序章
才孟(さいもう)は、膝の上に広げた書物に目を落としていた。
鼻をつく匂いは、紙と、ひょっとしたら墨のものも入っているだろうか。
紙面を繰る時の、紙が擦れる音が、妙に大きい。どこかから聞こえてくる、門弟達の鍛錬の声が、静寂をいっそう際立たせた。
『盤』の書庫である。過日に顔慈の説教を聞いた羅漢堂のものではないので、書物は仏典以外のものもある。多くは武術について記したものだが、史書や様々
な学問の書も少なくない。
付き添っている研坐崎(けんざき)は、才孟の方を見ながら何とか眠気をこらえた。
(……どうして眠らずにこんな本を読み続けることができるんだ?)
本気でそう思った。彼女が今読んでいるのは道家についての書物である。
研坐崎から見て、才孟は大分落ち着いてきたように思える。
簡単なものではあるが、気功の鍛錬を始めるようになり、多少は体の調子も良くなった。以前はずっと部屋にこもりっきりだったのが、こうやって自分から出
歩くようにもなったのだ。その際、多少の距離ならばひとりで歩けるようにもなったし、疲れたら自分から「つかまらせて下さい」と素直に助けを求めるように
なった。
才孟は食客扱いなので、空いている時間はいくらでもある。一日のうちの大半は眠っているが、眼を覚ましている時は、こうして書物を読む事が多くなった。
付き添っている研坐崎としては、数刻もの時間を書庫で過ごすのは正直あまり得意ではない。が、心静かに書物に向かっている才孟の姿を見るのは、嫌ではな
かった。
本英世(ほんえいぜい)を討つ――才孟のその決意には揺るぎはない。
が、その言葉を口にした時でさえ、以前にはあった険や翳りは薄らいでいると思う。
――気がつけば、横顔をまじまじと見つめていたらしい。
視線に気がついたらしく、顔を上げて見返して来た。
「……何でしょう?」
しわがれた、かすれ気味の声にも確かに生気が宿っている。
恩人は変わった――その事を改めて実感し、研坐崎は思わず微笑んだ。
「いえ、何でもありません」
「そうですか」
そう答えて、才孟は再び書物に眼を落とした。
答えた時、才孟も確かに微笑んでいた。
才孟と橘達瑪(きつたつま)は似ていると、以前に思った。それは確かだった。復讐だけの人生から解き放たれた事も、同じだった。
満面をニヤつかせながら、研坐崎も読みかけの書物――才孟と同じく、道家の書物に眼を戻した。
寝息が聞こえている。
見れば、いつものように研坐崎が、膝の上に書面を広げたまま寝入っていた。
時々才孟は忘れそうになる。研坐崎は剣技に通じた侠客で、黒帯武賊や黒帯そのものに対してさえも、一歩も退かない武人、のはずなのだが。
(……なるべく静かにしていよう)
そう思った時、隙だらけの剣侠の口元から寝言が漏れた。
「達……ねえさん……」
達姉さん――橘達瑪。
彼女は、研坐崎にとってこの世で最も大事な人間であるらしい。
どんな人なんだろう? 研坐崎さんをどう見てるのだろう?
(会って色々話し合ってみたいな)
自分が生きている内に。
明けぬ夜はなく、出口なき隧道はない。
止まぬ雨はなく、いつまでも吹きすさぶ嵐もない。
禍福、明暗、世の物事は移り変わるのが定めである。
なればこそ、暮れぬ陽もまたなく、永久に続く晴天もこの世にはない。
次の朝、次の晴れ間に至るまで、再び苦難の時は続く。
一.
足の長い書見台の上に書物を広げ、その前に研坐崎は立った。
書物は、『華如拳法・序譜』。開かれた紙面には、拳法の基礎の型が絵図入りで詳細に描かれている。
解説されている図の通りの構えを取り、解説にしたがって、ゆっくりと腕、脚、腰、胴体を動かしていく。
半身の体勢から、両足は大き目に開き、腰は深めに落としつつ、後ろに引き気味にして下半身に溜めを作る。両手は胴の前に浮かし、腕で円を形作るようにす
る。
昼を少し過ぎた時刻の、研坐崎らが寝泊りしている別棟の前。過日、研坐崎が黒帯相手に戦って死にかけた場所である。
(どうしても……春霞閃空剣の形になってしまうな)
例え徒手であっても、身構えると右手は手刀、左手は剣訣の形を取ってしまいそうになる。図解では、手は握りこまずに掌の形を取るように指示されていた。
二つ名にもなっている「春閃」、春霞閃空十六手を自らの最大の恃みとする思いは消えていない。が、奸物・本英世が使う華如拳法について知れば、本英世に
ついて何か知るきっかけになるのでは、と研坐崎は考えていた。
――現在の研坐崎の立場は、恩人にして、黒帯武賊の秘密を伝えた才孟の付き人というものだ。
ただ、才孟は眠っている事の方が多いので、その間研坐崎は自由に動けはする。それらの時間は、できる限り情報収集に当てようとしていた。
敵を知り己を知れば――という事で、道士くずれの本英世について知るべく、才孟に倣って道家の書物を調べたりしていたのだが、何度か挑戦して「自分には
至難」という結論が出た。
道家の教えというのは、よく分からない。とにかく眠くなる。
大体にして序文の、
「この世の根源は太極にあって、陰と陽の二極に分かれ、そこから……」
ここまで読んだ所で、読む気がなくなるか眠くなるかのどちらかだ。部屋に閉じこもりながら読むのが駄目なのかと思い、外に出て書物を開いてみたが全く意
味はなかった。
他人から内容を噛み砕いて説明されれば、ある程度までは理解はできる。それを基礎として自分学んでいくことも可能ではある。が、『盤』内部の道家の者達
は、それこそ本英世についての調査に忙しく、入門者の相手をしている余裕はなかった。
そして、彼ら『盤』内の道士達も、本英世についての有力な情報を掴めずにあり、結局、本英世については未だに、「道士くずれである」「魔境に落ち、道家
から追放された」、そして「道家に伝わる華如拳法の使い手」という程度しか分かってはいなかった。
一方の才孟は、ゆっくりとではあるが、研坐崎が太刀打ちできない道家の書物を読み進めている様子である。
考えてみれば彼女の実際の年は子供なのだ。それもあって、物事の吸収も早いのかも知れない。
無論、一番の理由は、「本英世について知りたい」という事に尽きるのだろうが。
(あるいは、道家の教えについては、才孟どのから教えを請う事になるかも知れないな……)
命の恩人に世話になりっぱなし、と言うのに少し情けない心地もある。が、やはり人には向き不向き、出来る事出来ない事というのがあるのだろう――
そして、出来る事があるのならば、いまはそれを全力でやるべき時だ。
絵図に指示された動きをゆっくりと、十数回繰り返した後、精神を集中。左手に作った掌を、右腕の振りと、下半身の溜めの解放と同時に、正面に打ち出し
た。
左掌が、ぶん、と風を巻く。右腕の振りと下半身のバネとが、確かに腕に載った感触が心地好かった。
(まずはこれを、千回!)
