序章

 風が吹き、平原に生い茂る草がさわさわと揺れる。
 月の光に照らされて、揺れる草が綾を成す。
 その只中に男がひとり。
 月明かりの下、両腕を大きく広げ、口から歌とも呻き声ともつかぬ音を発している。
  ――しゅおおおぅぅん しゅふぅぅぅぅぅぅん
  ――んむううぅぅん おぉおおおおん
  ――るぐるぅぅぅぅ ぬむぅぅぅぅぅ
 唸り声もあり、嘯声もあり――「歌」というには変化のない単調な節回しだ。が、のびやかな声調は、澄んだ夜気に響き渡り、月夜の静寂に染み透っていくか のようだ。
 大和(だいほう)・中原――そこは、王朝分裂より数百年、両者の争いの狭間でさんざんに荒らされ、踏みにじられた地である。男が立つ平原も、かつて兵馬 がぶつかり合い、多くの血が流された戦場だ。
 もし、男が口にするのが「歌」というなら、それは鎮魂の歌なのか――
 否――
 その嘯声は、鎮めの歌などではない。
 陰鬱ではあるが、葬送につきものの厳かな風がない。むしろ、この地に倒れた者達の恨みつらみを呼び起こす歌であろう。
 声調も、才孟(さいもう)が持っていた黒帯の発する節に通じるものがある。
 また、風が吹く。
 草が揺れる音に、男の着ている服の擦れが紛れる。
 なびく衣服の色は、黒――
 月影に浮かぶその顔は、歳月を経てあちこち皺が刻まれても、見まごう事などない顔だ。
(――見つけた)
 揺れる草の中に身を潜めながら、橘達瑪(きつたつま)は逸る心を落ち着けた。

 橘達瑪の脳裏に、過日の紫桜苑での事が思い出された。
 「伊坂(いはん)の居場所を知っている」と持ちかけてきた、本英世(ほんえいぜい)なる道士との会話だ。
(橘達瑪どのは、延開原(えんかいげん)という場所をご存知でございますか?)
(……この白井より、東北へ十数里にある原っぱでござろう? 人里からも大分離れた……)
(同時に、東西両王朝が、かつて剣戈を交えた場所でございます)
(さような古戦場など、珍しくもあるまい……この白井とて、戦火に見舞われ何度略奪の憂き目にあったことか)
(いかにも。この中原の地は、げにも血塗られております)
(して……それが伊坂とどういう関係が?)
(一月ほど前になりましょうかな……私がやはり古戦場の蓮虔山(れんけんざん)を通りかかった時、黒い衣服をまとった方がひとり居りました。名を訊ねたら 「伊坂」と名乗られました)
(……それで?)
(何でも彼は巡礼をしている、というのです。かつては戦が続き、今も無法がのさばる中原――無念のままに死せる人が眠る、そんな地を巡っておる、とか)
(……ふざけた話だ)
(その方が、次に行かれるのは延開原、とおっしゃっておりました)
(本英世どの、うかがいたいのだが)
(何か?)
(そちらは、蓮虔山に一体何の用がござったか? あの山も人里からは遠く隔たった地……)
(それが橘達瑪殿に何かご関係が?)
 道士の眼がまた妖しく輝く。
(大事なのは、仇が今、どこにいるか……そうでしょう?)
 一瞬気が遠くなり、橘達瑪は頭を振る。我に帰った時には、浮かんだ疑念は霧散していた。
(……そうだな。確かにその通りだ)
(その後、『盤』の女侠の橘達瑪どののことを耳にしましてな。伊坂という仇を探している、と耳にしまして……ここにこうしておるわけでございます)
(……わざわざかたじけない)
(許される気はございませぬか?)
(……道士どのは冗談がお好きのようだな)
(伊坂が盗賊をはたらいておったのは過去の事。物言わぬ死者の眠る地を巡り、その冥福を祈るのは、己が罪を悔い改めているが故――そのようには思われませ ぬか?)
(殴られた方は殴られた事を決して忘れぬ――殴った方がその事を忘れてもな)
(ならば、もし出会ったら――)
(殺す。その為に私は武術を学んできたのだ――止めても無駄だぞ、道士どの)
 いえいえ――本英世は首を横に振った。
(止めなど致しませぬ。報恩報仇は江湖武林の掟、それが果たされる事を祈るのみでございます)
(……されば、我が悲願達成、どうかお祈り下さい。報仇の後には、必ずや報恩の掟を果たします。道士どのは、しばらくこの白井に滞在されるのか?)
(しばらくは――その後の予定はまだ決まってはござらぬが)
(ならば、よろしければ我ら『盤』にもお立ち寄りください。この橘達瑪の名前を出せば、賓客とまでは行かずとも、丁重な応対をするでしょう)

 思い返せば、不審な点はいくらでもある。
 「人里離れた」場所を「何故か」歩いていて、「たまたま」出会った――大体この話からして信じがたい。
 伊坂が巡礼と称して中原の古戦場に立ち寄っている――というのは在りえる話だとして(懺悔のつもりなら、ちゃんちゃらおかしいが)、本英世の方が古戦場 を通りがかったのは何故か、結局分かってない。
 また、本英世という道士が、伊坂を自分に売る理由。初対面の人間が、こちらの欲しがっている情報を突然もたらすのを「運がいい」の一言で済ませられるほ ど、橘達瑪は能天気な人間ではない。
 裏に必ず何かがあるはずだ――といって、あの道士が、伊坂に恨みや含みがある様子は見受けられなかった。
 ならば、考えられるのは――
(罠か?)
 だとしても、その理由が思いつかない。本英世が、伊坂とつるみ、こちらを陥れようとしている――と考えても、それは一体何のために?
 叢に身を潜めつつ、気配を探っても、何者かが隠れている様子はない。
 ――目前に、長年探し求めた怨敵。昂ぶる心の裏で、勘が「危険だ」と告げている。橘達瑪の、侠客としての勘だ。
 が――侠客として生きている限り、危険の中に立つのは宿命だ。これまでもそうだったし、これからもそう生きる。
 その生き方は、目前に立つ男がもたらしたものだ。全てはあいつから始まり――
(今――ここで終わらせる!)
 女侠の眼に殺気がみなぎった時、男の歌が止まった。広げていた腕を下ろし、首を女侠の方へと向ける。
「誰だ?」
(――殺気が洩れたか)
 まあいい――橘達瑪は叢の中から立ち上がり、月光に身を晒した。
「二十年前、闌芭村(らんばそん)――覚えているか?」
「……何の事だ?」
 ふん、と橘達瑪は鼻で笑った。こいつの懺悔は所詮真似事だ。自分の為してきた事を欠片ほども分かっていない。
「かつて、貴様が手下と一緒に滅ぼした村だ――今でもあの地は打ち捨てられたまま、荒れる一方。住んでいるのは獣と虫だけだ」
「それがどうした?」
「――私の名は橘達瑪。その村のたったひとりの生き残りだ……!」
 声が震え、体が震える。感極まり、涙となってこぼれた。
 喪失感と無力感に打ちのめされたあの日。それから過ごした長い長い年月――色々あった。雑草を喰らい、泥水をすすり、『盤』に転がり込んで武術を習い、 研坐崎(けんざき)と出会って――
 それらは全て、この時の為に積み重ねてきたものだ。
 が、溢れる感傷も今はここまで――橘達瑪は即座に心を切り替える。
「孔雀党党首、伊坂! 我が無念、そして貴様に殺された人々の無念、今こそ思い知るがいい!」
 橘達瑪は両手を背に回し、得物を取り出した。
 右手には握弩(あくど)――台座の下に柄を張り出させた弩――を持ち、左手には十数本の矢を掴み出す。
 握弩は腰溜めに構え、矢の束を掴んだ左手を添える。添えた時には、矢の一本は
握弩の台座に装填され、発射態勢に入っていた。
 ――背に手を回し、この状態に入るまで、瞬きをする間もない。
 また、腰に構えられた
握弩の鏃は、確かに正面の男の姿を捉えていた。
 距離はおよそ五から六間。「連矢伎」たる橘達瑪にしてみれば、目と鼻の先である。
 外す事は有り得ない。
(――これで――終わりだ!)
 女侠の人差し指が、握弩の引き金を引いた。

 ――それは、研坐崎が黒帯の気と戦っている頃の事だった。


 弦に構えられた矢は、放たれた後は自分で行く手を変えられない。
 構えられた鏃の先、引き絞られた弦の強さだけが、目標を決める。
 名手の眼が的を捉え、放てば、空を貫き、的を射るまで止まる事はない。
 古の高名な軍師は、敵に矢を射かけさせ、その矢を自軍の矢としたという。
 矢は自分で行く手を決められない。
 敵に射た矢は、敵から射られる矢にさえ変わる。
 



