序章

 やりきれない仕事ではあった。
 人が死に、それを残された人に報告し、残された人の悲嘆につきあい、ともにその死を悼む。
 気が重い仕事だ。ある程度割り切り、他人の悲しみなどは正面から受け止めない方がいいのだろう。
 が、橘達瑪(きつたつま)にとっては他人事ではなかった。
(……村を、盗賊に皆殺しにされた身とあってはな)
 橘達瑪は、酒の注がれた杯を揺らした。
 白井(はくせい)の町、夜の紫桜苑(しろうえん)。だが、酔客でにぎわう店内の喧騒は、遠い。
 店の片隅の卓についた彼女の姿は、昨晩と同じだ。いざとなれば、いつでも卓を蹴り上げ、懐中の飛刀を投げ打ち、腰の剣を抜き放つことができる。
 ――今朝に師弟の研坐崎(けんざき)と、王山而(おうさんじ)とともにこの町を発ち、『盤』へと向かう道の途中で、賊に襲われている隊商を見つけた。
 駆けつけた時にはひとりを残して隊商は全滅。真っ先に現場に着いて剣を振るった師弟も危うく死にかけたが、隊商唯一の生き残りの老婆――多分女だろう ――に助けられた。
 隊商も、やはり『盤』へと向かう途上だった。『盤』の人間としては、その骸をただ放っておくというわけにもいかない。その死を彼らの身寄りに報告しなけ ればならなかった。
 その任は、橘達瑪が自ら言い出し、買って出たのだが――
 六人分の家族の悲嘆、愁嘆に立て続けに立ち会えば、さすがに陰々滅々たる心地になる。
(我らの責――なのかもな)
 考え方を変えてみれば、研坐崎が空歩ごときで消耗せず、途上で休憩など取らなければ、かの黒賊の襲撃を止められたかも知れない。
 そうなれば、かの隊商を死なせたのは自分たち、ということになるだろう。
 ならば最も罪深いのは誰か? 休憩のきっかけとなった研坐崎が悪いのか? それともそれを言い出した己なのか?
(……仕方ないことだ)
 橘達瑪は酒を一口すすった。苦笑はしなかった。人の非業の死は、笑ってはならぬと思ったからだ。
 跋扈する盗賊、理不尽に殺される人々。無法たる中原ならば、そんな事はありふれている。それでいいとは思わないし、止められる不幸や災いであれば止めた いとは思う。弱きを助けるのは「侠」の役目だ。
 だが、中原の盗賊全てに目を光らせることなどできない。人の力には限界がある。止められない死、止められない悲しみは、どうしても存在する。
 それらは――
「仕方ない……か」
 杯を揺らす手が、止まる。
 自分の村が滅ぼされたのも、「仕方のない」ことだったのだろうか――
 昔は、こんな事を思いつきもしなかった。憎き仇の「孔雀党」と、その首領の伊坂を必ず血祭りに上げると、心身滾っていたというのに。
 湧き上がるのは、身を焦がすような殺意と憎しみ。染みとおるような悲しみなぞ、感じる余裕はなかったというのに。
(私は――私はいつか、忘れてしまうのだろうか?)
 あの非道を。あの理不尽を。悲鳴と断末魔と、むせ返るような死臭と血の匂いを。
 食いちぎりそうになるほどに噛み締めた唇を。唇から流れた血の味を。涙も出ぬほどの悲憤と、声にもならなかった絶叫を。
 ――忘れられるはずもない。
 だが、感じる怒りや憎しみは、確実に薄らいできている。
 それも仕方のないことなのだろうか?

「失礼。ご相席を、よろしいか」
 声をかけられたのは、そんな時だ。
 いつの間にそこに立ったのか。昨夜に研坐崎が来た場所に、今度は道士らしい男がいる。
 払子の房をそのまま顔に付けたような白い髭に、兜巾を結った真っ白な髪の毛。眉毛までもが白い。
 ただし、まとっている服は闇を切り取ったような黒。
 橘達瑪は一瞥した後、「好きにしろ」と答えた。
 されば、と道士は答え、やはり研坐崎と同じく女侠の向かい側に座る。
 最初に橘達瑪が感じたのは黒白の色の対照に、「陰陽を気取ってでもいるのか」ということ。
 次に感じたのは、白い髪と髭から眼だけがのぞいている顔が、いかにも胡散臭い、ということ。
 そして、最後に思ったのが「只者ではない」という印象だった。
 椅子を引いて腰掛けるという動きには、体の芯のぶれがなかった。
 さらに言うなら、いくらこちらが物思いに沈んでいたとは言え、気配を感じさせずに一間以内の間合いに入ってきた。すなわち隠行の技に長けており、それ は、それなりの場数を踏んでいるということだ。
 例え無法の中原と言えど、「自分の気配を隠す技」を必要とする者は、やはりある程度特殊な部類に入ろう。例え「武侠」とくくってみても、弟弟子の研坐崎 には、まず縁がない技だ。
「『盤』の橘達瑪どのでござるかな?」
「誰何するならまず名乗るのだな」
「これは失礼致した。拙者、本英世(ほんえいぜい)と申す」
 脳裏で名を探る。心当たりはない。
「……いかにも私は橘達瑪だが。何用か?」
 「礼を重んじるべし」――『盤』の教えではあるが、「怪しきには用心」というのもまた護身の基本。橘達瑪にしてみれば、胡散臭い相手に「いきなり追い払 わなかっただけ、まだ礼儀をわきまえている」といった所だ。
「仇を探している、と聞いております。盗賊団『孔雀党』の頭領、黒衣の飛刀使いの伊坂(いはん)……でしたかな?」
「……それが、どうした?」
 静まっていた心が騒ぐ。
 同時に、安堵する己がどこかにいる。「自分はまだ死んではいない」、と。
 そしてまた、「まさか」という――今までも、そうした数だけ裏切られてきた期待。
「あやつの居場所を存じております……私ならば、ご案内もできますが?」
 揺らいだ警戒の間隙をつき、道士の言の葉は女侠の中に滑り込んできた。
 女侠の中に、確信が生まれた。
 この機会が、自分にとっては最後のものになるだろう。
 これを逃せば、自分はもう伊坂を追いかける気力を失う――
 橘達瑪は、手の杯を卓の上に置き、身を乗り出した。
「詳しい話をうかがおう、道士どの」
 橘達瑪は、目前の道士の眼の輝きに、怪しい何かが宿っていることに気がつかなかった。
 それは、「腹に一物あり」「胸に含むものあり」という意味のみならず、この世ならざる妖なる光もあったというのに。

 鋼は鍛えられて剣となり、刃は研がれていよいよ切れ味を鋭くする。
 広刃の剣は戦の中で振るわれ、瑕疵にまみれた刃は鈍る。
 戦いの後、振るった剣を研ぎ直すこと既に数千を数える。
 剣の刃はなお鋭く、しかしてその身は針の如し。


 一

 街道の向こうに、赤土色の壁が見えてきた。
 その外観は、「村」「町」の程度ではなく、「街」あるいは「都」といってもいいものだ。
「壮観だな」
 荷車を引いていた王山而(おうさんじ)が洩らした。
「まるで城だ」
「もともとかなり大きな街だったそうですからね、『盤』は」
「なるほど。拠点の器としては適しておったということか」
 ふん、と鼻を鳴らす王山而。
 荷車を後ろから押す研坐崎(けんざき)は、小さく溜息をついた。
 中原に名を知られている武の門派『盤』。ただ、その在り方は少し特殊な所がある。また、名を知られていることは、時として非難や批判の対象になることも 意味している。
 自分の故郷を悪く言われるのが面白いはずはない。が、「他の門派と波風を立てぬように」というのも、他ならぬ『盤』――いや、姉弟子からの教えであっ た。
(「私に怒らず、他と公のために怒るべし」――弁えてますよ、達姉さん)
 鏢客としてあちこちをさすらっていた時にも、こういうやり切れぬ気持ちを感じたものだった。が、その度に研坐崎は、胸中で姉弟子に語りかけていた。
 行い過たずば、誤もまた真に改まるべし――侠としての行いが誤っていなければ、誤解はいつか解けるもの――
(これらは確かに奇麗事だ)
 橘達瑪は言ったものである。
(だが、奇麗事こそが「義」だ。「義」を信じ、貫いて生きることが、侠の侠たる由縁なのだ)
(義侠の生き様は、人々に生きる力を与える。お前が人を守りたいと思うなら、片時も義侠たることを忘れてはならん)
 そうとも――自分はそうして生きてきた。これからも、そうして生きる。
 今は、自分を救った恩人に報いるために――
「才孟どの。『盤』です。『盤』が見えてきましたよ」
 研坐崎は、荷の山に向けて呼びかけた。
 荷の山の中、うずくまっていたボロ布の塊が身じろぎする。
 難渋しながら顔を上げ、荷から前をのぞくと、「あぁ――」という掠れた声が上がった。
「もう少しの辛抱です、才孟(さいもう)どの」
 そう言ってから、研坐崎は自分達の来た道を振り返った。
 人の姿は見当たらない。
(達姉さん……どうしたんだろう?)

