『はーふ・ぼいるど』


  その、高校の前に店を構えた喫茶店は、おれたち生徒にとってはなかなか貴重な場所だったりする。学校公認の、生徒が行っていい喫茶店 となれ ば、その価値は自ずと明らかになるだろう。
 おれがその店に入った時も、中はおれの学校の制服で一杯だった。カウンター席では、店員と顔見知りのやつらが鈴なりに座っている。おれは適当な ボックス 席に陣取り、今し方本屋から買ってきた文庫本を開いた。字面に目を落としながら、注文を取りにきたバイトのウェイトレスさんにブレンドコーヒーを頼んだ。 割りかし美人で、口説かれることも多いらしい。
 周囲はがやがやしている。今気がついたが、この店内はおれを含めて野郎ばかりだった。野郎が集って盛り上がる話題といったら下ネタしか有り得な い。
 あんまり進んで口に出したくないような言葉が耳にぽんぽん飛び込んできて、なかなか字面に集中できない。
 おれの横に、人の気配がした。もうコーヒーが来たのか。そう思って振り向いてみると、茅野冴子が通り過ぎる。と思いきや、おれのついてるボックス の向か い側に座ろうとした。
「ここ、空いてる? 」
「空いてるよ」
 茅野はおれの前に腰掛けた。座っていいとはまだ言ってない。断る理由もなかったが。
 彼女はおれの高校の制服を着ている。綺麗に鋭角を描いたおとがいのライン、セミロングの髪に、若干切れ長の目、それにかけられた銀縁眼鏡は、相手 に対し てかなりきつめの印象を与える。そして、他人に与える印象どおり、確かに彼女はぴりぴりしがちな性格をしていた。
(おい、茅野だぜ?)
(ああ、あの……)
 そんな言葉が、小さい声で店内のあちこちから投げかけられた。茅野にもそれは聞こえたはずだが、本人は無表情にメニューを取り、中を見る。おれ も、ペー ジをめくる手が一瞬止まった。
 制服を着た男たちの黄色い声をかいくぐりながら、ウェイトレスさんが注文を取りにきた。
「アイスティー」
 茅野は言った。ウェイトレスさんはスマイルを浮かべながら頷き、かしこまりました、と言ってカウンターの方に戻っていった。
 店内の視線が、一斉に茅野に向けられていた。店内有線BGMが白々しい。ひそひそと交わされる言葉。うかがうようにたびたび向けられる視線。茅野 は相変 わらずきつそうな印象を振りまく表情のない顔で、出された水をひとくちすすった。
 彼女の視線が、おれと合った。目線を文庫に戻してもよかったが、難癖をつけられそうな気配があったのでそのままおれは茅野を見ていた。
「何見てんのよ」
 彼女は苛立った口調で言った。結局難癖をつけられてしまった。
「正面にいきなり女の子が座ったんだ。男だったら当然気になるだろうが」
「わたしがあんたに気があるとでも思ってるの? 単純」
「初対面同様の相手に、いきなり喧嘩売る女なのか、あんたは」
「質問しているのはわたしよ。答えなさい」
「そこまで思い上がっちゃいないよ」
「何スカしたこと言ってるの。高校生がそんなこと言っても、全然さまにならないわね」
「あんたにそこまで言われる筋合いはない。喧嘩を売りたきゃ別を当たれよ。おれは今忙しい」
「何読んでるのよ」
 おれは文庫本のカバーを外して表紙を彼女に向けた。
「知らないわね」
「だろうな。あんたはどういう系統読んでるんだ。コバルト文庫か。それともX文庫……」
「花とゆめコミックス、りぼんマスコットコミックス。小説なんて字ばっかりでつまらないわ。あんたはそれ、読んでて面白いの?」
「実を言うと全然面白くない」
「やってて楽しい?」
「娯楽を求めて読んでるんじゃないさ」
「ヘンなの」
「余計な御世話だ」
(あんたのせいじゃないか)
 おれはそう言って文庫本の字面に目を戻した。そうやって、話を打ち切ったつもりだったが、差し向かいにいるとげとげしい女が気になって、字面に全 然集中 できなかった。
 しばらくしてから、彼女の方から話し掛けてきた。
「ねえ、あんた」
「なんだい」
「あんた、何も言わないの?」
「何も、って、何を」
「とぼけないでよ。2年生だったら、同じ学年でしょ。噂くらいは聞いたことあるでしょう」
「だから、何だよ」
「……ズーレとか、ユリとか」
「言って欲しいのかい」
「そんなわけないでしょ」