 払暁――
 まだ人気のない、朝もやの立ち込める鍛錬場の中。
 右手に剣を下げ、立っている人影がひとり。
 静寂に己を浸し、眼を閉じ、朝一番の澄んだ空気をゆっくりと吸い、吐く。
 心身ひとつにして、静かなる水面の如し――
 と、揃えられていた足が肩幅より広めに開く。
 下がっていた剣の切っ先が、つっ、と動き、ゆっくりと左斜め上に上がる。
 足首、膝、腰が曲がり、溜めを作る。上げられた右腕も真っ直ぐに伸びるのではなく、肘、手首が、微かに曲がり、やはり下半身と同じく溜めを作った。
 吸う――吐く――
 それが、彼の体内にじわじわと、鮮烈な気を溜める。汚れない、健やかな力が、うずうずと爆発する時を待ち望むかのようである。あの黒帯に宿るものとは全 然違う。
 そして、ついに時は至り――
 人影は目を開き、「はッ!」という気合と共に、剣を振り下ろした。
 白刃が朝靄を切り裂くその型は、春霞閃空十六手の「空鳥捕虫(くうちょうほちゅう)」だ。
 ひとたび下を向いた剣は、間髪入れずに跳ね上がり、人影の正面に向かって刺突を繰り出し始めた。
 「空鳥捕虫」から繋がった型は、「暁光貫靄(ぎょうこうかんあい)」――その名の如く、朝もやを切っ先が貫き、穴を開けた。
 繰り出す刺突や斬撃に重さが乗る「風花逍遥(ふうかしょうよう)」、凄まじい速さで蹴りを撃ち出す「隘路砂塵(あいろさじん)」、屈んで伸び上がる勢い のまま剣を走らす「鶯梭雀躍(おうさじゃくやく)」――
 春霞閃空十六手の型が、一から十六番目まで流れるように繋がっていく。研坐崎の体が躍り、剣が走り、かき乱された朝もやが渦を巻いた。
 やがて、十六番目の型である刺突技「射鳥英雄(しゃちょうえいゆう)」を決めると、始めた時のようにその場に足を揃えて立ち、弾んだ呼吸を整えた。
 熱を帯び、汗ばんだ肌が心地好い。体を思いのままに動かすというのはやはり良いものだ。
「無理はしておらんだろうな、研坐崎?」
 入り口から呼びかけられ、人影――研坐崎は振り向いた。
 紅毛の巨漢が、頭を下げながら戸口を抜けてくる所だった。
「おはようございます、王山而(おうさんじ)どの。全く問題はございません」
 剣を鞘に収め、研坐崎は抱拳する。
「おかげさまで、春霞閃空剣の套路も問題なくこなせるようになっております。不肖・研坐崎、復調いたしました」
「せっかく拾った命だ。粗末にせぬ事だな」
「……もう小言はご勘弁下さい。この数日、見舞いに来る人間全員に言われてるのですから」
「当たり前だ、この馬鹿者……」
 言葉を続けようとして、王山而は口をつぐんだ。
「……橘達瑪どのはつくづく苦労されたのだろうな」
「? 達姉さんがどうかされましたか?」
「いや、何でもない……何にせよ、復調したのなら良い事だ」
「ありがとうございます」
 頭を下げる研坐崎に、王山而は溜息をついた。馬鹿につける薬はないのだ。

 研坐崎が意識を取り戻してから一週間、庭での黒帯との一件より、十日が過ぎていた。
 その間にも、『盤』の黒帯武賊対策は進められていた。
 城門からは毎日のように馬が駆け出し、時には「盤底四老」や「賢学四師」のひとりが自ら使者として出ることもあった。
 それらの使いは、二〜三日ほど前から『盤』に戻るようになっており、少なくとも、今の所は「往復の間に死者が出た」などの話は出ていない。
 耳に届く話では、中原の門派の数々は、『盤』からの知らせに、一応耳を傾けている様子だという。
 もっとも「帯一本締めた程度で、人が突然強くなる」という話は相当眉唾物として見られたらしく、使者が目前で失笑された事もあったらしい。
 それでも、各門派が話を聞いてくれているのは、「『盤』が頭を下げてお願いをしに来ている」という一面があるからだ。「眉唾な話を聞いてやってる」とい う意味も含め、「『盤』に貸しを作った」、と考えている向きもあるようだった。
 眉唾な話と言えば――
 かように「眉唾」な黒帯の事は、『盤』の住民の間にも知れ渡っていた。
 死者の怨念を宿し、締めれば力と、そして狂気と破滅をもたらす黒帯――そんな不吉なものが持ち込まれた事に、『盤』の人々はやはり不安と、そして期待を 抱いている。
 過日の、研坐崎と黒帯との一件の際、研坐崎が上げた悲鳴は多くの人が耳にしている。隠すなど到底できるものでもなく、烏丸老師(うがんろうし)により早 々に事実の公表が行われた。
(近頃中原にはやるもの 気功に長ける黒帯武賊
 黒帯一本『盤』に来たり 侠客ひとり之に挑む
 黒帯すなわち憑代なり 亡者の恨みを宿すという
 かかる黒帯作り蒔き 人苦しめる奸物在り
 この世を乱す奸を討つ それこそ我ら『盤』の使命
 眠り妨げる者果たした時 亡者再び安らかならん)
 妖術使いがこの世にいて、悪さを企んでいるのを、我々『盤』が倒す――この突拍子もない宣言は、意外にも『盤』の住民達に素直に受け入れられていた。
 武に触れることなく生きる人々にしてみれば、「侠客」と呼ばれる者達の見せる技は人外の域であり、正直「妖術」と見分けがつかない。
 そんな「妖術」と見分けがつかぬ武の技で、悪さを働く者の話も聞かれることもあるが、『盤』の武人は、むしろそういった輩を退治する側である――住人た ちはそう信じていた。長老らの練才府解放の戦い振りは、いまだに年長者たちの語り草となっており、「『盤』の武人は正義の使徒」という子供じみた信頼は、 中原にも広まっているものであった。
(『盤』が、ついに動く――)
 中原をさらに乱さんとする「悪玉」妖術使いに対する、我らが「善玉」の武術使い――そんな無邪気な構図は、人々の心を喜ばせ、安心させていた。
 そして、毎日門を抜けていく使者の姿は、「『盤』が、中原を相手に動き出した」という喜びをいっそう確かにしているのだ。

「体が自由に動くというのは、実に気持ちがいいものですね」
 套路を繰り返しながら、研坐崎は心底気持ちよさそうに言う。
「自分が生きている、という感じがします」
「それは結構。飯や厠の用の度に大騒ぎをする事もないわけだ」
 研坐崎が套路を止め、心底嫌そうな顔で王山而を見た。
「……それ言わないで下さいよ」
 王山而はニヤニヤと意地の悪そうな笑いを返す。
「事実であろう? 門弟どもが尿瓶を差出し、『どうぞ、ご存分に』とする事がなくなったのだからな。実にめでたい」
「……あまり考えたくありません」
「尿瓶持った門弟が、けつまずいて中身をぶちまけたこともあったなあ」
「……あの惨状を目の前にして爆笑できるなんて、王山而どのの血は何色ですか?」
「武を用いずして人ひとり殺しかけるとは、げにも恐ろしき剣侠・研坐崎。この王山而、危うく笑い死にする所であったわ」
 その時の場面を思い出したらしい、王山而は俯き、押し殺した声で笑い始めた。が、結局我慢できなくなり、腹を抱え、爆笑し始めた。
 同じ場面を鮮明に思い出してしまった研坐崎の方は、肩を落として深々と溜息をついた。
 ――やらかした門弟が必死になって掃除したものの、翌日まで匂いは取れなかった。
 しかもその門弟が次の食事の膳を運んできたのである。
 まだ腕を持ち上げる事さえままならなかった研坐崎は、当然食事は人に食べさせてもらう形にならざるを得ない。ぶちまけた尿瓶の中身の掃除をした手で、物 を食わされたわけだ――。
 もちろん、この事は王山而もよく知っている。鍛錬場の壁際にうずくまり、拳で地面を殴りつけている紅毛の巨人の脳裏には、その経緯が浮かんでいるに違い なかった。
 息が続かなくなって本当に笑い死にしたとしても、その死を悼みはしないだろう、と研坐崎は思った。まさしく死ぬ程の楽しさに果つるなら、怨念となってこ の世にとどまる事もあるまい。
 気を取り直し、套路を続けようとして、研坐崎は思いついた。
 怨念――黒帯。
(――才孟どのは笑ったのだろうか)
 王山而の話によると、自分が未だ眼を覚まさなかった時は何度か様子を身に来てくれたという話である。
 が、その後は一度も顔を合わせてはいない。王山而や、あるいは食事や衣類、掃除の世話役の門弟に話を聞いたら、「ずっと部屋に閉じこもりっきり」という 事だった。
(でも――あたし達、恨みや悲しみだけじゃないのかも知れない。そんな気はします――)
 夢の中で聞いた言葉は、研坐崎の中にしっかりと焼きついている。
 それは自分の作った幻なのか、それとも彼女の心の声だったのか――
「王山而どの。今日の朝食は、みんなで一緒に食べましょう」
「……み……みんな……とは……?」
 笑い声の間に、問いかけてくる王山而。
「みんなは、みんなです。私と、王山而どのと、才孟どので」
「……何だと?」
 笑い声が、ぴたりと止んだ。


二.

(――おれ、何だかもうダメみたいだ)
(どうしてそんな事を言うの?)
(何だか……色々どうでも良くなっちまった。おれ、きっと誰かに叫びたかったんだ)
(叫ぶだけ叫んだら、それで良くなったの?)
(多分……だから、おれ、先に行くよ。先に行って、あの世であいつを待ってる……)
(あたしの事も待ってて。きっと、すぐに行けるから)
(お前は来るな)
(どうして……?)
(おれとあいつが行くのは地獄だから――お前は極楽へいけ。あの野郎が、きっとお前を連れて行ってくれる)