 『盤』――中原の片隅に拠点を構える武門の一派。また、その拠点が構えられた街の名前。
 今を遡ること四〇年程前、神域に至る気功の達人・烏丸老師と彼の弟子達によって、練才府(れんざいふ)という街の元・役所の中に立ち上げられた。
 もともと練才府は、国が分かれる大乱の以前より、中原の要所のひとつとしてなかなかに大きな規模の街ではあった。しかし、国乱れ、東西に分かたれた王朝 のそれぞれが、中原を戦場としてしかみなさなくなってから、多聞にもれずこの街の治安も荒れた。役人崩れの盗賊や、盗賊崩れの自称・役人たちが代わる代わ るに街の長官を名乗り、街に住む人々は苦しみ続けた。
 そんな状態が百数十年余り続いた果てに、ふらりと現れた武の達人らが奸賊らをなぎ倒し、のみならず、練才府を人の安心して住める都とするため、様々な策 を実行していったのだ。
 まず、信頼できそうな人物を選んでの保安隊の設置。その人員への武術の伝授。
 さらに、その中から見所のありそうな者を選んでの、鏢客の育成。そして鏢局を設けての、街道旅行者の安全の保障。
 他にも、長い間省みられることの無かった、大乱以前の律法の復活や整備なども行ったが、重点が置かれたのは武術使いの育成、それも、「正しい心を持った 武術使い」の育成だった。
 技の鍛錬と同じ密度で心の鍛錬が行われ、修身・道徳の書物が読まれた。また、古今東西の英雄物語が語られ、(それなりに脚色されてはいただろうが)仁や 義、忠や孝に生きた人々の生涯は、鍛える者の中に目標として焼きついた。
 清く正しく強く――そういった人物の活躍は、練才府の中だけではなく、周辺の街や村にまで広く聞かれるようになった。
「正道を往く義侠の士、
  ここより中原に飛び立つべし。
  乱れたる世を正すまで、
   我ら正義の基盤たるべし」
 烏丸老師らのその呼びかけより、練才府という名も『盤』に改まった。
 これらの点だけでも、武の門派としてはかなり特殊な部類に入るが、さらに特殊なのは他の武門の技も、自分達の技に躊躇なく取り込むという点である。
 『盤』を開いた者達は、もともと全員が武芸百般に通じていた。が、おのれの流派に拘泥することは無く、他の門派の技を見聞きすることがあれば、それを会 得して自分のものとしてしまい、さらなる改良や改変を加え、時には全く別な技とさえする。
 無論、それらは『盤』の門人達に伝えられる――このようにして『盤』が取り込んできた技は、単に拳を突き出す一手から、門派秘伝級の超絶奥義に至るまで 数十を数え、基本の技程度であれば、中原の武術の全てを網羅していると言って良い。
 この特徴は、中原の他の門派から、ある疑念を起こさせずにはいられなかった。
「『盤』は、中原の武林(「武術界」程度の意)の統一を狙っているのか?」
 技盗人――それもまた、『盤』に向けられた印象である。
 他の門派の技の研究は、すなわち、その門派が抱える弱点を探し出す、ということでもある。自分の流派の技には隙がある、などとは口が裂けても言えない。 が、たとえ拳の一撃や剣での刺突、振るう刀の一手だけでも、『盤』に流入されてしまった武門にとっては何とも落ち着かないことではあった。
 いまや、『盤』の門人は三桁にも届く勢い。また、研坐崎のように鏢客として各地で名を上げ、武名を知られる者も少なくない。巷間での『盤』の評判は上る 一方。「中原を救うのは『盤』かも知れぬ」という声までが人々から聞かれる昨今。その点も、『盤』以外の門派としては面白かろう筈がない。
 「『盤』は何事か企んでいるのだろう」……研坐崎もまた、何度もそういう質問をされて来た。もちろん烏丸老師やその側近は「そんなつもりは毛頭ない」と 答えているし、研坐崎自身も何度もそのように返してきた。
だが、疑念を持った人々のそれは、そう簡単に消えてはくれない。
 その度に研坐崎は、こう自分に言い聞かせている。
(行い過たずば、誤もまた真に改まるべし――侠としての行いが誤っていなければ、誤解はいつか解けるもの――)
 彼はそれを信じていた。その言葉もまた、橘達瑪が教えてくれたことだからだ。

 壁が「城壁」というならば、その門は「城門」と言って良いだろう。
 その「城門」の両袖にはいかにも「城の門」らしく、槍を構えた門衛が数人ずつ立っている。
 一行が門前まで来た時、門衛のひとりが研坐崎の顔を覗き込んできた。
「研坐崎か?」
 訊ねてきた門衛の顔をしばらく見つめてから、研坐崎は破願して相手の顔を指差した。
「瓶啓……乙瓶啓(おつへいけい)か!?」
「そうだよ! 忘れていたなこの野郎!」
 槍の柄が軽く突き出された。
「五年ぶりなんだから仕方ないだろう!?」
 笑って研坐崎は手首を返し、柄を払いのける。
 かっ、という音が鳴り、払いのけられた槍は外側に大きく振れた。
 「くっ」と声を洩らし、乙瓶啓は顔をしかめる。
「……なるほど。評判は伊達じゃなかったようだな」
 その手には、びりびりとしびれが伝わっていた。
 慌てて頭を下げる研坐崎。
「す、すまん。大して力を加えたつもりは無かったんだ」
 しかめた顔に、乙瓶啓も何とか笑みを浮かべる。
「……分かってるって。この五年間で、本当に強くなったな」
「お前もな……『盤』の門番任されるなんて、すごいじゃないか」
「お前の春霞閃空剣にはかなわんだろうよ。評判は何度も聞いてるぜ」
「おれにはそれしかないだけさ」
「……良く帰ってきたな」
「ああ」
 お互いに軽く拳を突き合わせた。今度は研坐崎も手加減した。
「晩には一緒に酒でも飲もう。後で家に来い」
 手を振る乙瓶啓を後にして、研坐崎達は門をくぐり、『盤』の町の中に入った。
「……同郷の者がいたとはいえ、意外と簡単に入れるものだな」
 荷車を引きながら、王山而が門を振りかえる。
「盗賊なども案外簡単に入り込めるのではないか?」
「『盤』の門番の目は節穴ではありませんよ」
 再び荷車の後ろに回り、押しながら研坐崎は答えた。
「世の中には善人にしか見えない悪人もいるものだ。浮世は油断ならぬもの、中原となればなおさらだ」
「ここで悪さをしようものなら、あちこちから文字通りに人が飛んできますよ。私以上の使い手なんて、いくらでもいます」
「果たしてそうかな?」
 王山而としては、春閃郎・研坐崎を高く買って口にした言葉だったが、
「『盤』を侮辱されますか?」
という少し怒気を含んだ口調に「そういうつもりではなかった、取り消す取り消す」と取り繕わねばならなくなった。
(研坐崎とは、意外に難しい人間なのだな)
 それとも、妙なところで気難しいのは師姉ゆずりということなのか?
 ふう――息をつきながら、王山而は周囲を見渡す。
 もともと大きな街というだけあって、門から入ってすぐの場所は、ちょっとした広場になっている。そこから街区に入っていく道も幅が広い大通り。大通りの 正面、四半里ほど進んだ先には、蒼穹に映えた朱塗りの大きな門構えが見える。
 眼を細める。王山而の眼には、門の下に墨で大書された『盤』の文字が見えた。
(……なるほど。いざとなれば、まっすぐに人が飛んでくるわけだな……)
 まっすぐに見渡せる。という事は、異変があれば察せられ、この大通りを駆けて――いや、軽功使いならば空を飛んでくるのだろう。
 地を駆け、空を飛ぶ数々の手練れたち。もしそんな時があれば、さぞかし見物の光景であるに違いない。
 そして――その数がある程度以上揃えば。そして、侠客の武力を熟知した者が、それを束ねたとしたら。
 それは中原の、いや、大和の中でも有数の「軍隊」となるだろう。
(無法地帯とはいえ、中原には武に長けた者が少なくない――この中原を制した者は、あるいは――)
 われら正義の基盤たるべし――その真意は?
「いかがですか、王山而どの」
 荷車の後ろから声をかけられ、王山而は我に返った。
「ここが『盤』ですよ」
 研坐崎が無邪気そうに誇る。その口調に、王山而の口もとが歪む。
「今、ゆっくり見せてもらっている」
 半ばは苦笑だ。先日に聞いた師姉の気苦労がしのばれた。
 一方、自分が笑われているとは知らない研坐崎は、五年ぶりに戻る街に、心がどうしても浮き立ってしまう。
大通りの左右に並ぶさまざまな店や家屋は、所々で建て変わったりしているものの、全体の景色は自分が発った頃とほとんど変わらない。
 その姿は、自分が覚えている故郷のままだ。
 無論、流れた年月は人を変えているだろう。研坐崎自身の武力もそうだし、門で出会った乙瓶啓は、昔は家業の肉屋を継ぐものとばかり思っていた。
(まさか、あいつが武術を習うなんてな……)
 しかも、門衛まで任されるとは。それは彼が相当の鍛錬を積んだ証拠であり、「五年」という時間の重さを思い知らせることでもある。
 「五年」の重さ。これからそれをもっともっと思い知らされることになるのだろう。
(この馬鹿者、研坐崎め――才孟どののことを考えろ)
 そんな浮き立つ思いや感慨に浸りたい心を、研坐崎は封じ込めた。
 荷車の上にうずくまる才孟は、故郷も自分を知る者も全て失っている。そんな人間が目の前にいるのに無邪気に笑ったりとは、何事か――
研坐崎は顔を引き締め、前に向かって声をかけた。
「王山而どの。この通りをまっすぐに進んでください」
「……『盤』の有力者に話を通すことはできるか?」
「何とかします。事は、この中原全体の危機ですからね」
 ちらり、と上に眼を向ける。
 才孟は荷車に揺られながら、今は眼を閉じて眠っていた。
 この恩人はどんな夢を見ているのか。研坐崎にはそれを知る由もない。が、皺だらけの顔の目尻から、ひとすじ涙が頬を伝っているのを見れば、胸が塞がれる 思いがする。
……そう言えば、ずっと昔にこんな思いをしたような気がする。
が、その感慨を研坐崎は振り払った。
(今は、そんな事を考えている場合じゃない)




