序章

 暗がりの中。
 絶叫や断末魔、荒々しく踏み鳴らされる足音が治まってから、どれ程の時間が経ったのだろうか。
 うずくまっていた少年は身を起こし、上に手を伸ばした。
 跳ね上げ戸になっている床板は、子供の力ではなかなか上がらなかった。
(う〜ん……!)
 腕だけではなく、足腰の力も振り絞ると、突然抵抗が軽くなる。
 がたん、という音が、静まり返った空気の中に響く。少年は息を飲み、慎重に力を入れていく。
 できた隙間からは光が差しこむ。眼を細め、暗がりに慣れたのが再び明るさに慣れるのを待った。
 慎重に床板を上げたつもりでも、ぎぃ、という軋みは消しようがなかった。
 が、その音を聞きつけて誰かが来る、という様子もない。
 完全に戸を上げて、つっかえ棒を差しこんで顔をのぞかせて見た。
 一番最初に目に入ったのは、床に横たわる父親の背中だった。見慣れているはずなのに違和感があったのは、横たわったままぴくりとも動かない事と、着てい る服が真っ赤に染まっていたからだ。
 服だけでなく、父親は全身が真っ赤に染まっていた。その周りの床にも、赤が飛び散っていた。
 むん、と、鉄の匂いが鼻をついた。
 ぼんやりと、その赤が「血」である事は察せられたが、それが何を意味するのかはよく分からなかった。
(お父さん)
 呼びかけてみた。返事はない。手を伸ばし、揺すって見ると、掌にべっとりと生温かい血がつき、横臥していた体が、ごろん、うつ伏せに転がった。
 夢うつつの心地で、少年は床から這い出し、立ち上がった。
 ひどく荒らされた家の中を通り抜け、外に出た。戸板は打ち壊され、壁から外れて投げ出されていた。
 戸口の横に、服をびりびりに破かれ血まみれになった母親が横たわっていた。
(お母さん。お母さん)
 父親にそうしたように、呼びかけて、体を揺すってみた。父親がそうだったように、答えはなく、力なく体は転がったままだった。
 静かだった。
 静かで、血の匂いだけが強かった。
 道のあちこちに、お隣さんや近所のおじさんやおばさん、よく遊んだ友達など、よく見知った人たちが倒れていた。みんなみんな、血にまみれていた。
 倒れている人の中には、剣や槍などが突き刺さっているものもある。
 違和感――どうして人の体に、色々な物が突き刺さっているのだろう? これじゃあまるで、人が「物」みたいじゃないか――
 村の中を歩き回ってみた。
 自分の足音と、息遣いの音だけしか耳に入らなかった。
 それ以外に音はなく、自分以外に動く物は何もなかった。
 夢うつつの心地はますます強く、現実感が失われ――
 気がつけば、少年は村の真中に立ち尽くしていた。
 村の人間は誰も何も言わず、自分だけが取り残されている。父も母も、自分を残して動かなくなってしまった。
 こんな事があるなんて、夢にも思わない。こんな事になるなんて、信じられない。
 頬をつねれば、確かに痛い。でも、その痛みが、どこか遠い。
 どうしていいか、分からなかった。何をどう考えればいいのかさえ――
 そうして、どれほどそうしていたのか。
 不意に彼は声をかけられた。
「あんた……生き残り?」
 振り向くと、白い着衣の上に、紅い馬甲を着けた少女が立っていた。見かけない顔だ。
「あんただけなの?」
 無言で少年は頷いた。
「……そう」
 少女は、先ほどまで研坐崎がそうしていたように、しばらく辺りを見回し、立ち尽くしていた。
 そして今度はその少女の姿を、研坐崎はずっと見ていた。
 歳は自分よりもかなり上――だけど、「大人」という程年上でもない。
 背中に弓のような物を背負っているから、「狩人かな?」と思った。が、腰に下げているものは鉈や山刀ではなさそうだ。
 この人は何だろう?
 この村に、何か用でもあったのかな?
 半ば麻痺していた頭の中に、ぽつぽつと、そんな疑問が浮かんでは消える。
 やがて。
 再び少女は口を開いた。
「……ねえ、あんた」
 自分が呼ばれた、と気付くまで、ずいぶん時間がかかった。
「仇……討ちたくない?」
「かた……き?」
「あんたの村をこんなにしたやつら……復讐したいって、思わない?」
 不意に。
 少女が手を差し伸べた。
「私が、あんたに教えてあげる。仇を討つ方法を」
 「ほうほう」。「かたきをうつ」。
 麻痺している頭では、言われている言葉と意味とが結びつかなかった。
 だが、自分に向けて、今手が差し伸べられていることだけは分かった。
 父も殺され、母も殺され、身寄りといえるものがいっさいなくなった自分に向けて、差し伸べられている手。
 止まってしまった自分に開かれた、道そのもの。
 そして、次に言われた言葉は、確かな意味を伴って、研坐崎の脳裏に焼きついたのだ。
「私と一緒においで」
 次の瞬間、研坐崎は少女に向かって駆け出した。
 そうしてその胸にしがみついてから、やっとのことで泣く事ができたのだ。
 父を呼んだ気がする。母を呼んだ気がする。
 あるいは、仲良しだった友達や、好きだった隣人達の名を。
 それらの名前は、嗚咽の中で言葉にはならなかった。
 涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになった顔を、少年は少女の胸に何度も押し付けた。少女も自分の服が汚れるのを構わず、黙って少年を抱きしめていた。
 夢うつつの、ぼんやりした心地は拭い去られ、少年は自分の身に何が起きたのかを悟った。
 一方で、今自分を受け止めてくれている感触は、この世の何よりも確かだった。
 その確かさは、かつて親が、自分を抱きしめていた時のものと同じ位の確かさだった。
 ――いや。「かつて」なんてとんでもない。
 先刻、床下に自分を放り込む直前、父と母はしっかりと自分を抱きしめてくれた。
 それは何よりも強く、何よりも確かで――愛しくて。
 今、自分を受け止めてくれている腕も、胸も、同じ位に――。
 やがて。
 少年の号泣がある程度静まってから、少女は訊ねた。
「あんた、名前は何て言うの?」
「ざき……研坐崎。」
「そう……じゃあ、研坐崎。今日からあんたは、私の弟だからね」
「おとうと?」
 少女は頷いた。
「私の名前は、たつま。橘達瑪。私の事は姉さんと呼びなさい」

 咲いた花は必ず枯れ、種を残して土へと還る。
 土へと還った花の身は、新たな大地の滋養となる。
 陽高くして地を照らし、地に萌える芽は天を目指す。
 芽が根付く地は、累々と花の屍積もり、もはや見分けることはかなわない。
 健やかに日を浴びる芽は、己に先立つ死の意味を如何に知るか。


 一

 黒帯の一端が、剣の刺突の如き勢いで迫ってきた。
 間合いに入った瞬間、足・腰・肩で作られていた溜めが解き放たれ、右手刀が空間を裂く。
 手刀の軌道にあった帯の端は、避けようとして避けきれず、徒手による「空鳥捕虫」の一撃をまともに受ける。
 ぱしっ! という、激しい音が鳴る。
 が、同時に黒帯のもう一端が、渦を描きながら研坐崎の眉間に飛び込んで来た。すると、腰に溜められていた左の剣訣が突き上げられ、目前に迫っていた帯の 刺突を跳ね上げた。
 二手の時間差攻撃はいずれも受け流された。黒帯は宙に泳ぎ、研坐崎の左右の腕も、それぞれが受け流しの勢いのままに空に泳ぐ。
 すると今度は黒帯の中がたわみ、拳撃のように研坐崎の水月を狙う。狙われた方の研坐崎は、未だ体に残している「空鳥捕虫」の溜めを全て解放、体のひねり と体捌きを連携させ、黒帯と体の位置を変える。
 今まで部屋の隅を背負っていた研坐崎は、逆に黒帯を隅に追い詰める形となった。
 人が相手ならば、この時点で勝ったも同然の場面だ。相手の背後を取り、しかも逃げ場を奪っている位置である。
 が、今の相手は人ではない。
 攻撃を外された黒帯だが、しばらく宙をのたくった後、再び研坐崎に殺到した。
 両端の刺突、たわみの拳突が、立て続けに研坐崎を襲う。一呼吸の間に十にも届こうと言う攻撃の手が、全く別々な角度から繰り出された。
 研坐崎もまた春霞閃空十六手のひとつ、「暁光貫靄」の型で縦横無尽に右手刀を振り、それらの攻撃をことごとく受け流す。帯と手刀とが交錯する度に、何か を激しく打ち合わせる乾いた音が鳴り響いた。
 「暁光貫靄」は、無数の虚の手を繰り出して相手を幻惑しつつ、虚の中に実の手を繰り込んで敵を討つ型である。いかにも春霞閃空十六手の技らしく、とにか く手数で相手を呑むのを狙いとするが、無数に繰り出す攻めの手を全て守りに転用することで、鉄壁の防御の構えとすることも可能だった。
 ──無論、可能と言っても、誰にでもできる事でもないが。

(……すごい)
 才孟は言葉もなく、剣侠と黒帯との攻防に眼を奪われた。
 黒帯はうねり、己の全ての個所を剣、拳、穂先として連撃を繰り出す。あまりに速すぎて、才孟にはもう残像と実体の見分けがつかない。
 が、それらはひとつとして、研坐崎の体を打ち抜くことはなかった。
 今までにもこんな形で、黒帯が自身でのたくり、誰かに向かって行ったことはある。
 そうした場合、黒帯相手に四合以上戦えた相手はほとんどいない。六合以上は会ったことさえなかった。
 黒帯だけで切り抜けられなかった窮地というのは、不届き者の数が多い場合がほとんどだったが、それでも、帯と一対一で戦って勝った者は誰もいなかった。
 もっとも、この黒帯相手に「勝て」と望む方が無茶ではあろう。宙を舞い泳ぎつつ攻撃を仕掛けてくる帯など、誰が思いつくだろうか。仕掛けられる攻撃も、 予想することさえできまい。
 それに、「帯である」ということを抜きにしても、帯に宿った者達は多少は武術をかじっている。人の体という制約から解放された黒帯は、自由な武の技その ものとさえ言える。
 一撃一撃の威力は重く、狙いは正確で、同時に速い──その連続攻撃となると、もはや人の域を越えている。
 ──才孟は、今までそう思っていた。
 瞬きを数回繰り返す程の間に、並のごろつきなら十回以上、多少武術をかじった賊でも既に五回以上は死なせている──それほどの密度の、黒帯の連続攻撃で ある。
 だが、それらをことごとく受け流している者が、目の前に存在した。黒帯を巻くこともなく、自分の力だけで互角に戦っている者が。
 その眼は、やはりまっすぐに輝いている。
 迷いのかけらもない瞳。
 ぶきょう──武侠。
(武を以って……侠を……為す……)
 ぶるっ──
 久しく感じることの無かった何かが、熱と一緒に才孟の中を駆け巡った。