手ごたえに笑みをこぼしながら、研坐崎は最初の構えに戻り、華如拳法の基礎のひとつ、「基正一手」を繰り返した。
――反復練習が五百を越えた辺りで、人の気配を感じた。
「研坐崎どの」
眼が合うと、現れた青年は抱拳し、頭を下げた。
研坐崎も構えを解き、同様に挨拶する。
「お役目ご苦労様でございました」
青年は昨日に戻って来た「使節」のひとりだった。
「鍛錬中に恐れ入ります。お話があるのですが、お時間はよろしいでしょうか?」
頷く研坐崎。
「うかがいましょう。今すぐ、の方がよろしいでしょうか?」
「助かります。では、こちらへ」
「少々お待ち下さい」
促す青年をひとまず制し、研坐崎は書見台と華如拳法の入門書を自分の部屋に戻した。
そして、静かに隣室の才孟の様子をうかがい、恩人が眠っている事を確かめてから、「参りましょう」と、青年を促した。
中原全体での本英世包囲網のため、以前から他の武門、門派に使者が派遣されている。時には数人以上、また、長老が加わってのちょっとした「使節団」の規
模になることもあった。
そういった使者や使節の出発や帰還の際には、可能な限り研坐崎は挨拶に行く様にはしていた。礼儀という意味以上に、情報や状況の変化を教えてもらうため
でもある。
もっとも、現在に至るまで「どこそこの門派が力を貸してくれることになった」以上の話は聞けてはいなかったのだが。
少なくとも、今までは。
それが、わざわざ呼び出されるという事は、ひょっとしたら――そう考えると、本当は行き先だけ聞いて駆け出したいくらいである。
堂内の一室に案内されると、つい昨日に戻って来た使節隊の者達が並んでいた。
全部で六人。部屋に入ると、それぞれ椅子に腰掛けていたのが、こちらを見て一斉に立ち上がった。
(……前にもこういう目にあったな)
周囲からひとりだけ注目されるのは、あまり好きではない――もっとも、つい前の、長老達に囲まれて、という場合にくらべれば遥かに気持ちが楽ではある。
まずは、抱拳して一礼。
「研坐崎、ただいま参上いたしました。皆様方の此度の御用は、もともとは私の言い出した無理がきっかけ。お手間とご労苦をお取らせしまして、まこと申し訳
もございません」
すると、使節隊の者たちも抱拳し、頭を下げた。
「ようこそお越し下されました、研坐崎殿。『盤』の使命は義を行う事なれば、此度の任務は当然の事。拙者、保介大(ほかいだい)を始めとして、我ら微塵も
労苦とは思っておりませぬ」
堅苦しい挨拶を終えると、全員が再び椅子に腰を下ろした。研坐崎も、準備してもらった椅子に腰掛ける。
好きではないと言えば、実はこんな風に相手から頭を下げられるのも実は苦手だ。侠客としての自分に誇りはあるし、春閃郎という二つ名にも自負はある。
が、他人様から頭を下げられるような器量でないのも自覚はしていた。儀礼の一環とは言え、落ち着かないものはあった。
落ち着かない、と言えば、
「それで、本日のお呼び出しの御用とは?」
顔を上げると、すかさず研坐崎は本題に入った。
「本英世の手がかりが、何か?」
が、問われた保介大は苦笑し、首を横に振った。
「そちらについては、我々も何もつかめてはおりませぬ」
「……そうでしたか」
「しかし、先日ご挨拶にうかがった嶽清門(がくせいもん)の方々も、黒帯武賊への警戒と、本英世討伐には御協力下さるとの事でした」
ありがとうございます、と研坐崎は頭を下げる。また少し、情勢は進歩したというわけだ。
――正直、この程度の吉報ならば聞き飽きていると言えなくもないが。
「しかし、そちらで妙な話を耳にしましてな」
「? 妙な、とは?」
保介大は眼をそらし、しばらく言葉を選ぶ。
「研坐崎どのは、先頃橘達瑪どのと会われたそうですが、何か変わった所はございましたか?」
「特に見えませんでしたが……ただ」
「ただ?」
「ただ、私が顔を会わせたのは五年ぶりです。変わった所も何も、何が普通で何が変なのやら。逆にこちらから同じ質問をお訊きしたいほどですよ」
「ならば、例えば何か思い詰めている風とか、迷ったり悩んでいる雰囲気などはございませんでしたか?」
「仇の事を除けば、特には……」
不吉な予感。仇の情報を得て、何処かに飛び出した、とは聞いたが――
「まさか、達姉さんの身に、何か?」
保介大は再び眼をそらし、言葉を選び、やがて口を開いた。
「最近、武術家や小さな門派が何者かに襲われる、という事が続いておるらしくてですね……下手人の特徴は、紅い馬甲をまとった女の武術使い、と言う事なの
ですよ」
「うぅむ……」
唸りながら、研坐崎はゆっくり息を吐き出した。
頭の奥が熱い。血が上る感触が確かにあった。
(冗談じゃない)などと怒鳴りつけたくなる気持ちを必死に抑えつけ、呼気とともに怒りを吐き出し、吸気で滾りかける気持ちを静めるように心がけた。。
そうして、自分が落ち着いた、と自覚してからやっと、「……間違いありませんね」と口を開いた。
「それは達姉さんを騙った偽物です」
ほう、と相槌を打ちながら、保介大はこちらを凝視する。
「あの人には、そんな無法を行う理由がありません」
「話では、件の曲者は襲った武術家の秘伝書や家伝書を奪っているとか。主に、気功の秘伝が狙われているそうですが……心当たりは何か?」
「全くございません」
研坐崎はきっぱりと答えた。
「ますます達姉さんのはずがありません。気功を鍛えたいのであれば、我ら『盤』に来るのが一番早いのが分かるはず」
何より、『盤』には気功の達人の烏丸老師がいる。直接教えを受けるのが無理だったとしても、気功の指南程度が務まる者ならいくらでもいるはずだ。
(達姉さんほどの人なら、頼めば誰でも助けてくれるじゃないか?)
そう思う。
――自分の華如拳法の場合は、入門書を預けられた程度だが。もっともこの場合は、扱いがぞんざいというのではなく、間が悪かっただけだろう。
相変わらず保介大はこちらを凝視している。が、ややあってから、ほっ、と息を吐き、「失礼いたしました」と頭を下げた。
「外と顔を合わせるこちらとしては、こういう話にはどうしても敏感になってしまうもの。悪意あってでないのは、どうかご理解下され」
「存じております。お役目、ご苦労さまでございます」
「いずれにせよ、疑いがある以上は真偽をはっきりさせなければなりませぬ。橘達瑪どのに限ってそんな無法をすることがないのは私も弁えておりますが、一度
ご本人から話をうかがわなければ事は先に進みません。行き先に心当たりがあれば、私達にもお教え下さい」
「承知いたしました、保介大どの」
研坐崎も頷き、頭を下げる。
「悪事を働き、その罪を人になすりつけようなどとは、人の風上にも置けぬ卑劣な振る舞い。本英世の件が落ち着きましたら、この下手人を必ずやつきとめてや
ります」
「その時は、この保介大にもお声がけ下さい。微力でありますが、ご協力を惜しみませんぞ」
二.
使節団からの聴取が終わると、研坐崎は『盤』の敷地の中からひとまず出た。
その場で激さなかったのは自分自分を誉めてやりたい。が、抑えつけていた怒りが、また滾って来る。
「そんなのデタラメに決まっている」
思わず口に出すと、朱門の門衛が驚いてこちらに視線を向けて来た。
曖昧な表情で会釈を返し、足早にその場を離れた。
何とかこの怒りを発散させなければならない。このままでは何を口走るか自分でも――いや、口走るだけで済むならいいが。
道の端に立ち、改めて気功の深呼吸を行った。
吸っては吐く、その抑揚の中に、高ぶっている己の感情を溶かしこむ。抑揚は体の奥から力を湧き上がらせて、経絡に乗って体内を巡り始める。
研坐崎は身を屈め、直後、走り出した。
往来の間を縫って、城門までの道を一気に走り抜ける。時折、こちらを指差したり名を呼んだりする者が眼に入った。
(おい、あれは――)
(あぁ、あの、研坐崎とか言う侠客か)
――『盤』に、怨念の宿る黒帯を持ち込んだ者。黒帯と戦って死に損ない、長老まで引っ張り出してまさしく九死に一生を得て生還した者。現在の、『盤』に
よる妖術師・本英世討伐の気運のきっかけとなった者。そう言えば、数年に渡り鏢客として中原をさすらい、危険や死地から一歩も退く事無く剣を振るって来た
侠客。
これだけの事をやっていれば、『盤』の住人に名を知られるのも道理ではあった。
(話だけ聞くと、結構凄いらしいな)
(黒帯相手にしてた時の悲鳴、人の声とは思えなかったぞ)
(おーい、研坐崎どの!)
それらに手を振ったりしながら、城門前まで来ると、城壁に上る階段を一息に駆け上がった。
数丈もの高さを上りきると、見張りの任務についていた者達がやはりこちらを見て、それぞれに会釈してきた。
隊長らしい者が声をかけて来る。
「これは研坐崎どの……。乙瓶啓(おつへいけい)なら下におりますが、何か?」
「いや、その……」
さすがに、「むかっ腹を静めるため」とは答えられない。本来、城壁の上は関係者以外立ち入り禁止なのだ。
「その……使者の方がどなたか戻ったら、すぐにご挨拶をしたくて、な」
「左様でしたか」
つっかえながらの下手な言い訳だったが、言われた方は一応納得した様子だった。
「城壁の上からなら、戻って来たのもすぐに分かる、から。邪魔はしないようにする」
「分かりました」
隊長がまた会釈する。
ふう、と研坐崎は息を吐き、城壁の女墻(じょしょう=城壁の上の凹凸の部分)に手をついた。
居心地の悪さを紛らわすべく、研坐崎は彼方に視線を向けた。
蒼穹の下、雑草が生い茂る中に、広い街道が伸びていく。街道にはぽつぽつと人影が見えた。
街道はやがて地平線へと消えていく。
その向こうには、連なっている山々の影が霞んで見えた。
弾んだ呼吸が静まっていくのを感じながら、心中で呼びかける。
(達姉さん……今どこにいるんですか?)
