「まいねこの日」


1.
 5121小隊のプレハブ校舎1階、整備員詰め所。
 カレンダーは三月の半ばまでバツ印がついており、机の上の時計は、二三時五九分を示している。
 校舎とハンガーに人がいないのを確認した石津萌は、詰め所に入ってドアと窓に鍵をかけ、カーテンを閉めた。
「にゃあ」
 猫の鳴き声がした。部屋の一隅に一匹の黒い子猫がいる。子猫の前には、キャットフードののった紙皿が置かれていた。キャットフードは、萌が尚絅学園の売 店で買ってきたものだった。
 萌は子猫を見て微笑んだ。この子は、彼女がいずれ自分の使い魔にしようと餌付けしていた猫だった。黒猫だし、姿形も申し分ない。エサを与えてくれた人間 には誰にでもなつく、というのが問題ではあったが。
 今夜もこのおチビさんは、萌の出していたキャットフードをむしゃむしゃと食べていた。ただし、今回のにはいつもと違って睡眠薬入りだったが――。
 黒いおチビさんのたてるあまり上品じゃない音を聞きながら、萌は自分の「準備」にとりかかった。情報端末の机の下から、自分の名前が書かれてあるダン ボール箱を引っ張り出すと、その中から色々と取り出して、机の上に並べ始めた。
 模造紙、ロウソク、羽根ペン、インクの入った小瓶。
 そして、「芝村舞」と黒マジックで書かれてあるポリ袋。中には、士魂三番機のバイザーから取って来た彼女の毛髪が数本入っていた。
(芝村……さん)
 5121小隊をまとめているのは、ある意味彼女なのかもしれない。
 萌はそんなことを思った。

 人間の集団というのは、結束を固める時に「敵」を必要とすることがある。共通の敵がいた時、人は集まって団結――「集団」を作るものだ。しかし、敵がお らず、それでも集団の維持が必要な時――その集団は、何かに「敵」を仮託する。集団にとって、理由や理屈はどうでもいい。無論、あるに越したことはない が、なければ作ってしまえばいい。
 ――この、人間の実に救いがたい習性は、5121小隊においても例外ではなかった。
 結成されたばかりの5121小隊は、ひとつの意識の元にまとまりつつあった。
  その意識とは、「自分たちは人類を守るための最後の壁」――という殊勝なものではなくて、隊員の一人である芝村舞への敵意や警戒だった。世界を牛耳る芝村 一族にはいろいろと良くないうわさがついて回っている。そうでなくとも芝村を名乗る者の性格というのは他人に好い印象を与えない。
  舞は村八分にされていた。誰かと一緒に昼食を取ったことも、一緒に訓練をしたこともない。速水厚志という例外がいるにはいるが、まぎれもない5121小隊 の一員であるにもかかわらず、舞は5121小隊から疎外されていた。
  もっとも、舞はそんなことを気にしてはいない。人間というもののそんな習性を舞は理解していたし、自分自身がそのスケープゴートとして、格好の存在である ことも認めている。
  舞は、自分に与えられている役目を日々こなしていた。

(嫌われ、憎まれるのも芝村の役目だ)
 舞がそう言うのを、萌は聞いたことがあった。自分はそこまで割り切れない。
 そんなことを言うのは、自分に確固とした自信があるからだろう。芝村特有の高飛車かつ高慢な物言いは伊達ではない。言葉づかいだけを聞いていると、人を 人とも思わない、血も涙もない人間のようにさえ思える。が、その一方で猫一匹を相手にして、抱っこしようか頭を撫でようか、本気で悩んだりするような面も ある。
(芝村さんは……わたしのこと……見下して……いや……相手にも……してない)
 でも、わたしにとっては――。
 寝息が聞こえ始めた。
 見ると、黒い子猫がキャットフードを半分以上残したまま、横たわっていた。
(準備……完了)
 再び萌は微笑んだ。