 研坐崎は、迫り来る黒帯とは一定の間合いを置いている。それは黒帯の間合いではなく、手刀を振るう自分の間合いだった。
(戦えない相手じゃない──!)
 そう確信していた。
 黒帯がいかに宙に踊り、泳ぎ、攻撃を繰り出すといっても、帯の長さには限りがある。限りがあれば、手が出される範囲も自ずと限られてくる。
 また、帯の端からの攻撃は、瞬間瞬間の端の位置を把握していれば予測はできる。帯がたわんでの攻撃でも、「たわみ」という予備動作を見逃さなければ反応 はできる。
 ――尋常ならざる集中力と観察力。何より確かな武術の功夫が、求められはする。
 しかし、人ならざる黒帯の技は、決して人に防ぎ得ぬものではなかった。
 ――が、その反面、人たる研坐崎が有利、とも到底言えない。
(何とか……横に……移れれば!)
 突撃してくる相手に対し、間合いを一定以上置き続けるという事は、必然、敵の進撃に後退し続けるという事だ。部屋の広さは有限であり、同じ状況が続け ば、いずれ退路は失われる。
 研坐崎としても真っ直ぐ後退し続ける愚は分かっている。隙を見て帯の進撃から横の位置に体を捌き、いずれ追い詰められる形から逃れたいとは思いはする。 しかし、黒帯の攻撃も激しく、容易に位置を変えさせてはくれない。
 ──変えさせてはくれない? 
(違う──変えさせないようにしているんだ!)
 少し智恵を働かせれば、この状況の不利有利、有利を保つにはどうすればいいか、というのはすぐに分かる事である。実際、繰り出される攻撃には、研坐崎が 横に出るのを──黒帯の進撃から逸れるのを牽制している手もあった。
 その事実が、何とも言えない印象を呼び起こす。人ならざる黒帯に宿っているのは、間違いなく人なのだ。
 が、その印象に感じ入ってる余裕もない。
(壁まで……あと七歩か八歩……!)
 その距離が尽きれば、その時こそ為す術はない。
 ──一瞬、というのをさらに何十何百にも分けたような時の中。「次の一手」を考える。
 敵の直進攻撃に、横に逃げる術なし。
 横が駄目なら「縦」とも思う。が、こちらが後退している状況で、敵を飛び越える、あるいは潜り抜ける真似は無理。
 ならば、どうする……?
 ――ひとつの閃き。
 閃いてから、勝算を判断――しようとして中止。
(迷っている暇はない!)
 黒帯の数十手目かの攻撃を右手刀で弾く。弾いた腕は勢いのまま、左上へと伸び――
 直後、今まで駆け足で後退していた研坐崎の足がその場に踏ん張った。
 帯の両端、五箇所のたわみが襲い掛かる。
 踏ん張った両足と、左上へと伸びる右手刀。その形は――
(春霞閃空剣、「空鳥捕虫」!)
 手刀が一閃し、黒帯の全ての攻撃が薙ぎ払われた。
 溜めを解放した勢いのまま体をめぐらせ、研坐崎は背後へと向き、既に五歩弱前まで迫った壁へ踏み込む。
 一歩目、内力を全身に巡らせた。
 二歩目、全身のバネを溜めた。
 三歩目、軽功を働かせ、壁に向かって跳躍した。
 すぐ後ろに、黒帯が迫っていることを覚えつつ、目前にも迫る壁に向けて足を伸ばす。瞬間、両足を壁面につけて屈みこむ。
 直後、それを溜めとして解放、天井に向けてわが身を伸び上がらせ、追撃してきた黒帯を飛び越え――
 再び床に足をつけて向き直れば、黒帯とは十数歩もの間合いが開いていた。
(何とか――脱け出せたか――)
 が、一息ついた瞬間、危うく膝から力が抜けそうになった。
 ――最初の「空鳥捕虫」の手から今までの時間。おそらくは、茶をひと口すする程の間もなかったろう。
 しかし、そのわずかな時間に黒帯が繰り出してきた攻撃の手数は、一〇〇にも届いているだろう。しのぎ切った代償は、消耗という形で研坐崎にのしかかって いた。
 消耗は、それだけではない。
(くっ……!)
 緊張が少し緩んだことで、両腕全体から、鈍い痛みが湧き起こる。
 徒手での春霞閃空の技は、剣にも引けをとらないものだ。
 しかし、徒手は剣には成り得ない。
 黒帯の繰り出す手は速く、重い。それらを防ぎつづけた事で、両腕とも肘から先の感覚がなくなりかけていた。
(だが……まだ動かせる……)
 呼吸を整え、構えを作った。
 間合いの彼方、再び黒帯がうねり始める。
 向こうもまだまだやる気らしい。
(望む所だ――)
 研坐崎は黒帯を見据えた。

「やめてぇ……みんな、やめてぇ……!」
 見とれていた才孟は、我にかえると、しわがれ声で呼びかけた。
「もう止めて……戦ったって……意味は……ないから」
「意味がないとは……どういうことですか、才孟どの?」
 構えを取り、黒帯を見据えたままで、研坐崎が問う。
「大体これは戦いじゃありません。私はみなさんに──あなたや黒帯の方々に分かって欲しいだけなんですから」
「一体……何を?」
「ほら、やっぱり分かってない──」
 研坐崎は苦笑した。
「私達『盤』を、武侠を信じて欲しいってことと、それから──」
「それから?」
「あなた達の事を教えて欲しいってこと。お前に何が分かるんだ、と言うなら──分かるように教えて欲しいんです」
 呼吸。内功を練り、体に巡らせる。ほんの少し消耗が回復したような心地がする。腕の痛みもいくらかは引いたと思う。
「……研坐崎……さん」
「何ですか?」
「あなたが……とても強い事は、よく分かりました」
「いえ、私ごとき、大した事はありません」
「強いですよ……十分に……だから……もう……」
「ならばあなたは、私達を信じて下さいますか? もう、過去にはとらわれないで?」
「そんなの……できません」
「じゃあ、私も引き下がれません」
 宙に踊り、綾を成しながら、黒帯がじわじわと間合いを詰めてきた。
 遠い間合いからただ飛び込んでも受け流される――その事を悟ったのだろう。
(ほら――やっぱり無駄じゃない)
 研坐崎は口元を微かに歪めた。
(向こうも、こちらの事を分かってくれた)
 先程までの手合わせで、こちらもまた、向こうの事が少しは分かった。
 才孟と、黒帯に向けて呼びかけた。
「私は信じてますよ。あなた方にはきっと分かってもらえる、って」
 睨むような眼で見据え、息を弾ませながら、声音には「笑い」が交じっていた。
「簡単にはいかない事も分かってます。だから、自分の力を惜しみません――」
 うねる黒帯にまっすぐ指先を向けるようにして、右手刀を構える。
 と、手刀の掌が不意に上を向き――
 伸びた指が起き上がり、くいくい、と動かされた。
 説明するまでもない、「かかってこい」の仕種だった。
 その挑発に、一瞬黒帯の動きが止まり――
 直後、黒帯がまた研坐崎へと襲い掛かった。

(騒がしいな……)
 王山而は身を起こし、寝台から下りた。
 先刻から足音と、「ぱしっ」「ぱしっ」という音が鳴りつづけている。
 研坐崎め、寝る前に套路でもやっているのか──とも思ったが、春霞閃空十六手の稽古にはこんな音を立てるような型はなかったはずだ。
 部屋を出て見れば、隣室には灯はなく、音はその向こう側から聞こえてくる。才孟の部屋だ。
(何が起きている?)
 扉に手をかければ、鍵がかかっている様子は無い。「失礼する」と声をかけて開いて──
 王山而は絶句した。
 宙を躍る黒帯。矢継ぎ早に黒帯より繰り出される攻めの手。そしてそれらを徒手で受け切っている研坐崎。
(……おれは夢でも見ているのか?)
 黒帯がこの世ならざる物であるのは知っているつもりだった。嘯きや呻き声を上げる場面は何度か見たし、死者の魂が宿っている、という話にも納得している つもりだった。
 が、いくらなんでもその帯が自分で宙を舞い、のみならず次々に攻めの手を叩き出すなど、出鱈目過ぎた。
 出鱈目といえば、そんな妖怪変化相手に素手で立ち向かっている研坐崎も、およそ正気の沙汰とは思えない。第一研坐崎は剣術しか、それも春霞閃空十六手し か使えないのではなかったのか?
 ──が、眼を凝らせば、確かに彼が使っているのは春霞閃空の技であった。徒手の構えから出す技に、春閃剣の動きを乗せている。
 また、帯から繰り出される技も、よくよく見れば確かに武術の技である。どこが手でどこが足かは分からぬが、技の流れは「華如拳」──道家に伝わる武術 の、拳法の型が見て取れる。
 黒帯は怒涛の攻めで、研坐崎を圧倒する。研坐崎もよくしのいでいるが、帯への攻め手がない(狙うべき頭や胴体がない!)事もあり、突撃してくる黒帯には 防戦しつつ、後退する事しかできない。
 背後に壁が迫り、退路無し──そう見えた瞬間、研坐崎が攻めに転じた。黒帯の端の刺突に合わせて右の手刀を突き出し、螺旋を描いて帯を絡め取る。そのま ま横へと振り払い、帯から手刀を抜き、部屋の中央位置を取った。
 間合いが開き、両者の技の交錯が止まってから、王山而は怒鳴った。
「これは何事だ!?」
 その声を聞いて、研坐崎も才孟もやっと王山而に気がつく。
「見ての通りですよ、王山而どの」
 息を弾ませながら、研坐崎は答える。
「ちょっと黒帯どのと――そう、黒帯どのに、一手ご指導受けている所です」
「ふざけている場合か、研坐崎!?」
 「指導を受ける」、あるいは「勉強をさせてもらう」という言い方は、武林の中では「技を競う」という意味を持つ。武の技を競うとなれば、その結果が穏や かに終わらぬ事も多い。つまらぬ諍いが元で殺し合いにまで発展し、誰にも同情されぬ死に様をさらした者の話など、数えあげれば切りがない。
「ふざけてなどおりません……こちらの黒帯どのは、なかなかの使い手です。こんな技を見ることなど、そうそうあるとも思えません」
 肩で息をしながら、研坐崎が構えを作る。剣の代わりに伸ばされた右の手刀は、腫れと痣にまみれており、黒帯の技の凄まじさを物語っていた。
「才孟どの、黒帯は止められぬのか!?」
 王山而の問いに、首を振る才孟。
「駄目です……みんな……怒ってしまいました……」
(研坐崎、何をした?)
 そもそも、帯を怒らせるとはどういうことなのか――
(いや、そんなことはどうでもいい)
「怒りを静める方法は?」
「ありません……」
 再び才孟は首を振った。
 舌打ちをする王山而。睨みあう研坐崎と黒帯とに眼を向ける。
 今し方に見せた黒帯の連撃も凄まじかったが、それらを全て受けきった研坐崎も並ではない。
(だが、このままではいずれ――)
「才孟どの。黒帯があのように、ひとりで動くようになった事は今までには?」
「何度か……」
「どういう時に?」
「悪い人が……私に、悪い事をしようとした時……とか……」
 眉をしかめた。
「……研坐崎どのは何をしたんだ?」
「みんなに……言ったんです……復讐の事は自分達に任せて……安らかに眠れ……と」
(……この大馬鹿者!)
「けんざきっ!」
 王山而が怒声を上げる。研坐崎も一瞬身を縮こまらせたが、黒帯も空中で動きを止めたほどだ。
「怨恨憎悪の念そのものに、自分から怒らせる事を言う奴があるか!」
「必要だから申し上げたまでです。間違った事を言ったつもりも、したつもりもございません」
(深入りするな、と言ったのに……!)
 思わず天を仰ぐ王山而。名に聞こえし春閃郎、ここまで馬鹿とは思わなかった!
(橘達瑪どの……この馬鹿につける薬を教えてくれ!)
 いや、つける薬があったとしても、果たして通用するかどうか──
 頭を振る。研坐崎に対して言いたい事はいくらでも湧き上がって来るが、そんなことに智恵を傾けている余裕はない。
「……して、動き出した黒帯は、どうなれば止まるのか?」
「……相手を……倒した時……」
「倒す、というのは?」
「……気絶させたりとか……それ以上、戦ったりとかできなくしたりすること……」
「相手が降参した時というのは? 黒帯は動きを止めるか?」
「止まる時も……ありましたけど……」
 才孟は、宙に躍り始めた黒帯を見た。空の中に綾を成しながら、また研坐崎との間合いを詰めていく。
 研坐崎の方も再び構えを取り、先ほどのように「かかってこい」の仕種をしている。が、対する黒帯は、今度はその挑発には乗らない。
「……やめて下さい……研坐崎さん……」
 再び才孟が呼びかける。
「もう退いて……そうでなければ……もう私にも止められない……」
「退けません」
「才孟どのの言う事を聞け、研坐崎」
 王山而も加勢する。
「お前には勝ち目は無いし、続ける事にも意味はない。下手をすれば死ぬぞ」
「意味ならあります、王山而どの」
 研坐崎は挑発の仕種を止めた。もう乗ってくる様子はなさそうだ。
「それにこの研坐崎、死を恐れません」
「ここで死んだらそれこそ無意味、全くの犬死にだぞ!」
「死ねばますます好都合! 魂魄となって、黒帯どのに呼びかけるまで!」
「命を粗末にするか!」
「粗末になどしていません! 使い所と心得ているまで!」
「貴様が死んだ所で、話が通じるものか!?」
「通じます! 充分通じるお方です!」
「この……この……!」
(馬鹿者……たわけ……うつけ……!)
 王山而の脳裏に、覚えている限りの罵言が次々に浮かび上がって来る。あまりに多過ぎて、どれを言っていいのか分からぬほどだ。
「王山而どの……この黒帯どのは、私の事を分かってくれていますよ」
 じり、と研坐崎の足の位置が変わる。わずかに体が、壁へと寄る。
「黒帯どのは、確かに強い。ですが、ただ襲い掛かるだけでは、私には通じません。息もつかせぬ攻め手ではありますが、決して避け切れぬものでもありませ ん……ご覧下さい」
 研坐崎は、左手に結んだ剣訣の形を解き、人差し指を黒帯に向けた。
「最初はいきなり遠い間合いより、私に攻めて来たのです。今は、少し慎重になっていらっしゃる」
「……危険が増しただけであろう」
「そうです。その分、私の事を分かってくれたんですよ……ただ打ちかかるだけでは通じない、と」
 また少し、壁に向けて体の位置をずらす。その方向には、庭に面した窓がある。
「私だって同じです。この黒帯どのもまた武術の達人、しかし、攻めの手は想像もできぬわけでもない……帯の両端、たわみにさえ気をつけていれば、避け切る 事は充分可能なんですよ。
 分かりますか? 私と黒帯どのは、手合わせすることで、ここまで相手の事を知る事ができたのですよ」
「そんな事を知り合っても仕方ないだろう……! 貴様こそ分かっているのか! 命がかかっている、お遊戯ではないのだぞ!」
「相手は既に亡くなられた方々です! こちらも死地へと飛びこまなければ、何も伝えられますまい!」
 その時、研坐崎の気配が変わり──
 今度は研坐崎の方から踏み込んだ。

