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2011年4月13日 成城ホール「立川談春独演会 アナザーワールド」
立川春太「初天神」
立川談春「猫久」
立川談春「紺屋高尾」
談春の成城の会は何度か来ているはずだけど、この雑録には書いたことがなかった。去年の書き付けを見てみたら、5月12日に「五貫裁き」と「宿屋の富」を聴いている。
〈枕は前半が選挙ネタ、後半は博打ネタ。枕が客席にきちんと向かって語られているように感じられた〉と書いてあるけど、これは何が言いたかったのだろう。よくは覚えていないが、たしかに談春師の枕は、おお、何か凄いこと言い出したぞ、と身を乗り出していると、ふと話が逸れたり、何だか分からなくなることが時々あって、そのライブ感はちょっと他の落語家にないものだと思う。たぶん談志師匠とも相当に異なる世界で、大げさな言い方になるかもしれないが、答えの出ていない難問を「今ここ」で解いていくのを、分からぬながらも見守っている、というのが近いかもしれん。
さらにメモには、〈「宿屋の富」は、田舎の大尽を名乗り田舎言葉でしゃべっていた客が、宿の主人がいなくなると、がらっと江戸言葉に変わるのが印象的。この演出、私は談春以外では聴いた記憶がない(というと、家人は首をひねっていた。このパターン多し)〉と記してある。上方から移植された噺だけあって、いろいろな演りようがあるけれど、私はこの客が、田舎言葉、江戸言葉、どっちで話すかで、噺の空気が変わってくるところが結構好きなんです。そもそも、この客が、何のために大金持ちだと嘘をついたのか、という筋の核心部分とも深く関わっているし(ちなみに、幾つかのパターンを聴きましたが、私の中では結論が出ず。宿賃を誤魔化そうとした、というなら、富くじで一分も取られている場合じゃないでしょ。何故、その後、逃げ出さないかも説明できない)。この日の談春バージョンのように、主人の前だけ田舎言葉、っていうのは、主人を騙してしまおうという確信犯的なものが強調されていて、興味深い。
さて、私の記憶では、成城の談春の会、始まったときには三夜連続だったように思う。それが今では、ネタ出し含む二席を五日連続という大型番組になっていて、これはなかなか凄いことだと思う。本日の談春は、そのことにちょっと触れて、「初日に来る人は、『この噺に初めて挑む、その気合の入ったところを観よう』なんていらっしゃる。これは、わかりますわね。また楽日に来るのも、『一番練りあがった、完成したものを』というのでわかる。今日は三日目なんですが、三日目を見ようというお客さんは、何を求めているのかが分からない」。この問い自体が談春師らしい、と私は思いました。
「猫久」は、微妙なズレがズレを連れて来る、実に難しい噺だと思う。と思うと、何気なく演じて結構、という高座に出会ったりして、そこのところも不思議な噺なのだけど、本日の談春版は、後半、熊さんのテンションをグッと高め、一方、おかみさんのふてくされた、というか、やさぐれたキャラクターで噺を引っ張っていく。笑いだくさんの楽しい「猫久」でした。
休憩後は、「紺屋高尾」。談春で幾度も聴いた噺なんだけど、前に聴いたときに、主人公の久さんに親方が、「俺はお前が好きなんだよ。腕だっていいし、仕事も手を抜かねえ。みんなにだって親切だ」というようなくだりがあって、そうか、久蔵さんは親切な人なんだ、とふと印象に残ったことがあった。そんなところが何故、と自問してみるならば、「紺屋高尾」の久さんは、基本的に、自分の想いに真っ直ぐの人であり、強過ぎる想いに自ら振り回されている人でもある。その久さんは、噺では語られないところで、周りの人の喜怒哀楽を感じ取り、彼らのためにちょっとした労苦を厭わない人である、というのが、ちょっと意外でもあり、救われるようにも思えたからだ。