 眼が覚めた。
 白い寝具の中に横たわったまま、才孟は抱きかかえた黒帯の気配を探った。
(……また、消えてる)
 あいつをまだ殺してないのに。見つかったって話も聞いてないのに――
 この数日間、黒帯に宿っている仲間が、数を減らしている。
 気がついたらいなくなっている事もあるし、夢の中で別れを告げて消えていく、という場合もある。
 共通してるのは、二度と戻って来ない事。
 宿っていた十八人の仲間は、もう十を切っていた。
(次に消えるのは誰なんだろう?)
 ――いつか、みんな消えてしまうかな?
 ――あたしはひとりになってしまうのかな?
 そう思うと、怖くてたまらない。起きている間は、帯を抱きしめ、ずっと呼びかけていないと落ち着かなかった。
 が、不思議な事に、消えていくであろう黒帯の魂達は、才孟ほどには恐れてはいない。
 自分達はもともと死んでいるんだから、仕方ない――そんな思いが、帯の中に広まっているようだ。
 自分達には、恨む事しかもう残ってない――それは確かに間違っていた。
 けど、恨み以外に与えられたものは、嫌なものばかりだ。例えば、こんな風にみんなから取り残される不安とか――他にも――
「才孟どの、才孟どの」
(ああ――まただ)
 才孟は、のっそりと上体を起こした。
「失礼します」
 いつものように、こっちの反応を待たずに戸が開かれた。
 顔を下げたままの少年が、膳を持って部屋に入って来る。「おはようございます、才孟どの」と、やはり顔を合わせないままで言って、卓の上に膳を置き、 「朝食です。どうぞお召し上がりください」と、やはり顔を合わせずに頭を下げ、そそくさと部屋を出て行く。
 歓迎されていない客――その居心地の悪さは、以前から知っていたものではあったけど。
(……ここでは、みんなあたしのこと怖がってるんだ)
 無理もない――怨霊を宿して空中をのたくる帯と、それを持ちこんで来た素性の知れない老婆、なんて。
 が、この日の朝はいつもと違う。
 少年が戸口から出て行く直前、戸の陰から手が伸びてその耳をつまみあげたのだ。
「い、痛っ! 何をされるのですか、研坐崎どの!」
「人にあいさつする時は、眼を顔を見てせよとは教わらなかったか?」
 研坐崎の声。だが、こんな風に人に怒っている声は初めて聞く。
「そんな……ちゃんと眼を見てご挨拶をしております!
「ならば言ってみろ。才孟どのはどんな顔をしていた? 寝起きを起こされて不機嫌だったか、それとも気持ちの良い目覚めで笑ってらっしゃったか?」
「そ……それは……」
「大体、返事を待たずして勝手に戸を開けて、ずかずかと入り込むとは何事か! こちらにおわすお客様は、この研坐崎にとっては命の恩人! 失礼は許さ ん!」
「い……っ! ど、どうぞお許しを!」
「詫びるのはおれにじゃない! 才孟どのだ!」
「は……はいっ!」
 耳を放された少年は、初めてこちらの顔を見てから、深々と頭を下げた。
「た、大変失礼をいたしました、才孟どの! どうかご容赦を!」
「それでは足りん! 平伏し、叩頭しろ!」
 慌てて両の膝をつき、額を床に打ち付ける少年。鈍い音が三度鳴ってから、さすがに声をかけた。
「あの……もういいです。別に気にしませんから」
「は……ありがとうございます!」
 が、戸の陰の研坐崎は、それでは納得しなかったようだ。
「……まさか、お前以外の者達もこんな失礼をしていたのではないだろうな?」
「それは……その……」
「後で詳しく話を聞く。今は行っていいぞ」
「はい……し、失礼します!」
 少年は立ち上がってから、もう一度こちらと、そして戸の陰に対して頭を下げ、姿を消した。
 代わって現れたのは、やはり研坐崎だった。
「……おはようございます、才孟どの。門人が不調法で失礼致しました」
 頭を下げるその顔はにこやかで、今し方までの剣幕は見当たらない。
「……体は……もういいんですか?」
「ええ、何とか。お顔を合わせるのは久しぶりですね」
 言いながら、研坐崎も戸をくぐって部屋の中に入ってきた。追い出すつもりはなかったけれど、「入っていい」とも言ってない。
 しかも、手には膳を持っている。
「あの……そのお膳は?」
「よろしければ、一緒にいかがでしょうか?」
 やはり、こちらの答えを待たずに膳を卓の上に置き、壁際にあった椅子を卓の側に寄せる。
「研坐崎の快気祝いだ。まあつきあってやるのだな」
 研坐崎の後からは、やはり手に膳を持った王山而。背を屈めて戸口をくぐって入って来た。。
 意外な展開に状況が飲み込めず、寝台の上でじっとしていると、研坐崎が側に立ち、手をのべて来た。
「さあ、才孟どの。一緒にご飯を食べましょう」
(まだ……そうするなんて言ってないのに……)
 そう思いながらも、才孟は手を伸ばしかけ――気がついて、両手で黒帯を抱きしめ、再び気配を探った。
(……良かった。消えてない)
「? どうしました?」
「いえ、何でも……ないです……」

「いただきます」
 そう言って手を合わせ、頭を下げる所まではともかく――椀を手に取ってからの研坐崎の行儀はあまりよろしい物ではなかった。
 それが最初に気がついた事。
 次に気がついたのは、この突然の食事会をあまり楽しく思っていない者が、自分以外にもうひとりいる、という事――王山而は、こちらとは眼を合わせようと せず、黙々と自分の膳にある物を平らげている。
 白けて居心地の悪い沈黙に、物を噛んだりすすったりする音だけが聞こえている。
「……もう少し落ち着いて食えんのか、貴様は」
「……はい?」
 口元の椀を下ろした研坐崎は、実に幸せそうだ。
「ああ、すみません……自分で食べたいように物が食べられるというのが嬉しくて、つい……」
「……橘達瑪殿は、侠客としての行儀礼儀は教えても、食事のしつけにまでは手が回らなかったようだな」
「私の物覚えが悪かっただけです。注意はさんざんされましたよ」
「された挙句がその様か」
「……別に、知った顔ばかりでしょう? 多少は無礼講、ということで……」
「朝っぱらから無礼講とは、実に景気がいい話だ」
 ようやく気まずそうな顔をする研坐崎。自分の連れてきた相手が、あまり心楽しんでいない事にやっと気付いたらしい。
(……早く終わらせよう)
 そう思い、才孟も椀を取る。
 ――改めて思うが、自分には過ぎた食事だ。ご飯、汁、菜、全てが温かくて、いい匂いがする。口にすれば、歯ごたえ、味が絶品で、お腹よりも先に胸の方が 一杯になり、涙が出てきそうになってしまう。
 実際、以前に研坐崎が持ち込んで来た肉のタレ付けを食べた時は、本当に涙が止まらなかった。おかげでしょっぱくなって、途中で元の味が変わってしまった が、それでも全部食べた。
 「美味しい」と感じながらものを食べたのは、本当に久しぶりだったのだ。
(……ちゃんと、研坐崎さんに伝えてるかしら?)
 椀の縁に口をつけてすすりながら、才孟は紅毛の巨漢を見た。眼が合った直後、巨漢はすぐに視線を自分の膳へと落とす。
(……嫌われても仕方ない)
 才孟は、そう自分に言い聞かせた。今は横で元気に食事をしているが、研坐崎が死にかけたのは自分の責任――しかも「死んでも仕方ない」とか、「死んでく れ」とさえ自分は口に出して言ったのだ。
 研坐崎がまだ意識を取り戻してなかった時、その部屋に行く度に王山而から向けられた視線は、才孟には辛いものだった。「研坐崎は生きている。残念だった な」「今なら間違いなく殺せるぞ」という嫌味も、相当堪えた。
 泣き出したいようないたたまれなさを抑えて、頼んだ伝言だったのだ。今考えると、あの時に仲間が暴れ出さなかったのは幸運だった。
 ――だんだんお膳の料理がまずくなってきた。
 ご飯は飲み込むたびに胸焼けがしてくるし、お汁の香りもきついししょっぱい。菜の味付けは濃くて、口が受け付けなくなってきた。
 才孟は箸を置いた。まだ料理は半分以上残っている。
「……才孟どの?」
「もう……お腹いっぱいです」
 答えながら、才孟は椅子から注意して下りた。床に足をつけた時、懐中の黒帯に手を当て、また気配を探った。誰も消えた様子はない。
 その時、王山而も箸を置き、手を合わせた。こちらはちゃんと、料理を全て平らげている。行儀について色々言っていた割には、食べるのは早い。「馳走に なった」と言うと、お膳を持って立ち上がる。
「あ……王どの?」
「飯を食い終わったから、膳を下げてくる。悪いか?」
「……いえ」
 王山而は、さっさと部屋から出て行ってしまった。
 気がつけば、卓についているのは研坐崎だけとなっている。箸と椀とを手にしたまま、所在無げにしている様が、少しばかり哀れを誘った。
(分かってる……研坐崎さんはあたしに気を使ってくれている)
 ただ、やり方を間違えているとは思う。研坐崎には不本意な結果だろうけれど、気まずい時間が終わった事の方がありがたかった。
 しかし、研坐崎の方は懲りていない。
 早々に寝具の中に戻ってしまおう――そう思っているのに、
「……『盤』の食事は合いませんか?」
などと、話しかけてくる。
「ええ……どうも合わないみたいです」
「要望をおっしゃって下さい。厨房の者にかけあって、味付けを考えてもらうようにします」
「別に……いいです。量を減らして……くれれば……」
「……友人の肉料理は食べられたんですよね?」
 不思議そうに首を傾げる研坐崎。才孟は答えない。あれは、気遣いが嬉しかったから、なんて言いたくない。
「では、お昼は友人の所で惣菜を買ってまいりましょう。家が肉屋で、惣菜にしてますので……」
「……もういいです。気を使わないで……下さい」
 才孟は研坐崎を睨んだ。
「どうしてそんなに……今度は本当に……死ぬかも知れませんよ……」
「なら、私も徹底的に抗います。そうそう簡単には死にません」
 答えて汁をすする。何が楽しいのか、顔には笑いが浮かんでいた。
「私が死ねば、あなたの立場が悪くなる。だから私は死にません」
「なら……あまり構わないで下さい……うっとおしい……正直に言うと」
 その台詞は、口にするのに抵抗があった。が、言った側程には、言われた方は応えた様子がない。
「才孟どのが、普通に出歩いたりしてるなら、私も気にはしませんよ。ずっと部屋に閉じこもりっきりなんて、よろしくありません」
「放っておいて……あたしの……勝手です」
「気持ちは分かりますよ」
「……何が?」
「部屋にこもっていると、気もだんだん塞いでくるんです。昨日までの私がそうでしたから」
(分かってない。やっぱりあなたは何も分かってない)
「研坐崎さん……あたし、あたし達、あなたを殺しかけたんですよ? 分かってます?」
「勿論ですとも」
 笑った顔のまま、深々と頷く研坐崎。
「生死の際まで立たなければ見えてこない物もあります。私は死にかけましたけれども、その甲斐はあった、と思ってます」
「……どんな甲斐が……あったって……言うんです?」
「あなた方について知ることができた――全部が分かった、なんて勿論思ってはいませんが」
「……分かったのなら……もう構わないで……。次は、死にます」
「我ら侠客、死を恐れません」
 たん、と椀が卓に置かれた。
「なるほど、次は私たちの事を知ってもらう番ですね」
「……どうしてそんな話になるんです? それに、私達って……?」
「私はあなた達の事を知った、だから、次はあなたが私達の事を知る。私達とは――侠客の事です」
(今度は――一体何をするつもりなのかしら?)
 才孟は、研坐崎の顔をまじまじと見つめた。
 相変わらずの、屈託のない笑顔。明るくて、迷いがなくて、うっとおしくて――
 また気が付いて、黒帯の気配を探る。誰も消えてないことに、安堵する。
 まずい――この人と話していると、仲間達の事を忘れそうになる。
「そんなの別に……知りたくない……迷惑です……」
「駄目ですよ、才孟どの。この研坐崎、命に代えても、あなたに知ってもらいましょう」
 才孟は、手の黒帯に力を込め、呼びかけた。
(みんな、助けて――この人を追い払って!)
 なのに、仲間達は何も答えようとしない。
 今まで、こんな事はなかったのに――


三.