 ──馬鹿な!?
 才孟、王山而、そして黒帯に宿る亡者さえもがそう思った。
 黒帯が攻め、研坐崎がそれを受ける。いままでの手合わせは、そういう形であった。
 そうなるのが自然なのだ。人ならざる黒帯は、言わば妖怪変化。研坐崎の武術も尋常なものではないが、せいぜいが「人を殺す」ことしかできぬ技だ。妖怪を 倒す事などありえない。
 その虚をつかれ、黒帯の動きに隙ができる。
 織り成す綾には、「攻め」の兆しが見られなかった。
 絶妙な間合いを開けて、研坐崎が立つ。肩幅に開いた足、全身で溜めを作る。
 慌てて──研坐崎にしか分からぬが、確かに慌てて──黒帯が攻めの手を繰り出そうとする。が、その手は全て「空鳥捕虫」の一閃で叩き落される。
 「空鳥捕虫」の勢いは、研坐崎の体を巡らせ──
 その体が窓を向いた時、彼は軽功を働かせ、飛び出す。
 黒帯が追撃の動きに入った時には、窓がぶち破られ、研坐崎は外に躍り出ていた。




 受身を取り、地面を数回転がってから起き上がり、もう一度跳躍する。
 背後に、ひゅん、という音が鳴っていた。
 振り向くまでもなく、黒帯が攻めの手を打ってきたのだろう。
 地に足をつけて向き直り、「暁光貫靄」の手を振るう。繰り出されてきた黒帯の六手の攻めが受け流された。
 が、今度は黒帯が自分から間合いを開けた。そしてまた、宙に我が身をうねらせて、黒い綾を織り成した。
 空はすっかり暗くなり、中天に上った満月の光が庭に下りていた。

 今までならば、黒帯は一気呵成に連撃の攻め手を繰り出して来たというのに――
(黒帯どの──何を考えている?)
 油断なく黒帯を睨みながら、研坐崎は「次の一手」を考えた。
 才孟の部屋を飛び出したのは、言うまでもなく広い場所を確保するためだ。壁に追い詰められそうになる度に、攻め手をかいくぐるのは余りに負荷が大きかっ た。
 本当は、さっきに黒帯を振り払ったという手段もイチかバチかの賭けだった。
 宙に踊る黒帯を「旋蛇添枝(せんじゃてんし)」の型で絡め取った時、そのまま腕を極められていたらその時点で終わっていた。
 そうでなくとも、これまでに何度も手刀や剣訣で、攻め手を受けたり流したりしている。黒帯が繰り出してきていた攻撃は、全て「打撃」であったけれど、そ れらの中に擒拿(きんな)――「締め」「極め」が入っていたら、もっと早くに決着がついていただろう。
 ――それらの事を思い返している内に、研坐崎は気がついた。
 こちらの弱点は、擒拿術――
(……黒帯殿も気付いたろうな)
 春霞閃空剣を応用しているとは言っても、所詮こちらは徒手空拳の武術は素人。剣術をどう修行しても、擒拿の技が入り込む事はない。
 せめて手に剣が、剣とは言わぬまでも、得物があれば良かったのだが――才孟の部屋に入った時は、こちらは丸腰だった。
 才孟も王山而も、恐らくこちらを見ているだろう。頼めば、剣を投げ渡してくれるかも知れないが――
(……いや、駄目だ。それでは本当に戦いになってしまう)
 これは「対話」だ――研坐崎はそう思っていた。
 例え相手が殺すつもりであったとしても、研坐崎には相手を殺すつもりはない。
 仮に、この黒帯を殺す方法があったとしても、そうしてはならないと信じている。
 恐れているのは、死ではない。こちらの願いが伝わらない事だ。
 王山而に言われるまでもなく、まともに戦っても勝ち目がないことは知っている。
 だが、こちらの「勝ち」は、黒帯を打ち倒すことではない――
 その時、庭の中に声が響いた。
「おいっ! 一体何が起きた!」
「何だ、今の音は!?」
 声に続いて、どやどやと駆けつけてくる足音。ひとりやふたりのものではない。
(窓ひとつ、派手にぶち壊したわけだから、人が駆けつけてくるのは当然だな――しまった!)
 瞬きを二回か三回――
 注意が黒帯から逸れた時間は、その程度であったろう。
 が、そのわずかの間に、黒帯は研坐崎の視界から姿を消していた。
 再び神経を集中して、黒帯の位置をつかまえようとするが、
「むっ、研坐崎どの! そんな所で何を!?」
「窓が壊れている……もしもし、研坐崎どの!? 一体何事でございますか!?」
「別に、何でもない!」
 話しかけられれば返事をせざるを得ない。その分、集中がかき乱される。
 しかも、駆けつけた門人らの気配(およそ五人、といった所か)が邪魔で、さらに黒帯の捕捉が困難になる。
「私はただ稽古をしているだけだ! 騒がせたのは後で頭を下げに行く、だからしばらくは放っておいてくれ!」
 門人らの方を向きもせず、研坐崎は言い放つ。自分の声の響きすら、邪魔で邪魔で仕方ない。
「もしや曲者ですか! 賊め、窓を破って……!」
「この『盤』の中に忍び込むとは、大胆不敵な!」
(こいつら、人の話を聞け!)
 ――また注意が散じた!
 しかも、これらの門人達は、頼んでもいないのに辺りを動き回り始めた。
「貴様ら、それ以上近付くな!」
 怒鳴りつける研坐崎。突然の剣幕に、門人らは身を縮こまらせた。
「大した事はない! さっさと戻れ!」
「しかし、研坐崎殿……!」
「大丈夫だと言っている!」
 言葉を口にしながら、必死で頭を働かせる。
(黒帯どのは、どう動くか?)
 ――怒り狂っているであろう黒帯は、こちらに一切容赦はすまい。殺すつもりで、こちらに攻撃をかけるだろう。
 遠い間合いからの攻撃は、打ち落とされる恐れがある。
 それなら間合いを詰め、怒涛の連撃を叩き込むという戦術になる。
 そして、打撃を繰り出すと見せかけて、こちらの受け流しの手に擒拿の技をかける――
 眼を凝らす。庭の中。
 月光が照らす中に、うねる黒帯の姿はない。
 ならば、落ちる影、暗がりの中に身を潜めているのだろうか。
 己の身は今、庭の真中に在る。ここから影や暗がりまでの間合いは、目測およそ一間強、と言った所か。
 その程度の間合いからなら、攻められても十分対応はできるだろう――相手の位置さえ把握できていれば。
(どこだ――!)
 探す。見つからない。もとから黒い姿ならば、夜陰に紛れられれば簡単には見つけられられぬが――
 違和感。足の裏から。
(!)
 それが何なのか、ということを思う前に跳躍、飛び退る。
 が、足が離れた直後、地面から黒く細い影が飛び出した。
 ――注意が散じた隙に、黒帯は暗がりへと身を隠した。暗がりの中、地面に潜り、距離を詰めてきた。
 武術とは所詮、人を相手にする技だ。人ならば、足元の真下からの攻撃など思いもせぬ。まさしく、人の体を無くした「帯」にしかできぬ技だった。
 研坐崎の跳躍は速かった。
 が、黒帯の速さはそれ以上だった。
 黒帯の先端が、自分の足首を絡めとる直前――
(――見事!)
 研坐崎は微笑み、心中で賛嘆を送っていた。

