。
死に向かう医療のパラダイムは、近代の産業パラダイムと同じで、結局はそのシステム自体が「死に向かう」ことになるのではないかというのが、言いたかったことなのです。
産業のジレンマに関しては、これまでも何回か書きました。
要は、現在の産業は、問題解決(社会ニーズ)のために存在しますが、ドラッカーが早い時期に指摘したように、顧客創造が目的になり、結果的に問題解決ではなく、問題創出(市場創出)というジレンマに陥る構造になっています。
生活に不安があるほど生命保険は売れ、自動車事故が多いほど自動車は売れます。
商品陳腐化戦略は成長戦略、競争戦略の基本の一つです。
その結果、持続可能性が問題にされるほど、社会は市場として浪費されかねません。
こうしたことはほんの一例でしかありません。
近代産業は、その内部に大きなジレンマをかかえています。
産業によって私たちは幸せや豊かさを得たということ自体、実はその産業のジレンマに内在されているわなの一つでしかありません。
産業は自己の内部に市場を拡大する手段を持っています。
環境問題に関して、昔少しだけこのことを書いたことがあります。
静脈産業論がまことしやかに語られていた頃のことです。
CWSコモンズに掲載しています。
そうした産業のパラダイム、さらには経済のパラダイムを変える必要があると、私は思っています。

ところで、医療ですが、現在の医療もまた、こうした近代の産業パラダイムに引きずり込まれています。医療費の高騰は必然的な結果です。それを回避するためには、一種の民営化発想がとられます。つまり、負担能力のない人は健康保険の対象から外し、医療制度は市場主義に向かい、医療の産業化が進みます。医薬産業や医療機器産業の市場拡大により、医療産業へと医療の世界は民営化していきます。
医療の基軸が「人間の暮らし」から「産業」へと移行してきているのです。
産業としての医療は、病人が顧客になります。
病人が病気を維持している限り、市場は確保されます。
このあたりは、すでにイバン・イリイチをはじめとしてさまざまな指摘がありますが、身近なことを考えても納得できるのではないかと思います。
たとえば、私の例で言えば、昔は1回で終わった歯医者がいまは半年かかります。
まあその分、徹底的に直してくれるので、私自身も納得はしていますが、これは患者にも見える事例です。
しかし、たとえばメンタルケアの場合や成人病などはどうでしょうか。
いささか大雑把過ぎる説明ですが、医者は自分で患者を作れるのです。
顧客を創出することが経営と考えている経営者と同じです。
かなり誤解されそうですが、そうした発想が今の社会を覆っています。

そのパラダイムを転換するにはどうしたらいいか。
生を目指す医療に発想を切り替えていくことではないかと、私は思います。
治療から治癒へと変えていくわけです。
それが昨日言いたかったことなのですが、補足になったでしょうか。
あんまりなっていないかもしれませんね。

最近、ナラティブという発想が医療の世界に入り込んできました。
まさにコラボレーション医療ですが、そこに大きな期待を感じています。

また舌足らずの書き込みになりましたが、昨夜、ベッドに入ってから、今日書いたことの意味は何だったのか自分で反芻してみて気になってしまったので、今朝早起きをして補足を書かせてもらいました。

ちなみに、福祉の世界も。教育の世界もまた、同じ動きにあります。

■今度の選挙は年金選挙でしょうか(2007年7月6日)
国会も閉会し、いよいよ選挙です。
7月の参議院選挙は「年金選挙」と言われているようです。
それでいいのでしょうか。
いま問われているのは、年金などではないように思います。
もっと大切な問題があるはずです。
いうまでもなく「憲法9条」の問題です。
私たちが再び戦争を行うようになるかどうかの瀬戸際なのです。

問題は単に軍備の問題ではありません。
国家としてのビジョンであり、国家の形の問題です。
憲法9条があってさえも、政府はそれをないがしろにして、イラク派兵を決め、軍備を増強してきました。
違憲審査など気にもしてこなかったわけですし、司法さえも取り込みにほぼ成功しているように思います。
ナチス前夜などとは言いませんが、どこか似ています。
映画「日本の青空」やNHKの番組などによって、現在の憲法の成立過程の実態もかなり情報公開されだしましたが、そうした動きに棹差すように、憲法を変える動きは強まっています。
今のままだと、前回の戦争での教訓は失われてしまいかねませんし、日本のアイデンティティもまた混乱しかねません。

久間発言は波紋を広げていますが、それが本当の問題(戦争放棄理念の危機)を隠すことになることを危惧します。まさに軍備派には思う壺です。
被爆者やその遺族の方々の怒りはわかりますが、目の向けどころが違うように思います。
その結果、むしろ本当の問題を見えなくしてしまい、気が付いたら自らもまた原爆に加担している国家になりかねません。
今の米国のように、原爆投下の正当性を言い出す国に向かわないとはいえません。
久間発言が瑣末なこととは言いませんが、問題はむしろ日本という国家が戦争のできる国へと移行しようとしていることであり、それをもっと問題視すべきでしょう。
いま議論すべきは、一人の人間の発言ではなく、政府の動きではないかと思います。
9条がなくなった時に、「しょうがない」などと振り返っても、それこそしょうがないのです。
年金などは、それに比べたら瑣末な問題に思えてなりません。
久間発言もこんなに大きな話題にすべき問題だとはどうしても思えません。
私の感覚がおかしいのでしょうか。

■国民をわくわくさせる政治家はいないのでしょうか(2007年7月4日)
これほど自民党の人気が低下しているのに、民主党の人気が盛り上がりません。
いや存在感すらありません。
自民党と民主党は双子の兄弟ですから、まあ仕方がないのかもしれませんが、この大事な時期に戦略が見えてきません。
それだけではありません。
新党日本の解党騒ぎや国民新党の日和見言動など、いずれもしっかりしていません。
政党の時代はもうとっくに終わっていると私は思ってはいますが、それにしても情けない状況です。
自民党は与党としてのリーダーシップを発揮できていませんが、民主党も野党としてのリーダーシップを発揮できていません。
いずれの側も、わくわくさせるメッセージが見えないからです。

いま政治への関心は決して高くはありません。
年金問題への関心は高いかもしれませんが、所詮は行政課題です。
政治への関心を高めるのは、問題解決ではなく社会創造的なビジョンや課題です。
日本はどこに向かうのかのビジョンでいえば、いまは「戦争が出来る国家」へというビジョンくらいでしょうか。それに代わるビジョンは何も見えません。

憲法を変えるというのも、憲法を護るというのも、国民をわくわくはさせません。
そもそも「憲法を変える」などというのは同床異夢の中身のいい加減な命題でしかありませんし、「憲法を護る」もこれまでを振りかえると虚しさがあります。
最近の政治家は「変える」「壊す」「改革する」「護る」などという手段用語しか語りません。積極的な実体概念が語られないことが多いのです。
ビジョンがないか知識がないかのいずれかの結果ではないかと思いますが、もっと国民をわくわくさせるようなメッセージはないものでしょうか。
これは国政に限りません。
地方政治に関しても、住民をわくわくさせるようなメッセージを打ち出す人がもっといてもいいように思います。

いま、私たちが直面している課題は何なのでしょうか。
国民がわくわくするような、そんなビジョンを打ち出す政治家はいないのでしょうか。
「ないものねだり」かも知れませんが、そう思います。
政治とは一体なんなのでしょうか。もう一度、原点にかえることも必要かもしれません。
政治家が政治を壊してしまったのではないかという気がしています。

■地方ごと、人ごとに時間があります(2007年7月7日)
久しぶりに時間の話です。
世界標準時なるものがありますが、これが世界の画一化の第一歩だったのかもしれません。
人間のリズムの数倍の速さで、物理的な距離を移動できる自動車や飛行機によって、あるいは瞬時につながる通信手段の実現によって、世界各地の時間はつながってしまいました。
そして自然に合わせて生きていた私たちは、時間に合わせて生きなければいけなくなってしまいました。
私は基本的に時計を持たずに暮らしていますが、時間から自由になったわけではありません。相変わらず時間に合わせながら暮らしています。
意識の上では文化の多様性が認められる一方で、世界標準時をベースにした画一的な時間を踏まえたライフスタイルが世界を席巻しているように思います。
エンデの寓話「モモ」を持ち出すこともないほどに、表情のない機械基準の時間は私たちの文化を画一化しているような気がします。
時間で管理されるということは多様な文化の存続には大きな障害になるでしょう。
どんな場所にいても、時間が来ると聖地を向いて礼拝するイスラムの人たちが異様に感じられることは、そのことの証左です。
日本国内においても、地域時間があるように思います。
私個人の体験においても、東京にいる時と地方に出かけた時とでは、明らかに時間の流れ方が違います。山手線の駅だと5分も電車が来ないとイライラしますが、ローカル線の駅ならば30分待たされてもなんとも感じません。
地方で会議などをやると、定刻になっても人が集まらないことがあります。
以前は、「定刻より30分遅れるのが**時間」(**にはその地域の名前が入ります)などと主催者が話すこともよくありました。最初は違和感がありましたが、それはそれで合理的だなと私は奇妙に納得していましたが、最近は残念ながらみんな時計通りに集まることが多くなってしまいました。
暮らしに時間を合わせるのではなく、時間に暮らしを合わせるようになったのです。
文化は退屈になるはずです。
時間意識は大きなソーシャル・キャピタルでもあります。
時間が共有化されていることが無駄をなくし、信頼のためのコストを削減しますから、論理的にはみんな暮らしやすくなるはずなのです。
しかし、何となく、それでいいのだろうかという気もします。

言葉は文化の本質です。
言葉をそろえることはコミュニケーション効率を高めましたが、そこで抜け落ちた文化や知恵はたくさんあるでしょう。同じことがきっと時間についてもいえるはずです。

よく時間だけはすべての人に平等に与えられているといわれます。
私は、全くそうは思いません。
機械時間はそうかもしれませんが、時間の長さは、実は人それぞれです。
介護や看護に取り組まれている方は、きっとそれを実感しているはずです。
それを無理やり、単一の管理時間に合わせる社会を作った結果が、いまさまざまなひずみを起こしているのかもしれません。
それぞれが自分の時間で暮らしていける社会。
自分たちの暮らしにあった時間をもてる地域社会。
時間というもののあり方を改めて考えてみることも大切なことではないかと思います。

■赤城事務所経費事件で気になること(2007年7月9日)
政治の世界は、相変わらずやりきれない報道が多く、選挙への関心も失いそうになる毎日です。
書いても愚痴にしかならないのですが、やはり書きたくなりました。

今日、残念に思ったのは赤城事務所経費事件に関する赤城農相の言動です。
毎日新聞のネットサイトには、こう書いてあります。

赤城農相は8日夜、記者団に「(父親の7日の発言は)単純な誤解。長年、後援会の方に集まってもらい、いろいろな会合を行ってきた」と述べた。さらに野党が要求している経費の詳細な公表については、「法律で公表する必要がないのであれば、まさにその法律の趣旨の通りに運用すべきだ」と改めて拒否した。

顕在化している問題は、私にはあまり興味がありません。
そんなことみんなやっているでしょうに、と白々しさを感じてしまうわけです。
それにもっと大きなところでおかしなことをやっているでしょうから、この程度の額などは私には瑣末に思えます。
しかし、今回の事件は3つのことが気になります。

第1は、赤城農相は父親に嘘を強要しているのではないかという疑念です。
テレビで2回観た父親は善人そのものに見えました。最初は事務所などには使っていないと言い切り、発言撤回した後も、息子から事務所経費をとるバカはいないでしょう、と明言しています。まさに善人の顔です。顔で評価してはいけませんが。
その父親に発言撤回させる息子に哀しさを感じました。

第2は、「法律で公表する必要がないのであれば、まさにその法律の趣旨の通りに運用すべきだ」という赤城農相の発言です。松岡農相と同じ論理です。正義や公正に関する自分の考えのないことを表明しているわけです。つまり主体性がないということです。主体性がないことが最近は閣僚になる条件かもしれませんが、日本の学校教育の成果をまざまざと感じます。優等生の悲しさを感じました。

そして第3は、その法律をつい先ごろ、強行採決した人物が彼を任命していたことです。ザル法とさえ言われた法が、まさにザル法であることを自分たちで証明したわけです。真摯な議論をせずに、強行採決するということの意味が多くの人に伝わるといいのですが、それをアピールする技も力も意志も、今の野党にはないでしょうから、これはあまり見えてこないいかもしれません。
両院の議長の国会終了のメッセージの意味を改めて思い出しました。
強行採決とは何なのかは、もっとしっかりと認識すべきではないかと思いますが、あまり誰も議論をしません。この事例をもとに、強行採決がどれほどの「犯罪」なのかを、どこかのマスコミが問題にしてくれないものでしょうか。
法律で禁じられていないから、悪いことではないと、みんな思っているのでしょうか。
私は「犯罪」以外の何ものでもないと思っています。
それをゆるした野党の責任も含めて、です。

