序章
熱と湿気をはらんだ風が、木々の葉を鳴らした。
夕焼けの光が、景色を橙に染め上げている。
かつては森だった一画を切り開き、皆の住まう家を建て、田畑をつくり、庭とした中。
その真ん中に、小さな影がうずくまっていた。
小さな影は、童女だった。歳は、五つか六つ、といったところだろうか。
地べたに座り、膝の上で、一心不乱に指を動かしていた。
傍らには、櫃が置かれている。中には真っ黒な布切れと糸くずとが入っている。
童女は櫃の中に片手を入れ、それら糸くずや布切れを取り出しては、膝の上で縒り結ぶ。
その作業はどれほどの時を費やしたのか。糸くずやぼろ布はいくつも束ねられ、まとめられた末、ぼろぼろではあるが長い一本の黒い紐――いや、「帯」と
なっていた。
だが、童女は一向に手をとめようとはしない。
うつむいた顔には、およそ表情といえるものはない。その眼には、おのれの指先と、指先で束ねられていく黒の糸と布しか映ってない。
指が不意に止まり、うつむいていた顔が正面を見た。
目前には土饅頭が並んでいた。
全部で十八。
土饅頭の下に埋まっている、仲間のことを思い出す。束の間、幼女の顔に哀しみが浮かび――そしてすぐに険しいものへと変わった。
(あたしも、きっと、そこに行く)
心中で、眼で、土饅頭にそう告げた。
(その時には、あいつも必ず連れてくる)
童女の指先に、微かに震えが伝わった。
膝の上の帯が、童女の思いに呼応したかのごとく震えているのだ。
いや、震えだけではない。
その帯は、鳴っていた。
――ひゅるるるる
――おおおぉぉん、おおぉぉぉん
――ふしゅるるる
歌というには、あまりに不吉で恨めしげな音である。
うめき声、すすり泣き、あるいは怨嗟――そうとしか形容しがたい音が、確かに帯から発し、風に響いた。
土饅頭から、幼女は膝の上に視線を落とす。
(そうだった――みんなはここに、いるんだよね)
口元に、微かな笑み。
冷たい笑いを浮かべながら、再び幼女は指を動かし始めた。
紅く染まった大地の上、鬱蒼とした森に囲まれながら。
陽は血の色。地には骸。血を浴び骸を糧として、森の木々は天へと伸びる。
日が傾けば、森は闇をいよいよ深める。
世の始まりより、どれほど多くの血が流れ、大地に吸われたことだろう。
凝る闇夜に耳を澄ませば、時の分だけ積み重なった悲憤と慟哭が、風に乗って聞こえてくる。
この世は、怨みに満ちている。
一
人気のない街道の真ん中で、一対多数の剣戟が繰り広げられていた。
振るう剣は血に濡れて、奇声と断末魔が耳を衝く。
蓬髪は血汗にまみれ、身にまとった長袍は返り血で濡れ、赤い夕日をいっそう紅く照り返す。
己が身を旋風のごとく巡らせ、刃を走らせる「春霞閃空(しゅんかせんくう)十六手」。女子供用の練習用の技とは言え、ひとたび刃が閃けば血煙舞い、ふた
たび剣が振るわれれば敵の命脈を絶つ剣技である。
だが、今研坐崎(けんざき)に群がっている盗賊どもは、五たび六たび程度の攻撃では倒れはしない。今屠った相手ですら、突剣技「暁光貫靄(ぎょうこうか
んあい)」を八回繰り出し、やっと息の根を止められたのだ。
「うわああああっ!」
背後より悲鳴が上がる。振り向きざま、研坐崎は帯に仕込んだ投げ矢を取り出し、内力を込めて横薙ぎに放った。
投げ矢の射線には、荷車の傍でうずくまっていた男に、今しも斬りつけようとしていた賊がいた。
その男の眉間に、「どんっ」という鈍い音とともに投げ矢が深々と突き刺さる。
が、賊は眉間の投げ矢をそのままに研坐崎に向き直り、憤怒と残忍の入り混じった笑みを浮かべた。
「へひゃげぇ」、と、笑いともうめきともつかぬ甲高い声が、その口より洩れた。
研坐崎は身を躍らせ、剣を突き出す。切っ先はまっすぐに賊の裸の胸を狙い、貫くかと思われた。が、宙を跳ぶ研坐崎の体重を乗せた一撃は、一寸ほども食い
込まない。
研坐崎の剣柄と賊の胸板との間で、刃が撓む。
賊が得物の刀を振り回す前に、研坐崎の空いている手が手刀の形となり、賊の喉を真一文字に切り裂いた。
裂けた喉からまた血煙が舞い、研坐崎は顔に返り血を浴びる。賊は狂った笑みで顔をこわばらせたまま、ようやくその場に崩折れた。
震えながらうずくまる男を庇うようにして立ちつつ、研坐崎は声をかけた。
「栗(りつ)殿、お怪我はありませんか!?」
足元に縮こまる小太りの男は、ひいっ、ひいっと悲鳴を上げるばかり。だが、どうやら怪我を負った様子はなさそうだ。
研坐崎は、居並ぶ敵を見渡した。
荒れ放題伸び放題の髪は顔を覆い、手足や胸元などに見える肌は汚れた上に血色が悪い。まとう着衣は辛うじて「服」と呼べるほどにあちこち裂け、破れてい
る。肌や服にこびりついている汚れは、泥や埃だけとは到底見られない。
「くへひゃへひぃ」
「ぎぎゅぎげがぁ」
「へぎぇぎょぐぎあ」
口から洩れている声は、もはや言葉とはいえない。人の声でさえない。獣のような、と言い表すにも、こんな禍々しく鳴く動物は、この世には存在しない。
(妖怪悪鬼……!)
こいつらを言い表すには、その言葉こそがふさわしい。
襲ってきた賊の数は八人、うち三人を倒したが、残っている者たちに怯む気配はない。たった今喉をかき切った者と同じような笑みを浮かべ、こちらに剣や
刀、槍を向けている。
武器の扱いには、武術の覚えは見受けられない。得物をただ振り回しているに過ぎないのだが、速さと重さが並ではない。
何より、その頑健さ、頑丈さは異常だった。今し方も、急所の眉間に投げ矢を打ち込まれて、なおも振り向き、得物を振るおうとしていた。
(黒帯武賊……噂には聞いていたが!)
大和(だいほう)・中原――ただでさえ無法地帯と化しているこの地域に、近頃新たな災厄が生まれていた。
その名は黒帯武賊。腰に黒い帯を巻いた姿から、そう呼ばれている。無法地帯に跋扈する盗賊たちの一派のようだが、並みの盗賊ではないという。
性は残虐非道にして、その力量は十人力。蛇のように狡猾で、餓狼のように容赦がなく、そして猛獣のごとき強さを振るう。その強さの源は、かの人非人ども
が一様に会得しているという武術、武芸にあるのだそうな……
その風聞を初めて耳にした時は研坐崎も、「盗賊ごときの武術武芸なんか、多寡が知れる」 と鼻で笑ったものだった。
が、今となっては、自分の不見識を悔いていた。
いや、仮に知っていたとしても、この死地を乗り切れているかどうか。
己が切り札と恃み、また今までも幾たびか死線を潜り抜けてきた「春霞閃空」の剣技も、必殺の一撃となりえない。
(……だが、この研坐崎も義侠の端くれ。おれを頼った者には指一本触れさせない!)