 地面から伸びた黒帯が、研坐崎を引き倒す。
 その様を見ていた王山而は、自分の部屋へ取って返し、得物の六尺棒をつかむと自分も外へと躍り出た。
 地に打ち倒された研坐崎の体には黒帯が絡みついていた。脚を締め上げながら、一端が首へと伸びる。
 それが首へと巻きつく直前、研坐崎の手が帯をつかまえた。
「研坐崎!」
「手出しは無用!」
 駆け寄る王山而を研坐崎は睨んだ。
「これは戦いではないと言ったはずです!」
「いい加減にしろ、研坐崎!」
 制止を聞かず、王山而は研坐崎の傍らに屈む。
 そして黒帯に手を伸ばし、指先が触れた瞬間――凄まじい気が流れ込んできた。
「!?」
 とっさに手を離し、地面を転がりながら距離を開けた。胸から何かが込み上げる。思わず口を開いたら咳が漏れ、生温かいものが吐き出された。
 口元を手で拭う。べっとりとして、生温かい。血だ。
「ぐ……ぐあっ……! がはっ……がはっ!」
 呻吟する研坐崎の声にも、咳が混じる。月明かりの下、口から吐き出されるものの赤い色が、王山而には確かに見て取れた。
 黒帯。死者の怨念を宿す帯。締めた者には凄まじい力をもたらし、同時に――
(黒帯……黒帯武賊……!)
 王山而の脳裏で、恐ろしい予測が生まれた。
 その様を遠巻きに見る「盤」の門人らは、どうしていいか分からぬ体で突っ立っていた。
 研坐崎の今の様は、黒くて粗末な帯を自分で体に巻きつけ転がってるようにしか見えなかった。が、その口から漏れる呻吟は本物である。しかしその前に、本 人は「近寄るな」と言っている――
「おいっ! お前達!」
 王山而に怒鳴りつけられ、門人らは体を強ばらせた
「ここの強い奴らを今すぐここに連れて来い! 片っ端からだ!」
「え? それはどうして……」
「いいから行けえっ!」
「は、はいっ!」
 蜘蛛の子を散らすように、奥へと走っていく門人達。
 黒帯武賊――「武」の賊、という呼び方がされてはいるが、黒賊らは武術に精通しているわけではない。ただ桁外れに頑丈で、力強いだけである。得物の扱い にしてもただ振り回しているだけである。
 とはいえ、それらが尋常ではないが故に、世の人々は黒賊を「武術に通じている」と見ているのだろう。
 並みの人間なら三回以上死んでいる攻撃を受けてもまだ生きている――そんな非常識な体力は、黒帯によってもたらされるものであろう。過日、才孟が凄まじ い蹴りでもって黒賊らを撃滅したが、あれは才孟自身の武術の技に、黒帯の力を乗せたがための威力であろう。
 だが、もしも――もしもその黒帯武賊が、本当に武術に通じてしまったとしたら?
 その性を凶暴なままとして、武術に通じてしまったら?
 例えば、研坐崎が春霞閃空の使い手のままに、心が黒賊となってしまったら?
「才孟……! 才孟どの!」
 喉と口とに残っている血を吐き出しながら、王山而は黒帯の主の部屋へと駆け戻った。

 右の大腿から腰、胸、そして掌。
 黒帯が触れている個所から、気功が流れ込んでくる。
 深く、暗く、そして激しい――そんな、あまりに異質な流れが自分の中に分け入り、暴れ回ろうとしていた。
 研坐崎も自分で内功を練り、異質なそれを抑えようとした。が、既に内傷ができたらしい、胸の奥から込み上げた血が喉に溜まり、呼吸をする度にむせ返り、 口からこぼれた血が頬と顎とを真っ赤に染めた。
「はぁっ……はぁっ……がっ……がはっ、がはっがはっ!
 まともな呼吸など到底かなわぬ。練りかけた内功は霧散し、異質な気は、さらに体を蝕み始めた。
 体は燃えるように熱くなり、同時に凍えるように冷えた。そして、十数もの全く違う種類の痛みが身体中を駆け巡った。
「ぐああああああああっ!」
 絶叫とともに、研坐崎の体が、弓なりに反り返った。見開かれた眼は白目を剥き、口は顎が外れるほどに開かれ、また血が吐き出された。
 「死ぬ」と何度も思った。瞬きするほどの間に、何度も意識が遠くなった。消えかける意識の片隅で「死んだ」と思ったら、その直後には苦痛と激痛が己の意 識を引き戻し、その度に生き返らせられた。
 痛みと苦しみ、「死ぬ」「死んだ」という思い――研坐崎の中にそれらしかなくなった時。
 不意に、痛みが和らいだ。
 我に返った研坐崎は、己にまとわりつく帯を解こうと身をよじる。
 だが、拘束は解けず、ますます強い力で身を締め付けてくる。
 首を狙う帯の一端部分も、また一寸ほど間合いが詰まった。ただでさえ傷だらけの腕の力は底をつきかけ、引き離すことができない。
(殺してやる)
 誰かが研坐崎にささやいた。
(死ね)
(殺す)
(死なさない)
(すぐには殺さない)
 声は、研坐崎の中から聞こえている。
 黒帯には死者の魂が宿る――体内に荒ぶる気は、黒帯より――
 ならばこの声は――
(黒帯どの……か?)
(そうさ。「黒帯どの」だよ)
 黒帯よりの気が身体のあちこちで震えた。笑ったのだろうか。
(おれたちの事が知りたいそうだな)
(いくらでも教えてやるよ)
(ちゃんと知るまで殺しゃしない)
(百回殺して百回生かしてやるからな)
 ささやかれる声は、幼い子供の声に聞こえた。
 苦痛に顔をしかめながら、辛うじて研坐崎は笑顔を作る。
(やっと……会えたか)
「……お話ができて……光栄です……」
 その台詞を口にした瞬間――
「うぎゃあああああああああっ!」
 再び十数余種類の激痛が身体中を暴れ回り、研坐崎はその場でのた打ち回った。
(分かってないな、お前)
(お前は死ぬんだよ)
(でもすぐには殺さない)
(何が安らかに眠れ、だ。死ね)
(生きてる間にしか味わえない事いっぱい味わわせてやるからな)
(一生分の苦しみの百人分教えてやるから)
(口きくな。死ね。死ねばいんだ)
 呪詛と、憎悪。
 それらの想いはいよいよ禍々しい力となって、研坐崎の中を駆け巡る。
 五感の全ては最早「苦痛」をもたらすものにしかならず、流れを狂わされた血は行き所を求め、口のみならず鼻や眼、耳からも流れ出始めた。
 自分の悲鳴に合わせ、体の中から笑い声が聞こえてきた。
 子供の声。心底から楽しそうな、そして邪な笑い声。
 人を見下し、侮辱するためだけの、最低の笑い声だった。
(届かないのか……! おれの想いは届かないのか!?)
 心の嘆きを察した「声」が、研坐崎の想いを反芻した。
(「届かないのか」! 「おれの想いは届かないのか」!?)
(何を届けるつもりだったんだ?)
(言いたいことがあるなら聞いてやるぞ、口に出して言ってみろ)
 突然、全ての苦痛が静まった。
 が、研坐崎が息を吸い、言葉を口にしようとすると、
「がああああああっ……!」
 痛みがさらに激しさを増し、身体中を暴れまわった。
(「がああああっ」)
(「があああああっ」)
(「がああああっ」)
 「声」が悲鳴を繰り返し、嘲笑う。
(「があああああっ」。いいぞ、もっと言え)
(その前の「うぎゃああああ」の方が良くはないか)
(違う。「ぐああああ」の方が面白い)
(もっと色々言わせて見よう)
(ちゃんと聞いてやらないといけないからな)
(教えてくれよ、何が言いたいんだ?)
(信じてるんだろう、ちゃんと分かってもらえるって?)
(さっき自分で言ってたもんな)
(簡単には分かってやらないからな)
(自分の力を惜しむんじゃないぞ)
 嘲笑を体中に鳴り響かせ、地を転げ回り、悲鳴と呻吟とを口からほとばしらせながら――
 研坐崎は、自分を嘲笑うその「声」に向け、手を伸ばそうと足掻きつづけた。




 耳を覆いたくなるような悲鳴が響いていた。
 道場としての『盤』のみならず、街全体にも聞こえようかと言う絶叫だった。
 悲鳴はまさしく断末魔だ。ただ、いつまでも終わりだけがない。
「あ……あが……っ……ぐはぁっ!!!」
 『盤』の中庭。頬や顎、口の周りを血で汚しながら、ひたすら研坐崎(けんざき)は叫び、のたうち回り続けていた。
 その近くには、鋼鉄の六尺棒を構えた王山而(おうさんじ)が立っている。すぐ目の前で、研坐崎が苦しんでいるというのに、助けようとする様子はない。
 むしろ、何かあればその轟たる一撃を叩きつけんとする気配である。
 満月の光が照らす庭、血まみれになってのた打ち回る青年と、近くに立ってその様を見つめている紅毛の巨漢――その光景は、地獄で責め苦を受ける亡者と獄 吏の鬼、といった印象を抱かせる。
 ――地獄に落ちた、というのは本当かもしれない。才孟(さいもう)はそう思った。
 自分達は、もう死んでいる。そんなの相手に必要以上に関われば、一緒に地獄に引きずり込まれる。
(あなたがいけないんです、研坐崎さん)
 陰鬱な瞳で、才孟はのたうつ研坐崎に呼びかけた。
(あたし、何度も言ったのに……もう止めてって)
 自分達はもう、幸せになんてなれないのに。
 復讐だけの人生しか、もう怨んで憎むことしかないのに。
(何にも知らないくせに――)
 あたし達が、どれだけ罪深いか知らないくせに――
 また、胸の奥が気持ち悪くなる。
 「本英世(ほんえいぜい)を殺す」――その思いを同じくしている才孟と黒帯の仲間は、心がつながっている。
 その心の絆から、仲間達の禍々しい感情が彼女に伝わっていた。
 どす黒く昂ぶったそれは、治まる気配がない。
(黒帯どののご機嫌次第というわけか!)
 先刻に王山而は、そんな台詞を口にしたのだ。
 ――その紅毛の巨漢は、研坐崎が壊した窓から飛び込むなり、こう訊ねてきた。
(研坐崎が黒帯に捕まった、あいつはどうなる?)
 激しい悲鳴に耳をつかれながら、才孟は答えた。
(分かりません……悪くすれば……死ぬかも……)
(黒帯どののお怒り次第、というわけか?)
 頷く才孟。
(……なら、研坐崎が黒賊――黒帯武賊と化す事は?)
(……ある……かも……)
(それも・・…黒帯殿のご機嫌次第というわけか!)
 舌打ちする王山而。
 再び彼は、飛び込んで来た窓に向かいかけたが、足を止め、
(何もせぬのだな)
と、才孟に振り返った。
(……しないんじゃない……できない)
(どうすればできるか、とは思われぬ?)
 才孟は答えない。
 頭に血の上った仲間――みんなにはもう、自分の頭も血もないけど――には、もうこっちの声なんて届かないものなのに。
 すると、王山而は鼻を鳴らした。皮肉が交じっていたと思う。
(――まあ、そこまでなさる義理もない。逆鱗に触れ、制止も聞かずに勝手に死地へと飛び込んだ、全くの自業自得――。ただ、あれはあれなりにそちらを思い やっての事、だったようだが――)
(できないものは……できない)
(なら仕方ありませんな)
 今度こそ王山而は、窓から飛び出した――
 そうして今、才孟は壊れた窓の際に立ち、地獄の亡者と鬼の如き光景を見ているのである。
「ぐげっ……げっ…が……あ……!」
 断末魔は終わらない。その苦しみを与えているのは黒帯、すなわち才孟の仲間達だ。
 「彼ら」は悦んでいた。
 激情と衝動のままに力を振るい、傷つけ、苦しめ、時には殺す。
 直接に胸に伝わる嗜虐の喜びは、こちらの心も体も蝕み、腐らせていくような感じがした。
 それを拒む権利はない――吐き気を無理やり飲み下す。その悦びを才孟は知っている。その悦びのまま、誰かを傷つけ、時には殺した事も一度や二度ではな い。
(仕方ない、仕方ない――)
 何度も自分にそう言い聞かせた。
 中原では、人の命は軽いもの。悪人も善人も、死ぬ時は死ぬ。ましてや自分から死にに行く者など、真っ先に命を落とすだろう。
(あなたがいけないんです、研坐崎さん――そんな事、頼んでない)
 余計なお世話だ。いらぬ世話を焼いて、こちらを怒らせるような事を言って悪びれず、勝手に死にかけて――
(どうして――そこまでするの?)
 それとも、「侠客」という者には、「命の恩人」とはそこまでしなければならない相手なのだろうか?
 命を救ってくれたというだけで、その人間の為に命を捨てなければならないのだろうか?
 そんな人が、いらぬお節介のために死んでしまうのは、本当に仕方ない?
 自分達は、彼を殺してもいいのか?
 ――繰り返し、繰り返し。
 浮かんで来る疑問を押し殺し、押し殺す度にその問いかけは浮かび上がり――。
 なかなか消えてはくれなかった。