■嫌いな民主党への提案(2007年7月10日)
私は民主党が嫌いです。
組織としてのアイデンティティが不在なのとビジョンが語れないからです。与党は守りでいいのですが、野党はビジョンを語れなければ、単なる反対政党になってしまいます。反対だけでは、新たな歴史は切り開けません。よほど現状がひどくなければ多くの人を吸引できないでしょう。
民主党が嫌いな、もう一つの理由は、野党としてのリーダーシップが意識されていないことです。党内では過ぎるほどの「大同小異」を受け入れながら、党外に対しては「連帯」の姿勢が感じられないからです。そこに歴史観の不在を感じます。

言うまでもありませんが、自民党はもっと嫌いです。犯罪者集団ではないかと思うほどに嫌いです。
もっとも個人的には共感できる人もいます。しかし自民党は好きにはなれません。聞いただけで虫唾が走ります。
ちなみに民主党には知人友人が数名います。それぞれに思いもある、良い人です。しかし民主党は好きではありません。

その二大政党が、今度の参議院選挙で覇を競うわけです。
前にも書きましたが、この2党は私には双子にしか見えませんから、政策ではなく権力で戦うとしか見えません。
いずれが勝つかは、私には興味がありませんが、国会や国民を無視して強行採決を繰り返しながら、格差拡大を進めている自民党政府には政権の座から降りてもらいたいと思っています。
このままだと、場合によっては、憲法さえも強行採決的手法で変えてしまいかねません。小泉内閣以来、自民党政府はクーデター内閣です。
ですから、ここは嫌いな民主党に勝ってもらいたいと思っています。

しかし、その民主党の掲げたマニフェストにはこれまでの延長でのメッセージしか感じません。しかも網羅的です。
これでは国民は吸引できないのではないか。
もっと具体的で単純明快なメッセージを出すべきではないでしょうか。
たとえば、「雇用を守り、格差を正す」とありますが、この「格差」是正だけに焦点を絞って、格差が縮小され、しかも活力のある社会を目指して、「格差を壊していく」というような呼びかけにしたらどうでしょうか。そのなかに具体的実践的なプログラムを打ち出せばいいのです。年金や児童手当などは行政の言葉であって、政治の言葉ではないように思います。年金不安や少子化の根底にある問題に焦点を当てるのが政治です。
あるいは、憲法問題に焦点を当てて、「戦争をしないで成功した歴史をまもっていく」でもいいでしょう。憲法を変えるかどうかではなく、戦争をするかどうかに焦点を絞れば、これも実際に戦争にやらされる若者たちを観方に出来るでしょう。
もっといえば、憲法9条を変えようとしている人たちをイラクに派兵するというスローガンはどうでしょうか。小泉元首相と安倍前首相にはイラクの前線に行ってもらうという公約はどうでしょうか。いや、そうなったら小澤さんも岡田さんもイラクに行かないといけなくなりますね。この提案は撤回です、はい。
いずれにしろ、もう少し魅力的な呼びかけメッセージを考えないと民主党への投票は増えないのではないかと、とても不安です。

■生活保護ってなんでしょうか(2007年7月11日)
今日の朝日新聞の夕刊の記事です。

北九州市小倉北区の独り暮らしの男性(52)が自宅で亡くなり、死後約1カ月たったとみられる状態で10日に見つかった。男性は昨年末から一時、生活保護を受けていたが、4月に「受給廃止」となっていた。市によると、福祉事務所の勧めで男性が「働きます」と受給の辞退届を出した。だが、男性が残していた日記には、そうした対応への不満がつづられ、6月上旬の日付で「おにぎり食べたい」などと空腹や窮状を訴える言葉も残されていたという。

痛みに耐えた結果でしょうか。
この人はきっと「おにぎりを食べる」よりも働きたかったでしょうね。

同市では最近、毎年、こうした悲劇が起こっています。
いやこれは氷山の一角でしかないように思います。日本中に広がりだしている状況かもしれません。
みなさんにとっては、無縁の話でしょうか。
私には決して無縁の話ではありません。
私の周辺でも、最近はこれに繋がるようなことが少なからず起こっています。
いや、私自身も、いつ同じようなことにならないかとも限りません。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、不幸は突然に来るものです。
想像力の問題かもしれません。

北九州市は福祉分野では先進的な都市です。
北九州市が福祉の面でモデル的な展開をしたのは、それだけの事情があったからです。
数年前に知り合った北九州市役所の生活保護の仕事をしてきた職員から、その大変さを聞かせてもらいました。とても感激しました。現場での汗の多さが福祉行政を支えていることを実感しました。
その翌日、その課長がわざわざ1冊の本を持ってきてくれました。
「軌跡 北九州市・生活保護の30年」という本です。
帰りの飛行機の中で読ませてもらいました。
生活保護というのは、時代との闘いなのだなと知りました。
しかし私には縁遠い話に感じていました。

ところがです。
3年ほど前から、そうした話が決して縁遠い話ではない状況になってきました。
具体的には書きませんが、生活保護の相談に行ったらどうかというアドバイスをすることが立て続けに起こりだしているのです。
しかし実際に行政や社会福祉協議会に相談に行っても、なかなか相談には乗ってもらえないようなのです。
その現実が少しずつ見えてきたのです。

格差社会論も盛んですが、こうした現場の実態はもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
格差は活性化の要素であり結果かもしれませんが、困った人を救えないような社会が住みやすいはずはありません。
いまどき「平等」は流行らないようですが、行き過ぎた格差は活性化さえも損なうはずです。いや、社会そのものの安定性や効率にも関わってきます。そうしたことから無縁な人はいないはずです。その結果、絶対権力を持っていた大統領ですら殺されることもあるのです。

年金を心配するのもいいですが、セーフティネットにこそ関心を高めていかねばいけません。それこそが社会の基本なのですから。

改めて宮沢賢治の「みんな幸せにならないと自分も幸せにならない社会」を目指すか、「だれかの不幸せの上に自分の幸せを築く社会」を目指すか、を考える時期ではないかと思います。

あなたはどちらを望みますか。
そろそろ生活保護の考えも根本から変えるべき時期にきていると思います。

■生活保護と格差社会(2007年7月12日)
昨日、生活保護について書いたら、「生活保護の考えを根本から変えるべき時期にきている」というのはどういうことかと質問されました。
生活困窮者を保護すると言う発想を見直し、生活困窮者が増えていく社会のあり方を問い直す必要があるという意味だったのですが、うまく伝わらなかったかもしれません。
「保護」という姿勢に、私は大きな違和感があるのです。

ちなみに生活保護世帯数ですが、この10年、増加傾向にあります。このこと自体。いまの社会のあり方が間違っていることの証左ではないかと思います。
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2950.html
生活保護世帯が増えていることと格差社会とはどうつながるのでしょうか。

貧しさには、絶対的な貧しさと相対的な貧しさがあります。
絶対的な貧しさとは、生存が維持できない状況のことです。
人はすべて繋がっているという発想に立てば、それは当事者の問題ではなく、社会の問題です。
相対的な貧しさは、実はこれとは全く違う話です。
生活は維持できるが、隣人の暮らしぶりなどに比較すると貧しさを感じてしまうというものです。
絶対的貧しさは「存在するもの」ですが、これは「つくられた貧しさ」です。
近代の産業は、こうした「つくられた貧しさ」に、その発展の源泉を置いています。
「顧客の創造」とは、そういうことです。
だからこそ、それとは別の視点で貧しさの問題に取り組むことが必要になります。
それが政治の役割です。

一見貧しそうに見えても、本人はむしろ豊かさを感じている場合もあります。
開発途上国の社会や、日本でもたとえば長崎県の離島での暮らしは、所得額は低くても一概に貧しいとはいえません。そうした人たちに、貧困感を植え付け、市場を拡大してきたのが、この数世紀の産業発展だったといってもいいでしょう。テレビは、そうした面で大きな働きをしました。いや、今もしています。

経済発展は貧富の差をなくすことではなく、貧困を利益がとれるかたちに作り直し、結果として貧富の差を拡大することだと言ったのは、イバン・イリイチです。
いわゆる「貧困の近代化」論ですが、おそらく近代産業は絶対的貧困層を、少なくとも数の上では増やしてきたはずです。
これは多くの人の常識には合わないかもしれません。

私たちは経済の発展を富の増加と考えがちです。
しかし、それは同時に、富の偏在を加速させることでもあります。
問題は、誰の富を増加させるかです。そして、その半面で誰の富を奪うかも視野にいれていかねばなりません。
南からの収奪が北を豊かにし、同じ国内でも富の偏在を進めることで、経済活動は活発になり、成長が実現します。
ブッシュ政権や安倍政権は今でも声高らかに「成長」を呼びかけます。
しかし、そうした成長の結果、貧しさもまた増幅しています。
格差がますます大きなものとなっているわけです。

その格差拡大は2つの種類の問題を起こします。
一つは相対的な貧困層の増大です。
しかし、実はもう一つ、絶対的貧困層もまた増大させていることを見落としてはなりません。
相対的貧困層は「清貧」な生き方になることで豊かさを獲得できるかもしれません。
しかし、絶対的貧困層はどうすればいいのか。現実に「ごはんが食べられなくなる」のです。
人のつながりが失われてしまった社会で、健康を害してしまったら、途方にくれてしまいます。その時に、果たして生活保護行政は支えてくれるのでしょうか。たぶん難しいでしょう。その証拠は新聞記事からいくらでも見つけられます。在留孤児だった人が日本に来て、みんながみんな暮らしがよくなったわけではありません。
今回の事例もそうですが、生活保護を受けることはまじめに生きてきた人にとっては、とても難しいことなのです。そういう人には、行政職員もあまり関わりたくないのです。財政状況も厳しいですから。
しかし考えてみてください。
難病の子どもの米国での手術のために億単位のお金が集まるほど「豊かな社会」です。同じ地域に住む生活困窮者を放置しておかねばならないほど、全体としては絶対的貧困状況にはないのです。つまり社会の設計のどこかに問題があるのです。
正確に言えば、その「問題」に依存して豊かさを享受している人がいるということです。
格差社会の問題は、異質の2つの問題が混在しています。
少なくとも、生活保護に繋がるような状況はもっと真剣に考えなければいけません。
私もあなたも、いつそうした状況に陥るかわからないのですから。

■患者を待たせる医師を育てたのは誰か(2007年7月13日)
病院で2時間半待たされてしまいました。
予約制の外来診察なのですが、いつも予約時間から1〜2時間は待たされます。
1時間程度であれば、我慢できますが、2時間を越えるとかなり精神的にも疲れます。
患者は女房なのですが、体調がかなり悪いので、身体にもこたえます。
低反発の座布団を持参したり、軽食を用意したりして、何とかがんばっていますが、2時間を超えると身体的にも限度を超えてしまうようで、私と違って我慢強い彼女も今回は何のための予約時間なのだと不満をいいながら、ソファにもたれたりしていました。
2時半の予約が、受診が始まったのは5時過ぎです。
さすがに今回は、女房も医師に「今日は待ち疲れました」とチクリと言っていました。
ちなみに診察時間は5〜6分です。
病院での2時間半の待ち時間のせいかどうかはわかりませんが、その後、あまり調子は良くなく、3日経過した今日もまだ元気がありません。

もちろん医師もさぼっているわけではありません。
昼食も食べずに診察を続けているのです。
医師もがんばっているのだから患者も待つくらい我慢しようというのが私たち夫婦の考えでした。
実は今回も、初めてこの病院に来たという老夫婦がいました。もう1時間以上待っている、受付の人に訊ねてみようかどうか、と話しているのが聞こえたので、ついついここでは1時間程度は普通なので、心配ないですよ、などと物知り顔に話してしまいました。
多忙な医師に対して、患者が出来ることは待つくらいかもしれない、と思っていたわけです。

しかし、こうした考えこそが一番悪いのかもしれません。
世の中をだめにしているのは、そうした中途半端な「良識人」かもしれません。
今日はそれを痛感しました。

前にも書きましたが、この問題を解決するのはとても簡単です。
私が仕事で相談を受けたら、すぐにでも解決できる問題です。
実は以前この病院で「患者と医師とのコミュニケーション」に関するアンケート調査がありました。そこに少し書いて提出したこともあります。
今回はその解決策を書きたいわけではありません。

今回、気づいたのは、こういう状況を創りだしているのは誰かということです。
病院は英語では「ホスピタル」です。
ホスピタリティにつながっています。
ホスピタリティとは「同じ立場で気持ちのよい関係を創る」ことです。
予約時間は「約束」ですが、その約束を守らずに2時間も患者を放置しておくことは、ホスピタリティとは正反対のことです。
そのことをおかしいと思わない医師は、医師として失格でしょう。
患者を診る資格などありません。
とまあ、ここまでであれば、私も以前から思っていたことです。

今日、気づいたのは、そうしただめな医師を増やしているのは、患者である私たちではないかということです。
ホスピタリティはサービスとは違い、双方向の関係ですから、予約時間の「約束」を守らないことを受け入れてしまう患者にも問題がありそうです。

忙しい医師は、病気を診ても病人を診る余裕はありません。
ですから待合室の風景など思いもよらないのかもしれません。
介護保険制度の設計者が、介護の現場の大変さに気づかないのと同じことかもしれません。こうしたことはさまざまなところにあります。

当事者が声を上げずに誰が現状を正すのか。
つまり2時間半待たされたのは、結局は自業自得なのではないかと気づいたのです。
おかしいことをおかしいと言おうと、数年前に書きました。
それが出来ていない自分に気づいたわけです。