 『盤』の本堂。
 その奥にある、風雅な庭園に面した一室。
 入って正面、及び左右には机と椅子が並び、十足らずの椅子にはそれぞれ老人が座っている。
 彼らのまとう着衣はいずれも質素なものであるが、見る眼を持つ者ならば、それが動きやすさを追求しての服装、ということが分かるはずだ。
 さらに見る眼があるのなら、それらの服のあちこちにある隠しには、暗器が仕込まれているのも見て取れるだろう。何気なく席についている風でも、ひとたび 事あれば、いつでも武術を振るえる――そんな気配が漂っている。
 そのうちのひとり――禿頭の、筆のような顎鬚を垂らした者が、口を開いた。
「研坐崎。この度はよくぞ『盤』へと戻ってきた」
 三方を机に囲まれた中、研坐崎は抱拳して頭を下げた。
「大老師の方々もお変わりなく、何よりでございます」
「お前の評判は我らの元にも届いておる。これからも『盤』の武侠として、誉ある振る舞いを心がけてくれ」
「いえ、私はまだまだ未熟者。これからも大老師、先輩諸氏の方々にご指導賜りたく思います」
 何度か舌を噛みそうになりながらも、研坐崎は何とかこの挨拶を言い切った。が、声が震えるのは抑え切れない。声だけではなく、脚も震えっぱなしなのだ。
 正面に座り、まっすぐに研坐崎を見ている老人は、あの烏丸老師(うがんろうし)。その両袖に並ぶのは、「盤底四老」と「賢学四師」。
 この地に『盤』を立ち上げた開祖らと、後に合流した武人の中でもとりわけ武、そして徳の高い傑人たち。言わば『盤』の中心が目前に並び、こちらを注視し ている。たかだか二十歳余りの若造は、余りに恐れ多くて下げた頭を上げられずにいた。
 研坐崎に声をかけてきた者は、「舞宙縄仙(ぶちゅうじょうせん)」とも呼ばれる西芝涯(さいしがい)。軟鞭の技は神域に達すると言う。
 ――道中、王山而が言っていた「有力者との面会」は、これ以上ないという形で実現することとなった。門を抜ける時、五年振りということで予想外に手間 取ったりはしたが、まさか長老衆全員にまみえることになるとは夢にも思わなかった。
「さて、研坐崎」
 別な声で名を呼ばれ、裏返りかけた声で「はいっ!」と答えた。
 鋭い眼光で、身を机に乗り出したのは、「旋銀風刃(せんぎんふうじん)」蔵周文(ぞうしゅうぶん)。体格は小さいが、実際は大刀使いだ。練才府解放の時 には戦記物語の英雄の如く、馬に乗って敵陣を縦貫したという話だ。
「中原の危機、などとずいぶんと物騒な事を申しておったそうだが……それと黒賊とどうつながるのか?」
「はい……! それは……」
 伏せた顔のまま、研坐崎は傍らに眼を向けた。籠椅子の中、体を収めている才孟の姿が見えた。
 ――昨日の賊を撃退した直後も衰弱が激しかったが、その後、眼を覚ました後の様子も快活とは言い難かった。何度も咳き込み、呼吸を継ぎ、自身のことを話 した後は、そのまま眠ってしまった。そうして朝まで、眼を覚ますことはなかったのだ。
(それほどに、この人は辛苦を自身に刻んできたんだ――)
 その身を怨念の化身とし、己が命を削ぎ落としながら。
 この人はもう、苦しんではいけない――乾ききった喉に無理矢理唾を飲み込んで、伏せていた面を上げた。
 目前に並ぶは、達人――その存在から滲み出る重圧は尋常なものではない。
 体の外からは押し潰され、内からは力が削ぎ落とされていく心地がする。冷や汗は身体中から滲み出て、肌をじっとりと濡らしていた。
 臆するな、逆風や艱難辛苦に立ち向かうのは侠の使命――自身にそう言い聞かせる。
「ひとりの、妖術使いがおりまして……」
 話を切り出した瞬間、居並ぶ老師たちは同時に顔をしかめた。
(失敗した!)
「……妖術使い? 何の話だ?」
 訊ねてきたのは「龍牙爪剣(りゅうがそうけん)」蓮白志(れんびゃくし)。瞼を閉じているのかいないのか、細い眼が眠っている龍の如き凄みを感じさせ る。
「いや、それは……黒い帯をばら撒いている男がいまして……」
 蓮白志の眉間にさらに皺が寄る。その剣技の冴えは凄まじく、研坐崎などは「自分等は到底及ばぬ」と思う程だ。そんな相手の眉間の皺は、さらに研坐崎を恐 れさせ、頭の中を混乱させた。
 落ち着け、落ち着け……そう自分に言い聞かせるほど、何からどう話せばいいのか分からなくなってくる。
 と、その時――
「黒い盗賊を……作ってるのは……あたしの父です」
 しわがれた声。
 見れば、ぶるぶると体を震わせながら、才孟が椅子から身を乗り出していた。
 その口からは、ひゅう、ひゅう、という壊れた笛のような音が漏れていた。今にも止まってしまいそうだ。
「才孟どの……!」
 抱拳を解き、研坐崎は籠椅子の傍らに身を屈めた。
「御無理はなさらずに……私が話しますから」
「いえ……あたし……が……話します」
 いく度か咳き込む。それを飲み下すようにして抑えこみ、再び才孟は口を開いた。
 胸には、あの黒い帯をしっかりと抱きしめて。
「父は……本英世……『どうし』という人だったようです」
 どうし――道士。
 「道家」という教えを信じ、出家して僧となった者の事を言う。
「本英世は……あたしのようなみなしごを集めて……山奥に……みんなで住んでいました。本英世は……山にあるものの……何が食べてよくて、何が食べてはい けないかとか……畑の作り方とか、獣の捕まえ方とか……色々教えてくれました……あと……武術も……」
 ひとことふたことを口にするごとに、何度も息継ぎを繰り返さなければならなかった。その度に喉からは「ひゅう、ひゅう」という、吹き損ないの笛の音が漏 れる。
 しかし、才孟は話すことを止めようとはしない。
「……ある日……父は、『強くなる方法を探しに行く』と……出て行って……二年程……山を空けて……帰った時には……黒い帯を……持っていました」
 また笛の音が鳴った。
 いや――才孟ではなかった。
 どこまでも長く伸びて嘯き続ける、背筋を冷たくさせるような――
  ――ひゅるるる
  ――ふしゅうううう
(また……帯が鳴いているのか)
 その時、重圧。
 研坐崎は周囲に眼をやった。
 座っている老師らの姿はそのままだ。が、気配が変わっていた。
 何かあれば、一斉に暗器が飛んでくるだろう。『盤』最強の豪傑らの放つ暗器、狙いを外すことはまずないだろう。
(いけない……!)
 研坐崎は心持ち、才孟を庇うような位置、体勢へと移った。籠椅子の正面ににじり寄り、
「才孟どの、どうか無理は……」
 そう言いながら、両腕で椅子を抱えるようにして、己をできうるかぎりの盾とする。
目前には嘯声を発する黒帯。のみならず、周囲から浴びせられる重圧に、警戒と緊張が加わっている。
 押し潰されそうな空気。しかし、研坐崎はこらえた。
「……どいて下さい……研坐崎さん……無理なんて……してません」
「しているじゃないですか……あなたはもう、これ以上……」
と――
 ふわっ……と、何かが研坐崎の頭上を通り過ぎた。
 そう思った時には籠椅子の後ろに人影が下り、こちらを見下ろしていた。
(! 「騎風空人(きふうくうじん)」……!)
「司虎真(しこしん)様……」
 少し長めに伸ばした白髪の先が、舞い降りた時の勢いを残してまだ揺れていた。
 気配も感じさせず、宙を飛ぶ。『盤』最高の軽功使いであり、練才府解放の折には、三日三晩空を駆けて全く息が上がらなかったと言う。
「なるほど……お前の侠としての振る舞い、いよいよ本物のようだな」
 風に乗り、空を行く者――その司虎真が、微笑みながら頷いた。
 『盤』の長老達を相手に、才孟を庇おうとしたことを言っているのだ。
 が、研坐崎としては笑っている余裕などない。
(……これで四方を囲まれた!)
「司虎真様……こちらの方は私の命の恩人なのです」
 研坐崎は、司虎真を見上げながら答えた。
「私が黒賊に囲まれた時、助けてくれました。どうか、お話を聞いては下さいませんか?」
 と、司虎真の腕組みがほどかれ、その手が籠椅子の中に伸び、才孟の肩に添えられた。
直後、「くっ……」という声が才孟の口から漏れる。
 眼を見開く研坐崎に、司虎真は「案ずるな」と首を振った。
「心配するな――気を注いで、流れを整えているだけだ」
 言われてから見れば、才孟の喉から漏れる笛の音は次第に薄らいでいく。呼吸も深く、落ち着いたものへと変じた。
「才孟どのと、おっしゃいましたな?」
 優しい口調で問いかける司虎真に、頷く才孟。
「……はい」
 しわがれた声は変わらぬが、答えた才孟の口調ははっきりしている。
「本英世という人物が、黒い帯を持ち帰り……それからどうなりましたかな?」
 先を促す司虎真に、再び才孟は頷く。
「帯を……みんなに渡して、着けるように言いました」
「それから?」
「帯を着けたら……みんな強くなりました。けど、引き換えに、だんだん変わっていきました」
「どのように?」
 間が置かれた。帯を握る才孟の手に、力がこもる。
「……まず性格が乱暴に、なっていきました……武術の練習でも、ケガが増えるようになり、やがて死人が出て……」
「あなた様はどうだったのです?」
「あたしは……最初に着けた時に、体の具合が悪くなってしまったので……ずっと休んでいました」
「本英世という人物は、皆を止めたりはしませんでしたか?」
「止めませんでした……荒れていく空気を知りながら、『もっと鍛えろ、強くなれ』と……」
 声が震え始めた。
「武術の訓練では、ありふれた言葉ですね」
「けど、『強い者が勝ち、弱い者は滅びるのみ』なんて、それまでは言ったことがなかったのに……」
「……ふむ。力に魅せられ、邪道に落ちた者が必ず口にする言葉ですな」
「そして……みんなが、殺し合いを始めました……本英世は、それを笑いながら見ていました」
 ――ひゅおおおおおおん
 ――しゅううぅぅうううぅ
 ――ふしゅるるるるるるるる
 帯の嘯声が、いっそう高まった。
「みんなが死んだ後……本英世は去っていき……あいつは生き残って……あいつの書斎を調べたら、燃やされた書き付けの灰の中に、この黒帯が、死んだ人の怨 念を宿していることが書いてありました」
「……それは、確かに妖術ですな」
「……黒帯が怨念を宿し……あいつはそれを操る方法を求め……あたしたちで……あたしたち、子供達でそれを試した……!」
 ぎゅっ、と、帯を握る手に力が込められた。
「父は……あいつは、あたしたちを地獄の鬼に売り渡した……あ……うぁ……!」
 籠椅子の中で、身を折る才孟。
 やがて、その口から、途切れ途切れに嗚咽が洩れ始めた。
「あ……お父さん……どうして裏切ったの……!」
 嗚咽と嘯声は、止むことなく続き――
 それが収まった時、才孟は籠椅子の中にぐったりと身を横たえ、眼を閉じた。