果てる命が惜しくない、といえば無論嘘になる。だが、義士として生を全うできるというならば、研坐崎に迷いはない。
研坐崎は周囲に鋭く眼を配りつつ、深呼吸を繰り返す。上がりかけた息を整えるが、疲労はそろそろ限界に達しようとしている。
それでも、息を切らせながらも八人の内、三人を撃退した。あと二回これを繰り返せば、賊を全滅させてなお余りあるではないか。
そう考えた研坐崎は、右手に持った血塗れの剣を左斜め上へと伸ばした。肩幅よりもわずかに広く足を開き、膝も少し曲げ、腰をさらに捻る。伸ばした右腕と
剣先も、一直線というわけではなく、肘も少し曲げて、上体、下体、全身で溜めを作る。
「春霞閃空十六手」の手のひとつ、「空鳥捕虫」。敵が間合いに入った瞬間、全身の溜めと内力を解放して刃を振り下ろし、倒す手である。単純であるが故に
その一撃はまさしく必殺。振るう側にも、微塵の迷いも許されぬ。
構えを取った研坐崎に、内力と覚悟が漲り、必殺の剣気がにじみ出る。恐れを知らぬ黒賊たちも、その気配に一瞬怯む。
と、その時どこかで低い笛の音が鳴った。
重く鈍い音が鳴り、賊の一人の体躯が横に吹き飛び、直後、どう、と大地に投げ出される。
投げ出された体躯の脇には、両端に鋲の打たれた六尺棒が、ごろん、と鈍い音を立てて転がった。
「そこまで! 黒き帯の盗賊ども!」
彼方より割れ鐘のような声がとどろく。
見れば茜空の下、街道の彼方にて胸をはだけた紅毛の大漢が、仁王立ちにこちらを指差していた。
彼我の距離は十数間余、鋼鉄の六尺棒は数十斤はあろう。その距離と重さをものともせぬ膂力たるや、想像するに余りある。今しがたに聞こえた笛の音は、こ
の得物が空を貫いた音に違いない。
研坐崎は、正面に居並ぶ賊どもに眼を配りつつ、やはり大声を出して呼びかける。
「義侠の士とお見受けする! どうか助太刀を」
「もとより承知! この王山而(おうさんじ)、義の士と悪党は看過せぬ!」
王山而を名乗った巨漢は、まっしぐらにこちらに向けて駆けて来る。その猪突猛進たる勢いのまま、賊の一人に肩を突き出し、体当たりを食らわせた。
爆音とも破裂音ともつかぬ鈍い音が再び鳴れば、賊がまた一人宙を舞い、彼方の地面に打ち転がる。
数瞬の間に駆けつけた王山而、腕力だけの武人に非ず――目の当たりにした研坐崎は、目前の巨漢の力量に絶句した。
その巨漢は爪先にて己が得物を蹴り上げると、宙でその柄をはっしと掴んだ。
「剣士殿、尊名は?」
「姓は研、名は坐崎、我が大師は『盤』の烏丸(うがん)老師!」
「合点! 不逃不怯の春閃郎、研坐崎殿か! 窮地にあってなお怯まず、噂通りの義侠の士よ!」
王山而は大笑しながら六尺棒を振り回し、また賊のひとりの胴に重爆撃を叩きつける。構えていた槍ともども、賊の体は「くの字」に折れた。
力任せに振り回しているようだが、その動きは洗練された、まごうことなき武術のそれだ。積んだ功夫も並ではない。研坐崎が息を切らし、死の覚悟すら固め
た賊らを、この王山而は瞬く間に打ちのめして行く。 打撃の度に、黒賊らは「けひぃっ」「ほひゃぎゃっ」という鳴き声を上げる。
しかし、黒帯武賊の強靭さもまた並ではない。
地に伏していた賊が、むくりと身を起こした。先ほどに、王山而が投げた得物の轟撃で倒れていた賊である。それが立ち上がるなり、手の刀を振りかざした。
(危ないっ!)
「はあっ!」
背を向けている王山而に切りかかろうとする賊に、気合一閃、「空鳥捕虫」の型より乾坤たる剣撃を振るう研坐崎。
解き放たれたバネと内力が剣に乗り、さっきは剣先がくいこみすらしなかった賊の体を刃が横断する。
直後、賊の胸から上は胴から離れ、地面に転がった。
それでもなお、胸から下は王山而に向けて数歩走った。賊の異常な強靭さの故か、それとも「空鳥捕虫」の切れ味の故か。
「さすがは春閃郎! 『空鳥捕虫』の見事な冴えよ!」
またひとりの賊をなぎ払いながら、賞賛する王山而。だが、眼を丸くしたのは研坐崎の方だ。
「! 王山而殿は背中でものが見られるか!?」
「見えはせぬが、気配は分かる!」
(何と! この男の功夫は底なしか!)
一対八の戦いは、あっという間に二対二へと戦況が変わった。
しかも、新たに加わった王山而の武力たるや一騎当千。いかに十人力百人力の黒帯武賊といえども、もはや勝ち目はありえない。
だが、彼らには「恐怖心」というものがないのだろうか。ますます狂気をはらんだ笑いのまま、それぞれ手斧と刀とを構え、奇声を上げて躍りかかる。
振り下ろされる六尺棒の轟撃を、斧持つ賊が身を反らして避け、王山而の懐へと飛び込んだ。
胸板に叩き込まれる斧の威力は、木の幹をも断ち折るものであったろう。だが、王山而はその斬撃をそのまま胸で受けた。骨まで響くような衝撃をものともせ
ず、賊の腕を掴み、軽々とねじりあげると、怒号とともに、大地に叩きつけ、さらに頭を踏み潰した。
この様を残虐な、と思う余裕は研坐崎にはない。研坐崎もまた、刀を持った賊に飛びかかられていたからだ。
跳躍の勢いは尋常ならず、軽功を用いたそれである。その勢いのまま、力任せに刃が振り下ろされた。
研坐崎は、振り下ろされる刃に向けて、己が剣の切っ先を突き出した。その手首がめぐり、剣は螺旋を描いて賊の刃に絡みつく。
剣の身が蛇の如くうごめき、絡みつかれた刀は賊の手より離れ、天に向けて跳ね上がった。
が、賊はすでに眼前へと迫っている。直後、賊と研坐崎の体は激突し、地面に転がった。
「研坐崎どの!」
もつれあう二人の体はしばらく地面を転がったが、ついに賊が剣士を組み伏せる形になった。下になった研坐崎の手には、いまだ剣が握られているが、賊の手
が研坐崎の肩を押さえつけ、振り回せない。
眼を血走らせた賊の顔が、研坐崎の眼前に迫る。その口が、かっ、と開き、喉笛に食らいつこうと迫った。
と、研坐崎の体が海老のように反り、さらに賊の体を跳ね除けた。体勢を崩した賊の顔面は、研坐崎の頭の上の地面に激突する。
そのまま賊の体を、下から自分の頭上に放り投げた研坐崎は、素早く体勢を整えて、地面にまだ転がっている賊の頭に剣を振り下ろした。
気合とともに刃が賊の頭を断ち割り、噴水の如く鮮血が迸った。
長い長い断末魔の叫びを夕映え空に響かせた後、賊はついに動かなくなった。
二
「……ぜはっ、……ぜはっ、……はっ」
研坐崎は片膝をつき、喘いだ。終わったことを実感したら、疲労が一気に全身に襲い掛かってきたのだ。
「大丈夫か、研坐崎どの?」
傍らにやって来た王山而に向けて、研坐崎は何とか顔を上げ、笑って見せた。
「いえ、私は大丈夫です。それよりも……」
「あの商人の親父殿なら、問題はござらぬ。かすり傷ひとつ負うてはおらん」
「なら良かった……早く、町に、白井(はくせい)に入らねば」
剣を鞘に収め、それを杖として立ち上がるが、よろけた体が王山而にもたれかかった。
「無理はされるな、研坐崎殿」
「いや、お恥ずかしい……我ながら、鍛錬が足りません」
「そちらが弱いのではない、賊どもが異常過ぎるのだ」
王山而の助けを借りて立ち上がり、雇い主たる栗商人の方に目を向ければ、商人はまた地面にへたりこんでいる。
矢で射られ、首を切り落とされた驢馬の骸が商人の前に横たわっていた。
「しっかりされよ、御商人」
王山而は、栗の肩を背中を掌で叩いた。大きな音がして、栗がしゃっくりのような声を上げた。
「黒賊に襲われて五体無事、しかも荷を奪われておらぬとは何と冥加な」
「しかし、驢馬なくしては荷は運べません。運べなければ、われら家族は食べてはいけません」
「ならば人の足で運べば良い」
「私の足では、日暮れ前に白井に着けませぬ」
「……大丈夫。心配はいりません、栗殿」
王山而に支えられ、息を切らせながら、研坐崎は栗に告げる。
「この研坐崎……鍛えた武の内力でもって……荷車をお運びします……」
「何を馬鹿なことを。研坐崎殿には、今休息が必要だ」
「わきまえております、王山而どの……。少し休めば……この程度の疲れなど……」
返り血にまみれた顔で、研坐崎は笑った。
「いやぁ、助かりました、王山而様」
荷車を押しながら、栗商人は前に向かって、何度も頭を下げている。
荷車の上には、剣を胸に抱えた研坐崎が、詰まれた荷の上に仰臥している。