現実を直すのはいつも自分からです。
人生は本当に疲れます。
直すよりも、その現実に馴染んだほうが楽に生きられます。
病院でいつも1〜2時間待っていたのは、そういう利己的な生き方の象徴だったのです。
いやはや滅入ってしまいます。

いろいろと反論が来そうですね。
責任は医師でも患者でもないといわれそうですが、まあ今回はここでやめます。

■政治生命を賭ける(2007年7月14日)
民主党の小沢代表は今回の参院選に「政治生命のすべてを賭ける」と言明しています。
時々、この言葉を聞きますが、いつも奇妙な気がします。
女房にどう思うか訊いてみたら、「いつもはあまり政治生命をかけていないってことじゃないの」といともあっさりと言うので、ちょっと拍子抜けしてしまいました。
でまあ、そこからが短絡的なのですが、今回は民主党は負けるような気がしてきました。
もっとも、私の選挙予測は当たったことがありませんが。

しかし、選挙に政治生命をかけても、政治に政治生命をかけない民主党は信頼を得られないでしょう。
専門家はつねに専門家としての生命をかけて仕事をすべきです。
私でさえも、仕事であれば真剣に取り組みます。そうでなければ、仕事など継続してやらせてもらえません。それが個人の名前で仕事をするということです。
あえて、「政治生命を賭ける」と表明することは、いつもは手を抜いているということでしかありません。いや、そう思われても仕方がありません。
それに、小沢さんの政治生命などは日本の政治の行方に比べたら、瑣末な話です。
小沢さんの支持者にとっては意味のある言葉かもしれませんが、私などはどうぞご勝手にと思います。
この言葉には小沢さんの傲慢さと勘違いを感じます。
政治家としてはもう終わった人だと改めて思います。
それに政治生命をかけるなどというのは、公言すべき言葉ではなく、深く心に思うことではないかと思います。

日本の政治の流れが変わるのはもう少し時間が必要なのでしょうか。
その間に、どれだけのものが壊されるのか、不安でなりません。
せめて憲法9条だけは残ってほしいですが、野党のいまの状況ではなかなか安心もしていられません。

■東京大空襲集団訴訟のメッセージ(2007年7月15日)
狭山再審弁護団主任弁護人だった中山武敏さんが、東京大空襲集団訴訟に関わっていることはCWSコモンズでもご紹介しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action07.htm#naka
先月行われた講演会には私は参加できませんでしたが、今月の軍縮問題資料(8月号)で中山さんが「東京大空襲訴訟が問うもの」という一文を寄稿しています。
それを読んで、改めてこの訴訟のメッセージの大きな意味を再認識しました。

この裁判は、東京大空襲による民間人被害者が集団提訴したものです。
http://www.etmau.com/19450310/archives/2007/05/post_54.html
中山さんからのメールにはこう書かれていました。
改憲の動きが強まる中で、若い世代に再び戦争の惨禍の苦しみを与えてはいけないと東京大空襲の遺族、被災者112名が原告となり、被告国に対して謝罪と損害賠償を求める訴訟を提起されました。
原告らは高齢であり、「このままでは死ぬに死に切れない」との思いで国の責任を問う最後の機会として提訴を決意したのであり、この原告らの願いに答えることが法律家としての使命である」と考えて、中山さんはその代理人を引き受けたのです。
中山さんは「この裁判は「人間回復」を求める裁判なのです」と言います。

できれば「軍縮問題資料」8月号を読んでほしいのですが、とりあえずこの小論から2か所を引用させていただき、みなさんにもいろいろと考えてもらえればと思います。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-05-25/2007052514_01_0.html
今回は余計な私見は書きませんが、とても重要な問題が指摘されているように思います。
決して「過去の話」でも「東京の話」でもありません。

東京空襲は日本軍の国際法に違反した中国戦線での都市無差別爆撃が先行行為(原因) となり、アメリカの対日政策に大きな影響を与え、日本軍の撒いた種が、より大規模な無差別爆撃として東京、日本各都市空襲、広島、長崎への原爆投下と繋がったものである。

平和のもとで平等に人間らしい生き方を保障している憲法のもとで、軍人・軍属と差別し、戦争の被害については、「すべて国民が等しく受忍しなければならない」ものといった戦前の旧憲法下の人権感覚の判決は司法の権威を失墜せしめ、何人をも納得せしめないものである。東京空襲の裁判は、これまで述べているように東京空襲被害当日の被害のみでなく、戦後も国が民間人の被災者を切り捨て、何らの救護、補償をなさず放置し、人間の尊厳を奪ってきたことに対しての責任を問うものである。

■投票率で選挙結果が変わるのでいいのか(2007年7月16日)
投票率で結果が変わってくる、とよくいわれます。
今回も盛んに言われています。
投票率が低ければ自民公明が勝ち、高ければ野党が勝つというのが、大方の見方ですが、これっておかしくないでしょうか。
もちろん事実は正しいかもしれません。
そうではなくて、投票率によって結果が変わること自体に問題はないのかということです。
さらにいえば、投票率を低くするために夏休みに入る7月29日に延期されたとか、地方選があったために組織票が動きにくいとか、その道の専門家はいうのですが、これっておかしくないでしょうか。
もしそういうことが在るのであれば、それはやはり糾弾されるべきことだと思います。

選挙で大切なのは、どの政党が勝つかではなく、どの政党の主張がより多くの国民の支持を得るかです。
投票率を高くするのは政府にとっての重要な課題です。
また個人をないがしろにするような「組織票」がこれほど堂々と語られていいものかどうか。
こうした一事をもってしても、日本の選挙制度は正すべきことが少なくありません。

選挙は何のためにあるのか、もっとしっかりと議論すべきではないかと思うのですが。
選挙は議員を選ぶことだけが目的ではないように思います。

■知の世界におけるホメオスタシス(2007年7月16日)
稲田芳弘さんの『「ガン呪縛」を解く』という本を読みました。
革命的な医学理論であるが故に学会から抹殺されてきた千島学説がわかりやすく紹介されています。千島学説については、以前からネットなどではサラッと読んでいたのですが、難解すぎてきちんとは学んでいませんでしたが、この本が面白かったという人がいたので、早速取り寄せて読んでみたのです。
いままで何となく抱いていた医学への疑問のいくつかが解消されました。この4年間の体験のおかげで、その内容がとても納得できる気がしました。
千島学説は、たとえば「血は腸がつくる」とか「がんは血液の浄化機能を果たすために生まれる」などという考えです。それは現在の医学の出発点にある常識への挑戦でもあります。ですから医学学会からはほぼ無視されてきたと、著者の稲田さんは書いています。たくさんの事例を引用していますので、とても説得力があります。
もう少し早く本書を信頼していたら、私たち夫婦のがんとの付き合いはかなり変わっていたでしょう。もっともがんとの付き合いが浅い段階では、本書のメッセージをうまく受け止められたかどうか自信はありませんが。
いずれにしろ、医学界は千島学説に関してもっと真剣に取り組んでほしいと思います。
もし千島学説にたてば、がん治療のあり方は一変するはずです。
千島学説が正しいかどうかは私には判断できませんが、少なくとも新しい主張には正面から取り組むべきです。

学会の常識をひっくり返すような考えが生まれた場合、それが抹殺されるか無視されることは少なくないように思います。その意味では、学問の世界は、まだ本当の「知の世界」にはなっていません。
その原因は、「知」の世界が市場化され、権力構造に組み込まれているからです。

たとえば、CWSコモンズで最近話題にした土壌菌の内水理論もその一つです。
発見者の内田護さんにお会いした時の彼の言葉はいまなお鮮明に覚えています。
彼の新発見をつぶそうとした動きがいろいろとあったようです。
その後、土壌菌は思わぬ形でブームになりましたが、しかし今なお正面から本格的に取り組まれているようには思えません。

こうしたことは技術の世界に限ったことではありません。
邪馬台国論争における古田武彦説はきちんとした反論がないと古田さんが言い続ける中で、いつの間にか忘れられたような形になってしまいました。

数十年たって、その考えが再評価されることもあるわけですが、なぜそうした新しい発見や発想は無視されがちなのでしょうか。
情報社会、知識社会と言われて久しいですが、どこかに問題があるように思います。

ちなみに、がん治療に関わっている方は、冒頭の稲田さんの本は読むに値すると思います。信ずるかどうかは別ですが。

■みなさんは私的な駐車場を横切りますか(2007年7月17日)
湯島のオフィスに行く途中に駐車場があります。
ちょうど道の角にあり、そこを横切るとわずかばかりの距離短縮になります。
しかし、そこは個人の私有地ですので、私は横切ることを避けていました。
その駐車場には自動車が駐車していることが少ないこともあって、ほとんどの人はそこを横切って近道します。
私も友人知人と一緒に歩いているとほぼ必ずみんな横断しようとします。
ここは私有地だからと、私は頑なに横切るのを避けていましたが、いつの頃からか私ひとりでも横切るようになりました、
ほんの僅かな距離短縮なので、近道しようなどという考えよりも、目標先がその先に見えるので最短距離を歩こうという自然な行動の現われなのかもしれません。
自然の流れに反するのは、私の考えに合わないと勝手な自己解釈に変わったのです。
さて、みなさんならどうしますか。
距離短縮のために横切るのが合理的か、私有地を勝手に横切らないほうが合理的か、どちらでしょうか。
くだらない質問をするな、その時の気分次第だ、第一、そんなことは考えもしない、と怒られそうです。
その通り、そんなことなど考えていたら、暮らしていけないのかもしれません。
しかし、そういうことを考えてしまうととまらなくなるのが私の悪癖です。

目的地が見えるところにあり、そこにいく具体的な方法もわかっている。
ただ、少しだけ法やマナーを犯すことになる。
そういう問題に置き換えたら、少しは意味があるでしょうか。
先の国会の強行採決はその一例かもしれません。

今日、久しぶりにオフィスに行きました。
曲がり角で考えましたが、駐車場は横切らないことにしました。
少しだけのマナー破りが、社会を壊していくことにもなりえます。
社会が壊れたら困るのは私ですから。

■将来に信頼を持てない働き方でいいのか(2007年7月18日)
労働政策研究・研修機構が行った企業従業員の意識調査結果が今日の朝日新聞に出ていました。次のところがとても気になりました。
http://www.asahi.com/life/update/0717/TKY200707170585.html

仕事や職業生活で感じている不安や悩みについてたずねた社員への調査では、73.2%が「将来の賃金水準」を挙げてトップ。「定年後の仕事、老後」(67.4%)、「会社の将来性」(64.8%)が続いた。

企業で働けている人たちですら、その2/3が、将来に不安を持っているというのです。
どう考えても異常な状況だと思います。
将来への不安は、もちろん現在の不安でもあるわけです。
一見、平和で豊かな今の社会のどこかに、きっと大きな落とし穴があるのでしょう。

20年ほど前にある調査機関が、「私たちの子どもたちは私たちよりも幸せになるだろうか」というアンケート調査を実施したところ、2割の人たちしか「はい」と答えなかったそうです。私はいろいろなところで講演をさせてもらう時に、同じ質問をさせてもらいますが、「はい」と答える人は年々少なくなってきているような気もします。

将来に希望と信頼を持てるかどうかは、その社会の本質を象徴しています。
しかし、明るいニュースもないわけではありません。
新潟中越地震の報道が毎日伝えられていますが、柏崎のある商店街で、商店街の人たちが中心になって、ご飯を炊き上げ、必要な人に自由に持っていってもらう活動を始めたことが先ほどのテレビで報道されていました。
自分たちも大きな損害を受け、その片付けに取り組みながらの活動です。
そうした「支え合い」の輪のなかに自分がいることに気づけば、きっと将来への不安はなくなるはずです。

語呂合わせではないのですが、競争原理が働いている社会と共創原理が働いている社会の違いを改めて考えさせられました。
それにしても、「将来への安心感」の大切さは、それを失って初めてわかります。
この意識調査結果は、企業関係者はもっと真剣に考える必要があるのではないかと思います。
そして、安定した働きの場がない人たちの思いやりもぜひ持ってほしいと思います。

競争原理ではなく、共創原理で考えれば、もっと多くの働きの場が生まれ、しかも競争の不安から解放され将来への展望も開けていくはずなのです。

労働政策研究・研修機構も少し発想を変えて、行動を起こしてほしいと思います。
調査は新しい風を起こすための手段なのですから。

■歯医者で目をつぶりますか(2007年7月19日)
みなさんは歯医者で治療をしてもらう時に目をつぶりますか。
私はいつも目をつぶるのですが、私の娘は目をあけているそうです。
だから医師や歯科技工士が何をやっているかがよくわかるのだそうです。
目を開けているとやりづらいんじゃないかと私は思いますが、目をあけているほうも結構疲れます。
歯科医の椅子に座って、目をつぶるということは医師たちを完全に任せるということです。毒を盛られても、ドリルで歯を傷つけられても気が付かない恐れはあります。

歯医者はいいとして、他の病院はどうでしょうか。
目を開けていても、何をされているか分からないことが少なくありません。
最近は薬の説明も丁寧にしてくれますが、だからといいて反論や異論は唱えにくいです。
なにしろ情報量が違いますから。

