第3章 大学 |
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| College |
ポールとアーティは1958年の夏に高校を卒業し,どちらも進学した。しばらくの間,少なくとも地理的には2人の道は分かれた。アートはニューヨークウェストサイドのすばらしい大学,コロンビア大学に入学した。1958年の冬には,マンハッタンにアパートを借り,真剣に勉学に打ち込んだ。彼は建築を専攻することにした。後に全く不適切な理由で選択したと述べているが。 「"建築(architect)"という言葉の響きに魅了されたんだ。・・・語尾の"tect"の歯切れのよさ。立派なもののように響いたし。・・・パイプをくわえて,コーデュロイズボンを身につけ,ゴム底の靴を履いてね。」 ポールは自宅からほんの数マイルに位置するクイーンズ・カレッジを選んだ。英文学を専攻することに決めた。詩人のe.e.カミングスが高校にやってきて,自作の詩を朗読した時にポールは深い感銘を受けたのだ。くわえて,「その頃の僕にはガールフレンドか,遠くから崇拝していた女の子がいたんだと思う。彼女が英文学を専攻していたから,僕もそうすることに決めたんだ。」 取り掛かってみると,ポールは好きなものを発見したことが判明した。すなわち後のポール自身のライティングに影響を与える文学の豊穣である。ジェイムズ・ジョイスに夢中になった。現在でもポール自慢の逸品の1つは『ユリシーズ』のジョイスサイン本である。熱心に本を読んだ。カーソン・マッカラーズの小説や,T.S.エリオット,ロバート・フロスト,エミリー・ディキンソン達の詩。後にポールはこの時期を自分の人格形成の時期だったとみなすこととなる。「他の人達とは違う道を歩みだしたのは正にあの時だった。」 しかしまだ音楽の道を模索もしていた。今度はソロとして。ポールはデモレコードを作って小遣いを稼いでいた。フランキー・アヴァロンやザ・フリートウッズのようなスターのスタイルをまねる才能があった。「出版社が曲を手に入れて,『この歌はディオン(注:Dion & The BelmontsのDion Dimucciか?)にぴったりだな』って言ったとする。そしたら誰かを呼んできて,僕がディオンをやって,ooh-ooh-wah-oohってバックコーラスまで全部歌うんだ。」ポールは伴奏の楽器も全部演奏し,オーバーダビングして,自分の声を数回吹き込み,グループが歌っているようにした。1曲につき15ドル受取り,週にだいたい2回セッションがあった。すなわちその仕事でポールは「出歩いて,ガソリンや,新しいギターの弦を買ったり,自活するには十分」な収入を得ていたのだ。たいした企業である。ポールは当時まだ17歳だったのだから。 クイーンズ・カレッジで,ポールはキャロル・クライン(Carole Klein)という学生と出会った。後のシンガー・ソングライター,キャロル・キング(Carole King)である。しばらくの間,ポールとキャロルは6,7種の楽器をオーバーダビングして一緒にデモをつくった。ポールはギターとベースを弾き,キャロルはピアノとドラムを担当。4つの声をバックに入れた。1回30ドルを稼いでいた。そのうちの1つ,1959年にThe Passionsにより録音された『Just to Be with You』はチャートで健闘した。この成功に励まされて,キャロルは大学をやめ,音楽の道に専念することにした。ポールは反対し,自分が父親に言われたことを言った。「僕はこう言ったんだ。『やめとけ,人生が台無しになるぞ』 結局キャロルは退学して,その年のうちに10曲をヒットさせたってわけ。」 ポールにとって,この仕事での一番の収穫は,スタジオ技術を身につけたことであった。マイクに向かって歌う,自分の声を別のスタイルで用いる,オーバーダビングするなど。この技能は全て,後にかけがえのないものとなるものだった。 1959年に,ポールはデュオ時代のジェリー・ランディスの名前で,MGMレコードで『Loneliness』というバラードを録音した。翌年には『I'd Like to Be the Lipstick on Your Lips』という曲を発表。後年,ポールはそれらの曲を「馬鹿な十代の歌詞」と呼ぶようになったが,それはちょっと酷というものだろう。当時は彼自身ティーンエイジャーに過ぎなかったのだから。 1960年,ポールはthe Mysticsというグループとローリー・レコード社の『All Through the Night』で共演した。バンドの歌手募集の広告を見て応募したのだ。