その荷車を引いているのは王山而だ。
「このような場で王殿のような義侠人にめぐり合うとは、まさしく天の配剤です。町に着いたら、わが店『紫桜苑』の名物料理をご馳走しましょう」
「その前に、まず研坐崎どのの着替えを準備していただこう。剣士殿の奮戦なければ、われら今こうしてはおられぬ」
「いやぁ、私の剣技では、あの黒賊らを防ぎきれはしなかったでしょう。王山而どのには、どれほど感謝をしてもしたりません」
「ならばこれは、剣士・研坐崎への貸しとしよう」
「王山而殿は命の恩人。わたしにできることならば、なんなりと」
荷車にはいっぱいいっぱいに荷が括られ、人の足では到底動かせるものではない。しかし、紅毛の巨漢・王山而にとっては空の荷も同様なのか、驢馬牛馬が引
くのと同様、いや、それ以上の速さで荷車は道を先へと進む。後ろから押しているはずの栗が、荷車につかまってないと置いていかれる勢いである。
「ふむ、春閃郎どのへの貸しとなれば、これすなわち、『盤』への貸し、ということだな」
「白井より、『盤』までなら二日の道程。ぜひご紹介をさせてください」
『盤』とは、中原地域の西にある大きな町であり、同時に多くの武術家が集う、中原の武門のひとつである。
――もともと大和はひとつの国であった。地図にすれば、北東から南西へ細長く伸びる大きな島であるらしい。しかし、数百年前に国を東と西の真っ二つに分
けての戦争が始まった。西の王朝、東の王朝に挟まれているこの中原地域は、両王朝の軍勢がぶつかり合う戦場として、ずっと蹂躙され続けた。
以来、中原は無法地帯と化している。その中で、武術に通じた者達が集い、離合を繰り返して、いくつもの門派――「武門」が生まれていった。
「盤」という武門は、四十年程前にできたものであるという。が、特徴としては、自分の流派の技だけにこだわらず、他の流派の技や型を吸収し、自分のもの
にしていくという一面がある。
現在では、「盤」に行けば中原で振るわれている武術の型の一通りは見ることができる、というほどまでに様々な流派の技と武人が集まっている。しかるべき
礼儀を尽くせば、彼らに武術を習うことも可能だ。
無論、習得できるかどうかは本人の資質と意志の問題であるが。
「盤」門人のひとりである研坐崎にしても、様々な武術を習う機会はあった。が、結局自分の技として恃み、振るう技は剣術と、腿術、そして飛刀術である。
槍や斧、あるいは棍など他の技は、まったく見当もつかない。
さらに言うなら、その剣術の中でも研坐崎は、自分が最初に習った「春霞閃空十六手」を集中的に練磨し、振るってきた。もともとは女子供用の、しかも練習
用の型であった「春霞閃空十六手」だが、積み上げられた鍛錬によって、今では必殺の剣技と化している。
必殺の「春霞閃空十六手」を振るう剣士・研坐崎。いつしか彼は、「春閃郎」という二つ名で呼ばれるようになっていた――
「王山而殿は、どちらの流派ですか?」
「特に、どこの流派ということはござらぬ。道々で眼にし、出会った武人の技を、自分で磨き、時には教えてもらって、身につけ申した」
「あの剛力と棒術は、やはり聳地派(しょうちは)の?」
聳地派とは、棒・掌・拳術で知られた流派だ。「弱き者の寄る辺たるべし」という教えにより、敵の攻撃を避けずに受けてもいいように、自身の体を巌の如く
鍛えるのが特徴である。
先ほどの戦いで、賊の斧の一撃をまともに受けてもびくともせぬほどの鍛錬は、聳地派の「鉄皮功(てっぴこう)」以外には考えられない。
「そうかも知れぬが、最早わしにもよく分からん」
「なるほど、技は体で覚えるもの、頭に詰め込むものに非ずということですか」
「頭を使うのは苦手なだけよ」
大笑する武侠ふたり。
進むうち、街道の向こうに町が見えてきた。日は大分傾いたとはいえ、沈む前には到着できそうである。
その後は新たな賊の出現もなく、一行は穏便に町の門までたどり着いた。
門の前で、栗が荷物の中から長袍を出し、研坐崎に渡す。くすんだ青の、地味な服である。
手早く着替えた研坐崎に、今度は濡れた手ぬぐいが差し出された。
「顔をお拭きください、研坐崎殿。奮闘の証たること紛れもありませんが、血塗れた顔は町の中では剣呑に見えます」
研坐崎が顔を拭うと、一行は門をくぐった。
無法たる中原の地とはいえ、人集まれば活気があふれ、人と物とが行き交うものだ。
栗は市場に荷車を運び込むと、広場の一隅で荷をほどき、手早く売りさばき始めた。
その様は、さすが商人といったところか。ついさっきまでは、いつまた黒帯武賊に出会うかとビクビクしていたというのに、商売を始めた途端に全身に生気を
漲らせ、群がる客らをさばいていく。しかも、「物騒な街道を通り抜け、やっとの思いで荷を運んだ」ということをかさに着てかなりの高値をふっかけている模
様だ。
近くで見ていた研坐崎は、あまりいい気持ちはしなかった。危ういときには隠れて震え、安全になったら突然態度が大きくなる。
『盤』を発って数年余、中原をさすらいながら鏢客として生きてきた。鏢客という、商人護衛の任務は無論、無力な人々を守る義侠の役目と信じているが、こ
ういう場面に出会うたび、いつも嫌な気持ちになる。
対する客に、栗はいよいよ舌鋒を鋭くさせる。
「……こちらに立たれる義侠の士、研坐崎どのの姿を見られよ! 彼らは命をかけてこの荷を守ってくれたのだ、それを思えば『ふっかけすぎだ』の何だの言わ
れるのは甚だ心外!」
話の中で、栗は研坐崎を指し示した。
横に立たされていたのはこのためか――そう言えば、着替えて脱いだ血まみれの着物は捨てられず、解かれた荷の片隅に、これ見よがしにたたまれて置いてあ
る。
研坐崎はため息をついた。一緒に栗の傍らに立つ王山而などは、黒帯武賊との戦いを講談師よろしく熱弁をふるい、商人の言い値にさらなる上乗せをしようと
している。
栗に対しても、ましてや王山而にも悪意を抱くわけではないが、利益や損得の競い合いに引き出されるのは研坐崎の本意ではない。
「栗どの。私は先に紫桜苑へ行っております」
そう言って研坐崎は、栗と王山而に背を向けた。「待たれよ、研坐崎」と呼び止める声を聞かず、市場から離れた。
往来を歩く道すがら、行きかう人をつかまえて紫桜苑への道を訊く。
「あのう、すみません。紫桜苑へはどう行ったらよろしいのでしょうか?」
「? どちらですって?」
「しろうえんです」
問われた人は眉をしかめ、首を傾げたが、合点が行ったように頷くと、
「この道をまっすぐ行って、肉屋の角を左へ曲がっていきなさい。しばらく歩くと看板が見えてきますよ」
「ありがとうございます」
研坐崎は頭を下げ、教えられた道を歩き出す。歩きながら顔をしかめ、自分の口に手を当てた。
(……やっぱりちゃんと喋れてないのかな)
故郷の訛りか生まれつきかの故は分からないが、研坐崎にはどうしても発声が濁りがちになる嫌いがある。どうも、喋るときに口をきちんと動かしていないか
ららしい。
先刻のような戦いの渦中であれば、口を大きく開け、腹の底から大きな声を轟かさんとするために、その発声極めて明瞭たるものにはなるが、平時の会話では
その性癖が出てしまう。
それでも、以前に比べれば大分ましになったと思っていたのだが、身についている癖というのは、なかなか直らないようだ。
研坐崎は往来を歩きながら、声は出さずに口だけを動かして「あえいうえおあお」「かけきくけこかこ」等のの形を作ってみた。声を出さねば発声の鍛錬とは
なり得ぬが、往来の真ん中でそれをするのはさすがにためらわれた。
ほどなく紫桜苑の看板が見えてきた。中に入り、空いている卓を探す。
と――卓のひとつに見覚えのある女がひとり座っている。
背にまで届こうかという長い黒髪、赤い胴着に淡い紅色の着衣、傍らには弩弓とあまたの矢羽生やした矢筒が置かれている。
今は右手で盃を傾けているが、左手は腰帯にさした剣の柄にいつでも伸ばせるような位置にある。ひとり酒をたしなむように見えながらも、組んだ足はすぐさ
ま卓を蹴飛ばせるようにしてある。
しとやかさ、たおやかさからは程遠い、鞘からいつでも飛び出る刀剣――研坐崎にはそう見える。
(……まさか?)
