第6章 サイモン&ガーファンクル

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 Simon & Garfunkel

 ポールは1965年12月に合衆国に帰国した。アーティが喜んで迎えた。突然2人はヒット曲のパフォーマーとして国中から引く手あまたの身となっていたのだ。後にこの人生の転機についてポールはこう語っている。「ちょっときまりの悪さを感じた。イギリスでの比較的人に知られていない状態から,こっちに来てある程度有名なタイプに変身しなくてはいけなかったんだ。なかなか慣れることができなかったよ。」 一つにはイギリスでの自由で深く満足していた生活と別れを告げつつあったこともきまりの悪さの理由だろう。この突然の成功はたいへんエキサイティングなものだったが,同時に幾ばくかの不安を感じさせた。
 サイモン&ガーファンクルは『サウンド・オブ・サイレンス』を,恋人を無視して旅立とうとする女性を引きとめようと懇願する内容のロックンロールナンバー『はりきっていこう(We've Got a Groovy Thing Goin')』と組み合わせてリリースしていた。2人が登場してシングルの宣伝をすると,どこでも熱狂的に迎えられた。
 彼らのビジネス上の意思決定には,音楽業界のベテラン,モート・ルイス(Mort Lewis)が相談に乗っていた。彼は既にスタン・ケントン(Stan Kenton)やデイブ・ブルーベック(Dave Brubeck)のマネージメントを務めていた。モートのアドバイスに従って,2人は依頼されていた実入りのいいナイトクラブのオファーの大半を断り,週末の国中の大学キャンパスコンサートを受けることにした。
 ポールはニューヨークに長くいるつもりはなかった。こう心に誓っていた。「だいたい6ヶ月くらい働いたら,もう1年イギリスで暮らせるお金が手に入るだろう。」 ポールの計算はこうだった。運がよければ,これから数ヶ月の間に25,000ドル稼げるだろう。それだけの金があれば,かなりの間イギリスで快適に生活できる。実際のところ,それよりはるかに多くの金を稼ぐことになるのだが。
 なによりもポールをひるませたのは金だった。自分達が稼いだ総額は,最近まで平均的な中流家庭で静かな生活を送っていた2人の若者にとって信じ難いほど膨大なものだった。ポールはNME誌にこう話している。「理解できない。僕たちにとってはどうでもいいことなんだ。」
 後にポールは『サウンド・オブ・サイレンス』が1位になった日の思い出を語った。その日彼らはピッツバーグのマディソン・スクエア・ガーデンで,ヤードバーズ(the Yardbirds),フォー・シーズンズ(the Four Seasons),チャック・ベリー(Chuck Berry)と一緒にショーに出演していた。ポールとアートは300ドルのギャラで自分たちのヒット曲を歌った。「舞台に上って,この小さなギター一つきりで歌ったんだ…終わった後,僕達はこう言った。“もうステージはやらないぞ。ばかげている。” 馬鹿になったみたいな気分だった。」
 2人は大学コンサートの,週末の1コンサートで1,300ドル稼いだことを知って愕然とした。入場料金がその規模になることが2人を落ち着かなくさせた。彼らはこう決意した。これからはレコードを作ることに専念して,金はやめる日に備えて貯めておこう。
 だが簡単にやめるわけにはいかなかった。サイモン&ガーファンクルには需要があったのだ。そしてどのみち問題は金よりもはるかに複雑なものだった。突然,2人は今までの人生で馴染んでいた全てのものから外れてしまった。古くからの友人や行きつけの場所とも連絡が途絶えた。彼らは巨大な規模の商取引に足を踏み入れていたのだ。当初ポールは打ちのめされた。「とても不安になった。…成功が僕を金と,対応する準備のできていないところに押し流していった。誰と親しくすればいいか,どこに住むべきか,どこへ行くべきかもわからなかった。」
 ポールの記憶に,自分の車でアーティと並んで座り,ラジオを聞きながらおしゃべりしていたことが残っている。『サウンド・オブ・サイレンス』がかかった。無意識にアートはポールの方を向き,こう言った。「ナンバー1レコードだ。こいつら,大いに楽しんでいるに違いないよ。」 皮肉なことに,実際は正反対だった。ポールが言うように,「僕達はクイーンズの141番通りでただ座っていた。どこへ行くべきかわからなかったんだ。」
