第2章 トム&ジェリー |
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| Tom & Jerry |
ドン(Don)&フィル(Phil)・エヴァリー(Everly)の緊密で,鼻にかかったハーモニーは,どきどきするような新しいサウンドだった。初めて『バイ・バイ・ラヴ(Bye Bye Love)』を聞いたとき,ポールはアーティに電話し,2人でレコードを買いに行った。彼らの曲が次々にチャートを上がり,ポールとアートは彼らと同じようなサウンドを作り出そうとしていた。後に,ポールとアートは自分達のアイドルの曲を数曲トリビュートして録音している。有名な『バイ・バイ・ラヴ』と『起きろよスージー(Wake Up, Little Susie)』である。ポールにとって,彼らの名前も魅力だった。「フォレスト・ヒルズには,エヴァリーなんて名前の人はいなかった。皆スタインバーグとかシュワーツ,ワインシュタインとかでね。」 まだ中学生だったが,2人は空いた時間に一緒に歌う練習を始めた。アートによると,「非常にプロフェッショナルなやり方」だったそうだ。アートの2台のテープレコーダーを使い,ハーモニーを多重録音して,「本当に人が歌っているように」することが出来た。サイモン家の(注:ガーファンクルの間違い?)地下室で,熱心で真剣なセッションが行われていた。アートはこう語っている。「向かい合って座って,お互いの口の中を覗き込んで,口調をコピーしあった。ポールがTを発音する時に舌が口蓋のどこに当たるのかを知りたかった。そしてほぼぴったりに合わせられて,そのうちそれよりもっと正確に合わせられるようになる。それが本当にプロっぽく聞こえるかどうかの差なんだ。」 この細心の注意,完璧への執念こそが,独自のサイモン&ガーファンクルの音を作り出していったのだ。2人のパートナーシップの端緒から,秒刻みのタイミングでブレンドする2人の声がゴールだった。アートが要約するところによると,彼らはその秘訣を既に14歳にして身につけていた。「精確にできるようになったら,落ち着かせて,苦労の跡が見えないようにするんだ。」 スタイルが確立すると,彼らは歌う舞台を求めだした。パーティ,家族の集まり,学校行事等。クルーカッツの歌をよく演奏した。『Sh-boom』,『Crazy 'bout You Baby』が得意だった。1955年の春,2人はデュオとして初めて公式の場に登場した。パーソンズ・ジュニア・ハイの学校集会で『Sh-boom』をアカペラで歌ったのだ。つましいものだが,彼らにとって出発点だった。 1955年の6月,ポールとアーティはパーソンズ中学から戻ってきた。2人はかなりほっとした。ポールはそれから2ヶ月間,ロングアイランドでのサマーキャンプに向かった。概して,ポールにとって幸せな時期だった。弟のエディは9歳で,元気な仲間に育っていた。2人の関係は共通の趣味と,健全な競争心に基づいていた。4歳離れていたが,仕草や喋り方は本当にそっくりだった。ポールの方が1インチ背が高かったが,外見も瓜二つだった。 この夏のことが,ポールにはとても良い思い出として残っている。中でも学校が休暇に入り,両親が一日留守にしていたある6月の午後のことだ。ルイス・サイモンはCBSのアーサー・ゴッドフリー・ショウの録音のため,朝早くからマンハッタンに向かった。ベルは買物に出ていた。 ポールとエディは第165公立学校の校庭で野球をしていた。突然強い夕立に見舞われ,2人は中断して家に駆け戻った。服もまだ湿ったまま,兄弟は自分達の寝室でゲームを続けた。部屋の端にバッターボックスがあると想像した。ベッドが2つ,家具もあるぎゅうぎゅう詰めの野球場だ。ボールには,車の窓につるすような,フォームラバー製のサイコロを使った。窓ガラスで跳ねて,室内のゲームには最適だった。 2人は巧みにプレーし,どちらも一歩も譲らなかった。0対0の同点のまま30イニング続けて,譲らないこともあった。2人にはその数年間で身体持久力がついていった。エディの方が年下であったが,強力な沈むカーブを投げる遊撃手であった。ポールは右打席で上方へ突き上げるようなすばらしい打撃をもち,優れた外野手,盗塁の名手であり,ゲームに勝つという決意のもと常に容赦なく攻撃していった。 ポールは投球フォームをまねながらコメンテーターごっこをすることが好きだった。そして “毎回最後の一戦のために引退から復帰してくる”ヤンキースのチャンピオンの役をした。兄弟は自分たちの名前を考え出した。ジョージとミッキーのマフチャティエリー(Muffchatiery)兄弟である。どちらもすばらしいセンスで観客を想定し,一息ついては想像上の群衆に声をかけた。家の中には兄弟の興奮した笑いと,どちらかが点を取ったときの勝利の叫び声が響き渡っていた。