第4章 心宿るイギリス |
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| England Where the Heart Lay |
ポールは,ロンドンの北部,ベルサイズパークの地下鉄駅近くの一間下宿に落ち着いた。そこには有名なイギリス人トラディショナル・フォークシンガーのマーティン・カーシー(Martin Carthy)も住んでいた。マーティンは筆者にこのように語っている。「同じ家に住んでいたことを考えると,私とポールの実際の接触はわずかなものだったね…何度か一緒にギグをやったことがあるよ。ポールは素晴らしいパフォーマーだった。レパートリーは少なかったけど熟達していて,能力を大きく広めるのが本当に上手だったよ。― これは批判しているんじゃないからね。パフォーマーとしては,今でもあの頃と同じくらいすばらしいね。小細工なんて全然使わなかった。今ではガーシュウィンやポール・コーターのような古きアメリカの伝統につらなるすごいソングライターだ。それが彼に運命づけられていた地位だと思うよ。」 ポールは機会があればどこででも歌の仕事をした。煙の立ち込めた地下室,労働者の集まるクラブ,ざわつくパブ,深夜のドライバー向け簡易食堂。移動は徒歩やトラック運転手にヒッチハイクで乗せてもらった。ポールは後にこう語っている。「(歌うことを)職業として考えたことなんてなかった。何もかもが新鮮でエキサイティングな見知らぬ国を放浪するのは単に素晴らしい時間つぶしだった。」一晩に約3ポンド,時には5ポンド稼いでいた。調子の良い週には20ポンドを稼いでいたが,彼は自分はそれに値すると多かれ少なかれ思っていただろう。ポールが必要とするものはシンプルだった。「当時やっていたことは,ギターを弾いて,そのことで生活費を稼ぎ,部屋代を払うってことだけだった。演奏のお金だけでね。」ポールは自らを「裕福すぎないプロのミュージシャン」であると思うようになっていた。 最も重要なことは,ポールが観客に評価されつつあったということだ。ポールはアメリカでのレコードや,最近のアーティとのデビューアルバムについては誰にも話さなかった。観客はポールをアメリカからきたフォークシンガーとして受入れていた。そのことにポールは幸せを感じた。「合衆国で僕の歌を聞いたことのある人はいなかった。ニューヨークでは,自分はクイーンズ出身のガキだった。つまらないことにね。でもイギリスだと,僕はアメリカ人なんだ。素晴らしかったよ。」 キャシーとは相思相愛で,フォークソングの世界で友人もでき,経済的に自活できて,皆には真剣に受け止められていた。楽しいことでいっぱいだった。 ロンドンのウェストエンドのデンマーク・ストリート5の狭いオフィスで,3人の男がローナ・ミュージック(Lorna Music)という名の小さな音楽出版社を開いていた。アラン・パラマー(Alan Paramor)が代表取締役,レスリー・ロウ(Leslie Lowe)が経営責任者である。そしてピーター・パヴェイ(Peter Pavey)は,自身曰く『他の全部』であり,彼の業務には印税の監督も含まれていた。 1964年の初期,レス・ロウは自社のカタログで『カルロス・ドミンゲス(Carlos Dominguez)』という曲を見つけた。新人ライターのポール・ケーンがクレジットされていた。ロウはこの曲に可能性を感じ,ヴァル・ドーニカン(Val Doonican)に送った。ドーニカンはこの曲をファースト・アルバムに収録,そのアルバムは約90,000枚売れた。数ヵ月後ポール・サイモンが,自分の歌を売ってくれた御礼を言いたいとローナ・ミュージックを訪ねた。印税はニューヨークのエドワード・B・マークス・ミュージックから既に支払われたとのことだった。ローナ・ミュージックはロンドンでエドワード・ミュージックの曲を代理出版していたのだ。レスはポールに立ち寄ってお茶を飲んでいくように言った。そこでポールはレスに自身と自分の曲について語った。数年後,レスはその日のポールのインパクトがどれほどのものだったかを筆者に語ってくれた。「あのアメリカ人の若者は,我々の小さな,狭苦しいオフィスに座っていた。ダッフル・コートを脱ぎ,ギターを手にとり,初めて聞く曲を演奏しだした。私は大変感銘を受けた。ポールの作品が独特であることに疑いはなかった。だからアラン・パラマー(Alan Paramor)に紹介することにしたんだ。」 ローナ社はポールの曲を獲得するべきだと同意した。次のステップはデモレコードを数枚作成することだ。レスはデンマーク・ストリートのリージェント・サウンド・スタジオでポールが2,3曲をレコーディングするように準備を整えた。そのときレスが連絡を取った相手の一人がジミー・パーソンズ(Jimmy Parsons)だった。彼はローナ・ミュージックの下の階のオフィスでエージェントとして働いていた。 1980年代に筆者がジミーにインタビューしたときには,彼はソーホーで高名なロニー・スコッツ・クラブを経営していた。オフィスで,20年以上前のポール・サイモンについてこのように語った。「テープに入った,だいたい10曲のアコースティック曲を聞いた。その後ポールのソロ・アルバムになったものだ。私は彼のサウンドが気に入った。彼は反社会的なライターではなく,曲はとてもメロディックだったね。 ポールに会ったときは,とても礼儀正しくて,話しかけやすい感じだった。なにか仕事をつかんでくるようやってみるって彼に約束したよ。