 「彼ら」の苦痛と嘲笑が続いていた。
 苦痛に叫べば言葉にならず、それを真似て「彼ら」は嘲笑った。
 必死に呼びかければ、呼びかけた言葉を反芻してやはりそれを嘲笑った。
 脳天から爪先に至るまで、全身が踏みにじられ、貶められていた。
 いつしか喉は枯れ、悲鳴も上げられない。それでも苦痛は容赦なく、研坐崎を責め立てる。
(おれは……何もできないのか)
 朦朧としている意識の片隅で、無力感が湧き上がり、心を蝕んでいる。
(おれは……何も伝えられないのか……何の力もないのか)
(あるわけねぇだろ、馬鹿)
 下卑た笑いが胸から発した。
(お前なんかに何かできるわけないんだ)
(「信じろ」だと? 何様のつもりだ?)
(ぎゃあぎゃあ喚き散らすことしかできないくせに、何言ってる?)
(寝言は寝てから言えよ)
(寝れるものならな)
 上手いことを言ったつもりらしい──体中で、どっ、と嘲笑が高まった。
 ──こんな屈辱は初めてだった。
 己の発した言の葉のひとつひとつがないがしろにされる。叫びも嘆きも笑いものにしかならない。必死になればなるほど、こちらの思いは踏みにじられる。
 侮辱や嘲笑ならば今までだって何度もあった。今までならば、それらを浴びても、侠客としての誇りが心にあった。何を言われても背筋を伸ばし、胸を張るこ とができたのだ。
 だが、その心そのものを直接辱められたら、どうすればいい?
 恥を雪ごうとしても、己が恃む武の技は使えない。武術の使えぬ武侠などに価値はなかった。
 また「彼ら」が囃し立てた。まるで子供のように。それ故に容赦はなかった。
(もっと泣いてみろ)
(もっと喚け。苦しめ)
(死ね。死んで死んで死にまくれ)
(助けてくれって言ってみろ)
(誰も助けちゃくれないけどな)
 人の恨みとは、憎しみとは、これほど深いものなのか──
 誰かが必死で呼びかけた所で、聞き入れてもらえぬほどに──
「がはっ……! あ……が……!」
 また、口から血が溢れた。体の血はあとどれくらい残っているのだろうか?
(足りなくなる――かもな)
 やっと終わる──
 研坐崎の中で、張り詰めていたものが、切れた。顔に張り付いた断末魔の表情の口元に、微かに笑みが差した。
(王山而どの──あなたの言う通りでした)
 恨むも憎むも人の勝手──救いを求めていない相手を救う事などできはしない──
 何もできない――
 すると、全身にわだかまる黒帯の気が答え、一斉に喚き出した。
(今ごろ気づいたのか)
(そうさ、お前に何もできるわけがない)
(お前はおれたちを救えない)
(あいつを殺すこともできやしない)
(お前はあいつを殺せない)
(お前達が束になったって、あいつに触る事もできるものか)
 打ちのめされる。どこまでも、どこまでも──絶望とは、こういう気持ちを言うのだろう。
 思ったほどには悲しくはない。その代わり、さっきまでの自分自身が全く滑稽でならなくなる。
 自分は何を伝えようとしたかったのか。何を伝えて欲しかったのか。
 何も知らないくせに、何ができると思ったのか。
(おれは――馬鹿だ――馬鹿で、無力だ――)

 ――研坐崎の目の前に、景色が広がったのはその時だった。




 ――蒼穹。
 中天にさしかかった太陽は、下界を照らしている。
 林に囲まれているその場所は、どこかの山にある里なのだろうか。
 広がる畑と、その中心にある庭。質素な家、小屋――
 そのあちこちに、子供の体が転がっていた。
 そのいずれもが血にまみれ、上を向いている顔には苦悶の形相が貼りついている。
 静寂――耳鳴りがするほどの静けさと、たちこめる血の匂い。
 もはや動く事もなく、「もの」と化した人、人、人。
(これは――)
 目の当たりにして生まれた印象は、研坐崎には初めての物ではなかった。
 よくよく眼を凝らせば、屍のひとつひとつの側には、ひとりひとり人影が立っている。立つ人影はやはり子供。おぼろげな姿だが、泣いている事だけはよく分 かる。
 おぼろげな全身に、頬に流れている赤い血の涙があまりに鮮やかだったから。
 もうひとつ、気付いた事がある。
 子供達の腰には、黒い帯が巻かれていた。
(黒帯――)
 足音がした。
(……達姉さん?)
 振り向けば、いたのは童女であった。
 屍の両脇に手を入れて、引きずっている。
 それを庭まで運ぶと、次の屍にとりかかる。
 ひとつ運ぶ度に、童女の背後に人影が立ち、動く後をついて回った。
(死んだよ、才孟――)
(おれ、死んじゃったよ――)
 人影の呼びかけに、童女は答えない。
 ただ黙々と、子供の屍を運び、その背に人影を増やしていく。
 答えなくとも、童女には人影らの声が聞こえているのだろう――
 表情の消えた顔。引き結ばれた口。見開かれた眼。それは子供の作る表情ではない。
(何でおれ達死ななきゃいけなかったのかなあ)
(おれ達、どうしてこんな事になったんだろうなあ)
(才孟、おれ達何か悪い事したのかなあ)
(おれ達、何のために生まれてきたのかなあ)
 童女は答えず、自分の仕事を続けている。
 仕事を進めていく度に、背負う人影はどんどん増えていく。
 そうして、最後のひとりを庭に運び終えると、次は鍬を手に取った。その身には大きすぎる鍬を振るい、穴を掘り始めた。
(才孟、なあ、才孟――)
 人影らは問いかけ続けるだけだった。
 ――二十近い数の穴を掘り終えて、童女は鍬を置き、集めた死体の前に立った。
(殺す――)
 彼女はそう呟いた。
(あたし、あいつを殺す――みんなの所に、必ずあいつを連れて来る)
 ――おおぉぉ
 人影はどよめいた。
(絶対に殺すから――あたし、何があっても必ずあいつを殺すから――そしたら、あたしもみんなの所に行くから)
 血の涙に濡れた表情が、童女の後ろで笑っていた。
(才孟――)
(才孟――頼むよ、あいつを殺してくれ)
 死体の前に立ち尽くす彼女の姿は、人影らに囲まれ、見えなくなった。
(おれ達の苦しみ、全部教えてやってくれ)
(必ず殺してくれ)
(何が何でも見つけ出して、地獄に落としてくれ――)
 人影らは、童女に願う。願うことしかできず――
 それらは全て、呪詛だった。

(何て事だ――あなた方は――)
 「彼ら」は死んだ。
 それはもう、取り返しがつかない事だ。
 もう、悔やむ事しか、嘆く事しかできない――
(お前――何を見た?)
 声がした。
(見なくてもいい物を見たな)
(殺してやる)
(安らかになんて眠らせねえ。苦しめて、苦しめて……)
(でも、すぐには死なさない。思い知るまで絶対殺さない)
(おれ達がいいと言うまで、お前はのたうち回るんだ)
(でもお前は何もできないんだ。何もできないまま苦しんで、痛めつけられて――)
 止む事のない罵声に対し、研坐崎は遂に答えた。
(おれはまだ……あなた方を知る事ができる)
 反応を全く予想していなかったのだろう、「彼ら」の罵詈雑言がひとたび止んだ。
 しばしの間の後、「彼ら」の答えが返って来た。
(……まだ足りないようだな)
(何か見たってだけで、分かった気になってるんじゃない)
(何もできないって、さっき泣きそうになってたくせに)
 また、嘲笑。
 しかし、研坐崎は揺らがない。
(何もできないから絶望するんです。おれも、あなた方も)
 その反応に、また「彼ら」の罵声が止まった。
(何もできないから絶望する。何もできなかったから、自分自身さえ笑いたくなる。そして、何もできない、力がない事を認めたくないから……だから、もっと 弱い何かを踏み潰したくなる)
(……だから苛めるのは止めてくれっていうのか?)
(何でボクを苛めるんだよう? 苛めるのやめてよう?)
(……イヤだね。おれはお前を苛めるよ。苛めて苛めて殺してやる)
(殺したければお好きにされよ。しかし、いかな悲嘆を抱えていても、それで誰かを殺していい事にはなりますまい……ましてや、仲間にそれを強いるなど、言 語道断!)
(黙れ!)
(おれ達は死んだんだ!)
(才孟もあいつを殺す事を望んでる!)
(それでいいのか、あなた方は!)
 心の限りを振り絞り、研坐崎は「彼ら」に向けて怒鳴りつけた。
「何故才孟どのの幸せを望まない!?」