 1966年1月,『アイ・アム・ア・ロック(I Am a Rock)』をフィーチャーしたEP盤がリリースされた。ポールのソロバージョンよりテンポが速くなっている。ほかの曲は緊密で巧みなハーモニーの『雨に負けぬ花(Flowers Never Bend with the Rainfall)』,『サウンド・オブ・サイレンス』,新曲『ブレスト(Blessed)』だった。
 『ブレスト』はすでに世間がサイモン&ガーファンクルから思い浮かべるようになっていた甘いサウンドからのちょっとした逸脱だった。怒りと絶望を告げる硬音で耳障りな調子が強く,『山上の垂訓』の現代的,冷笑的なバージョンである。ポールはロンドンのソーホーでこの曲を書いた。突然の豪雨に見舞われ,雨宿りに聖アン大聖堂に入ったときのことだ。説教の最中だった。「そしてその説教が何も語っていないことが僕の印象に残ったんだ。なにも。聖堂に入っても入らなくても全然変化はない。ステンドグラスの研究家なら別だけれど。なぜなら柔和なるものはなにも継がないからだ。全くね。そのことがこの歌の中心なんだ。」
 ポールは荒々しいギター・コードと硬音で攻撃的なハーモニーによって強調された挑戦的な歌詞で要点を表現した。その曲は当惑し,あきらめたような調子で終幕を迎える。ヴォルテールの戯曲『キャンディード』で,登場人物が庭を耕して人生を過ごそうと決意する締めの言葉が改作して用いられている。
 1966年3月,サイモン&ガーファンクルは『早く家へ帰りたい』と『木の葉は緑(Leaves That Are Green)』を組み合わせてリリースした。ポール・サイモンは切ない調子の『早く家へ帰りたい』で自分の言葉が平凡(mediocrity)のうちに戻ってきても恐れないソングライターであることを証明した。
 シングルはよく売れた。アメリカでは5位まで上り,2曲目のヒットとなった。イギリスではTOP20に入り,9位まで達した。ポールは4月にロンドンに5日間滞在し,自身作曲の3曲がNME誌のTOP20に入っているのを見て喜んだ。バチェラーズ(the Bachelors)の『サウンド・オブ・サイレンス』が4位,シーカーズ(the Seekers)の『サムデイ・ワン・デイ(Someday One Day)』が16位,サイモン&ガーファンクルの『早く家へ帰りたい』が15位である。
 イギリス政府は外国人が一税年度につき6ヶ月以上働くことはできないと定めており,ポールはすでにフォーク・クラブでその分を超えてしまっていたので,デュオはもはやイギリスで演奏できなかった。7月までイギリスではレコードの宣伝のための演奏ができないということだった。残念なことであり,おそらく彼らのシングルの順位にも影響を与えていた。
 まもなくポールがバチェラーズの歌う『サウンド・オブ・サイレンス』を批判したという噂が記者の間で広まった。NME誌のインタビューでポールはこの噂を強く否定した。「あるところで報じられたみたいに,僕の曲のバチェラーズのバージョンをうんざりするなんて言ったことは一度もないよ。判断を下す立場じゃないし。彼らのバージョンのレコードを,本当にたくさんの人たちが気に入っているわけだし。バチェラーズのスタイルと相容れないのだから,とてもヒップな歌を選択して録音すべきだったんじゃないかって不思議に感じるけど。アーティストの中には,僕が歌に込めたものを全て引き出しきることが絶対にできない人っていうのがいると思うんだ。」
 ポールはホリーズ(the Hollies)が『アイ・アム・ア・ロック』のカバーに関心を示していることに喜んだが,その喜びは『子宮(womb)』という語を削除するという決定のために損なわれた。今日では,その言葉に異を唱える者がいたとは奇妙に思える。ポールは当然のことだが憤慨した。「何か汚い単語が削られたってみんな思うだろう。僕は汚い歌詞なんて書いたことないのに。」
 この短いロンドン滞在の間,ポールは時間の都合をつけて『アンジー』の作曲者である古くからの仲間,デーヴィ・グラハムを訪ねた。この曲はまもなくサイモン&ガーファンクルの新アルバムに収録されることとなる。デーヴィはその訪問について暖かく語った。「彼は僕が演奏していたソーホーのカズンズにやってきて,こう言ったんだ。「お金をたくさん当てにしてくれていいよ。」 『アンジー』の著作権使用料のことだった。大喜びだった。そのとき自分に必要だったのはまさにそれだったからね。実際に1500ポンドを受取ったよ。」