電話を何本もかけたんだけど,彼は全くの無名だったから,誰も興味を示さなかった。フェスティバル・ホールでのアフリカ諸国支援のチャリティ・コンサート出演の仕事をひとつ取ってきたことはあるけど。でもポールはほとんどの仕事を自力で取ってきていた。ギターと一緒に登場して,頼むってことだけでね。」 ポールはソーホーのグリーク・ストリートにあるフォーク・クラブ,ル・キルト(Le Kilt)やレ・カズンズ(Les Cousins)でもギグをした。他にもたくさんの暗い地下のクラブで演奏した。オファーがあったら全て受け,一生懸命働いた。次第にポールはロンドンのシーンでなじみの顔になった。 当時のポールをよく覚えているミュージシャンの1人が,故アレクシス・コーナー(Alexis Corner)であった。彼は最も偉大なイギリス人ミュージシャンの1人であり,多数のグループを作り,多様なスタイルを編み出した。ファンからだけではなく,ミュージックビジネスに携わる人たちからも尊敬されていた。かつてはブルース・インコーポレーテッド(Blues Incorporated)というバンドを組んでいたが,1964年にはソロアーティストとしてフォークの分野で活動していた。 アレクシスは当時のレ・カズンズをこのように言い表した。「とても小さなクラブでね。そこにいると,君は店内のみんなの顔がわかるし,皆も君を見ることができるんだよ。柱の裏に隠れちゃうことになる2人のうちの1人じゃなければね。レ・カズンズは新しい,エキサイティングな様々のスタイルで演奏するミュージシャンを惹きつけていたんだ。 「今日では最も素晴らしいミュージシャンとなっている者たちのある種の修行場だった。他のフォーク・クラブよりずっと柔軟な姿勢でね。そこが魅力だった。アンプを使っても放り出されなかったのは,ロンドンではあそこだけだった。他のクラブはすごく厳格だったんだけど,カズンズにはあらゆる種類の音楽があった。アヴァン・ギャルド,ジャズ,初期のアングラ。あらゆる種類がね。」 金曜と土曜の晩は,クラブは夜7時から11時まで開店していた。そして一度店内は空にされた。その後午前0時に再度開店し,徹夜のプレイヤーが演奏を続ける。始発電車の動き出す午前6:30頃まで。 アレクシスによると,「通常,徹夜プレイヤーは2組だった。6時間半の営業時間中,だいたい演奏は4時間。だから1晩に2組だと,2時間ずつ演奏することになる。きつい仕事だよ。でもほとんどのミュージシャンはバンドで演奏していたから,長時間ステージに立つのに向いていたんだ。ギャラは良かったし,役に立つ練習だったしね。徹夜ミュージシャンがあまりに音楽に没入してしまい,午前6:30を過ぎても演奏を続けて,経営者が彼を追い出さなきゃいけないことも時々あったんだよ。」 そこまで熱中したのはミュージシャンだけではなかった。レ・カズンズには熱心な観客も集まっていた。アレクシスがいうように,「つまるところ,そこに0:00〜6:30の間いるってことは,どんな場所でも眠れるか,音楽が大好きなのかのどちらかだってことなんだ。」 アレクシスはその数ヶ月の間に,ポールをよく見かけるようになっていた。徹夜セッションを彼ら2組が担当することもあった。ポールの印象は「感じ良く話し,ボトルネックギターを好んで弾く好青年。ただし口数は少ない。」というものであった。自身も素晴らしいギタリストであるアレクシスはポールの腕についてこう言った。「そうだね,いつでも他の人たちの方が自分より上手く弾いてると考えていたけど,ポールは本当に良かった。すごくクリーンなプレイヤーなんだ。ルーズなところが全然なくて。」 ところでローナ・ミュージックに話を戻すと,レス・ローは怠惰とは程遠い人物だった。彼はポールに関心を向けようと,複数のレコード会社のA&R(注:アーティスト&レパートリー,新人の発掘が仕事らしい)担当者にデモレコードを送った。才能があるかもしれないにしろ,新人で,無名の歌手をバックアップするよう営業するのは難しいことだった。レスの同僚のピーター・パヴェイは筆者にこう語った。「レスはポールのことをものすごく信用していたね。この業界では,ちょっとした成功をおさめるまではみんな新しいことに手を出さないんだ。それから誰もが自分が発見したみたいに飛びつくわけ。君が最初から正しくても,周りはなかなか信じてはくれないね。」 しかし突如レスは誰かを説き伏せた。1964年5月,ポールはボンド・ストリートのレコード会社,オリオールからシングルを出した。ロンドンのウェストエンド・ショップスの最も排他的な場所の裏側にあるスタジオだった。作曲クレジットはポール・ケーン,歌うのにはジェリー・ランディスの名を使った。 A面は『私の兄弟』。2番目のバージョンであった。B面は『カルロス・ドミンゲス』,既に数ヶ月前にヴァル・ドーニカンがレコーディングしていた。ポールはこの曲を2度と使うことがなかった。素敵な曲である。人生についての修辞的疑問(注:rhetorical question :「あなたは私が何も知らないとでも思っているの」のように,答えを必要としない質問)を問いかけ,答えを得られない人間の混乱を描いている。メキシカン・スタイルのギター奏法も多少見られ,忘れがたい出来となっている。後にポールの歌の中心となる,内省的で孤独な人間が初めて登場する曲として特筆される。 シングルを出した後,ポールはデンマーク・ストリートのオフィスをよく訪れるようになった。だいたいは1人で,時にはキャシーと一緒に。レスはこう記憶している。