今日の談春師は、そこを踏み込んで、久さんは親切な人だから、いざ吉原のそのときに、職人仲間や町内の人たちがそれぞれ力を貸してくる、とした。それは、久さんの個人的な想いが、町内みんなの夢、想いを背負ったものでもある、ということをも(さらっと)示唆していたように、私には感じられた。私にとって、こーゆーところが、談春落語に惹きつけられる大きな要因である。わずかな言葉、口調、表情などの違いが、新しい物語や感情を生んでいく。それは、落語というものの、本質的な魅力の一つなのでは、と思いつつ、成城駅に向かった。
20110609
2011年4月6日 国立演芸場「月例 三三独演」
春風亭一左「粗忽の釘」
柳家三三「強情灸」
柳家三三「お茶汲み」
柳家三三「今戸の狐」
三三も久しぶりだ。というか、何もかもが久しぶりである。去年、今年とほとんど落語を見られておらず、ちょっとずつ、かつての“馴染み”を覗いている昨今だ。落語会の常連陣は少し入れ替わったようだが、取り巻く空気はそれほど変わっていない様に思える。それは落ち着きなのか、停滞なのか。演者たちは安堵しているのか、焦っているのか。そのあたりは、まだ、見えない。
三三は相変わらず一人で三席を演じる独演会を毎月続けていた。この高座数は、とりあえず凄い。三三は上手いと人は言い、私もそう思うけれど、本人は、そして三三に期待する人たちはまだまだだと心中呟いているに違いなく、私もまたそれに同意する。何が言いたいかというと、三三、上手いよ、と嘆息すると同時に、私たちは「その先の三三」を幻視しているのであり、その未だ幻でしかない「その先の三三」の可能性も含めて、三三は上手い、と口にしているのだ。そのはるかな幅を歩いていくために、三三はたいへんな数の高座に向かう。高座をこなせば噺が良くなる、なんて単純なものではないけれど、私の中では、一番優秀な外科医が一番多くの手術をこなしている、といったイメージが、いまの三三に重なっている。
などと言いつつ、残念ながら、一左の「粗忽の釘」も、三三「強情灸」もほとんど記憶に残っていない。すまぬ。
「お茶汲み」は、三太楼時代の遊雀で聴いた。ホステスの身の上話みんな嘘、とはよく言われることだが、安女郎のうその涙を、半ば呆れつつも、結構なもてなしとともに愉しんで、仲間への土産話として、一服のお茶にする。かといって、二度面白がるような“芸”でもない、虚実の薄い被膜がわれ知らず破れてしまうなんてのは、しょせん一夜の座興以上のものではない。さらに、聞いていた男がその嘘をわざわざ見に行くのに至っては、かなり残酷さをはらんだ酔狂ともいえる。
だけど、私は、この軽さと酷薄さがないまぜになった噺が嫌いではない。フツーの人が知恵を絞ってこさえた身過ぎの手管に、騙されかかったり、いたずらを仕掛けたりする方も結局はフツーの人で、嘘をつく方つかれる方が、ともにまなじり決していない感じが好きなのだ。目線の低い噺、と言ってもいいし、誰も損しない話の作りが程がいい、ともいえる。これぞ廓の粋だ、などという大層なものではなさそうなところもいい。三三の持つ酷薄さも、この噺によく合っている。
「今戸の狐」って三三以外では聴いたことがあまりないけれど、三三で聴くと堂々たるスタンダード・ナンバーに響く、とは、これまでも繰り返し書いた。その感想は、今日も変わらない。ただ前回よりは、ちょっと駆け足のようにも感じた。この噺に出てくる師匠は、江戸の名人、初代三笑亭可楽だそうですが、三三の「今戸」を聴くたびに、なんとなく私はトンガリこと先代林家正蔵(それも晩年よりもちょい若い頃)が思い浮かぶのでした。
20110603
2011年3月25日 上野鈴本演芸場「三月下席 夜の部」
古今亭志ん輔「元犬」
柳貴家小雪 音曲
入船亭扇辰「三方一両損」
五明樓玉の輔「マキシム・ド・呑ん兵衛」
にゃん子・金魚 漫才
三増紋之助 曲独楽
橘家文左衛門「寝床」