答えはない。あるはずもなかった。
ひょっとしたら、と思い、門の前に視線を落とす。
今は、昼を少し過ぎた時刻。そこには、入門待ちの人々が十数人程並んでいる。得物を提げた武術家や、それらに護衛されていると思しき柳行李を背負った商
人風の者、商人と言えば、いつぞやかの栗商人のように、馬が荷車を引いているものもある。
その中には、やはり橘達瑪の姿はない。が――
一部の者は、衣服が血で汚れていた。道中で、血を流さねばならない事があったのだろう。
(黒帯武賊の仕業なのか)
そう思いついた時、胸の中に、重いものが降りた。才孟の事が進展している一方で、黒帯武賊に苦しむ人々は確実に増えている。失われた命もあろう。
下に向けていた眼を、再び彼方に向けた。
自分が浮かれていた間に、この中原でどれほどの人が泣き、苦しみ、死んでいったのだろう――
滾っていた怒りは、確かに消えていた。
言いようのない重みや痛みが、それに取って代わっている。
知らず食いしばった歯が、ぎり、と鳴った。
「師姉どのはみえたかな?」
声をかけられた。
振り向くと、紅毛の大男が立っていた。
「いいえ、王山而(おうさんじ)どの」
研坐崎は、首を横に振った。
そうか、と答えながら、王山而は研坐崎の隣に並んだ。
見張りの隊長が、ちらりとこちらを一瞥したが、すぐに視線を城外へと戻す。
「王山而どの。その、城壁は一応、関係者以外立ち入りは……」
「関係者の研坐崎が、また馬鹿をやらかさぬよう見張っておるだけよ」
「それはもう終わった話でしょう?」
「死にかけた前科持ちが何を言う?」
意地悪く笑いながら、王山而はこちらを見下ろした。
こうして近くに立たれると、つくづくこの大男の存在感に圧倒されそうになる。大熊を思わせる体躯は見せ掛けではなく、何十斤とありそうな金剛棒を軽々と
振り回す。
しかし、時々全く気配を感じさせず、こんな風に気が付いたら近くにいたりする事もあるのだ。
「心配か、橘達瑪どのが」
再び研坐崎は首を振った。
「心配なんてしていません。多少の事なら、あの人は大丈夫です」
「……にしては浮かぬ顔だな? 師姉どのがいなくて寂しいか?」
否定はしません、と研坐崎は素直に頷いた。
「ですが、それ以上に……私がこうして『盤』の中にいる間にも、どこかで黒帯武賊が暴れているのかと思いまして」
「暴れているのは黒賊ばかりではあるまい。ただの盗賊もまた、無力な人を苦しめているだろうな」
ふん、と王山而は鼻を鳴らした。
「人の世の苦しみはそれだけでもない。貧困、飢え、病、種は尽きん。気にしても始まらん」
「それを気にしなくなったら、おれは侠客ではなくなります」
「お前が侠客であろうとなかろうと、今苦しんでいる人間には関係ない。今すぐ助けてくれるのでもなければ、そこらに転がっている石っころと変わらん」
――どうしてあの時助けてくれなかった!?
――どうしてあの時来てくれなかった!?
――どうしておれ達は死ななくちゃいけなかった?!
よみがえる、黒帯の絶叫。それらはきっと、この世にありふれているものなのだ。
それを救う事こそが、侠の使命であるというのに――
「……おれは、今ここから離れるわけにはいきません」
研坐崎は、街の中心に眼を向けた。朱門の向こうの、塀で囲まれた大きな一画。
才孟。彼女もまた、その叫びを発した者だった。今もだ眠っているだろうか。
「ならば、今はそれで良かろう。人一人の力には限りがある。なすべき事を見据えたら、それを成し遂げる事だけ考えればいい」
「分かっていますよ、そんな事は」
だが、そうしている間にも、誰かが泣き、苦しんでいる。黒帯武賊と本英世、これらが解決するまでに、どれほどの人々が――
「嘘はいかんな、研坐崎」
「おれがいつ嘘を言いました?」
「たった今、おれの話を、分かっていないのに分かったと言った」
「王山而殿のおっしゃる事は正しいですよ。それは分かります」
ただ、納得できないだけだ。勿論それは、王山而のせいではない。
(この一件が終わったら、また外へ出よう)
『盤』は故郷だが、留まり続ける場所ではない。侠を求める人も、場所も、時も、中原には遍在しているに違いないのだ。
研坐崎は、再び外へと眼を向けた。
門前に集まっていた人々は、順番に門をくぐっているようだ。荷車が、城壁の中に入っていくのが見えた。
それらの人々の中に、先刻にはいなかった者の姿があるのに気付く。
薄汚れた灰色の帽子と旗袍を身に着け、腰には柄の短い短戟を一対下げている。
(さっきは、街道のどこらへんにいたんだろう?)
隣の王山而と、そう長い時間話し込んだつもりはなかったのだが。
その人物の近くには、連れや仲間を思わせる者は見当たらない。
(ひとりで中原を渡ってきたのか?)
相当に腕が立つのか、それとも凄まじく運がいいのか。いずれにせよ、並みの人物ではない。
と、不意に、その眼がこちらを睨み付けてきた。
(むっ!?)
眼があった瞬間思わず息を呑み、腰の剣に手をかける。
六、七丈はある距離を貫き、こちらを射ぬく視線だった。込められているのは、剣呑な気配。敵意、殺気の類だ。
ほう、と王山而が洩らす。
「なかなかいい面構えだな」
低く重い声調は、獣の唸り声を思わせる。同時に、肩に担いでいた六尺棒を下ろした。
眼下の武人――そう、こんな眼で人を睨めるのは武人以外にありえない――は剣呑な気配のまま、袍の合わせに手を入れ、飛刀を一本取り出した。
武人が懐中に隠し持つ、小さなものと言えば――
その時、武人の眼光が一際鋭くなった。「何か」を持った方の腕が大きく後ろに振られ、次の瞬間、
(危ない!)