近くのフィフス・ストリートのレストラン,ラ・ローマでポールと食べたランチは,その時代のムードを楽しめる若者特有の,60年代半ばの笑いと楽観的な雰囲気に満ち溢れたものだった。 ポールは夕方近くにオフィスに立ち寄ることもあった。ピーター・パヴェイはこう言う。「レスと僕は,ポールを連れてチャリング・クロス・ロードのこの小さなカフェに来たものだ。そしてお茶を飲んでおしゃべりしていたんだ。ポールはとてもくつろいだ感じだった。」 ジミー・パーソンズと一緒になることも多かった。パーソンズは筆者にこう語った。「お茶とトーストの質素な朝食を食べたなぁ。金持ちじゃなかったけど,話をしては大いに笑いあってた。ポールは本当にいいやつだったよ。たとえ才能が全然なくても知合いになる価値があったろうな。実のところは抜群の才能があったんだが。でもそれに加えて,ポールは本当に誠実な男だった。」 この時期,ポールはウォリー・ホワイトン(Wally Whyton)と出会った。いまやBBCラジオ2の『カントリークラブ』という番組の大人気司会者であり(注:1997年に死去),紛れもなく音楽の専門家である。当時はフォーク・シンガーで,イギリス中のクラブで活動していた。以前はハンク・マーヴィン(Hank Marvin)も所属していたヴァイパーズ(Vipers)のリーダーであり,ヴァイパーズを脱退した後はシャドウズ(Shadows)の中核メンバーとなった。南フランスで大道芸をしてすごし,イギリスには子供番組の仕事をしに帰ってきていた。 1964年,ウォリーはポール・サイモンという名のアメリカ人フォーク・シンガーのことを耳にすることが多かったのだが,実際に会ったことはなかった。他のパフォーマーと知合う最も一般的ななりゆきは,一晩に複数の出し物をできる程度の大きさのクラブで,同夜に出演契約をすることであった。例えばロンドンのザ・バラッド・アンド・ブルーズ・クラブは,土曜の夜には3組が出演した。 ウォリーはレッド・サリヴァン(Redd Sullivan)とデュオを組んでいた。2人はエセックス州ブレントウッドのレイルウェイ・ホテルと出演契約を結んだ。そこではポールが当時でも定期的に演奏していた。ウォリーとレッドは会場に到着して,満員なのを目にして驚いた。ウォリーは筆者にこう語った。「本当にぎっしり満員でね。実に珍しいことだったんだよ。それに観客の年代が多岐にわたっていた。それも普通はないことだ。当時は,そういう場所では若者の方が多い傾向にあったんだ。音楽を聞くのと同じくらい,時代をとらえようとやってくる大学生とかね。全体的に見て,みんなフォーククラブには,素晴らしいトラディショナル・ソングを聞きに来るというよりは,社会的なイベントとしてやってくるって感じだった。 そしてその夜の話だけど,聴衆が興奮している雰囲気があったんだ。中年の男女や,子供までいた。ポール・サイモンが出演予定だって気がつくまで,ものすごく当惑していたよ。」 |
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手違いによりその2組がダブル・ブッキングされていたことが判明した。しかしデーヴ・マッコースランドは全員演奏して,ギャラを受け取ることが可能だと言った。ポールも到着し,ステージに最初に上り,数曲演奏した。ウォリーはどんな風に若い女性が実際に叫びだしたかを語ってくれた。「どこでも一度も見たことがない現象が起こっていたんだ。ヴァイパーズにいた頃は,私のグループもキャーキャー言われていたけど,ヴァイパーズは新しかったし,気違いじみたグループだったんだ。ハードで,テンポの速いナンバーを演奏していたし。しかしここではポールが『アイ・アム・ア・ロック(I Am a Rock)』を歌っていて,女の子達は叫び,老婦人達は飛び跳ねていた。正に驚異的だった。」 ポールの出番の後,ウォリーとレッドが数曲演奏した。そしてポールが一緒にロックンロールのクラシックを何曲か演奏しないかと2人に提案した。ウォリーはひどく驚いた。「当時,フォーククラブがどういう風に運営されていたかわかるかな,新興の存在だったから,かなり厳密だったんだ。半時間演奏したら,休憩が入る。そう規定されていて,そのガイドラインが全てだった。そしてここにサイモンが現れた。そのガイドラインを全て,何から何までぶち壊して。ロックンロールやドゥワップの曲を歌って。そしてそれだけじゃなくて,観客を叫ばせてぶち破ったんだ。」 全くひるまずに,ポールは歌いだした。ウォリーとレッドはバックコーラスのdoo-wahを担当した。『テディ・ベア(Teddy Bear)』から始まり,『ペギー・スー(Peggy Sue)』,そしてロックン・ロールのクラシックのメドレー。観客・アーティストにとって忘れがたい夜となった。 ウォリーはそのアメリカ人に感銘を受け,ジャーナリストのロイ・カー(Roy Carr)にこう話した。「ポールはステージに立っているとき,完全に没入している。自分が大成功するってずっと信じていた。僕たちにいつもそう言っていたよ。」 ポールを記憶しているアーティストには他にイギリス人ギタリスト,デーヴィ・グラハム(Davi Graham)がいる。おそらく『アンジー(Anji)』の作曲をしたことで最も知られているだろう。1961年に書かれた作品である。フランスとイタリアの国境地帯で彼が一緒に暮らしていたガールフレンド(デーヴィというニックネームを考え出したのも彼女である)に捧げたものだ。筆者がデーヴィにインタビューしたとき,彼はこう語った。