「僕が採用されることになって,彼らは僕に報酬として1%の印税か75ドルを提案してきた。75ドルを選んだよ。」賢明だった。レコードはヒットしなかったからだ。今でも,ポールは「ジェリーへ,君の曲がみなヒットするように。」と書かれたthe Mysticsのサイン入り写真を持っている。彼らが未来を知っていたら。 1960年には,アーティもレコーディングを行った。オクタヴィア(Octavia)という,ジャック・ゴールドのレコード会社のオーディションを受けた。「一時期,ソロとしてぶらぶらしていたんだ。」と後にアートは語った。自作の歌を歌い,自分でギターの伴奏をつけた。Warwick Recordから数枚シングルも出した(今では貴重なコレクターズ・アイテムとなっている)。ポールとは異なり,アートは以前のトム&ジェリー時代の名前をやめていた。今ではアーティ・ガー(Artie Garr)と名乗っていた。 大学時代の初期はアーティにとって実り多いものだった。勉学と同様,歌にも熱心に取り組み,少し物を書くこともあった。アートがギターを弾くことができた(今でも弾ける)ことはあまり知られていないし,ましてや曲を書いたことがあると知る者は少ないだろう。ローリング・ストーン誌のインタビューで,アートは自身が作曲を諦めた経緯についてこう語っている。「思うに,僕の書く能力は,僕の成長に足並みを揃えなかったんですよ。50年代中頃には平凡なロックンロールを書いていて,後になってからはもっとフォークっぽくて,繊細なものを書いたんだけど,我ながらよくないものに思えて。満足する出来のものが書けた試しがないし。」 それでもやはりアートは書きたいと思っていた。「詩の場合だと,誰もが共感できると思う一瞬を考察する,いわばある着想のすばらしいひらめきを本当に感じることが時々あるんだ。すべての活動を停止して歩き回る充実した10時間くらいを使って練り上げたら詩にできると思う。」(後年アートは詩作を再開し,非常に良質の詩を発表することとなる。) しかしながら,10代後半の頃は,アートが創造力を維持しつづけることはなかった。詩心を触発したものは,書きあげる前に消えてしまうようだった。そのときは彼はこう思った。「もう戻ることはないだろうな。得意じゃないって感じがするもの。」 音楽こそがアートの得意分野だった。幼少の頃から音楽を愛し,あらゆる点において身近なものとしてきた。「能力はレコードに合わせて歌ったり,無意識のうちにハーモニーをつけたりすることで育ったんだ。僕にとって一番の歌手はエヴァリー・ブラザーズだった。彼らに合わせて歌った。最後には,音を保つ方法を身につけ,ハーモニー,調音,口調のすばらしさ,2つの声の興味深い響きを聞き取ることができるようになった。」 この周到な研究によって,アートは和音構造についても知識を得た。「和音基盤こそが曲を作っているんだと感じた。一度曲を聞いたら,次に来るべき和音を感じ取ることができた。文字通り音符を目で見て取れるかのように,自分がどこにいるのかわかるんだ。メロディの3番目は上を,4番目は下をって感じに歌っていた。新しい和音が浮かび上がってくるのを感じて,自分の選ぶべき音が,そしてそれがどう調和していくかがわかった。そうしたらラインを方向づける。平行和音にするか,対立和音にするか。60年代にポールとレコーディングする頃までには,全部身についていたよ。」 空き時間には,アートは色々なレーベルで歌い,レコーディングスタジオで多くの時間を過ごした。しかし,一番力を入れたのは2台のテープレコーダーを使ってオーバーダビングを行う,昔ながらの家での練習であった。エヴァリー・ブラザーズのヒット曲と同様に,『You'll Never Walk Alone』や『I Believe』のようなスタンダードにも取組んだ。筆者はアートのこの極初期のレコーディングを聞いたことがある。彼の声の純粋さに圧倒された。高い音に達するや,揺らぐことなくのばしていたのだ。アートは歌うことに専念し,その長時間の鍛錬がアートの技術を完璧なものにしていった。 1962年までには,ポールとアーティにとっては,ロックンロールは終幕を迎えつつあった。1月に,ポールはティコ&トライアンフス(Tico and the Triumphs)のリードボーカルとしてベル・レコードから『モーターサイクル(Motorcycle)』を出した。 なんとか上位100位に顔を出し,1月には一週間99位にとどまった。しかしポールは,アメリカ中を吹き荒れていた,フォークミュージックという新しいスタイルに興味を持つようになった。後にこう語っている。「成長して,音楽のスタイルが変わったんだ。あとフォーク・ブームのせいでね。60年代の初め頃には,ロックンロールはひどいものになってしまっていた。すごく安っぽいものにね。」 |