「本英世の名前なら、いささか耳にしたことがござる」
 手を挙げ、そう口にしたのは、「賢学四師」のひとり、来海詠(らいかいえい)。黒い道士の服をまとっていることからも分かるが、道家から『盤』に合流し た人物だ。
「中原の道家の中でも、武術と学に秀でていた、有望な人物であった――と聞いております」
「その人物の消息はご存知か?」
才孟から手を離し、訊ねる司虎真。その呼吸にはいささかの乱れもなかった。
 心中で、研坐崎は感嘆した。橘達瑪が同じ事をした時には、師姉はしばらく動けなかったというのに――
「ずいぶん昔――かれこれ十数年ほど前に、追放されたと聞いております。色々とやりすぎた、と」
「……やりすぎた? それは?」
「詳しくは知りませぬが……魔境に落ちた、という話を聞いております」
 道家とは、もともとが「仙人となり、不老不死たる道」を探し求める一派である。かの一派においては、武術の鍛錬もまた仙人に至る「道」のひとつとして、 追究されているものだ。
 が、その鍛錬には、人倫道徳に反する「道」もあるという。これを道家では「魔境」と呼ぶ。
「その人物、今生きておれば齢はいかほどか?」
「さあ……五十になるかならぬか、といったところでしょうかな?」
「……それを、こちらの才孟どのは、父と呼ばれる……ふむ」
 司虎真は、首を傾げた。
 なおも才孟を注視する老師たち。籠椅子の中で眠る姿は、どう見ても「老婆」である。壮年の人間を「父」と呼ぶ者には到底思えない。
 ――それでも、少なくとも、老師達の剣呑な緊張は収まったらしい。その気配を確かめると、研坐崎は立ち上がった。
「……気功の鍛錬が、時として体に負担をかけるのは、老師の方々もご存知でしょう。才孟どのは、凄まじい気功を幾度も体にめぐらせ、心と体に負担をかけて 来られたのです」
「そして、才孟どのはそのお姿に……」
 道士の問いに、頷く研坐崎。
「才孟どののお歳は、今いくつなのだ?」
「十」
「何?」
「今年、数え歳で十になった、とうかがいました」




 ――夢を見ていた。
 何度も繰り返し見続けている夢のひとつだ。
 己自身の、来し方の夢――

 土饅頭の前で、櫃から最後の布切れを取り上げ、帯の中により結ぶ。
 そうして出来た帯をたたんで、懐中にしまうと、「家」に入って支度を始めた。
 旅の支度。とても長い旅になるのだろうけど、何が必要なのかなんてよく分からない。
 だから、まず思いつく限りのものを集めて、その中でどうしても必要なもの、というのをより分けた。
 多少引っ張ったりしても破けそうにない、丈夫な服や衣類。
 ケガや病気をした時のための薬の類。
 武器にもなれば、道具にもなる、という程度の小刀。
 火を起こすための、火打石などの道具。
 その他、必要と思われる小物、等々。
 それらをまとめた後に、家の中にあった食材をかき集め、日持ちするように片っ端から調理した。
 ずいぶんと手際よく出来たのは、心がどこか止まってしまっていたからだろう。
 心臓の鼓動が、胸にしまった帯の嘯声に取って変わられたような心地がしていた。
 そうして、一通りの準備を終えるとすっかり夜が更けていたので、寝具に潜って眠った。
 翌朝、荷物をまとめて山を下りた。下界を見るのは、本英世に連れられて山に入った時以来――およそ三年ぶりといったところか。
 その時と、周囲の風景はあまり変わってはいなかった。地面からぼうぼうに生えている草の丈が、少し高くなったぐらいだろうか。
 それらの草への印象が、「これらは食べられない」というものだったことが、やたらと記憶に残っている。

 太陽の位置と記憶を頼りにして、獣道を掻き分けながら街道に出た。
 やがて、ぽつぽつと街道を行く人に出会うようになり、訊ねてみた。
(本英世という人を知っていますか?)
(道士という人たちが集まる所はどこですか?)
 本英世の名を知る人は誰もいなかったが、「道士」というのが集まる場所ならば、いくつか聞けた。
 しかし、それらの「道家」の拠点は全く方向がバラバラで、しかも中原のあちこちに点在している(さらに、この「中原」というのが途方もなく広い)らし く、どれを目指せばいいのか見当もつかなかった。
 また、訊ねた相手も全員が善人というわけでもなかった。
 さすがに童女単身の旅は危険なので、旅人達の道中の連れに加えてもらうこともあった。が、そういった道連れに、怪しげな所に売り飛ばされかけたり、不届 きな真似をされそうになったりすることもあった。
 そういう時には、本英世から教えられた武術を振るった。
 自分の武術で足りない時には、「みんな」が力を貸してくれた。帯に宿った「みんな」の心だ。
 まず、懐でたたまれていた帯がほどけ、あの歌声とも鳴き声ともつかぬ音を鳴らしながら、宙に踊った。宙をのたくりながら、自分が苦戦していた相手を打 ち、締め、極めて、これを倒してしまった。
 さらに、それでも足りない時には、帯を腰に巻いた。
 すると、荒々しくどす黒い「気」が丹田から流れ込み、体内を駆け巡った。
 邪なものに己が満たされていく――かつては悲鳴を上げ、嘔吐し、全身全霊でもって拒んでいた心地悪さを飲み込むと、あとは不思議な解放感がみなぎってく るのだった。
 本英世が言っていた「どんな野獣よりも恐ろしい相手」――それらを打ち倒し、傷つけることに、一切のためらいが消えた。代わりに自分に満ちるのは、怒り と、恨みと、憎しみと――それらを吐き出すことへの、狂おしいほどの渇望。
 暴れてもいい――好きなだけ技を振るい、力を振るっていい――いくらでも傷つけ、壊して、殺してもいい――。
 それらの衝動のままに、技を振るった。自分が繰り出す拳や蹴りは、いつも以上に力強く、鋭いものとなった。
 思いのままに打ち、受け、捌き、壊し、砕き、滅ぼして――それらのひとつひとつの度に、体の心地悪さは紛れもない「苦痛」へと代わっていく。
 そうして、我に帰った時には、地獄があった。
 目前に広がる血の海と、築かれた屍の山。全身を切り裂かれ、臓腑を絞られているような凄まじい苦痛。たった今自分が作った血だまりの中に溺れ、のた打ち 回りながら帯を外すと、それらの苦痛は鎮まった。
 最初の「地獄絵図」を作り出した時は、胃の中のものを全て吐き、それでも足りずに胃液までもを吐き出した。
 そして、自分の為したことに三日三晩震え上がった後、(本英世を殺して、自分も死ぬ)という決意を新たに固めた。

 長い長い道程を経て、寺の門をくぐることが何度かあった。
 道家の者たちが集う寺だ。
 彼らの反応は大体が決まっていた。最初は童女のひとり旅、ということで不憫に思ってくれる。が、しばらくすると、同じ「童女のひとり旅」ということに、 不審さを感じるようになってくる。
 それらの印象はやがて、「居座られたら厄介だ」「変な問題を持ち込まないでくれ」という思いに代わっていく。
 呼ばれてもいない客人――子供ながらに自分の立場はよく分かっていたし、本英世についての手がかりの類が見付かることもなかった。数日の逗留の後、ひっ そりと姿を消すのがいつものことだった。
 ――一度だけ「お前はここにずっといていい」と言われたことがある。
 復讐など止めなさい、と。過去から自由になって生きなさい、と。
 その言葉が真意であるのはすぐに分かったし、その好意を受け入れれば楽になれる、というのも分かった。
 しかし、懐中にしまった黒帯を思えば、受け入れられなかった。
 止むを得なかったとは言え、手にかけた命の数は、両手の指でも数え切れなくなっていた。また、投げ出すことで、山を下りてから歩んできた道程が意味を失 うのが怖かった。
 結局その好意も拒み、再び本英世を探す旅路に戻った。

 あるかどうかさえ分からぬ手がかりを探す日々が続いた。
 時には黒帯を巻いて人の命を手にかけ――その度に己の心と体は苦痛に苛まれた。
 ある時、川面に映った自分の顔を見て愕然とした。
 斑状に、あちこちが白くなっている髪。皺が刻まれ、染みが浮き出ている顔――
 そういえば、いつ頃からか、手も足もすっかり細くなっている。肉がそげて、たるんだ肌が皺になっている。
 「童女」の姿では到底なかった。
 しかし、それらが、黒帯を巻くことの代償だということはすぐに分かった。
 黒帯のもたらす凄まじい武力は、恨みと憎悪の念そのものだ。それを体に通すのならば、通した体もただでは済まぬことも容易に想像がついた。
(遠からず、自分は死ぬ)
 思い至った時、恐怖はあまり感じなかった。
 代わりに、焦燥が生まれた。
 自分が死ぬのは構わない。が、自分の死後も、本英世がこの世に生きていることはあってはならなかった。
 そんな日々の中、『盤』の名を知った。
 『盤』――中原で、今最も注目されている武門。輩出せる武人らは、いずれも強く気高くて、弱きを助け無法を許さぬという。様々な流派の技と人とが集う場 所だそうな。
 もし、無法を許さないというのが本当だったら――
(本英世を討つのに力を貸してくれるはず)
 自分ひとりの力にも命にも限りがあるなら、誰かに力を借りるしかない。
 ――そうして、自分は『盤』を目指した。
 山を下りてから二年が過ぎていた。手にかけた命は手足の指を合わせても数え切れない。
 体は既に老婆の如きそれとなり――おそらくそれよりも前に、心は死んでいるのだろう。
 痛みや悲しみ。自分の人生は、もうそれしかないのだろう。
 それが運命というのなら受け入れて――必ずあいつを地獄へ落とす。