不意に時間が開いて、もしかするとこれは寄席に行けるんじゃないかと思い付き、このエアポケットが急に閉じたりはしないだろうかと不安に思いつつ、地下鉄に乗って上野に移動する。
そういえば震災当日、会社に戻る途中に池袋に出ざるを得なくなり、駅の周りに行き場を失った人々が果てのない列を作ってバスを待ったり、意を決して各々の目指す方に連なって歩き出したりしていたのだが、飲食店やその他の店は結構開いていた。私も腹ごしらえをしようと駅前をうろうろするなかで、ふと演芸場はどうなっているのだろうと足を向けると、やはり休業の貼り紙がしてあった。
それから二週間経って、大げさに言うと震災後初めての落語である。後ろの扉を開けると、めくりには古今亭志ん輔と出ていて、しばらく噺を追うと、「元犬」だった。すでに後半、サゲまでただ運んでいくあたりを聞いて、前の席に移る。
続いて、小雪さんの音曲。正直、私はまだ音曲の魅力を解しているとは到底言えず、贅沢な休憩時間として過ごすことが多いのだけれど、こうして三味線の音色を聴き、薄明るい座席に身を置いていると、相当な混乱の最中にも、普段の暮らしを、続けていける範囲で続けていった先人たち(たとえば「戦争を生き抜いた」祖母とか)に自分も加わるような思いがする。
さて、扇辰。「三方一両損」をにぎやかに。
玉の輔が三遊亭白鳥作「マキシム・ド・呑ん兵衛」を演るのは知っていたが、実際に耳にするのは初めて。寄席に向いた演りやすい噺なのかな、とも思うが、なんか新作落語はどっか狂気がないと実は成り立たないのだった。楽器が上手くてもパンク・ロックにはならないよーなもんだろうか?
つづくにゃん子・金魚は、相変わらずパワフルな舞台。金魚ってFUJIWARAの原西みたいだなあ、と思った。
いつも楽しい紋之助の曲独楽だが、全然集中できず。途中で諦めて、ボーっとしていた。トトロが回っていたかどうかも定かでない。
トリはお目当て、文左衛門。文ちゃんの「寝床」、前にも聴いたことがあって、旦那の義太夫が始まってからのアクション・シーン(「寝床」にそんな場面あったっけ、という方、文ちゃん版にはあります)が強烈だった。本日は、「それで結局、どうなんだ! 皆さんは来るのか来ないのか!」と旦那に迫られた後の受けがサイコーでした。 20110601
2011年1月18日 中野・なかのZERO小ホール「落語教育委員会」
三遊亭歌武蔵「はてなの茶碗」
柳家喜多八「二番煎じ」
人生というのも面白いもので、部署が変わったら本当に落語に行けなくなった。前に落語を観たのは昨年の十月で、今年はこれが落語始めになる。ZEROでの教育委員会は夜七時半はじまりだから何とかなるかと思ったが、見通しが甘く、会場に着いたときにはすでにお仲入り。中トリで出た喬太郎はバレ噺のあと「紙入れ」を演じたという。後半間に合っただけでも良しとするか。
歌武蔵、出てすぐに噺に入る。舞台は京都。お茶屋で人品いやしからぬ男が手にした湯呑みをためつすがめつ見ては、首を捻る。おお、「はてなの茶碗」だ。
しばしば書いてきたことだが、歌武蔵は上方ダネを手掛けることに意欲的だ。それも上方のネタを東京落語に翻訳する(もしくは翻訳された噺を演じる)というわけではなく、江戸落語も上方落語も同じように美味しくいただき、それがよく噛み砕かれ消化されて、歌武蔵の身になる、という感じがするのだ。となると、それは歌武蔵が上方からも江戸からもほど良く遠い岐阜に生まれ育ったことと無関係ではないのかもしれない。私は歌武蔵版「はてなの茶碗」ははじめて。期待が高まる。
歌武蔵は、なけなしの金で強引にその湯呑みを買い取る油売りを江戸者にした。これは東京の噺家がこの噺を演る場合、よくある変更。でも、もともと「はてなの茶碗」は、大坂者ならではの、崩れているようでいて商売っ気をなくさず、体裁を気にしない陽性の図々しさが根底にある噺だと思うのだけれど、そこらへんをどうするのか。