  その朝の目ざめは、奇妙なものだった。
(……寒いな)
  舞は身震いをした。この寒さは普通ではない。
  いつも被っている布団の感触がない。肌が少し濡れている。胸やお腹のあたりも冷たくて、何か固いものに触れている――。
(?)
  舞はようやく、違和感に気がついた。
  目を開けてみた。
  すると、自分が何か狭い部屋の中にうずくまっているのが分かった。部屋ではなく、箱と言ってもいい。「箱」には前に大きな穴が開いており、そこから外が見 える。見える景色は、5121小隊のプレハブ校舎の屋上だ。ただし、異様に視点が低かったのだが。
  身を起こそうとして、がん、と頭に何かがぶつかった。反射的に頭を伏せる。この「箱」は狭い。閉じ込められたか?
(われらに仇なす者たちの仕業か?)
  だが、どうやって?  閉じ込めるにしても何でこんな大穴が開いている部屋なり箱なりにするのか。これでは檻にすらならない。
  ようやく頭がはっきりしてきた。まずは、ここから出なければならない。手足を確かめると、拘束などはされていないようだった。
  舞は頭を下げて、穴をくぐって外に出た。
  振りかえると、自分がいた所は「箱」でさえなく、「台」だった。ただし、サイズだけが巨大だった。
  周囲の全てが巨大だった。遠坂御用達の物干し台や、椅子代わりの台やプラスチックのケースが、巨大化している。身を起こしてみても、自分の視点はほとんど 変わらない。
 いや、それより何より――。
 地面を踏む感触が、なぜ足だけではなく、「手」からも来ているのだろう?
 舞は、自分の手を見た。
 手はなかった。
 そこにあるのは、真っ黒な猫の「前足」だった。
(……わたしはまだ夢でも見ているのか?)
 舞は自分の「左手」を動かそうとした。すると、目前の「左前足」が自分の思ったように動いた。
 「左手」の手のひらを確認しようと思ったら、「左前足」がひっくり返り、ピンク色で柔らかそうな肉球が姿を見せた。
(……かわいい……)
 舞は、左手にあるはずの青い多目的結晶体を確認する、という当初の目的を忘れ、しばらく自分の肉球に見入った。
 数秒後、われに返る。
 見とれている場合ではない。
(一体、何がどうなっている?)
 まさか、とは思うが――。
 舞は「よつんばい」の状態のまま、軽快に屋上を横切ると、階段を下った。
 屋上から二階の廊下に着く途中で、窓に映った自分の姿を見た。
(ぐあっ……!)
 窓には、一匹の黒い子猫の姿が映っていた。ちっちゃな体に、おっきな頭。神秘的な瞳を宿した、つぶらな目――。
 「かわいい」を百並べても足りない姿がそこにあった。
 舞は悲鳴を上げた。
「ふにゃあああああああああああ」
 猫的悲鳴が、朝の空気の中に響きわたった。


2.
  上から猫の騒々しい鳴き声が聞こえて来た。竹ボウキでプレハブ校舎前を掃いていた壬生屋は、校舎2階を見上げた。
  屋上からの降り口に、一匹の黒い子猫がいた。階段を上がって見てみると、その子は二組教室を覗きこんでいるようにも見える。
(?)
 手に持ったままの竹ボウキを得物代わりに構えて、壬生屋も二組教室をのぞいてみた。人の気配はない。校舎裏に面した窓にも全て鍵がかかっており、侵入者 のいた気配もない。
(何があったのでしょう?)
 壬生屋は首をかしげ、階段で立ち止まっているチビの黒猫を見た。
  この黒いチビ猫はよく知っている。毎朝始業一時間前に登校しているうちに、なんとなく顔なじみになったのだ。たまにご飯をねだって、甘えてきたりする。
  そんなチビ猫さんは、少なくとも壬生屋の知る限り、理由もなく突然喚き出したりする子ではない。
 猫は相変わらず階段に立ち止まって、二組の教室を見ている。
「どうしたんですか、おチビさん?」
  彼女は子猫に近寄っていった。

(……おチビさん?)
  それが、自分を呼んだものらしいと舞が気がつくまで時間がかかった。
 自分を呼んだ者の方に向き直って――舞は絶句した。
 白い服に赤い袴の、いつものいでたちをした壬生屋が、こちらに近づいて来ていた。
 その姿は、巨大で、圧倒的だった。
 舞は、恐怖した。