商品の購入時はどうでしょうか。
品質表示が最近はかなりやかましくなりましたが、注意して見ても、肝心の知りたいことはなかなかわかりません。確かに表示はされていますが、形式が整っただけで実態はそう変わっていないような気がします。
肉まんにダンボールのかけらが入っていてもたぶんわからないでしょう。
先日も近くの大手スーパーで購入した長いもがおかしかったので、よくみたら賞味期間の表示が無いので、家族が電話したら、その商品は表示しないのだそうです。全国展開している大手スーパーです。もっとも最近は表示があっても、あまり信頼は出来ません。

政治はどうでしょうか。これはますますわからない。マニフェスト選挙と言われていますが、あれで本当に何かがわかるのでしょうか。私にはあまりわかるようには思えません。

結局、私は歯医者の椅子に座っているのと同じことを生活すべてにおいてしているのかもしれません。
それではいけないと、今日は歯医者で目を開けてみました。
しかしやはり疲れます。
すぐまた目をつぶってしまいました。
まあ「目をつぶった」生き方のほうが楽なのです。
それに最近は目をあけていると身が持たないのです。
毎日、今日こそは目をあけていようと思うのですが、なかなかそれを継続できずにいます。困ったものです。

■やさしさへの気づき(2007年7月20日)
北海道の知人から電話がありました。
私はたまたま不在だったので、女房が出ました。
私よりひとつ年上の女性です。
体調があまりよくないことを知っていましたので、気になっていましたが、私自身も最近、事件が多すぎて、電話をかける勇気が出ませんでした。
しかし、数日前に女房と彼女のことを話していたところでした。
体調不良の原因がわかったのだそうです。
肝臓がんでした。
女房ががんであることは彼女も知っています。
同じ病気だと会ったことがなくてもすぐに心が通ずるのです。
2人は面識がないはずなのに、今や私よりも親しそうです。
彼女も自然療法に身を任せるそうです。

私の女房のために、毎朝6時に祈りを上げつづけている人がいます。
その人もたぶん私の女房には会ったことがありません。
しかし、女房のことを知って、それ以来、祈りを続けてくれているのです。
私よりもちょっと年下の男性ですが、なぜその人が毎朝祈りをしているのか、なかなか勇気がなくて質問できずにいます。きっと何か理由があるはずです。

先ほど、これもまた年上の友人から久しぶりのメールが来ました。
知らなかったのですが、1月に交通事故にあい、3か月入院していたのだそうです。
「自分がこうした身になってみると他人様の健康問題も大変気になるようになりました」と書かれていました。
女房のことを気遣ってくれていました。

女房の病気のおかげで、人間というもののやさしさを毎日実感しています。
しかし、そのやさしさに気づかせないようにする状況が、いまの社会を覆っているのではないかという不安も、一方では強くなってきています。
杞憂であればいいのですが。

■日本社会を襲っている「見えない地震」(2007年7月21日)
今朝の朝日新聞には2つの悲劇が並んで報じられています。
経済的に追いやられ、もう「ご飯が食べていけない」と書き残して一家心中した大阪市東淀川区の事件と知的障害のある息子を殺害した母親への懲役7年の判決の報道です。
最近、こうした報道が増えています。
私たちの社会は、とても大切な何かをいま失ってきているように思います。
自殺であろうと殺人であろうと、人の生命を奪うことは許されることではありません。
しかし、そこまで追いやられてしまっている人を放置していていいのでしょうか。
それこそが、政治が取り組む基本ではないかと私は思います。
他人のことなど気にせずに、ともかく蹴落としてでも競争に勝っていくことに邁進してきた政財界は、そろそろそうした行き方を見直すべきではないでしょうか。
彼らが浪費している、ほんの一部の資金を、そうしたことに向けるだけで、社会は変化への一歩を踏み出せるかもしれません。
ささやかなコムケア活動の体験を踏まえて、社会の実相を体験的に垣間見てきましたが、やりきれないことがあまりに多すぎます。
新潟中越地震も大変な問題ですが、日本社会を襲っている「見えない地震」もとても気になっています。

■いまの選挙制度って根本的に無理があるのではないでしょうか(2007年7月22日)
ある人の人物評を質問されました。
質問した人は、その人と接点を持っているかもしれないと私に訊いてきたのですが、私も全く面識がありません。
そこで余計なお世話と思いつつも、その人のことを知っているかもしれない複数の人たちに、その人物評を質問してみました、

5人の人から返事がありました。
それがみんなかなり違ったものでした。
それも全く正反対に近い評価が含まれているのです。
私には実に面白い体験でした。

当然のことかもしれませんが、いろいろと考えさせられました。
人のイメージはかくも違うのです。
人物評というのは難しいものです。

選挙が近づいてきました。
みなさんはどういう基準で投票する人を決めるでしょうか。
正直に言って、市会議員を別にすれば、いつも私には確信が持てません。
以前は年齢やキャリアや公約を重視してきましたが、最近は所属政党で決めるようになりました。
党議拘束の現実や議論しない国会を知るにつれて、議員の主体性への信頼が揺らいでいるからです。

選挙は「人を選ぶ」制度から「政党を選ぶ」制度になってきています。
そう考えていくと、そもそも地方区などというのは意味があるのかと思います。
さらに、国民みんなが直接的に国会議員を選ぶという、現在の選挙制度にも疑問を感じ出しています。
政党を選ぶ選挙は、本当に選挙なのだろうか、という気もします。
もし「議員」を選ぶのであれば、顔の見える範囲で代表を選ぶ仕組みにすべきです。
国民主権を実現したいのであれば、選挙制度の構造変革が必要です。

まず自治会の役員をみんなの合議で決めることから始めたらどうでしょうか。
100世帯程度の自治会であれば、だいたい顔が見えるはずです。
そしてそこで選ばれた人が市町村の議員を選ぶのはどうでしょうか。
市町村の議員が県会議員を選び、県会議員がブロック単位で代表を選ぶ。
そしてその中から国会議員が選ばれるというのはどうでしょう。
議員に選ばれたたら、4年間は仕事を休んで活動します。その間の所得保証は行われますが、辞退する権利も認めていいと思います。
もちろん今のような特権階層扱いはしないでいいでしょう。議員は主権者の代理人でしかないのですから、名誉職的な処遇でいいでしょう。

それでは地域エゴに立脚した代表しか出てこないではないかといわれそうですし、現実的でもないといわれそうです。
しかし、地域主権や代表の発想から言えば、これが正論ではないかと思います。
もう一度、原点に帰って考えるべきでしょう。

地域代表からの積み上げで構成されるのは衆議院で、参議院は全く別の仕組みで、むしろ全国から発想するのがいいでしょう。
地域から考える衆議院と国家から考える参議院との緊張関係の中で国家経営が方向付けられていくわけです。

あまりにも素朴すぎて、と笑われそうですが、いま必要なのはそうしたシンプルな発想ではないかと思います。
年金制度も難しく考えすぎで、誰もが分かる簡単の仕組みにすれば、今のような不正は発生しなかったはずです。
もっと単純に考えれば、おそらく世の中の問題はほとんど解決するはずです。
高速道路だって、税金で造っているのですから、原則無料にするのは当然ですが、なぜか日本では有料が当然だとみんな思い込んでいます。
複雑にすることで、だれかが得をしていることに気づかねばいけません。

人物評の話が、どうも思わぬ方向に広がってしまいました。
いずれにしろ選挙にはいきましょう。選ぶ人がいないとしても、です。

■選挙結果予測は投票に影響を与えます(2007年7月22日)
参議院選挙まであと1週間です。
しかしどうも選挙の実感が得られません。
私が住んでいるのは我孫子市ですが、立候補者の自動車もあまり来ません。
中央から政党の代表者が応援に来るという案内は時々回ってきますが、当の立候補者の演説の案内はあまりきません。
どこかでやっているのでしょうが、あまり耳には入ってきません。
私は中央から誰かに応援に来てもらうような人は、まず投票しないことにしています。
自分の言葉で語れないような人には期待はできません。
それに、議員はタレントではないのですから、誰かの応援に来る人の話などは聴きたくありません。
しかし、その基準で支持者を消していくと、いつもほとんど候補は残らないのが最近の状況です。
そんなわけで最近、選挙の意義があまり感じられなくなってきているのです。

ところで、新聞やテレビで選挙結果の予測調査がでます。
これをどう理解すればいいのでしょうか。
私はこれこそが選挙違反行為だという気がしています。
その予測記事が結果を変えることはかなり高い確率であると思いますが、
もしそうならば当然ですが、操作可能性があるわけです。

投票者は何を持って投票先を決めるのでしょうか。
「お灸効果」ということが最近よく言われます。
やりすぎの自民党にお灸をすえる気持ちで野党候補に投票する人がいてもおかしくないというわけです。
政治はパワーオブバランスの問題だから、そういう考えが出てきてもおかしくないと思いがちですが、私には違和感があります。
政策内容と無関係に、そういう基準で投票先を選んでいいのかと思うのです。
どこかにおかしさを感じます。

現在は野党優勢が多くの予測の結果です。
この報道を見て、お灸を据えようとしている人は、与党に投票しようと思うかもしれません。野党支援者は気を抜くかもしれません。
ゲームの世界の話であれば、その駆け引きは面白い問題ですが、それで日本の政策が決まっていくことを考えるとなにやら恐ろしさを感じます。ゲーム感覚で未来を決められたらたまったものではありません。
お灸効果などという言葉を抵抗を感ずる様子もなく語っている有識者を見ると、この人の「有識」って何なのだろうかと思ったりします。

きちんとした争点を明確にし、その判断を仰ぐことは出来ないものか。
たぶんできないでしょう。
それはそもそも今の選挙制度と政治制度には国民による政策評価機能はあまり期待できないからではないかと思います。
選挙って、本当に何なのでしょうか。
このごろ、選挙の意義が分からなくなってきてしまいました。
困ったものです。
もちろん投票には行きますし、もう投票する先は決まっていますが。

■国民の非武装権(2007年7月24日)
残念ながら今回の選挙では「平和」は大きな争点にはなりませんでしたが、振り返ってみると、今回の選挙は日本の平和にとって大きな意味を持った選挙になっているのではないかという気がします。
そんな時期に、平和の問題をライフワークにされている川本兼さんがまた新著を出しました。
『「日本国民発」の平和学』(明石書店)です。
CWSコモンズに紹介していますので、よかったら読んでください。
そこで紹介したことと重なるのですが、とても示唆に富むメッセージが込められているので、このブログでも少し紹介させてもらうことにします。

川本さんは以前から基本的人権の一つとして「平和権」を主張しているのですが、そこに「非武装権」という概念を提起しています。
これまでの平和論からは出てこない発想ですが、この非武装権発想が意味していることはとても大きく、ぜひとも多くの人に知ってもらいたいと思います。

「非武装権」とは、国家の兵員になることを拒否する権利です。
民衆による暴力を禁止し、暴力を独占することによって、近代国家は権力の基盤を確立しましたが、それは同時に「国民を暴力に狩り出す権利」の獲得でもありました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/04/post_c822.html
そのため、これまでの平和理論の中では「民衆の武装権」が問題になりました。
民衆が圧制からの自由を求めて、立ち上がる権利です。

その典型的なものが市民革命ですが、川本さんはそうした「民衆の武装権」はもはや必要なくなったといいます。
むしろそうした武装権は国家に組み込まれてしまい、実質的には国家に対する兵役義務に転化してしまったというのです。
最近起こったタリバンの韓国人ボランティアグループの拉致事件などを考えると、現実は必ずしもそこまでは行っていないと思いますが、大きな流れはそうかもしれません。

いずれにしろ国家による暴力行使の主体は国民です。
国家が戦争を遂行できるのは、兵員としての国民を自由に暴力遂行力として使えるからです。
ブッシュや小泉が戦争をするわけではなく、現地で戦いを担うのは兵隊や自衛隊員です。
つまり「戦争をさせる人」と「戦争をする人」は別なのです。
しかも「戦争をする人」は原則として戦場で人を殺すことも含めた暴力の行使を拒否することはできないのです。
そして「平和のために人を殺傷する」というおかしなことが起こります。
そこで、国家による暴力行使のために強制されることを拒否する権利として、非武装権が重要になってくるというわけです。

いいかえれば、非武装権とは「人を殺さない権利」なのです。
これまでの基本的人権は、当人だけで完結していましたが、非武装権は他人との関係性が対象ですから、人権思想のパラダイムシフトも含意しています。
さらにいえば、「非」ではじまる権利思想は、権利そのもののあり方への問題提起も含んでいるように思います。
そしてもちろん「平和」や「戦争」に深く繋がっていく思想です。
小泉さんや安倍さんが、そして小沢さんや岡田さんが、いくら戦争が好きでも、国民が非武装権を持っていれば、戦争などは出来ません。
もちろん彼らが戦場に行くことはできるでしょうが、それでは戦争にはなりません。