一番興味深かったのは、油売りの八っつぁんがなけなしの三両に加え、仕入れたばかりの油を桶ごと五両で売ってしまうところ。この勝負、単に有り金はたくのとは違う。明日からの仕事、異邦の地で(大げさか?)積み上げてきた信頼のようなものも賭けたのである。もちろん、そんな悲壮感を表に出すようなことは歌武蔵はしなかったが(そうしたら、きっと噺のトーンから浮き上がってしまうだろう)、その身の投げ出し方に、やはり異邦人としての、ここでの生活は仮のものだ、という性根が強く感じられた。京でも一、二という骨董商茶金は、商人として、八五郎の行為に怒るが、ハっつぁんは多分、油売りでいることもずっと不本意だったのだと思う。
それにしても、一日売って歩く油が、バッタで売っても五両、って相当に高額じゃないのだろうか。そうでもないのか。
トリは喜多八「二番煎じ」。これがまた、たーっぷりで正直くたびれた。これまで観た「二番煎じ」のなかでも、一番、月番の性格がきつい。特にふくべに酒を入れて持参した年長のセンセイに対して、結局は飲むくせに、ほとんどいびりにも近い追い込み方をするのが印象的。その月番が猪鍋の始末に窮して、自らその上に腰かけるのが、いかにも熱そうだった。というか、熱そうで済む話なのか。鍋を火から下ろした描写も特になかったし。喜多八のくどさを堪能する一席でした。 20110205
2010年10月20日 中野・なかのZERO小ホール「我らの時代 落語アルデンテU」
春風亭ぽっぽ「金明竹」
春風亭一之輔「粗忽の釘」
春風亭百栄「後日の譚」
桃月庵白酒「蔵丁稚」
三遊亭兼好「猫の災難」○
開演前の場内アナウンス、女性の声で「公演中、コンビニのレジ袋などの手荷物がガサガサッと意外に大きな音を出すことがあります」と流れてきて、思わず笑ってしまった。これ、「お手元亭すっきり」こと三鷹井心亭の主催者のキラー・フレーズなのである。アナウンスの様子からして、どうやら原稿を読まされているようだが、思いがけない“文化の伝播”に立ち会った感じがした。
前座は、ぽっぽ。袖から顔を出したところで、ペコっと笑顔でお辞儀をして高座へ。「小朝の三番弟子、春風亭ぽっぽです」と挨拶して、「金明竹」へ。
落語界初のアイドル系前座として知られたぽっぽだが、入門以来、三年ほどが経っただろうか。師匠の小朝が秋元康よろしくモンキー・ビジネスをたくらんでいるのだろうと思っていたが(今も思っているが)、現在のところ、あざとい売り出しはかけず、あまりうまくはない前座として実直な活動に徹しているように思われる。口跡は聴き取りやすいが、全体にアニメ声で、いっこうに落語家らしくはなっていない。
しかし、「落語家らしくなる」のは、ぽっぽにとって得になるのだろうか、という疑問がどうしても湧いてくる。「落語家としては女性で若くてかわいい」という現在のポジション(その意味では充足度は高いが)って、芸人として勝負をかけるには正直、大いにイマイチである。とはいえ、落語の技量、内容で勝負するのはどうも苦しいだろう。そうこうしているうちに年は取る。むしろ「落語家アイドル」としてのアンチエイジング(および何かのかたちでのヴァージョンアップ)を考えた方が良いのでは、と思うのだが、それもこれも余計な話。本日の「金明竹」では、与太郎が鼻に二本火箸を突っ込んで、首を振るたびにチリンチリン鳴らす、というすごいボケがあったのだが、客席のおおかたは無反応だった。むろん、ぽっぽの演り様の問題なのですが。
NHK新人演芸大賞落語部門受賞という、ま、当然といえば当然の結果を引っ提げて登場した一之輔。「粗忽の釘」を、粗忽な男が引越し先にようよう行き着いたところから始めたが、一之輔らしいギャグが織り込まれもするものの、まだまだ先のある噺だと思った。一之輔は一見、SとMでいうところのSが勝っているようにもみえるが、実はギチギチと理で追い込んでいくのは苦手で、むしろ攻めている方が手を焼いて泣きたくなるような、底抜け系の受けを得意とする演者である。「粗忽の釘」は合う噺だと思うので、次回以降、楽しみにしたい。