 「その後,ホテルにポールを訪ねたんだ。ハイド・パークのヒルトンホテルだったと思う,22階でね。僕は無一文で,腹ペコだった。ポールがこう言った。『何か注文する?』 だから僕はこう言ったんだ。『そうだね。ステーキとサラダ,ポテトフライとワインを1瓶頂こうか。』 10分以内に届いたよ。」 ポールにとって,豪奢なヒルトンホテルでの今回のロンドン滞在は,前回ロンドンにいた頃,ジュディスのフラットで暮らし,一晩12ポンドの演奏をしていた頃と著しい対照を示していた。
 シングルが何枚か当たったので,続いてアルバムを作るようにとのプレッシャーがかかるのは予測できることであった。1ヶ月以内に製作しなければいけなかった。したがってレコーディングセッションは,彼らの演奏する都市がどこであろうと,その地の空きスタジオに組み込まれた。ニューヨークとロスアンジェルスで出演契約があったので,そこでも録音した。ナッシュビルで演奏予定があるので,『アイ・アム・ア・ロック』をそこで録音したいと2人は思ったが,プロデューサーであるボブ・ジョンストン(Bob Johnston)はその考えは捨てるべきだと示唆した。スピードの前には,芸術優先傾向は棚上げにされた。ポールとアーティは,納得がいかなかったかもしれないが,自分たちのアルバムについてほとんど口を出さなかった。ポールが言うように,「あれは音楽を状況に従わせようとするビジネスの一例だった。」 後年のサイモン&ガーファンクルはこのようなことを決して我慢しなかったろう。しかしこれは1966年のことだった。初期の話だ。
 アルバムは,主として2年前のファーストアルバムの頃から2人と働いていたロイ・ハリーの働きのおかげでたった3週間でなんとか完成した。今では2人はロイをよく知るようになり,彼がどれほど貴重な人材なのかも気づいていた。アートとポールに対して,ロイは気さくで助けとなったが,当時の2人には自信が欠けていたので,自分たちの問題や疑問を直接彼にぶつけることができなかった。後にポールはこう語っている。「彼にはそれほど注意をむけていなかった。指示を求めるのはプロデューサーにだった。」
 あいにく,サイモン&ガーファンクルとボブ・ジョンストンの間には,プロとしての緊密な意思疎通がほとんど存在しなかった。2人はアルバム製作全体のプロセスから切り離されたように感じていたし,そのことはアルバムの助けにならなかった。2人の声は,歌とポールのギターとの区別をつけるためにオーバーダビングされた。当時のフォークシンガーの多くと異なり,彼らにはスタジオ技術について豊富な知識があった。1950年代のレコード製作の経験や,セッション参加のおかげだ。しかしこのアルバムでは製作者として関与することはほとんどなかった。彼らはミキシングの場にいもしなかった。
 1966年4月,サイモン&ガーファンクルのセカンドアルバムがリリースされた。『サウンド・オブ・サイレンス(Sound of Silence)』と題されたそれは,あっという間に好評を博した。カバーには田舎道を歩いている2人がカメラを振りむいて象徴的な一瞥を投げている写真が使われた。彼らが振り返っているのは自分たちのかつての生活,と言ってもいいかもしれない。


 

 アルバムに収録された曲の多くが,アメリカでは知る人のいないイギリスでのアルバム『ソングブック』にすでに入っていた。多作ではなかった(そして今もそうではない)ソングライターであるポールの手元にこのコレクションがあって,楽曲の必要をすぐに満たせたのは幸運なことであった。『ソングブック』に入っていた曲が好都合なことに再利用でき,ほとんどの聴衆が知る限りでは,まったく耳新しいものだった。
 アルバムの冒頭数曲は近作のシングルの再収録である。『サウンド・オブ・サイレンス』『木の葉は緑』『ブレスト』。次に『キャシーの歌』。『ソングブック』収録のオリジナルバージョンとさほどの違いはないが,キーは異なっている。『どこにもいないよ(Somewhere They Can't Find Me)』は実際のところ,少なくとも歌詞については『水曜の朝,午前3時』の焼き直しである。メロディの種類は全く異なっていて,逃走というテーマを強調するコーラスがつけられ,総体的な効果はより激しく,緊迫したものとなっている。歌は恋人に呼びかける形になり,性的な印象がより明白なものとなっている。