「ふぎゃぎゃふぎゃああ!」
 黒いおチビさんは、思い切り尻尾をふくらませて威嚇した。壬生屋は少し驚いた。この子のこんな反応は初めてだ。
 それでも壬生屋は、おチビさんとの距離を置いたまま、その場に屈むと、
「あらあら、どうしたんですか?」
と優しい声で呼びかけた。
 目の前にいる黒い子猫は、しばらくすると尻尾を元に戻して、おずおずと壬生屋の方に歩み寄って来た。そして、彼女の足元にまで来ると、
「にゃあ」
と顔を見上げて鳴いた。
 壬生屋は手をのばし、おチビさんを抱き上げた。
「大丈夫ですよ、おチビさん。大丈夫」
  胸の中にいるおチビさんが身じろぎし、まわりをきょろきょろと見回した。嫌がってるようにも見えたが、放そうとすると服に爪を立てて、にゃーにゃーとわめ いた。
(甘えんぼさんですね)
  くす、と壬生屋は微笑んで、
「……分かりました。じゃあ、一緒にいましょうか」
  そう答えて、黒いおチビさんを抱きしめた。胸で「ふにゃあ」と鳴き声がした。

(どうやらわたしは猫になってしまったらしい)
 そう結論づけた後の舞の判断は、次のようなものだった。
 ――まず、客観的には周囲が変化したのではなく、自分自身が突然子猫になってしまった。
  猫である以上、各種能力も限られたものになる。人語を解することは可能なようだが、こちらが鳴くことしかできない以上、会話はできない。
  当面の目的は決まっている。一刻一秒も早く、人間へと戻ること。原因の究明と、その抹消。そのための情報収拾。しかし、まずは自身の安全の確保が必要だろ う。
 ならば、現状において最大の保護者となりうる壬生屋未央から離れるわけにはいかない――。
 人に媚びたようなしぐさや声を上げることは、かなり恥ずかしかった。
 さらに、抱き上げられると、恐怖が来た。壬生屋がそう望めば、自分はあっけなく潰されてしまう、ということへの恐怖だ。
 しかし、
「大丈夫ですよ、おチビさん。大丈夫」
 壬生屋からのそんな台詞と、確かな抱擁とは、不思議なことに舞から恐怖を拭い去った。
 舞を抱きしめて、撫でて来る壬生屋の手は、優しくて暖かい。
 自分が安心し得る者に、抱きしめられる。
 そんなことは、舞には初めてだった。

