軍属 船大工の転戦

海上特攻艇修理班

DIG収集資料から】

羽永 豊市

 

第七野戦船舶廠沖縄支廠(船舶修理部隊)

 第七野戦船舶廠・沖縄支廠(本廠は台湾・基隆)は暁第19808部隊と称し、隊長は古屋憲六技術少佐。沖縄那覇にあった第七船舶輸送司令部・暁第4500部隊・平賀又男中佐の下で那覇港沿岸垣花町に部隊本部(1010空襲前は製氷工場を置き、垣花沿岸を船舶修理場とし、小禄海軍壕隣に防空壕工場(旋盤・電気・自動車・溶接等を修理)を置き、第五海上挺身基地本部・暁第19773部隊・三池明少佐の下で海上挺身基地大隊に出張修理(主に船大工)を以って任務とし、那覇港垣花沿岸では木造輸送船舶の修理を担当していた。

 技術・技能関係は軍属が主で旋盤工・自動車修理工・電気技術者及び電気工・木工・製材工・大工・船大工・エンジニア・運搬人・自動車運転手等などの職種で殆どが赤星軍属であった。軍籍を持つ者も多く予備役一等兵・上等兵・兵長・下士適任者の資格を持つ者もいたが、これら階級に関係なく一律に軍属として扱われた。

 軍属は軍需工場派遣・徴用・志願・募集で全国から約200名を集め、昭和1910月に広島県宇品で沖縄支廠補充として編成された。

 

暁部隊船舶修理隊に軍属として入隊  昭和1910

 磯部新作は船大工でした。背丈が低かったので軍隊には征かなかったのです。戦争中は漁師町に住んでいても漁船を造る仕事はなく、町の軍需工場で慣れない機械仕事で朝早くから夜遅くまで働いていました。

 船を造る仕事がやりたいと思っていたので[船大工募集=暁部隊]の新聞広告に応募したのです。身分は暁部隊修理隊の軍属です。友達の殆どが軍隊に征ってしまい、背丈が低いことで兵隊になれないのを恥と思う時代であったのです。

 背丈は低くても健康でしたので軍属に採用されました。月収も町の軍需工場より高額で、家族に生活費を送金しても自分の小遣いが残る満足な賃金でした。

 五日の後、家族に見送られて広島・宇品の暁部隊に入隊しました。各県の海岸町や漁師町から、船大工が自分の使い慣れた船大工道具箱を担って入隊してきたのです。20歳代から40歳代の白髪の混じる者もいました。

 入隊した翌日から軍隊の新兵と同じ教練を受け、七日の後には予防注射を受けて輸送船に乗り込むのでした。船大工たちは募集の際に「外地には行かない」条件でしたので、そのことを暁部隊に申し出たのです。暁部隊の将校の答えは「日本は島国なのだから、仕事場が島であってもそれだけの賃金を払う契約をしてある」と全員輸送船に乗せられました。

 海は敵の潜水艦が輸送船を狙っています。何時沈められるか分かりません。宇品を出航して玄界灘の小島を伝って鹿児島湾に集結、何処の港を出航したのか貨物船を改造した輸送船が集まってきて船団を編成し、海軍の護衛艦3隻、輸送船22隻で南に向け出航したのです。

 輸送船団は琉球列島を太平洋に出たり東支那海を航行したりで、何処の方向に進んでいるのか分かりません。船内は鹿児島湾で多くの兵隊が乗り込み、荷物、食糧で満載です。甲板には大根、白菜、米が積み上げられ船倉は二階建てにして兵隊11尺ほどの幅が寝床でした。

 座っても頭がつかえる狭さです。船内温度も35度を越える蒸し暑さです。船大工たちは大きな道具箱を各自で携帯していますので、身体の置き場もありません。ついに全員船大工道具箱を担って甲板に上がってしまいました。

 輸送指揮官の特別な計らいで、甲板の端に野菜の積みなおしをして寝床としました。携帯天幕を甲板に敷き、毛布11枚です。10月末の海風は冷え込みました。敵の潜水艦攻撃を受けたときは海中に速やかに避難できると、寒いのを鼻水を流しながら、海と小島と星を眺めて12日間を過ごしました。  (続く)

= DIGニュースレター 200710月号 =

 

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