「弟と僕はどうやって楽しむかわかっていたんだ。」とポールは言った。 兄弟は他の遊び,レスリング,バスケットボール,地下室での変則ホッケーなどもしていた。ポールは野球カード返しの達人でもあった。壁に対して極々正確にカードを着地させることができた。部屋で何時間も練習していたのだ。加えて地元のスティックボールのチャンピオンだった。「クイーンズでは,スティックボールで賭けもしていた。1戦目はわざと負けて相手を油断させて,2戦目の賭け金を倍にするんだ。」 調子のいい日には,ポールは15〜20ドル稼ぐこともあった。 1955年の秋に,ポールとアーティは新入生として,フォレスト・ヒルズ高校で第10学年を始めた。友情が共同作業関係へと育ったのは正にこの時期であった。彼らは学校で切っても切れない仲となった。お仕置き居残りすら一緒だった。 男の子にとって,何か楽器を演奏することは大切なことだと思っていたので,ルイス・サイモンはポールにピアノを教えようとした。「でもうまくいかなかった。だから父は僕に教えるのを諦めて,弟に教えることにしたんだ。」 1955年10月,ルイスはポールの14歳の誕生日に,演奏を覚えるのを願って,25ドルのスタジアム・ギターをプレゼントした。エディはすでにクラシック・ギターを習い,上達していた。数少ないインタビューの中で,エディは兄が最初はつまずきがちだったことを語っている。「誰もポールがギターがうまくなると思ってはいなかった。ギターをもらった日,ポールは座って一本調子の曲をつまびいていた。あまり見込みがあるようには聞こえなかったよ。」 しかし彼の特徴である固い決意をもって,ポールは本気で取り組み始め,自身の音楽的背景にも助けられ,急速に上達していった。 ルイスはポールが音楽的なキャリアを積むことを本当に励ましたとはいえなかった。自身は成功した音楽家であったが,プロとしての年月は,ミュージシャンがいかに不安定な職業かという考えをルイスにもたらしていた。ルイスとベル夫婦は息子たちに,安定した職業―弁護士のような―に就いて欲しがった。ポールはロン・ゴダードにこう語っている。「両親はこう言っていた。『ばかばかしい。お前は一日6時間もギターを弾いている。一日6時間勉強すべきだ。いったい何になりたいんだ,ミュージシャンにでもなりたいのか?』って。」皮肉なことに,ポールもエディも本当にミュージシャンになった。父親の跡をついで。しかしそれでもルイスは長男に節度を持って音楽を続けることを勧めていた。「そう,ギターを弾いて。ただし趣味としてな。」 いまやポールはある程度ギターの腕前を身につけ,ポールとアーティはエヴァリー・ブラザーズスタイルの軽快なロックンロールの曲を作り始めた。2人は最初の試みに,公式用紙に記入して米国議会図書館に料金4ドルと共に送り,ティーンエイジのラブ・ソング,『The Girl for Me』を著作権登録までした。彼らは本気だった。 2人は自分たちの歌を売り込もうと決意した。放課後や土曜日,マンハッタンへと向かった。アートの表現によると,「あのほんとにぞっとする地下鉄旅行」。ポールはギターを持ち,2人ともスターになるという夢を育んでいた。自分たちの好きなレコードからレコード会社の住所を書き写していた。「良いレコードを製作している会社なら,自分たちを受け入れてくれるだろう。」と思ったためだ。 彼らは間違っていた。レコード会社は15歳の少年2人に興味を示さなかった。少年たちは一緒に50番街通りブロードウェイのブリルビル(Brill Building)のドアを叩いたが,返事は落胆するものばかりだった。アートはこう語っている。「へんてこな興奮した黒人か,すごく太った葉巻をふかしたユダヤ人ビジネスマンがいて。みんなすごくぶっきらぼうで,その世界に入り込むのは本当に大変なことだって思い知らされたよ。」 |
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彼らはお互いに励ましあいながら,勇気を出して挑戦し続けた。自分たちをトム&ジェリー(Tom&Jerry)と名づけた。自分たちが望む,ポップなイメージに近いと思ったからだ。ポールはスー・ランディス(Sue Landis)という名の女の子が好きだったのでジェリー・ランディス(Jerry Landis)。アートはトム・グラフ(Tom Graph)。彼のお気に入りであり,最も夢中となっていた趣味である,巨大なグラフ用紙にヒットレコードの推移を書き込むことに敬意を表して選んだ名前だ。その趣味はアートの数学とデザインに対しての愛情の最初の現われだったのかもしれない。 2人は歌を書き続け,その歌を発表しようとしていたが,不首尾に終わった。アートはこう言う。「うまくいかなかったよ。誰も僕たちが良いって気づかなかった。皆ビジネスマンで,ヒットを飛ばす子供たちとは世代が離れていて,信用しなかったんだ。」