「ブレードランナー2 - レプリカントの墓標」 K・W・ジーター ハヤカワ文庫SF
原題 BLADE RUNNER2 The Edge of Human
1995年原著
2000年4月邦語訳初版
2000年5月第2版
この本は、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の続編ではない。
1982年リドリー・スコット監督の劇場公開版の映画「ブレードランナー」の続編でもない。もちろんのこと、まだ公開されてもいない映画のノベライズでもない。(将来映画化される可能性はあるが。)
これは、ディレクターズカット版の映画「ブレードランナー」の続編の小説なのだ。
実は、カルトムービーとも言われ、数多くの研究家やマニアを持つ「ブレードランナー」には、細かいバリエーションも含めて7つのバージョンが存在することが知られている。細かいバリエーションとは、上映される地域に応じたバイオレンス場面のカット等の相違であるが、それ以外に、ストーリーの流れすら変えてしまう大きな違いを持つ2つのバージョンがあるのだ。ちなみにレンタルビデオでは、劇場公開版、ビデオ公開版(完全版)、ディレクターズカット版(最終版)という3つのバージョンを比べることができる。
そもそも、映画「ブレードランナー」は原作「アンドロイドは...」に登場するデッカードの話と言うよりは、一緒に登場するブレードランナーであるホールデンの話に近い。監督の初期の構想では、デッカード自身もレプリカントであり、デッカードとレイチェルが逃げ出してエレベータの外でユニコーンの折り紙を見つけ、自分自身がレプリカントであることと、4年で死ぬ2人を逃がしてやろうと計ったガフ刑事の気持ちに気づくところで映画も終わっていた。
ところが、撮影が終わるとプロデューサーと監督の間に意見の相違が生じ、"あまりに難解で暗すぎ一般受けしない"という判断から、監督に無断でフィルムに手が加えられたのだ。
大急ぎで現場に監督以外の役者たちを呼び戻し、劇場公開版の最後の場面、森の上をスピナーで2人が逃げるシーンが撮影され、多くのナレーションの挿入とアテレコが行われた。このため、ストーリーは大きく変わり、レプリカントを愛してしまった人間のブレードランナーが2人で逃げ出す、という話になってしまった。この処置を快く思わなかったデッカード役のハリソン・フォードは、わざとOKが出ないように気乗りのしない声でナレーションを吹き込んだと言う。言われてみれば、ハリソン・フォードの声は彼らしくもなく精彩がない。そのうえ、このシーンに使われた森の背景は、スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」の出だしで撮影されたものの流用であり、他のシーンの色調とは全く合わない、木に竹を継いだようなちぐはぐな印象に仕上がってしまった。
また、無理に変更されたストーリーのため、各所にひずみが生じ、たくさんの矛盾を含んだずたずたの作品になってしまったのだ。
日本でも公開されたディレクターズカット版は、この改変を元に戻し、分かりやすいようにいくつかのヒントを盛り込んだものになった。
さて前書きが長くなったが、この本は、このディレクターズカット版の続編だ。フィリップKディックは既に1982年に(実に映画ブレードランナー公開の年である)鬼籍の人となっているので、その財産管理者であるラッセル・ゲイレンの紹介で、ジータが書くことになった。
この本では映画での疑問点、監督の残したヒント等へある程度の回答を与えようとしている。その疑問点とは、例えば
1. ブライアントは、なぜ"逃げたレプリカントが6人"と言ったのか。6人目のレプリカントは誰なのか?
2. もし、デッカードが6人目のレプリカントならば、なぜ他の仲間のことを覚えていないのか?
3. なぜ、ホールデンはすでに顔の知られているレオンをわざわざテストしなければならなかったのか?
4. レオンはなぜ警察の中に銃を持ち込めたのか?
等だが、ジータの気持ちがはっきりしていないため、結局試みは成功していない。小説の前2/3でいったん与えられた、やや無理があるが合理的な説明は、最終場面で二転三転するため破綻すること、エピローグが本当に余計な印象を与える点、などがあるのだ。将来映画化されるかもしれないなどと書いたが、この内容ではおそらく映画化されないだろう。
私は、北野武監督の「HANABI」を見たとき、これは北野監督が"その後のブレードランナー"を撮ったものに違いない、と思ったのだが、北野編のブレードランナー2のほうが面白い。
"スシバー"の親父の「二つで十分ですよ。わかってくださいよ。」じゃないけれど、ブレードランナー2は蛇足で、一つで十分である。