祝福
どんな
形であれ、「いのち」というものについて思いを巡らせる時、わたしには必ず浮かんでくる思い出がある。
そのことを、いつかわたしは、あなたに語って聞かせるだろう。
その時わたしは本当に幼くて、小さくて、外に出る時は必ず親が手をつないでくれていた。
当時のわたしは、お外に出るよ、と言われたらすぐに機嫌を良くしていたらしい。
幼い頃の記憶なんて、ところどころ抜け落ちているものだけど、いつものお散歩のコースである川沿いの土手の道がとても好きだった、ということはよく覚え
ている。
本当は、何か思いついたことを、わたしを連れている父や母に話すことが大好きだったからかもしれない。
その日も、わたしは父に手をつながれて、大好きな川沿いの土手のあたりを歩いていた。
大きくて、穏やかで、のんびりした流れの川だった。土手の下にある河川敷では、わたしたちみたいな家族連れ、あるいは友達が集まったのが、歩いたり、走
り回ったり遊んだりしていた。
そしてその時も、何か思いついたことを口に出してみたに過ぎなかった。
(ねえ、お父さん)
(なんだい?)
(お父さんって、おじいちゃんとおばあちゃんの子どもなんだよね?)
(ああ、そうだよ)
(お父さんにも、小さい頃って、あったの?)
(ああ、あったねぇ)
(おじいちゃんとおばあちゃんには?)
(もちろんあったさ)
何だかその受け答えが楽しくなって、わたしは似たような質問をした。
(じゃあねぇ、おじいちゃんとおばあちゃんにも、お父さんとお母さんがいたの?)
(そりゃあ、いたさ)
初めて知った。おじいちゃんとおばあちゃんのことは好きだった。なぜなら、お父さんやお母さんと違って、わたしのことを怒ったり叱ったりしない。
おじいちゃんとおばあちゃんのお父さんとお母さんだったら、きっと、もっともっと優しいに違いない。
(へえ、見た事ないや……今度、遊びに連れてって)
すると、父は少し困ったような顔をした。
こういう顔をする時は、けっこうおねだりが通ることをわたしは知ってる。だから、
(……それは無理だ。できないよ)
という答えにも、そんなにがっかりはしなかった。しかし、多少鼻にかかった声で、
(ええー、つまんなぁい。どうして連れてってくれないの?)
と甘えてみても、父のその困った感じのする笑顔は変わらなかった。
(連れていけないようなところにいるからさ……)
(……どこ?)
(……天国だよ。もう、ずいぶん昔に死んじゃったんだ)
(……しんじゃう、って?)
(もう、この世にはいないんだ)
(……どうして?)
(……この世にあるものはね、全て、いつかは消えたり、壊れたり、そして死んでしまったりするものなんだよ)
(みんな、いつかいなくなっちゃうの?)
(そうさ。今あるものは、いつかなくなってしまうんだ)
(ええー、お父さんもいなくなっちゃうの?)
(……ああ、そうだよ。いつかは、おまえのおじいちゃんおばあちゃんの、お父さんとお母さんのようにね)
ぞっ、とした。みんな、いつか死んでしまうということも怖かったけど、そんな怖いことを笑って話す父のことが、もっと怖くなった。
(やだよう、お父さんもお母さんも、死んじゃいやだよう!)
わたしは両手で父の腕にしがみついた。父はこちらを優しい笑顔で見下ろして、言った。
(……大丈夫だよ。お前が大きくなるまで、いなくなったりなんかするもんか)
(……大きくなるって……わたしも、お父さんみたいに大きくなっちゃうの?)
(そうさ……だから大丈夫だよ)
ちっとも大丈夫じゃない。
(お父さんみたいに大きくなって、……それからどうなるの?)
(そしたら……おじいちゃんみたいに年をとって、そして、いつかはおじいちゃんのお父さんみたいに、やっぱり死んでしまうんだ)
(……死ぬと、どうなるの?)
また、父は困った顔をした。
(さあなぁ……お父さんは、死んだ事がないから、分からないなあ)
(……恐いよ、お父さん! わたし、死にたくない!)
(……死にたくない……か。そうだな、お父さんも死にたくないな)
(……どうすればいいの?)
(どうしようもないよ……どうしようもね)
(……そんな。やだよう……)
わたしは震えていた。自分の体を抱きしめる。
寒かった。周りから暗い何かが自分を取り囲み、脅かしている感じがした。
すると、父は屈んでわたしの両肩に手を置いて、真っ直ぐにこちらを見つめた。わたしに向けられた表情は穏やかだったが、眼差しには、それまで見たことも
ない、そしてそれからもほとんど見ることのなかった真剣な光というものが宿っていた。
(……お父さん?)
(……いいかい、よくお聞き?)
(……うん)
(いつか、人は死んでしまう。今まで、おまえやお父さんが生まれる前まで、本当に、本当にたくさんの人が生まれて、死んでいったんだ。人だけじゃない、花
や、木や、たくさんの動物や虫が、この世界にある本当に本当にたくさんの命が死んでいったんだ。
その命はね、きっと、お前のようにね、死にたくない、死にたくない、って、ずっと思っていたに違いないんだ)
(……でも、やっぱり死んじゃったの?)
(ああ、そうだ。おじいちゃんおばあちゃんのお父さんお母さんも、そのお父さんお母さん、そのまたお父さんお母さんも、みんなそうだ。
でもね、その、たくさん消えていった命は、お前を生み出したんだ)
(いっぱい命が死んじゃったから、わたしがいるの?)