(はッ! はッ!)
(せやッ! せやッ!)
 あちこちから掛け声と、それに合わせて地面を踏む音、あるいは武器を打ち鳴らす音が聞こえてくる。
 今日も『盤』の一日が始まったのだ。門弟らの武術の稽古は激しく、厳しく、そして活気に満ちている。騒々しいが、才孟には不快には思われなかった。
 ただ、無邪気に技を鍛えていた時が思い出され、やりきれなくなる。
「曲がりますよ、才孟どの」
 そう言われて、彼女は我に返った。
 こちらの手を引く研坐崎が、気遣わしげにこちらを見ている。
「歩くのは難儀そうですね……やはり抱えて参りましょう」
 そう言って身を屈めて来るのを、首を振って拒んだ。
「いいえ……いいです」
「ならば、背負って……」
「いえ……自分で歩きます」
 このやりとりは、一体何度目になるだろうか。
 ――「侠客のことを知って欲しい」という研坐崎は、『盤』の書庫に才孟を連れて行きたがった。
 侠客としての心構えは、武人侠客の伝記の類いを読み聞かされて生まれたから、という話である。
(それらに触れていただければ、私達のことも少しは分かっていただけるでしょう)
 命に代えても、と明言しているだけあって、「嫌だ」「外に出たくない」「うっとおしい」と何度言っても、研坐崎は退こうとしなかった。「快気祝い」とい うのを自分に言い聞かせ、仕方なく才孟は同意したのだが、その後「抱えて参ります」とか「背負わせて下さい」という申し出を断るのがまた一苦労だった。
 その時に口に出した「自分の脚で歩けます」という言葉が、何やら研坐崎の琴線に触れたようだったが――
 いざ歩いて見ると、百歩も進まないうちに足が震え始めた。途中で足を止め、廊下の柱に寄りかかるたびに、また研坐崎は「抱えましょうか」「背負いましょ うか」と言って来る。言われる度に固持してはいるが、差し出された手につかまり、支えにする程度には好意に甘えることにした。
 そして、二人が今向かっているのは書庫――ではない。
 「侠客とはどんなものか」という話より、才孟には知りたい事ができたのだ。
(人は……死んだらどこに……行くのでしょう?)
(……そういう事であれば、まずは仏道の出番でしょうね)
 かくして、研坐崎は『盤』の中にある仏閣に向かっているという。
 幾たびか廊下を曲がる。時折才孟が休み、その度にまた「抱えましょうか」「いいです」という問答を繰り返す。ひとりで戻れと言われたら、間違いなく道に 迷うだろう――行き倒れる事さえあるかもしれない、と才孟は思った。
 そうして、ひとたび廊下を外れて庭に出ると、一棟の建物が見えた。
 石畳が敷かれた参道の両脇には、勇壮な仁王像が一対立って、こちらを睨みつけている。その参道突き当たりにある階段の上には「羅漢堂(らかんどう)」の 文字が大きく篆刻されていた。
「参りましょう」
 研坐崎が手を引いた。
 仁王像の間を抜けて、階段を上る。十段もないのに、上りきる時にはまた息が切れていた。
 研坐崎が、正面にある戸を少しだけ開き、中を覗いてみた。中は講堂になっており、ずらりと並んだ子供達が、無言で卓に向かい、筆を動かしていた。
 その正面に座る法師が、研坐崎に眼を向ける。会釈をする研坐崎。
 法師は立ち上がり、子供達の脇を通って静かに戸を開いて廊下に出た。
「これは研坐崎どの。もう体はよろしいのですか?」
 そう言って頭を下げる黒髭面の法師に対して、研坐崎も頭を下げる。
「おかげさまで、この通り――その……」
「拙僧、顔慈(がんじ)と申します」
「失礼しました、顔慈どの」
「いえ……私の方も、研坐崎どのは評判と、先日の黒帯との一件で遠目に初めて顔を見た、という程度です」
「その節は、どうもお騒がせ致しました」
 お互いに何度も頭を下げあった後、顔慈は才孟にちらりと眼を向けてから、
「……して、本日は羅漢堂にどんな用で?」
 訊かれた研坐崎は頷き、促すように才孟を見下ろした。
 顔慈の笑っている顔の眼には、やはり警戒と不安の光がある。
「あの……顔慈……さん」
「何でしょう――才孟どの、でしたかな?」
「はい……人は、死んだらどこに行くのでしょう?」
 しわがれた声を搾り出すようにして、才孟は問いを口にした。
 ふむ、と顔慈は唸り、顎鬚をいじった。ざりざり、という音が聞こえてきそうだった。
「なかなか深遠な質問ですね……単純にして、実に深い」
 しばし瞑目し、沈思した後、顔慈は口を開いた。
「しかし、拙僧の答えが、果たしてあなたの求めるものであるかどうか……」
「お願いです……教えて下さい」
 頭を下げる。体の均衡が崩れて倒れそうになるのを、研坐崎の手につかまって何とかとどめた。
「……では、私はもう少し用事がございます。しばし、別室でお待ちいただけますか?」
 こちらへ、と誘う顔慈。ふたりはその後ろについて歩き出した。

 天井まで届きそうな中に、本がみっしりと収まった書架。それが壁一杯に並んだ、さして広くもない一室。鼻をつくほどの紙の匂いが満ちている。
 研坐崎と才孟が連れて来られたのは、羅漢堂の書庫だった。「用事が終わるまで、本でも読んで時間を潰して下さい」と言われたが、何に手をつければいいの か才孟には見当もつかなかった。
 勧められた椅子に座りながら、才孟は研坐崎の方を見る。
(どれを見ればいいと思います?)
 そう訊ねようとして──止めた。
 見れば、研坐崎も書架を前に腕組みをして唸っている。
 綴じられた分厚い冊子の背や、積み上げられている巻物などからは、妙な威圧感が滲み出ている。豪華で丈夫そうな作りの表紙などは、いかにも上等で触れる のを拒んでいるかのような雰囲気だ。ましてや、それらに達筆な文字で「摩訶般若波羅蜜経」「金剛般若経」などと書かれていると、圧倒されてしまいそうだ。
 それでも研坐崎は、勇を振るって紫紺の巻物を一巻手に取り、開いてみたものの――数呼吸もしないうちに書架に戻してしまった。
(……何か読むなんて……久し振りだな……)
 一番最後に眼にした文章は――灰になって崩れかけていた、本英世の書きつけ――
 皺だらけの顔が、くしゃりと歪んだ。『盤』に至るまで、色々と書き文字の類いは眼にしていたと思っていたのに、それらは全く覚えていない。
 何かが胸の中に湧きあがる。それらもまた、恨み以外の事であり――とても嫌なものだった。
 気を紛らわせるために、手が届く範囲で一番薄い冊子を取り出した。
 びっしりと並ぶ字は、馴染みのないものが多い。読み方の察しはつくが、意味は見当もつかない。読み進めて行っても、「人が死んでどうなるのか」というこ とについては触れられていない。
 ……気が付けば、あっという間に読み終えてしまっていた。
 何を言っているのかさっぱり分からなかったけど、所々に印象に残った言葉がある。
 一番最後の紙面から遡り、その文言のある個所を探す――あった。
「色即是空、空即是色――」
 口に出して読むと、言葉が胸の奥に響くように感じられる。
 今まで見たこともない言葉だった。意味は全然分からないけど、何か、深いものが込められているような──
 気がつくと、深く、静かな呼吸の音が聞こえている。
 眼をやれば、やはり椅子に腰掛けた研坐崎が、膝に書物を広げたままで俯いていた。眼は閉じられ、紙面にあてがわれた指先は、その先を繰ろうとはしていな い。
 才孟は、最初に戻り、また冊子を読み始めた。紙面を繰る音を、なるべく立てないようにして。
 ――そうして、どれだけ時間が過ぎたのか。
 戸口に人の気配がして、才孟は顔を上げた。
 髭面の顔慈が、こちらに向かって軽く頭を下げていた。
「お待たせして大変失礼致しました」
 「ばさっ!」という音がした。研坐崎が膝の上の書物を落としたのだ。
「が、顔慈どの……! いえ、お時間を割いていただきありがとうございます……!」
「侠客の方々には、仏典は退屈だったようですな」
「いえ……仏陀の教え、深く感銘を受けました」
 眼を瞬かせながら、あたふたと書物を拾って頭を下げる研坐崎。苦笑する顔慈。
(……起こしておいた方が良かったのかな?)
 ふたりのやり取りを見ながら、才孟はそんな事を思った。
 と、顔慈の顔がこちらに向き、小さく頭を下げてきた。
 慌てて才孟も小さく会釈したが、うつむいたまま顔を上げられない。
 警戒や不安の光が、髭面の眼から消えていて、どういう顔をしていいのか分からなかったのだ。
 手近な椅子に腰掛けると、顔慈は話し始めた。
「さて……人が死んでどこに行くか、ということでしたが……」
 説法に慣れているのだろう、その様には、貫禄が滲み出ていた。