咄嗟に女墻に身を隠す研坐崎。岩の壁の向こうから、がすっ、と言う音が確かに聞こえた。
「はっはっは! さすがは『盤』の御武人よ!」
眼下の武人が大笑した。
「こそこそと隠れる体術、実に電光石火! 眼にも止まらぬわ!」
「言わせておけば……!」
頭に血が上る。それを自覚する。自覚した冷静さでもって、研坐崎は周囲の状況を見渡した。
城壁上の見張り達、騒然としつつも弓をつがえ、矢を武人へと向けている。
門前、通行許可待ちの人々がざわつきながら、武人から離れていく。
隊長に何事かを言い含められた者が、階段を駆け降りていった。
「おい!」
研坐崎は、隊長に声をかけた。
「あの曲者は、おれが引きつける! その間に……!」
「門前の人たちを門内にひとまず誘導して安全を確保、ならびに『盤』の朱門に連絡を入れるよう指示しました」
研坐崎は束の間言葉を失った。まさしく、自分が考えていた事だからだ。
が、すぐに頷くと、今度は王山而の方に向き直る。
「王山而どの、おれに何かあれば、後は頼みます」
「ひとりだけで行くつもりか?」
「あの曲者はひとりの様子。ひとりに対して二人以上で立ち向かうのは、さらに謗りを受けましょう」
「……なるほど。無理はするなよ」
はい、と答えて、研坐崎は飛び上がり、女墻の上に立った。
外向きに勾配がかかり、あまり足場は良くはない。それでも足を踏ん張り、胸を張って仁王立ちの体勢を取る。
地面を見下ろす視界の端に、壁面に突き立っている飛刀があった。見覚えがあった。が――
(今はそれどころじゃない)
そうして、一度大きく息を吸い込んでから、
「ほざけ、チンピラ!」
と、腹の底より怒鳴りつけた。
「『盤』の侠客は、いわれ無き無法には逃げも隠れもしないぞ! 今行くから、そこで待っているがいい! はぁッ!」
叫ぶと同時に、研坐崎は宙にその身を躍らせた。
背後で「バカ者!」という怒鳴り声がした。
一瞬の浮遊感の後、風が吹き上げた。同時に目前の遠景も上に流れていき、眼下の地面は凄まじい速さでこちらに迫る。
『盤』の城壁の高さは、およそ三、四丈と言ったところか。地面まで、階段ならば茶の一服ほどもかかろうが、飛び降りるならばあっと言う間だ。
体の落下を感じながら、全身に気をめぐらす。めぐらせた気を足元に溜めるよう意識する。全身の肉、骨、血管、経絡からも力を抜くよう心がける。石は落ち
れば砕けるかも知れないが、例えば布なら落ちても傷つく事はない。
爪先が地面に触れる。墜落の衝撃。瞬間、足もとの気で干渉。体に伝わる前に、全身を丸め、前へ投げる。体を破壊するはずの衝撃を、体を前に投げ飛ばすが
如き勢いへと無理矢理変えて、研坐崎の体は何度も地面を転がる。
「――んぶはぁっ!」
半ば眼を回しながら、研坐崎は身を起こした。
方向感覚が少し狂っていた。周囲を見回し、曲者の位置を確かめた。
間合いは数間。その曲者は、さすがに呆気に取られたらしい、今さっきまで噴き出ていた剣呑さが、なりを潜めている。
体中のあちこちが痛かった。背を丸め、片膝をつきながら、まだ立ち上がる事ができない。
それでも、この城壁から飛び降りた一手で相手の気勢を呑めたのは大きい。精一杯の眼光で曲者を睨み、剣を抜いて尖端を向けた。
「どうやら……逃げずに待っていたようだな!」
言われてから曲者は我に帰り、得物の短戟を手に取った。
「ふ……! 恐慌の余り、身投げしたかと思ったぞ!」
「我ら盤侠、死を恐れず! まして、貴様のような無法の輩を恐れる理由は欠片もない!」
「……貴様らが、無法という言葉を口にするな!」
ぶん、と短戟が振られ、やはり尖端が研坐崎に向けられる。
目前の曲者より再び殺気が湧き上るのを感じながら、研坐崎はわずかに視線を逸らす。城門前には旅人らの姿はもうなく、代わりに得物を持った門衛らが身構
えている。
取りあえずは、旅人達の安全は確保できた――すると、曲者も門に視線を向け、ふん、と鼻で笑う。
「助けを呼んだらどうだ、この死に損ないが?」
「貴様如き、この研坐崎ひとりで十二分だ」
ゆっくりと立ち上がる。痛みはあるが、我慢できない程ではない。剣を振るうには何の問題もない。
「……春閃郎の研坐崎か。もし貴様が義侠の士というならば、仲間の橘達瑪を引き渡せ。そうすればこの馬勇樹(ばゆうじゅ)、無礼を詫びて大人しく引き下が
ろう」
「断る」
即座に研坐崎は答えた。
「わが師姉は今は『盤』を空けている。例えいたとしても、引き渡すつもりはない!」
「……ならば貴様の師姉殿がそうしたように、『盤』の人間を皆殺しにするまで! まずは貴様から血祭りだ!」
(達姉さんが……そうしたように?)
その言葉に、研坐崎が気を取られた一瞬。
馬勇樹と名乗った男は、短戟を振りかざし、研坐崎に向かって躍りかかった。
三.
師姉の名を聞いた瞬間が隙となった。
短戟の突きから払い、振り下ろしなどの攻め手が矢継ぎ早に繰り出され、短戟の月牙が縦横に軌跡を描く。
ひとつひとつの攻め手は単純なのだが、その速さが並みではない。
一手一手の速さ、そして一手から次の手への切り替わりが素早く、まさしく息つく暇も見えはしない。研坐崎としては一度間合いを空けて仕切り直したい所だ
が、馬勇樹の踏み込みはさらに早く、容易に距離を取らせてはくれない。
(馬勇樹とかいう男、大口を叩くだけのことはある)
眺める王山而は、知らず、舌打ちした。
己が横に眼を向ければ、城壁に並ぶ見張り達は、既に必要な態勢を取っている。
構えられた弓矢の先は、地面で戦う二人を狙っていたが、居並ぶ十人余のいずれもが、弦を引いたまま動けずにいる。『盤』の剣士と曲者の短戟使いの体の位
置がめまぐるしく入れ代わり、射る事ができないのだ。
矢継ぎ早の猛攻にさらされ、研坐崎が防戦一方。その戦況には、王山而は見覚えがあった。
過日の黒帯との立ち合いでも、この剣侠はなかなか攻め手を出す事ができず、仮に出せても次の攻めへとつなげなかった。
(あいつの戦いには、苦戦しかないのか)
もっとも、あの時は、剣も持たず、さして広くもない室内での立ち合いで、相手が攻めようのない「帯」ではあったが。
そこまで考えて、王山而は思いついた。考え様によっては、今の方が有利、とも言えるのかも知れない。
果たしてそれが、この戦況を引っ繰り返すだけの材料となりうるか。
王山而は、自分の得物の六尺棒を再び肩に担ぎ上げた。ただし、両手を添えて、いつでもすぐに投げ打てるように。
そう言えば面識を持ったきっかけも、こうやって六尺棒を投げ打つ事だったのを思い出した。
仙林派の特徴のひとつは、内力内功の鍛練に重点を置く事にある。
戦う為の型や手は、総じて単純な型となっている。が、単純なだけに、使い手の技量が直截に表れるのだ。
技は変化に乏しいが、速さでそれを補い、力を武器に乗せて相手を圧倒するのがその常道となる戦術だ。迂闊な受けは、役には立たない。受けの型ごと威力で
潰してしまうからである。
実際、受けに回っている研坐崎も、短戟の打ち込みを剣で「止める」のではなく、「受け流す」ようにしている。そうでなければ、とうに剣身は折れていた事
だろう。
そう、全てを、受け流している。こちらが押しているのは確かだが、得物の刃も穂先も剣使いには触れていない。
(このおれの攻撃を、ここまで凌ぐとは)
馬勇樹は内心で舌を巻いた。
「春閃郎」研坐崎。あだ名の通り、剣技・春霞閃空十六手にのみ長けているとは聞いていた。特化され、徹底的に磨かれた技の冴えは予想を遙かに超えてい
た。
だが、戦いとは、防ぐだけではどうにもならない。
(これほどの男が、どうして橘達瑪(きつたつま)のような者を師姉と仰ぐのか――)
惜しい、と、そう思う。
挑戦に単身にて真っ向から応える器量。鍛え抜かれた技量。さらにそれらを兼ね備えた人物が、そうあちこちに転がっているわけでもない。
(単身――単身?)
幾数十手目の「猿群越崖(えんぐんえつがい)」を振るった時、馬勇樹の中に疑念が差した。
先刻より、『盤』の城壁と門からは剣呑な気配が伝わってきている。向けられているのは弓矢、あるいは弩弓の類だろうか。
目前の剣侠が単身こちらへやって来たのは、射手らが迎撃体勢を整えるまでの時間稼ぎなのか――
その疑念が、馬勇樹の攻めの中に隙を生んだ。
生まれた隙を、研坐崎は見逃さなかった。
不意に研坐崎の片足が跳ね上がり、爪先が短戟の柄を捉えた。攻め手の出鼻を挫かれた短戟は一瞬、宙を泳ぐ。
宙を泳いだ短戟を馬勇樹はすぐに元の型へと戻したが、この蹴りの一手がもたらした意味を、何合も打ち合わぬうちに思い知らされた。
それまでに比べて剣の技が、より深くこちらに入り込んで来る。
研坐崎は相変わらず守勢のままである。が、防御の型が「受け流し」のみでなく、「止め」も入るようになっていた。攻め手の型になる前に剣が伸び、短戟を
打つ事さえある。
(これは……名を知られているのは、伊達ではなかったと言うことか!)
しかし、相手の得物は所詮は一振り、こちらは二振り。さらに言うなら――
(速く強くだけが、気功の技ではないぞ……!)
馬勇樹は、呼吸の調子を変えた。
攻め手を繰り出し続けながら、「速さ」「強さ」だけではない、もうひとつの気功が体の裡に生み、それを練り始めた。
押している、と研坐崎は確信した。
もっとも、相手が続け様に出してくる手は相変わらず攻めの手ばかり。一手から一手への連携は速くかつ淀みなく、断ち切るまでには至ってない。
今や戦況は五分。その契機となった一瞬は、暁幸だったと言って良い。同様に、同じような隙がこちらに生まれればたちまち攻め込まれるだろう。
立ち合いを始めてより、得物を交わす事五十余を数えたか。
その中で見えたものは、馬勇樹と名乗る男の技量の確かさと、押されても攻め手を繰り出し続ける胆力。そして、無法や無礼を働いたにしても、悪人ではない
という直感だった。
――王山而にはまた馬鹿者と罵られるに違いない。また、橘達瑪も呆れた顔をするだろう。
だが、研坐崎は願っていた。
(出来る事なら、武器を引いてはくれないものか)
無論の事、悪人ではないからと言って打ち負かされ、むざむざ殺されるつもりはない。しかし、打ち果たして終わるのも実にもったいなかった。
橘達瑪が仲間を皆殺しにした、とは言うが――
(その思いこみを正す事が出来れば、あるいは……!)