女侠の姿を見つめながら立ち尽くしていると、猛禽の如き鋭い目が、じろりと研坐崎を見返した。
酔客らの喧騒の中、中空でふたりの視線がぶつかり合った。
ややあって、女侠の表情から険が和らぐと、
「坐崎か?」
と、その口が穏やかな声で呼びかけてきた。
「姉さん、達姉さん!」
三
破顔した研坐崎は、混みあう卓や酔客の間をかきわけ、姉と呼んだ女侠の前の椅子に座る。
そのまま身を乗り出して話しかけようとするが、未だ鋭さを残した眼がまっすぐに見返してくるのに気づき、ひとたび咳払い、背を伸ばし、胸の前で抱拳し、
神妙な顔で頭を下げる。
「お久しゅうございます、橘達瑪(きつたつま)師姉。愚弟・研坐崎、長年の間便りも疎かにして、全く申し訳ございません」
すると女侠は頷いて曰く、
「師弟・研坐崎。便りなくとも、息災にて此度再会できたるはまことに重畳。中原江湖をへめぐりて重ねたる貴殿の侠の行いは、我らのもとにも届いておる。
『盤』一門としても鼻高く、我らまことに嬉しき限り。さあさあ、まずは面を上げよ」
手を差し出して橘達瑪が促すと、研坐崎は抱拳のまま顔を上げ、再び破顔した。無邪気で快活な笑顔である。
「お久しぶりです、達姉さん」
「元気そうだな、坐崎。師弟の礼、舌を噛まずによく言えた」
「男子三日会わざれば括目せよ。おれは『盤』を出てから五年も経ってるんです」
「日々の成長は間違いないな。初めて出会ったときには、お前は異国の言語を話しているかと思ったものだ」
「ひどいなぁ、達姉さん。子供が大泣きしていれば、何言ってるかもありませんよ」
「その大泣きしていた子供が、今では義士として知られるようになるとは……げにも月日が経つのは早い」
「達姉さんのおかげです」
再び研坐崎は頭を下げる。やはり無邪気で快活、そして幼さすらある顔だ。
まっすぐにそんな笑顔を向けられ、橘達瑪は苦笑する。
「お前もいい大人だろう。そんな顔をするんじゃない」
「例えこの身老いさらばえたとしても、達姉さんはおれの姉で、おれは姉さんの弟ですよ」
「老い果てるまで、私はお前につき合わされるのか?」
「弟が姉を慕うのは当然でしょう」
「慕うのは構わんが、もう少し人間的に成長しろ」
「成長だったらしてますよ。滑舌もよくなりましたし、武の技も……」
橘達瑪は、呆れたように手を振った。
「……いや、いい。お前は成長した、偉い偉い」
明らかに揶揄されている台詞なのにも関わらず、研坐崎は相変わらず嬉しそうに笑っている。これが犬なら尻尾が風を起こすほど振られているに違いない。
(よく今まで息災でいられたものだ)
心中の妙なくすぐったさを押し隠しながら、橘達瑪はそう思った。
一方の研坐崎は、師姉・橘達瑪と言の葉を交わしていることが単純に嬉しかった。思い起こせば十五年余り前、身寄りのなくなった自分を連れて『盤』へと連
れ帰り、武術の基本を教えてくれたのは他ならぬ目前の女侠である。
研坐崎には、橘達瑪は師姉である以上に、まことの姉や母のようなもの。そんな相手との数年ぶりとの再会ともなれば、心浮き立たぬはずもない。
そんな研坐崎が五年以上前に『盤』を出たのは、やはり今回の栗商人の如く、街道を行く商人の護衛・「鏢客」の任務の故である。本来であれば、その商人を
行き先の町へ送り届けて『盤』へ帰還、というはずだったのだが、その町でも別口の護衛を頼まれ、さらに別な町へ行けばさらに用心棒を頼まれ……ということ
が数珠つなぎに重なって、中原中を流離う形となったのだ。
中原は、町からひとたび出てしまえば、人非人たる盗賊や、人の肉の味を覚えた野犬がうろつく無法の世界。そんな荒野を横断せねばならない旅人の困窮を研
坐崎は見過ごせず、またひとたび賊や野犬が襲い掛かれば退かず、逃げず、剣技「春霞閃空十六手」を振るって最後まで戦い抜く。それを繰り返すうちに、月日
が流れたということだ。
と、橘達瑪が研坐崎の前の卓に目を落とした。
「どうしたのだ、坐崎? 酒も料理も頼まないのか?」
「あー、それが……」
「まさか金がないとは言うまいな。私の懐を当てにはするなよ」
「いや、そういうわけじゃなくてですね、この店の御主人を待ってるんですよ。食事をご馳走してくれるそうですよ」
「ほう、何か恩でも売ったのか?」
「そんなつもりはないですけど、さっきに黒帯武賊とやりあいまして……」
「……何だと!?」
橘達瑪の気色が変わる。
「よく無事だったな……」
「正直危なかったです……でも、危ういところで助けが来まして。達姉さんは王山而という侠客の名を知ってますか?」
「聞いた事がないな……流派は?」
「多分、聳地派だと思います。紅毛の大男で、鋼鉄の六尺棒を軽々と振り回します」
橘達瑪は腕組みをして考えた。紅毛・巨漢・聳地派――
「相当できるのか?」
「ええ、おれなんかじゃ到底かないません」
中原は広いが、江湖武林の世界は意外に狭い。「人の噂は千里」と言うが、できる侠の風評は、あっという間に広がるものだ。無論、悪行の類はさらに早く広
がるものだから、侠客たるもの面子を考えれば、あまり恥ずかしい真似はできない。
ともあれ、いくら頭をひねっても思い当たるものはない。有名どころの侠客ならば、たいてい頭の中に入れている――橘達瑪はそのつもりだったのだが、中原
には埋もれたる豪傑がまだまだいるということなのか。
「ぜひお引き合わせを願いたいな。くだんの王山而殿もこちらに来られるのか?」
「来ると思いますけど……あ、来ましたよ」
研坐崎と橘達瑪が店の入り口を見ると、小太りの商人と、天井にまで背の届きそうな大男が入ってくるところだった。厨房の奥から女将が顔を出し、商人に駆
け寄って頭を下げる。付き従うように後ろに立っていた王山而が店内を見回すと、研坐崎が立ち上がり、彼らに向けて手を振った。
頷いた王山而は、栗の肩を叩き、研坐崎らの卓へと促した。
栗は、卓の前に立つと腕を広げ、研坐崎に呼びかける。
「研坐崎殿、先に行ってしまわれるとは何とひどい。貴殿の侠客たる振る舞い、広く知らしめようといたしましたのに」
「いいえ、命をかけても人を助けるのは侠客として当然のこと。名を売るために修行を積んだわけじゃありません」
「もったいない。真の侠客ここにありと、顔を商売仲間に伝えたくありましたのに」
「代価であれば、鏢客としての報酬で十分です。着替えの服の準備もしていただき、夕食までご馳走となれば、既に私には過分のご好意。これ以上はとてもとて
も」
「欲がござらんな。ではその分、飲み食いしていただきましょう、嫌とは言わせませんぞ。……ところで、同席されてるご婦人は、知り合いでございますか?」
「ご婦人」などと言われて、橘達瑪は苦笑する。女扱いされたのは久しぶりだ。
「ご紹介遅れて失礼しました。こちらは私の師姉、橘達瑪です。達姉さん、こちらはおれが今回護衛した栗さんで、こちらがおれたちを助けてくれた王山而殿で
す」
紹介を受けた橘達瑪は立ち上がり、抱拳をする。
「『盤』の門人、橘達瑪と申します。この度は、不肖の弟子が色々とお世話になったそうで、感謝の言葉もございませぬ」
「いえいえ師姉殿、研坐崎殿の奮戦なくば、今頃私はここにこうしてはいませんでした。さすがは『盤』、頼もしい方々がそろってございますな」
「橘達瑪殿と言えば、飛刀術・弓術の達人『簾矢伎』の橘達瑪殿か?」
王山而の問いに、頷く橘達瑪。
「身に過ぎたる二つ名なれど、私は確かにその橘達瑪。寡聞にて、当方王殿の名は聞いたことがござらぬこと、申し訳もございませぬ。研坐崎からは、『できる
者』とうかがっております。この度は、わが師弟の危急を救っていただき、感謝いたします」
抱拳し、頭を下げる橘達瑪。王山而も同様に、抱拳と会釈を返す。
形式ぶった一通りの挨拶を終えると、ようやく一同はくつろいで、卓の椅子に腰掛けた。栗が手を上げ、かけつけた給仕に料理や酒を注文する。
「武侠の方々の挨拶というのは面倒なものですな」
「我ら武侠は人一倍面子を大事にいたします。だからこそ、礼儀を尽くせば、つまらぬ誤解や行き違いがあっても大事になることだけは避けられる――烏丸老子
の教えです」
「口の利き方がなってない、って、さんざん姉さんにぶん殴られたもんですよ」
「おまえは物覚えが悪すぎるのだ」
「だから一生懸命修行したんじゃないですかぁ」
「口のきき方からな」
口をとがらす研坐崎に、王山而と栗は声を出して笑う。
酒と料理が運ばれてきた。
「橘達瑪殿は、なかなかしつけが厳しいようだな」
盃を傾けながら、王山而が問いかける。
「研坐崎殿ならば、春霞閃空十六手以外の剣技も使いこなせるかと思うのだが。他の手や技はご伝授されなかったのか?」
「今も申し上げたように、この男は物覚えがあまりよろしくない。それでも、色々な手や技を教えはしたのだが……」
「春閃剣は、おれが一番最初に覚えた技です。一番信頼できますよ」
「この調子だ、王殿……そちらからも何か言ってやってくれ」
「ふむ、多芸に秀でるよりも一芸に通じるが良し、という考え方もある。もともとは女子供向けの春霞閃空とは言え、極限まできわめられたらどうなるものか。
なかなか見ごたえがありそうだな」
「やめてくれ。愚弟が調子に乗る」