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この頃までには,若いフォーク歌手,ジョーン・バエズ(Joan Baez)が大いに注目されるようになっていた。彼女の伝統的でアコースティックなスタイルが啓示的な印象を与えるようになったのだ。ピーター・シーガー(Peter Seeger)がフォークミュージックの大黒柱となり,ニューヨークの小さなクラブで演奏するシンガー・ソングライターの流れが続いた。フィル・オクス(Phil Ochs),トム・パクストン(Tom Paxton),そしてもちろんボブ・ディラン(Bob Dylan)である。ディランは1963年のニューポート・フォーク・フェスティバルでデビューし,観客をとりこにした。ディランは力強く,怒れる者,反抗的,反人種差別的,反体制的であり,何よりも若かった。若く,皮ジャン姿のジェームス・ディーンに似て,音楽的には彼のヒーロー,ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)の影響を受けていた。ディランは自分と自身の大義に自信を持ち,フォークの世界に巨人のように足を踏み入れた。 ポールは日曜にワシントン・スクエアで開かれるコンサートに通い始めた。ポールに影響を与えたミュージシャン達のものであった。崇拝の対象は奏法にその名を残すギターのマール・トラヴィス(Merle Travis)や,バンジョーのアール・スクラッグス(Earl Scruggs)のようなミュージシャンであった。ポールは夢中になった。「学びとらなきゃいけなかった。思ってもみなかったけど,今や音楽は変化しつつあって,僕も変わらなきゃいけなかったんだ。当時の僕はギターを弾いて歌を作り,歌う,ただの子供だった。」 ポールは再びアーティとチームを組み,一緒に新しいスタイルの人気フォーク・ソングを歌えるようになった。仲間の反応に励まされ,ポールとアーティはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスや小さなフォーク・クラブと出演契約を結ぶようになった。今度は彼らが日曜にワシントン・スクエア公園でコンサートを行い,ガーズ(Gerde’s)・フォーク・シティ,ガスライト・クラブ,ビター・エンド等の有名な場所―ジョーン・バエズやボブ・ディランのような者達が出演するようになった現場で演奏した。 この暫定的な時期,同時にポールはソロの活動も続けていた。1963年の初めに,自作の『Lone Teen Ranger』をジェリー・ランディス名でリリースした。その曲はトップ100で97位に入った。 1963年2月,ポールは英文学の学士号を取得し,クイーンズ・カレッジを卒業した。そしてエドワード・B・マークス・ミュージック(Edward B. Marks Music)という,ニューヨークの出版社で働き出した。レコード会社を回り,マークス社のカタログに興味を持たせ,レコード会社のアーティストにレコーディングするよう営業する仕事である。ポールは音楽業界について知識を身につけ,大手のレコードレーベルとコネを持つようになった。 ある意味,ポールは二重生活を送っていた。毎日,彼はマンハッタンまで地下鉄で通勤する,小ぎれいな身なりの目立たない中流の若者であった。そして夜はグリニッチ・ヴィレッジ界隈で演奏していたのだ。また,ポール・ケーン(Paul Kane)(ポールが大いに称賛していた映画『市民ケーン』に触発された名前だ)という筆名のもとで曲を作り始めた。マークス社で歌を売るために働いている身としては,ソングライターとしての自分を公にしないほうが妥協が少ないだろうと思ったからだ。 彼は焦燥を感じていた。合衆国のキャンパスを,騒乱の気配が激しく吹き荒れていた。若者達は新しいアイデンティティを模索し,古い価値観,階級や肌の色,性別などの壁に挑戦していた。急進的な変化や,人種的,社会的平等,市民の自由,性的な解放を求めて叫びをあげていた。新時代の幕開けだった。ポールとアートは21歳,中心的な世代だった。 その数ヶ月間彼らが享受していたフォーク・デュオとしての成功に勇気付けられながらも,2人はそれぞれ別々にキャリアを追い求めていた。ポールは音楽業界で働いていたが,アートは副業としてパフォーマンスを続けながらも,主として学究生活を目指していた。