研坐崎は「暁光貫靄(ぎょうこうかんあい)」を「風花逍遥(ふうかしょうよう)」に切り替え、短戟の攻め手を止め続けながら、そんな事を考えている。
深く息を吸って、吐くという行為を、三回。
たったそれだけの行為だが、めまぐるしく武器の交錯する立ち会いの中では、至難の業と言って良い。
しかし、馬勇樹はそれを成し遂げた。
(練り上がった!)
体内で練り上がった気功を左の短戟に伝え、攻めの手を出しかけた。
百何合目かの「止め」が決められた。
剣はすかさず取って返し、右の短戟の「止め」に入ろうとした。が、短戟に伝わった気功が、剣の刃をしっかりと捕まえた。
一瞬――を幾つにも切り分けた時の狭間で、研坐崎の動きは確かに止まった。
(取ったぞ、春閃郎!)
右の短戟が、空を走る。
「受け流し」や「止め」、一切の妨げのない攻めの手が研坐崎の頭に飛ぶ。
――纏気功(てんきこう)。
体内に巡らせた気功を絶妙な呼吸で制御し、吸着力の高い気功に練り上げる技である。
練った気功をそのまま体に流せば、肌に触れたものはそのまま貼りつくし、得物に伝えれば、打ち合った武器がくっついたまま動かなくなる事もある。
気功を用いた技の中では、難度は決して高くはない。が、立ち会いの中、必要とされる精妙な調子を乱すことなく息を吸い、吐き、気を練り上げる芸当は、並
の鍛錬では到底為せるはずもない。
だが、対する研坐崎も並ではなかった。
「止め」を決めた剣に違和感を感じた直後、「なぜ」と思う前に、剣を手放し身を屈めたのだ。
短戟の穂先は、研坐崎の頭があった空間を貫くにとどまる。武器を放した分の身軽さがなければ、頭蓋に穴が開いていた。
そして、身を屈める、という大きな動きは、研坐崎に大きな隙を作り出した。
(終わった……!)
そう研坐崎は覚悟したが、次の一撃は来ない。
時の狭間で、研坐崎に続き、今度は馬勇樹の動きが止まった。
そして、やはり研坐崎は隙を見逃さない。
馬勇樹の脚の間に研坐崎の爪先が滑り込み、払うように動く。春霞閃空十六手の型のひとつ、「踏叢掃面(とうそうそうめん)」である。
さすがにこの一手で転ぶような馬勇樹ではなかったが、研坐崎は追い打ちをかけた。
屈めた体を伸び上げる。その勢いで馬勇樹に肩からぶつかり、腕を振ってその体をさらに押す。たたらを踏みかけていた短戟使いの体は地面から離れ、直後、半
間ほども投げ出された。
つい先刻まで繰り返していた「華如拳法」の「基正一式」の型である。
――馬勇樹は動かなかった。動けなかったのだ。
丸腰の剣侠を襲った短戟は、すぐに次の攻めへと移れなかった。「突き」の手で腕を伸ばし切ってしまったため、次の動きに入れない。
本来ならばもう片方の短戟を振るいつつ、今し方に攻めを出した短戟を引いて次の攻めの態勢を整える。が、纏気功で絡め取った剣は存外に重く、すぐに振る
う事ができなかった。纏気功を解くにもひとたび呼吸するだけの余裕が必要で、一瞬を十や百にも切り分けた時間の中では到底できる技ではない。
とっさに受け身を取って、背中を地に打ち付けるのは避けたものの、両の短戟は手放さざるを得なかった。
城壁の射手らの待っていた瞬間はそれだ。
研坐崎と曲者の動きがやっと止まった。間合いも開いて、何より的とすべき者が動けない。
城壁の射手のひとりがすかさず狙いを定めた。鏃の先は、地面に大の字になっている馬勇樹、から横に数寸。動けぬ相手を一方的に攻めるのは侠義に触れる。
矢を放した直後、射手は愕然とした。
「だめだっ!」
研坐崎が両腕を広げ、馬勇樹の前に立った。
放たれた矢を止めるなど出来るはずもなかった。
一瞬遅れて、研坐崎の背後から石つぶてが飛ぶ。
向かってきた矢は、剣侠の目前で石つぶてに打ち落とされ、折れた矢は足下に転がった。
そして、奇妙な緊張が場に流れた。
居並ぶ射手と、城門前に待機する門衛らは得物を構えたまま身動きができない。馬勇樹もまた、地に倒れたまま起き上がれなかった。
(あのバカめ……!)
あれはもう病気だな――王山而はまた心中で悪態を吐いた。
「……どういうつもりだ、春閃郎?」
仰向けのまま、馬勇樹は目前に立つ背中へ問いかけた。研坐崎もまた、背中越しに馬勇樹に問いかける
「貴様こそ、どうしておれを助けた?」
石つぶてがなければ、矢は研坐崎の眉間を貫いていたはずである。
しばしの間。やがて、馬勇樹が先に答えた。
「この馬勇樹、誰であれ、身を投げ出してこちらを庇う人間を見捨てはせぬ」
「ならば、この研坐崎も同様だ」
肩越しに研坐崎は振り向いた。
「武術と胆力を兼ね備えた侠客は、この中原では値千金にも勝る。そんな人物を、むざむざ死なせるわけにはいかない」
「我らはつい今まで、殺し合っていたはずだがな?」
「だからと言って、ここで死んだり殺されたりしてもいい、という事にはならないだろう」
そうして言葉を交わす間も、研坐崎は自分の立ち位置を変えようとはしなかった。相変わらず両腕を広げ、城壁の射手に向けて立ちはだかっているままだ。
再び馬勇樹の中に疑念が差す。一体この男は、何を企んでいるのか、何を考えているのか?
(それとも、底なしのバカなのか?)
無防備で無警戒な背中を睨む。
手元を探れば、つぶてになりそうな石は二つ三つほど転がっている。呼吸ひとつで気を練り、威力を込めて投げ打てば風穴を開けられよう。
あるいは、この隙だらけの剣士を押さえつけ、人質とする事もできるだろう。
(その程度、少し考えれば――)
馬勇樹は眼を閉じ、(こいつには、そんな頭はない)と結論づけた。
鼻を鳴らし、身を起こす。転がっている武器の中で、まず剣を拾い上げ、研坐崎の前に立った。
今度は自分が、城壁からの狙いに体をさらす形になる。しかも、背中を。その事は承知の上だ。
胸の前に剣を捧げるようにして、持ち主に差し出した。わずかに頭を下げる。そうする価値のある相手だった。
「この馬勇樹、先にも言った通り橘達瑪に因縁ある身。されど、『盤』と春閃郎の誇りを傷つけた事は詫びよう」
すると研坐崎は、安堵の息を吐いて剣を受け取り、城壁に向け大きく腕と剣を振った。
「弓を収めてくれ! こちらの武人は曲者にあらず、故あって『盤』を訪れた客人だ!」
やはりこいつは底なしのバカだ、と馬勇樹は確信した。
その時、城門の方で動きがあった。
門衛らの間から老人がひとり、供の者を数人引き連れて現れた。
四.
頭が熱くなった感じがした。
その感覚は、ずいぶんと懐かしいものだ。
何かに対する、心の底からの燃えるような怒り。旅を始めてからは、そんな風に「怒り」というものを感じた事がなかった。
続いて感じたのは、胸の奥の重苦しさ、あるいは痛み。
これならよく知っている。何かが自分の思い通りにならなくて、でも、自分の力ではその何かを変える事ができない、と分かっている時のやり切れなさ。
そして、ふたつの思いに共通しているのは、違和感。この感情は、自分のものではない。
なぜなら、「怒り」も「痛み」も、自分以外のものを思う事より生まれている。他人のために怒ったり胸を痛めたり、なんて、そんな余裕は自分にはずっとな
かった。
自分の中に、自分以外の思いが渦巻くのは、珍しい事でもなかった。心をつないだ仲間の思いは、しばしば自分の中に流れ込んで来る。それらはいつも、自分
達のための怒りや悲しみ、そして何より憎しみだったのだ。
(じゃあ、この怒りと痛みは、誰の?)