(そうだよ。そのひとつひとつの命には、ひとつひとつの嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、辛いこと、楽しいこと、幸せなことがあったんだ。
……どうしたんだい? 何を泣いているんだい?)
父に言われて初めてわたしは気がついた。わたしは泣いていた。胸が苦しくて仕方がなかった。それは多分、辛かったのだろう。いつかは全てが死んでしま
う、という世の中の運命が、どうしようもなく辛かったのだ。
そして、その失われていった命の果てに自分がいる、ということが恐かった。自分がこうして、今生きていることに罪深さを感じてしまったに違いない。その
ことをわたしは思わず口にしていた。
(……どうしてわたし、いっぱい死んじゃった後に生まれちゃったんだろう?)
この質問に、一瞬父は顔を強張らせた。が、すぐに父はあの穏やかさと真剣さを兼ね備えた表情になると、答えた。
(それはね……お父さんとお母さんが、お前に逢いたかったからだよ。)
(……逢いたかった?)
(……そうともさ。お父さんとお母さんが、大好きなお前に逢いたかったから、お前は生まれたんだ。だから、どうして生まれてしまったんだ、なんて言い出さ
ないでおくれ)
(……だって……)
(それにね、お前の言っている、たくさんの命が死んだ後に生まれてしまった、ってのはね、お父さんやお母さんにも、それだけじゃなく、今おまえのまわりに
ある全てのものに言えることなんだ。)
(……そんな……それじゃ、みんなかわいそうだよ。そんなの嫌だよ。)
(……でも、生きていかなきゃならない。お前も、お父さんも、この世にあらねばならないんだよ)
(……どうしてなの?)
(死んでしまった命が、死ぬ前に残したものの集まりが、この世界そのものだからさ。自分が死んでしまっても、自分に代わってこの世に残そうとしたもの。死
んでしまう命が、いつかは死んでしまう運命を越えようとして生み出したもの。それが、今なんだ。
いいかい? 今、そのものが、消えた命の願いの結晶であり、果てなんだ。そして、お前が生きている、そして、お父さんやお母さんが生きてここにいる、そ
のことが、今まで死んでしまった命たちの望んでいたことであり、祈っていたことなんだよ。)
(……死んじゃった命が、わたしにいて欲しい、って、そう思っていたの?)
(……そうだよ。お父さんだって、お母さんだって、死んでしまった命がそう願ったから、こうしてお前を生んだ。そして、お前には元気に育って、そして幸せ
になって欲しいと願っているよ)
その言葉は、とても頼もしかった。肩に置かれた大きな大きな父の手が、暖かく、何よりも確かだった。
(……ねえ、お父さん。あそこの、下を歩いている人たちも、「生きてて」、って望まれてあそこをあるいているの?)
(そうだよ。)
(じゃあ、あそこで自転車と一緒に走っている犬も?)
(ああ。あの犬のお父さん犬お母さん犬が、生まれて欲しいと思ったからだよ。)
(じゃあ、この蟻さんや、あそこを飛んでいる鳥なんかも、そうなの?)
父の手から離れると、わたしは目にはいるものを指差しては問いかけた。
が、わたしはもう、父の答えを待ってはいなかった。わたしが指差すひとつひとつに向けての問いに、きっと笑って(そうだよ)と答えてくれてると、分かっ
ていたからだ。
わたしは嬉しかった。
涙が出るほど嬉しかった。
きのう、おととい、それよりもずっと前から、今、わたしの周りに在りつづけていたもの。それらが、今、こうして在るための「理由」を積み重ねてきたこ
と。その積み重ねた 時間のひとつひとつ、理由の一つ一つに、祈りと願いがこもっていること。
だから、今在るものは、在り続けなければならないこと。
積み重なった、願いと祈り。それらは紛れもなく、わたしだった。父であり、母だった。 わたしが好きなものであり、嫌いなものだった。今までわたしが出
会ってきたものであり、これから出会うものだった。
振り向くと、やはり父は笑っていた。わたしを見て笑っていた。嬉しいわたしのことが、父も嬉しい。父は間違いなくわたしを好きだ。わたしも父が好きだ。
そのことがさらにわたしを嬉しくさせた。
わたしは父にとびついて、言った。
(お父さん、わたし、みんなのことが大好き! お父さんもお母さんも、みんな、大好き!)
父は、小さなわたしの体を、ぎゅっ、と抱きしめた。
ある程度の年月を経れば、あの時父が言ってくれたことは、本当にきれいごとでしかない、というのが見えてくる。
死んだ命の全てが、生き残るものへの幸せを願いながら幸せに逝けたはずがない。
むしろ、この世を呪いながら命を終わらせた人の方が多いんじゃないか、と思うことさえある。日々のニュースや新聞で眼に入るのは、望まない死や望まれな
い死だ。
けど。
結局それでも、生き残った方は、これからも生きていくしかないんだろう。
この世への嘆きや憤り、呪いを叫びながら逝ってしまった人たちのためにできることは、その嘆きや憤りや呪いを受け止めて生きることしかないと思う。
そして、生き続けて行けば、その叫びを祈りや願いに変えていくことさえもできるんじゃないか、なんて信じたい。
やがて、その祈りを、願いを。
父がそうしてくれたように、わたしもあなたに伝えたい。
あなた。
今、わたしの胸で安らかに眠っているあなた。
おじいちゃんと、おばあちゃんと、お父さんと、お母さんと、そして、わたしと、わたしが最も愛した人の命を受けて、生まれたあなた。
あなたが生まれたのは、会いたかったから。わたしは、わたしたちは、ずっとあなたに会いたかった。
あなたのこれからの命が、とても幸せでありますように。