「善因善果、悪因悪果と申しまして、善行を積んだ者は死後極楽へ行き、悪行を積んだ者は死後地獄に落とされる――そう信じられておりますし、方便として私 どももそう教えております」
 そんなの知ってる――才孟はそう思った。
 顔慈は書架に手を伸ばし、巻物を一巻取った。表紙には「地獄絵図」という達筆な文字が見えた。
「お聞きになりたいなら、極楽、地獄がどんな所かをお話することもできますが?」
「なら……あたし達はどこに行くのでしょう?」
 才孟が訊ねる。もう既に、そこに行った仲間もいる。
「あたし達は……ここに来るまでに……いっぱい人を傷つけて……時には殺してきました。でも、本英世が裏切らなければ……そんな事しなかったし……あたし がこんな風になる事も……なかった」
「全ては本英世が悪い、と?」
「だって……そうですよ」
 ふむ、と顔慈は頷いた。
「ならば本英世は地獄に落ちましょうな――ただ、だからと言ってあなた方の人殺しの事実が消えるわけでもありません」
 自分達は地獄行き――それは才孟も分かっている。
 しかし――
「それなら、あたし達……どうすれば……良かったんですか? あたしもみんなも……こうなるしかなかったのに……」
「事情は伺っています」
「裏切った人間を恨むのは……間違ってるんですか? 極楽へ行くために……何をされても……抵抗しないで、黙って殺されるのが……正しいんですか? あた しは……あたし達は何のために……生まれて来たんですか?」
 それらの問いは、旅の途中で何度も何度も浮かんだものだった。浮かぶ度に、「考えたって仕方ない」「自分は本英世を殺す。それだけあればいい」と打ち消 し、沈めてきた問いだった。
 顔慈はしばし言葉を選び――静かに首を振った。
「全ては仏様の思し召し――と申しても、あなたは納得できますまいな」
「……それなら……仏を恨んでやります」
 そんな仏のいる極楽なら、こっちの方から願い下げだ――そう思う自分に気付いた時、才孟は笑いたくなった。
(結局……あたし、恨むしかない……)
 生まれた意味は分からない。が、生きる意味なら分かっている
 ──復讐。
 なら、自分は復讐するために生まれてきたんだろうか? 復讐が生まれた意味なら、本英世は裏切るために自分と出会ったのだろうか? 信頼しあえる仲間と 出会ったのは、失うためだったのか? 
 憎むために愛した? 失うために手に入れた?
 そして、人は死ぬために生きる? 死んでも、凄まじい恨みを残すために生きる?
 ――沈め続けて来た問いかけが封印を解かれ、才孟の中に渦巻いた。しかし、どの問いにも、答えは出ない。
 やっぱり、無理だった――そう思った。
(恨み以外のものなんて――)
 懐に手を入れて、畳んである黒帯を確かめた。本英世に殺された仲間達。みんなが、本英世に殺されるために生まれてきたなんて、考えたくもない。
 なら――考えるのは止めよう。今までそうして来たように。
 あいつを殺す。やっぱり自分には、それだけがあればいい――
「――才孟どの!」
 体を揺すられた。
 真顔の研坐崎が、こちらの肩を掴んで見つめてきている。
「大丈夫ですか、才孟どの?!」
「え……あ……」
 才孟は我に返った。
 研坐崎が今度は顔慈の方に向き直る。
「顔慈どの。己は何ゆえ生まれてきたのか、という問いは、誰もが持ちうる普遍の問いかと存じます」
 研坐崎の眼には、力があった。先刻まで居眠りをしていたとは到底思えなかった。
 眼だけでなく、才孟の肩をつかまえている手にも、力が込められていた。痛いくらいに。
 そのせいで、心で固まりかけていた何かが霧散してしまった。
「かの仏陀は、こんな問いに対して、本当に『御仏の心のまま』という事を仰っていたのでしょうか?」
 思いがけない相手からの問いではあったが、法師は「まさか」と首を横に振った。
「釈迦の教えは悟りを目指し、苦しみからの超越を目標としております。全てを仏の欲しいままとして考えを止めるのは、その道から外れているものでございま しょう。そもそも、仏の教えには全知全能の存在などおりません」
「なら……本当の答えは……何ですか?」
 才孟が再び訊ねる。法師はまた黙り込む。
「仏の教えでは……何と答えてるんでしょう……?」
 紙の匂いのする一室に、沈黙が満ちる。どこかから、子供達が読経する声が聞こえてきた。妙な節のついた、抑揚のない歌のようでもあった。
 やがて、顔慈は口を開いた。
「意味などありません」
「……え?」
「この世はただただ、原因があって結果があるのみ。物事の生まれにも滅びにも、意味や目的などありません……私達も、もちろん才孟どのも、意味や目的が あってこの世に生まれたのではなく、父と母がいたからこの世に生まれ、まだ死んでいないからこの世にいる、ただそれだけなのです」


四.

「意味が……ない?」
 左様、と顔慈は頷いた。手元にある「地獄絵図」の巻物を書架に戻す。
「物事はただ在り、そうある為の原因と、そうなったという結果が在るだけです。そこに意味や象徴を求めるのは人――人がどんな意味を見出そうと、物事はそ の在り様を変える事はないでしょう。何故なら、意味は人が勝手に付け加えたものなのですから――む?」
 顔慈の眼が、才孟の膝の上に止まる。
「才孟どの、そちらの本は、どこまでお読みになりました?」
「え……? あ、これは……」
 自分の膝の上に載せていた冊子を取り上げる。
「えっと……一応……最後までは……」
「失礼ですが、中身は理解できましたかな?」
 才孟は首を振った。
「全然……ただ……」
「何でしょう?」
「ただ……印象に残る言葉が……」
「それは?」
 才孟はその言葉を口にした。
「色即是空、空即是色──」
 ほほぉ、と顔慈は感心したような声を洩らした。
「いい所に眼を止められた」
「そう……なんですか?」
「その対句には、仏の教えの真髄がございます」
 何が嬉しいのか、顔慈が笑い、まっすぐに才孟の眼を見据えた。また居心地が悪くなり、才孟は眼を伏せてしまう。
 顔慈はまた説法を続けた。
「人がこの世に生まれることに、意味や目的などそもそもなく──意味や目的を求めるの
はやはり人、と申しました。これは人の誕生に限らず、全ての物事に言える事です。意味や目的は、物事に先立って在るのではなく、物事が生まれた後について くるものです」
「生まれた……後に?」
 いかにも、と法師は頷く。
「そして、生まれた物事は移り変わって参ります。
 例えば、この世に生まれた赤子は、這い、立ち、歩き、やがてひとりの若者となります。同じ人物であるはずなのに、この人物にあった『赤子』という意味 は、消えてなくなってしまいます。また、赤子であった時は、親から愛されていたとしても、長ずるに及んで道を踏み外し、愛想をつかされると言う事も有り得 ましょうな?」
「……顔慈どの。その例え方はいかがなものかと……」
 研坐崎が顔をしかめながら口を挟む。「失礼しました」と、顔慈は苦笑した。
「……ともあれ、物事は変わっていくもの。その意味は時と共に変わるのみならず、人それぞれの見方によってさえ、違いを見せていくものです。
 物事にひとたび付された意味──これが『色(しき)』。
 その『色』は、物事そのものの変化によって消えてしまう。これが、『色即是空』。物事の変化によって、新たな意味、新たな『色』が見出される事もある。 これが『空即是色』──お分かりですか、才孟どの?」
 色即是空、空即是色──その言葉を、才孟は胸の中で反芻した。
「因は果を生み、果は新たな因となり、それを繰り返して物事の在り方、ひいては世の中のあり方は変化します。物事に意味を求めても、物事自体が変化すれ ば、それこそ意味が失われてしまいます。
 物事や意味が同じ形をとどめない事により、人は悩んで苦しむ──ならば、物事は移り
変わる、ということを認めてしまえば、苦しみも減じましょう。
 故に、『自分が何のためにこの世に生まれたのか』という問いには、こういう答えを返します――『そんな事を考えても仕方ない。それよりも、自分が移り変 わる世に生まれ、今生きている事を受け入れよ』、と」
「変化を――受け入れる」
 物事の変化──例えば、人は生まれて、生きて、死ぬ。
 今、生まれた後こうして生きている自分も、いつか死ぬ。その中で、手に入れて、失って、愛して、憎んで──
 手に入れて、失ったものは──愛して、憎んだものは──
(受け入れる──受け入れる?)
 知らず。
 才孟の手に、力がこもった。
「受け入れろ……って、言うんですか?」
 その手の中で、懐中の黒帯が握り締められる。
「あいつが……本英世が、あたし達を……裏切った事を!」
 皺だらけの顔が歪み、鬼の形相を作った。
「才孟どの、落ち着いて下さい!」
 再び研坐崎が肩を揺する。だが、胸にあるものは今度は消えない。
 それは、まさしく今の自分を生み出したものだから。そして、自分の行く先であるから。
(許さない、許さない、許さない!)
 ──ひゅおおぉおおおぉぉぉぉぉ
 ──るうぅぅうぅぅぅぅぅ
 ──いぃぃぃぃぃぃぃぃ
 帯が鳴き始めた。書庫の中にその嘯声が響いた。
(いけない!)
 研坐崎が椅子から立ちあがり、才孟から庇う様な位置を取った。取った構えはもちろん「空鳥捕虫」の型だが、今回もまた徒手である。
 同時にその眼が室内をくまなく走り、得物になりそうな物を求めた。が、
(何も……ないか……)
「顔慈どの……静かにお部屋を出て下さい」
 今度は肩越しに、背後の顔慈を見る。しかし、顔慈は眼を閉じたまま、椅子から立とうとはしない。
「何をしておられます……早く!」
「なぜ、拙僧が逃げなければなりませぬ?」
「……過日、私がどんな目にあったかはご存知でしょう?」
「……『黒帯すなわち憑代なり 亡者の恨みを宿すという』と言われてましたな?」
「いかにも……かの黒帯どのは危険な相手。命を落としかねません」
「この顔慈、仏に仕える身ではありますが、伊達に『盤』に身を置いてはおりませぬぞ?」
「しかし……!」
「それに……この声は、恨みに吠えたけるものでしょうか?」
 言われてから、研坐崎は黒帯の嘯声に耳を澄ました。もちろん、その間も警戒を怠る事はなかったが――
 ──るぅぅぅぅぅぅぅぅ
 ──ぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁ
 ──むぅうぅぅぅぅううう
(これは……)
「……歌?」
 悟った瞬間。
 研坐崎の胸に何かが込み上げ、涙がこぼれていた。


五.