「ポール・サイモンと初めて会ったのは,トロバドゥール(Troubadour)という店だった。その満員の地下でポールが演奏していたんだ。彼の演奏する『すずめ』に心奪われてしまった。大いなる優しさをこめて歌っていた。英詩の手法である「決まり文句」の意味をポールは理解していた。その夜,トロバドゥールの店内は静まり返っていた。静かなのは珍しいんだ。石造りの地下室ですごく音響がいい,狭い店だったからね。ポールは成功するだろうって疑いなく思ったね。」 そのすぐ後に,ポールはワンズワース・ブリッジ・ロードのデーヴィの部屋を訪ね,どれほど『アンジー』を気に入っているかを語った。「キッチンで喋っていたら,ポールが「『アンジー』をレコーディングしてもいいかな。」 と言った。嬉しいよって答えた。彼の声が今でも耳に残っている。実に穏やかな話し方なんだ。 その頃にはポールは『アンジー』を演奏していた。付け加えておくべきだと思うけど,ポールが演奏を覚えるのに参考にしたのは私の録音じゃなかった。どちらかと言えば私から覚えてくれたら良かったんだけど。バート(ヤンシュ Bart Jansch)の演奏を参考にしていた。もちろん,バートは1962年ごろに私がバートと作ったテープから覚えたんだけれどね。私から見ると,バートの演奏は正確とは言えないんだ。多分に私のせいなんだけどね。当時,私は楽譜が読めなかったから,Aマイナーで演奏していたその曲をアレンジするのに,ピアノ用にCマイナーにする方法しかできなかったんだ。それでバートはそれを録音したテープだけで覚えたんだ。ポールはいかにも楽しそうに『アンジー』を演奏していたよ。」 デーヴィはその少し後にポールとおこなったレコーディングの思い出を語った。「『リチャード・コリー(Richard Cory)』をやったんだ。心に焼き付いているよ。そのレコードが結局リリースされなかったことも覚えてる。どうしてかっていうと隣の部屋からドリルかなにかの癇に障る音が入ってしまったから。そのスタジオはあまり良くなくて,防音がちゃんとしていなかったんだ。だからリリースされなくて,ポールは金を無駄にした。ポールは私にはもちろん,セッションの参加者達にギャラを払ったからね。」 デーヴィ・グラハムはポールに対する気持ちをこうまとめた。「私はポールの音楽が大好きだ。彼は素晴らしいセンスをしているから。二流のものを絶対許容しない。スタジオの中にそんなものは持ち込まなかった。ポールと働けて,実に光栄な気分だった。偉大な作曲家であり,これは私の意見だけど,優しく美しい声の持ち主の面前にいるってことだから。ポールは自身のギターと愛し合っていた。私はポールを,彼の世代の最も偉大な音楽家の一人と見なしている。」 ニューヨークに話を戻すと,大学は夏休みに入った。気分転換の必要を感じたアートは6月にヨーロッパ旅行に旅立った。その数ヶ月の間に旧友と会うつもりだった。 7月,ポールはレッド・サリヴァンと大道芸をしながら過ごす休暇でパリに来ていた。ポールは白いサンビーム・アルパインを購入していた。アメリカに持って帰る予定のスポーツカーである。レッドは筆者にこう語った。「新車のサンビーム・アルパインに乗ってパリに大道芸に来たって言えるやつはあまりいないよね。」 素晴らしい数週間だった。大変暑く,人でごった返していた。フランに対してドルが高かったので,パリの街中はカメラと地図を手にして群れ集うアメリカ人観光客でいっぱいだった。パリ祭の間,パリっ子達は通りで大喜びで浮かれ騒ぎ,ポールも意気揚々としていた。 レッドは筆者にそのパリで過ごした数週間のことをとても懐かしげに語った。「僕達は出歩いては通りで歌っていたんだ。そこに立って,周りで起こっていることを何でも見ていた。ジャグリングするやつや,歌う者達がいた。ポールについて記憶に残っていることにこんなことがある。僕たちが歩いているとき,ポールはギターを弾いていて,子供にむけて身をかがめて,子供達に歌ってあげていたんだ。 ポールとレッドがもう1人のフォーク・シンガーと一緒に,有力者に会いにスタジオを訪ねたとき,ポールのドライユーモアが発揮された。「50×80フィートの立派な窓があるようなところだった。オフィスなんだけど,大聖堂のように見えるように演出されているんだよ。彼の者のデスクは巨大で,椅子はこちら側のより2フィートは高くそびえている。全部心理的に優位にたつためのトリックさ。そして知っての通り,背があまり高いとはいえないポールが,ギターを持って入室して,見回してこう言ったんだ。「ふーん,シンプルだけど,居心地のいい場所ですね。」」 ポールがかつてのクラスメイト,アンドリュー・グッドマン(Andrew Goodman)の死を知ったのはパリ滞在中のこの時期であった。ミシシッピ州ナショバ郡で殺害された3人の若い公民権運動家の1人である。この有名な事件は(登場人物の名前を変えて)『ミシシッピー・バーニング』として映画化された。 アメリカン・エクスプレスのパリ支店でこのニュースを目にしたとき,ポールは突然の吐き気に襲われた。「外に出なきゃいけなかった。今にも吐きそうだった。めまいがしてふらふらした。パニックを起こしていて,ものすごくおびえていた。自分が知っている人が死んだなんて信じられなかった。」 ジャーナリストや伝記作家が,この事件がポールにフリーダム・ライダーの死を描写した『私の兄弟』を書くインスピレーションを与えたと書いていたことがあった。これは間違いである。1年前に既に作曲されていたのだから。それに2度レコーディングもされている。