第5章 ワン・ナイト・スタンド・ツアー |
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| The Tour of One-Night Stands |
アーティがニューヨークに戻った後,ポールは北部イギリスツアーに出発した。これが後に『早く家に帰りたい(Homeward Bound)』で大変いきいきと描写されている一連のワン・ナイト・スタンドである。このツアーは極めて重要なものであった。というのは,これが世界的なデュオの片割れとなる前に,ポールがソロアーティストとして行なった実質的に最後のツアーだったからだ。 ツアーは9月上旬の水曜日にウォリントン(Warrington)から,ジャックとノーマンのフロガット(Froggatt)兄弟経営のフォーク・クラブから幕を開けた。リオンにある地元の人気パブである。この兄弟自身もロバート・フロストの詩から名前を取った『マイナー・バーズ(Minor Birds)』というフォークグループを作っていた。1960年代初めのグループ結成以来,メンバーは入れ替わり,オリジナルメンバーとして残っていたのはジャックとノーマンだけだった。グループは成功し,イギリス国中で演奏していた。 リオンのフォーク・クラブは通常,250人で満員になるものだった。ジャックとノーマンは自分たちの稼ぎを全てそのクラブにつぎ込んでいた。特にポール・サイモンのような才能のあるトップクラスのアーティストを雇うために投資した。フォーク・ディレクトリ(Folk Directory)でジャック・フロガットの名前を見つけて,ポールの方から彼に連絡を取った。電話をかけ,アメリカ人シンガー・ソングライターであると自己紹介し,仕事を探していると言ったのだ。 ジャック・フロガットは北部人の率直さを持った人物で,ざっくばらんに筆者に話をしてくれた。誤解されないようよく言葉を選んで。ポールのことを良く覚えていた。「私は新しい人を試したくてたまらなかった。ポールを12ポンドの料金で契約することで合意した。」 ジャックは今でもポールがサインした受領書を持っている。 ジャックはポールへの反応についてこう語った。「クラブとしては,コンテンポラリー・フォークミュージックにとりわけ熱心だった訳ではなかった。だけどポールは大評判をとったよ。彼の才能は明らかだった。すばらしいギター・プレイヤーで,今までの出演者とは全く違っていた。派手派手しいタイプのギタリストではなく,上品なプレイヤーだった。そして彼の全ての歌には語られるべきことがたくさんあった。フォークソングの聴衆にとって,全く新しい局面が現れたのだと感じた。見事なほどの評判だったよ。」 ショーの後,ポールは今まで出演した多くのフォークミュージシャン達と同じようにジャック夫婦の家のソファベッドに泊まった。ジャックは筆者にこう語った。「翌朝は僕は仕事に出かけたんだけど,妻に頼んで,ポールをウォリントンに連れてきてもらって,インド料理店でランチを一緒にとることにしていた。全体的に,とても内省的なタイプだと思った。あまり話すこともなくてね。とても無口だった。とはいえ当時の僕達は子供のいる若夫婦で,ポールと共通点はあまりなかったんだ。」 次の場所はチェスター(Chester)だった。ポールは金曜夜のショーのため,クラブに直接行った。チューニング・フォーク(Tuning Fork:音叉)はクリスとロビン・シャーウェン(Sherwen)という新婚夫婦であり,トラディショナルフォークを歌う4人組,ブラック・ダイヤモンズ(the Black Diamonds)としてもめざましい成功をおさめていた。 細部にわたるすばらしい記憶力を持つ女性クリスは,金曜日の夜のポールとの初対面の様子をいきいきと話してくれた。「私達がクラブに入ったときには,ポールはもういたの。オリーブ色のタートルネックのセーターを着ていた。値の張るものに見えたわ。そして彼自身もちょっとオリーブ色に日焼けしていた。観客にしていた話は面白かった。とっても。皮肉っぽかったかどうかは覚えていないけど,機知に富んでいた。違っていたのよ。私達のクラブには,それまでアメリカ人がゲストで来たことはなかった。その時点では,トラディショナルフォークを歌う歌手を呼ぶことが多かったの。とにかく,ポールはこれまでとは全く違っていた。他の人の作品ではなく,自作の曲を演奏した。ほぼ『ポール・サイモン・ソングブック』そのままといってよかったと思う。彼の歌はすばらしくて,盛大な拍手喝采を受けたわ。」 