1963年の6月,アートは国を横断し,カリフォルニアのバークリーに向かった。そこに住み,大学で学び,時に地元のフォーク・クラブや学友会の集まりで歌った。 同月,ポールは長期休暇を過ごすため飛行機でパリに向かった。彼は自分でもはっきりと言い表せないものを求めていた。放浪者の踏みならした道を旅し,ほとんどの時間素朴な生活をした。身体にギターをくくりつけ,セーヌ川に架かる橋の下で眠った。後に,コンサートの観客にこのように言っている。「パリにいた頃,僕達はセーヌ川の岸に座っていたんだ。観光客の乗るボートが通りかかったときなんかは,『資本主義の豚め!』って叫んでやったものさ。」 その夏は不景気な時期だった。ポールはできるときにはいつでも,通りや地下鉄の駅で演奏をして金を稼いだ。後に思い出してこのように語っている。「あの頃が恋しいって気持ちは全然ないな。決まりの悪いものだったからね。立って,歌い始めて,人が集まってくれればいい,そうすれば帽子をまわしてお金を稼げるからって思うのは。」 自作の曲を歌うことはまれだった。「なんといっても人気だったのはエンディングがけたたましくて元気な感じの曲だったね。僕はそういうのが大得意だったんだ。一音を長く引き伸ばして歌うと,金を手にする可能性が高まるんだ。」 騒々しく,ハイな感じのエンディングにポールが持つ才能は,後にポールが初のソロ・アルバム『ポール・サイモン・ソングブック(The Paul Simon Songbook)』でレコーディングした『私の兄弟(He Was My Brother)』や『教会は燃えている(A Church Is Burning)』を聞けばはっきりとわかる。 ポールは起きている間中,大都市での発見と興奮に満たされていた。心の底では自分が常にゴールと目していた安定した職業を意識しながらも,その日暮らしをしていた。「自分はいつも,近い将来には,こんなことを全部やめて,堅実な生計を立てる方法を考え出さなきゃいけないだろうと思っていた。でもあの年頃には,単に自分がしていることが大好きなだけだった。」 ポールには時間がたっぷりあった。まだやっと22歳だったのだから。 ある日,公園のベンチに座っていると,ポールはデーヴ・マッコースランド(Dave McCausland)という名の若い男性と出会った。彼はエセックス州ブレントウッドのレイルウェイ・ホテルでフォーク・クラブを経営していて,休暇でパリに来ていた。デーヴはもしポールがそのクラブで運試しをしたいのなら,宿を提供すると申し出た。 秋に,ポールは自作の数曲を手にニューヨークに戻った。まず『私の兄弟』をアーティに演奏して聴かせた。アーティはその曲を聞くとただちにぞくぞくする気持ちを感じた。後に,アートはこのように書いている。「エンディングは喜びに満ちて楽天的・・・明らかに注目すべき才能の産物だった。」 次に『すずめ(Sparrow)』,これもまたポールの新しい方向性を示すものだった。2人はその2曲のアレンジを行い,その夜フォーク・シティで演奏した。3曲目は『霧のブリーカー街(Bleecker Street)』である。この曲は1ヵ月後に完成した。お互いにコミュニケーションをとろうとしながら失敗する人々,不毛と落胆の環境で生活する人々でいっぱいのニューヨークのイースト・サイドの通りを描写している。アートが指摘するように「我々の時代の人間の状態を痛烈に論じている。」 その能力をもったポールの作品の嚆矢であった。 そして11月22日金曜日,ジョン・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。恐ろしい,パニックに包まれたその数瞬の間に,大統領は狂喜する何千人もの観衆に手を振っている状態から車の後部座席に崩れ落ちた。世界中の視聴者がテレビでその死の目撃者となった。アメリカは悲しみとショックで少しおかしくなっていた。国中の小さな町々で,怒りの抗議が発生していた。その叫びに大学のキャンパスも加わった。以前とはすべてがかわってしまっていた。ケネディの死とともに,夢が死んでしまったのだ。 ポールが60年代への寄稿文−『サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)』と呼ばれる歌を書いたのは正にこのような社会不安の状況下であった。曲中では光と暗闇のイメージが使われ,無知と無関心が人々のコミュニケーション能力を,単純なレベルのものですらどれほど破壊しているかをあらわしている。真実と啓蒙を象徴するはずの光は,突き刺すような(stabbing)ぎらぎらと光る(flashing),さらには偽のネオンの神を崇拝するという隠喩を用いられて破壊的で悲痛な力となっている。当時の暴力的な状況に,この曲は完璧に適合していた。ポールは11月にはテーマとメロディの着想を得ていたが,完成するまでには書いては書き直す苛立たしい3ヶ月が必要だった。1964年2月19日,ポールはアーティに完成した作品を演奏して聞かせた。この曲が自分達の人生をどれほど激変させるのか,2人とも知る由もなかった。 |
