拉孟(らもう)・謄越(とうえつ)
【戦場百科 <44>】
DIG会員 永沢道雄
ビルマ作戦の初期、第15軍はビルマ要域を奪取した余勢をかって北部ビルマの確保に動き、4月30日にマンダレーを占領、第15師団はさらにバーモ、ミートキーナから中国雲南省へ進んだ。17年5月に怒江河畔の拉孟・謄越に達した。怒江は雲南省西部を通ってビルマに入り、サルウイン川となる。怒江の両岸は1000〜3000メートル級の峻険であり、舟は航行できない。
この大峡谷をはさんで日本軍龍兵団は中国遠征軍と対峙し、西岸を南北400キロにわたって確保していた。両軍とも活発な動きはなく、平穏な状態が続いている。シナリオ作家の水木洋子が軍報道班員として拉孟までやってきて、対岸の中国軍の様子を双眼鏡で眺めた。
事態が変わったのは19年5月になってからで、11日夜半に中国第20集団軍は怒江上流を渡って進撃してきた。日本軍のインパール作戦が混迷におちいり、ウィンゲート兵団の北部ビルマ侵入もあり、その虚を突く意図とみられた。また米英連合国は中国軍のこの方面での攻勢をしきりに要求していた。
中国の雲南遠征軍は衛立煌将軍が司令官で、“米式重慶軍”と日本では呼んでいる強力な兵団。米軍のスチルウェル中将が、長い時間をかけて育成した。雲南省は地形上補給が困難で、英国空軍が空からの補給を担当した。
龍兵団は一部で拉孟を守り、北方で主力が反撃に出た。殲滅戦は順調に進むかにみえたが、6月1日、新手の中国第11集団軍は拉孟とその西で怒江を渡河し、圧倒的に優勢な兵力で師団根拠地の龍陵を突いた。拉孟陣地は1500メートルの高地にあり、眺望の雄大な地点だった。第20集団軍の出撃に反撃するため拉孟守備隊の主力は北方に向かい、残っていたのは約1000名たらずだった。
中国軍は6月2日、拉孟陣地に重砲の射撃を開始し、砲撃は日を追って激しさを増した。金光忠次郎少佐を隊長とする拉孟守備隊は、1-2個師団の敵の重囲下で苦闘した。救援の望みはなく、後方からの支援は直協飛行機4機による手榴弾の投下だけだった。守備隊は決死隊を組織して出撃、奇襲を反復した。
包囲されてから124日、ついに金光隊長は本多第28軍司令官に決別の電報を打ち、全員玉砕した。
謄越守備隊も7月上旬から包囲下に奮戦したが、総兵力は約1500に過ぎないうえ、拉孟より地形にも恵まれず陣地設備も不十分だった。9月7日、城内に敵が殺到し、守備隊は最後の突撃を敢行して9月14日に玉砕した。
拉孟、謄越の玉砕は中国軍に対する最初の決定的敗北であり、その奮戦ぶりは中国軍を驚かせたが、日本軍に与えた衝撃は大きかった。
= DIGニュースレター 2008年11月号 =
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