ロビンも最初の晩の思い出を語ってくれた。「ポールはアメリカ人だったから,僕達観客の期待は大きかったと思う。僕達の小さなフォーク世界で,ギターを本当に弾いた正に最初の人間だった。ギターが障害にならないって意味だよ。僕達のクラブでクロー・ハマー(claw hammer)スタイルで演奏したのも彼が最初だった。もちろん今では誰でもやっている奏法だけど。僕に教えてくれたのはポールだった。そのとき,彼が苦労していたのを覚えているよ。というのは,彼にとってはあまりに無意識にやっていることだったから。ゆっくり演奏して,どうやっているのか解き明かさなきゃいけなかったんだ。もちろん,今では当時彼がやったことは全くシンプルなスタイルに見えるけど,身につけようと苦闘していたそのときの僕には,天啓のように思えた。ポールは良いギタリストだった。世界で10の指に入るとまで言う気はないけど,彼の演奏は完璧だった。」 ショーのあと,ポールはクリスとロビンと一緒にバーケンヘッド(Birkenhead)のオステン(Osten)にある2人の小さなフラットに戻った。3人は明け方まで起きていて,ポールが2人に自分のことを話した。クリスはこう語った。「ポールはお父さんのことをずいぶん話していたわ。とても誇りに思っている感じだった。それからアーティのことについてあらゆることを私達に話してくれた。彼のことが大好きだったみたい。アーティがポールの人生において非常に大きな存在だったことは一目瞭然だった,当たり前のことだけど。」 クリスは考え込んだ。「ポールは私達夫婦に強い印象を与えたのね。何年も経った今になってもこんな風に全部話せるんだから。」 クリスとロビンの2人とも,ポールが自分のキャリアプランを語ったことを覚えていた。決意と野心をあらわに,詳細に語ったそうである。このようなキャリアに対するビジネスライクな態度は,それまでの,国中をギターを手にして移動しワンルームに泊まり,ギグを行い,気ままな存在であるというライフスタイルにちょっとそぐわないように思える。明らかに,この生活はそれ自体が目的のものではなかった。この段階においても,ポールはスターダムと富に照準を定めていた。クリスはこう語った。「ポールは出版社を持っていると言っていたわ。それに,こう言っていた。30歳になるまでに大金持ちになれなかったら,自分を失敗者と考えるだろうって。」 複数の情報元から筆者は何度も,このツアー中,ポールが成功への意欲を語っていたと耳にした。ロビンもそのことを覚えていた。「そう,そういうことをポールは確かに言っていたよ。30歳になるまでに大金持ちになるって。私達は,「ふーんそうなんだ。」 って言っていた。でも思い返してみると,彼は自分が目指しているものを知っていたんだろうと思う。もう人生計画を練り上げていたんだろうって。どうやって道を進んでいくかもちゃんとわかっていた。彼は明らかにとても難解な人物だったけれど,そういう印象をことさら与えるということはなかった。自分の人生についてふさぎ込んだりくよくよ心配したりはしなかったし,不機嫌にも見えなかった。そうだね,ソングライターは全員,自身の直接経験をいくらか歌に入れるものだと思っているけど,ポールにとっては,曲を書くことも生活だったんだ。」 「ポールは一緒にいて興味深い人間だった。若い頃に既に,我々のほとんどより多くのことを成し遂げていたしね。トム&ジェリーとしてのアーティと一緒の人生が終わって,ポール・サイモン単独の時代が始まるんだ,という印象を受けた。でも誰もが知っているように,そうはならなかった。サイモン&ガーファンクルに戻るというのがポールの計画の一部だったのかもしれない。それとも単になりゆきで起こったことかもしれない。」 後に,ポール・サイモンが再度ソロ・アーティストとして出現したときの出来事を考慮に入れてみると,この感想はより重大な意味を帯びることになる。 翌日は土曜日であった。ポールは午後にシャーウェン夫妻と共にリバプールにショッピングに出かけた。ギターショップ,『クレーンズ(Cranes)』に直行し,そこでロビンはポールに150ポンドの値段のマーティンギターを見せた。当時,イギリスでは一般的にマーティンは入手しづらかった。だいたいはアメリカ人によって持ち込まれたものだった。ポールはロビンにこう言った。「買うべきだよ。いい投資になるよ。これを買って絶対損はないよ。」 後にこれは良いアドバイスだったとわかった。 買い物の後,シャーウェン夫妻のフラットでディナーをとった。新婚のクリスには(今の彼女のような)豊富な料理のレパートリーはなかった。