これはガンジーの非暴力主義とも違います。
非武装権。この考えを深めていくと国家暴力の矛盾が見えてくるかもしれません。
ぜひ皆さんにも読んでほしいと思います。
もちろんこの本は、非武装権のことだけを書いているわけではありませんが、他の主張も示唆に富んでいます。
私のサイトからもアマゾンでの購入が可能です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#070722

■デモサイド「民殺」(2007年7月25日)
昨日の記事に関連して、国家は自国の民を暴力から救うために武装し、国民は自らを守るために武装するのではないかというメールが来ました。
確かに国家の武装の大義は「自衛」です。
しかし、これも以前書きましたが、すべての戦争は「自衛」として説明できるでしょう。
問題は「自衛」の「自」とは何かです。

こんな報告もあります。
孫引きなのですが、ハワイ大学のR・J・ランメルという学者の書いた「政府による死」(1994年)によれば、国家によって殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いというのです(ダグラス・ラミス「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」に紹介されています)。
ランメルによればこの100年間に国家によって殺された人数は2億人を超えていますが、そのうちの約2/3は他国の軍隊によってではなく、自国の軍隊や政府によって殺されているそうです。つまり、軍隊が自国民を守るためにあるというのは実のところ事実ではない、というわけです。
彼は、非戦闘員を殺すという意味で、デモサイド(democide)という言葉を造語しています。
デモサイドの主体者は誰なのでしょうか。
20世紀のデモサイドの多くは共産国家や社会主義国家、あるいは軍部独裁国家、ファシズム国家などで主に行われていますが、「民主主義国家」でも起こっています。コラテラル・ダメッジは、まさに「民主主義国家の発想」かもしれません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013
ちなみに、コスタリカは、政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作ったといわれます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html

デモサイドを遂行するのは誰でしょうか。
徴兵制のもとでは、だれでもが「戦闘員」に狩り出される可能性がありますから、結局は国民なのです。殺すのも殺されるのも同じ国民。それが現実なのです。
イラクやアフガンの現状はそのことを明確に示しています。

日本国憲法9条はたしかに不完全な条文です。
しかし、そこに込められた意味は大きい。むしろその意味を進化させるべき時期に来ています。
私たちも、コスタリカ人ほどの知性を回復したいものですが、それはすぐには無理としても、今度の選挙にはこうしたことを考えて投票に行きたいものです。
決して、年金選挙などではないのですから。

■放射性廃棄物の最終処分問題のメッセージ(2007年7月26日)
中越沖地震で問題を発生させた柏崎刈羽原発への不安が広がっています。
相変わらず東電にはしっかりしたコミュニケーション姿勢がないのが最大の問題ですが、原発問題はまさに「コミュニケーションの問題」だということを電力会社や政府は認識すべきではないかと思います。
しかし、コミュニケーション問題がすべてというわけではありません。
そこにもう一つ絡んでいるのは、お金の問題です。
いや「お金」の問題が出発点なのかもしれません。
コミュニケーション不足を金で解決してきたのが、これまでの原発政策でした。
それは地域関係だけではなく、内部の人事管理にも言えることだと思います。
さらにいえば、政策決定に取り組む当事者たちのコミュニケーション不足も目に余ります。ですからだれも全貌が見えずに、自信がもてないでいるように思えてなりません。

秋田県上小阿仁村が、原発の使用済み核燃料を再処理した時に出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場を誘致できるかどうかの検討を始めたことが話題になっています。テレビでは村民は不安を持っているようですが、村長は財政再建の切り札と考えているようです。高知県東洋町の騒動がまた始まりそうな気配です。

こうした騒動はどこかにおかしさがあります。
なぜこれほどに不安が高まり反対がでるのでしょうか。
なぜ調査費だけで毎年10億円という予算がつくのでしょうか。
いや10億円のお金を出さないと調査すらもしてもらえないということは何を意味するのでしょうか。
誰もが高レベル放射性廃棄物の最終処分に不安を持っているのであれば、その問題を解決せずに、原発政策は決めようがないはずです。しかし、そのことを真剣に議論し国民に話しかける科学者はいません。いるのかもしれませんが、国民にきちんと語りかけてはいません。
その事実一つとっても、原発技術はまともな技術体系として成り立っていないように、私は思えてなりません。
まともな技術体系でなければ、多くの人の信頼を得ることは難しいでしょう。

私が原発に不信感を持ったのは、皮肉なことに仕事の関係で電力会社のエンジニアに原発を案内してもらったためです。そこで現場労働者の働き方や扱いを知りました。
技術としての原発に対しては評価能力がありませんが、労働の現場を見れば、その産業の本質は見えてくるものです。
そして原発関連の企業不祥事が起こるたびに、その見学の時の説明を思い出します。
それは私には繋がって感じられます。
共通しているのは資金の配布に関する「専門技術優先主義」です。

これからの日本社会を支えていくといわれる原発産業であれば、各地が競って誘致を申し出るはずです。しかし財政難に苦しむ貧乏な市町村に向けて、巨額なお金をちらつかせても、なかなか手を上げるところが出てこない現実に、原発の本質が見ええてくるように思います。
もっとオープンな場で、しっかりと話し合う時期ではないか。
それこそがコミュニケーション戦略ではないかと思います。

■「経済成長を語ったことがあるか」(2007年7月26日)
「民主党から、小沢さんから経済を成長させる、景気を回復するという話を聞いたことがありますか」と安倍首相は演説で話したそうです。

一昨日、引用させてもらったダグラス・ラミスの「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」にこんな話がのっています。

コロンブスが「新世界」で最初に着いたのはカリブ海の島でした。その島にはタイノ族という先住民が住んでいました。当時の記録によると、コロンブスたちは、もしかしてエデンの楽園に戻ったんじゃないかと思ったそうです。自然がきれいで、そこに暮らす人たちは聖書のエデンの楽園に描かれたような生活をしていたからです。
まず彼らは物をあまり持っていない。暑いから服もあまり着ていなくて、裸に近い状態。農業も非常に優れた農法で、いろいろな種類の作物を同時に一緒に植える。そうすると管理、手入れがほとんど必要ない。だから畑では一週間のうち数時間しか働かない。魚が欲しければ海に入ればすぐ獲れるから、それもあまり時間がかからない。
では何をしていたかというと、まず音楽がとても重要でした。歌ったり、踊ったりする時間、楽器で音楽を作ったりする時間がとても多かった。男女が愛しみあう時間も多かったそうです。
そこで、働かせるために奴隷制度をつくったのですが、彼らは奴隷に向いておらず、病気で死に、座り込んで死ぬまで動かなくなり、うつ病で死に、子どもつくらなくなり、100年間で全滅した、というのです。

この話が真実かどうかわかりません。たしかにタイノ族はいましたし、そういう生活をしていたようですが、反乱を起こしたというような資料もあるようです。
しかし彼らの豊かな暮らしは「経済成長」や「景気」とは無縁です。
いま必要なのは、「経済成長」とか「景気」という考え方そのものを問い直すことではないかと思います。
そういう意味では、「経済成長」や「景気」について語っていないのは、安倍首相自身ではないかと思います。
野党の主張にもっと謙虚に耳を傾けるべきでしょう。
もちろん私たちもです。
これまでのような「経済成長発想」はもう終わりにしてもいいのではないでしょうか。
上記の本はとても示唆に富んでいます。
平凡社から出ていますので、夏休みにでも読んでみてください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/commonsshotenn.htm#070617

■タリバンの韓国人ボランティア殺害事件(2007年7月28日)
タリバンによる韓国人ボランティアグループの拉致と殺害はやりきれない事件です。
事件を聞いて感じたことを2.3書きます。必ずしも正確な事実には基づいていないと思いますので、その前提でお読みください。

まず「善意」とは何か、です。
傷ついた人がいれば危険を冒しても救いにいくという「善意」は、誰にとっても「善意」で歓迎されると思いがちですが、もしかしたらそうではないかもしれません。
「善意」は行動者の意志ですが、その行動の対象者の評価が同じとは限りませんし、大きな枠組みで考えるとおそらく評価は一様ではないはずです。
もっとも、ボランティア活動をしている人たちは「善意」などとは考えていないでしょう。やりたいからやるのがボランティアですから。
しかし、組織活動としてのボランティアになると意味合いはかなり変わってきます。
個人の主体性に立脚するボランティア行為と組織としての行為にはズレが避けられません。
結果として、そうした行為が全体の状況の問題解決にマイナスに働くこともありえます。
さらにいえば、自らの生命を賭して活動している人にとっては、おそらく緊急事態でしょうから、コラテラル・ダメッジの発想が出てくる可能性を否定できません。
もちろんそれを肯定するわけではありませんが、タリバンの側で考えるとそういう発想が出てくるということです。なにしろこれまでたくさんの仲間を不条理に殺害されているわけですから。

もちろん、私はタリバンの行為に何がしかの正当性を認めているわけではなく、どんな事情があろうと許されることではないと考えています。
彼らにも言い分はあると思っていましたが、こうした行動を起こすことは言語道断であり、彼ら自身にとってもマイナスでしょう。
しかし、彼らはそこまで追い詰められていることも示唆しています。
自己防衛行為とはいえませんが、その要素が全くないともいえません。

そこで思い出すのが、マルチチュードの発想です。
もしかしたら、全体の構造の捉え方がみんな間違っているのかもしれません。
タリバンとはいったい何なのか。
そして政府とは何なのか。
世界の紛争や連帯の構図が大きく変わり出している中で、問題の立て方を間違うと問題はさらに複雑になり、悲惨になるかもしれません。
そんなことを考えさせられる事件です。

これはなにも軍事紛争だけの話ではありません。
福祉や環境に関わるボランティア行為すべてにあてはまることかもしれません。
問題を解決するためには、構造をしっかりと把握し、問題を的確に設定しなければなりません。

韓国のボランティアグループの人たちの安全が守られることを心から祈念します。
個人の生命は国家の命運以上に大切です。
そのこと忘れた国家や革命や反乱は成功しないと確信します。

■光市母子殺害事件安田弁護士による死刑制度の私物化(2007年7月29日)
光市母子殺害事件の安田弁護士の発言は、法によっては守られているのでしょうが、社会の規範からは完全に逸脱しているように思います。
今回の彼の発言を聞いて、いつものことながら、これほど「おぞましい人」がなぜまともに取り上げられているのか、そしてどうして弁護士仲間が異論を唱えないのか、とても不思議な気持ちになりました。
常識が通らない場での裁判には不信感をもたざるをえません。
しかし、私の思いとは反対に、司法界から何の声も上がりません。
私は彼をとがめているのではなく、彼のような存在を放置しておく司法界を問題にしているのです。
日本の裁判制度はもはやあまり信頼できなくなりました。

この事件のことはもう書くまいと思っていたのですが、やはり書かないと気がすまなくなりました。

人の生き方には、「法によって権力に従う生き方」と「規律によって規制された生き方」と「愛を活かしあう生き方」があります。
法治社会では「法によって権力に従う生き方」が推奨されます。
法に従っていれば、お上からのお咎めはないからです。
お上にとっては、正義ではなく統治が最大の関心事です。
企業のコンプライアンス発想もそうです。
ですからたとえ「不正義」でも、時に一時期のミートホープ社のように黙認されることもあるのです。
赤城議員などの政治家の逸脱行為もその一例です。

フーコーは、法による生き方から規律による生き方に社会は変わってきているといいましたが、日本においては歴史の流れは逆かもしれません。
恥の文化では、法以上に「誇り」や「正義」が尊ばれます。
いまでも日本各地の村では、お上が決めた「法」よりも、規律が重視されているところもあるように思います。
フーコーをかなり独善的に解釈していますが、私自身は、その先に、あるいはその前に、真心の社会があると考えています。それが「愛を活かしあう生き方」です。
そこでは規律のベクトルの意味が反転します。
これに関しては、いつかまた書きたいと思います。

ところで安田弁護士の生き方は、弁護士らしく「法に従う生き方」です。
つまり権力に守られた生き方、言い換えれば心を権力に売った生き方です。
権力に従う生き方は楽な生き方でしょう。
安田弁護士は権力に立ち向かう反骨の志というイメージを持っている人もいるかもしれませんから、こういう論理展開をすると、私の常識が疑われそうですが、そういう捉え方もできるという気がします。
権力に抗することと権力に迎合することとは紙一重です。
そして、その紙一重は共感の広がりで見えてきます。
安田弁護士の言動が、いずれかであるかは明白です。
権力に抗う形での迎合と考えるべきでしょう。

そう考えると、すべての風景は一変します。
たとえば、安田弁護士と死刑制度の関係です。
多くの論者は、そして私の知人の弁護士たちも、安田弁護士は、死刑制度廃止を目指しているといいます。
そうでしょうか。
死刑制度廃止と死刑を無くすことは違うことだと思いますが、それはともかく、私には安田弁護士が死刑制度を本気で廃止しようとしているとは全く思えません。
もしそうならば、もっと誠実に取り組むでしょう。
死刑はいろいろな意味で、人の生命に関わる問題ですから、誠実さが基本になければたぶん前に進まないでしょう。
それにこの問題は暴力と権力の問題にもつながる組織原理の問題でもあります。
安田弁護士の取り組みは、どう考えても、誠実とは思えません。
むしろ彼は、死刑制度の存続に寄生して生きている人だと思います。
もし日本に死刑制度がなければ、彼は自らの存在を維持できないでしょう。
つまり、彼が守りたいのは死刑制度なのです。
論理の飛躍があるかもしれませんが、そう考えてもおかしくないように思います。