 デーヴィ・グラハムの楽曲『アンジー』,『早く家へ帰りたい』,『リチャード・コリー(Richard Cory)』が続く。『リチャード・コリー』はエドウィン・アーリントン・ロビンソン(Edwin Arlington Robinson)の同題の詩に基づいた歌である。ポールは同じ基本ストーリーを使っている。街で一番の羨望の的であり,最も裕福な男が拳銃自殺し、皆が仰天する、というものだ。ポールは筋書きを現代的にし,コリー氏の全体像を示した。彼の行う慈善事業,乱痴気騒ぎ,彼が裕福な銀行家の一人息子であり,一家の期待を一身に背負っているという細部。彼の自殺にも立ち入ってくる政治的なコネと過熱する報道は脅威的である。ポールは自らの死を願う工場労働者という語り手を設定することで,ロビンソンの詩のクライマックスを洗練されたものにした。工場主と工場労働者は同じ社会の犠牲者として結びつけられる。社会的階級は正反対に位置していても。
 『とても変わった人(A Most Peculiar Man)』も自殺についての歌なので,『リチャード・コリー』に続くのはふさわしい。『ソングブック』のオリジナルバージョンの激しさは幾分失われているが,ハーモニーが本当にすばらしく用いられているので同じくらい良い出来となっている。この曲のクライマックスにおいて,ポールとアートは,徐々に高まり,語り手の怒りの感情を強化している耳障りな効果を出すことに成功した。
 次は『四月になれば彼女は(April Come She Will)』である。ポールのソロ曲からアートのソロへと切り替えられた。アートは目を見張るほど楽々と声の調子を保って美しく歌い上げている。実際のアレンジは『ソングブック』バージョンとほとんど違わず,同じようなギター・プラッキング奏法を用いている。アルバムの終盤を飾るのは『はりきっていこう』と『アイ・アム・ア・ロック』,どちらも以前にシングルとしてリリースされた曲だ。
 批評家の中には,アルバムの総体的な作用は人を憂鬱にさせるものだという者もいた。自殺と悲嘆でいっぱいだからだと。数年後,ポールはジョン・ランドー(Jon Landau)にこう語っている。「あの時期は極々遅くやってきた青年期だったと考えがちなんだ。ああいう物事は思春期の心に大きな影響力を持つものだからね。」 注目すべきはそれらの曲のほとんどが数年前の作であり,ポールは感情の面においてその頃より進歩していたということである。
 憂鬱であるにしろないにしろ,アルバムはすばらしい大成功を収めた。125週にわたってチャートにとどまり,リリース後まもなくゴールド・ディスクとなった。
 疎外感というレッテルがポールにはつきもののようだった。たいていのレッテルと同様,かなり単純化が過ぎるものであったが。後にポールは初期の頃は無意識のうちにそれを助長していたと認めた。「ガキが大ヒット曲を引っさげてイギリスから帰国してきたら,皆がこう言った。『あなたは疎外感について多く書いてらっしゃるようですが。』『そう。その通り。』と僕は答えた。『疎外感があなたの重要なテーマのようですね。』『僕のテーマはそれなんだ。』そして疎外感についての曲を書き続けたんだ。誰にでもレッテルはあって,そのレッテルは自己達成的な予言なんだ。だから僕は疎外感についての歌を書いていた。」
 6月には『アイ・アム・ア・ロック』が『雨に負けぬ花(Flowers Never Bend with the Rainfall)』との組合せでリリースされた。イギリスでは23位だったが,アメリカではトップ5に入り,ついには3位に到達した。皮肉なことに,ポールがシーカーズ(the Seekers)のブルース・ウッドリー(Bruce Woodley)と共作した『レッド・ラバー・ボール(Red Rubber Ball)』はサークル(Cyrcle)という名のグループが歌ってヒットとなっていた。シーカーズはこの曲を断り,ポールとアートはコンサートでは歌っていたが,何らかの理由でレコーディングすることはなかったのだ。楽観的な歌詞の,楽しくキャッチーなナンバーである。赤いゴムマリ(レッド・ラバー・ボール)とは恋が終わった後,新しい幸せの兆しとなる朝日のことである。なぜシーカーズがレコーディングしなかったのかは想像しがたい。