  午前8時半。
 登校して来た1組の面々は、壬生屋の胸にいる黒猫を覗きこんだ。
「あれ、壬生屋。どうしたんだ、その猫」
  滝川が壬生屋の胸にしがみついている猫――舞を指差した。
「今朝からずっと、しがみついたままなんです。もう、困っちゃいますわ」
  そういう壬生屋の顔は楽しそうに笑っている。
「へぇ、可愛いねぇ。でも、うちの猫の方が可愛いな」
「お風呂入れて体洗うてキレイにしたら、えぇ値段つくで、きっと。可愛いなぁ」
  好奇心丸出しの巨大な顔が、ずらりと並んで舞の方を見ていた。それらの顔が、てんでに好き勝手なことを言いながら、「可愛い」という言葉を連発する。
「なぁなぁ、頭撫でさせてくれよ」
  滝川が手を伸ばしてきた。簡単に舞の首をひねられる程に巨大な掌が、眼前に迫る。
(……殺られる!)
  反射的に舞は前足の爪を立てて、滝川の手を思い切り引っかいた。ばり、という手応えが前足に残った。
「いてッ!」
  悲鳴を上げて、滝川は手を引っ込めた。今まで笑っていた顔が怒気を含み、舞をにらみつける。
「何しやがんだ、このドラ猫!」
と怒鳴りつける滝川を、瀬戸口が制した。
「よせよ、滝川。この猫は、自分を撫でる男を選ぶんだよ」
  そう言って、今度は瀬戸口が手を伸ばす。
(貴様に撫でられてやる義理はない)
  舞は再び爪を立てて、前足を振るった。しかし、瀬戸口の手と指は、その攻撃をことごとくを避けて、舞の頭を撫でて、猫耳をつまみ、ひげを引っ張った。
 舞は我を忘れ、瀬戸口の手の動きをひたすら追いかけた。
「もう、やめて下さいよ、みなさん」
  壬生屋が舞を引っ込めた。舞は我に返った。
(……猫的習性か……)
 早く人間に戻らなければ。その決意を新たにする。
 舞の頭の上では、壬生屋が瀬戸口をたしなめていた。
「いじめないで下さいよ。この子がかわいそうじゃないですか」
「心外だな、壬生屋。おれはこのチビちゃんとちょっと遊んだだけだぜ?」
「あなたはお遊びのつもりでも、この子にとっては命の危険を感じたものかも知れませんよ」
  ごめんなさいね、チビちゃん。そう言いながら、壬生屋は舞の頭と体をいとおしそうになで回した。舞はゴロゴロと喉を鳴らして、壬生屋の腕の中で丸くなっ た。
(……いかん。また猫的習性が……)
「芝村さんはまだ来ていないのかな?」
  速水が教室の中を見回した。
「あの人、猫がすごく好きなのに」
「気にすることねーって、あんなヤツ」
  滝川が吐き捨てた。
「あんなのに好かれたら、猫の方で迷惑じゃんか。な、そうだろ?」
  こちらを向く滝川に、舞は思い切りすごんでやった。嫌われたな、と瀬戸口が言うと、全員が笑った。
  つられて舞も笑ったが、「ふにゃあ」と鳴くことしかできなかった。

「何だ、その猫は? 芝村は休みか。まあいいや、授業始めるぜ」
  教壇で、本田節子教官がいつものパンクファッションで講義を始めた。
  黒いチビ猫の舞は、自分の机の上に座って、講義を聞いている。
  授業開始直前、「さすがに授業中までチビ猫を抱きしめているわけにはいかないのではありませんか?」と若宮が言ったので、舞は自分から壬生屋の腕を抜け出 し、自分の席の机に座った。
  滝川から「つまみ出せ」という意見も出たが、壬生屋が「この子は突然騒ぎ出すような悪い子ではありません」と反論した。
 そして、今、本田教官も猫のことを黙認する発言をした。舞は教室にいることを許される形となった。
(助かった)
  教室から追い出されずに済んだ――その事に、舞は安堵していた。
  現状が完璧に把握できない以上、壬生屋を始めとして、自分を守ってくれるであろう人間たちの中にいた方が安全だ。
(さて。これからどう動くべきか……)
  窓際にある舞の席は、陽当たりが良い。春の日ざしがぽかぽかと暖かくて、色々と方策を考えているうちに、舞の頭はいつか、こっくりこっくりと船をこぎ始め ていた。
(……眠い)
  そういえば、いつだか読んだ猫関係の本で「猫は寝るのが仕事」ということが書いてあった。そうでなくても、朝起きてからずっと、緊張の連続だったのだ。
  首を振っても、睡魔は離れてくれなかった。
  舞は目を眠たそうに瞬かせながら、教室の中を見回した。
  5121の人間達が席についていた。授業を熱心に聞いている者、聞き流している者、あるいは自分と同じように睡魔と闘っている者、などなど。
(安全が確保されているうちに、気力と体力を回復させておくべきだな……)
  舞はそう判断することにして、机の上で丸くなった。
  数分もたたないうちに、舞は寝息を立て始めた。