 今度は彼女の方から話を打ち切った。苛立った瞳はおれから逸れて、所在なげにテーブルに落ちる。周囲からは、刺すような、とは言わないまでも相当 不愉快 な視線が向けられている。それにひそひそと囁かれるあまり芳しくない噂。この店の中には、彼女の味方は誰もいない。9割方が、茅野を揶揄する敵と言って良 いだろう。
 少なくとも、おれは彼女の敵ではない。今までだって敵だったつもりはないし、これから彼女を敵にするつもりもない。だからと言って、味方というわ けでも なかった。少なくとも、彼女にとっては。
「お待たせしました」
 その声とともに、おれの前にコーヒーが置かれた。

 しらばっくれてはみたものの、茅野の噂ならおれも知っている。
 並みの男(最近では「並み」のレベルそのものが全体的に低下しているらしいが)を大きく凌ぐ度胸、押しの強さ、図太さなど、いわゆる従来「男らし さ」と 称されてきたものが、茅野にはあった。オトコオンナ、という呼称は彼女に関しては実際的確な表現だと思う。
 苦手とする者は多いが、頭の回転は速いし、筋は必ず通すしで、実は密かに人気が高い。写真部のやつが茅野の姿を隠し撮りし、陰で売りさばいたらも のすご い売行きを示したという話もある。ちなみにこれはその後茅野にバレて、写真を撮ったやつは本人から公衆の面前でつるし上げを食らった。さらに茅野は、ネガ 焼却と売りさばかれた写真の全面回収を写真部に対して要求し、要求を呑まない場合は職員会議で問題にしてもらう、と脅迫までした。
 ここまでとげとげしい性格になったのには、幼い頃から母子家庭で育った、というのがかなり大きいと思われる。で、そんな強気の臨戦態勢が、現在た だひと つ弱点を抱えていた。
 茅野には悪いが、こんな性格をしていて友達がそうそうできるはずがない。小学校、中学校と彼女は友達が少なかったらしい。もっとも、だからと言っ て人前 で何らかの弱みを見せたことは全然なかったという。涙を流すなど全くなかったそうだ。
 そんな茅野ではあるが、親友がひとりいる。凪浜美奈という。はっきり言って、茅野とは正反対の性格だった。落ち着いた、心優しい繊細さを持った女 の子 で、こっちもこっちで実はかなり人気がある。茅野と違って友達も少なくない。
 どういうきっかけでかは知らないが、そんな二人が仲良くなったのだから、世の中とは不思議なものだ。
 女の子の友情というのは、少なくとも野郎から見ればかなりべたべたしているものだ。人前で平気で手をつなぎ、トイレまでもどういうわけだか一緒に 行く。 今おれの目前にいる強気臨戦態勢女もまた、そういった所業に出た。普段はとげとげしさを伴っている茅野が、凪浜と一緒にいる時だけ、笑ったりふくれたりす る(怒るのはいつものことだが、「ふくれる」のとは方向性が違う)。そのギャップのあまりの激しさに、誰かがぽつりとこう言った。
「あいつら、レズなんじゃねぇか?」
 それは、笑いのタネにもならない単なる思いつきだったのだろうが、この考えは瞬く間に広まった。そして、今や茅野と凪浜は、固い絆で結ばれた愛し 合って いる者同士という評判になっている。今までに茅野が作った敵達が、ここぞとばかりに反撃しているつもりなのは間違いない。聞いた話では、そのあおりを食っ て凪浜も友達から色々言われたそうだ。言われているだけで本当に済んでいるのかどうか。
 もっとも、そんな中でも茅野は相変わらずで、卑屈になったりこそこそするような真似は絶対にしないでいた。普段通り、というやつだ。いじめがいが 一番な いタイプ。恐らく、程度はすぐエスカレートしていくことだろうが、鎮静化も速いだろう。
 考えるに、今が一番ピークな時ではないか。が、いつもピリピリしたところのある目前の茅野に、とりあえず何か変わった様子はなかった。要するに、 普通 だったらあまり近づきたくない人であることに変わりはない。
 もっとも。彼女についておれが知っていることなんて、ごくごく一般的な程度でしかないのだが。

 おれは文庫本のページをめくった。紙の擦れる音が神経にさわった。今さっき茅野に言った通り、全然面白くない本だった。当然だ。字面に視線を落と してい るが、本当は何も見てはいないのだ。
「茅野。お前、場所移った方がいいんじゃないか」
「どうして」
「こんな店にいて、わざわざストレス溜めることもないだろう」