「任せてください、達姉さん。オレ、春霞閃空十六手をきわめて見せますよ」
「その前に死んでも知らんぞ。亡骸を前にして、愚か者めと笑ってやる」
「そうしたら仇はとってくれますか?」
「……それなら既に間に合っている」
苦笑し、手酌で盃に酒を注ぐ橘達瑪。しまった、と研坐崎は思ったが、すでにきまずい空気が落ちてしまったように感じられた。
と、間を置かず、栗が何事もなかったように問いかけた。
「橘達瑪殿には、因縁ある相手がおられるのですか?」
「うむ。伊坂(いはん)という飛刀使いだ。黒装束に身を固めた、盗賊団の首領――私の村を襲い、村を皆殺しにした憎き仇。十数年も追っているが、未だに手
がかりがつかめずにいる」
やはり、あっさりと答える橘達瑪。研坐崎は内心で安堵しつつ、頭を下げた。
「すみません、姉さん。おれも手がかりはつかめませんでした」
「黒装束の飛刀使い……私も聞いたことはございませんな」
首を傾げて栗も答える。同様に、獣のような唸り声を立てた後、王山而も首を横に振った。
「おれも聞いたことはない」
「……だろうな。まあ悪党ならどこかで野垂れ死にでもしてるのだろうが」
また苦笑し、盃を傾ける橘達瑪。話が終わり、ほっとした研坐崎は、取り皿に鶏の餡かけやらその他の菜を乗せ、師姉の前に置いた。
「ダメですよ、姉さん。酒飲む時には、ちゃんと物も食べなくちゃ」
「なぜ貴様が、酒の飲み方を指図する?」
「酒ばっかり飲んでた人がぽっくりいったって話、聞いたことがあるんですよ」
「血色の悪そうな爺婆と私を一緒にするな」
「こういうのは日ごろからの注意が大事なんです」
「研坐崎……少しばかり名が売れたからといって、増長してはいないか?」
「おれは達姉さんに、少しでも健康でいてほしいだけですよ。それに、一瞬一瞬是修行って言ってたでしょ」
「生意気な!」
橘達瑪は、箸の片方を手に取り研坐崎の頬を打とうとした。が、すかさず反応した研坐崎も、手にしている箸を上げて師姉の攻撃を止める。
「……なるほど。伊達に中原をうろついていたわけではないようだ」
「さっきも言ったでしょ。男子たるもの三日あわざれば、って」
「同じ時間は、私の上にも流れているぞ……」
不敵な笑み同士が、しばし見つめあった後――
ものすごい速さで二人の箸が、互いに相手に繰り出された。
箸の先が渦を巻き、螺旋を描き、時には真っ直ぐに突き出され、薙ぎ払われ、しかしことごとく相手の箸の先に止められ、受け流され、跳ね上げられる。
攻防の番は瞬時にめまぐるしく入れ替わり、師姉と師弟の間で激しく箸の攻め手受け手が応酬する。箸がぶつかり合うたびに、カチカチと小気味良い音が鳴っ
た。
箸の規模の、数尺にも満たぬ間合いでの打ち合いだが、その動きは確かに剣撃の応酬、しかも、並々ならぬ功夫を積んだそれである。両者の箸の動きは疾風迅
雷の如く、栗の眼には残像を追いかけるだけで精一杯だ。
その攻防が十数手及んだところで、突然もう一膳の箸が伸びてきて、絡み合った箸先をがっちりとつかんだ。
「行儀が悪いぞ、『盤』の侠客よ」
王山而が少し呆れた顔をしながら、研坐崎と橘達瑪の箸を自分の箸で止めていた。
「食の席ではものを食え」
(確かに……相当できるな)
橘達瑪が、眼で研坐崎に語りかける。
研坐崎も、眼で頷いた。
四
その晩、研坐崎と王山而、橘達瑪の三人は、栗商人の好意で紫桜苑の中に泊めてもらうことになった。
翌朝、栗商人とその家族に礼を言うと、一行は町を出た。
「今日は鏢局には寄らないのか、坐崎?」
「今は御用待ちの人が結構いるようだと、栗殿から聞いてます。鏢客としてのおれの出番はありませんね」
「ふむ。やっと流離の鏢客から卒業できたか」
「またすぐに戻ることになりますよ……中原の旅は怖いですから」
「そうだな……かの黒帯武賊、早々に何とかせねばなるまいな。放っておいては、われら武侠の面子にも関わる」
「悪党と一緒にされては、おれたち侠客の恥ですよ」
昨夜の席は、その後侠客同士の煮酒論剣が繰り広げられた。身振り手振りを交えつつ、様々な流派の色々な手、技について長短を語り合い、時には笑いが起
き、時には真剣な議論が交わされた。
それらの話が一段落したところで、栗が感服して頭を下げたのだ。
口を開き、曰く「巷間に噂あり。黒帯武賊は武に通じ、すなわちやつらも武侠ならんか、武侠名乗る者は信ずるに足るか」と。
思わず椅子を蹴り、立ち上がった橘達瑪と研坐崎だったが、「その噂が根も葉もないこと、よくよく存じておりますが」と、栗はあわてて続けた。
だが、「根も葉もないが、無理もない」とは王山而が栗の後ろにさらに付け足した台詞であった。
現状を考えれば無理もない話ではある。並以上、時には人外とも言うべき体術と、一対多数をものともしないほどの武術を持つ者が、そうあちこちにいるとも
思えない。
それに、江湖武林の義侠の徒、などと威張ってみても、侠客とは力と血の気が有り余っている荒くれ者だ。力のない、一つところに腰を落ち着けているような
人々からすれば、危なっかしいことこの上ない。実際に、火付けや盗賊を働いているという侠客も少なくないのだ。黒帯武賊すなわち武侠、という認識は、世間
からすれば「ああ、やはりそうだったのか」という至極当然なものだった。
だが、同時に侠客とは人一倍面子にこだわる者たちでもある。盗賊ごときと一緒にされてはかなわない、という研坐崎の台詞も、侠客にとってはごくごく自然
なものである。
もっとも、昨日にその黒帯武賊と剣を交えた研坐崎にしてみれば、「黒帯武賊は妖怪悪鬼、人の形をしているだけ」と言いたいところではある。
「黒帯武賊討伐は、我ら侠客にとって喫緊の課題だな」
「『盤』に行って、烏丸老師に進言しましょう」
かくて、白井を出た研坐崎と橘達瑪は、今は「盤」への道を急いでいる。
もともと、橘達瑪も研坐崎も「盤」へと戻る予定でいたのだが、黒賊への対策が一刻一拍遅れれば、その分悪評が広まることになる。
となれば帰途をのんびり、というわけにもいかず、結局彼らは、「盤」への道を軽功を用いて急ぐ、という手段を取った。
ひとたび地面を蹴ればたちまち数間を跳ぶその様は、石の水切りのようにも、飛燕が低空を滑空しているようにも見える。 軽功を長時間用いて、長き道のり
を一気に縮める。これ「空歩」という。
が、異彩を放っているのは、研坐崎と橘達瑪の姉弟に付き添っている巨漢・王山而の軽功だ。その図体に似合わず、風に乗りつつ空を跳び進んでいる。研坐崎
と橘達瑪が飛燕と言うなら、王山而はさしづめ鷲鷹猛禽の如き様だ。
すれ違う、あるいは追い抜いていく街道の人々が、呆然としながら見送る中、一行は道中を急ぐ。
時折、頭上を跳び越されたことで難癖をつけてくる鏢客や侠客がいたりしたが、「盤」の名を聞き王山而の巨体を見ると怯みを見せ、「我ら武侠の面子に関わ
る大事なれば、疾く『盤』に急いでる最中。ご無礼の段はひらにお詫び申しあげるが、今はどうか、ご容赦を」と橘達瑪が抱拳して頭を下げると、「危急の用と
あれば致し方なし、こちらこそ足止めしたことお詫びする」と挨拶が返り、刃傷沙汰にはならずに済んだ。
さしたる事件もなく、白井より離れて数刻も経っただろうか。何百回目かの跳躍にて宙を跳ぶ橘達瑪が、
「一度休憩をしよう」
と提案してきた。
「ほう、連矢伎殿もさすがに疲れたご様子か」
「いやいや王殿。我が師弟の方がそろそろ限界の様子」
女侠に言われた王山而が研坐崎の方を見ると、すでに顔中には玉の汗が吹き出し、行過ぎた跡には流れた汗で、小雨ぱらつくが如くである。しかも、軽功跳躍
の勢いも、王山而と橘達瑪に比べて衰えが見えている。
橘達瑪は鴻毛舞い落ちるが如く、王山而は隼鷹降り立つが如く着地を決めたが、研坐崎は地面に足をつけた途端、空歩の勢いのまま地面に己が身を投げ出し、
数たび街道の上を転がった。
道の上、大の字に仰臥した研坐崎は、先日の黒帯武賊を追い払った後のように、大口を開けて喘ぐ。その傍らに、腕組みをして頭を横に振る師姉が立った。
「この程度の空歩でその様か、情けない」
「……すごいや、達姉さん……おれなんか全然かなわ
ない」
「感心するより先に立て。こんな所で寝てるんじゃない」
が、師弟の消耗は尋常ではないらしい。立ち上がろうと腕を立てても手が滑り、結局背が地面についてしまう。
橘達瑪は再度首を横に振り、深々とため息をつくと、倒れた研坐崎の両脇に手を差し込み、その体をずるずると引きずった。
――修行が足りぬ。五年間何をやっていた。剣技だけではなく内力も鍛えろと言っただろう。気持ち悪いな、一体何をニヤついている。そんな顔をするなと
言っているだろう。
ひとしきり文句や小言を言いながら研坐崎を道脇の立ち木の根元まで運ぶと、根を枕にするよう言いつけた。
だらしなく運ばれながら、ひとしきり小言を浴びせられた研坐崎は、注意された通りのニヤついた、妙に幸せそうな笑顔のままで、立ち木の根を枕に仰臥し、
ほどなく寝息を立て始めた。
のんきな男だ。すぐそばに腰を下ろし、師姉は何度目かのため息をつく。
「……これは、研坐崎についての認識を改めなければなるまいな」
ニヤニヤしながら、やはり根元に腰を下ろす王山而。
「どんな認識をどう変えるのだ、王殿」