 その夏,ポールとアートはクリスマスにリリース予定のアルバムを作るため,スタジオに大急ぎで戻ってきた。秋にはツアーが予定されていて,2人とも楽しみにしていた。
 アルバムのリリース前に,2人はシングルをレコーディングし,9月に発売された。『夢の中の世界(Dangling Conversation)』,B面は『プレジャー・マシーン(The Big Bright Green Pleasure Machine)』である。これは商業的には成功せず,トップ10にも届かなかった。アメリカでは25位に入っただけだった。ポールは後にこのことを『ものすごく失望した』と言っている。大ヒット2曲とベストセラーのアルバムを出したデュオにとって確かに意外であった。
 『夢の中の世界』はシングルがヒットしなかったということでおとしめられている。ポールは後にこう言った。「どうしてヒットしなかったかはよくわからない。見劣りがしたのかもしれない。重々しすぎたのかも。」 実際オーケストラがいささか重い感じではある。歌そのものは別れ行く関係の繊細な分析である。ポールはUSラジオのインタビュアーに,コミュニケーションの欠如を社会的な見方で表現したのが『サウンド・オブ・サイレンス』,個人的な見方で表現したのが『夢の中の世界』だったと述べた。アートによると,ポールがそれまでで一番作曲に時間をかけ,2人にとってもレコーディングに最も長時間かけた曲であるという。
 年を追うにつれ,この曲に対する反応は変化していった。直喩,隠喩,頭韻といった英文学的仕掛けが批判を受けたこともある。メッセージソングであるとひどく誤解されてきたこともある。また自分達の無関心にとらわれた2人の荒涼とした描写として賞賛を受けてきたこともある。
 この歌はT.S.エリオットの『J.アルフレッド・プルーフロック氏の恋歌(The Love Song of J.Alfred Prufrock)』という詩と比較されてきた。その詩は些細な社交的なやり取りの雑事や無為に圧倒され,愛する女性に気持ちを告げようとするが失敗する挫折した無力な主人公を軸とした詩である。ポールの歌の中で,無言でコーヒーを飲んでいることや,レースのカーテンで遮られ,部屋に差し込まなくなっていることが意味ありげに示される午後の日差しが詩への言及である。そのことを尋ねられるとポールはUSラジオにこう答えた。「エリオット風だって皆が言っているのは知っている。でもこう言っていいなら,それと比べたら見劣りがする作品だと思う。」 まあ,そうかもしれない。しかしそれでも職人の作品である。
 メロディにはトラヴィス・ピッキングが使われた。マール・トラヴィスによって生み出されたことで知られるスタイルで,親指で伴奏を,別の指1本でメロディを弾くという奏法である。これにフルオーケストラを加えたのは誤りだったかもしれない。このような歌詞の場合,『キャシーの歌』のようにシンプルなアレンジのほうが効果的であるようだ。
 B面の『プレジャー・マシーン』は馴染み深いスローガンとクリシェを利用する現代広告への風刺である。広告は,社会生活,キャリア,健康,そしてもちろんセックスについての私達の最も深刻な懸念につけこむ。この曲で歌われている商品が何かは解明されない。聞き手の想像にまかされている。
 秋にポールとアーティはツアーに出た。このストレスの多い時期の道中,2人の関係はおおむね良好であったが,決まりきったやりかたの退屈さにしばしばうんざりしていた。パリ,ロサンジェルス,ローマといった都市を見るという最初のスリルが過ぎ去った後,旅はとても疲れるものであると判明した。どんな場合でも,自分達が演奏する土地をよく見ることはなかった。ほんの少しの人としか会わなかった。空港に到着するとホテルに直行し,会場に向かう。そこでマイクと音響装置をチェックし,ポールはギターの弦を交換する。公演の後は,良いレストランを探して,リラックスしようとした。サイモン&ガーファンクル2人だけのことも多かった。ポールは当時のツアー中の自分の気持ちをこう総括した。「半催眠状態だった。 ぼーっとしていて,機械的に物事をこなしていた。」
 60年代の成功したパフォーマーとして,アーティとポールはグルーピーをひきつけた。ただ,2人ともそのことで特に得意になったり,楽しんだりはしなかった。2人にできたのはポール曰く「詩的なグルーピー」だった。自作の詩を読んでほしがったり,曲を聴いてほしがったり,英文学について議論したがったりするタイプの女の子達だ。公演後にリラックスする理想的な方法とは言えず,苛立たしいこともあった。