百栄はご存じ「桃太郎」の後日譚という趣向でご機嫌をうかがう。おとぎ話のキャラクターを百栄的に俗人化していくのは面白いが、散発的なギャグが繰り出されるだけで話が収斂していかない。これも次回に期待。
中入り後、一之輔へのイビリを枕に、白酒は「蔵丁稚」。白酒といえば「怯える男」を演じて出色の噺家だが、本人はシャープないじめっ子的感性が光るものがあり、今日のイビリもよく受けていた。「蔵丁稚」ってどうなんだろう、思い返すと個人的にはそれほど面白いと思ったことがないように思う。丁稚の生意気さが鼻につくからか、最後、主人が突然芝居がかりになるところがアホらしいからか。でも、たい平が演ったら多分面白いはずなので、芝居にのめりこんでいる人のアホで一途な感じが出るかどうか、ということなのかもしれん。
「袖で聞いておりましたら何ですね、白酒さんは本当に一之輔さんが嫌いなんですね」と笑いを取る兼好。今日もさすがの高座だった。「猫の災難」、ストーリーだけ聞くと兄貴分を騙して酒を飲み、あとは全部猫のせいにして最後は失敗する、という小悪の噺のように思えるが、どうもそうではないらしい。以前、土橋亭里う馬の「猫の災難」を聴いたときにも感じたが、酒飲みの男がいたってのん気というか、成り行き任せだが悪意のない人物で、春風が漂うような気持ちの良さがあるのだ。本日の兼好も駘蕩としてまことに結構。落語の楽しさを満喫させられた。
落語ブームの主役を担った世代(たとえばSWAの面々や談春、志らく)よりひと世代後の中軸が顔を揃えた感のある会だったが、奇しくも落語協会の三人がちょっと睨み合い的な高座になり、“外様”の兼好が伸び伸びした高座を見せた格好になる。ちょいプロレス的な見方かもしれんが、この世代の面々(三三とか菊之丞とか歌奴とか天どんとか)には、こういう会でどんどん対抗意識を強め、仕掛け合っていってほしいと切望する次第であります。 20110128
2010年10月15日 練馬文化センター「落語教育委員会」
柳家小んぶ「家見舞」
三遊亭歌武蔵「鹿政談」枕が○
柳家喜多八「片棒」
柳家喬太郎「笑い屋キャリー」
久しぶりの落語教育委員会だが、仕事が少しだけ長引き、会場のゲートをくぐったときには、モニターに二つ目の姿が映っていた。「まだ開口一番です」と声をかけてくれた会場係に、「あの、アレは……」と聞くと、「コントは、もう終わりました」と笑顔で答えてくれた。
小んぶも久しぶりに観る。とにかくガタイのいい、武骨一点張りの前座だったが、ちゃんと落語になってるじゃないの。兄貴分の新築祝いに水がめを持っていきたいが、懐には二人合わせても十銭しかない、というので、とんでもないものを持って行ってしまう二人組の噺だが、このアンちゃん二人が調子のいい大馬鹿野郎たちで、なかなかすがすがしいものがある。マンガでいうなら、『ろくでなしBLUES』とか少年マガジン的な世界だ。十銭しかないのに、タダで持っていってもいい、といわれても、十銭出して、「その代わりと言っちゃあなんだが、運ぶもんを貸してくれ。あとでちゃんと返しに来るからよ」と運ぶ呼吸や、「後で金が出来たら取り替えにくりゃあいい」と妙に律義なところに、おかしみがにじむ。きちんと鮒と鯉のサゲまで演じて、「魔物が棲む」とも呼ばれている(私たちが勝手に言っているだけだが)教育委員会の開口一番を堂々とつとめた。
続いては歌武蔵。慰問に関する枕をたーっぷり。ざっくばらんに進むようでいてバランスも良く、なるほど感、爆笑満点の仕上がりで、お見事でした。さらに「鹿政談」まで演るとは。
中入り後、喜多八。六十二歳の誕生日を迎えたという殿下、「同年輩が櫛の歯を削るようにいなくなってね、うまくなりたいとか、こうなりたいとか、ありましたがね、上の方には『俺は上手いんだ!』(と談志の真似を)なんて人もいましたが、そういうのもね」と言い、「今となっては全部どうでもいいや」と、おそらくは志ん五師を送る思いでもあろう言葉から、強い喪失感が垣間見える。