3.
  突然、周囲が騒がしくなった。
  バネ仕掛けのように舞の首が跳ね起きて、きょろきょろと周囲を見回した。椅子を鳴らして席を立つ者、背伸びをする者、さんざん我慢していたあくびをする 者、などなど。
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
  壬生屋が微笑んだ。
「もうお昼ですよ。一緒に食べます?」
  言われると、猛烈な空腹感が舞の中にわきおこった。
  朝から何も食べていない。
  と、室内にどたどたと滝川が駆け込んで来た。滝川は一直線に舞の方に向かって走って来る。
  舞の尻尾が膨らんだ。それでも背中を丸め、毛を逆立てて、
「ふしゃあああああっ!」
と威嚇する。
  が、滝川はその威嚇を無視して、舞の前に来た。彼は息を整えてから、舞の目前に紙皿を置いて、手にある缶の中身を空けた。缶からは、どろっ、とした、寒天 質で固められた物体が載せられた。
「遠慮すんなよ。食え」
  息を弾ませて、にかっ、と滝川が笑った。汗の匂いが漂って来た。
(わざわざ……走って買って来たのか)
  舞は、目の前に置かれた物体と、滝川の顔を見比べた。滝川の手にある空き缶には、「キャットフード」のロゴが貼ってある。
 滝川は、瀬戸口、速水、壬生屋と一緒に昼食を取り始めた。彼は、食事をしながら「猫相手にナンパするな」とか、「さびしい昼メシ」とか、「買い食いばか りだと栄養がかたよる」とか、ひどいことを言われている。
(なるほど。この者たちはわたしの陰口だけが話題というわけでもないのだな)
 そういう会話は、横で聞いていてなかなか面白かった。
 しかし、それはそれとして――。
 舞はキャットフードを前にして、動けずにいた。
 空腹だった。朝から何も食べていない。
 猫的嗅覚は、目前にある寒天質から芳醇な匂いを感じ取っていたし、口の中ではだらだらと唾液がわき出していた。食べれば絶対に旨い、という確信がある し、気力・体力回復のチャンスは逃せない、という理性的判断もある。
  しかし、
(やってしまったら、一線を超える……)
  そのことが、空腹と食欲と唾液を抑えていた。
  そんな事情が滝川に分かるはずもなかった。滝川は、自分がひたすらつっこまれる話の流れを変えようと、違う話題を探して舞の方を見た。彼の買って来た キャットフードは、全く口がつけられていなかった。
「てめぇ……オレの買って来たエサが食えないっていうのか?」
  多分に険悪なものを含みながら、滝川が詰め寄った。舞は背中を丸め、後退った。
  慌てて速水が、滝川をなだめにかかった。
「ね、ねえ滝川。その子が嫌いな猫缶だったんじゃないの?」
「前はこの子、これを美味しそうに食べてたんですけど」
  壬生屋が火に油を注ぎかねないコメントを発したが、それでも速水は、場を取り繕おうと試みた。
「猫は、猫はさ、簡単に舌が肥えちゃうんだよ。ちょっとでもいいもの食べちゃうと、不味いのはもう見向きもしなくなるんだよ」
「だからってよォ、せっかくオレがダッシュで買って来たエサ、食わねえことねえだろ」
「いやいや、実はこんなことあってさ……」
  速水は、猫の好き嫌いについての話を始めた。新鮮な魚を食べると、以後鮮度の落ちているものは匂いを嗅いだだけで舌もつけなくなったりとか、ちょっと奮発 していつもより高い猫缶を上げると、やっぱり以前の猫缶には見向きもしなくなるとか。
  家で猫を飼っている、というだけあって、速水の話には説得力があった。
「身勝手だねぇ、猫って」
  ふん、と鼻を鳴らしたが、滝川は機嫌を直した。
  ともあれ、その場は「猫ってそういうものだから」ということで収まった。
  速水が自分の弁当を少しより分け、キャットフードの横に盛ってやった。「もったいない」と滝川が声を上げたが、遅かった。
 舞は速水の弁当の山にかぶりついた。
(反応が全然違う)
 見事な食べっぷりに、全員が絶句した。
  ある程度食べた所で、舞は顔を上げ、滝川に向かって頭を下げた。
(すまぬ)
と声に出したが、
「にゃあ」
という鳴き声しか出てこなかった。
「せいぜい腹一杯食えよ、チクショー」
  滝川はむくれて顔をそむけた。