怒りの奥、「橘達瑪」という呼びかけが聞こえる。痛みの向こうには、誰とも特定せぬ「ひと」への悔やみがあった。
ぼんやりとした意識の中、一番最初に思いついた人間はやはり――
物音がした。
それで眼が覚め、寝台から首だけを起こしてみる。
「お、起こしてしまいましたか? す、すみません、才孟(さいもう)様」
戸を開けて入って来た門弟が頭を下げてきた。
少年と言ってもいい年齢――とは言え、本当なら才孟よりも年上だが――の門弟は、何度も頭を下げる。以前、研坐崎に怒られたのがよほど堪えたらしい。
いいえ、と才孟は首を振った。
「気にしないで……下さい。いつも……ありがとう……ございます」
「いえ……これが……その、仰せつかっている役目、ですから」
相変わらずその門弟は、何か言うたびに頭を下げ、なかなか眼を合わせようとはしない。
「最近は……研坐崎さんに怒られたりと・……いう事はありませんか?」
「いえ、その、研坐崎どのには、特に、その、あれ以来は、特には」
「納得……できない事を言って……来たら……遠慮なく……あたしに言って下さいね……? あたしから……研坐崎さんに……『やめなさい』って……言ってお
きますから……」
笑いかけてみる。しわくちゃの顔が笑顔を作った所で、気持ち悪いのかも知れないが。
「はい、そ、その、お気遣い、ありがとうございます」
やはり眼を合わせず、頭を下げながら、門弟は昼食のお膳を手に持ち上げた。
話しかければ答えてくれる。その事が妙に気持ちよくて、一方で、相手から警戒されている事も強く思い知らされる。
無理もなかった。が、嫌われたり疎まれたりするのはやはり寂しい。
「あの――」
そそくさと出て行こうとする門弟を呼び止めた。こちらを向いている背中が、眼に見えて硬直するのが分かった。
「……はい、何でしょう?」
「あたしは……怖い……ですか?」
「……それは……その……」
すぐには出て来ない答えが、雄弁な回答だった。
「……仕方ありません……あたしは、怖がられるような人に……なっちゃいましたから……」
「いえ……そんな事は……」
「いいんです……本当の事ですから」
「……才孟さま」
「ただ……今、あたしは、『盤』の人に、感謝しています……。仇を探してくれる、ってだけじゃなくて……今、あたしの周りに人がいて、話しかければ、答え
てくれる、っていうのが、とても嬉しいんです」
ありがとうございます、と才孟は頭を下げた。
恐れ入ります、と答えが返り、門弟は部屋を出て行った。
部屋に残され、ひとりになった。
言いたい事を素直に口に出すというのは、気持ちがいい。反面、様々な辛さも、それこそ素直に感じる事になるけれど。
「生きる」とは本当はこういうものなのかも知れない。
(あとどれぐらい、続けられるんだろう?)
窓から外を見る。研坐崎はいなかった。
頭と胸にまだ余韻が残る、熱と痛み。
他人の為にここまで怒り、胸を痛められる人間は、才孟の知る限り彼しかいない。
(でも……どうして?)
一瞬、死んで黒帯の中に宿りでもしたのかと思ったが、そういった気配はなかった。
なら、何かあったか、何があったか。さっきの門弟に訊けば良かったかも知れない。
寝台から手を伸ばして、近くの台の上にあった本を取り上げた。
『道家指南(どうかしなん)』。少し前から読み進めている書物だった。
読み進めるのは正直苦痛だ。書いてある事が難しいのもあるが、本英世が同じような事を学んでいたのかも、と思うと辛い。
それでも、読まずにいられないのは――
(お父さん)
心中で呼びかけ、表紙を開く。
「この世の根源は太極にあって、陰と陽の二極を生み、そこから四象を、四象から八卦を生み出す。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ずる」
「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」
「太極とはこの世の元なる気なれば、すなわち万物は気より生まれる」
何を言っているのかよく分からない文章が並んでいる。
その意味が分かった時、本英世が自分達を裏切った理由も分かるのだろうか。
分かった所で、今さらどうにもならないけど。
(お父さん)
心中で再び呼びかけてみると、懐中の黒帯が震え出し、哭声が洩れてきた。
――るふぅぅぅ
――しゅぅぅぅ
すっかり数が少なくなった仲間の思いが、流れ込んでくる。
(お父さん)(お父さん)
胸の中、呼びかける声は、こだまのように幾重にも折り重なり、そして答えはない――はずだった。
重圧を感じた。
鉄の塊を飲み込んだように、喉から腹にかけてが重くて気持ち悪くなる。
(何……!?)
息を殺し、肌の感覚で周囲の気配をうかがった。
何かがいる。どこにいるのか。後ろ、いや、重圧は左肩の後ろから。上からのしかかって来るような。上、上に「それ」はいる。左後ろ上にいるのだ。
それを察するのにかかった時間、湯をひとくち啜るに満たぬ。が、我に返れば全身は冷や汗にまみれ、心臓の鼓動は重くて早い。
この気配、自分はよく知っている。誰かもよく知っている。重い鼓動の奥から、湧き出る様々な感情。懐かしさ、不信、絶望、悲しみ。自分だけではなく、黒
帯の仲間のそれも巻き込んで渦を巻き、才孟は恐慌を起こしそうになった。
(落ち着いて!)
自分と黒帯を心で叱咤。そうして眼を閉じ、みたび深呼吸。深く吸った気で心臓の鼓動を抑え、抑えた鼓動を吐く気にのせる。
鼓動が鎮まる。それは気功の呼吸法。体の気怠さが拭われて、清冽な活力が行き渡る。
才孟は心の中で数を数え始めた。
(ひとつ)
寝台の上、膝と腰を折ってバネを矯める。窓は開いたまま。誰もいない外が見える。
(ふたつ)
懐中の黒帯の感触。間違いなく、これが必要な相手だ。次にこれを巻けば、どれだけ命が縮むのか。
何を今さら――自分達の旅はその為のもの。全てはそれから始まった。
(みっつ!)
バネを解放、窓から外へ。受け身を取って地面を転がりつつ、黒帯を取り出した。
ひざまずいた状態で身を起こす。既に帯は腰回りに巻かれ、あとはへその下で結ぶばかりだ。
そして、気配と重圧を感じた方を見上げた瞬間、
「あ……っ!」
才孟の呼吸も心も、止まってしまった。
回廊や殿楼の屋根の向こうに、一際高い楼閣がある。
『盤』の朱門の内側の中心に建つ、五、六階の塔。その屋根の上にたたずむ人影があった。
落とした一滴の墨の如く、人影のまとう黒い服は景色の中で浮いていた。その姿は、抜けるような青や、色鮮やかな赤銅色の瓦屋根とはまるで異質で、影が
凝ったかのようだ。
影と言えば、人影の黒の中には真っ白い髭と髪もある。が、白には明るさも鮮やかさもなく、たたずむ姿の異質さをいっそう際立たせるだけだ。
その、妖怪のような気配と立ち姿を、才孟はよく知っていた。
仲間達の、組み手の枠から外れた「死合」を笑いながら見ていた者。
傷ついた者を慰めずに「クズ」と侮蔑し、傷つけた者を諭すのではなく「それで良い、もっとやれ」と煽った男。
そして、かつては誰よりも優しく頼もしく、自分達を見守っていた――その時は、こんな人ならざる気配など微塵も見えなかったというのに――。
「っ……さん……!」
呼び掛ける声がかすれる。声にならない分の息が喉の奥に絡まり、咳き込む。
それでも、才孟はその姿に向けて呼びかけた。肺腑の底から、生命と魂の全てを振り絞り、探し求めていた者に向けて叫んだ。
「お父さぁぁん……っ!」
彼方にたたずむ人影が、こちらを一瞥したかに見えた。確かにこちらを見た。
が、どんな顔を、どんな眼を向けているのか。
滲んだように、黒い人影の輪郭がぼやけた。
ひとたび膨れあがった影は、蒼穹の中でまた小さくなっていく。もともとあった人の姿よりもさらに小さく、黒の一点と化し――
「おとうさあんっ……っ!」
やがて、消えた。
才孟の腰で、結ばれていない黒帯が、哭声を上げた。
「……我が流派の本拠地、倶鞍山(ぐあんざん)に戻った時には、既に事は終わった後であった」
馬勇樹が、しばし言葉に詰まる。
研坐崎は次の言葉を待った。
ややあって、再び馬勇樹が口を開く。
「そこかしこに、我が同胞が屍を晒し、血の臭いが立ちこめておった……臭いにつられて野犬や烏が来ていて、同胞をむさぼり食っていた。まさに地獄絵図よ」
声を震わせながら、ゆっくりと自分の懐中に手を入れ、飛刀と矢を取り出した。
それを間近で見た瞬間、研坐崎も息を飲んだ。見覚えのあるものだった。
「同胞に刺さっていたのが、これらの飛刀、矢よ……確か、『盤』のものであったな?」
手を出して、差し出された得物を検分したのは、筆の如き顎髭を垂らした老人である。が、小さな所作や仕草の端々にも隙や揺らぎが見えず、積み上げられた
武功をうかがわせる。
「ふむ……間違いない」
研坐崎と馬勇樹の立ち会いがひとまず終わり、供の者と駆けつけたのは「舞宙縄仙(ぶちゅうじょうせん)」の西芝涯(さいしがい)。巻いて輪にした軟鞭を
腰に下げている。両手で飛刀と矢とを子細に確かめているが、必要とあればその軟鞭が踊り、一瞬のうちに間合い内の全てのものを打ち据える事だろう。
「これらは確かに、我ら『盤』にて作っておるもの」
頷き、西芝涯は馬勇樹に得物を返した。
受け取る馬勇樹の手は震えている。彼はまた言葉を詰まらせた。
「屍の中、辛うじて息のあった仲間がおった……『下手人は紅い馬甲の女、橘達瑪』、とな」
(そうだ。あの飛刀も矢も、達姉さんが使っていたものだ)
研坐崎の脳裏に、嫌でも思い浮かんで来る。才孟と出会う契機となった黒帯武賊との一戦。あの時、後ろから放たれ、自分を守っていたものだった。
馬勇樹は、目前にいる『盤』の者全員を見据え、言い放つ。
「この馬勇樹、『盤』の侠客は武に長けて義に篤いと聞いていた! 我が師は『盤』に対し、尊敬の念すら持っていたのだ!