「指図されるいわれはないわ」
「八つ当たりの的にされるのも嫌なんでね、おれは」
 目前には字面がある。が、正面で茅野が怒ったのは気配だけでも充分分かる。少し心臓がビビッてしまったのは認めなければならないだろうが、おれは 目線を 外の方に向けて、何とかそれを受け流そうとした。
「外からだって、ここには男ばっかりなのは分かるだろう。何でこんな店に入って来たんだよ」
「そんなのわたしの勝手でしょ。それとも、わたしが男に何か負い目でもあるっていうの」
「そこまでは言ってない。わざわざ腹立てるようなこと自分ですることもないだろうって言ってるんだよ。はっきり言って、ここにいるやつらのほとんど 全員 は、あんたの敵だ」
 ふん、と彼女は鼻を鳴らした。
「固まらなきゃ何もできないやつらなんて、どうってことないわね」
「あんたにとってはな」
「どういうことよ」
 おれは目を上げた。挑むような目でこちらを見ている茅野がいる。
「その通りの意味だよ。あんただけにとってはそれだけの存在でしかないけれど、あんたがそいつらの神経を逆なですればするほど、あんたの友達にはと ばっち りがいくんじゃないか」
 瞬間、さすがに彼女は硬直した。言い過ぎたか、と思った。
「あんたには負い目、はないにしても、弱みはあるだろうな。きっと」
「何よ、それ。わたしが何かやれば、わたしの周りにも影響があるっていうこと?」
「そういうことだ。あんたのファンだって、結構見てて辛いってことだよ」
「わたしのファンなんて、ずいぶん面白い冗談だこと」
 茅野は鼻で笑う。
「いたとしたって、ファンなんてそれこそ知った事じゃないわね。どうせ日和見きめこんでるやつらでしょ」
 その通り。まったくその通りだった。確かに、ファンなんていうのはそういうものだ。
「ファンはそれでいいとしても、友達なんかにはどうなのかな」
 話を戻すと、今度は凍らずに、ものすごい目でこっちを睨み付けた。
「それはあんたなんかの知った事じゃないでしょ」
 呻くように言った。歯ぎしりしてるんじゃないかとさえ思いそうになる。いや、彼女だって一人の時は、呻いたり歯噛みしたりしてるのかもしれない。
(まさか)
 おれはその考えを打ち消した。その時、彼女の目が一層強くなって、怒気を含んだ口調がこちらに叩き付けられた。
「だから出て行けっての、ここから? 冗談じゃないわね。あんたらに尻尾まいて逃げ出すほどあたしは落ちぶれちゃいないのよ」
 おれは視線をまた本に落として、彼女から逃げた。逃げるんだったらおれの方こそこの店からさっさと抜け出すべきだったのだろうが、おれは動かな かった。
 いや、動けなかったといった方がいいかも知れない。
(おい、あいつ茅野に捕まったぜ)
(あーあ、かわいそうに)
 ひそひそ声が聞こえてくる。同情と嘲笑が交じり合った口調。群れを作らないと何もできない者達。茅野と同じく、今やおれも孤立無援だ。茅野ににら まれ、 周囲からは見放されている。
 おれは目線を全然読み進められない本に向け、茅野のことを思った。彼女は爆発寸前だった。やがて来る爆風は、間違いなくおれを直撃するだろう。そ れはそ の実、周囲に向けられたものでもあるのだ。不安と恐怖と、そして密かな期待。爆発すれば、その影響でみんな黙りこむだろう。いい加減、おれも少しあいつら にはむかついていた。自分を賭け金にして辺りを黙らせることができるのなら安いものだ。
 おれは腹に力を入れて、次に来る茅野の怒りを待った。

「こんな店で悪かったね」
 横から突然声がしたので、おれはまたビビッた。見ると、人の良さそうな顔をした中年位のおじさんが、エプロンをしておれたちの席の側に立ってい る。
 ステンレスのトレーから、茅野の頼んだアイスティーが置かれた。
 彼は、この店のマスターだった。
 おれは突然のことに、顔を凍り付かせて何も言えずにいた。
「女の子ばっかりなんて日とか、男女比率が同じ、なんて日もあるんだけどね。悪かったね、今日は日が悪くて」
 彼はニコニコしながら頭を下げると、またカウンターの方に帰っていった。
 おれはすっかり毒気を抜かれてしまい、マスターを見送った。気がつくと、
 茅野も半ばポカンとしてその背中を見送っていた。そして、こっちに気付くと、すぐにまたきつそうな無表情に戻った。