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ケネディの死の当時,未完成だったその曲を携えてポールはヨーロッパに戻っていた。今度はイギリスである。彼はいまだ満たされぬ思いを感じ,足踏み状態にあるようだった。後にポールはこの当時のことを必然的な段階だったのだとみなしている。「おそらく当時の自分はとりたてて例外的ではなかったと思う。皆があるとき立ち上がって放浪の旅に出て行くようだったよ。」 パリの公園のベンチで知り合った若者の誘いを覚えていたので,ポールはエセックスへと向かった。まもなくデーヴ・マッコースランドの両親の家に落着き,レイルウェイ・ホテルで定期的に演奏していた。 デーヴの父親,ロン・マッコースランドは,ポールを大いに気に入った。彼は筆者にこう語っている。「私達は明け方まで起きていては,政治や,世界を改善することについて議論したものだよ。」 また,彼はポールが『サウンド・オブ・サイレンス』の初期のバージョンを弾いていたことも思い出した。 ポールはその地のほとんどのフォーク・クラブで演奏し,多くの支持者を得た。しかしそのことを恒久的なものとは考えていなかった。「あの歩き回っていた頃は,こう思っていたよ。そう,自分が飽き飽きするか,皆が聞いてくれなくなるまでのしばらくの間は歌い続けるだろうな。それから何か別のことをするんだ,ってね。」 実際には,ポールは飽きることなどはなかった。それに人々は彼の曲を聞き続けた。 ポールがキャシーという名の少女と出会ったのはこの頃だ。茶色のロング・ヘアのかわいらしいほっそりとした女性で,秘書として働き,エセックスに家族と住んでいた。彼女はポールの良き伴侶となり,ポールの極上のラブソング数曲のインスピレーションとなった。穏やかな口調で話す内気な女性で,心を許した親しい友人との間でなければ,ほとんど口を開くこともなかった。 彼女とポールは深く愛し合っていた。彼女はポールだけではなくアーティにとっても,イギリス時代の重要な部分を占めていた。アーティは彼女に好感を持ち続け,長年の後にも深い親しみをこめて思い出を語った。ポールにとってはある種のミューズであり,ポールをいくつかの点で補完する存在だった。ポールが落着きがなく活動的であるのに対し,キャシーは物静かで受動的だった。曲作りや演奏に駆り立てられるポールと,影で彼と共にあることに満足するキャシー。ショービジネスの世界に入るのを望まず,スポットライトを避けていた。しかし彼らは相愛の仲であり,そのことがポールに安定感をもたらしていた。 一方アーティは勉学に励んではいたが,1963年の秋学期の終わりごろには自分の選択した課程に満足できないことがわかった。建築が自分に求めていることは芸術家ではなくやり手のビジネスマンになることだ,と感じるようになっていた。後にこう語っている。「建築に関して,不愉快な経験をしたんだ。」 そのため数学―常に愛着を抱いていた科目である―に専攻を変更した。 また教師になりたいということも自覚した。自分の生活費や授業料を,家庭教師をして稼いでいた。教えることと演奏することの間には,コントロールするという点について強いつながりがあると感じていた。「教えるってことはちょっとしたパフォーマンスなんだ。誰かの家に行って,完璧な50分をこなす。こういう勝負なんだ。絶対に時計を見ないで,完璧な50分で物事がどう進むかというものを感じる。」 1964年の春,アートはコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジに入学し,数学と教育の課程を学ぶことにした。彼は自分の進む人生のあり方を決断したと感じていた。 1964年の春には,ポールもニューヨークへ戻り,出版業界での仕事を再開した。すでに彼は2,3の貴重な伝手を作っていた。その中には最近ボブ・ディランのアルバムをプロデュースしたコロンビア・レコードのトム・ウィルソン(Tom Wilson)も含まれていた。