彼のような、あざとい生き方が広がっているのが、とても哀しいです。
司法界だけではありません。
政界も財界も、学会も医療の世界も、なぜこのような小賢しさが蔓延したのでしょうか。

今回はかなりの暴論で、いくらでも反論の材料はあると思いますが、暑さのせいの暴論だと聞き流してください。
しかし、私には腹が立って仕方がないのです。
まだまだ人間が出来ておらず、寛容にはなれません。
寛容になれないままに、人生を終えそうなのが残念です。はい。

■番外編:実に勝手な選挙結果予測(2007年7月29日)
自分のために書いておく番外編です。
今日は参議院選挙の日です。
今日の夜には結果はほぼ判明するはずですが、その前に少し書いておこうと思います。
私の選挙結果の予測はこれまで一度も当たったことはありませんが、結果を知る前に意見を書き残しておきたいと思います。
結果を知ってしまうと、おそらく自分の考えが微妙に変わりかねないので、私自身のための記録です。後で、これを掲載したことを公開するかもしれませんが。

投票率はそうあがらないでしょう。つまり選挙への関心は相変わらず高くはないということですが、それは政治への信頼が失われている結果だと思います。また日本人の政治意識の低さも一因でしょうが、それも含めて、これまでの政府がそう仕組んできたように思いますので、それが見事に奏功したということかもしれません。

結果は民主党が勝つでしょうが、新聞などの予想ほど大きな差は出ないと思います。
これはマスコミを通した政府の情報操作が成功したのだと思います。
今回は多くのマスコミは自民党に加担したと私には思えてなりません。
マスコミは大きな変化を望んでいないのです。マスコミを支配しているのは、いわゆる「勝ち組み」ないしは「勝ち組み寄生者」たちですから、当然です。
朝日新聞も自民党を応援しました。もっとも一般の見方は反対のようですが。

私は新党日本に期待していますが、田中さんも有田さんも当選すると思います。
国民新党もほどほどの成果を得るような気がします。
社民党ものびるでしょう。
つまり、二大政党への問い直しの動きが出てくるように思います。
しかし、それ以外の閉じられた仲間的な党はいずれもだめでしょう。
共産党は苦戦すると思います。記号価値を軽視しているためです。とても残念ですが、この党には未来は感じられません。私自身は一番期待している党なのですが、基本的な組織原理が時代にあっていません。公明党と同じです。

選挙後の政治はどうなるか。
残念ながら、何かが変わる展望が持てません。
自民と民主が実質的に国政を私物化し、国民不在の政治がもうしばらく続くような気がします。

めちゃくちゃな予想ですが、この予想がひっくり返ることを心から願っています。
私の不明が明らかになれば、とてもうれしいです。

もしまだ投票に行っていない人がいたら、行ってくださるととてもうれしいです。
私の明日の暮らしに繋がっている選挙ですので。

■参議院選挙結果に思うこと(2007年7月30日)
昨日の番外編の選挙結果予想は、またまた肝心なことでは完全に間違いました。
どうでもいいことでは、少し当たりましたが。
政治評論家などは、これほどの変化は予想もしていないといいますが、私には変化のない結果でした。
日本はどうやら動きそうにもありません。

まず投票率は、亥年現象は起きませんでしたが、投票率はあまり高くなりませんでした。要するに、これまでも選挙に行っていた人は行ったものの、選挙と無縁に暮らしている人たちは、相変わらず行かなかったようです。
つまり構造変化はおきなかったということです。これは残念ながら予想通りです。

民主党は大勝しましたが、それ以外の野党はのびませんでした。
これは私の期待を完全に打ち砕きました。
民主党と自民党は、私には同じ政党に見えますので、民主党の大勝は日本の政治状況を何も変えないというのが私の考えです。
相変わらず「二大政党論」が語られているのが残念でした。
日本の政治をだめにしたのは、小選挙区制度と二大政党論だと私は思っていますので。

選挙後の政治は変わりそうです。
安倍首相がいち早く続投を表明したからです。
これでたぶん続投はなくなり、国民の怒りは高まるでしょうから、民主党はやりやすくなるでしょう。波風がもう少し続きそうです。

結局、私にとっては、何も変わらなかった選挙でした。

■「法律1本、世論3年」と「何でも見てやろう」(2007年7月31日)
小田実さんの訃報を聞きました。

先週、技術と暮らしを考えるサロンに参加したのですが、そのテーマが昨年亡くなった宇井純さんでした。
参加した40代以下の世代は、あまり宇井純さんのことを知りませんでした。
参加者の一人が、別の人の名前をあげて、その人は形として実績が残っているが、宇井さんの実績は何ですか、と質問しました。
ショックを受けました。
宇井さんは、いまや忘れられつつある人なのですね。

その時、思い出したのが、実は小田実さんです。
私にとっては、この2人は、知のあり方を教えてくれた人です。
そして私が育ってきた時代を象徴している人でもあります。
しかし、最近、その2人のことを私自身が忘れていたことに気づきました。
その矢先の訃報です。

私は残念ながら、宇井さんにも小田さんにもお会いしたことがありません。
雑誌や本でしか、その言動に触れたことはないのですが、この2人の生き方からは大きな刺激をもらっています。
現場から発想し、柔軟に発想し、自分の言葉で考え、考えたことは行動する、という生き方です。
私がそれを実現できているかどうかは確信がありませんが、極力、そうつとめてきました。

宇井さんは、日本に新しい学びの場を創出し、そこで学んだ人は少なくないでしょう。
小田さんは、新しい学び方を提案し、それに刺激された人は少ないでしょう。
宇井さんの言葉で、印象に残っているのは、「法律1本、世論3年」です。
公害基本法が成立し、それから少しずつ具体的な内容を持った実施法ができ、そのたびに問題があいまいにされていくことを指摘したものです(私の記憶が不正確かもしれません)。
これは昨今また繰り返されています。
小泉・安倍政権は法律を作ることで世論をおさえ、その矛盾が出てくるとまた次の法律をつくるということを繰り返しています。
法律を作ることは、政府の役割であっても、目的ではありません。

小田さんの言葉は、「何でも見てやろう」です。
それも自分の身体で、現場に行って見ていくわけです。
その背景には「まあどうにかなるやろ」精神があります。
小田さんといえば、「ベ平連」活動ですが、その活動自体も今では忘れられているのかもしれません。

2人とも、常に「暮らし」の視点にたっていました。
しかし、「自主講座」も「ベ平連」も、過去のものになりつつあるようです。
時代は再び、新しい学びの場、新しい平和運動の場を必要としているような気がしますが、宇井さんや小田さんのような実践の人がまた現れてくることを思わずにはいられません。
小田さんは、彼岸で何を見ているのでしょうか。
その旅行記を読みたいものです。

■子どもたちを戦場に送るために狂奔する中高年女性たち(2007年8月1日)
予め断っておきますが、非常識な暴論を書きます。
小泉前首相や安倍首相に握手を求め、声援を送っている中高年の女性たちから参政権を剥奪するのはどうでしょうか。

銀座の街頭で安倍続投の是非を問うという番組をテレビでやっていました。
結果は100人中、44人が続投支持でした。
テレビで観る限りでは、中高年の女性が多いようでした。
彼らは息子や孫を戦場に送りたいのでしょうか。
韓国のスターを追いかけたり、ブランドを買いまくったりする程度であれば同情もできますが、ここまでくると腹がたちます。
男性が粉骨砕身して働いている一方で、彼女たちは家庭も育てずに壊してきたのではないかと怒りを禁じえません。
彼女たちから参政権を剥奪するのはどうでしょう。

と昨日は思っていたのですが、今朝の朝日新聞に、電話での全国世論調査(電話)の結果がでていました。
40%の人が続投を支持しているというのです。
しかし不思議なのは、安倍内閣の支持率は26%だというのです。
安倍内閣不支持だが安倍続投は支持するというのはどう考えてもおかしな話です。
まともな頭の持ち主ではないでしょう。
日本人がそこまで愚かになったとは思いたくないので、この調査の信頼性に疑問をもちますが、それはともかく、続投支持に関して言えば、テレビでみた中高年女性の意見とこの調査結果はそう変わらないのです。
ということは、参政権を剥奪するのは女性だけではなく、全国民から剥奪すべきかもしれません。
そう思って、この暴論は書き込みをやめようと思ったのですが、また考えが変わりました。
もしかしたら電話調査に出たのは、テレビと同じ、中高年女性が多かったのかもしれません。あるいは意識と生活において、中高年女性と同じ閑暇な男性たちや若い女性たちと言ってもいいでしょう。
いずれにしろ最近流行の電話調査なるものに疑問を感じだしたのです。
世論調査などと改まって新聞に書かれると、なにやら信用してしまいますが、要するに銀座の街頭調査と同じレベルなのではないか。そんな気がしてきました。
「全国世論調査」などという表現を使ってほしくないと思います。
不当表示ではないでしょうか。

社会を壊したのは、企業に「滅私奉公」してきた私たち男性たちだという思いが私には強くありましたが、家庭を放棄した女性たちの生き方も大きな問題です。
最近の女性政治家たちを見ていて、そう思うようになってきました。

3年間も投票にも行かなかった人がなぜ政治家になれるのか。
彼女は政治をどう思っているのでしょうか。
少なくとも丸川さんは立候補を辞退すべきですし、情報民主主義等は公認を取り消すべきです。
それこそがけじめです。
こんな無責任な不心得ものが政治家になり続けているのが、小泉・安倍政権時代なのです。赤城問題と丸川問題は同じ話ではないでしょうか。
それに、丸川さんには恥というものはないのでしょうか。
彼女を支援する女性政治家も同類です。類は類を呼ぶのがよくわかります。
彼らこそ、中高年女性の象徴のような気がします。
彼らの参政権も剥奪したいものです。年齢はともかく、その言動はまさに昨今の中高年世代と同じです。

中高年女性たちの選挙権を剥奪したら、小泉・安倍時代は終わるのではないでしょうか。
そして子どもたちを戦場に送るために狂奔する政治は終わるのではないでしょうか。

日本の女性たちは変質してしまいました。
男性たちが変えたのでしょうか。
いや、そうした女性たちが男性を変えたに違いないと、私はひそかに思っています。
みなさんは大丈夫ですか。
女性は怖い存在です。はい。

なお、この記事に対する反論には一切回答はしません。
ブログ上も個人メールにもです。
なにしろ暴論なのですから。

■テレビキャスターの皆さん、バラバラに疑問を呈していないで、一緒に安倍退陣への風を起こしてください(2007年8月2日)
朝日新聞に自民党の地方幹部の意見調査結果が出ていました。
7割が首相続投だそうです。
一方で、安倍首相に対しては「政治家として未熟」とか「時代遅れの手法」とか、批判は多いそうです。
昨日書いた「中高年女性現象」は自民党地方幹部にも蔓延しています。自分のことしか考えていないような気がします。政治家ではなく、政治屋です。

赤城大臣辞任には、何をいまさらという意見が多いです。
選挙が終わった後では無意味だという議員も少なくありません。
枡添議員もそう話していましたが、なんだか哀しくなります。
みんなの頭にあるのは「選挙」だけなのです。
選挙のために選挙前には行動も起こさずに、よく言うねという気がします。。
枡添さんも政治屋でしかないことが露呈されました。残念です。
発想の根本が間違っているように思います。

続投支持者には安倍首相に代わる人がいないという人もいます。
これは安倍首相に対する最大の評価です。発言者はそれに気づいていません。
なぜ「代わる人」がいないかといえば、その評価基準が私利私欲にあるからです。
安倍首相よりも首相にふさわしい人がいないということの意味をわかっているのでしょうか。
わかっていないのはお前だといわれそうですが、たぶんそういう人と私とは拠って立つ場が違うのです。いや政治の捉え方が違うのです。

テレビで石破さんが首相は辞めるべきだと発言していましたが、これは私には理解できる説明でした。こういう人も自民党にはまだいます。彼らがなぜ離党しないのか不思議ですが。

選挙とは何なのか。
選挙結果もわからないままに、続投を決めるというのはどういう意味を持つのか。
青木さんと野中さんが進化させた、「私物化された密室政治」が相変わらず続いているようです。
どうして誰も、その暴走をとめられないのでしょうか。
いや、どうして一緒になって暴走しているのでしょうか。

政治家がだめなら、政治に関わる評論家やマスコミで影響力を持つキャスターたちが立ち上がっても良いように思います。
個々バラバラに「批判」しているだけでなく、国民に呼びかけて、首相更迭の風を起こすべきではないでしょうか。
国民が安倍政権に「ノー」といった事実をこのまま放置していたら、日本の政治はますますおかしくなっていくでしょう。
そうならないために、テレビキャスターができることはたくさんあります。
信念があればですが。