彼女はポールに何を出せばいいか心配していた。「私の得意料理は,パイナップルのせのガモン(注:ハムの一種)で,「まぁどうしましょ。」って思ったのよ。だってほら,ユダヤ系の人にガモンを出していいのかなって。でも大丈夫だった。ポールは正統派ユダヤ教徒ではないのね。ガモンを食べて気に入っていたから。」 その晩,ポールはベビントンのクラブで演奏した。そのクラブの経営者はビル・フォッグ(Bill Fogg)とアーティ・ショー(Artie Shaw)である。シャーウェン夫妻も一緒に来て,2夜目も彼らのフラットに泊り,また夜中まで話し込んだ。日曜,ロビンの母親の家での伝統的なイギリス風のローストビーフディナーの後,夫妻はポールを次の演奏のためにバーケンヘッドのセントラル・ホテルへと送り,彼らはそこで別れた。 |
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セントラル・ホテルでポールを出迎えたのはシャーウェン夫妻の親しい友人ジェフ・スピード(Geoff Speed)であった。数ヶ所のクラブで演奏したその後の数日間,ポールは彼の家で過ごした。現在ではジェフはウィドネスで自身の会社の代表を務め,妻のパム(Pam)と2人の子供と暮らしている。マージーサイド(Merseyside)ラジオ局でフォーク・シーン(Folk Scene)という番組を書き,提供している。広範囲に及ぶ,情報も豊富な音楽に対する関心を持ちつづけている。ドライなユーモアを交えて,物静かに話す人である。 ポールと会った1965年の秋には,ジェフは150人収容の大きなフォーククラブ,ハウフ(the Howff)を経営していた。ウィドネスに両親と住み,パムとデートしていた。ポールは月曜の夜ハウフで演奏し,大評判を取った。 火曜の晩,ジェフはポールをサムソン・アンド・バーロウ(Samson and Barlow's:レストラン名)のペパーミント・ラウンジへ連れ出した。リバプールにある高層レストラン複合施設である。2人はそこでマージービート誌(Merseybeat)の若い記者と面会した。ジェフはこう語った。「その記者は10シリングなくしたことをひどくこぼしていたんですよ。50ペンスなんだけど,当時はたいした金額だったんでね。ポケットから落としてしまったんだね。そして5〜10分程私がその記者と話していたら,ポールがこう言った。「ジェフ,1ポンド貸してくれる?」 私は貸した。ポールはルーレットがおこなわれている上の階に10分ほど姿を消すと,僕に1ポンド,記者に10シリング持って戻ってきたんだ。どうやったのか聞いてみたら,コツを知っているんだと自信たっぷりに言ったよ。」 その晩の残りの時間,ジェフはポールにリバプールの名所を案内して過ごした。「ポールをカバーン(Cavern)に連れて行った。そこに行ったのはそれが最初で最後だけど。出演していたのが誰かは覚えていないけど,ビートルズではなかった。1965年にはビートルズはもう行っちゃってたからね。あとはリバプールのシール・ストリート(Seal Street)の端にあるブルー・エンジェル(the Blue Angel)にも行った。そこもビートルズが出入りしている場所だったって言われていたんだ。ポールはビートルズに心奪われていたよ。確かポールがイギリスにきて数日の頃に『ヘルプ(Help)』が発表されて,ポールは僕が仕事で出かけている間も家で何度も聞いていたよ。」 ジェフが仕事中の日中は,ポールはジェフの父,アーサー・スピード(Arthur Speed)と一緒に過ごすことが多かった。ジェフは笑いながら思い出を語った。「僕よりも父の方がポールに話しかけるのが多いくらいだった。2人が宗教について議論していたのを覚えているよ。僕の一家はずっとメソジストで,ポールはもちろんユダヤ系だった。すごく大声で議論していたね。僕も議論に加わったけど,すぐにまた外出してしまった。」 アーサー・スピードは楽しげにその思い出を筆者に語った。「宗教について何度か議論をしてね。私達の意見は全く一致しなかった。けれど友好的な議論だったよ。ラジオかテレビで番組をやっていて,それにソーパー卿(Lord Soper)が出演していた。彼はメソジスト派の偉大な牧師で,物議をかもす人だった。ポールは番組の何かに断固反対したんだ。それがなんだったか思い出せないけど,それがきっかけで私達は宗教について話しだした。自分の信念や信仰を持っていることは明らかだった。