シングルと,『水曜の朝,午前3時』の収録曲として。後にポールは歌詞を少し変更し,以前の歌詞では死の現場が単に「この町」であったのに対し,ミシシッピが実際に登場するようになった。 初秋の頃,アーティはパリに到達した。ポールがアーティに連絡し,ニューヨークに戻る前にしばらくロンドンに来るように誘ったのはそこでだった。一緒に帰郷の予定だった。アートはコロンビア大学に戻るし,ポールはブルックリン・ロースクールに進学することを決めたからだ。 なぜポールが法律を専攻しようとしたかは判然としない。もっとも,親しみのこもったこんなユダヤ系ジョークはあるけれど。医者の職につくのが一番,でもその若者が血を見るのに耐えられないのなら弁護士になる。ポールの場合,安定して,財政的にも安全な専門職を選択することで両親を安心させたいという思いと関係していると見て間違いないだろう。これまでのところ,ポールには音楽と真剣に恒久的なものとして取組む明確なプランはまだなかった。 ロンドン滞在最終日の夜,ポールとアーティはイアン・キャンベル・グループ(Ian Campbell Group)を見にウォーダー街のフラミンゴ・クラブに足を向けた。休憩時間には,プロモーターのカーリー・ゴス(Curly Goss)は気を揉んでいた。グループがまだ到着しなかったのだ。大勢観客が入っているのに,出し物が準備できていない状態であった。ゴスはポールがギターを持って座っているのに気づき,演奏するよう頼んだ。ロンドンのイースト・サイドのソーシャル・ワーカー,ジュディス・ピープ(Judith Piepe)もその晩そこにいた。彼女は後にポールとアーティの親しい友となり,ポールのキャリアにとって多大な助力となった。彼女曰く,「このニューヨークからやってきた見知らぬ男の子がステージに引きずり出されたの。」 実際のところ,この発言は決して真実とは言えない。ポールは無名とは程遠かったからだ。彼はクラブに熱心なファンを持つプロのシンガーであった。 ポールは『教会は燃えている』,『木の葉は緑』『サウンド・オブ・サイレンス』を歌った。それからアーティをステージに呼び,『ベネディクタス』を一緒に歌った。大受けだった。ジュディスはその後2人とおしゃべりし,ロンドンに自分と一緒に滞在したらと提案したが,2人は翌日ニューヨークへ戻る予定であった。 ポールのブルックリン・ロースクール時代は短かった。自分は弁護士には絶対にならないだろうとすぐに悟ったのだ。1965年1月18日にロースクールを中退し,荷物をまとめ,ロンドン行きの飛行機に乗った。今回は10日間の滞在の予定であった。ジュディスの働きかけにより,その間にBBCラジオがポールの曲を数曲録音することに合意していた。また,カーリー・ゴスがクラブでの数回の演奏を手配していた。 ニューヨークに戻る時,ポールは12曲を録音したテープをBBCに残していった。BBCはそのテープをどうすればいいか全くわからなかった。ジュディス・ピープは毎日局に電話をかけてせっつき,レス・ローはローナ・ミュージックから営業をかけ,BBCでポールのラジオ・スポットを流すように交渉した。 BBCは最終的に2週間,『ファイブ・トゥ・テン(Five To Ten)』という番組でポールの歌を使うことを決定した。毎朝放送される5分間の宗教番組である。レスは筆者にこう説明した。「ポールの作品のいい宣伝になったと思う。あの番組は2000万のリスナーがいる『主婦の選択(Housewives' Choice)』と,これも人気番組の『仕事中の音楽(Music While You Work)』に挟まれていたから。だから,大勢の人間がポール・サイモンの曲を聞くことになったんだ。」 ジュディスが曲のコメントを書いた。ジュディスは筆者にこう語った。「毎朝,その日の曲を紹介したわ。ふたを開けてみると,実際に使える時間は4分40秒だけで,残り時間はアナウンサーが使っていたの。それぞれの曲の時間を計って,残り時間にあうようにコメントを書かないといけなかった。」 『ファイブ・トゥ・テン』は1965年の3月に放送された。ポールとその曲への反応は圧倒的なものだった。BBCのオフィスにはポールについてや,レコードがどこで買えるかを問い合わせる手紙が殺到した。イギリスで入手できるレコードはジェリー・ランディス名でオリオールから出たシングル『私の兄弟』だけだった。単なるアメリカのレコードの販売口であったロンドンのCBS支社はちょうどオリオール社を買収したところで,その手元には大量の売れ残りのレコードがあった。ジェリー・ランディスのラベルを全てポール・サイモンのラベルに差し替えるのはコストが高くつきすぎるだろうと決定した。ポールの突然の人気を金に換えたかったので,社はポールがソロ・アルバムを作成することを承諾した。 CBSはアメリカで『水曜の朝,午前3時』のプロデュースをしたトム・ウィルソンを連れてきた。トムはロンドンに到着すると,ビジネス上の詳細な点をローナ・ミュージックと検討した。続いてポールが1965年5月にロンドンに到着。ロンドンのスタジオで『ポール・サイモン・ソングブック(Paul Simon Songbook)』をレコーディングする間,イースト・エンドのジュディスのフラットに滞在した。1週間足らずで完成した。1970年代にポールの要請によりCBSのカタログから削除されたので,『ソングブック』は今日ではレアで貴重なアイテムとなっている。 |