(……話せた?)
 それが、喉をついて出た台詞である事に、研坐崎自身が驚いていた。
(おれは……死にかけて……)
「無茶をしているな、研坐崎」
 声がした。
 顔を向ければ、横たわる研坐崎の傍らに烏丸老師(うがんろうし)が屈んでいる。
「誤った気の流れは、体を壊す──そう言ったのはお前だぞ」
 その右掌は研坐崎の胸にあてがわれていた。
 触れられている所からは、温かく穏やかな気が注ぎ込まれ、体の中を巡っていた。
 その流れは穏やかだが力強い。体の各所で暴れていた黒帯の気さえ飲み込もうとする。まるで大河のようである。
 「通天神功」烏丸老師──。
 中原最強の気功の達人の技は、意志を持つ邪な気をものともしない。
 しかも、肉体に一切の負担をかけず、痛みを消し、安楽にしていくのが分かる。
「気がついたか、この愚か者」
 烏丸老師の隣から聞こえた声は、王山而のものであった。
「『盤』の老師の方々まで担ぎ出させて、大した大物ぶりだな。橘達瑪(きつたつま)どのもいい師弟を持ったものよ!」
 言われて首をめぐらせれば、「盤底四師」に「賢学四師」らが自分のぐるりを取り囲み、立ってこちらを見下ろしている。その様が、仏の立像ら――如来や菩 薩などではなく、明王や金剛力士を思わせた。その重圧たるや心臓が止まりそうなほどである。
(やはりおれはここで死ぬのか?)
 研坐崎は、一瞬本気でそう思った。
「あの……何故長老の方々が?」
「おれが呼ばせたのよ」
 王山而が答えた。
 「『盤』で腕の立つ者を連れて来い、とな……まさか、長老の方々が来るとは思ってもおらなんだが」
「街の方にすら聞こえる悲鳴だ。我らとしても無視はできん」
 言葉を付け加えるのは蓮白志。その台詞に西芝涯が口元を歪める。
「うるさくてかなわぬから、確かに無視はできんわな――ほれ、我らだけではないぞ」
 西芝涯がどけると、数間ほど離れた位置に、門人らが立っていた。
 いや、長老らの足の間に間に周りを見渡せば、同じような距離を置き、『盤』の者達がこちらに眼を向け、ひそひそと言葉を交わしている。
 不本意な注目のされ方に、研坐崎は気恥ずかしさを覚えた。
 その視線が、一点で止まった。
(才孟どの――)
 研坐崎が破った窓に、才孟がいた。が、その様子はあまり尋常なものではない。
「烏丸老師、私はもう大丈夫――」
「今し方に死にかけていた者は大丈夫とは言わん」
「いえ、私よりもあちらを――才孟どのを」
 研坐崎が指差すと、長老達もそちらを向く。
 才孟が、まだ形を止めている窓枠寄りかかりながら、片手で胸を押さえうつむいていた。
「そうだった……あちらも無理はできぬ方であった」
 そう口にしたのは司虎真だ。
 次の瞬間、ひらり、とその体が跳躍した。

「は……はぁ……っ……はぁっ……」
 苦しい。
 胸の奥が、熱くて痛い。
 体が耐えられず、全身に力が入らない。
(一体――何が?)
 仲間達が、研坐崎をいたぶって悦んでいた――のは分かる。
 絶望した研坐崎に、自分達が心の中をのぞかれた、というのも何となく分かった。
 胸の奥が、押し開かれるような――束の間、何かが入り込んだような――
 そこから研坐崎が立ち直って――それで――
(それで――研坐崎さんの周りに、昼間のおじいさん達が、来て――)
 そしたら、胸が熱くなって、痛くなって――
 才孟は喘いだ。
 息を吐くと、熱と痛みも一緒に吐き出されていくような心地がした。
 ――それだけではなく、力も。
 がくん、と膝が折れ、寄りかかっていた体が崩折れそうになった時、腕が伸びて彼女を支えた。
「いかがされました?」
 聞き覚えのある声に顔を上げれば、やはり見覚えのある老人。昼に自分に気を注いだ、『盤』の長老のひとり、確か――
「司虎真……さん?」
 彼女の体を抱えながら、司虎真は頷いた。
 ――研坐崎らがいる場所からここまでは、およそ数間。昼もそうだったが、気配も感じさせずに――
 と、才孟を抱える司虎真の掌が熱を帯びた。やはり昼の時のように、触れた場所から何かが流れ込みかけて――
「……これは?」
 司虎真が怪訝な顔をすると、掌の熱は引いていく。
「烏丸老師どのの華仙通人功が、なぜあなたに?」
(かせん……つうじんこう?)
「何ですか……それは?」
「今、烏丸老師が研坐崎に施している――むっ!」
 司虎真は、才孟と、長老らに囲まれている研坐崎とを見比べる。
「……つないだ心……あるいは……なるほど」
 そう独り言を呟いてから、「穴道を開きます」と、才孟の方や背中のあちこちを軽く指で突き始めた。才孟の方は、突かれる度に痛みと心地良さのないまぜに なった感触が起こり、痺れのような、針でちくちくと刺されたような感覚が、体の内と外とに満ちた。
 十数度目に突かれた時、胸の奥の熱と痛みが、全身へと溢れ出した。
「あ……あ……ぁ!」
 しわがれた声が、小さな悲鳴を上げた。自分を支える司虎真にしがみつきながら、才孟はしばらく体を震わせる。
 ――二呼吸、三呼吸するほどの間に、熱と痛みは快さへと変じていった。ちくちくとした感覚が体中に刺激を与え、よみがえらせていくようだった。
「……はぁ……っ」
 才孟の口から、深い溜息が洩れた。
 体が火照っていた。肌も、うっすらと汗ばんでいる。
「具合はいかがですか?」
「はい……あ……」
 身を巡る心地好さに笑いかけた顔が、元の陰鬱なそれに戻った。
「? まだどこか調子が……?」
「いえ……大丈夫です、もう……」
「そのようには見えませぬが?」
「大丈夫なんです、もう……」
 嘘ではなかった。
 声調は確かに明瞭になっているし、昼間のように、息継ぎをせずに物を喋っている。
「だから、あたしのこれ、止めてください」
 才孟は、両手を自分の胸に当てた。
 その奥からは、未だに熱が湧き出し、体内に巡っていた。熱に伴っていた痛みは、今や爽快感にすら変わっている。
 だからこそ――
「あたし、楽しくなったり、気持ちよくなったりしちゃいけないんです……」
「……自分だけが、と思ってらっしゃる?」
 頷く才孟。
 司虎真が眼を向けたのにつられて庭を見た時、才孟はやっと思い出した。
「あの……研坐崎さんは?」
 そう言えば、悲鳴が止んでいた。
「あれならばもう大丈夫でしょう。意識も戻っておりますよ」
「そう……ですか」
 また才孟は息をついた。今度は安堵だ。どうやら、死ななくても良い人間がひとり、死なずに済んだらしかった。
「あの……帯は?」
「研坐崎が自分の体に巻きつけたままです……いや、話では、帯があれに巻きついているそうですが」
 ――とにかく、研坐崎は助かった。となれば、仲間の機嫌も落ち着いたという事なのだろう。その証拠に、あの気持ち悪さは今は自分には伝わっては来ない。
「帯を返してもらわないと……」
「お連れしましょう」




「話は王山而どのより聞いた」
 醐英大師が、研坐崎を睨みつけていた。
「黒帯が、相対するに危険を孕むであろう事は、お前が一番察しがつくであろう。あまつさえ死にかけるとは、軽率が過ぎる」
「……はい、申し上げる言葉もございませぬ」
 仰臥している研坐崎は、平伏することさえできぬ。醐英大師の眼光――彼のだけではないが――をまともに浴びる事になる。
「説教は後に致そう、醐英どの」
 烏丸老師が口を挟んだ。
「心臓の動きが変に早まると、その分気の流れにも影響する。今は安静にさせておかぬと――」
 それは無理な注文だ、と研坐崎は思う。
 長老らを前に、こちらは寝転がっているのだから。恐れ多さに腰が抜けそうだ。
 それにしても、烏丸老師は何という気功使いであることか。
 過日、消耗した才孟の体に橘達瑪が気を流したことがあった。その半刻もの間、橘達瑪は一言も口をきかず、じっと動かず、終えた後には消耗の余り身動きが できなかったというのに。
(烏丸老師と達姉さんとでは、比べるのが間違ってるか――)
 今や自分の体は、脳天から爪先指先に至るまで生気に満ちている――研坐崎にはそう感じられた。
 その烏丸老師の眉がひそめられた。
「――妙な気が、あるな?」
「……やはり、分かりますか」
「うむ――実に奇妙」
 烏丸の眼が探るように動き、研坐崎の体のあちこちに止まる。それらの個所は、研坐崎自身にも「そこ」と分かる所である。
「あちこちでこごり、わだかまり、流れの中に乗ろうとせぬ」
「それが、黒帯どの――黒帯のもたらす気でございます」
「――確かに危ういな。私の気功を止めれば、たちまち暴れ出す気配がある。体内に呼び込めば、寿命が縮むのも道理。並みの人間なら発狂しかねん」
「烏丸老師がそこまで仰るとは……」
 ぽつりと洩らしたのは来海詠だ。
「そのような気功、烏丸老師には練れますかな?」
 道士に問われ、気功使いの老師は首を横に振る。
「私も初めて見る。やってできない事はないかも知れんが、それを別々にして体のあちこちに凝らせるとなると――やった所でいたずらに体を傷つけるのみで、 修行としては意味がござらぬ」
 その場にいた者の眼が、改めて研坐崎に――彼の体に絡みつく黒帯に集中した。
 今は、脚から胴にかけてまつわりつき、その一端は研坐崎の手につかまえられている。
 嘯き、哭き、身に着けた者に地獄の苦しみをもたらし――あまつさえ単身で宙に踊り、武術を振るい研坐崎の首を締めかけたとか――
 その正体も詳らかならず、底も知れぬ。が、不吉や危うさが増えはしても、減る事だけはなさそうだ。
「ともかく、この気を一度、外へ出そう」
 烏丸の空いている手が、研坐崎の空いている方の手首をつかんだ。
「そのような事、できるのですか?」
「例の気が鎮まっている今のうちなら――多少手間はかかるだろうが、お前の体に負担は――」
「烏丸老師――この黒帯どのの気、今しばらく私の中に止め置いては下さりませんか?」
「何故?」
「彼らと――黒帯の方々と、お話ができました。もう少しで、分かり合うことが――」
「……貴様の馬鹿は、本当に死なぬと治らぬようだな」
 呆れと怒りが相半ばする口調で、王山而が口を挟む。
「王どの、おれもまた侠客の端くれ。侠客は死を恐れぬものでございます」
「研坐崎――お前が黒帯に巻きつかれて喚いた時、どうしておれが医者ではなく、腕を立つ者を連れて来い、と言ったか分かるか?」
 研坐崎は首を横に振る。見当もつかない。
「必要となれば、必ず息の根を止めるためだ――研坐崎という剣侠が、黒賊となった時にな」
「おれが……黒賊?」
 そうよ、と頷く王山而。
「才孟の話が本当なら、かの黒賊どものそれと、才孟の持っていた黒帯とは同じもの――実際本人も、自身に歯止めが利かなくなって力を振るった、という事を 言っておる。お前がそうならぬという保証はどこにもない」
 言われてから、研坐崎は改めて自分のぐるりを見渡した。
 まだ鞘入りの剣を左手に持っている蓮白志――何かあれば、瞬時に右手が抜くであろう。
 蔵周文は身の丈一倍半ほどもある大刀を携えており、西芝涯の下ろされた右手には巻いた軟鞭が握られている。
 佐延併も右手に何か握りこんでいる様子だし、藤夾銀も短槍を手にしていた。
 来海詠、醐英大師、烏丸老師らは何も持っていないが、彼らの最も得意とする所は徒手による拳法、腿法だからだろう。
 そして王山而は、研坐崎と話している間、一撃必殺の鉄鋼六尺棒をずっと両手で持っていた。その威力は、過日研坐崎が間近で眼にしている。
 達人らの武術が、知らずこちらを狙っていた――その事に、研坐崎は息を飲んだ。先刻、達人らに見下ろされて死を感じたのは大げさではなかったのだ。
「黒帯武賊と言われておるが、今までに我らが出会ったのは、単に頑丈で速くて力が強い――そして、武の技がない奴らばかりであった。が、その黒帯の怨念は ある程度それを知り、お前自身も剣の技に通じている。もし、その技が歯止めなく振るわれるようになったら、どうなろうな?」
 鋼鉄の棍の端が、研坐崎の眉間に狙いを定めた。
「命をかける、死を恐れぬ――お前はそれで済むかも知れんが、周りにしてみればお前の死よりも恐ろしい事態がありうる、という事だ」
「王山而殿の言う通り」
 言を継いだのは醐英大師だ。
「触らぬ神に何とやら――お前はそれに触れ、まさしく九死に一生を得た所だ。拾った命を無駄にするでない」
「しかし……やっと私は、彼らと……」
「人心の深淵は、理屈の通らぬ混沌なり。生死の際で、そなたの望む夢まぼろしが立ち現れることもあろうな」
「……相手は既に亡くなられた方々です。まさしく死地にある方々にお話をするのに、こちらも死地に赴かずしてどうして思いが届きましょうか」
「――今だって、あなたは死地にいるじゃないですか」
 しわがれた声が割り込んだのはその時だ。
「もう、止めて下さい、研坐崎さん……」
「才孟どの――」