噺は「片棒」。誰に後を継がせるかで頭を悩ませる、なうてのケチの主人に、意見を求められた番頭の行き届いた、ぬかりのない、そして主人の猜疑心を起こさせないものの運び方が印象的。主人は主人で、そうした番頭の気遣いを充分に酌める人物として演じられている。
そこで三人の息子が呼ばれ、「親父をどう弔うか」という相談(というか試験)を受けるのだが、このときのそれぞれの心理を考えると興味深い。
まず長男は、父の最後を盛大に送りたい、店の体面にかかわる、と言いながら、何万という人を招き、増上寺を借り切って本漆の重箱に過分なる香典返しをつけた葬式を構想する。並はずれた吝嗇家(おそらくは創業者)の父親からすれば、三人とも浪費家で怠け者のボンクラ息子、ということになろうが、長男の言い出すこの葬式は、単なる浪費家の妄想というには複雑なものを秘めているようにも思える。この葬儀で、長男は何を求めているのか。富裕さの誇示か、自分の気前の良さを見せつけ、お大尽という評判がほしいのか。単なる浪費家、派手好き、遊び好きであれば、もっと自分の悦楽や仲間内での顔に集中して投資した方がいい。この、あまりにも広範囲なバラマキは、何を渇望してのものなのだろうか。
おそらく父が後継ぎを決めかねていることは、三人とも察知しているのだろう。そのことが一番気にかかるのは、当然、長男のはずだ。本来ならば、自分が総領で親の資産は総取りでも文句ないところ。三人を天秤にかける、ということは、それだけでも一種の敗北を意味する。だから、長男は「父の威信」「店の体面」を強調する。自分が正当なる跡取りだ、ということを主張しているのだ。そして、おそらくは父の並はずれた吝嗇は、店の外の社会、同業者や地域などでは嘲りや恨みなどの対象でもあっただろう。息子たちの「浪費」は、それに対する防御的な心性でもあった可能性がある。長男のポトラッチ的散財は、その負の評判を埋め合わせる、という傾きを(たぶん無意識のうちに)有している。
さらに言えば、この長男の散財発言は、明確に父への嫌がらせ、すなわち復讐なのだ。浪費の物語は、それ自体が吝嗇な父への攻撃となる。父が「命より大事」と口にする身代をあっさりと蕩尽してみせることで、父が「身代よりもはるかに軽んじてきた自分(長男)」の受けてきた苦痛への意趣返しをもくろんでいる。私にはそう感じられた。
それに対して、「祭りバカ」次男のド派手な葬式は、もっと肉体的、感覚的な愉悦と直結していて、長男ほどの屈曲は感じさせない。次男の即物的、その場かぎりの金の使い方には、どうせ次男だからもともと自分のものではない、という刹那的な諦念(というほどのものではないか)が底に流れているのだろう。
落語的には、このパートは「音と視覚のエクスタシー」とでもいうべき部分で、演じ手のお祭り感覚の有無にかかっている。私は、現歌奴のが好きだが、たい平が演ったら映えるだろうな。たい平は音感に優れ、お祭り感覚豊かな演者だと思う。「たがや」なんかも一大スペクタクルと割り切って演れば絶対、他の追随を許さないだろうに、もったいない。
最後、父に負けない吝嗇ぶりを示す三男。父をも上回る質素、というか積極的にみすぼらしく手抜きの葬式を提案して、最後には父の共感を引き出す、というサゲが見事なので、噺の運びという点からすれば、余計な解釈は必要なかろう。だが、父の語る「息子は三人とも浪費家」にこだわるならば、三男が葬儀に金をかけない理由は、ずばり「父のためには金を使いたくない。一銭でも多く残して、自分が使いたい」という点に集約されるのではないだろうか。そう考えると、三男は最もエゴイスティックかつ徹底的な父の財産の収奪者だといえる。
といったことを考えてみたが、喜多八の「片棒」はそんなに堅苦しいものでは、当然ながら、ない。ただ、息子たちが「能天気な馬鹿息子」というには、若干の陰りを感じさせる。そこに便乗して、理屈っぽい妄念を広げてみた。