「不逃不怯の剣侠・研坐崎。婦女子の剣技『春霞閃空』をよく振るい、その意気たるやまことの義侠、義のため己を顧みず――そう思っておったわ」
「……で、今言った認識はどう変わる?」
「稚気盛んなる剣侠・研坐崎。敵に向かえば勇猛果敢、仲間に向かえば隙だらけ、慕う師姉には赤子同然、小言の類は効き目なし――今はそんなところだな」
「なかなか小気味よい文句だが、赤子は飼い犬と言い換えても良い。……全く、この中原でよく今まで生き残ってきたものだ」
「そういう星の元に生まれてきているのだろう。運がいいことだ」
「その星がもう少し続いてくれることを願うな。そうでなければこいつは死ぬ」
「なるほど、飼い主殿としては心配というわけだ」
「……坐崎は愚かだが、犬畜生ではないぞ」
じろり、と猛禽の眼が王山而を射抜く。
「飼い犬と今さっきに言ったではないか」
「あれは言葉の綾。こやつは馬鹿で未熟だが、誰にも飼われぬひとりの侠客」
「失言だった。そう怒るな」
「また、同じく侠客たるこの私を飼い主呼ばわりとは何事か。この橘達瑪、人の首に縄つけて、相手を貶めるような真似などせぬ」
「分かった分かった。取り消す取り消す」
王山而が、なだめるようにして両の掌を振った。どうやらこの師姉は、師弟への揶揄の類は、自分で言うならともかく他人から言われるのが許せぬようだ。
険しい眼のまま、その師姉が師弟の寝顔を見た。幸せそうに転寝をしているその額を「お前がふがいないからだ」と指先で弾くと、研坐崎は「うぅん」と唸
り、師姉の方へと寝返りを打つ。
「油断と隙しかないな」
「師姉として情けない限りだ」
が、その寝息に耳を澄ませば、しっかりと内力鍛錬の呼吸法を行っている。
「実は起きているのではないか?」
「いや、寝ている。寝中にありて内力をめぐらせ、休みてなお練磨弛みなし。醒めて切磋、夢で琢磨、これ無間鍛の境地」
「余裕がない境地だな。おれはごめんだ」
「余裕のある人間など、この中原にはおるまいよ」
橘達瑪は彼方を見渡した。目前には街道が、そして中原の大地が広がっている。遥か昔に国が分かたれて以来、荒れ続け、荒らされ続けてきた中原の地が。
「強くなければ生きられぬ。ましてや人を守るというなら、練磨には一寸の停滞も許されぬ」
「故に、行住坐臥、全て修行の時とせねばならぬと?」
「そう望んだのは本人だ」
「春閃郎の守る者は誰だ?」
「理不尽な力に晒された、力なき無辜の人全て」
王山而は苦笑した。
「それは無理だな……誰にも叶わぬ願いだ」
「だが、そう信じ、願う者がいてもいい」
街道の果てに向けていた目を、傍らへと移す。視線の先には、内力の呼吸をしながら、無防備に休んでいる男がいる。
「いつかは師姉殿を守るようになるかも知れぬな」
「同じことを本人も抜かしたわ。十年早いと張り倒してやったがな」
その時、研坐崎が再びうなり声を上げ、目をこすりながら身を起こした。
「……おれ、どれくらい寝てました?」
「丸一昼夜だ」
「! そんな、本当ですか!?」
「……本当は一刻も経ってはおらん。本気にするな」
「達姉さ〜ん。勘弁してくださいよ」
「もういいのか? 無理しては元も子もないぞ」
「えーと……ちょっと待っててくださいね」
研坐崎は立ち上がると、数たび深呼吸をした。その後、確かめるようにその場で足を踏み、腕を振るい、足を動かして空を蹴る。
「……大丈夫です。いつでも行けますよ」
「ならば行くぞ。だが、無理はするなよ、坐崎」
「わかってますよ」
研坐崎が頷いたのを合図として、三人の侠客が跳躍した。
五
さらに空歩で道程を進めること数刻。
小休止より何度目かの跳躍の時に、研坐崎の目が異変を捉えた。
(む……)
次の跳躍の時に見えたものは、果たして乱闘の場面であった。
街道の彼方約四半里、数台の荷車を囲んで、手に得物を持った者たちがいる。その足元には、人が横たわっており、どう考えても寝ているようには思えない。
どうやら、昨日の自分と同じ目に、今日も誰かが遭っているらしい。
「達姉さん!」
そう呼びかけて師姉に振り向けば、「呼吸を乱すな」と叱責が飛ぶ。
「急ぐぞ、坐崎。やつらを討つ」
「分かっています……先行きますね!」
次に地面に降り立ったとき、研坐崎は深く身を沈め、低い姿勢のままで地面を走り出した。軽功を全開にした疾走は風を巻き、空歩で行く橘達瑪と王山而を引
き離す。
距離を詰めれば、その惨状はいよいよ確かに研坐崎の目に映る。
荷車の周囲に横たわる体には、ぐさりぐさりと剣や刃が突き立てられ、自身と地面とを真っ赤に濡らし、血だまりを作っていた。死者を弄ぶ賊らはそれに飽き
足らず、荷車を打ち壊し、積んであった荷物をぶちまけ、飢えた獣のごとき哄笑を上げていた。
それだけでも人の振る舞いではないというのに、賊の一人は死体にのしかかり、肉に歯を立てて貪りさえしている。
そして、賊のいずれもが、腰には黒い帯を巻いていた。
瞬間、研坐崎の背中を怖気が走った。が、その直後には、五体滾らんばかりの怒りが、その心身の中に満ちている。
(……この外道ども! 許さん!)
が、さらに目を凝らせば、荷車の荷上にはまだ一人生き残りがいるようだ。ぼろぼろの布を身にまとい、賊に囲まれ縮こまっているかに見える。
研坐崎は帯に手を入れ、飛刀を一本取り出すと、内力を込め投げ放った。
飛刀は銀光をきらめかせ、まっすぐに、一番手前の賊へと飛ぶ。
が、賊の体に突き立った飛刀は三本。別の二本は、師姉が放ったものに相違なかった。
(さすがは達姉さん!)
内心で感嘆しつつ、疾走してきた勢いのままに研坐崎は、三本の飛刀を胸に突き立てながらなおも立っている賊に斬りつける。
賊どもの只中に立つ研坐崎。己が位置と、敵たちの位置、気配を瞬時に確かめた直後、
「悪鬼妖怪ども! 許さん!」
という掛け声と同時に剣を抜き、「春霞閃空十六手」を繰り出した。
閃く刃、銀光が中空を躍り、血飛沫が霧となった。
剣の振り十余数を虚とし、同時に全身のバネと内力を高め、実の一撃を突き出す「暁光貫靄」。その虚であった剣の振りを全て実とし敵を切り刻む「風花逍遥
(ふうかしょうよう)」。剣を振るうと見せかけ、何十種類もの蹴り技を浴びせて敵を怯ませる「隘路砂塵(あいろさじん)」。
黒帯武賊のしぶとさは、昨日によく知っていた。故にこそ慎重を期し、並みの人間ならば三度落命して余りあるほどの剣撃を容赦なく叩き込む。
また、昨日に比べれば賊の数も多いが、橘達瑪の援護があるのはそれ以上に心強い。
体を躍らせ、剣を振るう研坐崎の後ろからは、嵐のような勢いで矢が飛んでくる。頭上や周囲で鳴る、ひゅんひゅんという風の音は、空を貫く鏃の立てるそれ
に相違ない。そしてその後には、「どすどすっ」という鈍い音が響くのだ。
風雨なる矢は、居並ぶ賊らの眉間、心の臓、喉などの急所に次々と突き刺さる。狙い外れは一発もない。
橘達瑪に与えられた「簾矢伎」または「連矢伎」の二つ名の意は、「矢の技優れたること、簾の如く密に飛ぶが如し」あるいは「矢が連なって飛ぶが如し」と
いうものである。師姉は無双の飛び道具使いで、飛刀も無論のこと、弩弓も凄まじい腕前だ。何より弩弓連射の技は、おいそれと真似のできるものではない。
強敵なれどその力よく弁え、数多けれど、無比なる助け。研坐崎の春霞閃空剣は、昨日の戦いの何倍も冴え渡っていた。
研坐崎の駆けつけた時には十人以上いた賊も、数瞬の内に三人が、その数瞬の後には半分以上が路上に屍となっていた。
が、春霞閃空十六手とは、全身を激しく動かし、跳んでは屈んで伸び上がる、ただでさえ体力を消耗する剣技である。いくら援護がある とは言え、敵の只中
四方八方からの攻撃を全て避け、斬っても斬っても死なぬ相手に必殺の剣技を幾たびも打ち込む業は、本人も知らず、疲労を蓄積させていたらしい。
下より体を伸び上がらせ、その勢いのまま縦横無尽に刃を走らせる「鶯梭雀躍(おうさじゃくやく)」の手を振るった時、軸足が賊の足につまずいた。
普通ならば崩れかけた体勢をすぐに整えられたはずだ。地面に倒れたとしても、手と頭で体を支え、倒立しながらでも腿術や剣撃を繰り出せたであろう。
が、この時の研坐崎は、それらのいずれも叶わずに、地面に転がってしまった。
しかも、反撃もできないうつ伏せの体勢で。
賊の数を減らしたとはいえ、残りは未だ4人いる。それらの残りにも、師姉の矢はそれぞれ十余本以上も打ち込まれ、血を流したり吹いたりしているのだが、
邪気に満ちた笑いはいまだ顔に張り付き、無防備にさらされた研坐崎の背に歯を剥いている。
「坐崎!」「研坐崎どの!」
橘達瑪と王山而の声が、背後より聞こえてきた。
その瞬間。
――おおぉん
間近でうめき声がした。
研坐崎の身に寒気が走った。
それは、絶体絶命の窮地に陥ったから、というものでは決してない。もっと心と体の奥から、心胆のみならず臓腑骨髄をも震え上がらせるようなものだ。
その直後、いまだ地面に伏臥している研坐崎の背後で、いくつかの音が鳴る。例えば、確かな武技が振るわれるとき特有の、中空を貫く 風の音。それらの技
が敵を打つ、骨まで砕く鈍い音。
そしてそれらのいずれの音にも、呻き声が重なっていた。それとも唸り声だろうか。
(……何が起きた?)