 おれも何だかスタンスを崩された心持ちで、コーヒーをひとくち飲んで、文庫本に目を落とした。
 やがて、ぽつり、と彼女は言った。
「……悪かったわね」
 彼女はそっぽを向いている。最初は独り言かと思った。おれは思わず確かめた。
「……ひょっとして、謝ったのか」
 するとこちらを睨み付けて、
「悪かったわね。どうせ可愛げがないわよ」
 今度のは単なる開き直りのようだ。急転直下で機嫌が悪くなった茅野は、やっぱりまたそっぽを向いた。
 不思議な安堵と、肩透かしを食ったような気持ちで、おれは字面に目を戻す。
 今度は少し読み進められそうに思った。
 が、いくらも読み進まないうちに、茅野がまた、ぽつりともらした。
「……思い知りたかったのよ」

「何の話だい」
「ここに入ったわけ。わたしがどう言われているのか、しっかり思い知りたかっただけ」
 おれは思わず顔を上げた。
 彼女が、さっきおれの言った台詞に答えている。静かな口調。このことに気がつくまで相当時間がかかった。
 へらず口の延長で言っただけだ。何でこんな店に入って来たんだよ。茅野にさっさと店を出てもらうための台詞であり、質問としての意図は全然なかっ た。
 おれは、返す言葉もなく、ただ目前の茅野を見ているだけだった。今度は、茅野はこっちの視線に反応しない。アイスティーを覗き込んでいるその表情 は、と ても穏やかな、無防備ですらある、透明な哀しみを持った表情だった。
 おれの沈黙を促しと勘違いしたのか、茅野は続けた。
「……わたしが、凪浜さんのどれくらい負担になっているかをね、直接感じるには学校の中じゃまだまだなま温いわ。こういう所の、しかも男ばっかりが いる所 なら、周囲の生の声が聞こえると思った」
「聞いて、どうするつもりだったんだ」
 彼女は微かに微笑んだ。自虐的な笑い。
「凪浜さんと、離れるつもりだった」
 衝撃だった。おれは文庫に目を落とし、コーヒーをすすった。まだ熱い苦みが舌を微かに焼いた。

「……らしくないな。茅野冴子」
 おれは、例によって彼女を直接見ないままで言った。
「何が?」
「らしくないな、って言ったんだよ。いつも強気な女が、周りに負けて自分を殺すのか」
「……仕方ないわ」
 茅野は、アイスティーを少し飲んだ。わずかに彼女を見てみると、ひどく苦そうに顔をしかめている。
「……わたしだけじゃなくて、凪浜さんまで嫌な思いしているんだもの」
「それじゃ、認めることになるんじゃないか。自分たちが、レズでユリのドーセーアイだって」
「嘘ついてたね」
「? 何が」
「やっぱり噂知ってたんじゃない」
 おれは茅野の方を見返した。笑っている。やけくそじみたものを含みながら。
(ひどい顔しているな)
「怒らないのか」
「怒って欲しいの?」
(それであんたが、強くなれるのだったら)
「できれば勘弁してくれ。あんたを敵にしたくないんだ」
「許してあげる」
 おれは咳払いをした。
「……とにかく、周囲に負けて凪浜と別れる、じゃない、離れるってのは、あんまりいいことだとは思えないな。向こうもそんなこと、望んでないだろ」
「……そうかな?」
「もし、おれが凪浜だったら……」
 おれは唾を飲み込んだ。注意深く話した。
「おれが、凪浜だったら……茅野には、離れて行って欲しくない、って思うだろうな」
「どういうこと?」
「言ったとおりの意味だよ。仮に、あんたのせいで色々と嫌な目にあったとしても、それを一緒に耐えてくれる人がいるんだったら、我慢できる」
 目を茅野から文庫本にまた逃した。逃してから、付け加えた。
「……と、思う」
「言ってて恥ずかしくない?」
「聞いてても恥ずかしいなら、こんなことおれに言わせるな」
「わたしは『言え』って頼んだりした覚えはないけど」

「あんたが弱気でいるからだよ。おかげでこっちのペースが狂いっぱなしだ」
 ふーん、と茅野は返事をしたきり、しばらく黙った。視線を感じた。正面に座った女の子がこっちを観察しているのが分かった。あまり、いいものじゃ なかっ た。
「信じてるの? あんたは噂を」
「別に、おれにはどうだっていいことだ」
「どうだっていい人間に、何で恥ずかしくなるようなこと言わなきゃならなかったの?」
「知るか」
 少し言葉が荒れてきた。語調にとげとげしさがこもったかも知れない。茅野はしばらく返事をせず、その沈黙がわずかにおれを緊張させた。