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『ソングブック』はポールのアコースティックギターのみを伴奏とした,大変純粋なアルバムである。ポールがフォークの世界で実際にどのようなサウンドを作っていたか見せてくれて,非常に興味深い記録だ。ジャケットには薄暗がりの中で座るポールとキャシーが写っている。 1曲目は『アイ・アム・ア・ロック』である。再度拒絶されるのを恐れて,孤独の安全性の中に閉じこもる男の物語。アメリカ人ジャーナリスト,ロン・ゴダード(Lon Goddard)はこのように表現している。「『自分が依存するものが苦難を乗り越えさせてはくれないにしても,自分は決して誰も信用しない』と言うような,一種の敗北主義的ヒロイズムである。」このオリジナル・バージョンは後のS&Gバージョンよりも飾り気がない。より怒りを含んだ,つらい印象で,ソロで歌われていることにより,聞き手が受ける孤独であるという印象が強められている。 『木の葉は緑(Leave That Are Green)』は胸を打つ曲である。時の流れを木の葉で象徴的にあらわしている。オリジナルのイメージではないが,効果的に用いられている。次に『教会は燃えている(A Church Is Burning)』。鼓舞するようなコーラスを使い,情熱的に正義を求めて叫びを上げている。ポールは多くのフォーク・クラブでこの曲を演奏したが,再度レコーディングすることはなかった。この曲は彼が作曲した中でボブ・ディランスタイルのプロテスト・ソングに最も近いものだろう。 次の『四月になれば彼女は(April Come She Will)』は後にアート・ガーファンクルがソロで歌うようになる曲である。ポールは後のそのバージョンと同様,繊細なギターの爪弾きのみを伴奏にしてシンプルに歌っている。詩はかなり複雑である。恋愛の周期が巡る季節になぞらえられ,性的な示唆に富むイメージも用いられる。 2度目にレコーディングされたバージョンの『サウンド・オブ・サイレンス』は新たなアコースティック・バージョンである。後のエレクトリック・バージョンよりも歌い方は鋭い。同様に,『とても変わった人(A Most Peculiar Man)』のポールソロバージョンも後のレコーディングよりも荒々しい効果を備えている。ポールの声はうつろに響き,空虚に反響している。ポールはこの曲をロンドンで書いた。「新聞で自殺を図った男の記事を読んだのがきっかけだった。」 『私の兄弟』がレコードに3度目の登場を果たす。アンドリュー・グッドマンへの賛辞を示す「ミシシッピ」が歌詞に加えられている。次はイギリス人のガールフレンドに捧げた『キャシーの歌(Kathy's Song)』。この曲は1965年にロンドンに戻る直前にニューヨークで書かれた。恋人は遠く離れ,彼は自分の考えで頭が一杯になっていた頃だ。彼女なしの生活の物憂い虚しさを象徴する雨のイメージが,雨音のように響く繊細なギターで深められている。恋愛の神聖な激しさと性的なイメージ描写が交じり合っている。後の曲でポールが繰り返し使う手法である。どのようにして23歳の若者がこれほど素晴らしい曲を書けたかは想像すらできない。 『ザ・サイド・オブ・ア・ヒル(The Side of a Hill)』もレアなプロテスト・ソングである。曲中の語が『スカボロー・フェア(Scarborough Fair)』」の『詠唱(Canticle)』部の元となってはいるが,曲が再度使われることはなかった。『簡単で散漫な演説(A Simple Desultory Philippic(or How I Was Lyndon Johnson'd into Submission))』は明らかにボブ・ディランのパロディであり,ディランの曲をほのめかした部分もある。ボブ・ディランとディラン・トマス(Dylan Thomas)を混同するという人の悪い冗談で,文学にもちらりと触れている。トム・ウィルソンとアーティの名前も出てくる―そして左利きであることに関係してほのめかされているのはアーティのことだ。キャシーは友好的な俳句。もう1つの文学部生ジョークだ。俳句は大変短い東洋の詩の形式であり,キャシーは無口だったからだ。 『雨に負けぬ花(Flowers Never Bend with the Rainfall)』は現実と幻想の隔たりを歌っている。幻想が現実への視点を惑わせ,歪めているのだ。簡潔な歌詞の歌である。音楽的には雨だれのようなギターが特に効果的である。アルバムの締めくくりの『パターン(Pattern)』は心をかき乱す調子が強い。自身の混乱した生活を映し出す壁のパターンという一連のイメージが上手く扱われている。歌の主人公は檻の中のねずみのように,罠にはまった気分になっている。小さな部屋で,暗闇と影の中,自身の恐怖にとらわれて。曲全体にみなぎるこれらのイメージは,後のポールの作品にも多く現れるものである。 ポールはアルバム完成後,一時的にニューヨークへ戻っていた。キャシーと共にありたいと,今では我が家のごとく思えてきたロンドンに戻りたいと思っていた。アルバム『ソングブック』がイギリスで発売される頃には,ポールはキャシーや野心的な大勢のパフォーマーたちと共にジュディスのフラットで暮らしていた。ポールがロイ・ゲスト(Roy Guest)と出会ったのはちょうどこの時期である。 ロイは様々な経験をしてきた人物である。正規の精神分析医である彼は,それまでと全く別のことに挑戦しようと決意した。そしてフォークの世界でギターを持って歌った。