研坐崎が仰向けになって見上げれば、ひとりの影がこちらに背を向け、庇うように立っている。その影は、頭からぼろ布をかぶっていた。先ほど、荷車に縮こ
まっていた者に違いない。
腰を落とした構えなのか、それとももともと小柄なのか、背格好は子供のそれを思わせる。
だが、その周囲には、打たれたであろう胸を押さえ、のた打ち回る賊がひとり。いかなる技が振るわれたのかは知らぬが、頭を割られて血達磨と化し、地面に
倒れて動かないのがひとり。たたらを踏んでいたのがようやく体勢を整えなおした気配の賊が、数歩離れた位置に二人、立っている。
研坐崎の窮地を救ったのが、この人影であることは疑いようもない。
同時に、今も聞こえる「声」もまた、その人影から発していた。
(……特殊な呼吸法か何かか?)
「声」について、最初に研坐崎が思ったことはそれだった。
が、それにしてもあまりに不気味な「声」である。何より「声」は、ひとりふたりものではない。何人もの「声」が、十重二十重に重なっている。
――おおぉぉぉぉん
――ふしゅるるる
――ひゅおおおうぅぅぅ
その響きは、亡者の怨嗟を思わせる。ならば……
(それらを嘯(うそぶ)く影は、亡者を統べる鬼なのか?)
その時、飛刀を胴と手足に生やしたまま、賊が「鬼」へと躍りかかった。
数歩の間合いが瞬時に詰められたかと思いきや、「鬼」の右足が跳ね上がり、頭上から振り下ろされた刀の刃を蹴り上げる。
今しも振り下ろされようとした刃が、行き場をなくして空に踊る。その間に、蹴り上げた脚は、鞭のようにしなって賊の顎を抉り、直後、軸足を中心に体が一
旋、右踵が賊の左肩口に叩き込まれた。
叩き込まれた踵の勢いは、賊の左鎖骨を断ち折ったにとどまらず、肺腑にまで達した。今しがたまで「肩」であった半身で、血の花火が咲き誇った。
のみならず、己が足首がめり込んでいる賊を踏み台にして宙に跳び、紫電の如き飛び蹴りが、最後の賊に伸びていく。
その蹴りが賊に当たった時、研坐崎はさらに目を見張る。
賊の胸部に吸い込まれていった一撃は、研坐崎の腹に響くほどに太く低い音を鳴らし、標的の腰から上を爆ぜさせたのだ。
(なにっ!?)
身体の消耗も忘れ、研坐崎はその場に跳ね起きる。
「鬼」は地に降りた後も、数間ほど砂塵を巻き上げて地面を滑ってから、やっと止まった。
気がつけば、辺りは血染めの地と化している。が、赤の版図を広げたのは、最後の人外なる腿法だった。
(……あんな蹴り技……どんな鍛錬をすれば……)
速さが紫電と言うのなら、当たった音はあたかも遠雷、その威力ならまさしく稲妻落ちるがごとし。鬼かと思ったその正体は、実は降臨せし雷神なのか――
だが。
亡者愁傷するを思わす不吉な唱声は、絶ゆることなく響いている。それは天より降ったものとは思えぬ、あまりに不吉な声である。
その、「鬼」とも「雷神」ともつかぬ姿が、「うぅっ」という紛れもなき人のうめき声を上げ、がくっ、と膝をついた。
声は確かに人のものだ。ぼろ布を体に巻きつけながら、その場に崩折れようとする様は、あまりに痛々しいものだった。
死者の嘯きは相変わらずだが、それこそ悪鬼亡霊の類が今にもその人――「鬼」ではなく「人」、しかも命の「恩人」――を連れて行かんとするかに見える。
不吉なる「声」への心地は、怖気から怒りへととって変わる。研坐崎は消耗した体を立ち上がらせて、「恩人」のもとへと駆けつけた。
「大丈夫ですか!?」
ぼろ布がきつく巻かれた肩に手を伸ばす。触れてみれば、氷のように冷えている。さらに言うなら、今しがたに見せた武功からは想像もつかない、骨まで掴め
てしまえそうな、あまりにか細く頼りない肩である。
その冷たさは、温もりをなくした骸の冷たさを連想させた。が、それらの思いを断ち切って、研坐崎は「恩人」の肩を揺する。乱暴にならぬよう、力の加減に
は気をつけた。
「もしもし、しっかりなさって下さい!」
「う……」
(ひゅるるるる……)
(しゅうぅうううぅぅ)
返事の代わりに返ってきたのは、今にも絶えそうな、呻きまじりの「人」の声と、やはり不気味な嘯きである。
「失礼します」と言ってから、研坐崎は「恩人」の体のあちこちに手を伸ばす。肩のみならず、背、脇腹そして頭、触れてみればいずれもが凍えんばかりに冷
たかった。
――人体を貫く経絡の内功が、その流れを違えてしまうと、外傷がなくとも死ぬことさえある。研坐崎にも、点穴を突いて内功を整えさせる術には多少の心得
があるものの、全身氷と化したような症状など今まで見たことも聞いたこともない。
研坐崎は来し方に目を向けた。見れば、軽功を駆使して橘達瑪と王山而がこちらへ駆けつけて来る所だ。茶一服程の間もかかるまい。
あのふたりほどの達人ならば、「恩人」の窮地も救えるだろう――そう判じた研坐崎は、冷え切った恩人の肩や背中を掌でさすり始めた。
「大丈夫ですから、今、治せる人が来ます、良くなりますから、大丈夫ですから!」
「……おび……」
亡者たる嘯、ごしごしと体をさする音、研坐崎自身の息遣いに紛れて、辛うじて「恩人」の声が聞こえた。
慌てて研坐崎は手を止めて、「恩人」に耳を寄せる。
「……今・・・…何と?」
「おび……帯……帯を外して……」
「帯を、外すんですね?」
そう問いかけると、「恩人」は小さく顎を揺らす。
体を楽にするために、帯を緩めるというのは分かる話だ。が、「恩人」が頭から被っている襤褸布には、帯らしいものはどこにも見当たらない。
となれば、ぼろ布の下に着ている衣服の帯を緩める、という事なのだろう。研坐崎は再び「失礼いたします」と言って、恩人のぼろ布に手をかけた。
「恩人」は、ぼろ布を「被る」というより「身に巻きつけている」という風情であったが、研坐崎が引っ張ると簡単に剥ぎ取られてしまう。
ぼろ布の下から現れたのは、汚れた白髪だった。
身にまとっている衣服は、まとっていた布以上にさらにあちこち汚れ、破け、破れたところからはがりがりにやせ細った手足、シミの浮き出た肌が見られる。
肩の後にいるので顔はよく見えない。
そして、衣服の腰の部分には、真っ黒な帯が巻かれていた。こちらはさらにぼろぼろの、いくつもの布をつなぎ合わせ、無理やり「帯」にしたような代物だ。
研坐崎は息を呑んだ。が、冷静に考えれば、黒い帯というのは普通に考えてそう珍しいものでもない。
(黒帯武賊は、黒い帯を締めている。すなわち黒い帯を締めていれば、黒帯武賊、ということにはならないだろう)
そう自分に言い聞かせて、腰の後で結わえられた蝶々を解いた。
力任せに強く引けば帯は簡単に外せるだろう。が、立ち上がるのにも難儀していそうな老人に、それはあまりに乱暴な話だった。「恩人」が転んだり、悪くす
ると、そのまま腰椎あたりがぽきりと折れてしまうのではと、研坐崎は本気で心配した。
研坐崎は三度「失礼します」と言ってから「恩人」の背中に腕をあてがいつつ、もう片方の腕で前から「恩人」の体を押した。あくまで乱暴にならないよう
に、力の加減を注意する。
かくて、「恩人」の体は、研坐崎の腕に仰臥することとなり――その顔を見た瞬間、「ひぃっ!」と小さく悲鳴を上げた。
六
老人――それとも老婆だろうか――の顔に刻まれた無数の皺や、無数の染みが醜かったというのでは決してなかった。
半分閉じた瞼の下から覗く目が、爛々と真っ赤に光り、眦からは赤い筋が頬に伸びている。あちこち欠け落ちている歯は食いしばられ、ぎりぎりという音が聞
こえてくるかに思える。先から聞こえる不気味な嘯声も相変わらずで、間近に来れば、それらが腕の中の人物から鳴っていることがいやでも分かる。
まるで血の涙を流し、この世の全てを嘆き悲しみ、恨んでいる亡者であった――が、研坐崎が怯んだのは一瞬だ。
(例え悪鬼亡霊の類であったとしても、「恩人」であることには代わりはない)
腰にまだ巻きついている黒帯に手をやり、やはり力の加減を注意しつつ引っ張って解く。
すると、亡者たる嘯声は掻き消え、「恩人」の眼の赤い光も、その眼から伸びていた赤い筋も消えてしまい――
「恩人」の体からは力が抜けて、研坐崎の腕の中でぐったりとしてしまった。
研坐崎は慌てた。地面に帯を放り出し、転げ落ちそうな「恩人」の体を両手で支えた。
「大丈夫か、坐崎?!」
ようやく駆けつけた橘達瑪に、研坐崎は首を振った。
「体が、体が冷えてるんです!」
「何!? 点穴でも突かれたか!?」
「分かりません、今は気を失ったみたいで……」
そこまで話して、橘達瑪は顔をしかめる。
「……誰の話をしているのだ?」
「もちろんこちらの恩人ですよ! 体が冷えて、不気味なうめき声がして、あと……」
色々言い募ろうとして何を言いたいのか分からないが、どうやら師弟は大丈夫らしい――安堵の息をついてから、橘達瑪は研坐崎の腕の中でぐったりとしてい
る「恩人」にあちこち触れてみた。
肌は死人のように冷たいが、喘ぎ気味とはいえ呼吸もあるし、脈もある。点穴をついて内力の流れを調節し、胸に掌を当てて自分の内力を送り込む。
(何という内功の乱れだ)
橘達瑪は動揺した。思わず自分の呼吸が乱れそうになるのを抑える。
掌から感じる「恩人」――橘達瑪にとっても、不肖の弟子を救ってくれた恩人だ――の内功は、すさまじい乱れを見せていた。
武術家が、気功の危険な鍛錬に挑戦、失敗して体調を崩すことはよくある。これらは時として命に関わることさえもあり、橘達瑪もまたそういう場面を何度も
眼にし、時には自分で会ったりして死にかけたこともある。
が、それにしても、異常であった。人ひとり消し飛ばすほどの蹴り技に求められるのは、尋常ならざる内功と外功であろう。しかして目前の恩人は、何かを蹴
れば脚の方が「ぽきり」と折れてしまいそうだし、気功の「き」の字もできるかどうかという体躯。
こんな体に、少しでも強い内力が流れれば、調子が変ずるのは確かに道理。だが、
(……どうしてあんな蹴りを出せたのだ?)