さて、トリは喬太郎。ラジオ、テレビへの出演話から、番組のトーク・ゲストに呼んでいる渋い脇役俳優の話を経て、「今日はマニアックな一席を」と噺に入る。
冒頭、噺をトチる二つ目。その飲み会での愚痴に喬太郎本人が登場したかと思うと、舞台は浅草演芸ホールに。爆笑の渦に包まれる満員の会場の中央には一人の金髪の美女の姿が……。という出だしのちょっとホラー仕立ての落語活劇(なんだそりゃ)。観物はなんといっても高座に上がるところから披露する雲助、円丈、さん喬の物真似でしょう。
ただ私は、喬太郎師は落語界内輪ものは、実はそれほど得意なジャンルではないと思う。これはCDにもなった「落語の大学」でも感じたことだが、「落語」をネタにしたときの喬太郎は実に生き生きしてギャグも冴えているのに対し、「落語界」を対象にすると、ぐっと丸くなってしまうのだ。踏み込んだギャグもあるのだが、全般的に万遍のなさ、もっと言うと当たり障りのなさが強く印象に残る。やっぱり、この分野では、単に笑いの強度が強い、ということしか考えていない白鳥や、たい平(あるいは昇太、談春ら)のゴシップ・センスには一歩譲る、というのが私の率直な感想だ。
この噺、やはりキャリーのわけのわからん存在感が凄くて、そこを伸ばしていくべきだと思う。あと、個人的に心に残ったのは、喬太郎が描写する“落語ファン”が、そろいもそろって、リストラされてたり、再就職がうまくいかなかったり、甘納豆を食べていたり(拍手すれば良かった)……と、なんともしょぼくれぞろいなこと。とはいえ、それは決して嫌な心持ちではないのだ。落語とはそういう人たちの身の置き所なのだ、という喬太郎の原風景、落語の原イメージを見たように思えて、ほほうと感じた次第である。 20101117
2010年8月25日 三鷹・みたか井心亭「寄席井心亭 百八十三夜」
柳家喬太郎「欣弥め」
瀧川鯉朝「置き泥」
柳家喬之助「二人のウルトラ」
柳家喬太郎「ラジオの向こう」
三鷹の井心亭といえば、かつてはホームグラウンドのように思っていた落語会である。七時開演だが、五時過ぎに行くともう十人ほど並んでいた。
それでも並ぶだけの価値はある。立ち見も含め、まさに超満員。クーラーの能力はとうに限界を超え、両脇の扇風機の前には氷柱がたらいの中でどんどん溶けている。そういえば、コンビニにお茶を買いに行った際、自転車の両ハンドルに重そうなコンビニ袋を提げた世話人さんをお見かけしたが、あの袋の中身が氷柱だったとは。
冒頭、あらわれた喬太郎師匠、相当にお疲れの様子。「十八歳以下いますか?」と声をかけて、先日、長崎でお座敷に呼ばれてバレ噺をした、と前置きしつつ、バレ小噺をいくつか。もともとバレなんてそんなに笑いを産むはずもなく、そこを客いじりしながら温めていくあたりが、この手の噺の味なんだろう。まあ、最初からガッハッハのヒイヒイでもいいんですが。で、最後は仕方も交え、「欣弥め」。つまりは、これを演者も客も照れずに演るための前ふりが小噺なんだな、と得心した。一心不乱に語り終えていました。次がやりにくい、としか言いようがない。
「最初、怪獣にちなんだ落語ばかりする、怪獣落語の会ということで、お声がかかったんですが」と語り出す鯉朝。直前に、喬太郎から電話がかかってきて、最後に日和ったという。鯉朝はあいかわらず、いじめっ子グループの下っ端然としたヤッコ。「うちは師匠をはじめ貧乏人ぞろいの一門で」と、駐車場飲みなどのエピソードを披露。「本当は瀧川と名乗るのも、好きじゃなかったんですよ。春風亭のほうが、すぐ落語家だとわかるでしょ」と、ネタっぽいホンネも。