 一方,ポールは彼女達が求めているのが知的刺激だけであることにほっとすることも多かった。「彼女たちとそれほど関わったことはないけど,自分が失礼だって思う振る舞いはできなかった。…ツアー中に女の子を引っ掛けるとか。気恥ずかしくて。彼女達の詩にも興味はなかったし。」
 ポールは最良の対処法は,抜け出して部屋に戻り,床につく―自分ひとりで―ことだと気づいた。結果として,ツアー中にポールの孤独感は強まった。「ショーの後は,いつもどんな接触も避けていた。好きになれなくて。」
 アートは若干違っていた。ポールの「詩的なグルーピー」についての思い出について,彼はこうコメントしている。「僕が覚えていることとは違う。若い子達と家族や,夢の話を深夜までしていたことが何度もあった。」 ツアー中,彼女たちの多くがあなたに惹かれていたのでは?と尋ねたところ,アートはこう答えた。「いや,そうは思わない。女性の大部分が考えていることが,本当に全くわからなかったんだ。皆にとって謎だよね。僕はいつもこう思っていた。ポール・サイモンにはとてもとても興味をひかれるって。ましてや僕たちが歌っている言葉は全部彼の言葉なんだってことを知っている人にとってはね。」


 

 11月にサード・アルバム『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム(Parsley Sage Rosemary and Thyme)』がリリースされた。このアルバムは相対的に大きな製作コストがかかり,完成まで3〜4ヶ月を要した。ポールは後にこう述べている。「皆が『君たちは本当に時間をかけてレコードを作るんだね。』と言い出したのはこの頃からだった。」 プロデューサーのボブ・ジョンストンは気にしていないようだったが,コロンビアの経営陣はすばやい利益を欲したので,やはり多少は早くアルバムをリリースするようにというプレッシャーがアートとポールにはかかった。そうは言うものの,デュオはアルバムに関する決定のほとんどが自分たちの自由裁量に任せられていることを今回は確認していた。
 2人にとってこのアルバムは画期的な作品であった。というのは,スタジオでミキシングを自分たちで行ったのはこのアルバムが初めてだったからである。そして2人が8トラックを用いたセッションを行ったのもこれが最初であった。実際のところ,コロンビアにおいて8トラックを使ったのはサイモン&ガーファンクルが最初のアーティストであった。まもなく他の歌手も続いたが。このアルバムにおいて彼らはエンジニアのロイ・ハリーとより親密に,排他的といってもいいほど緊密に働いた。
 アーティは後にこのように語った。「このアルバムは自分たちが作りたい方法で製作した。その時以来,ロイとポールと僕という体制になったんだ。実のところ,僕たちが満足できるアルバムを製作したのは『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』が初めてだった。アルバムを聞いた人が,僕たちが積極的に取組んでいたと知ってほしいと思う。サイモン&ガーファンクルのアルバムコンセプトを決定づけたんだ。」
 アルバムジャケットは以前のものよりも飾り気がないものであった。聖歌隊の少年のような2人が薄暗がりに包まれているのが見える。A面は『スカボロー・フェア/詠唱(Scarborough Fair/Canticle)』で幕を開ける。いまやサイモン&ガーファンクルの古典となった曲である。この曲はチームの努力の成果だった。アーティは『詠唱』の部分とアレンジでポールと協力して働いたのだ。ハーモニーは緊密で,歌は対となる楽章と微妙にブレンドしている。その2つのパートは歌詞は無関係だが,音楽的には絡み合っている。この曲はとても古いイギリスのフォーク・ソングに基づいている。元々はウィッティントン(Whittington)のフェアを舞台にしていたものだ。ポールはアコースティック・ギターの気持ちをくみ取りつづけている。
 そして続くのは『パターン』のハーモニー・バージョンである。『ソングブック』のバージョン同様心をかき乱す出来だが,残念ながらドラムが歌詞を損なっている。同じことがB面の『雨に負けぬ花』にも言える。商業的には魅力的になったかもしれないが,主題が軽視された形になった。孤立についての歌は2つの声にとって望ましいものには絶対になりえない。ソロバージョンのほうが相応しいのは必定である。