レコード会社一社とは契約を交わしたが,何も録音はしなかった。単に9ヶ月法的に拘束されただけだった。 挫折を感じ,彼らはあきらめることを考え始めた。「ポールがあの頃の原動力の大部分だったんだ。」とアートは語る。実際には,ポールには他の個人的な欲求不満があった。身長が5フィート2インチになったとたん,成長が止まってしまったのだ。そのため,他の成功も―満足感を与えてはくれたが―ある種の苦味を帯びることとなった。「うまくやっていたよ。野球チームでは一番を打っていたし。そのチームはレタード・ジャケットを着ることもできた。他にもジャケットに色々な文字をつけていた。」学校では人気者だったし,アーティとすばらしい友情を築き,才能を理解し,支えてくれる弟や両親に恵まれていた。でも多くの若者と同様,ポールは不器用でシャイであり,背が伸びないことは,彼を自意識過剰にした。「ずっと腹を立てていたんだ,多分背が伸びないことについてね。すごく怒りっぽかった。自分一人で長い時間を過ごした。ギターを弾きながらね。」 ギターを弾くことはちゃんと報われた。おそらくは怒りも。その怒りこそが,彼らの夢を一途に追求することを勇気づけたのだろう。その怒りこそが,若者の欲求不満をやる気へと変化させ,そのやる気がアーティを動かしていたのだ。 アートとポールはレコードを作るのに,最後の挑戦をしようと決意した。1957年の前半に,彼らは7th Avenueのサンダーズ・レコーディング・スタジオで2ドルでデモディスクを録音した。あまりこのデモに期待はしていなかった。準備していたのは2曲で,アセテートにすぐに焼き付けていった。すなわち間違っても消すことはできないのだ。文字通りの一発録りだった。 自作曲『ヘイ・スクールガール(Hey Schoolgirl)』を歌った。次の曲を録音するまでの休憩時間に,シド・プローゼン(Sid Prosen)が2人に声をかけてきた。2人のあとにスタジオを予約していた彼は,待合室で2人が歌うのを聞いていたのだ。アートはローリング・ストーン誌のインタビューで,そっけなくこう語っている。「シド・プローゼンはこう言ったんだ。『録音が終わったら,君たちに話したいことがある。』そして後で,本当に重々しくこう言った。『エヴァリー・ブラザーズ以来の逸材だ。君たちをスターにしよう。』って。その頃には,本物とにせもののオファーを見分けるくらいの経験は積んでいた。僕たちはこう答えた。『60日以内にレコーディングとレコード発売をするなら,契約するよ。』彼は必ずそうすると答えた。だから僕たちはサインして,後は録音して,それをリリースしたんだ。」 『ヘイ・スクールガール』は1957年の秋にリリースされた。典型的な当時の元気いっぱいの曲で,活発にハーモニーを効かせて,同じクラスの少女への少年の愛が歌い上げられていた。B面はいきいきしたナンバー『ダンシング・ワイルド(Dancin' Wild)』だった。プローゼンはそのシングルをビック・レコード・レーベル―実際はとても小さな会社だったが―からリリースした。78回転と45回転のレコードが発売された。 ポールとアートは宣伝のために地元で演奏した。プローゼンは2人のために新しい衣装を準備した。赤いブレザーと白いローファー靴である。2人が実際にそうであるように,若くフレッシュなイメージだった。ディック・クラーク(Dick Clark)がホストを務める人気TVショー,『アメリカン・バンドスタンド(American Bandstand)』出演の機会まで訪れた。番組を見るためだけに帰宅を急ぐ全米のティーンエイジャーの一員であった彼らにとって,重要なステップだった。とてつもない高視聴率だった。フィラデルフィアの地元の人たちは今でも,ショーで踊るためにスタジオに入るのを辛抱強く待っている,マーケットストリートの長蛇の列を覚えている。 アートはこの番組に出演することに,複雑な感情を抱いていた。緊張して,同時にスリルを感じていた。「スターと一緒にそこにいたとき,自分は取るに足らない者だって気分だった。フィラデルフィアのそのビルに入っていくと,廊下に郵便袋が何袋も置かれていてね。」 アートはいつの日かトム&ジェリー宛のファンレターも届くことを願ったに違いない。 こんな目もくらむような成功のときでも,つらい瞬間があった。その日,アーティは傷ついた。「オン・エアの30分前に手洗いに立ったら,テレビで見たことのある男の子が2人,僕の隣で用を足したんだ。1人が「今日は,誰が出るんだ?」「トム&ジェリーとかって名前のやつらだよ。」「まぬけな名前だな,誰だよ?」 スターになるのは大変だってわかったよ。」 ショーは1957年の感謝祭の日,全米で放映された。2人はジェリー・リー・ルイス(Jerry Lee Lewis)が『火の玉ロック(Great Balls of Fire)』を演奏した直後にステージに上った。