  全員が弁当を食べおわった後は、速水が話す猫の話題で盛り上がった。舞も速水の顔を見上げて、その話を聞いていた。
  ブータが教室に入って来たのはそんな時だった。
  彼は食べ物の匂いに鼻をひくつかせた。舞の隣に置いてある手つかずのキャットフードを見つけると、のそのそと歩き、巨体に似合わぬ身軽さで舞の隣に飛び上 がった。
  そして寒天質の塊にかぶりつき、二口三口食べてから、舞の方を見た。
(何だ、食べないのか?)
  頭の中に声がした。少し驚いたが、すぐに自分を取り戻す。どうやら、猫というのは目で会話をするものらしい。
 舞は答えた。
(いらぬ。ゆえあってそれを食するわけにはいかぬ)「にゃあん、にゃあん」
(そうか。……うん?)
  ずい、とブータが舞ににじりよった。猫にしては巨大な顔が、目前に迫る。今彼がとりかかっているキャットフードの匂いがした。
  再び頭の中に声がした。
(お前……いつもの黒チビではないな?  あの人間の少女に何をされた?)
(人間の少女?  誰のことだ?)「にゃあ?」
(あの陰気そうな少女のことだ。確か、イシヅ=モエとか言ったな……)
(……何かとは、何だ?)
(あの少女、何だかお前におまじないをかけようとしていたようだったな。シバムラ=マイという人間の少女の髪の毛をどこからか持って来て、昨夜、お前と一 緒に魔法陣の上に載せていた)
 何だと? 舞は猫目を細めた。
(……そのまじないの内容は?)
(お前をシバムラ=マイになつかせようとしていたらしかったが……途中で呪文が暴走したようだった。で、お前は一体何者だ?)
(シバムラ=マイとはわたしのことだ!)
  次の瞬間、舞は開いている窓から飛び降りた。体にはしみついている猫的習性が働き、さしたる衝撃もなく、地面の上に降り立つ。
「チビさん、どうしたんです、チビさん!」
  窓から呼びかけて来る壬生屋を無視して、舞は整備員詰め所に向かって走った。