 『パターン』に続くのは『プレジャー・マシーン』と『夢の中の世界』である。どちらもシングル化されたものだ。次は『地下鉄の壁の詩(A Poem on the Underground Wall)』,ポール作の中であまり知られていない曲のひとつである。自身の不満を恒久的な方法で表現する必要を感じている男性という広義のテーマは,他の歌にも流れている。タフツ大学でのコンサートにおいて,アートはこの曲を『サウンド・オブ・サイレンス』と比較している。「曲のアイディアは,そのようなことをした人々は,ある意味詩を書いているようなもの。というものだ。彼らがやっていることは,そのときに心から感じたこと―怒りにせよなんにせよ―を表現することだ。でも大切なのは,その行動には理由があるっていうことだよ。」
 この歌はポールが最終電車に乗ってデロー・ストリート(Dellow Street)に帰宅しようとしていたとき,ホワイトチャペルの地下鉄の駅で実際に目撃したことに基づいている。「その駅でいつもシャドウェル行きの細いメトロポリタン線に乗り換えなければいけなかったんだ。ああいうことをニューヨークでは見たことがなかった。僕は住んでいなかったけど。」
 ポールは素晴らしいサスペンスを作り上げた。駅の暗闇,犯罪者のように影に身を潜める男,ほとんど性的狂乱と言えるすさまじい興奮を感じながら彼が密かに犯すある行為。ポケットの中のクレヨン,トンネルを走る電車,男を誘うように開かれているが,男は尻込みするドアといった性的イメージでいっぱいのフロイト的な歌だと見ることも可能だろう。またこの曲は潜在的に暴力的な要素を持っているようにも見える。引き裂くような,叫び声のイメージ。男は自分にできるうちでは最も積極的で,公然たる方法で意見の表明を行う。そして乳を与えてくれる暗闇―代用品の性的避難所へと逃げ込んでいくのだ。
 『簡単で散漫な演説』が再び取り上げられる。オリジナルとは多少異なっている。前回と同様に物議をかもすような今回の副題は,ロバート・マクナマラへ言及している。楽曲的にも前のバージョンとは異なっているが,同じような耳障りな効果を今回も保っている。人物への言及は多少変化している。アートは今回も触れられているが,トム・ウィルソンはロイ・ハリーにとって代わられた。筋が通っている。ボブ・ディラン風の雰囲気はそのまま残っていて,歌の最後にポールが「ハーモニカを落としちゃったよ,アルバート」と嘆くのが聞こえる。ディランのマネージャー,アルバート・グロスマンへの言及だ。ハーモニカがせわしなく吹き鳴らされる。ディランはまだそこにいるのだ。キャシーへの言及が消えている。これは興味深いことだ。キャシーはいまだポールの心の中にいて,大西洋に隔てられることが多かったとはいえ今でも彼のガールフレンドだったのだから。
 『エミリー・エミリー(For Emily, Whenever I May Find Her)』は部分的に19世紀アメリカの詩人エミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)に捧げられている。彼女は『夢の中の世界』でも名前が挙がっている。彼女はニューイングランド地方で,孤立した,ひとりぼっちの生活を送り,素晴らしい寂しさと美しさに満ちた詩を書いた。堅苦しいヴィクトリア朝風の副題がついた曲のタイトルは,時代色を帯びている。また同時に彼の隣に横たわる現実の女性に捧げられた曲でもある。夢に出てくる女性は理想化され,謎めいているが,隣にいる恋人は実在し,慰めとなる存在である。夢と現実は溶け合い,女性に対する精神的,性的な視点も融合する。この歌はポールがキャシーを恋しがっていることを示しているのかもしれない。
 後になって,ポールは『エミリー・エミリー』を書いた手法をこう語った。「奇妙な曲だ。一晩で全部書いたんだ。最も早く書けた曲のひとつだ。ギターでメロディを試しに弾いていたら,最初の1行を口ずさんでいた。本当にするっと出てきたんだ。」ポールはこの曲をシングルA面にしなかったのを悔やむようになった。「あの曲に少しストリングスを加えればよかった。そしたら『サウンド・オブ・サイレンス』級になったかもしれない。あの曲を歌いつづけるのはアートだ。彼の声は本当に素晴らしい。」