 才孟は、居並ぶ長老らをかきわけ、研坐崎の傍らにひざまずいた。
 足取りは確かで、声はしわがれているものの、声調は明瞭、いつものような息継ぎもない。思わず「別人か」と見紛うほどであったが――
「あたし達は、もうあいつを恨む事しかないんです」
 しわだらけの顔に浮かんだ笑いは哀しくて、それは確かに才孟のものである、と思い知る。
「そんな事は――才孟殿こそ、どうして分かっては――」
「――無力だから、もっと無力な人達を傷つける。あたし達、あなたの言った通りです」
 それは、研坐崎が彼らに向けた台詞である。
「……あなたにも、聞こえていたんですか」
「はい……あたしとみんなの心は、つながってますから」
 頷いた才孟は、言葉を続けた。
「あたし達は、あたし達より弱い人達を殺してきたんです、今まで――今だって、あなたを殺そうとしていたじゃないですか。それも楽しんで」
「理由があったからでしょう? 今のおれだってそうです――仕方ないと思いますし、恨んでもいません」
「――けど、無理に殺すこともなかったんです。本当はあたし達、力を振るう理由が欲しいだけなのかも知れない。力が無いって認めたくないから、強いって証 明したくて――
 だから、あたし達は地獄へ行くんです。本英世と一緒に、地獄に落ちなきゃいけないんです」
 才孟は、黒帯に手を伸ばした。今は研坐崎にからみついている、彼を殺しかけた黒帯だ。
「……研坐崎さんの気持ちは、本当にありがとうって思います。でも、こんな子達のために、命を粗末にしないで下さい」
 ――そう言えば、ちゃんとお礼を言っていなかった。
 今までだってそうだった。山を下りてから、人に優しくされた事だって何度かあった。
 その時に、自分はどれだけ心を込めて、「ありがとう」と言っていた事だろう?
(……ごめんなさい、研坐崎さん)
 感謝すると言いながら、心の中では謝罪する事しかできなかった。
 才孟の手が黒帯をつかまえる。
 引っ張る。抵抗――
 研坐崎は、黒帯の一端をつかんだまま、首を横に振った。
「お願いです、研坐崎さん。離して――」
「おれ、あなたみたいな人を知ってますよ」
 研坐崎は微笑んだ。
「その人も、ある日全てを失った人でした。仇を取るって、毎日武術の修行に明け暮れていました。でも、恨みと憎しみに囚われているのが、見ていてとても辛 かった」
 優しげな眼が、宙を見上げた。
 その眼は、何を見ているんだろう――
「だからおれ、とにかくその人にくっついてました。その人は、何のかんの言いながらおれの面倒見てくれました。叱られるのは怖かったけど、おれを叱ったり してる時は、恨みも憎しみも忘れてくれてるって思えば、我慢できました。――本当は、怨みも憎しみも忘れてくれ、って、ずっと言いたかったんですけどね」
「――その人は、今は?」
「仇はまだ取れていません――でも、昔に比べれば執着しなくなりましたし、よく笑うようになりました」
「その人、それで幸せなんでしょうか?」
「幸せだと、おれは信じてます――だから、あなたにも、こちらの方々にもそうなって欲しい」
 研坐崎の眼が、自分の手にある黒帯に向いた。今し方に自分を殺しかけ、嘲笑い、絶望させたもの――しかし、彼の表情は微笑んだままだ。
 彼が、黒帯に向けて投げた思い――それは、ひとつ残らず才孟の中にも届いている。
 何もできないから絶望する。いくら悲しいからって、それで誰かを殺していい事にはならない……
「幸せって……何ですか?」
 才孟はうつむき、膝の上で拳を作った。
「みんな死んで……あたしはもう、おばあちゃんになってる……笑いながら、何度も人を殺した……あたし達に、幸せなんてあるんですか!?」
 震える拳に、今度は研坐崎が手を伸ばす。黒帯を握ったままの手だ。
「ありますよ、必ず……きっとあります」

(おさまった――)
 「彼ら」にもし体があれば、息をついていた事だろう。
 突如、この体の深奥より大きな気の流れが押し寄せてきて、「彼ら」を飲み込んだのだ。
 その流れは力強かったが、激しさはなかった。むしろ穏やかと言っても良く、久しく味わったことのない心地良さが感じられた程である。
 そうだ――久しく味わってない。
 平穏も、安寧も。それらはもう、「彼ら」には縁がないものだった。
(おれ達はもう死んだんだ――)
 その事をいっそう強く思い知らされる。
 父に――本英世に裏切られて――あの得体の知れない帯を渡され、言われるままに身に帯びて――
 そして今では、自分達がその帯になっている!
(おれが一体何をした!?)
(どうして殺しあわなきゃいけなかった!?)
(何で誰も助けてくれなかったんだ!?)
 それらは、「あの日、あの時」から、何度繰り返したか分からぬ問いかけだ。
 答えてくれたのは、「あの日、あの時」を生き延びた才孟だけだった。
「本英世を殺して、あたしも死ぬ」
 それが、彼女の答え。そして、「彼ら」が求めていた答えだった。
 全ては本英世が仕組んだ事、全てを奪ったのはあいつ。
 ならばもう、あいつを殺す事しか自分達には残されていない――
(それを、こいつは――!)
 この体の研坐崎とかいう野郎は、それさえも自分達から奪おうとした。
 許せない、許せない、許せない!
 何が全てを任せて安らかに眠れ、だ?! もう安らぎなんて自分達にはないのに!
 再び「彼ら」は暴れ出した。
(殺してやるぞ、研坐崎!)
(思い知らせてやる!)
 「彼ら」が思いをひとつにして叫んだ時、
(そうして最後は、才孟どのも殺すのですか?)
 答える声があった。
(本英世を殺し、才孟どのも死なせ――全てを消して、あなた方は満足なのですか?)
(来やがったな……)
 「彼ら」はざわめき出した。
(お前も殺してやるぞ!)
(死ね! 貴様なんか死んでしまえ! ぶち殺してやる!)
 先刻の力強い気の流れのせいで、この体はずいぶんと癒されたらしい。が、その分壊しがいもある。
 何をどうすれば、どれだけ苦しむのかはよく分かった。今度こそ、地獄の苦しみの中で殺してやる。
(……あなた方は、おれを殺すのが望みですか?)
(そうとも! お前を殺したくてたまらない!)
 「彼らは」は異口同音に叫ぶ。もし本当に口があれば、怒号が体の中で反響し、研坐崎を震わせていただろう。
(どうだ、怖いか!? 小便ちびりそうか!?)
(小便だけじゃなく、糞も洩れるかもしれないな!)
(お前は死ぬ! 苦しみながら、自分のひりだした糞にまみれて死ぬんだ!)
 下卑た哄笑と、残虐な喜びの気配が研坐崎の体内を駆け巡る。
 ――さっきはこうされて、この男は絶望した。その後突然立ち直りやがったが、今度は完全に踏み潰す。心も体も、完全に殺してやる――!
 が、その研坐崎の反応は、彼らの予想を超えていた。
(おれを殺した所で――いえ、例え本英世を殺した所で、あなた方は救われません。怨みも憎しみも、あなた方の本当の思いではないのでしょう?)




 また、「彼ら」の思考が止まった。
 予想を超えていたのは、答えの中身だけではない、その揺るぎ無さもだ。
(お前、おかしいぞ……!)
(おれたちはあいつに殺されたんだ)
(許さない! 許さない!)
(殺してやる!)
 また、憎悪が膨れ上がる。
 いつ果てるかも分からない呪詛に向けて、研坐崎は呼びかけた。
(あなたも才孟どのも、本当は悲しい……それに耐えられないから、怨んで、憎んで、誰かを傷つけ踏みにじっているんです!)
(……相変わらずわけの分からないやつだな……!)
(調子が狂う……! 覚悟しろ!)
 ひとたび矛先が逸れた殺意が、再び研坐崎に向けられる。
 しかし、研坐崎は恐れない。
(例えこの世の人間を全員殺したって、あなた方は救われない! 失ったものは取り戻せない事に気付いてください!)
(いい加減に黙れ!)
(殺す! 殺す! 殺す! 殺す!)
(才孟どのは苦しんでいる! あなた方の力を借りて、誰かを殺す度に! 才孟どのを苦しめながら殺す事も、あなた方の望みか!?)
(黙れえええっ!)
(あいつはおれ達の仲間だ! おれ達の事を分かってくれている!)
(あいつの望みは、おれ達の望み! 本英世をぶち殺す!)
(おれ達にはそれしかない! 全てをなくしたおれ達には、あいつを殺す事しかないんだ!)
(違う! あなた方にはまだ残されているものがある!)
(おれ達には何もない!)
(あなた達には、才孟どのが残っている!)