「――誤った気の流れは、体を壊します。それが幾たびも繰り返されれば、童女もまた老婆のような姿になりましょう」
 声が聞こえた
 才孟はうっすらと目を開いた。
「だが、いかに気功の運用を誤ろうと、童女が老婆になり果てるなど……」
「現になっております。仮に、こちらの才孟どのの御歳が幼くなかったとしても、この体に鞭打ち、私の命を救ってくださったのは紛れもない事実」
 こちらに背中を向けている青年が熱弁をふるっている。
まだぼんやりとした意識の中、現在と過去とは溶け合ったまま――
 ――『盤』を目指して長い道を歩き、やっと白井の街まで着いた時、ひとりの商人に声をかけられた。
(お婆さん、どちらまで行かれるのですか?)
(ええ、私も『盤』まで行くんですよ)
(どうぞどうぞ、ご遠慮なさらず。荷車でよろしければ一緒に乗っていきなさいな)
 嫌な顔ひとつせず、むしろ人なつっこく笑いながら、自分を道行きに加えてくれた商人だった。
 その前に現れたのは、「黒賊」――黒帯を身に着け、人ではなくなったものども。
 「黒賊」は容赦なく、商人を惨殺した。雇われていた鏢客らも全く歯が立たず、「黒賊」らの餌食となった。
 死に行く人々に何も感じなかったわけではない。しかし、その惨たらしい光景に自分が思っていたのは、「相手の戦力はどの程度か」とか「効率よく殺してい くにはどういう手順でどう動き、どんな技を出していけばいいのか」ということだった。
 憐憫や同情も、胸に広がる前に凍り付いていた。何が何でも生き残り、本英世の息の根を止める――自分にとっては、それが全てだったのだから。
 その時、彼方から数本の飛刀が飛んできて、黒賊の体に突き立った。
 同時に、青い袍をまとった青年が駆けつけ、黒賊の中に飛び込んだ。青年は疾風のごとき勢いのまま、黒賊の中で縦横無尽に動き回り、剣を振るう。
 それは、荷台の上で襤褸をまとい、うずくまっている彼女を驚かせるものだった。
 見たことの無い剣法の型もそうだった。目にも止まらぬほどの速さの剣と、身のこなし。それは確かな地力を感じさせる武術の技で──
 だが、才孟を最も驚かせたのは、青年の眼だった。
 敵中の只中、一瞬一瞬の間に幾重もの死線を潜り抜けつつ、怯えの色は全くない。
 が、命を捨ててかかってるという、暗い光を宿しているのでもない。その輝きはまっすぐで、迷いが無かった。
 恐れ無く、命を惜しまず、投げ出さず──その眼の光を知っているような気がした。
 それを見たのは、遠い昔のような、それとも、ついこの前のことのような――
 その青年が、黒賊の只中にあったまま、転倒した。
 ――この人を死なせてはならない。
 そう感じた。
手が動き、懐中の帯を腰に巻いていた。黒く激しい力が全身に満ち、直後、才孟は跳んだ――
 ――ようやく意識がはっきりしてきた。
「この研坐崎、武術はまだまだ未熟なれど、侠の志は誰にも負けてはおりません。恩人に悲願宿願あれば、その達成に尽力して恩に報いるのが侠の道――」
 瞼を瞬かせる才孟の前では、相変わらず青年――研坐崎が弁を振るっていた。
「また、才孟どのの仇敵・本英世は、今世を騒がしている『黒帯武賊』の元凶でございます。災いの根を断ち、人々を守ることが義の道なれば、外道なる本英世 を討つことは、侠と義の道を貫くことに他なりません」
 研坐崎が両膝を地面につけ、平伏した。頭を下げた時、「がつっ」という鈍い音が鳴った。
「『盤』の大老師の方々にお願い申し上げます。どうか、才孟どのの悲願にお力添えを賜りください。そして、この世に『義』あることを知らしめ、ひいてはこ の研坐崎めに、侠の道を貫かせてくださいませ」
 再び鈍い音が鳴る。頭を下げるたびに、床に頭を打ちつけているのだろう。
――才孟は胸中に生まれかけたものを押し殺した。
 『盤』に赴き、助力を頼む。憎き仇敵を見つけて討つため、おそらく中原で最も有力な武門の力を借りる。
 窮地を救った相手が『盤』の門人であったのは僥倖だった。しかも恩に感じ、長老達に懇願までしてくれている。
 が、安心するのはまだ早いのだ。この青年の頼みが聞き届けられなければ意味はない――そのことはよく弁えている。
もし、聞き届けられたのならこの人には心からり感謝をしよう。
 そして、するのは感謝だけ――喜んだりなんて、絶対しない。
 あいつに裏切られ、たったひとり生き残った自分は、あいつを殺すことだけを考えていればいい。その思いを揺るがすような物はいらなかった。
 心の中の、変に温かくて心地良い、形のない何か――それを、才孟は自分の中から締め出した。




 あとは、どんな言葉を連ねれば良いのだろうか――研坐崎にはもう見当がつかなかった。
 もともと自分が、弁の立つ方ではないことはよく知っている。
 だから、自分に起こった事実を語り、自分が聞いた事情を話し、頭を下げることしか思いつかず――
「お願い申し上げます、お願い申し上げます」
 板敷きの床に額を打ち付け、その言葉を繰り返している。
「面を上げよ、春閃郎」
 来海詠の声に、顔を起こす研坐崎。
「そちらの御仁……才孟どのがお前を救った時、どんな技を出したか見せてみよ」
「はい」
研坐崎は内心安堵した。口を動かすより、体を動かす方が遥かに落ち着く。
 立ち上がって一歩前に出ると、構えを作った。
「まず、ひとりの黒賊が、得物を振り下ろしてまいりました。その得物をこう……」
 右足を上げ、爪先で宙を打つ。空を貫く、低い笛のような音が鳴る。
「……まずこの一手で得物を弾き、この脚を振って……賊の顎を抉り……」
 右爪先を横に振る。振っ時、足首を曲げて、打点を踵に変えた。
「そして、最後もやはりこの脚のままで身を捻り……その勢いで踵を落としました」
 軸足を中心に、己の体を右回りに巡らせ、右足を振り下ろした。
「この時の蹴りは、黒賊の肩から胸を粉砕しました……凄まじい威力でした」
 説明を終えた研坐崎の構えは、鶴や鴫のごとく、一本足で立つそれだ。その姿勢には揺らぎがない。
 自らの顎に手を添え、「ふむ」と唸る来海詠。
「……この型は、道家に伝わる華如拳法の蹴り、『雁回楼上』。才孟どのが道家の者より武術を伝授されたのは間違いないようですな」
 が、大老師らの怪訝そうな雰囲気は消えない。西芝涯は「信じられぬ」と口にさえした。
 これは、軸足と蹴脚を変えぬままに三手の蹴りを繰り出す型だ。立つことすらままならぬ老婆――それとも幼女?――に、できる技とも思えなかった。
 研坐崎は脚を下ろした。
「ですが、そのおかげで私はこうして生き長らえております……のみならず、才孟どのは一発の飛び蹴りで、賊のひとりの体を粉微塵にさえいたしました」
「ふむ……」
 そう唸ったのは、仏門より合流してきた「賢学四師」のひとり、醐英大師である。
「あまりに突飛な話じゃな」
「ですが、老師どの……!」
「慌てるな、信じぬとは言うておらん」
 手を上げ、研坐崎を製する醐英大師。
「……かたや、ひたすら頑健にして凶暴なる黒賊が締める黒帯。かたや、才孟どのに力をもたらし、自ら哭声を上げる黒帯。このふたつが無関係とは思えぬ、 が……」
 醐英大師の眼が、才孟を真っ直ぐに見据えた。
「才孟どのはどうして黒賊にならぬのじゃろうな? 御仁の黒帯もまた、締めた者を狂わせるようなものらしいが」
「それは……」
 それは、才孟どのが強き心をお持ちだからです――研坐崎がそう答えようとした時、
「私が帯と……心をつないでいるからです」
 才孟が割り込んできた。
 疲れて眠ったとばかり思っていたのに――研坐崎は振り返った。
 籠椅子の中、才孟は眼を開き、射抜くような醐英大師の視線を受け止めていた。
「……心をつなぐ、とは? 如何なる事ですか、才孟どの?」
「帯に宿る魂は……本英世に殺された私の仲間。みんな、本英世の死を望み、私もそれを望んでいます……」
 眼差しに暗い光が宿り、声にはどす黒い響きが交じる。
 また帯が鳴いた。才孟の言葉に応えるように。
「なるほど……才孟どのは、言わば帯が認めている者だ、というわけですね?」
 醐英大師の問いに、「はい」と頷く才孟。
「もうひとつお尋ねいたします……その黒帯が本英世なる人物が作った物と伺いましたが、彼奴めの目的は?」
「分かりません……ただ、自分の技を試したいだけかと……」
「技、とは?」
「死んだ人間の力を……操る技……」
 嘘だ、と研坐崎は思った。
(「黒帯」という妖術は死者が生者を操る技じゃないか……!)
 黒賊だけではない、才孟さえも、死んだ人間に操られている――!
「道家にはかような術がござるのか?」
 醐英大師が、来海詠の顔を見た。首を横に振る来海詠。
「拙者はよくは存じ申さぬ。が、邪法や外道の技を調べれば、そういったものもあるかも知れませぬな……」
「胡乱でござるな。しかし……」
 不意に、醐英大師が立ち上がり、前に向かって踏み出した。
「……何にせよ、成仏できぬ魂魄が未だこの世にあるのは痛ましい限り」
 懐中から数珠を出し、空いている手を差し出して、才孟に歩み寄る。
「才孟どの。その帯をお貸しいただけぬかな?」
「どうして……ですか」
「仏門の者としては、帯に宿りし方々を成仏させねばなりませぬ」
 才孟が身を退こうとする。が、籠椅子の中にあっては、椅子の背に体を押し付けることしか出来ない。
「才孟どの。これは、あなたのお仲間のためでもあるのです」
首を振る才孟。その顔が怯えに歪む。
 手にある帯が、また鳴いた。
 ――うぅおおぉぉぉぉん
 ――ふしゅうぅぅぅぅぅ
(いけない!)
「お待ちください、醐英大師様」
 籠椅子と醐英大師との間合い、約五歩。その中に、研坐崎は割り込んだ。
「……研坐崎、どういうつもりだ?」
 間合い三歩足らずから向けられる、達人の気配と射抜くような視線――それを真っ向から受け止めながら、研坐崎は口を開いた。
「才孟どのとお仲間の方々の悲願は、本英世を探し出し、これを討つことにございます。その悲願果たさずして、成仏せよとは余りに無体なお話です」
「お前は死せる者の魂が、この世につなぎとめられている事を良しとするのか」
「そうは申してはおりません。しかし、悲願成れば、才孟どのが仲間の方々も心安らかにされることは間違いございません」
「……まずは無念を晴らせ、と?」
「左様です」
 頷く研坐崎。
「それに……如何に黒帯が危険であったとしても、才孟どのにとってはご自身の命にも比すべき物にございますれば……ここは、どうか」
 研坐崎は頭を下げた。
 才孟は何があっても黒帯を手離すまい。追い詰められれば黒帯を締めるかも知れなかった。
(もしそうなったら、ただでは済まない――)
 黒帯を着けた才孟の強さは未だ底が知れない。『盤』の最高長老らが後れを取ることは万にひとつもなかろうが、無傷で済むとも考えられぬ。
 そして才孟は、運が悪ければこの場で命を落とすことになる。長老らの必殺の技を受けてか、それとも黒帯がもたらす凄まじい消耗によってか――
 研坐崎が顔を上げれば、やはり目前には醐英大師の顔がある。
 『盤』の「賢学四師」のひとりともなれば、その眼光は炯々として武の達人と変わりはない。実際仏門の僧とは言え、彼もまた拳法の使い手なのだ。
 だが、心魂を貫かんとするほどの鋭い眼を、研坐崎は見返した。
 どけ、と言われても退くわけにはいかない――