 今日初めて、仲間達は応えてくれた。
 心昂ぶれば、共に嘆き、憎み、泣いて――旅に出てから、ずっとそうだった。
 けど――何か違う。
(……みんな?)
 嘯声。哭声。いつもなら、地の底よりの獣の唸りのような、また、狂人の金切り声のような音が和して、才孟の感情をいっそう激しく煽るのだが――
 低く重い嘯声は濁りがなく、高い哭声は澄んでいる。
 それらの音が協和して深みを増し、抑揚は調和して旋律となった。
 今まで誰も奏でたことのない音色の、それは確かに歌だった。旋律は悲痛で、そのくせ優しく穏やかで――こんな風に鳴く黒帯は、才孟にとっても初めてだ。
 懐中から帯を取り出す。手の中で唄う帯は、震え、不意に宙へと滑り出す。
 才孟の手から離れた黒帯は、これまでのように空中でのたくる事もない。仏の教えとやらをのたまう法師に、飛びかかるような事もなかった。
 黒帯は歌いながら、ゆっくりと才孟の周囲を巡り──それだけだった。水中を静かに泳
ぐ魚、といった風情である。
 奇怪では在るが、邪気はない。歌の調ともあいまって、荘厳な雰囲気すらあった。
 そして、その中心に座る才孟の脳裏には、仲間達の声が響いていた。
(――もうやめよう)
(――あいつの事なんか、忘れてくれよ)
 言葉とともに、悲痛な仲間達の想いが流れ込んでくる。
 言葉も想いも、今までにないものだった。嘆きや悲しみはあっても、殺意や憎悪、怨念はかけらもなかった。
 流れ込んだ想いは、才孟の心を飲みこもうとした。胸から喉に熱がこみ上げ、目頭が熱くなり、涙となってこぼれた。
 ──泣いてる。
(みんな、泣いてるんだ──)
 それは、今までだってそうだった――けど、何か違う。この嘆きは怨みと憎悪を燃え上がらせるものじゃない。
 泣いて、泣いて、むしろ怨みと憎悪を──
(おれ達、間違っていた)
(お前に背負わせちゃいけなかったのに)
(あの野郎の言う通りだった――お前の幸せを願う事が、おれ達にはできたのに)
 恐怖──才孟は心で仲間に呼びかけた。
(何を言ってるの? あいつは、本英世は、あたし達から全てを奪った――)
(無くなってなんかいない。おれ達にはお前が残っていたんだ)
(そんなの知ってる――だから、残された私は、あいつを――!)
(そうじゃない)
(そうじゃなかったんだよ、才孟――)
 かけられる言葉は、悲しみに満ちていた。悲しみの向こうに、澄んだ何かがあった。以前に、研坐崎を嬲り殺しにしようとした激しさは失われていた。
(おれ達は、恨みを晴らそうなんて思っちゃいけなかった。恨む以上に、お前を見守らなきゃいけなかったんだ)
(祈らなきゃいけなかったんだ、お前が幸せであるように)
(殺すためじゃなくて、守る為に力を使わなきゃいけなかった)
 彼らが言っているのは、自分達が殺しかけた研坐崎の――少し前に自分達が心の底から反発し、殺意さえ感じた言葉だった。
「……何……それ……」
 思わず口からこぼれた。それが、流れ込む想いをせき止める。
 洗い流されようとする怨みと憎しみを、止めようとした。
「どうして……どうして今さら……そんな事……言うの?」
 身体と声が震えるのは、身体の衰えのせいだけではなかった。座っているのに、足元が崩れて落ちていくような心地がする。
「あたしにはもう……何も残って……ないのに……みんなを殺されて……あいつを探して、殺すために……その為に……あたしは……!」
 これもまた、自分が──自分達が研坐崎に向けて言った事。どうしてそれを、あたしがみんなに向かって言わなくちゃいけないんだろう?
 声はしわがれて、喉の奥から吹きそこないの笛の音が洩れた。
 声もその姿も、数え年で十になる童女のものではなかった。ひとりで出歩く事さえできず、何十歩も進まぬうちに息が切れるような身体もそうだ。
 それらは、自分達の悲願を叶える為の代償のはずだった。あいつを殺して、地獄へ連れていく為――
(間違っていたなんて……どうして……)
 幸せなんて、祈られたって――
「あたし……あたし達、もう地獄に行くの分かり切ってるのに……」
(お前の罪はおれ達がやらせたものだから──)
(おれ達があの世へ持っていくから──)
「う……うっ……く……」
 嗚咽の声がする。見れば、研坐崎がお得意の剣術の構えを取りながら、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
 そして、その後ろで人影が立ちあがり、研坐崎の体を退けた。
「あなた方は、地獄には行きませんよ」
 顔慈がそう言って進み出た。
「善人は極楽へ、悪人は地獄へ――それは方便と申しました。そして、『色即是空、空即是色』の意味も。しかして、善も悪も、色のひとつにしか過ぎませぬ ――才孟どの、賢いあなたなら、何を意味するかお分かりでしょう」
 ──嫌だ。
(もう何も考えたくない……!)
「どうでもいいです……もうそんなの……!」
 首を振る才孟。
「もう何も聞きたくない……余計な事なんて……」
 しかし、顔慈は語り続ける。
「望む望まずに関らず、物事は降りかかって来る。その事は、あなたが一番よく知ってるでしょう」
 本当にその通り──今も、聞きたくないのにご高説が耳に入って来る。
「……いりませんったら!」
「世の中は、意味や目的がないという意味では至極単純。しかし、その中で生きていくには、意味や目的がないという故に複雑怪奇――単純に、善や悪のふたつ に分けられるというものでもございません。そういえば、仏の教えには全知全能の者などいない、とも申し上げましたな」
 全知全能──言ってしまえば、神様の事。
 そんなの良く知っている──いや、神様が本当にいないのなら……それなら……
「……それなら、人は死んだら……地獄や極楽行きを決めるのは?」
「いません」
 顔慈は首を振り、答えた。
「この世に全能者はなく、死後の世もありません。
 死んだら消える、それだけです。善人も悪人も、死後は平等。行く所など無く、極楽も地獄もありません」

 無常──すなわち無情。
 この世には、この世しかない。
 善悪はなく、無法不法を裁く者もいない。
(それじゃあ――消えていったみんなは――)
 自分達は踏みにじられるだけ。踏みにじられ、のた打ち回りながら死んで、それで終わり。抗ったところで、結局は死ぬ。
(才孟──)
(才孟──)
 名を呼ぶ声は、またあたしに何か背負わせようとしている。
 怨みの次は、希望とか未来とか――そうしながら、本当は自分がそれらを背負いたがってる。
 残るものに何かを押し付けて――そうして救われたがってるのだ。
 彼らには、自分がいた。なら、自分には何がある?
 ──本英世。その名が浮かんだが、打ち消した。それこそ消え去るべき、残ってはなら
ないもの。そして、これを消した時、自分も仲間とともに死ぬ。
 いつか、みんな死ぬ。みんな消える。誰も残らず、何も残さず。
 色即是空、全ては、空へと至るため──
 復讐があればいい、と思っていた。なら、復讐の後は? 
 死んでもいい、と思っていた、なら、死ぬってどんな事?
 その答えは、全く簡単で、単純で、そして――
(──分かってた事なのに。何でこんなに──)
 沁みるような痛みが、胸の中に湧き起こった。
 この世とは、何て──何て──
「おれは……消えない!」
 誰かが叫んだ。
 構えを解き、仁王立ちになっている研坐崎が、まっすぐにこちらを見据えていた。
 涙で濡れた眼を拭いもせず、嗚咽を怒声で打ち消している。
「才孟どの! おれは死にません! おれもあなたも死なないし、死んでも決して消えはしません!」
 その形相のまま、彼は顔慈に向き直った。
「顔慈どの! 人は死ねば消える、というのは間違っております!」
「──と、おっしゃいますと?」
 髭面が、薄笑いを浮かべている──そう見えたのは、気のせいではあるまい。
 その薄笑いに向けて、研坐崎は挑むように言葉を投げつけた。
「我々は、過去に死した人の事をいくらでも思い浮かべる事ができます! また、この書庫に在る諸々の書物は、今はもう死んだ人によって書かれた物もござい ましょう!
 死した人が生前に為した事柄は、死した後も人の中に残り、後の世まで語り継ぐ事もできましょう! この研坐崎も、古来の英雄豪傑らを何人も知っておりま す!」
「それが?」
「死してなお、人は人の中に生きる! 古人の曰く、『虎死して皮残し、人死して名を残す』! すなわち人の死は消えるにあらず! 人は人により、いくらで も生きていく事ができましょう!」
 食らいついて来る獣のような眼だった。歯噛みし、脚を踏ん張っている姿は、何かに抗っている様だ。
 何かきっかけがあれば、剣士は目前の法師に躍りかかるのではないか──
 が、剣呑な風の研坐崎に対し、顔慈は薄笑いを崩さない。逆に、いっそう笑みをたたえて「左様です」と頷いた。
「それこそ、拙僧が申し上げようとした事です」
「……え?」
 呆けたような表情の研坐崎に、顔慈は続けた。
「死した人そのものは、この世から消え去るが道理。しかし、死した人が、かつてこの世に在った事実は、決して消え去りはいたしません。人の生前に為された 物事は、やはり因のひとつとなって新たなる果を導きます。果はまた因となり、やはり果を導き──その流
れは絶え間なく隙間なく、なにひとつ欠けることはありません。
 広く、雄大で、同時に繊細な因果の流れの中に、われらは生きております。過去に起こった、どんな些細な事をも飲みこんで、因果の流れは今も続いておりま す。過去の中で、死者はいつまでも生き続けるとも言えましょう。
 この流れの全てを見渡すことは人にはできません。ですが、それらについて思いをめぐらし、彼方なる因果のかけらを見いだして、再びよみがえらせるのも人 にしかできぬ事。
 因果の結びつきもまた、確かに『色』の相のひとつなれば、いつかは『空』へと消えて行く──しかし、『空』に消えた『色』は、また世に浮かび上がる事も ございます。それ
を為せるのは人のみ。
 この時人は、思いの中に、死者をよみがえらせ──思いの中で死者は生きるでしょう」
 顔慈は懐から数珠を出し、合掌した。
「人は死すもの。されど、人の中にも生きるもの。人の死後の行く先は、地獄でもなく極楽でもなく、人の中にこそ返って行くのかも知れません。南無──」
 眼を閉じ、微かに頭を下げた。法師の手の中で、数珠が小さく鳴った。
 遠くからは、読経の声。さらに遠くからは、『盤』の門弟らの鍛錬の物音。
 そして、才孟の至近からは、仲間達の歌──
(また──また忘れていた!)
 才孟は気がついて、緩やかに巡り続ける帯に手を伸ばした。
──ここ最近、仲間達が消えているのに、その事を忘れていた!
 手につかまれた帯は、そのままくるくると彼女の腕にまきついた。
 気配を探った。また仲間達が消えていた。いや、今もなお消えて行く最中だ。
(──才孟。あいつへの怨みと憎しみ、全部くれ)
(──それ、全部持って行く。全部抱えて、おれ達は消える)
「みんな……行かないで! あたしをひとりにしないで!」
 才孟は叫んだ。
「ごめん、みんな……あたし、もうみんなの事忘れたりしないから! だから消えないで! もう死なないで!」
 叫びながら──止められない事も、心のどこかで分かっていた。
 消えていく仲間が、とても満ち足りていたから。彼らはもう、血の涙を流してはいないだろう。
(かわりに、おれ達の分も幸せになってくれ)
(……もっと早く、こう思えていれば良かったなぁ……)
 ――滾るような怨みと憎悪。抱えているのが苦しく、でも、抱えていなければ生きていけなかった。
 それらを共に抱えていた仲間達は、一足先にそれを捨て、さっさと救われようとしていた。
(大好きだ、才孟──)
(あの坊主の言ってた事、さっぱり分からなかったけどさ──おれ達、仲間だったって事
は消えないよな?)
(おれ、ずっと祈ってるから。お前が幸せなようにって──)
 彼らは、裏切ろうとしている。本英世と同じように。
 ――なのに。
「あたしも……好き」
 なのに、どうして怨みも憎しみも湧いてこないんだろう?
 才孟の眼から、涙がこぼれる。色々なものを洗い流そうとする涙を、今度は止めようとはしない。
「あたしも……みんなの事……大好きだったよ……」
 そして、本英世の事も──
 やがて、歌は止み──
 才孟は、腕に巻きついた帯を解くと、丁寧にたたんで胸に抱きしめた。
 気配を探る。全てが消えたわけではないが、宿る仲間の数はもう五人もいない。
 顔慈が合掌を解いた。
「話が長くなりましたが──答えになっておりましたかな、才孟どの?」