まじめな男の子だったね。」 ポールはどんな若者でしたか? アーサーはこう答えてくれた。「テレビはあまり見なかったね。たいてい何か書き物をしていた。学究的に見えたよ。だいたいは正面のラウンジで過ごしていた。物思いにふけってはメモを取っていた。心に浮かんだ曲を書きつけていたんだろうね。今できるのは単なる推測でしかないけれど,『早く家に帰りたい』(Homeward Bound)だったのではと思う。よく窓の正面に座っては庭を見つめていた。休息を楽しんでいたんだと思う。彼が家にいると楽しかったよ。」 ジェフがポールと交わした議論はもう少しおとなしいものだった。筆者にこのように語った。「ポールにディランについて尋ねてみたんだ。ポールはディランの音楽に感銘を受けていると思っていたし,2年前のディランの例に倣ってイギリスに来たのかと思うこともあった。ポールはロンドンにいるキャシーを恋しがっていたね。あとアートのことをいかにも仲が良さそうに話していた。アートがいい相棒で,2人が親友であることは明らかだった。ポールはお父さんのことも話していたよ。」 再び,ポールの競争心が会話に現れるようになった。ジェフはこう語る。「ポールは誰が見てもとても知能の高い人間だった。パムに知能指数が150あるって言っていたよ。あと30歳になるまでに100万ドル稼げなかったら,失敗したと思うだろうということも。こんな印象を受けると思う。こいつは感じのよい人間だが,固い決意を持っているのは明らかだって。ポールは親しみやすい人間で,大いにくつろいでいた。自信に満ちていた。」 水曜の晩,ジェフとパムはデートでヴィクター・ボーゲ(Victor Borge:デンマーク生まれのコミックピアニスト(1909-2000) )を見にリバプール・エンパイアに出かけた。演奏に向かうポールをザ・セントラルへと送り,その後ショーに出かけた。ジェフはこう語っている。「終了後,ザ・セントラルにポールを迎えに戻ったんだ。ポールは満員の会場で演奏していた。僕達が到着したとき,ポールはまだ舞台にいて,有線テレビで演奏がバーに中継されていた。当時は新しいことだった。実際はポールが演奏していた部屋には入れなかった。それくらい観客がいたんだ。」 木曜の朝,ジェフはポールをウィドネス駅に車で送り,グラナダTVでのレコードセッションのためにマンチェスターへ向かう電車に乗せた。当時グラナダTVは1アーティストにつき3〜4曲の録音を行い,番組の間の時間つなぎに使っていた。木曜の晩,ポールはリバプール・ボクシング・スタジアムの近くのパブで行われた郵便局技術者ソーシャル・クラブ(POTSO)で演奏した。 金曜日,ジェフは再びポールをウィドネス駅まで送った。「ちょうど列車が到着する頃に駅に到着したと思う。ポールが乗車するのを見送った。ポールはハル(Hull)に向かっていて,確かウォーターサンズ・クラブ(Waterson's Club)で演奏する予定だった。その後,『早く家へ帰りたい』はウィドネス駅で書かれたって言われるようになったけど,間違いのない事実という訳ではないと思う。ちょっとした詩的許容だね。」 「ポールは確かに僕の自宅で曲を作っていたよ。その曲は発展していって,彼の頭の中をぐるぐる周っているようだった。もう詞はいくらか書いていたんだけれど,曲の方に手間取っていたんじゃないかな。」 『早く家へ帰りたい』とウィドネス駅に関する神話は年月を重ねるにつれて大規模なものとなっていった。実際,90年代の初めにジェフは,その曲がその駅で書かれたと宣言するプレートの除幕役を依頼された。今ではそのプレートが駅を飾っている。ほとんどの神話と同様,その強みは人々が想起するイメージの中にある。実際はポールは列車に飛び乗り,駅で待ったりはしていないとしても,曲の意味が力強いものなら,どうでもいいではないか。 いつ書かれたにしろ,『早く家へ帰りたい』は明らかにこのツアーから生れたものだ。ポールは後にロイ・カーにこう語っている。「ウィドネス駅を知っていたら,僕がどれほど必死にできるだけ早くロンドンに帰ろうとしていたか分かってもらえると思う。『早く家へ帰りたい』はその気持ちから作った曲だ。」 ただ,ポールが表現しているのは場所そのもののことではなく,生活のことである。ヒット・パレーダー誌(Hit Parader)にこう語っている。「彼女や友人が恋しかったんだ。ちょっと気が滅入っていた。各地を転々として,持ち歩いている身の回り品で暮らし,毎日列車に乗って次の場所に向かっていた。快適な10日間とは言えなかった。