  舞の思った通り、整備員詰め所には石津萌がいた。弁当はもう食べてしまった様子で、今はおまじないの本を読んでいる。
  詰め所のドアをくぐり、舞は思い切り萌に向かって怒鳴ってやったが、猫のわめき声にしかならなかった。
(これは一体どういうことだ!)「ふぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
  萌がこちらを向いた。
「……どう……したの?」
(一体わたしに何の恨みがある!?  芝村に対する敵対行動とみなしても良いのか!?)「ふぎゃあ、ふぎゃあ、ふぎゃあ!」
「……おまじないの……副作用……かしら?」
  埒があかない。
  舞は室内を見渡した。いいものがあった。壁際の机の上に置いてある情報端末。
  ひらり、と身を躍らせて、机の上に立つ。電源を入れて、エディタを起動。前足でキーを叩く。
〈お前は昨日、何をした〉
  そう入力してから、「にぁあ」と一声鳴いて石津を見た。
「……お前……一体……どうしたの?」
  怪訝そうな表情で、萌は舞の方を見た。おまじないやらオカルトやらを趣味としているだけあって、猫が人の言葉を解する程度では驚きもしない。もっとも、こ こで下手に騒がれても面倒ではあるが。
  さらに舞はキーボードを叩いた。
〈わたしは舞だ。朝起きたら猫になっていた。昨夜、貴様がわたしとこの黒猫の体に何かしたらしいということは知っている。さっさと元に戻せ〉
  萌はしばらく絶句した。
「芝村……さん……なの?  本当……に」
〈くどい。何度も言わせるな。さっさと元に戻せ〉
「ちょっと……待ってて……」
  萌は、開いていたおまじない関係の本のページを繰り、しおりを挟むと、次に自分の名前の入ったダンボール箱から分厚くて大きい本を取り出した。百科事典の ようなその本は、黒い革で表紙が装丁されていて、金文字で魔法陣が描かれてある。
  ページをめくって、とある見開きのところで手を止めると、机の上に置いて、文鎮がわりに救急箱を載せた。
  そして、さっきまで開いていたおまじないの本と、分厚い本とを見比べながら、
「ああ……そうだわ」
と、ひとりで頷いた。
「これって……やり方も呪文もよく似てる……このあたりって、最近魔力が集中してるから……暴走して・・・・・」
(だからと言って、なつかせるのと魂を入れ換えるのとを間違えることはないだろう!)
  ぎゃあぎゃあと喚きながら、舞はキーボードを叩いた。
〈能書きはいいから、さっさと元に戻せええええええええええええ〉
  ローマ字入力だったので、「E」のキーをひたすら連打した。
  萌は手早く机の上を片づけると、電灯を消し、詰め所のドアを閉めて鍵をかけ、窓のカーテンを閉め切り、自分の名前の入っているダンボール箱から模造紙やら ペンやらロウソクやらを取り出した。
  模造紙を机の上に広げ、不自然に赤いペンで、ブツブツと何か唱えながら、魔法陣を描く。ロウソクに火をつけて、魔法陣の中に立てる。ダンボール箱から「芝 村舞」と書いてあるポリ袋を取り出し、その中に入っている髪の毛を魔法陣の中に置いた。
 妙に手慣れたその動きに、舞は絶句した。自分の毛髪なんて、いつの間に採取されたのだろう?
(……この女への注意は強めた方がいいかも知れぬ)
  舞がそう思っていると、萌が呪文を唱えながらこちらを見て、手招きをした。
  少しためらって、舞は魔法陣の机の上に移った。
  あっさりと描かれたように見える魔法陣は、ずいぶんと本格的なものだった。描かれた輪郭やらルーン文字は、不自然に赤い。しかも、かすかに鉄の匂いがす る。
 舞は、深く追及するのやめた。
  舞はそろそろと魔法陣の中心に向かった。
  魔法陣の中心には、ふたつに分かれている、ルーン文字で縁どられた円が描かれていた。片方の半円には毛髪が――おそらくは舞の毛髪――が数本置かれてい た。
  萌は、何かにとり憑かれたように呪文の詠唱を続けた。
  やがて、両掌をゆっくりと陣の中心に向けると、何かをわしづかみにするように指を曲げて、直後、表記不能の奇声を発した。
  ――数秒後。
  魔法陣の中にいた黒いチビ猫は身を起こし、きょろきょろと周囲を見渡すと、
「んにゃあ」
と鳴いて、萌に身をすり寄せた。


4.
  ――自分を包む、白くて暖かいもの。
(……壬生屋?)
  白いものに身をすり寄せる。頭を撫でて欲しいと思った。しかし、甘える自分をたしなめる言葉も、あやそうとして撫でてくれる手も、返っては来ない――。
(……!)
  舞は跳ね起きた。見慣れている自分の部屋。慣れ親しんだ自分の手、足、体。
(……戻った……)
  安堵の息をついて、舞は再び布団に横になった。良かった。これでもう壬生屋の庇護や、媚びてまでして他人に頼らなくとも済む。
  これで、いつも通りだ。
  いつも通り――。
  いつも――。
「戻った……のか」
  さっきまでの、猫として過ごした時間を思い出す。布団に横たわったまま、舞は苦笑した。
  布団の温もりが、壬生屋の抱擁を否応なく思い出させた。あんな風に、人から抱きしめられたり、頭を撫でられたことなどなかった。自分が無力となって、あま つさえ庇護の対象にされたこともない。
  何人もの人間と一緒に食事をとることだってそうだ。からかったりからかわれたりする、構えなくてもいい他愛ない会話。見返りを求めることのない、自分への 好意。
  くすくす、と舞は一人で笑った。
  楽しかったな。そう思った。
(芝村でなければ、彼らはあんな風に他人に接するのか)
  壬生屋も滝川も瀬戸口も、いつもはわたしを毛嫌いしているというのに。わたしは猫以下ということか――。
  何かが胸に込み上げる。切なくて、痛い。含み笑いは止まらない。止めるわけにはいかない。さもないと、自分の中でバランスが崩れて、どうなってしまうか分 からない。
(消えてしまえ)
  舞は、込み上げてくる痛みに向かって、心で叫んだ。