 羅漢堂を出ると、陽は大分高くなっていた。
 もう昼だ──顔慈の説教も長かったが、羅漢堂へ来るまでも相当時間がかかったし、書
庫で待っていた時間も考えれば、当然なのかも知れない。
「あまり真に受ける事はありませんよ、才孟どの」
 研坐崎が隣で言った。ここまで来た時と同じように、こちらの手を引いていた。
「こう申しては何ですが、七面倒くさい理屈をどれだけこねられた所で、何も変わりはしません──変わるものなら、とうに中原は平和になっているでしょう」
「……そう思います?」
「当たり前です」
 研坐崎は答えた。
「『くうそくぜしき』だの何だの──仏の教えには敬意を払いますが、命の取り合いの最
中に題目を唱えられても、仕方ありません。念仏やお経では、振るわれる刃を止める事はできませんよ」
 研坐崎は立ち止まると、才孟に向かって深々と頭を下げた。
「失礼しました、才孟どの……仏の教えと言うのがあんなに面倒くさいものだとは存じませんでした」
「……どうして……研坐崎さんが謝るんです?」
「『生まれた意味などない』とか、『人は死んだらそれで終わり』とか……さぞご不快だったでしょう?」
 答えられない才孟に、研坐崎はまた頭を下げた。
「この研坐崎、決して賢いとは言えぬ浅学な者。しかし、ひとつの行いは万の言にも勝ると申します。私の侠の振る舞いでもって、顔慈どののご高説の誤りを必 ずや証明いたします」
 やはり才孟は答えず──代わりに彼女は空を見た。
 晴れ渡った空。どこまでも広く、悠大な──
 この世には、因果の流れ、というものがあるという。その流れの中に自分達は飲みこまれ、やがては死んで過去のものとなる。
 それは、自分達の因果。けど、これが果たして、何かの因となる事があるのか?
 流れに比して、あまりに小さい自分の事を──自分達の事を思った。どれほどあがき、
もがき、のたうち回ろうとも、この世ではやはり小さい事なのだ。
 その小ささが、才孟には哀しかった。同じように、目前の剣士も小さいはずなのに──
(……あなたに、何ができるんです?)
 頭を垂れている研坐崎に、才孟は心中で問いかけた。
 すると、研坐崎が答えた。
「おれは死にません。だからあなたも死なないで下さい」
「……え?」
 まっすぐにこちらを見つめてくる。
「この研坐崎は死にません。私の命はあなたに助けられたもの。私の侠としての命は、すなわちあなたとともにございます。この私が生きている限り、あなたが 死ぬ事はありません」
 研坐崎に引かれている手が、両手で包まれた。
「ですから、才孟どのも死なないで下さい。お願いです」
 剣士の手も、自分の手に比べて大きかった。
 ──ただの偶然なのだろう。
 研坐崎は、生きている人間だ。自分の心の声が、届くはずがない。
 第一、人ならいつか死ぬ事は、この人が一番良く知っているはずなのに。
 それなのに、どうしてこんな事が言えるんだろう?
(──この人は、馬鹿なんだ)
 以前から思っていた失礼な事を、才孟は確信した。
 けど、この人の馬鹿は、何て力に溢れているのか。
 笑い、泣き、怒り、絶望し、甦り──それらはいつも力に溢れ、迷いがない。
(そう言えば……昔はみんな、そうだったっけ……)
 山にいた頃は、みんな力に溢れて、迷いなんて面倒なものは何もなくて──
 と、不意に眉間に皺が寄った。眼を細め、彼方を見やると、眉間の皺がますます険しいものになった。
「才孟どの、ここで少々お待ち下さい」
 そう言い置いて、研坐崎は手を離し、才孟の脇を抜け、走り出した。
(何?)
 才孟が振り返ると、向こうの方に門弟の少年達が、集まって歩いていた。その中に、今朝方研坐崎に耳を引っ張られた子がいた。
 その少年は、今まで友達と思しき子達と笑っていたのが、研坐崎の姿を見つけるなり顔を強張らせる。いや、周りにいる友達らも、よく見れば自分に食事を運 んで来ていた子供達だ。
 彼方で、研坐崎が怒声を響かせたしばしの後──
 しょげかえった子供達を連れて、研坐崎は才孟の方に戻って来る。
 足元を見下ろす。そこは石畳。きっと研坐崎は、この子達に叩頭させるのだろう。
(──頭ぶつけたら、痛いだろうなぁ──)
 才孟は、注意しながら立ち位置を移した。
 石畳から出て、砂が敷き詰められている地面の上に立った。
 柔らかい砂地は、足元が不安ではあるが、立っているだけなら問題はなさそうだ。
 そして、砂地ならば、石畳よりは痛くはないだろう──いや、無理に頭をぶつけてまで謝る必要なんてないのだけど。
 因果の流れ──
 とりあえず、あの子達が平伏叩頭する果を避けるには、因の自分はどうすべきか──


六.
 
 研坐崎が黒帯の気と戦っていた頃――
 引き金と連動し、爪が弦を解放する。
 引き絞られた張力は矢を弾き出し、仇に向かって飛ばす。
 が、台座には次の矢がすかさず装填されている。爪は下りたまま、矢の尻で強引に弦が押し込まれ、離すと同時に二射目が放たれる。
 張力の強い弩に、膂力だけで強引に矢を装填する。それだけでも人並み外れた技ではあるが、さらに「連射」するとなれば「絶技」と称すべき領域であろう。
 橘達瑪の手元からは、横殴りの雨あられとばかりに矢が飛び、仇敵・伊坂へと降り注ぐ。
 「無間連矢(むげんれんや)」――橘達瑪の二つ名「連矢伎」の由来がこれだ。過日、黒帯武賊と戦った研坐崎を援護したのもこの技である。
 強い力で弓に矢をつがえ、放つ――その事を狙いを正確に、ひたすら速く繰り返す。言葉にすれば単純だが、実行が困難を極めるのは想像するまでもない。
 が、橘達瑪はそれを実行していた。
 腰溜めに構えた弩に添えられた左手が、忙しなく動く――傍目には滑稽にすら見えるが、その実際は恐るべきものだ。
 呼吸ひとつする間に放たれた二十本近い矢は、仇敵の影に次々と打ち込まれ、針鼠の様になっていた。その何本かは間違いなく急所に当たっており、人ならば 即死は免れないはずだ。
 ――人ならば。
 橘達瑪は手を止めた。
 針鼠になったまま、影はなお立ち続けている。
(なぜ倒れない――)
 浮かんだ疑問には、瞬時に仮説と対策とが浮かぶ。
 推測される理由は――己が体を鋼の如くに変える「硬気功」の類い、あるいはあやつも黒帯武賊。
 そして対策は――
(必ず死ぬ一撃を当てれば良い!)
 橘達瑪は握弩を捨て、走り出した。
 馬甲の中に両手を差しこみ、つかみ出した飛刀を続けざまに放つ。放たれた飛刀は伊坂の正中線に沿って次々と命中する。
 が、人影に変化はない。喉を貫いたはずなのに、血を吹くこともない。
(眼くらまし程度になれば良し!)
 間合いが詰まる。一間弱。腰の柳葉刀に手をかけ、抜きざまに斬りつけた。
 が、速さと重さが十二分に乗った刃は――
(……何っ!?)
 仇敵に触れる事もかなわなかった。