「落ち着かれよ、醐英大師どの」
 深い声が響いた。
 その場にいた者全ての視線が、声の発した方を向く。
そう口にしているのは、長老らの中央に座る老人だった。
 髪は白いが、大きく開いた目には生気がみなぎり、歳の頃がとっさには判然としない。
「研坐崎も少しは気を静めろ――黒賊の事、『盤』としても何とかせねばと考えている所だ」
 『盤』の頭首、「天通神功」烏丸老師――その声からも、凄まじい気功使いであることが察せられる。
「改めて、研坐崎よ」
「……はい!」
 名を呼ばれ、思わずその場にひざまずく。
「お前の侠客としての振る舞いは、我々の元にも届いている。そのおかげで、我ら『盤』も鼻が高い。これからも、侠客として世のために働いてくれ」
「はい……この研坐崎、これからも侠の道を貫いて参ります」
 烏丸老師は、さして大きな声を出しているわけでもない。なのに、一語一語が発される度、こちらの服の衣、髪、あるいは肌がびりびりと震えるような心地が する。
「そして、巷間を騒がす黒賊についての手がかりをもたらしてくれたことにも礼を言う――突飛な話ではあるが、黒賊もまた常識が通じぬ相手。本英世なる外道 の道士について調べてみるのも無益なことではあるまい」
「烏丸老師様……それでは」
「我ら『盤』、総力を上げて必ずや黒賊を討ち果たし、その元凶たる本英世を探してこれも討つべし――この烏丸はそう思うが、皆如何か?」
 頭首が満座を見渡すと、眼の合った長老らは、ひとりひとりが首肯していく。
「この西芝涯、烏丸どのの意志に異存はござらぬ」
「この蔵周文も同様にござる」
「曖昧模糊、胡乱なる事は、この蓮白志が最も嫌う所にござる」
「言われればこの司虎真、本英世を探すために中原の空を駆け巡って見せましょう」
「本英世なる悪鬼には、必ず仏罰を下しましょうぞ」
「外道の徒の悪行は、我ら道家の面汚し。放っておく理由はございませぬ」
「黒賊が事ならば、中原全体にも関わる大事。他の武門の方にも知らせを送らねばなりませぬな」
 そう言ったのは、「賢学四師」の儒者・佐延併(さえんべい)。
「黒賊打倒のため、中原の武侠は今こそ力を合わせる時――文面はなるべく丁重に致しましょう。よろしいですか、烏丸老師どの?」
 同じく「賢学四師」の史家・藤夾銀(とうきょうぎん)の問いかけに、烏丸は頷く。
 そして、烏丸は才孟に眼を向けた。
「才孟どの。この度は我が門人の窮地をお救いいただき、感謝の言葉もございませぬ。そのご恩に報いるためにも、我ら『盤』、黒賊の討伐と本英世の捜索に尽 力させていただきます。
 お部屋を準備させます故、しばしこちらにご滞在くだされ」
 その時、がんっ! という音が鳴った。
 突然の音に長老達が見れば、研坐崎がその場に平伏していた。
「ありがとうございます、烏丸老師どの!」
 顔を上げる研坐崎。額に血がにじんでいたが、その顔は屈託なく笑っている。
「この御恩、研坐崎は生涯忘れませぬ!」
 そして立ち上がり、振り返ると籠椅子の中に手を差し入れ、才孟の手を取った。
「やりましたねえ、才孟どの! 本当に良かったですねえ!」
「え……あ……」
 突然手をつかまれて、怯む才孟。再び身を退こうとして、結局は椅子の背に体を押し付けることしか出来ない。
 研坐崎は、帯を持った才孟の手を遠慮なく揺さぶった。手が振られ、体が揺さぶられ、籠椅子が軋む。
「喜ぶのはまだ早いぞ、研坐崎」
 苦笑しながら司虎真が水を差した。
「喜ぶのは黒賊を全て滅ぼし、本英世を討ってからだ。そうではないのか?」
「……はい」
 研坐崎は、表情を引き締めた。
「それに、才孟どのは決して体が丈夫ではないのだろう? そんなに手荒くしてどういうつもりだ」
「え? ……ああっ!」
 見れば、才孟のただでさえ皺だらけの顔は、いっそう歪んでいる。
 慌てて研坐崎は手を離し、彼女の腕をさすり始めた。
「も、申し訳ございません、才孟どの! だ、大丈夫ですか?!」
 顔を歪めたまま、才孟は頷いた。




 再び眠ってしまった才孟を別棟の部屋に背負って行ってから、研坐崎は『盤』の朱塗りの門をくぐった。
 門衛の青年と眼が合い、少し気まずい会釈を交わす。
 研坐崎が中原をさすらっている間に、『盤』出身の鏢客には身分証が渡されることになっていたらしく、「身分証を持っていない方はお通しできない」云々と いうことで少し手間取ったりしたのだ。
 結局、門前が何やら騒がしいということで出てきた剣術の師範が研坐崎の顔を覚えていたため、その後に大老師への取次ぎもできたのだが。
 ――思い出すと冷や汗ものである。話が進まぬ押し問答に業を煮やし、王山而が「いいかげんにせぬか!」と一喝したら、奥から門人達がどやどやと駆けつけ て来た。
 一触即発、といういやな空気がみなぎったが――
(――その騒ぎのおかげで、師範が出てきて話が進んだんだがな)
 そして、その王山而は、『盤』の町を色々見て回る、ということでひとまず別れた。「日が暮れたら城門で会おう」と話してはいるものの、日はまだ少し高 い。
 ――今はどの辺りを見ているのだろうか?
 そんなことを考えながら、研坐崎は先ほど自分達が抜けてきた城門に向かう。
 手の空いた時を見て、門に立つ乙瓶啓に訊ねてみた。
「瓶啓。達姉さんは見てないか?」
「いや、見てないが。今日戻ってくるのか?」
 研坐崎は乙瓶啓に事情を話した。
 白井で会った後、『盤』までの道の途中で隊商を襲っている黒帯武賊とやりあい、橘達瑪は被害者の遺族らに報告するべく、ひとまず白井へと戻った――
 さすがに、才孟の黒帯の事は伏せた。おかげで「爺さん婆さんがどうして黒賊を倒せるのか」と乙瓶啓は首を傾げたが、「実は達人」ということでごまかし た。
 友人への隠し事には感じるものがないでもない。
 少なくとも、自分は嘘は言ってない――研坐崎は自分にそう言い聞かせた。
「――そういうことなら、葬式の手伝いでもしてるんじゃないのか? あの人そういう所が真面目だからな」
「ならいいんだが――気になってな」
「あの人の腕はお前も知ってるだろう? 何かに巻き込まれたって、自分で切り抜けられる人だぜ?」
「そりゃ分かってる。けどな……」
 乙瓶啓の顔が、からかうような笑いを浮かべた。
「何だ? 春閃郎ともあろう男が、寂しいってんでメソメソするのか?」
「メソメソなんてするかよ」
 研坐崎は、乙瓶啓の頭を小突いた――もちろん、大分手加減をして。
 その後も研坐崎は城門の近くに立ち、門から入ってくる人々を眺めた。が、結局日が暮れるまで待っても、橘達瑪は来なかった。