ポールはウィルソンに『私の兄弟』を演奏して聞かせ,ウィルソンはザ・ピルグリムズというグループ用にその曲の購入を了承した。 しかしポールには別の考えがあった。アーティによるとポールはこう言ったという。「まだ見せていない自作の曲が何曲かあるんです。聞いてもらえますか。アップタウンに友達がいます。彼が一緒に歌うんです。」 ウィルソンは彼らをオーディションすることにし,4曲のデモを行った。その中には新曲『サウンド・オブ・サイレンス』も含まれていた。 エンジニアとして割当てられたのはロイ・ハリー(Roy Halee)であり,彼らの生涯の仲間であり友人となった。アートは,その日ロイがどんな風にブースから出てきて,マイクを細心の注意を払って調整したかを語ってくれた。その後,ロイは2人に向かってこう言った。「君達が歌いだしてすぐ,この演奏は何もかもうまくいくだろうって本当に思ったよ。」 ロイは暖かみがあり親切な人間で,素晴らしいタイミングとユーモアセンスの持主だった。最初から彼とデュオの間には親密な関係が存在した。アートが言うように「僕達は彼のことをものすごい味方だと感じていた。また黄色のボタンダウンのオックスフォードシャツの人をエンジニアにして下さいって頼んだよ。いつもそこにいたしね。」 レコーディングの詳細が決定され,次に問題となったのはデュオの名前だった。ポールはすでに演奏や作曲に2つの筆名―ジェリー・ランディスとポール・ケーン―を使っていた。アートはトム・グラフとアーティ・ガーという名前を使っていたが,今はアート・ガーフィールドにしようかと考えていた。ユダヤ系のガーファンクルやガーフィンクルを変えるときに良く使われる名字である。 深刻なジレンマだった。1964年ですら,合衆国には反ユダヤ主義が存在し,サイモンとガーファンクルは極めてわかりやすいユダヤ系の名前であった。ボブ・ディランは自身のユダヤ系の出自と本名のロバート・ツィンマーマン(Robert Zimmerman)を隠すことを選んだ。(通説ではディランという名はウェールズ人の詩人ディラン・トマスに敬意を表して選んだという。) しかしアートとポールはそうはしたくなかった。ユダヤ系であることを明らかにしたら,一部ではマイナスになるだろうが,自分達の本当の姿のままでいることが大切だと感じていた。 ポールが言うように,「僕達の名前は正直だった。いつも感じていたんだけど,ボブ・ディランの名前がボビー・ツィンマーマンだってわかったとき,みんな大きなショックを受けたんだ。彼は真実の姿であるべきだったってことが,とても重要なことだったんだ。」しかし一方では,ポールは人々がサイモン&ガーファンクルという名にどのように反応するか心配していた。「みんな,僕達がコメディアンだと思うだろうな。...本名をつかうなんて前代未聞のことだし。一笑に付されるだろうよ。」 トム・ウィルソンは協力的で,コロンビア・レコードの重役達にこの問題を提出した。重役達はこの影響について議論し,ついに1964年のアメリカは,サイモン&ガーファンクルという名前を受入れる準備ができているはずだとの結論に達した。歴史的な見地から考察すると,ユダヤ人のアイデンティティというものに関して,この決定は非常に重要なものとなった。第2次世界大戦以降,ユダヤ系のパフォーマーはポールとアーティがかつて行ったように,アメリカナイズされた名前を使うことで自分達の出身を伏せる傾向があった。サイモン&ガーファンクルは,誇りに思って当然の遺産を『カムアウト』した最初のグループのひとつだった。ちょっとした偉業であった。 そしてサイモン&ガーファンクルは『水曜の朝,午前3時(Wednesday Morning 3 am)』となるアルバムを作成する契約を結んだ。カバーには平凡なスーツ姿の彼らがニューヨークの地下鉄に佇んでいる姿が写っている。ポールはギターを持ち,地下鉄がちょうど到着するところだ。ポール作曲は5曲のみで,残りはフォークのスタンダード曲で構成されていた。おそらくコロンビアはスタンダード曲を含めることで,アルバムの売上を確保しようとしたものと思われる。全くの新人のソングライターのアルバムはいつの時代もリスクが大きいのだから。アルバムの売上は慎ましやかなものだった。後にサイモン&ガーファンクルが有名になったときにゴールド・ディスクを勝ち取ったが。 A面は『ユー・キャン・テル・ザ・ワールド(You Can Tell the World)』で始まる。ギブソン&キャンプ(Gibson and Camp)作の勇ましいゴスペル曲だ。