 次は『クラウディ(Cloudy)』である。雲の漠然とした特質が,当てのない放浪になぞらえられ,イメージを呼び起こす美しい旋律の曲だ。ポールはこの曲のデモバージョンを早くも1965年には録音していた。ソロのものと,シーカーズのメンバー,ブルース・ウッドリーとのものである。この曲を自身とアーティとで使うつもりはなかった。1966年4月,ポールはプレスにこう語っている。「いや,これはサイモン&ガーファンクルのものではない。録音することは絶対ないだろう。」 しかし2人はそうした。
 アルバム最後の曲は『7時のニュース/きよしこの夜』である。曲中,クリスマス・キャロルの美しいハーモニーは次第にニュースの声にかき消されていく。ニュースは典型的な恐怖の一覧である。殺人,デモ行進,薬物の過剰摂取によるレニー・ブルースの死。
 アルバムは好評を博し,100万枚以上売上げ,発売後間もなくゴールド・ディスクに認定された。アルバムリリースと同じ月に,コロンビアは新曲『冬の散歩道(A Hazy Shade of Winter)』を『エミリー・エミリー』をB面としてリリースした。その曲はヒットせず,彼らはがっかりしたが,アルバムが大成功していたので,平静に受けとめることができた。
 どのみちポールはその曲にはあまり満足していなかった。ポールはその曲を1965年の北部イギリスツアー中にマンチェスターで作った。「全くピンとこない曲だった。自分が言いたいことを正確に言い表していないんだ。完成させて,ベストは尽くしたと思っている。もし書き直そうと思ったら,永遠にやり直すことになる。ある地点まで達したら,発表しなきゃいけない。そして他のことに取り掛かるんだ。そうしないと,1曲に1年かけることになってしまう。発表して,それを受け入れなきゃ。」
 『冬の散歩道』には良い点も色々ある。ただ,年齢を季節で象徴づける比喩は『木の葉は緑』程はうまくいっていない。そしてこのような荒涼とした内容の歌には,パンチの効いたオーケストレーションはやや不適切である。ポールは後年の作品でも同様の手法を使い,皮肉な対照性を曲に持たせることに成功しているが。しかしこの曲はテンポが速すぎ,曲についていこうとボーカルが苦労しているのが見て取れる。きわめて簡潔な詩句もいくつか含まれているのだが,ほとんどが聞き取れない。
 1966年,ピックウィックレコードがトム&ジェリーの古いシングルとインストゥルメンタル2曲をまとめてアルバムとして売り出した。発売とほぼ同時の1967年1月,法廷闘争が始まった。アートとポールはピックウィック社がカバー写真に2人の近影を使用し,サイモン&ガーファンクルの名を使って宣伝を行い,作品が最近のものであるかのようにほのめかしたという理由で不当表示を訴えた。ポールは怒りを感じているとプレスに話した。「『これが15歳のサイモン&ガーファンクル』といってリリースしたのなら,面白かったと思う。そうしたら自分はこう言っただろう。『そうだよ,15歳の頃の僕はそうだった。そのことを恥じてはいないよ。』」ポールとアーティは勝訴し,アルバムは店頭から回収された。よくあることだが,今日ではコレクターズ・アイテムとなっている。
 アルバムそのものは,サイモン&ガーファンクルの起源を見せてくれて興味深いものとなっている。2人は人気歌手のスタイルに通じている。『Teenage Fool』ではジョニー・レイ(Jonny Ray)のむせび泣く調子,『Dancin' Wild』ではエヴァリー・ブラザーズのハーモニー,『Don't Say Goodbye』ではバディ・ホリー(Buddy Holly)の声の変化,『True or False』はホリーとジーン・ビンセント(Gene Vincent)の混合物だ。既に才能が見られ,極めて興味をそそるアルバムとなっている。サイモン家の地下室でポールとアーティが2人の声をオーバーダビングし,情熱で破裂せんばかりとなって,どんな風に音を作っていたのを聴く者に垣間見せてくれる。後に傑作となるべきラフ・スケッチだ。このアルバムのリリースが法廷闘争の原因となったのは悲しいことだ。このアルバムはふたりが大成功を収めるサイモン&ガーファンクルとなる前のデュオの希少な証拠となってくれたものだから。



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