  人心地がついてから、舞は身仕度をした。いつもの制服を着て、白いゴムで髪を結ぶ。
  時計を見た。時刻は午後4時。授業には間に合わないが、機体整備をやるくらいの時間はある。
  それに、石津萌に訊ねたいこともあった。
  舞は家を出て、学校に向かった。
  学校につく頃には、授業が終わっていた。尚絅学園の校舎を抜けて、5121小隊のプレハブ校舎、整備員詰め所へと向かう。
  途中、壬生屋とはち合わせになった。壬生屋の白い服の胸の部分は、黒く汚れていた。野良猫がずっとしがみついていた跡だった。
 ふたりの目があった。舞は頬が熱くなり、思わず目をそらしてしまった。しかし、壬生屋はいつものように敵意と警戒に満ちた視線を向けて来た。口は引き結 ばれて、あいさつすら交わそうとしない。
 ふたりは無言ですれ違った。
 すれ違ってから、舞は振り返った。壬生屋はこちらに背中を向けたまま、離れていく。
 その背中を見送りながら、声を立てずに舞は笑った。笑うしかなかった。

  舞が詰め所まで行くと、書類整理をしている萌の姿があった。彼女は舞の姿に気付くと、仕事の手を止め、観念したように向き直った。
「入るぞ」
  そう言って、舞は詰め所のドアをくぐった。陰気で卑屈な眼差しが、こちらを見つめている。
 舞は、萌をにらんだ。
「石津。そなたに訊ねたい」
「……何」
「わたしに猫をなつかせようなどと思った理由だ。なぜだ」
  萌はしばらく黙り、やがてぽつぽつと言葉をもらした。
「……あなた……猫……好きそうで……なのに……それ……我慢……しているから……」
「そなたは、わたしにお節介を焼く義理があるのか?」
「……別に……ただ」
「ただ?」
「ただ……いつもひとりぼっちで……わたしと同じに……見えて……ごめんなさい」
  舞は、目前の少女を見つめた。
  陰気な雰囲気。人の目をまっすぐに見ようとしない卑屈なしぐさ。おまじないなんぞに凝って、自分の内側にこもり、お世辞にも前向きとは言えない少女。正 直、あまり好きなタイプの人間ではない。
「こんな真似はもうするな」
  そう言うと、舞は萌に背中を向け、詰め所を出た。
 萌が残された。
 自分が拒絶されるなんて、今までに何度もあっているけれども、慣れることはできなかった。
 泣きたくなる気分をやり過ごした。萌は、自分の仕事を再開した。

 数分後。
 再び詰め所のドアが開いた。舞が立っていた。
「……芝村……さん?」
「いくつか言っておくことがある」
 舞は咳払いをすると、さっきと同じように萌をにらみつけ、喋り始めた。
「もうするな、と言った理由だが……危険過ぎるからだ。ああいうのはまじないとは言わぬ。もうひとつ」
 咳払い。
「そなたのおかげでわたしはずいぶん変な目にあわされたが、これについてそなたを恨んではおらぬ。そなたはきちんと謝罪をしたし、悪気があってやったわけ でもあるまい。
 それから、言いたいこと、言うべきことははっきりと口にするがいい。わたしはそなたに悪意も害意もなく、そなたもわたしに何も負い目はない。恥じ入ら ず、堂々とせよ。あと……」
(何を……言おうとしているのかしら)
 萌は舞を見つめた。舞は、腕組みをして、肩をドアにもたれさせている。今までまっすぐに萌を見ていた目が、少しそらされた。
「そなたは、その、いじめられていた、らしいが……そういう辛い孤独な日々にも負けず、今まで生きて来た。そのことに胸を張れ。それと……」
 舞は、少しためらった後で、そらしていた視線を再び萌に向けた。
 彼女は、あまり好きなタイプの人間ではない。
 と言って、嫌いというわけでもない。
「それと……わたしのことは舞と呼ぶように。以上」
 返事も聞かずに舞は詰め所を出た。
 萌は、舞のいた空間に向かって頷いた。


(終)

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