仙林派がいつ、どんな非道を働いた!?」
「我ら『盤』も、仙林派は正義の士らとうかがっておる」
肌までびりびりと震えそうな馬勇樹の怒声に、臆することなく答える西芝涯。こちらの声は、特に怒鳴っているでもないのに周囲に大きく響き渡った。
「仙林派の方々が非道を働くなぞ考えられぬ。日が西から昇るという方がよほどありそうな話でござるな」」
「ならば、なにゆえ我らは橘達瑪に狙われなければならなかった!? あやつは賊と成り果てたのか!?」
「少なくとも、我らには心当たりはござらん。本人を問いたださねばなるまい。ただ――」
「ただ、何だというのだ」
「ただ、『盤』としても疑いたい事が何点かござる」
「何を……!」
身を乗り出しかけた馬勇樹の鼻先に、西芝涯は指をつきつけた。文字通りに出鼻を挫いた形になる。
「仙林派は名の如く、山中林間での戦いに長けると聞く。まして、総本山ともなれば自分の庭も同然。それらを討ち果たすのは至難の業、ましてや、たかだか飛
刀や弩弓の技に長けている程度の者ひとりでは、返り討ちに遭うのが落ち」
「……ならば、手練れを集めて、策を用いて……」
「この西芝涯が知る限り、あの者はそういう根回しが器用な人物には見えぬ」
西芝涯の言葉に、研坐崎は心中でうなずく。
「門派ひとつを討ち果たすなど、手練れを何十も集めなければ無理な芸当。そういう人集めは相応の手間暇がかかり、噂話として必ず流れるもの」
人の噂は千里を走る。誰かが何かしら企んで、人を集めたりするならば、その動きはあっという間に武林の間を駆けめぐる事だろう。
「……ならば、この『盤』の得物はどう説明する!?」
「『盤』の侠客には、力及ばず野路に斃れる者も少なくない。そういった者らの持ち物を剥げば、『盤』の物なぞいくらでも手に入りましょうな」
「仲間の遺言はどう説明する!?」
「髪長く、紅い馬甲の飛刀使い、という程度の変装ならば、そう難しい事でもない」
「あくまでも、自分の門人は潔白だと言い切るか!」
「可能性を申し上げておるのみ。馬勇樹どののお話を疑っているわけではござらん」
「ならば、下手人は誰だ!」
「我ら『盤』に恨みを持つ者――これも可能性でござるが」
馬勇樹の気勢に対し、西芝涯は一向に動じない。つきつけた人差し指が、馬勇樹に重圧をかけているという事もあろう。
「この『盤』もまた、世に非道を働いた覚えはない。が、少なからぬ人々から警戒され、時には恨まれたりもしておる。とりわけここ最近は、黒帯武賊の件で色
々動いておった故、目障りに思った者が出る事もござろう」
「たかだか門派ひとつの評判を落とす為に……我らは犠牲になったというのか!」
「あるいは、離間の策という事も――何にせよ、まずは本人を捕まえて、調べなければ始まりますまい。我らとしても至急、橘達瑪の捜索に当たる事を約束いた
す」
西芝涯は指を下げた。
「見つかるまでは、こちら『盤』にどうぞご滞在くだされ。我らとしても故なき悪評が広まるのは不本意なれば、この件の真相と決着をば見届けていただきた
い」
「……見届けるのはこちらとしても望むところ。だが、『盤』の中は言わば敵地。そんな所に寝泊まりする気はない。野宿の方がまだ安心できる」
言い捨てると、馬勇樹は『盤』の者らに背を向けた。街道の横手に広がる野原へと足を踏み入れる。
「もし、貴公ら『盤』の者達が、身内だからと変なかばい立てをする様であれば、その時こそ容赦はせん。この身朽ちても鬼となり、貴様ら全員を討ち果たす」
「おれの師姉は、そんな事をするはずがない」
研坐崎は断言する。今日という日が始まってから、何度この言葉を口にした事だろうか。
「西老師がおっしゃった通り、これは何者かの企みだ」
「これ以上、貴様達と話す事はない」
草を踏みしだきながら、馬勇樹は答えた。
「全ては橘達瑪を捕まえてからだ。彼奴めの潔白が証明されれば、まことの下手人を討ち果たした後、この首を貴様にくれてやる」
「ならば、もし師姉が無法の下手人という事ならば、この研坐崎も首をお前にくれてやろう」
「……不用意な口は、あまりきかぬ方がいい。命を粗末にせぬ事だ」
「まだ言うか……っ!?」
その時、胸の奥に何かが沸き上がり、研坐崎の息を詰まらせた。
五.
――大丈夫ですか!? しっかりして下さい!
「どうされました、研坐崎どの!?」
誰かが自分に呼びかけている、らしい。その声が遠かったり近かったりする。
右手で胸元を押さえ、腹の底に力を入れて息を強引に吐き、吸い、呼吸を確保する。
沸き上がったのは、痛みだ。それらが血流や経絡を通じているかのように、体中に行き渡った。
呻きながら、研坐崎は膝をついた。なぜか脳裏に、(お父さん)という呼びかけが繰り返し聞こえた。
(これは……!)
全身から、体の内から響くような痛み。(お父さん)という呼びかけの度、痛みは疼く。研坐崎はこの痛みを知っている。黒帯と立ち会い、死線をさまよった
時のものだった。
(まさか……才孟どのの身に何か!?)
頭を振り、遠くなりかけた意識を取り戻すと、周囲の者達が心配そうにこちらを見ていた。馬勇樹さえもが、眉間に皺を寄せ怪訝そうにこちらをうかがってい
る。
研坐崎は覚束ない足取りで立ち上がり、まずは馬勇樹、続いて西芝涯と供の者達に抱拳して頭を下げた。
「話の続きはまた後にしよう……。西老師、お手間を取って頂き感謝いたします。この研坐崎、急用ができましたのでこれにて失礼いたします。後ほど改めて、
お礼に参ります」
抱拳を解いて、城門に向かう。足がもつれて転びそうになったのを、横から出た腕が支えた。
「しっかりしろ、坐崎」
顔を覗き込んでくるのは、乙瓶啓だった。
「今さっきの戦いで、どこかやられたか?」
「いや」と研坐崎は首を振った。
「才孟どのに何かあった……すぐに行かないと!」
「……わかった。つかまってろ」
乙瓶啓は研坐崎の体を背負うと、出来る限りの軽功でもって門に向かって走り出した。
研坐崎の視界と感覚がおぼろげになってくる。幼なじみの友人に背負われ、体が揺れているはずなのに、地にうずくまっているように思える。
そうやって、呼んでいるのだ。父さん、と。
誰が?