 突然、後ろから肩を叩かれた。
「よう、研坐崎」
 振り向くと、王山而の巨躯がある。
「そちらの首尾はどうだったかな?」
「至極順調、といった所です。『盤』は黒賊討伐と、本英世探しに力を入れて下さるようです」
それは善哉、と笑う王山而。手にある六尺棒で地面を打ち鳴らす。どんどん、という音がした。
 豪放で、人を圧倒するような存在感だ。それなのに、全く気配を感じなかった。
(――どうして近付かれても、おれには気付けなかったのだ?)
「さすがは『盤』。ざっ、と見てみたが、ここまで栄えておる街は、中原でもそうはないな」
「そうでしょうとも」
 故郷を褒められ、頷きながら研坐崎は笑った。生まれかけていた疑念は霧散してしまう。
「この街は、烏丸老師や、老師に教えを受けた侠客達が守り、築き上げてきた街ですからね」
「もともと大きな街だったと言うが、この賑わいなら『都』と呼んでも差し支えはなかろうな」
「もちろんですとも」
「あとは軍隊でもあれば、一国の都としての体裁は整えられよう」
「……またその話ですか、王どの?」
 研坐崎は溜息をついた。
「われら『盤』には野望の類いなぞありませぬよ」
「周りの者には、そう思わぬ者もいる」
「王どのもそうなのですか?」
「野望野心を持てば……その達成、『盤』ならば不可能でもあるまいな」
「過ぎたるは望むべからず、分相応を弁えるべし――これも『盤』の教えです。中原の武門統一など……」
「それでも危険に見える限り、人は恐れを抱き続ける。いずれ彼らは動き出すぞ?」
「……動き出す、とは?」
「さあな」
 研坐崎を見下ろしながら、王山而はニヤリと笑った。
 その時、門の方から乙瓶啓が呼びかけてきた。
「何だ、坐崎。まだいたのか?」
「あ、まあな」
「橘達瑪さんなら大丈夫だって。それよりこれから飲もうぜ、春閃郎どのの武勇伝を聞かせてくれよ」
 肩を叩き、促す乙瓶啓。
「さすが春閃郎どの、人徳がございますなあ」
 王山而は顎に手を当て、先程とは違う笑いを浮かべた。
「乙瓶啓どの、この王山而めもご相伴してよろしゅうございますか?」
「どうぞどうぞ。どうせ飲むなら、面子は多い方が楽しいですから」
「同感ですな。『盤』時代の研坐崎どののお話を色々聞かせて欲しい物です」
「……すまん、瓶啓。今日はあまりつきあうことはできん」
 水を差す研坐崎に、「何だと?」と言わんばかりの顔で二人は向き直る。
「こら、坐崎。何年か振りに会った親友の誘いを断るのか?」
「あまりいい事には思えぬぞ、研坐崎。友のつながりというのは一生もの、決してないがしろにすべきではない」
乙瓶啓はともかく、王山而までが文句を言って来る。
 詰め寄って来かねないふたりを、研坐崎は手で制した。
「……いや、別にないがしろにしているわけじゃない」
「じゃあどうしてだ、坐崎?」
「恩人から、眼を離したくないんだ」
「恩人――ああ、才孟とかいうお婆さんのことか?」
「恩人どのに気を遣いたいのは分かるが、気を遣い過ぎるのも向こうにとっては迷惑ではないか?」
「いえ、どうも気になりまして」
 さっきにも言った言葉だった。その時は、師姉の事で口にしたのだが――
 師姉。橘達瑪。
 研坐崎はやっと気付いた。
「あの人、似てるんですよ。会った頃の達姉さんに」
 しばしの間を置いてから、ふう、と乙瓶啓は嘆息した。
「……それじゃあしょうがないなあ……」
「『しょうがない』ものなのでござるか、乙瓶啓どの?」
「こいつにとっては、師姉どのは特別ですからね。……せめて家までつきあえ、研坐崎。うちの妹に料理を包ませてやる」
 三人は歩き出した。
 日も暮れて、空は薄暗くなっている。
 街路に並ぶ酒場や客桟には灯が入り、ぼちぼちとにぎわい始めていた。
「毎年この頃だったな、橘さんが故郷に行くのは」
「ああ、そうだ」
 歩きながら、研坐崎は城門の方を振り返る。
 やはり、師姉の姿はない。結局今日も追いついては来なかった。
「もう何もない故郷に行って、恨み直すんだ。孔雀党と、その頭首を必ず討つってな」
 ふむ、と王山而は唸った。
「橘達瑪どのなりの、臥薪嘗胆というわけか」
 受けた屈辱は必ず雪ぎ、仇敵は必ず討て――
 報復は侠客の掟である。復讐を遂げ名を成した者の名は数多く、『盤』の門人が読まされる文書の中にも、仇を討ち果たした義士の物語はいくつもあった。
 と、研坐崎がぽつりと洩らした。
「……復讐なんて、馬鹿げてる」
 その台詞を聞いて、王山而が顔をしかめた。
「侠客の言葉とは思えぬな……」
「恨みや憎しみだけで生きていくなんて間違っている……王山而どのはそう思われませんか?」
「研坐崎どのは仏門であったかな。これは意外だ」
「仏門であるか否かは関係ありません。ただ……」
「ただ?」
「ただ……仇を討った所で、失ったものが戻ってくるわけではないでしょう」
「……仇を必ず討ち果たす、そう思わなければ生きていけない人間もいよう」
 答えながら、王山而は得物の柄で、とんとん、と肩を叩いた。
「それとも何か? 才孟どのや橘達瑪どのは、出家して菩提を弔っていれば良かった、と?」
「それも違います……生き残ったのなら、自由に生きていけばいいと言ってるんです」
「仇の事など忘れて、か?」
「……過去にとらわれても仕方ないと思うのですよ」
 研坐崎の横で、乙瓶啓がクスリと笑う。
「……変わってるでしょう、坐崎は?」
「確かにな……復讐を軽んじる侠客は、初めて見た」
 どう反応したものか、戸惑う王山而を無視し、研坐崎は続ける。
「恨みや憎しみだけに凝り固まっている人というのは、傍目にも痛々しいものなのですよ……自分の骨肉を削いで、それを燃やしているように見えて」
「恨むも憎むも人の勝手だ。他人がとやかく言う筋合いでもない」
「けど、それではまるで……まるで……」
「……親兄弟を殺されて、受け流せる人間などそうはおるまい」
「みんなが前向いて生きてけるわけじゃないぜ、坐崎」
 乙瓶啓も自嘲気味の笑みを浮かべ、研坐崎に言った。
「みんな何かしら、厄介なもの引きずってるって――忘れることなんかそうそうできんさ」
「……お前も何かあったのか、瓶啓?」
「五年も経てば、誰にだって何かしらあるさ――同じ分の時間は、みんなに流れてるんだからな」