「爆雷蹴」「爆雷腿」とでも呼ぶべき技を放つ力は、一体どこからやって来たのか――
一刻ほどの時間を経て、「恩人」の呼吸は、ゆったりとした穏やかなものへと変じた。
掌を離し、息をつく橘達瑪。先刻のように、道の脇に出てから、腰を下ろす。気がつけば、肌がうっすらと汗ばんでいる。相当消耗したようだ。
「……今度は私が休まねばならんな。この御仁、凄まじく気が乱れていた」
「こちらの方は、助かるのですか!?」
「まあ大丈夫だろう……あの鬼神のような蹴りを放たなければな」
鬼神――研坐崎は恩人の顔を見下ろした。
「知らぬ流派……いや、流派の問題ではないな」
黒賊と、その手にかかった者らの骸を道脇に運びながら、王山而が口を挟む。
「武術極まればすなわち仙術の域に到り、その技まさしく鬼神の如し――とはいうが、それほどの達人であれば何かしら世には知られておるはずだ。この御仁は
何者なのだ?」
「仙人でも鬼神でもいいじゃないですか。それ以前に、こちらの御仁はおれの恩人、紛うことなき義侠の士です」
師姉と王山而、何より自分に向かって、研坐崎は言い聞かせた。
研坐崎の脳裏には、恩人が見せた形相が浮かんでいた。眼を赤く輝かせ、血涙の筋隈を頬に伝わせた、鬼神というよりは悪鬼死霊の形相。
その映像を、研坐崎は脳裏から追い払おうと努めた。
――夢を見ていた。
幸せだった頃の夢だ。
父に率いられ、自分達は人里離れた山奥へと分け進んだ。
そして森林の一画を切り開き、そこに家と、畑と、皆が寝起きできる程度の家を作ったのだ。
それらは楽な作業ではなかったが、父の凄まじい武術は大いに役立った。掌の一撃で大木を切り倒し、大地を踏みしめる震脚で、根を張っていた切り株を吹き
飛ばした。
そんな父の姿は、とても頼もしかった。みんな、父を信じていた。
父は言った。
(今日からここが、わしらの家だ)
(今、我々はあまりにか弱い。下界にあっては、夜盗や賊に殺されてしまうだろう)
(今は、ここに隠れよう。そして、ここで暮らし、強くなろう)
(生きるための、強くなるための方法を、わしがお前達に教えてやる)
(この世には、死んでもいい命、死んで仕方のない命などあってはならない)
父の教えるまま、自分達は畑に種をまき、作物を育てた。
森の中の、食べていいものと悪いものとを選り分けた。
罠をはり、野獣や野鳥を捕らえた。
そして、どんな野獣よりも恐ろしい「人間」と戦うために、言われるままに武術を鍛えた。
父を信じていた。仲間を信じていた。
(わしらはもっと強くならねばならん。もっと早く、強くならなければ生きてはいけない)
(その方法を、わしは探しに行く。案ずるな、わしは必ず戻ってくる)
(わしのいない間、森から出てはならぬ。鍛錬と、畑仕事、怠ってはならんぞ)
ある日、父はそう言って姿を消して――そして――
がたん、という揺れで、彼女は眼を覚ました。
目前には、真っ赤に染まりかけた――血のような空がある。
がたがたがた、という規則正しい音と揺れ。眼を瞬かせ、顔を起こす。
「気がつかれましたか、恩人どの」
足元から声がした。目を向けると、青年がひとり、こちらに注目している。
周囲を見る。荷物の山。その山の中に埋もれるように、自分もまた荷車に載せられている。
足元の青年は、まだこちらに注目しながら、彼女の乗っている荷車を押していた。
この青年は――
(ああ、そうだっけ――黒い賊を倒そうと駆けつけてくれたんだ)
それで、青年は途中で窮地に陥り――
(その時になって、やっとあたしは――)
彼女はハッとして、自分の腰に手をやった。腰には帯は巻かれてない。思わず上体を起こすと、肩に乗っていたものが、自分の膝の上に転がった。
転がったものは、折りたたまれ、まとめられたぼろぼろの黒い帯だった。慌てて両手でつかまえて、胸の中に抱きしめる。
(……ひゅるるる)
(……しゅうぅぅぅぅぅ)
微かな嘯きが、胸と、手に伝わる。
「よほど、大切なものなのですね」
青年が言った。眼をそらし、前を見つめながら荷車を押す。
彼女は口を開こうとして――何も言えなかった。
訊きたいことが山ほどある。が、どれから訪ねていいか分からず、「あ――」という声を洩らすことしかできなかった。
その声は、年老いた老婆のものだった。掠れてて、はっきりしない――
すると、青年が再びこちらを見て、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「あなた様が助けてくれなければ、この研坐崎は命がありませんでした。あなた様こそまことの義侠の人」
義侠の士――ぎきょうのし。
研坐崎という青年が、お礼を言っていることは分かった。どうやら自分を褒めているらしいことも。
ただ、彼の言ってる事に、わかりにくい所があった。滑舌があまりよくないけども、言ってる事が聞き取れないというわけではない。
(ぎきょうのし、って……何?)
その問いかけをする前に、
「恩人どの、どうかお名前を教えてはいただけませんか」
と、質問される。
彼女は口を開いた。声を出そうとしても、口から出るのは「ひゅう、ひゅう」という吹きそこなった笛のような音しか出ない。
胸と腹に力を入れて、やっと彼女はしゃがれた声で名乗ることができた。
「さい、もう。才孟」
「才孟どの、とおっしゃいますか」
彼女――才孟は頷いた。
「ありがとうございます、才孟どの。助けられた恩、この研坐崎、生涯決して忘れませぬ」
ふたたび、研坐崎という青年はお辞儀をした。
「あの、研坐崎、さん?」
今度は才孟の方から呼びかける。やはり、しゃがれた老婆の声。
「何でしょうか、才孟どの?」
「今、この荷車は、どちらに」
「『盤』ですよ。才孟どのの行き先も、『盤』で間違いはありませんよね」
才孟は頷き、再び研坐崎に問いかけた。
「あの、『盤』の一番偉い人に、会うことはできますか?」
「もちろんです。武の達人にして、命の恩人たる才孟どのを、どうかご紹介させてください」
「才孟どの、とおっしゃったか?」
今度は自分の背後から野太い声がした。振り向くと、紅毛の大男が荷車を引きながら、こちらに目を向けていた。
「一体『盤』に、どんな御用かな?」
探るような鋭い目つき。まるで、視線だけで射殺すような。
才孟は、一瞬怖気で身を縮こまらせる。が、骨と皮ばかりの腕で抱きしめた帯の感触が、彼女の奥底から力を湧き上がらせた。
深くて黒く、そして激しい力が――
「『盤』に……助けて欲しいんです」
しわがれた声を振り絞り、才孟は言い放つ。
「仇を……取るのに力を貸して欲しいんです」
「分かりました、才孟どの。この研坐崎、いくらでも力を貸しましょう」
どん、と研坐崎が自分の胸を叩いた。
「才孟どのの仇の名は?」
「本英世(ほんえいせい)――いえ、屍開道人(しかいどうじん)」
「その名」を口にすると、全身に力がみなぎる心地がする。
暗くて深い――その正体は、怨みと憎しみ。
その力がこの身を焼き尽くすのならば、その炎で必ずあいつも滅ぼしてやる――
「あたしたちの、父です」
(巻之二へつづく)