で、「置き泥」。泥棒が初心者、というより、騙されてこの稼業に足を突っ込まされた、としか思えない情けない男で、裸の男の方も、駆け引きも何もない、どうしようもないドジをいじって暇つぶし、思わぬ金まで転がり込んできたという、まあ、いきあたりばったりの噺になっている。芸協らしい、というか、鯉朝だからこんなもんなんだろう。途中、落語界ネタの入れ事が入るが、これもシュートしそうでしていない半端な内輪ネタなので、単に噺が分断されただけにとどまっている。このへん、白鳥はちゃんとシュート打ってんだよ。でもって、時にはオウン・ゴールになっている。その違いは、ものすごく大きい。
「私は空気を読みません」といって、委細構わず、作ってきたウルトラ落語を演じる喬之助。声も大きいし、どこに連れて歩いても何とかしてくれそうな若い衆に育っている。ウルトラマンのイベントに、鯉朝たちと三人で出かけ大騒ぎする話も結構面白い(喬太郎は高校生の息子と出かけたそうだ)。
さて噺のほうは、円谷プロに、南の島の日系人独立国ピグモニアから、江戸っ子国王が参上、ウルトラマンのテーマパーク(そうだっけ? 記憶が不確かになっている)をつくってほしいともちかける。そこに、思いつめた女が飛び込んできて、ウルトラマンに彼の家に来てほしい、と言い出す。仕事も辞めさせられ、職探しもうまくいっていない恋人(年齢は四十歳前後)が、ウルトラマンが来ないと働かない、とダダをこねている、というのだ。
この無職男が壮絶な、というか、人格破綻的なダメ男で、まあ、この辺から(もっと前からかな?)ストーリーも何もなくなってしまっている。でも、(*以下、ややネタ割れ。でも、よそで演るような噺でもなさそうだからいいか)ウルトラマンのお面を用意するなどの、実直な努力で、なんとか客をそらさず、最後まで進めた。
もう一息、「人間ってそんなこともやりそうだ」という、かすかにでも、実感につながる部分がほしい。それは、次の喬太郎を観終わって、一層強く感じられた。
自らもラジオのパーソナリティをつとめる喬太郎。枕で、そのあたりのことを少し話して、ラジオのパーソナリティがいかにもAM、それもそれほど夜遅い時間帯ではないノリで語り出す。気がつくと、高座の喬太郎は少し前後に揺れているのだった。ときおり、がくっと小さく直線的に体が倒れ、ああ、電車に乗っているんだ、と気がつく。そこで冴えないハガキ職人の主人公と、就職が決まり、編集者になるべく上京するヒロインが出会う。
プライドばかり高いが現実がそれに追いつかず(ラジオでの投稿で、ネタと言いつつ、経歴を詐称するあたりにも、それがうかがえる)、職にも就けないでいる主人公と、出版社勤務の新人編集者という、それなりに華のありそうなヒロインが同棲を続ける、という設定は、この噺の根幹であると同時に、だからこその無理を初めから含んでいる。その無理と、微妙な「そんなこともありそうだ」というスレスレを、今回の喬太郎落語もわたっていく。この、それほど笑いどころの多いわけではない、そして登場人物のほとんどが思うにまかせない人生に呑み込まれていくような噺を引っ張るのは、実は、その一筋の「そんなこともありそうだ」という危うい実感である。そして、その実感を支えるのが、ほとんどの登場人物が直面する、ささやかな不運、避けがたい衰えの、たしかな手ごたえであるように思えた。全くのフィクションであることを十分に観客に承知させながら、誰もの傍らにふとたたずんでいるような。
主人公のために、でかいCDラジカセを売りに出さず、長女の旦那が後を継いだものの、特別な技術も身につけていないために、大型電気店にかなうべくもなく、店を畳む町の電気店。ヒロインと別れ、田舎で工場に勤めるも、四十代で首になった主人公は、おまけに心臓も悪くしている。いささか無神経な洒落を口にして、とがめられると、「私にはこれしか取り柄がないんだ」と気色ばむこの元ハガキ職人が、「これだって取り柄といえるかどうか……」と付け加えるのが、胸にしみた。 20101016
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