しかし間もなくあきらめ,ハロルド・デーヴィソン・エージェンシー(Harold Davison Agency)に就職し,フォークシンガーの世話をするようになった。 合衆国で,ロイは若く無名のボブ・ディランと出会い,ディランはヨーロッパでのマネージメントをロイに一任した。まさに贈り物といっていいものだった。しかし,ロイが語るところによると,彼の雇用主はディランに感銘を受けなかった。この苦いごたごたを経て,ロイは会社を辞め,セシル・シャープ・ハウスに勤めることにした。そこはイングリッシュ・フォーク・ダンス・アンド・ソング・ソサエティのロンドンでの活動拠点であった。そこでマーティン・カーシー,ザ・ウォーターサンズ(The Watersons),シリル・トーニー(Cyril Tawney),シャーリー・コリンズ(Shirley Collins)その他の面倒を見ていた。 1964年までには,ロイ・ゲストはアメリカで新たに生まれてきた新種のフォーク・シンガー―シンガー・ソングライターに関心を持つようになっていた。ディランと仕事をする機会を失ったことをいまだに悔やんでいたので,ロイ・ゲストはセシル・シャープ・ハウスを退職し,NW1,グロスターアヴェニューの自身のフラットで自分のエージェンシーを開設した。その事務所で,トム・パクストン(Tom Paxton),バフィ・サント-マリ(Buffy Sainte-Marie),ジュディ・コリンズ(Judy Collins)等のアメリカ人スターのイギリスツアーの手配をした。フラットはイギリス国内に2〜300ヶ所点在するフォーククラブでの仕事を見つける間,フォークシンガー達がコーヒーを飲んで音楽について議論する場となった。 1965年,ロイ・ゲストはフォーク・シーンに大きな影響力をもつようになり,ディランと比肩しうるシンガー・ソングライターの新しい才能を探していた。筆者は彼にかなり長時間のインタビューを行った。彼は細心の注意を払う話し手で,意見のひとつひとつを考慮し,正確さと誠実さを目指し,ミュージック・ビジネスに関する知識と,人間についてのきめ細やかな直観を取り混ぜて話した。筆者にこのように語った。「僕の注意をポールに向けたのはジュディス・ピープだったと思う。彼女は才能のある人を見つけると,僕に電話をかけてきていたんだ。ポールが歌うのを初めて聞いたときの事も覚えているよ。ロンドンのフォーク・シーンのメッカの1つ,アールズ・コートのトロバドゥールでだった。そこでポールの歌を聞いて,とても良い出来だと思った。ものすごい才能に恵まれていると即座にわかった。ポールに会うと,彼はこう言った。「そうだね,エージェントになってもらってもいいよ。」 それで彼に数回演奏の仕事を取るようになったんだ。書面での契約は交わさなかったと思う。ポールは新会社,フォーク・ディレクションズに所属して演奏するアーティストの輪に加わったんだ。」 筆者はポールについて少し語ってくれないかと頼んだ。彼はしばらく考えた後,ゆっくりと,細心の注意を払ってこのように答えた。「なにからなにまで完全に筋の通った人間だった。常に統制が取れていて,常にプロフェッショナルだった。ポールにギグを依頼したら,彼は絶対にそこに現れるって請け合えた。ちゃんと時間通りにね。ポールはクルー(地名:Crewe)から電話してきてこんなことを言う連中とは違っていた。「どこか…別の場所に来ちゃったみたいなんだ…わからないんだ…そこにはどう行けばいい?」 ポールがイギリス滞在中のアメリカ人だってことを考えると,なお一層特筆すべきことだよね。でもポールは本当に国中を1人で動き回っていたし,そのことを楽しんでいるように見えた。彼には自尊心があった。精神的に安定していてね。自分の作品がいいものだってわかっていた。」 ポールはイースト・エンドに位置するひょろ長いヴィクトリア風の建物,デロー・ハウス(Dellow House)3階のジュディスのフラットで幸せに暮らしていた。その建物は現存している。頭上にそびえるガタガタと音を立てる鉄道高架橋や,狭い通りにそびえ立つ威圧的な公営フラットに押しつぶされているようにみえる。1982年に筆者はジュディス・ピープを訪ねてまさにそのフラットを訪れた。階段を上って彼女のフラットに向かう時,自分の足音が建物の中をこだましているのを感じた。 フラットはとても小さなもので,多くの国のみやげ物でいっぱいだった。リビングの壁には職人スティーヴン・デルフト(Stephen Delft)の手による極上の手作りギターが並べられていた。1962年からその地域でソーシャル・ワーカーをしているジュディスは,自身の世代の恐怖を直接体験していた。シュレジエン(Silesia)地方にユダヤ系の社会主義政治家の娘として生れ,1933年に家族と共にドイツを脱出した。彼女は野良犬やアーティスト志望者の面倒を見ると評判で,地域社会で愛され,尊敬を受けた。彼女は人々が大好きなのだ。全く単純なことである。 ポールはイースト・エンドでの生活を楽しんでいた。生涯を通じて,彼がその景色や音,ホイットニー・ストリート(注:Whitney /Watneyの誤りかも)の近くの食料市場の楽しみ,地元の人たちの親切,身の回りすべてに感じる歴史の重み,そして当時,芸術面において真に霊感を与えた最愛のキャシーを忘れることはないだろう。実際,1980年代に『レイト・グレイト・ジョニー・エース(The Late Great Jonny Ace)』中で憧憬をこめてその時代に触れている。「ケーブル・ストリート(Cable Street)で生計を立てていた頃は,何もかもが新鮮で目新しかった。