北部イングランドもそこに住む人たちも大好きだったけど,ロンドンが恋しくてホームシックになっていたんだ。」 他のインタビューではこのように言っている。「いつもこんな風に考えていた。地方巡業の旅に出ていると,訪れる街の印象は交じりあってしまい,ゲームでもしているような気分になって毎晩過ごすんだ,って。」 ポールはこのような生活が突然の終わりへと疾走していることを知らなかった。ニューヨークに話を戻すと,彼の人生を決定的に変えることが起こっていた。たまたまコロンビアレコードに電話をかけたアートは,サイモン&ガーファンクルがシングルをリリースすることになっていると聞かされた。ポールもアートも知らないことだった。 その前の数週間フロリダのココア・ビーチのディスク・ジョッキーが,アルバム『水曜の朝,午前3時』の中の1曲,『サウンド・オブ・サイレンス』をかけていた。聴取者はラジオ局にその曲をリクエストしだした。まもなく反響は圧倒的なものとなった。コロンビアはその曲のシングルリリースは採算が取れると判断した。トム・ウィルソン(Tom Wilson)がオリジナルのアコースティック・ギターにエレクトリック楽器,12弦ギター,ドラムとベースををオーバーダビングした。後年,2人に連絡を取るのが難しかったためかもしれないということをしぶしぶ認めたものの,ポールはこう言った。「トム・ウィルソンは僕に電話をかけて聞いたりしなかった。当時,ポールとアーティに関してはやりたい放題できたんだ。」 アーティも大変驚いていたが,試しに一度聞いてみた。後にこう語っている。「魅力的な仕上がりだと思った。案の定,記録がゆっくりとあらわれてきた。」 シングルは1965年11月20日にチャートインし,さらに上がり始めた。コペンハーゲンで短い休暇を過ごしていたポールはびっくり仰天した。ビルボード・チャートの111位に入っているのを見て,初めて気づいたのだ。ロンドンに戻り,トップ100に入るのを見守った。ある意味,ポールはどちらかというと無関心であった。どのみちその曲はポールの許可を得ずにオーバーダビングされ,知らないうちにリリースされ,その場にいないのに好調な売れ行きを示していたのだから。 ポールは混乱していた。レコードに何が起こっているのか,またレコードがチャートを上がっていくのを見守ったその数週間,ポールはNME誌にこう語っている。「どう対処すればいいかわからないよ。実際問題,全然実感が湧かないんだ。僕はここロンドンにいて,レコードが良く売れていると言われている。イギリスで,今までと同じようにフォーククラブで演奏しようと思っている。何も変わらない。そう,幸せだよ。とても嬉しい。とても素敵な贈り物をもらった気分だ。」 ポールは時の人となる見込みを楽しむこともなかった。これまでも平穏な大学生活から,ソロパフォーマーとして孤独な放浪者へと歩みを変えてきた。自分がエージェントやマネージャーに取り囲まれていることを想像するのは不可能であった。大金持ちになるという非常に現実的な野望にもかかわらず,ポールにとってポップ・シーンは異様な世界であった。 記者にこう語っている。「このレコード業界ってものは,異常であることを薦めているんだ。注目を浴びるために業界がアーティストををますます奇矯な行動へと追いやったり,人の言うことを打ち消そうとばかばかしい極端へ走るのは残念だよ。音じゃなくて見かけで判断される世界には絶対に足を踏み入れたくない。それだったら無名の方が絶対にいい。」 しかしその発言の数週間のうちに,ポールは確かに有名になっていた。『サウンド・オブ・サイレンス』はアメリカで1位に達し,サイモン&ガーファンクルは2人にとって最初のゴールド・ディスクの資格を得た。ポールは故郷に戻る時が来たと悟った。彼を見たいと大騒ぎしている人々と,大学院で学んでいる彼のパートナー(名声の唐突さにすっかり困惑していた)がいる場所であった。ある意味では事故にあったようなものだった。アーティにはそんな心構えはほとんどなかった。この『サウンド・オブ・サイレンス』の予想外のリリースがなければ,サイモン&ガーファンクルははたして生れ出でたであろうかと推測するのは面白い。ポールはイギリスに残っただろうか。ソロ・アーティストの道を続けただろうか。わからない。 2人にとって,昔の生活は終りを告げた。好むと好まざるとにかかわらず,全く新しい時代が始まったのだ。彼らはセンセーションとなる寸前であった。 |
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