 ひとたび意識を取り戻した研坐崎は、再びのたうち回っていた。
「う……があああっ!! あぐ……ぐあ……あっ!!」
 言いようのない叫びが、またその口から洩れている。
 才孟も顔を歪め、また手で胸を押さえた。
 仲間達が研坐崎の中で暴れ出したのだ。
 そして、それを見守る者達は、各々の得物で研坐崎を拘束していた。
 西芝涯の軟鞭は研坐崎を縛っていた。王山而の鋼の棍と、蔵周文の大刀の柄は交差し、やはり研坐崎の首を押さえつけている。腰の辺りでも同様にして、蓮白 志と藤夾銀も得物を交差させている。
 それ以外の長老たちも、自然体で立ちながら研坐崎を観察していた。
 ――囚人、あるいは凶暴な畜生の如き扱いである。いや、苦しんでいる様は、人ではなく本当に暴れる獣のようである。
 望んだのは研坐崎自身だ。黒帯武賊と化す恐れがある以上、用心はしておくべき、という事である。必要であれば、為すべき事をすぐに為せるように――
 もちろん才孟は止めた。王山而も止めた。長老達にも止める者がいた。
 だが、結局烏丸老師は、研坐崎から手を離したのだ。(それがお前の侠の道なら、全うしてみよ)、と。
 己が内と外から、研坐崎には死が迫っている。
 その死線の際、研坐崎は叫んでいる。
(本英世を殺した所で、あなた方は救われません)
(あなたも才孟どのも、本当は悲しい……それに耐えられないから、怨んで、憎んで、誰かを傷つけ踏みにじっているんです!)
(例えこの世の人間を全員殺したって、あなた方は救われない! 失ったものは取り戻せない事に――!)
 叫びが届くたび、胸の奥が抉られる。幾重にも押し隠し、糊塗し、封じていたものが吹き出してきた。
 そんな事分かってる――!
 才孟は口を開けた。悲鳴は声にさえならず、掠れた息だけが洩れた。
 全部分かってる! だから考えないようにして来たのに!
 あいつを殺しても救われないって事も知ってる!
 何も取り戻せないって事も知ってる!
 本当は悲しい事も! 自分たち全員が、「あの日、あの時」からずっとずっと泣いてた事も!
 だから、全てが終わったら、自分も死ぬと決めていた! それで全てが終わるって思っていた!
(――どうして終わっちゃいけないの!?)
 もうこれ以上、あたしは何も背負いたくない!
 だって、生きているって辛いもの! 本当に助けて欲しい時、誰も助けてくれなかった! 本当に好きだった人は、笑ってあたし達を死なせた! 生き残った あたしにできるのは、誰かを傷つけて殺す事だけ!
(そんな人間に、生きている価値なんてない! 優しくなんてされたくない! 幸せを押し付けられるのも真っ平! 勝手に命なんてかけないで!)
 うずくまった才孟の口、掠れた呼吸の間に、言葉が紡がれた。
「死んで……下さい……!」
 確かに彼女はそう言った。
 このままでは、こっちが殺される――!
 今度こそ、全てを失う!
(お願い! この人を殺して!)
 また、研坐崎の叫びが胸を抉った。
(大事な仲間なのでしょう!? これからひとりで生きていかなきゃ仲間を、どうして助けようとしない!?)
(あたしはそんな事望んでない!)
(どうしてあなた方は、残った命も殺そうとする!? 生きて、幸せになって欲しいと思わないのか!?)
(あたしは死にたい! あいつを殺して終わりたい! 生きてなんていたくない!)
(仇は必ずおれが取る! 怨むのも憎むのも、全部おれがやる!)
(あたし達から、もう何も奪わないで!)
(だからもう苦しむな! 楽になれ! 過ぎた事から解き放たれろ!)

「うあああああああっ!」
 研坐崎と才孟の口から、同時に、同じ叫び声が上がった。
 長老達の間に緊張が走る。研坐崎が黒賊となったか――!? いや、才孟も一緒に叫んでいるのはどういう――!?
「どうして怨んじゃいけない!? どうして死んじゃいけない!?」
 やはり二人は同時に叫ぶ。声量も声調も、全く同じだった。
 その二人の中で、研坐崎の心が答えた。
(人は生きていくから! 生きていかなきゃいけないから!)
「死のうが生きようがこっちの勝手だ! 人が生きていかなきゃならないなんて、誰が決めた!?」
(死んだら泣く人が必ずいる! 今あなた方が死んだら、おれがあなた方のために泣く!)
「もう死んでる!」
(死んでない! 体が死んでも、あなた方の魂はここにある!)
「もう死んでる! ほっといてくれ!」
(あなた方が死人だなんて、おれは認めない! 死人じゃない限り、生きる事をあきらめるのは許さない!
 あなた方はもう無力じゃない! おれ達が、「侠」がついてる! もう絶望なんかさせない!)
 無力じゃないなら――!
 お前達がついてるって言うなら――!
「――どうしてあの時助けてくれなかった!? どうしてあの時来てくれなかった!? どうしておれ達は死ななくちゃいけなかった?!」
 仰臥する研坐崎に、鬼の形相が浮かんでいた。
 まぶたは一杯に開かれて、血走った眼がのぞき、目尻からは血の涙が流れていた。天に向かって開かれた口からは歯が剥いて、天に喰らいつきそうだった。
 天地を震わさんとする本英世の子らの慟哭は、いつまでも続き、やがて止み――
 才孟が地に倒れ伏すと同時に、拘束された研坐崎の体からも力が抜け、動かなくなった。

 ――最後の問いに、研坐崎はこう答えた。
(その問いは、おれが一生背負っていきます――そして、二度とあなた方のような事は起こさせない)




 ――山の中の里。
 その中の庭。
 子供達が一ヶ所に群がっている。
 そこから聞こえてくるのは、呪いの言葉ばかりである。
(殺してくれ、必ず殺してくれ)
(地の果てまでも追いかけて、息の根を止めてくれ)
 血の涙だけがあざやかな、ぼんやりとした姿の子供達。
 その中心に、童女がひとりいる事を研坐崎は知っていた。
(もう止めなさい)
 研坐崎は、子供達に向かって言った。
(仇はおれが取ります……だから、その子に全て背負わせるのはよしなさい)
 すると、子供達は一斉に研坐崎に向いた。
 血を垂らした眼が、恨めしそうに睨んで来る。
(なぜもっと早く来なかった――)
(お前を許さない――)
 眼差しが、そう告げていた。
 群れの中から、童女がひとり進み出た。
 引き結んだ唇に、決意を秘めた瞳、血の気の引いた顔色。
 迷いなく、それ故に危うい。
 そんな雰囲気の少女は、初めてではなかった。
 ――守らなきゃ。
 研坐崎はそう思った。その思いもまた、初めてではなかった。
(背負わされたわけじゃない――あたしが望んで背負った。あたしもあいつを殺したいって、そう思ったから――)
(才孟どの――)
(恨むのも憎むのも止めない。あたしはそこから始まってる――途中でなんて、やめられない)
(けど、それではあなたは――)
(研坐崎さんは、裏切られたり失ったりしたことがない――だから、奇麗事が言えるんです。あなたには、あたし達の事なんて分かりっこない)
 それは、静かな宣言だった。
 怒鳴ってるわけでもない。叫んでるわけでもない。
 それだけに――命と魂の全てをかけた事は、意味がなかったと思い知る。
 絶望も、くやしさもない。かわりに来たのは徒労感だ。自分は駄目だった、という事が本当に分かった。
 染みとおるような悲しみがあった。一体、何が足りなかったのか――
 言葉を失い、うなだれる研坐崎に、今度は童女が呼びかけてきた。
(でも――あたし達、恨みや悲しみだけじゃないのかも知れない。そんな気はします――)
(――え?)
(それが何なのか――少しだけ、気になります)

 意識を取り戻した時、最初に感じたのは痛覚だった。
鋭い痛み、鈍い痛み、焼けるような痛み、しみるような痛み――全く種類の違う痛みが、体中のあちこちから発している。上がりかけた悲鳴は、声にさえならな かった。
「……眼が覚めたか、この死に損ないが」
 眼だけを動かすと、腕組みをした王山而が「呆れ果てた」という表情でこちらを見ていた。
「――おれ、生きているんですか」
「痛みがあるのは生きてる証拠だ。何ならもう少し付け加えてやっても良いぞ」
「……いえ、これ以上はさすがに」
「念のため言っておくが、向こう一週間は絶対に寝台から下りるな。食うのも出すのもそこでやれ。武術の鍛錬も禁止。良いな?」
「言われなくとも――」
 外傷は大したことがない――それでも、両腕には膏薬が塗られ、包帯が巻かれている。しかし、息をするだけでも胸の辺りに痛みが走る。体を動かすなどは ――首を動かすことでさえ難儀であり、口をきくたびに胸、喉、顎、口が痛いのだ。
 が、王山而は表情を緩めない。
「三日前に、人がさんざん言っても聞く耳持たなかった馬鹿者はどこのどいつだ?」
「――三日前?」
「貴様が庭で大騒ぎを起こしてから、それだけ経っておるのだ」
 その間の主な事は、次のようになるという。
 ――まず、研坐崎が倒れた後、翌朝まで烏丸老師が気功による施術を行った。それ以後も、『盤』で気功に長ける者らが交代で研坐崎に張り付かねばならな かった。
 研坐崎の体内にあった黒帯の気は、烏丸が全て追い出した――が、そのまま霧散させることはかなわず、それらは黒帯の中に戻ってしまった。醐英大師などは その黒帯を荼毘に付す事を訴えたが、「正体をつきとめる前に捨てるは下策」という他の長老らの声に圧され、今は持ち主である才孟に返された。
 黒帯と言えば、昨日より、中原の各門派に向けて手紙が送られ始めた。内容は無論、「黒帯武賊、要注意」「奸物・本英世の情報求む」というものだ。また、 本英世の人となりをつきとめるべく、連絡がつく全ての道家に向けても同様の手紙が送られている。
 才孟の求めは、これ以上ないという形で動き出している。研坐崎が言った通り、今や中原中が本英世を探し出そうとしているのだ。
 ――また、その三日の間に、橘達瑪からの連絡が『盤』にあったそうだ。何でも、宿敵・伊坂についての情報があったらしく、帰りが遅れる、という事だっ た。
(達姉さん――)
 心中で呼びかけた。
 黒帯と違って、答えが返って来るはずもない。
「それと――才孟どのから伝言を頼まれてる」
(伝言?)
「今、あの人はどちらへ?」
「隣室で寝ておる。あの御仁、起きてる時間の方が短いようでな――眼を覚ますたびに、黒帯と一緒にお前の様子を覗きに来てるわ」
 研坐崎は訝った。思わず眉をひそめようとして、眉の部分がまた痛んだ。
「――それなら、来られた時におっしゃれば良いのに」
「おれもそう思ったが、目が覚めたらすぐ伝えてくれ、と言われたのでな」
「――内容は?」
「『おいしかった』、と」
「? 何が?」
「お前が持ち込んだ肉料理だ。『おいしかった。ごちそうさまでした』……だそうだ」



(つづく)
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