あそこの市場が大好きだった。自分はヨーロッパを探検中の単なる一アメリカ人で,そこに住む人たちはアメリカ人とは違った顔で,耳慣れないアクセントで喋っていた。お互いに好奇心を持ち合っていた。彼らにとっては僕が目新しくて,僕を気に入り,僕にとっては彼らに違いを感じて,彼らが好きになったんだ。」 フラットでの毎日は笑いや交友,インスピレーションでいっぱいだった。幾人か名前を挙げてみると,時は異にしているが,そのフラットにはフォークシンガーのアル・スチュワート(Al Stewart),ジャクソン・C・フランク(Jackson C. Frank),サンディ・デニー(Sandy Denny)(後にフェアポート・コンベンションの一員となる),ロイ・ハーパー(Roy Harper)が暮らしていた。そしてキャシー,時にはアーティもやってきた。来客もひっきりなしだった。 ジャクソン・C・フランクには小規模だが熱心な支持者がいた。ポール・サイモンもその1人で,ポールはジャクソンの唯一のアルバムを1965年にプロデュースしている。そのアルバムでセカンド・ギターを担当しているのはアル・スチュワートである。ポールは数時間しかかからなかったその作品の製作に自身の『ソングブック』の前払いロイヤルティを使った。残念なことに,そのアルバムは成功せず,1000枚しか売れなかった。とはいえ,長年の間彼のカルト的人気は続く。 ソングライティングと演奏以外に,ポールは短篇小説の執筆にも手を染めていた。作品の1つは『ソングブック』中にフォリオ形式でおさめられている『ドラムと他の中空のものの上で(On Drums and Other Hollow Objects)』というタイトルのものである。老人ホームに祖父を訪問する若者についての繊細な物語である。哀感とユーモアが注意深いバランスで繰り返され,明らかに自身の筆と読者の反応をコントロールする術を心得た者の作品である。 ポールはさらなる著作を志していた。後にNME誌のインタビューにおいてトレイシー・トーマス(Tracy Thomas)に,このところ,小説に取り込んでいると語っている。「パフォーマンスの合間には,いつでも書き物をしているんだ。修養を積んで,『素晴らしいアメリカ野球(the Great American Novel)』のような作品をものにできるようにね。」 とポールは笑った。NME誌のアラン・スミス(Alan Smith)にはこのように語っている。「小説を書き上げたいんだ。自分にとって最初の作品になる。短編を書くことで取組んでいるんだ。最終的にはその短編を組み込んで小説にするつもりだ。」 そしてこのように付け加えた。「そうしたらヒット曲を連発するよりも満足感を得られると思う。小説を完成することの満足感に比べたら,自分にとって何の意味も持たないだろう。」 |
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1965年6月1日,コロンビア大学の学年が終わり,アーティは学士号を取得した。ポールはロンドンのジュディスのフラットに滞在するように誘った。アーティは飛行機に乗り,その月の終わりにはロンドンに到着した。 それからの数週間,2人はかなりの回数デュオとして活動した。演奏していないときには,2人はフラットで書き物をしたり,歌ったり,音楽について話し合ったり,モノポリーをしたりした。時折,その小さなフラットの立入りが制限されることがあった。そんなときは皆で町をぶらついてコマーシャルロードにある終夜営業のコインランドリーに入り,洗濯機が回っている間即興コンサートを開いたりした。通りがかりの人や,トラックの運転手達が足を止めて聞き入った。午前4時にお開きにして,帰宅して就寝する前に終夜営業の店に行ってタバコやお菓子を買い込んだ。 お金はほとんどなかったが,幸せな時期だった。結局のところ,彼らが必要としていたのはシンプルでわずかなものだけだった。あの60年代半ばの輝かしい日々,楽観主義的精神が世界中,いずれにせよ若者の世界には染み渡っていた。自分達もビートルズのように,労働者階級に生れて成功できるかもしれない。ボブ・ディランのように,体制に反抗して,皆が耳を傾け,尊敬する人になれるかもしれない。男女のダブルスタンダードも徐々に崩壊が始まり,『フリー・ラブ』が全てのメディアで主張されていた。ミニスカート,ピル,ギター音楽,教育,旅行,自由,そしてなにより,それが永遠に続くだろうというすばらしい感覚があった。 アートは後に, この時代について非常に満ち足りた思いを込めて語った。「ハイライトとなるような時期はいくつもあるけど,なによりイギリスで過ごした頃が一番だったと思う。ロンドンのあたりでうろうろしていて,まだいわゆる『成功』はしていなかったけど,今でも記憶の中で甘く美しい,魔法のような日々だったよ。」 アーティは後の内省的な時期に書かれた,胸を打つ感性豊かな詩のいくつかでその日々に敬意を表している。詩はキャシー,ロンドンでの夏の日々,通りで歌うこと,親しげな顔,そして何より,若くあること,を回想している。 ポールも当時の素晴らしい幸福感を主張した。後にローリングストーン誌にこう語っている。「僕にはわかっている,あの時僕はこの上なく幸せだったんだということが。あの頃は人生の中で最も純粋で,一番幸せな時期だったと確信している。」 |
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