 研坐崎の手にある包みからは、芳醇な匂いが香ってくる。
 乙瓶啓の妹の肉料理だ。乙家秘伝のタレで仕上げたというそれは、彼の家がやっている肉屋でも人気がある品なのだそうだ。
 早々に辞するつもりではあったが、結局研坐崎と王山而は、乙瓶啓の家で夕食を振る舞われた。思い出話や、旅先での出来事を話している内に座は盛り上がっ て来たのだが、そこを何とか切り上げた。
乙瓶啓の家を辞した後、研坐崎と王山而は門番にとがめられることもなく朱塗りの門をくぐり、奥にある別棟へと向かった。
そこは、研坐崎、王山而、才孟ら三人の当分の宿であった。
「おれもここで寝泊りするのか?」
「もちろんですよ。王山而どのも私の恩人ですからね」
「……そんなにカネは持ってないぞ?」
「命の恩人からおカネを取るなんてしませんよ」
「……では、つつしんで世話になろう」
「どうぞどうぞ。さ、こちらです」
 研坐崎に案内され、王山而は自分にあてがわれた部屋の前に立つ。
その扉に手をかけた時、
「なあ、研坐崎」
王山而は切り出した。
「何でしょう?」
「才孟には、あまり深入りせぬ方が良いと思うぞ」
「なぜそんなことを?」
「お主も先程言っていたろう、己が骨肉を燃やしているかのようだ、とな。迂闊に近付けば火傷では済まん」
「死地にある人を救うには、死地に飛び込まねばなりませんよ」
「お前の救いなど、才孟どのは望んではおらんぞ」
 王山而は断言する。
「復讐を願う者が求めるのは、自分の仇を討つ事だけよ。お前はその手助けをすれば良い。他の気遣いは無用だ」
 研坐崎は首を振った。
「それでは心がもちません。いつか潰れてしまいます」
「才孟ならもう潰れておろう。義父に裏切られ、仲間が殺しあったその時にな」
「ならばそれを救うまでです」
「望んでおらんと言ってるだろう? それに、才孟を救ってどうなる? お前はどうする?」
「……どうもしません。ただ、もう少し幸せな人生を送って欲しいだけです」
 王山而は、しばらく無言で研坐崎を見つめた後、溜息をついた。
「……忠告はしたぞ」
「お気遣いには感謝します」
 研坐崎は頭を下げ、王山而が部屋に入っていくのを見送った。
 王山而の隣が研坐崎、その隣が才孟にあてがわれた部屋だ。その扉の前に研坐崎は立った。
 障子の窓は、ぼんやりと灯りに照らされている。
「……才孟どの。入ってもよろしいですか?」
 そう呼びかけてから、耳をすました。
 ひゅうぅぅ、という音が聞こえたと思った。
 少し迷ったが、戸に力を入れてみた。鍵はかかっておらず、簡単に開いた。
 椅子にうずくまり、じっとしている才孟の姿があった。灯はともされたまま、壁際にある机の上に置かれていた。
 ひゅうぅうう、という音は、あいかわらず鳴っていた。才孟に近寄り、眼を凝らし、耳を澄ますと――
(やはり――か)
 ――胸に抱きしめられた黒い帯から鳴っているのが分かる。
 才孟と心をつないだ黒帯。つないだ思いは本英世への復讐。
 昼に老師達に語った内容は、一昨日の夜に研坐崎と王山而も聞いた話だった。
 何度も咳き込み、呼吸を継ぎながら、決して止める事なく語られた物語──
 小さくなっている才孟の体が、ぴく、と動いた。
 皺だらけの顔にも動きが見え、うっすらと眼が開く。
「起こしてしまって申し訳ありません」
 頭を下げてから、研坐崎は胸の包みを差し出した。
「いかがですか?」
 椅子の上、才孟は首を横に振った。
「肉料理は嫌いですか?」
 再び才孟は首を横に振る。
「お腹が空いてらっしゃらない?」
 やはり才孟は首を振る。
「ならば、一口だけでもお食べ下さい……栄養がありますよ?」
「……それ……美味しい……ですよね」
「はい」
 研坐崎は頷いた。
「秘伝のタレが使われているそうですよ」
「なら……もっと不味いものを……下さい」
「はい?」
「私は……美味しいものを食べたり……楽しいことをしちゃ……いけない……」
「なぜ?」
「……みんなは……もうできないから……」
 才孟の胸の帯が、また鳴った。
「みんなはもう……できない。そういうことが……だから、あたしもしちゃいけない……」
「才孟どの……」
 研坐崎は、包みを机の上に置いた。
「才孟どの……あなたは生きているんですよ。ならば、生きているうちにしかできないことをしましょう」
「……それなら……あいつを殺すことだけ……あれば……いい……」
「それは、もう私達にお任せください……あなたの望みは、『盤』に助けを求めることだったのでしょう?」
 その問いにも、才孟は首を振るばかりだ。
「……望みはあいつを殺すこと……それ以外は……何もいりません」
「なら……本英世を殺して……その後は?」
「後は……あたしも死ぬ……みんなが……連れて行ってくれる」
 自分の胸にある帯を見下ろした時。才孟の顔は、確かに笑っていた。
 胸が塞がれる思いがした。哀しみと怒りとが、ない交ぜになって渦を巻く。
「……どうして……命を粗末にされる?」
「どうせ……長くは……生きられないから」
「なら、なおさらその命は有意義に使いましょう。復讐だけの、憎しみだけの命なんて、何の意味があるのです?」
「あたし……あたし達には……もうそれしか……ない……」
「才孟どの……!」
 研坐崎は、老師達の前でしたように、才孟の前にかがみ込んだ。
「才孟どの……あなたはこれまでずっと苦しかったのでしょう? ここまで自分を傷つけ、苦しめて……ですからもう、これ以上は……」
「だめ……あいつを殺さなきゃ……」
「ですからそれは、私達が……」
「私達が、あいつを殺すの……探すのを手伝って……もらえるのは嬉しい……でも、殺すのは……あたし達が……する」
 皺だらけの顔が歪み、眼が見開かれた。
「あいつ……殺す……必ず……」
 才孟は今、黒帯を身に付けてはいない。
 しかし、全身を震わせて呪詛の言葉をもらす様は、人ならざる「鬼」の姿に見える。
(いや――これもまた人なのだ)
 研坐崎はそう思い直す。かつて橘達瑪も、こんな顔をしていたではないか。
「お願いです、才孟どの……後は私達に任せて、過去にとらわれるのを止めて下さい」
「……どうして……そんなことが……言えるんですか?」
 皺だらけの鬼の顔が、研坐崎を睨んだ。
「あたしには……あたし達にはこれしかないのに……?」
「復讐しかないなんて、それこそ有り得ません。あなたは生き残ったのです。生きていればこそできることなんて、いくらでも……」
「みんな……もうできません……」
 研坐崎の眼前に、折り畳まれた黒帯が差し出された。
「みんな、死んだ……ここにいるけど……みんな死んだ……もう何も……できない……」
 差し出された手が、わなわなと震えている。いや、震えているのは帯なのか。
「だから……あたしだけが……なんて……」
 「自分と黒帯の思いはひとつ」――才孟はそう言った。
(でも……こんなのは……思いはひとつなんて言わない……!)
 研坐崎は一歩下がり、その場に両膝をついた。
「……黒帯に宿られる方々に、伏してお願い申し上げます」
 そう言って、音が鳴るほどの勢いで額を床に打ち付けながら、平伏する。
 叩頭。昼にも、長老達に向けて研坐崎が行った礼である。
 相手をどこまでも高く持ち上げ、自分を卑屈なまでに低くする、江湖の中でも最高級の、同時に最低級の儀礼である。本来ならば、弟子が己の師匠に向けてと いう場合にしか、ほとんど行われることはない。
 しかし、今はそうしなければならない、と研坐崎は信じている。
 身を滅ぼすほどの恨み――それを晴らすためだけの生き方なんて、間違っている。
 それを止めるためならば、自分如きの面子など、どうして惜しむことがある?
 研坐崎は顔を上げた。
「この度、我ら侠客が一派『盤』は、奸賊たる本英世を探し出し、討つ事となりました。この件、『盤』のみならず、中原の武林全体に広まることとなるでしょ う。もはや彼奴めは袋のネズミでございます」
 再び研坐崎は叩頭し、鈍い音を立ててから顔を上げた。
「黒帯の方々。あなた方の本懐は、すでに叶ったも同然。後のことは我ら武侠に任せ、安らかにお眠り下さいませ……」
(そして……才孟どのを解放してください……!)
 三度叩頭。顔を上げた時、研坐崎の額からは血が滲み出ていた。
 その眼が、差し出されている帯を凝視する。
 風もないのに、才孟の手に収まり切らぬ帯の部分が揺らぎ、嘯声はいよいよ強くなっていく。
  ――ひゅうぅぅぅぅう
  ――おおぉぉぉぉぉん、おおぉぉぉぉぉん
  ――ふゅうぅるうぅ、ふゅうぅるうぅ
  ――しゅるるるるるぅ、しゅるるるるるぅ
 不吉な哭声を発する帯。それだけでも慄然とするには十分なのに、眼前で四重五重に不吉な声が重なると、一層怖気が増幅される。
 しかし、今回もまた、逃げるわけにはいかなかった。昼には老師達に対してそうしなければならなかったように、今は黒帯の魂に対して伝えなければならない のだ。
 死者には、安らぎを。そのため、死者の無念は生者がひきつがねばならない。
 だが、生者もまた、いつまでも死者にとらわれていてはならない。その矛盾は、「侠」が背負っていけばいい。
 また、人は生き、人は死す。生ける者も死せる者も変わらず人であるならば、その心に訴えかけることで、より良き方向に変えていくこともできるはず――
 研坐崎は、明確にそう考えていたわけではない。ただ直観のままに、黒帯に向けて訴えかけていた。
 やがて、嘯声にいくつもの声が重なっていった。哭する死者の和声はいよいよ暗く、陰鬱になり、帯はやがて、「揺らぎ」ではなく「のたうち」出した。
「……みんな?」
 手に黒帯を掴んでいる才孟自身が、怪訝な顔をした瞬間、
(……殺気!)
 両膝をついた状態から、とっさに後方に跳ぶ研坐崎。
 その、一瞬前に研坐崎がいた空間を、才孟の手から抜け出した帯の端が、貫いていた。

 体勢を立て直すと同時に、二手目が来た。
 直前に、研坐崎の頭があった空間を貫いていた帯は、瞬間、蛇が鎌首をもたげるように跳ね、再び研坐崎の頭を狙って伸びた。
 左に跳ねる研坐崎。だが、帯のもう一端がすでに先回りしており、左の肩口を狙って振り下ろされてきた。
 体を捌き、わずかに身を反らせると、先端を鉤のように曲げた帯が胸を掠め、研坐崎の足元の床を――
(抉った!?)
 がつっ、という鈍い音と共に、木で作られた床板に穴が空き、木屑が舞う。
 その舞った木屑が落ちる前に、反対側の端が研坐崎に殺到する。
 喉、水月、心臓の三点を、それぞれ四種以上の角度から凄まじい勢いで攻め立てる。体捌きと体反らしで、この連続攻撃の手の裏側――この帯が人の腕であれ ば、その人間の背後の位置に移った。
 背後ならば安全地帯――と思った瞬間、今度は帯の真中がたわみ、たわんだ部分が螺旋を描きながら研坐崎の眉間を狙ってきた。
 壁に激突するほどの勢いで、研坐崎は大きく後方に跳び退った。
 跳躍の軌跡は、部屋の対角線上にきれいに乗り、研坐崎は帯との間合いをようやく開けることができた。
 帯――そう、帯である。
 死者の怨念を宿しているという黒帯が、宙にのたうちながら形を作っていた。
 蛇のような、龍のような――その形容は当てはまらない。
 龍というには荘厳さがなく、蛇というには生々しさがない。
(……悪い夢でも見ているのか?)
 そう思いかけた時、研坐崎の足が、何かに触れた。
 目線だけを足元に向けると、先ほど床から飛び散った木屑であった。
 ……どんなに現実離れしていても、これは確かに現実だ。
「怒ってます……みんな」
 ぽつり、と才孟が口にした。
「お前に……何が分かるんだ、って」
「ならば……教えて下さい」
 研坐崎が、答えた。
「私は、何を知らねばならないのか」
「知らなきゃ……いけないことなんて……何もありません……取り消して……くれれば……」
「それはできません」
 そう答えると、帯の動きが、ぴた、と止まった。
「私だって、ただの思いつきで彼らに願ったわけではないのです」
 ややあって、再び黒帯が、宙をのたくり始める。
 さっきまでに比べて、恐怖感が薄らいでいる。
 代わりに「ここは退けない」という思いが強くなっていた。
(おれは、彼らに知らせねばならない……そして、彼らを知らなければならない)
 最低限、こちらの言ってる事はちゃんと聞いてもらえるようだ。聞いてもらえたからこそ、黒帯に宿る魂は、怒っている。
 なら、次は――分かってもらう。
 分かってもらえるまで、呼びかける。
 と、引き結ばれた研坐崎の口に、かすかに笑みがさした。
 もし、この身が滅び、魂が黒帯に取り込まれても――その時も、黒帯の中から呼びかければいい。
 自分達を、武侠を信じてくれ、と。
 その思いがある限り、自分はいつまでも、どこまでも彼らに呼びかけ続けられる。
 ならば、恐れるものは何もない!
(ご覧あれ、黒帯の方々よ……これが、おれが、「侠」だ!)
 右手の指を伸ばして手刀とし、左手は人差し指と中指以外を握りこむ剣訣の形とする。
 そして、左手は腰にためるような位置に構え、右手は左斜め上へと伸ばしつつ、肘を曲げ、肩幅に開いた足と腰に捻りを加える。
 それはまさしく、春霞閃空十六手の第一の型・「空鳥捕虫」。手には剣を持ってはいないが、この形で振り下ろされた手刀の一撃は、凄まじい威力を持つ事と なろう。
 迷いとためらいのない思いが、その一撃の意味を決める。
「来たれ、黒帯――!」
(侠の魂、思い知れ!)
 次の瞬間、黒帯が研坐崎に襲い掛かった。


巻之三へつづく
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