ポールによると「あの後に演奏するのは大変だった。彼(ジェリー)とはショーの前にも後にも会うことはなかったけどね。実際のところ,僕たちはおびえすぎていたんだと思うよ。」おびえていたにしろいないにしろ,ポールはそれが大好きだった。「本当にぞくぞくした。毎日『アメリカン・バンドスタンド』を見ていて,今やそのステージに立って演奏してるんだから。ご近所のヒーローになったし。」 とても悲しいことだが,この『ヘイ・スクールガール』の演奏はもはや見ることができない。数年後,特別番組の作成中に,ディック・クラークは『アメリカン・バンドスタンド』のこの回が消失していることを発見してがっかりした。トム&ジェリーの正に最初のパフォーマンスを後世に伝えることはできなくなった。 ショーの後,アーティとポールはシンシナティ市を飛び回り,4日間レコードのプロモーションをした。うれしいことに,ハートフォード・ステート・シアターで正式な契約を結ぶことができた。黒人リズム&ブルース歌手(全員有名で,プロ)と共演の9回公演である。アートは皮肉っぽくこう言った。「僕たちは白人グループで,ちょっとした息抜き扱いだった。」ポールによればこうだった。「僕たちはクイーンズ出身の2人の白人のガキで,全員黒人の観客に向けて,どことなくエヴァリー・ブラザーズ風の演奏をしたのさ。」 今や学校や近所では,彼らは有名人といってよく,2人はその1秒1秒を楽しんだ。ポールが言うには,「クイーンズ近辺や高校では大物だった。」その頃彼らはかなり定期的に,プロとして演奏していた。全国放送のテレビショーに出演,レコードもヒットしたのだ。 シングルはビルボードトップ100に9週間とどまり,1958年の初め頃の週に,最高位59位に入った。地域チャートではトップ10位に入った(1位にはならなかったが)。最終的には,『ヘイ・スクールガール』は10万枚売れた。アートは「中ヒット」と言っているが,タフな業界に入って,他の候補者や,経験のあるプロとの激しい競争に身を投じたばかりの16歳の少年2人にとっては偉業であろう。 しかし彼らの2枚目のシングルはそううまくはいかなかった。そしてビッグ・レコードも倒産してしまった。プローゼンはすぐにデュオを別の小さなレーベル,ハントに移籍し,情熱的なバラード『ザッツ・マイ・ストーリー(That's My Story)』を出した。その曲も売れなかった。後にポールは,彼の特徴である簡潔さ―幾分不正確でもあるが―をもってこのように描写した。「次はこけて,その次も売れなかった。会社が潰れて,全てが終わった。だから僕たちは学校に戻ったんだ。」 実際のところは,彼らが学校を離れたことなどなかった。2人はシングルレコードのことにがっかりはしていたが,勉強も一生懸命続けており,人生の成功の計画を育んでいた。アートは16歳だった。「僕は大学入学の準備をしている少年で,まともな暮らし(decent living)を送る道を探していた。」 ポールはこう語る。「歌うのは大好きだった。けれど僕たちは高校に通う子供だった。その後は大学へ行きたいと思うようになった。」 ポールはレコードで稼いだ金で車を1台買った。その赤いインパラ・コンバーチブルはポールの自慢だった。しかしある晩,アーティが住むブロックの角で,キャブレターが3つ燃えてしまった。ポールが車から飛び出るのと,車が爆発したのはほぼ同時だった。あやうく命を失うところだった。ポールは通りに立ち尽くし,無力に「レコードの自分の取り分が燃え尽きるのを」見つめていた。その後,他のレコードや他の車を数多く手にするのだが,当時のポールは知らなかった。 2人はショービジネスのスリルを味わい,そのスリルは忘れがたかった。ポールは葛藤を感じていた。「僕たちは音楽を一生の仕事として続ける気はなかったけど,面白半分でやったわけではなかった。なんにでも本当に真剣に取り組んでいたんだ。僕たちはレコードを作るのが大好きだった。」 アーティの感じたジレンマはもっと複雑だった。アートはショービジネスの世界ではなく,学問の世界で身を立てたいと望んでいた。「こういう方法で生計を立てることになるって真剣に考えたことなんてなかった。遅かれ早かれ自分はもっとちゃんとしたことをするようになると思っていたんだ。でもずっと有名になりたいって思っていたことは確かだけどね。」 『ヘイ・スクールガール』の成功は相対的にはささやかなものだったが,それでもアーティが引きずり込まれるだろうビジネスの初体験だった。ヒット曲1作と完璧な声に恵まれた16歳の少年にとって,目指している学究生活と,大好きなパフォーマンスの生活との間で綱引きが始まった。この葛藤はこの後一生続くこととなる。 |
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