次の曲は効果的なバンジョーが響くエド・マカーディ(Ed McCurdy)作『昨日見た夢(Last Night I Had the Strangest Dream)』。どちらの曲でも,サイモン&ガーファンクルのハーモニーは効果的である。 『霧のブリーカー街(Bleecker Street)』において,この甘いハーモニーにはある種の側面が加わってくる。曲中で描写される人々の絶望的な荒廃が,ハーモニーによって強調されるのだ。タイトルとなる通りはニューヨークに実在する。この曲はポールが実在の場所を描写する初期の実例である。『すずめ(Sparrow)』においてはたとえ話が子供の押韻遊びのように現れる。聖書的な比喩表現や寓話が豊富に含まれている。そして,曲中の丁寧な言葉遣いにこめられた弱者を拒絶する社会の冷淡さが控えめに,だが鮮やかに描かれている。 次の『ベネディクタス(Benedictus)』。オリジナルはオーランド・デュ・ラッソ(Orlando de Lasso)による16世紀の教会ミサ用ラテン語賛美歌である。学部課程で音楽コースを履修中のアートが見つけ,コロンビア大学図書館で調査した。それからポールに知らせ,2人でアレンジを行い,2部のハーモニーとギターコードをつけた。 A面最後の曲は『サウンド・オブ・サイレンス』である。ライナー・ノートでアートはこの曲をうわべだけの,営利的なレベルでしか行われないコミュニケーションを描写するものだと述べている。「シリアスなコミュニケーションが存在しないので,シリアスな理解もない。危険を冒して手を伸ばす者はいない。」 多くの点で,ポールのギターのみと2つの溶け合った声によるこのアコースティックバージョンが,彼らの録音した曲の中で最上の,そして最も純粋なものであろう。 B面は情熱的に歌われる『私の兄弟(He Was My Brother)』で始まる。続いてトラディショナル・フォークソング2曲,『ペギー・オー(Peggy-O)』と『山の上で告げよ(Go Tell It on the Mountain)』が緊密なハーモニーで演奏される。次のイアン・キャンベル『太陽は燃えている(The Sun Is Burning)』の彼らのバージョンは称賛に値するものだ。 そして60年代のアルバムには絶対に欠かせない,ボブ・ディランのナンバー『時代は変わる(The Times They Are A-Changing)』。もちろん,デュオはディランのバージョンとかなり違ったものを作り出さねばならない。その結果冷笑的な要素のほとんどが抑えられたものとなった。この曲では,ポールとアートはかなり居心地が悪そうだ。 アルバムの締めくくりは精妙なラブソング『水曜の朝,午前3時(Wednesday Morning 3am)』である。アートによれば1964年4月に書かれたらしい。ライナーノートにはこう書かれている。「『サウンド・オブ・サイレンス』の研ぎ澄まされた強烈さは穏やかな雰囲気に道を譲り,メロディはまたソフトで滑らかな器となっている。舞台がセットされ,細部がスケッチされ,穏やかに仕上がった1枚の絵画だ。」 この歌は官能的であると共に優しく,胸を打つほどに無邪気で,同時に明らかに性的である。眠っている女性の子供のような純真さと,その女性を見つめる男の強烈で切迫した恐怖が微妙なバランスを保っている。完璧なハーモニーが辛辣な感触を強める働きをしている。 良質のアルバムだったし,ファースト・アルバムとしてはたいへんすばらしいものである。しかし完成後は一時的な静止状態となり,ポールはニューヨークでまた落ち着かない気分になってきた。デュオへの反応は彼が望んでいたものに届かなかった。「アーティと僕はアメリカでたくさんのクラブのオーディションを受けたけれど,僕や僕の音楽に関心を示すところはなかった。・・・励まされたり,受入れられたりってことは全く一切なかったんだ。」 アートはポールとは感覚も状況も異なっていた。アートは結果と穏やかに向かい合った。レコードを1枚製作し,そのことを楽しんだ。人々が買いに殺到したりということは全くなかったが,製作の経験はやりがいのあるものだった。彼の心を占めているのは学問だった。 ポールはイギリスでの幸せな日々を忘れていなかった。フォーク・クラブに照準を合わせた。「あそこでなら演奏が出来る。ニューヨークに僕のいる余地はない。これから招き入れられるとも思えない。」 1964年の晩春,ポールはギターと数枚の衣服を荷造りして,再度イギリスへ旅立った。―幸運を,あるいはただ単に自分の歌を演奏する場を求めて。 |
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