■いのちの大切さと学びの面白さ(2007年8月3日)
わが家の庭の南東の角にアズキナシの樹があります。
そこはわが家の狭い庭では一番目に付く場所です。
植えてから5年、大きく育ったのですが、毎年アブラムシがたくさんつくのです。
アブラムシが樹液を吸ったアブラムシが出す甘い排液にアリが集まり、またアリの排液で樹木のみならず、周辺が真っ黒になります。鉢などもあつまってきます。時にカミキリなども来ます。そうして周辺の草木は大きな被害を受けて元気を無くします。
これが自然の流れなのでしょうが、庭木としては選定を間違ったようです。
大胆に剪定したり、防虫剤を使ったり、まわりの草花の種類を変えたり、女房と娘はいろいろ工夫して、何とか問題を解決しようと取り組んできました。
しかしうまくいきません。
植え替えも考えたのですが、樹が大きくなっているため場所がありません。
昨年、庭の花や樹木の手入れをしている娘からついに伐採の提案がありました。
しかし、私は生きた樹を切るのはしのびなく、たとえ1本の樹であろうと生きている樹は切りたくないと主張したのですが、現場を管理している娘はアズキナシ1本を犠牲にすれば、たくさんの草花が生き生きしてくるのだから、私の考えこそ、いのちを大切にしていないというのです。
女房も娘も、枯れかかった花でも大事の育てて元気にします。
彼女たちの手にかかると、廃棄寸前の処分品がわが家では大きく育っていきます。そのおかげで、わが家の庭にはたくさんの花があります。
その2人からの2回目の提案なので今回は私も賛同しました。
2年間、アズキナシを守る努力をしてきましたので、アズキナシもゆるしてくれるだろうと女房が言いました。
それで、今日、塩で清めてお祈りし、アズキナシを伐採させてもらいました。
庭木1本伐るだけでも本当に心が痛みます。
こうした思いは、しばらく前までは日本人であれば、だれでもが持っていた感情だったように思います。
そうした文化や「いのち」への畏敬の念は自然とのふれあいの中で、私たち世代は学んできました。
私が勉強好きになったのは、小学4年の春に学外授業で学校からかなり離れたところにある沼に自然観察にいったおかげです。そこでいのちのすばらしさを学んだからです。今でも勉強は大好きです。新しい気づきにはわくわくします。
私にとっての勉強は教室で先生から教わるものではありません。
自然とのふれあい、情報(書物)とのふれあいのなかで、自分で気づいていくものでした。
いまの学校教育がうまくいかないのは、教室に閉じ込めてしまい、教師が教える仕組みだからではないかと思います。
自然や社会のなかで学ぶ仕組みをつくれば、学ぶことは面白く魅力的になります。
それに、学びはいのちや暮らしにつながっていないと面白くはありません。
考古学も天文学も、すべて私たちの日々の暮らしやいのちにつながっているのです。

今日、アズキナシに感謝をしながら伐採して、子どものころのわくわくするような学びを思い出しました。
ちなみにわが家には沢蟹もカブトムシも放し飼いにしています。
もっとも放した後、見かけることはないので、いまはどこかに出かけているかもしれないのですが。

■延命措置は希望されますか(2007年8月3日)
書こうかどうか迷ったのですが、書くことにしました。
これは女房には内緒の記事です。

医師から「延命措置は希望されますか」と訊かれたら、みなさんはどうしますか。
仮の話ではなく、私の女房が最近受けた質問です。
女房は「希望しません」と答えました。
これだけだと何ということのない話で、どこにも問題がないように思えるかもしれません。
しかし、私は大きなショックを受けました。

国立病院の緩和ケア科にかかりだした最初の日の質問です。
緩和ケアは、いわゆる狭義のホスピスとは違うという認識で、いろいろと苦痛の緩和について相談しようと思っていた矢先です。
緩和には肉体的苦痛の緩和もありますが、患者にはそれ以外の悩みや相談事もあります。そうしたことは専門的な医師にはなかなか相談できませんので(相談に乗ってくれる医師は少ないです)、治療的見地からではなく、治癒的な見地で相談に乗ってもらえると思っていたのです。
症状を説明し、いろいろと相談を始めた時に、医師からその質問を受けました。
私も同席していましたが、突然だったので驚きました。
私の反応が少し良くなかったのか(私は感情を隠せないのです)、医師は、いざとなった場合のことも想定して、一応お聞きしておくのですと補足しました。
もしそうであれば、そう断ってから訊くべきです。
せめて信頼関係が芽生えてから質問してほしかったと思います。
がんの場合、患者も家族も微妙な精神状況なのです。
それをわかることが緩和ケアの出発点のような気がします。

たった一言に過剰反応ではないかといわれそうですが、そうした「一言」が重要なのです。
その一言で、医師や病院の評価をするつもりはありませんが、そうした一言で、病気が悪化することもあるのです。
そのことに気づいてほしいと思いますが、やはり自らがその立場にならなければわからないものかもしれません。

北九州市の生活保護の問題も、そうした一言が引き起こしたのかもしれません。
光市母子殺害事件の弁護団も同じかもしれません。

ところで「延命措置」とは何なのか。
これについてはまた書きたいと思いますが、この言葉には現在の医療観が象徴されているような気がしています。
医療の分野での「言葉」の見直しが必要ではないかと最近感じています。

■病気との対峙といのちへの眼差し(2007年8月5日)
昨日、治療と治癒に言及しました。
以前も一度書きましたが、もう一度書きます。
ある人から「大きな病院の医師は治療の対象にしか興味を持たない」という言葉を聞いたからです。その人も医師でした。

治療の対象は「病気」です。治癒の対象は「人間」です。
そして、病気の治療が病人を治癒するという前提の中で、治療方法の解明が医学の進歩と考えられています。そうでしょうか。
昨日紹介した緩和ケア科での体験とは対極の、もう一つの体験を先週したのです。

先週、近くの訪問診療に取り組んでいるクリニックを訪問しました。
女房のがんが再発して以来、国立病院にかかっていましたが、そこでの関心は病気治療であって、ケアではないことがよくわかったので、治癒を支援してくれる医師を探したのです。そして在宅診療をしているクリニックの医師に出会えました。
そして迅速な対応をしてもらうことが出来ました。
医学への信頼を少し回復しつつあるとともに、私自身がいかに医療に無知だったかを思い知らされました。

私が当の病人であれば、その体験を克明に報告したいところですが、患者は女房ですので、勝手には報告できません。夫婦といえども意識は微妙に違うからです。
しかし、彼女の通院にはすべて同行し、医師の診察もほとんど体験させてもらいながら、現代の病院や医療体制の問題についてはいろいろと考えることがありました。
違和感や不信感もかなり蓄積されました。
もちろん個々の医師の熱心な仕事ぶりや病気を治そうとする熱意には感心することが多く、私たちも何回も病院の医師の献身的な行為に救われていますし、感謝もしています。とりわけ看護師たちの献身的な活動には頭が下がります。

しかし、そうだからこそ、正すべきことを正す必要があるという思いも高まっています。
基本が間違っていると、熱心に取り組めば取り組むほど、結果は逆に悪くなることもあるのです。もしかしたら、今の日本の病院はそういう状況に陥っているのではないかという気もします。ホリスティック医療の発想が欠落しています。
病院や医学の世界は、思い切ったパラダイム転換が必要なのかもしれません。

在宅診療を受けることになって、これまでのやり方とはかなり違うことを実感しました。
そこには「いのち」への眼差しがあるのです。
現在の大病院での外来診察とはまったくと言っていいほど違います。

「病気を診るな、病人を診よ」はヒポクラテス以来の治癒の基本です。
これは言い換えれば、治療ではなく治癒に心がけよ、ということではないかと思います。
治癒のために治療があるのであって、治療のために治癒があるわけではありません。

たとえばこういうことです。
がん治療は近代医学だけではまだ十分な対応はできない領域です。
ですから多くのがん患者は、サプリメントや民間療法に関心を持ちます。
病院に通いながらサプリメントを服用する人も少なくないでしょう。
しかしほとんどの病院ではいわゆる抗がん効果を表明しているサプリメントには否定的です。
私たちの場合、抗がん剤を飲む時にサプリメントは止めて下さいといわれました。理由は、何が効果があったか分からなくなるからだというのです。唖然としました。
もちろん副作用への心配も説明の中にありましたが。
患者にとっての関心は「何が効くか」ではなく「治癒されること」です。
何が効いたかはもちろん大切ですが、まずはよくなることです。
相乗効果でもいいのです。

厚生労働省の認可していないものは危険だから責任をもてないという論理も本当は成り立たない論理です。
薬害事件から明らかなように、認可したから危険性がないわけでもなく、認可したから効くともかぎりません。かつては抗がん剤と評価が高かった抗がん薬が、その後、効果がないことが判明した事例もあります。
そもそも抗がん効果の評価基準も極めてあいまいです。
このあたりは書き出すときりがないのですが、要するに抗がん剤と医薬品認可の下りていないサプリメントは、その効用や副作用において、所詮は連続しているのです。

エビデンスがないものは使えないと医師はいいます。この言葉もむなしい言葉です。
「科学」としての医療でのエビデンス(効用証拠)は、実際に効果があるかどうかとはほとんど無縁かもしれません。そのエビデンスの評価方法も極めてあいまいです。
短期間の病状回復でも効果ありとされるのです。
市販の怪しいサプリメントと大差はないのです。

治療には熱心に取り組むが、治癒にはあまり関心がない。
国立や大学などの病院の医師は、そうでないとやっていけないという話も聞きますが、患者の立場からは大きな違和感があります。
抗がん剤を飲むのをやめた患者は、医師には興味のない存在になるようです。
とても分かりやすい話ですが、どこかにおかしさがあるように思います。
そう思いませんか。

もちろん、そうでない医師も決して少なくはありません。
今回の指摘は、個人としての医師への批判ではなく、文化、仕組みとしての病院への問題提起です。
念のため。

■憲法と政党マニフェスト(2007年8月7日)
選挙後の参議院議員を対象とした朝日新聞と東京大学の調査によると、改憲賛成派は53%に減少したそうです。憲法9条改正に関して、賛成31%、反対50%だそうです。
選挙前とは状況は大きく変わっています。憲法改定という大きな問題への意識が、こうも簡単に変わってしまう国会議員への不信感もありますが、これでひとまずは戦争を目指す国家への道は少し止められそうです。
しかし本当にホッとしていいのかどうか。

憲法は国家の基本理念やビジョンを示すものであり、国家のアイデンティティに関わるものです。日本の憲法は、政治家と財界と憲法解釈学者によってずたずたにされてしまっていますが、そこに込められたコアバリューは明確です。
それが9条だと思いますが、そうした国家のコアバリューへの真剣なマニフェストを表明する政党が少ないのが残念です。
昨今のマニフェスト論議は、どうも実現性とか評価可能性とか具体性に関心が移っていますが、政党のマニフェストはやはり国家の基本である憲法との関係をもっと重視するとともに、日本のビジョンや国家理念を明確に謳うべきではないかと思います。
政党のマニフェストと個人のマニフェストは次元の違う話だと思いますが、それが混同されているのが現状です。
今回もまた、マニフェスト選挙だったという人も少なくありませんが、私には自民党も民主党も日本のビジョンやコアバリューに関して明確に宣言しているようには思えません。彼らが考える「日本の形」の違いも見えてきません。
それは両党とも、結局は現在の憲法や平和の理念に共感しておらず、経済に従属した市場主義的政府を目指しているからです。
形の上では二大政党のスタイルをとっていますが、結局は「双子の兄弟」の内輪の権力争いでしかないのです。

政党政治を続けるのであれば、政党はもっとしっかりした国家のアイデンティティやビジョン、理念を明確に打ち出すべきではないでしょうか。
それがあいまいな政党のマニフェストは全く意味がないような気がします。
政界再編成は、権力再編成であってはなりません。
ビジョンと理念を基準に、政党そのものの再編成をすべきではないかと思います。

広島の平和式典に安倍首相が参列していることに、やはり私にはどうしても違和感があります。

■クールビズとノーネクタイ(2007年8月11日)
民主党の西岡議員が、国会での審議でのネクタイ着用を提案したというニュースが報道されていました。この提案は評判がよろしくないようですが、私はそもそもクールビズなどという発想には大反対ですので、拍手を送りたいと思います。
ネクタイを絶対しろとは言いませんが、もう少し緊張感を持って国会の審議をしてほしいものです。
国会議員の多くは、国会とは昼寝の場所と考えているようですから(国会中継を見ていて、いつもそう感じます)、たしかにネクタイはパジャマにはふさわしいとはいえず、邪魔なのはわかりますが、国会とは何なのかをもう少し考えてほしいものです。
「衿を正さずに」国会議員としての仕事ができないことは、さまざまな議員不祥事が証明しています。

この提案に対して、テレビのワイドショーでは、民主党は温暖化防止に反対なのかなどと馬鹿なコメントをわけのわからないタレントやキャスターに発言させていますが、ネクタイと温暖化防止とは全くと言っていいほど関係がありません。
それよりも、無意味な番組を作って放映しているほうが、よほど温暖化に役立っていることを反省してほしいですが、自らの生き方も含めて、そう発言している人ほど温暖化防止行為などとっていないはずです。