(決まっている。才孟どのが、黒帯の方々が、だ)
「……急がなきゃ」
研坐崎が思わず口に出すと、その下で乙瓶啓が苦笑した。
「悪いな、お前ほどの軽功が使えなくて」
「……すまん。そういうわけじゃない」
「だがな、これでもこっちには全力だ。やれる限りで速く行くから、ちょっと待っていろ」
「そうだな、頼む」
乙瓶啓の足が少し速くなった。
「坐崎、あの才孟とかいう婆さんは助けられそうか?」
「助けられる、必ず」
研坐崎は頷いた。
体が揺れている。違う、震えている。
気功の呼吸法など思い出せない。呼吸の仕方すら体が思い出せなかった。
「しっかりして下さい、才孟様! 今、医者を呼びました!」
そう耳元で言っているのが、自分の世話をしてくれる門弟の一人、という事は分かる。
でも、その声は果てしなく遠い。
あいつがいたのだ。探し求めていたあいつが。父が。本英世(ほんえいぜい)が。
――るぅあああああ
――ふしゅうぅぅううううう
――うぉおぅ、うおおぅおああ
哭声。嘯声。仲間達の激情が、自分のそれとともに全身を駆けめぐった。
頭が熱くなり、気が遠くなる。
目の前にある土の地面が消えた。
代わりに表れたのは、自分達の故郷の風景だ。
土饅頭と、膝の上で編んだ黒帯と、血の色の空。鬱蒼として不吉な森の木々の枝。
自分以外にもう誰もいない、いるのは復讐を願う仲間達の魂だけ。
それが幻だというのが、自分の中の醒めた部分で分かっている。
なら幻の中にひとりで立っているはずの自分が、誰かに背負われているように感じるのはどうしてなのだろう?
無防備に寄りかかり、体を預け、支えられている心地良さを感じるのは何故なのだろう?
――今行きます。
誰かがそう告げた。
(研坐崎さん?)
周囲を見回そうとして、眼も首も動かない。
――落ち着いて、息をして。
自分の肺腑の中に、動きがあった。からみついていた息の塊を解いて、吸う息、吐く息に変えた。
(そうだ、呼吸ってこうやるんだったっけ……)
――そうです。今度はもう少し深く、五つ数えるまで息を吸って。
研坐崎の声が、ゆっくりと数を数え始めた。
――ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。次は、同じだけ数えて、ゆっくり吐いて。
(……ひとつ、ふたつ、みっつ……)
今度は才孟が、数を数える。
深呼吸を繰り返す。激情がゆっくりと静まる。
幻の中に、あらたな人影が現れた。
蓬髪の青年、青い袍、腰には剣。
(研坐崎さん……どうして?)
幻が消え、目の前に土の地面が戻った。
重く、速い心臓の鼓動が、だんだん緩やかな調子に戻っていく。
「才孟どの」
呼びかけられ、顔を上げた。
満面に冷や汗を光らせ、青白い顔をした剣侠がいた。
「どうか、されましたか?」
おぶさっていた『盤』の門衛の背中から下り、傍らにひざまずく。問いかける口調も、息を切らせていた。
「……あいつが、いたんです」
「あいつ……本英世ですね?」
頷いた。
「どちらに?」
「……あの、屋根の上に」
才孟が指さす方向に、その場にいた全員が顔を向けた。
今はもう、その方向に人影は――あった。
長い白髪を翼のようになびかせながら、屋根の上に舞い降りた者の姿がある。
「あれは司虎真どのじゃないか?」
門衛が眼を細めながら言う。
「違います……本当にいたんです……父さん……本英世が」
――るぅいいぃぃぃぃ
――ふぅぁああああぁぁぁああむ
――くふぅうぅぅぅうう
「分かっています。皆さんがそうおっしゃるのなら、いたんでしょう」
研坐崎が頷くと、黒帯の哭声も静まっていく。
「研坐崎さん……どうして……」
「? 何がですか?」
「どうして、あなたは……」
「ああ、すみませんでした」
眼を離した事を問い詰められたと思い、研坐崎は頭を下げた。
「ちょっと人に呼ばれて、それで色々ありまして……才孟どのから離れてはなりませんでした。申し訳ありません」
「違います……あなたは、どうして……どうして……ここに、今いるのですか?」
「それは、呼ばれた感じがしたんです。前に、ほら、黒帯の方々と立ち会った時のような……」
違う。自分の訊きたい事はそういう事じゃない。
「どうしてここに……あたしの傍に……いることができるんですか?」
再び訊ねた言葉は、自分でも支離滅裂だと思う。
研坐崎は困ったような、申し訳なさそうな顔をして、「申し訳ありません」と、また頭を下げた。
「その……何を訊かれてるのか、分からないんです」
予想された答えだ。また胸の奥から湧き起こるものがある。今度のそれは、「もどかしさ」だとすぐに分かった。
知りたい事を訊ねる質問は、どう考えても「あなたはどうして自分の傍にいられるのか」という以上のものにはならない。
それに対する研坐崎の答えもやはり、今し方に返ってきた以上のものは考えられなかった。
才孟と研坐崎が、互いに相手に対して困っていると、やがて司虎真が彼らの前にやって来た。
そして、「楼閣の屋根の上、新しい足跡がついている」と告げた。
鬱蒼たる木々が、陽光を遮っている。
薄暗い森林の中に、突如闇が凝り、それがやがて人の姿を為した。
黒の兜巾に道袍、払子の房のような白髭と白髪。
「ふむ……そう言えば、あれは死んではいなかったのだな」
黒と白で姿を為したその男は、髭の先をつまみながら呟いた。
本英世である。
今彼がいる場所は、『盤』より数十里余ほど隔たった芒風山(もうふうざん)の山中。
「ここ最近、何やらこちらをめぐって騒がしいと思ったら……『盤』めが、あやつの口に乗せられたという事か。まあ、これも何かの因縁だろう」
本英世は、道なき道を歩き出した。歩きながら、つい今し方に見てきたものを頭の中で整理した。
『盤』。かつては練才府(れんざいふ)と呼ばれた城郭。中心にあるもともと役所だった区画が、武術の稽古場となっている。
城壁には常時見張りが立ち、必要とあればすぐに臨戦態勢に入る事もできる。その際には、「朱門」と呼ばれている中心の区画より、稽古を積んだ武人達がす
ぐさま現場へ飛び出せるのだ。
門人の数は百人強、うち半分は修行中の半人前や、最低限の武器の扱い方しか知らない「兵士」。残りのうち三十ちょっとは練度がかなり高い「武人」と言っ
て良いだろう。
そして、二十弱が常人離れした武術を習得し、巷に名を知られる「侠客」「武侠」と呼ばれるような者達だ。
(例えば、橘達瑪どののような、な)
もっとも、『盤』の方針により、そういった次元の者達の多くは本拠地に留まってはいない。外へ出て、中原のあちこちで色々仕事をしているのだという。隊
商の護衛、村や町での用心棒など、「義の為」にその技を振るっているのだそうだ。
そういう力の使い方を否定はすまい。ただ、笑いたくなるのは堪えきれなかった。
(乱れたる世を正す為――果たしてこの世は改まっているものやら)
今の橘達瑪にこの事を訊ねたら、どんな答えを返すだろうか?
興味深い問題だったが、今は控える事にした。
(今は、少しでも黒帯に慣れてもらわねばなりませんからなあ)
かの女侠に眼をつけたのは偶然に過ぎない。しかし、この女侠のいる門派が、こちらをつけ狙う事になるとは、世間は何と狭いのか。
そして、その門派がこちらの求めるものを持っているとは。
(黒帯に宿る怨の気、並の気功法では扱い切れませぬからな)
歩む先には、洞窟が口を開けていた。
ぽっかりと口を開いた中に足を踏み入れると、その奥に蝋燭の灯がともっていた。
照らされているのは、結跏趺坐の型で座っている者の姿。
髪の長い女である。衣服をまとっていても、体が相当に鍛えられていることが見て取れる。
膝の前には、様々な気功法を記した書物が開かれている。いずれも、様々な門派の奥義、秘伝級のものである。
耳を澄ませば、洞窟の中にその者の呼吸の音が響いている。
やがて、その呼吸音が静まってから、本英世は問いかけた。
「調子はいかがですかな、橘達瑪どの?」
「悪くない」
閉じていた眼を開き、彼女は答えた。
(つづく)
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