「なるほど……お前はこの体に因縁がある者か」
 佇んだまま、伊坂が腕を動かした。たかってくる蝿や虻蚊を払うように腕を振ると、体に生えていたような矢と飛刀がその手の中にまとめられた。
 伊坂の体には傷ひとつついていなかった。衣服には穴のひとつも開いてない。
 そして、横薙ぎに斬りつけた柳葉刀の刃は、伊坂の脇腹から一寸弱離れた位置で、止まっていた。
 寸止めのつもりは微塵もない。春霞閃空十六手の「空鳥捕虫」の型と同じく、この一撃に全身のバネと力、内力を込めた。弩の弦を押し込める膂力、その力技 にも狙いを揺るがすことのない、強靭な足腰。それらの力でもって打ち込まれたこの一手は、研坐崎の「空鳥捕虫」を凌駕するだろう。
 が――それが届かない。
 しかも、刃を得物で受け止めたとか、あるいは拳法の型で刀の持ち手を受けたとか、というわけでもない。
 一寸弱――阻むものは、何もないはずだ。なのに、その距離を詰められない。
 まるで、見えない鎧が止めているような――
(なぜだ――!?)
「無駄だ」
 伊坂が答えた。
「ただの人間が、私に触れることなどできぬ」
 直後、何かが爆ぜる気配がして――
「うわっ!」
 爆ぜた衝撃をまともに浴びた橘達瑪は、吹き飛ばされ、叢の中に転がった。
 すかさず体勢を整え、立ち上がる。足元に何かが触れた。自分が投げ捨てた握弩があった。
 吹き飛ばされた距離を思い、背筋が冷たくなった――が、すぐに気持ちを切り替え、体の状態を確かめる。
 「連矢」の疲れは問題外。爆ぜた衝撃も、傷を与えるほどではない。受身を取ったので、身体にさして痛みはない。
(まだ戦える――いくらでも!)
 が、踏み出そうとした刹那、伊坂の手が動いた。
 無造作に投げ出されたような矢、飛刀の数々が、一斉に橘達瑪に殺到した。
 体を半身にしつつ横に飛び、さらに刀身を立てて防御の構えを取る。紫電の如き体術に、なおも喰らいつかんとする刃を、柳葉刀で次々と打ち落とす。
 再び叢に転がる女侠。屈んだ姿勢でバネを溜め、伊坂を見据えた。
(――驚くには当たらない)
 そう自分に言い聞かせた。
(気功の達人ともなれば、気で体を覆い、鎧や盾にする事も不可能ではない――!)
 それは確かに、武術の枠を超えた仙術や妖術の類いにも思えるが、相応の訓練と研鑚とを積めば、決してできない事でもない。
 実際、橘達瑪は『盤』でそういう技の演武を見た事があった。四方八方から打ち込まれる打撃や刺突に傷ひとつつかない、凄まじいものだった――技を見せた のは、「盤底四老」の面々だったが。
 そして、目前の伊坂が、「盤底四老」以上の功夫を積んでいるとは思えない。
 認めなければならない。こちらの打ち込みを止めるとは、見事な気功――だが!
(それが体全体を覆い尽くして、長く保てるはずがない!)
 再び橘達瑪は飛び出し、瞬時に刀の間合いに入った。
 一歩も動かず、佇んだままの伊坂に向けて、裂帛の気合とともに立て続けに刺突、斬撃を打ち込む。
 屠龍刀法(とりゅうとうほう)・「嶽崩巌嵐(がくほうげんらん)」――必殺の勢いの打ち込みを連撃で繰り出す型だ。「風花逍遥」と似て非なる点は、扱う 武器の違い以上に、繰り出される技の重さ、連撃の密度が桁違いという点であろう。
 比喩でなく、人体をいくらでも輪切りや膾にできる程の刃は、やはり伊坂を捉えはしない。見えない盾、鎧に阻まれ、一寸弱の間合いが「嶽崩巌嵐」に立ちは だかり続けた。
 が、橘達瑪の眼は、なおも殺気をみなぎらせている。
(十数年余――人が変わるには十分な時間だ)
 その間に、武術を知らなかった童女は成長し、飛び道具の達人として名を馳せるようにさえなった。同じく、武術を知らなかった童子がひとり、童女に導かれ て武術を学び、二つ名つきで呼ばれるようになった。
 ならば、たかだか盗賊団の首領が、気功に長けるのも有り得る話だろう。同じ時間は、誰の上にも流れているのだ。
 首、心臓、水月、眉間、喉――様々な急所に向けて、全く別々な角度から立て続けに打ち込まれる連撃を、伊坂の気功の鎧は阻み続けた。
 一方、無我夢中で攻撃を続けているかに見える橘達瑪だが、その実頭の中で、時間を計っている。金剛のごとき気功の鎧は確かに凄まじいが、その維持には相 応の代償が求められるはずだった。「盤底四老」が演武した時は、確か、茶の一服か二服程度の時間で表演が終わったはず──そして、『盤』の長老と言えど も、さすがにその後は全身汗みずくであった。
 今また、仇敵は同じ技を見せている。が、やはりその武功が「盤底四老」並とは到底思えない。
 橘達瑪の中で、計っていた時間が「その時」を迎えた。
 橘達瑪は身を翻した。回った勢いで刀を振り、首を断ち切る手であった。
 全身の筋と骨とが連動し、空を裂いて刃が走った。
 横首を狙った刃は、やはり一寸弱の間合いを残して止まり――
(全ては虚だ――実はこちらだ!)
 空いている左手が伊坂の脇腹に吸い込まれた。
 ──気功の鎧は、無理に全身を覆うこともない。
 攻撃の手が来る位置を察しておけば、その位置にのみ気を溜めておけばいい。
 首打ち狙いの技は、動きも大きい。察することは不可能ではないだろう。
 消耗した所で、ある程度の内功が残っていれば、狙われた個所にだけ気の鎧を溜める事も可能だろう。
 だが──
 女侠の左手には飛刀があった。身を翻した瞬間に、馬甲から取り出し握りこんだもの。首狙いの刀身の下に走らせた手は、急所狙いですらなく、見抜くことも かなうまい。
 すなわち、鎧も盾も間に合わない――!
 飛刀に、凄まじい衝撃が響いた。
「……曲芸は終わりか?」
 目前で、伊坂が口を開いた。
(……何だと?)
 橘達瑪が左の手元に眼を移すと、飛刀の先端は――
 やはり、脇腹の一寸手前で止まっていた。
「言ったはずだ。ただの人間が、私に触れる事などできぬ、と」
 仇敵の眼が細められた直後、「どんっ」、という音とともに、橘達瑪の背に激痛が走った。
「がうっ……!」
 膝が笑い、力が抜け、手の柳葉刀と飛刀が草の上に落ちた。
(……仲間が……いたのか?)
 体中を震わせながら、橘達瑪は振り向き、言葉を失った。
 背後には誰もいない――その代わり、飛刀と矢があった。
 自分の手で射ち、投げた飛刀と矢の群れが、宙に浮かび、尖端をこちらに向けていた。
 鏃と白刃は、月光を反射して鈍く光り――
「返しておく。受け取るがいい」
 その台詞と共に、持ち主へと襲い掛かった。
 数々の尖端が、容赦なく女侠の体に突き刺さる。直前に急所を庇うのが精一杯で、橘達瑪は悲鳴を上げた。
「うぐ……ぐ……あ……っ!」
 体の前面と、急所を守った腕とを針鼠にしながら、橘達瑪は倒れた。今度は受身も何もあったものではない。
(……馬鹿な……! こいつが……こんな奴が……ここまで強く……!)
 なまじ急所を外したものだから、明晰な意識に体中の激痛が容赦なく響く。声も上げられず、眼を開くことさえできない。
「残念だったな、人間」
 耳元で、声。倒れたこちらの傍らに、屈みこんでいるのだ。嫌悪と憎悪で、吐き気がしそうだった。
「そこまでなるのに相当な研鑚を積んだだろうに、無意味だったぞ」
 何と言う……屈辱なのか?
(仇に……憐れみを受けるとは……!?)
「聞こえているのか? お前のした事は無駄だったと言っているのだ」
 憐れんでなどいない……!
(こいつは……嬲り者にしているのだ!)
「……ふむ。やり過ぎたか……失敗した」
 声が遠くなる。立ち上がった。草を踏む音がした。背を向け、立ち去っていくのが分かった。
「……殺せ」
 声を振り絞った。遠ざかる足音が止まった。
「殺せ……後悔するぞ」
「お前にそんな資格はない」
「何だと……!」
「なるほど、絶望も恐怖も十二分だが……おかげでお前の魂からは、恨みが抜けてしまっている」
「……!」
「私が欲しいのは、恨みに己を焦がす魂……今のお前に用はない」
「……ぬかせ。外道が」
 眼を見開き、力を振り絞り、身を起こす。
 背を向けたままの黒衣の影を睨みつける。
「私は貴様を許さん――生きている限り、必ず貴様の首を取り、その血をすすってやる……!」
「できない事は口にせぬ方が良い……その震えは、傷だけのものではないだろう」
「うるさい……! 私は必ず貴様を殺す!」
「その思いが、お前の全てを塗りつぶした時、再び相手をしてやろう……せいぜい人間らしく、曲芸に磨きをかけるのだな」
 歩き出す黒衣。
 橘達瑪は、自分から生えている飛刀を一本抜くと、遠ざかる背中に投げ打った。
 勢いの乗らぬ飛刀は、虚空に血を散らしながら、空しく叢へと落ちた。
 「連矢伎」。飛び道具の達人。ひたすら学び、鍛え、己に積み上げた武術。
 投げ打つ飛刀で、樹木を貫いた事もある。密かに研鑚した刀術で、岩を断ち割った事もある。
 全ては、あいつを討つために――
(無意味だったぞ)
(無駄だったと言っているのだ)
「う……うあああああああああっ!」
 橘達瑪は吠えた。
 月に向かって叫ぶ形相は、研坐崎と――ちょうど、黒帯の気のままに慟哭する研坐崎の顔とよく似ていた。
 鬼の形相――
 その鬼に、新たに近付く影があった。
 影は、闇の中から湧いたかのように、平原の中に姿を現した。
 夜が凝縮したかのような黒衣。白髪と白髭は、月影に照らされて銀色に光っている。
 その狭間から覗ける眼と口は、酷薄な笑いをたたえ――
「残念でしたな、橘達瑪どの」
 本英世――その手には、黒い帯を下げている。


(つづく)
(巻之三へ戻る)
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