それにノーネクタイとクールビズは関係はありますが、本来は全く別のものです。
なぜ短絡的にクールビズとノーネクタイをつなげるのか、私には理解できません。
環境問題に取り組むのであれば、もう少し真剣に取り組むべきですし、そもそも審議の仕方それ自体も変えればいいでしょう。
ネクタイをはずせば涼しくなるわけでもなく、むしろ大事なものを失うような気がします。

服装は意識に大きな影響を与えます。
最近、国会議員の意識や規律がおかしくなっているのは、ネクタイをはずしたからではないかとさえ思います。

私の考えは古いでしょうか。

■政府の危機と国家の危機(2007年8月12日)
参議院選挙での自民大敗により、自民党および政府はかなりの危機感を持ってきているようです。
おそらく危機感を持っていないのは、裸の王様の阿部首相だけかもしれません。
首相続投の是非が相変わらずテレビなどで議論されていますが、これは是非を問うべき問題ではありません。
まともな常識を持っている人ならば、答えはおのずと明快です。
「続投」を肯定する国民がかなりの数いることは驚きですが、これがまさに日本の「民度」でもあります。

昨年亡くなった宇井純さんは、自主講座公害原論で、「政府は、公害の反対を封ずるための町村合併を進めたが、自治体の合併を許すほど、われわれ一人一人の自治権力意識というのは弱体だった」と語っていましたが、まさに日本人の自治意識(政治意識)や主体性は、いまや大正デモクラシー以前に戻ってしまったのかもしれません。
政府による、見事な国民教育の結果であり、パンとサーカス政策の成果です。
平成の市町村合併は、見事にまた国民の自治意識を奪い取りました。

今回の選挙結果は、国民の主体性あるいは自治意識(政治意識)の復活なのでしょうか。
そう思いたいところですが、そうも思えないのが残念です。
国民のなかに「風」は起こりそうもないからです。

ところで、自民党の危機と政府の危機とは別のものです。
そして、政府の危機と国家の危機もまた、別のものです。
それは少し考えたらわかることです。
国家をだめにした政府は私たちも体験したことがありますし、今なお世界各地には国家を食い物にしている政府は少なくありません。
極端にいえば、政府と国民の利害は対立することの方が、まだ多いかもしれません。

いまの政府の混乱は決して国家の混乱ではありません。
むしろ「国家」と「政府」を混同して考えることになじんでしまっている風潮を見直す好機かもしれません。
しかし、そうはいうものの、政府の混乱が国家の危機につながることがないとはいえません。政府の混乱は、国際関係においては政治をとめるからです。

政府の危機には、「殿、ご乱心」と諫言する志が出ましたが、国家の危機にはだれが声を上げるのでしょうか。

■家事やボランティア活動と賃仕事(2007年8月14日)
女房が病気になったおかげで、家事、あるいは仕事の意味のようなものを考える機会をもらいました。これまでも頭ではいろいろと考えてはいたのですが、実際に家事の一部を主体的にやってみると、また思いも深まります。
それにしても、私の人生は女房による「家事」に支えられてきたことがよくわかりました。
言い換えれば、資本主義経済は家事により支えられてきたにもかかわらずに、その「仕事」はシャドーワークでしかなかったわけです。

仕事というと最近では「賃仕事」、つまり対価をもらう仕事をイメージしがちです。
しかし、人類の長い歴史のなかでは、賃仕事は仕事の中のほんの一部だったはずです。
対価を貰う仕事が主流になったのは、20世紀になってからかもしれません。
それは「貨幣」の世界の広がりとつながっています。
世界が貨幣によって支配されだすとともに、仕事の効用は貨幣で測られるようになってしまいました。
商品に対する「貨幣の王権」(プルードン)は、仕事に対しても支配力を広げていったのです。
貨幣の呪縛から脱却しない限り、私たちは仕事の主役にはなれず、主体的に生きる人生は送れないのです。
お金は主体性を得るためのものではなく、主体性を奪うものです。

大切なのは、仕事の「貨幣的対価」ではなく、仕事の「生活(社会)への効用(役立ち)」です。
貨幣経済の発展と共に、仕事の中心は賃仕事に移ってしまったわけですが、賃仕事を支えているのは、私たちの暮らしを支えている、さまざまな、貨幣的対価のない「仕事」のおかげです。
とりわけ「日常生活」を支える家事が、私の仕事をどれだけ支えてきたか、女房が家事を出来なくなってから、痛感させられています。企業での仕事や自分のビジネス活動に専念できたのは、家庭という生活基盤があったればこそであり、モチベーションの源泉がしっかりしていたからです。
その視点に立てば、労働対価の算定方法は基本から考え直すべきでしょう。

やってみるとわかりますが、「家事」は大変です。
際限がなく、日々、新しく、創造的でもあれば、想像的でもあります。
私はこれまで家事をほとんどすべて女房や娘に依存してきました。
そのありがたみを、自分で家事の一部をやり出してようやく理解できてきました。
私がこれまでやってきた仕事などは、家事に比べれば瑣末で簡単なものでしかないのかもしれません。仕事は誰でもできますが、家事はそうはいきません。

みなさんも企業などで社会的価値ある仕事に取り組まれていると思いますが、時にそれを支えているさまざまな「仕事」に思いを馳せることをお勧めします。
そうすれば、家事やボランティアへの評価も変わるかもしれません。
地域活動や広域のボランティア活動は、賃仕事の合間に社会還元的発想で考えるべきものではなく、そうした活動こそが賃仕事を支えていることが実感できるかもしれません。


■シビリアン・コントロールの歯止めの喪失(2007年8月15日)
我孫子で、地に足つけた平和活動に取り組んでいる豊田さんから教えてもらったのですが、参議院議員になった元サマワ先遣隊長、佐藤正久さんが集団的自衛権の論議の中で、イラク在留中に、国民を騙して戦争状態をつくりだすつもりだったとTBSの報道の中で発言していたそうです。
そのことはTBSニュースのサイトに紹介されています。
http://news.tbs.co.jp/20070810/newseye/tbs_newseye3630843.html
この記事は時間がたつと削除されるでしょうから、一部を引用再録しておきます。

イラクに派遣された陸上自衛隊の指揮官だった佐藤正久氏は、当時現場では、事実上の「駆けつけ警護」を行う考えだったことをJNNの取材に対して明かしました。
(中略)
佐藤氏は、もしオランダ軍が攻撃を受ければ、「情報収集の名目で現場に駆けつけ、あえて巻き込まれる」という状況を作り出すことで、憲法に違反しない形で警護するつもりだったといいます。
「巻き込まれない限りは正当防衛・緊急避難の状況は作れませんから。目の前で苦しんでいる仲間がいる。普通に考えて手をさしのべるべきだという時は(警護に)行ったと思うんですけどね。その代わり、日本の法律で裁かれるのであれば喜んで裁かれてやろうと」(佐藤正久)

「駆けつけ警護」とは、味方である他国の軍隊が攻撃された場合、駆けつけて応戦することですが、正当防衛を超えるとして憲法違反とされています。しかし、集団的自衛権に関する政府の有識者会議では、それを認めようという議論になっているようです。
佐藤正久さんはテレビでのニュースショーなどにも参加してきていますが、その発言にはかなりの危うさを感じます。戦争の現場を知っているといいますが、世界を知らなすぎるように思います。最近は、そういう人も増えました。

テロ対策特別措置法が問題になっています。
小沢さんの強い「ノー」の表明で、この問題がようやくみんなの関心を呼び起こしそうですし、その実態があぶりだされそうです。
アフガンやイラクで、自衛隊の人たちが何をしているか、私たちはほとんど知りません。
テロ対策といいますが、テロリストは誰なのかの議論すらあります。
見方によっては、私たち自身がテロリストに加担しているということもありえます。

シビリアン・コントロールの出発点は、実態を国民が知ることです。
そうしないと現場しか知らない人が独走してしまいかねません。
太平洋戦争もベトナム戦争も、そうでした。
国民の知らないうちに、戦争は始まるのです。
シビリアン・コントロールを壊すのは簡単なのです。

それにしても、小泉郵政選挙以来、おかしな人が国会議員になりだしました。
選挙に行かなかった丸川さん、国民を騙して戦争状態をつくりだすことに何の違和感ももたない軍人、こんな人たちが国会に紛れ込み出したのです。
国会はもはや権威を失墜しています。
平和憲法を捨てて、戦争に向けて動き出そうとしています。

ちょっと過剰反応でしょうか。
しかし、日本もドイツも、そうやって戦争に突入して行ったのです。
今日は終戦記念日です。虚しさで元気が出ませんが。

私は6年前に、テロ対策特別措置法が議論されていたときに、大学卒業以来初めて女房と一緒に反対デモに参加しました。あの頃から日本は急速に右傾化し、戦争に向かっています。平和を捨てようとしている人たちが政府を牛耳り出したのです。

その閣僚の一人が、原爆投下は「しょうがなかった」と発言して大問題になりました。
私は、その発言はそう大した発言ではないと思っていましたが、問題は大きくなって生きましたし、その発言は許せないと言う声はどんどん高まっています。
しかし、私は、核の傘のもとに入り、情報公開も不十分なままに原子力発電に積極的に推進する政府を許していることのほうがもっと深刻なのではないかと思っています。

■不戦の誓いの出発点は憲法9条の堅持でしょう(2007年8月15日)
62回目の終戦記念日です。
広島・長崎への原爆投下日は、おそらくだれもが意識し、意識させられますが、終戦記念日はあまり意識することもなく過ごしがちです。
知人が今日を「日本建国記念日」にしようという提案をメーリングリストで流してきましたが、今日が祝日になっていないのは確かに不思議です。
8月15日は、私たちの新しい歴史の出発点ですから、もっとしっかりと意識する仕組みがあっていいように思います。

今日の全国戦没者追悼式で、安部首相は「不戦の誓いを堅持」と表明したと報道されています。
この表現は、小泉前首相と同じものだそうですが、憲法9条を変えて戦争の世界に復帰しようということを実践している人が唱える「不戦の誓い」とは何なのか、私には理解しがたいことです。
言葉遊びはやめて、具体的に不戦への行動を起してほしいものです。
その出発点は、不戦を誓い、不戦の仕組みを明言した日本国憲法9条を堅持することの明言です。
そして、核の傘に守られるような国策の見直しです。
核の傘に守られながら、ノーモア広島を叫ぶことには大きな違和感があります。
その発想は、久間前防衛相の「しょうがない」発想と同じなのではないかと思います。さらに、私自身は脱原子力発電もビジョンとして掲げるべきだと思います。
核兵器と原子力発電は、結局は同じものです。

戦争終結から62年。
「終戦記念日」をいつまで続けられるのか、不安です。

■戦後レジームからの脱却の意味すること(2007年8月16日)
河野洋平衆院議長が、全国戦没者追悼式で「海外での武力行使を自ら禁じた日本国憲法に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んできた」と語りました。
安倍首相は、「美しい国」を目指して、「戦後レジームからの脱却」を標榜しています。
河野議長がいう「新しいレジーム」と阿部首相のいう「戦後レジーム」は同じものなのでしょうか。
これまでの2人の言動を踏まえて考えれば、同じものだと考えるのがいいでしょう。
そう考えていくと、安倍首相が壊そうとしているレジームが見えてきます。

レジームとは「体制」という意味ですが、体制は「理念」と具体的な「仕組み」から成り立っています。
戦後レジームの理念は日本国憲法です。
具体的にいえば、国民主権、基本的人権の尊重、そして戦争放棄です。
それを否定する動きが、この数年高まっているわけですが、「戦後レジームからの脱却」とは、そうした理念を否定し、憲法を変え、国民主権を骨抜きにして、基本的人権は抑圧し、国民を戦争に引き込もうと言うことです。
すでにそうした動きは、昨日書いた佐藤正久議員のようにかなり現実的な話になって来ています。
書きすぎだといわれるかもしれませんが、簡単に言えば、そういうことでしょう。
要するに、核兵器を使える国になりたいということです。
飛躍があるというかもしれませんが、素直に考えればそういうことではないかと思います。

ちょっと長くなりそうなので、今日はここまでにします。

■戦後レジームと整合しなかった政治の仕組み(2007年8月17日)
昨日の続きです。

「戦後レジーム」という言葉に込められている仕組みについて、考えてみたいと思います。
おそらく安倍首相が述べているのは、こちらのほうに重点があるような気がします。
多くの場合、体制は仕組みと考えられがちですから。
しかし、いうまでもなく、レジームの本質は理念であって、仕組みではありません。
ただし、レジームの理念は現実の仕組みによって実体化されます。

その意味では、戦後レジームは必ずしも「国民主権」「人権尊重」「戦争放棄」ではなかったかもしれません。
そこで、話はややこしくなります。
理念と整合していなかった「戦後レジーム」を正す、という考えが成り立つからです。
もちろん、安倍首相の提唱する「戦後レジームからの脱却」は、これとは正反対の考えです。

実はそこにこそ問題があります。
全く正反対のことが同じ言葉に含意されるために、本来的な意味での議論も合意も成り立たなくなり、同床異夢のままに思わぬ結果に到達することがあるのです。
これが、民主主義の落とし穴の一つです。
改憲も靖国も、民営化も年金もすべてそうしたなかで、問題の本質は何も問われないままに誘導されてしまうこともあるのです。
気がついた時には、多分、後の祭りというわけです。