 が、ややあって、
「……自分でも分からないのよ」
 そんな、さっきのような静かな口調が返ってきた。
「何が分からない」
「わたしがね、凪浜さんをどう思ってるのか、っていうこと」
 胸から腹にかけてが、重くなった。
「……いいのか、そんなことおれなんかに言って」
「聞きたくないなら聞き流してもいいわよ。わたしが勝手に喋ってるだけだから」
 おれはそれには答えず、ただ一行も読んでいない小説のページをめくった。
 その手付きが覚束なく、ページの角が折れた。
 責任重大だ。責任の責の字は「責め」とも読むことを思い出した。
「凪浜さんが、わたしは大好き。一日のうちで、あの人と一緒にいる時間が一番楽しい。凪浜さんの笑顔が好きだし、凪浜さんの力になりたい。そう思っ てい る」
 ずいぶん素直に認めるものだ。そう認めるまで時間がかかったのかも知れない。そしてそれは、どんな時間だったのか。おれには分からない。分かりた くもな い。
「でも、これって、恋愛なのかどうかって自分でも分からない。大体、人を好きになるのって、そういうものでしょ? 友情とかだって、相手を大事に思 うもの なんでしょ」
 言われてみれば、確かに、そういうものだと思う。が、少なくとも友情ならば、そんなことをわざわざ意識する必要はないとも思う。口に出してみるな んて論 外だ。が、それは言わずにいた。おれだって、人生をまだ十数年余りしか生きてない。この考えも、どこまで信用できるか分かったものじゃなかった。
 彼女の質問をおれははぐらかした。
「そこまでしっかり考えてるんなら、他人の言うことなんか無視しろよ。あんたと、凪浜との間で考えるべき問題だろう。ましてやおれなんか、あてにし ない方 がいい」
「あてにしたわけじゃないわ。ただ聞いて欲しかっただけ」
 次の瞬間、めまいがした。
 ――おれなんかに、か。話すべき相手を間違っている。あんたがそんな風に心を打ち明けるべき相手は、凪浜なのじゃないのか。友情か恋愛感情かは別 と
して、心を開いていい特別な人間はおれではなく、凪浜であるべきだ。
 らしくない。全くらしくないぞ、茅野冴子。いつも強気で退くことを知らない人間じゃなかったのか、あんたは。いつも鎧をまとって、容易に他人を近 づけさ せない人間じゃなかったのか。一人だけで、自分だけの足で立っていける、誰かに寄り掛かったりしないで生きていける人だとおれはあんたを思っていた。
とげとげしい鎧の奥が、こんなにも真っ直ぐで、危ういものであったなんておれは知らなかった。いや、知りたくなかった。
 何でおれにそこまで自分をさらけ出す。弱い自分をどうしておれなんかにさらけ出すんだ。あんたにとって、おれは友達ですらなかったんだ。あんたを 強い人 間と信じていた、エキストラでしかなかったはずだ。たまたまこの店の中で、誰ともツルまずあんたの悪口を言わないでいただけの人間なのに。
 おれは強くなりたかった。あんたのように強い人間になりたかった。あんたが、何者にも退かない、自分の意志をいつでも貫き通せる人だと信じてい た。――
 怒りとも悲しみとも言えない、ただ胸を刺すような感じがあった。自分でわずかに震えているのが分かる。茅野に対して裏切られたと思うのは、それこ そ筋違 いだった。茅野のその性格や人柄の話を誰かから聞くたび、嫌な女と思うと同時に一種の憧れを感じていたのは、それこそおれの勝手な思い込みだ。おれの、あ まり近づきたくないと思いながらも、茅野のいるレベルには近づきたいと思い、あまつさえこんな小説を読もうとしているのは、決して茅野のせいではありえな かった。
 何かが爆発し、目前の茅野に向かっていきそうなのを全力で堪えた。同情だけはしたくなかった。それは茅野を侮辱する行為だと信じている。仮に、彼 女がそ れを求めていたとしても、それを与えていいのは凪浜だけだと信じていた。
 何でおれは、茅野の中に踏み込んでしまったのか。そして茅野はどうして踏み込ませたのか。踏み込みたくなかった。茅野ならば、今いる窮地も大した ことが あるまいと信じていた。信じていたかった。彼女が追い詰められ、助けを求めているだなんて考えたくもなかったのに。茅野の力になれるほどおれはできた人間 でも、強い人間でもない。これからは、そのことを強烈に思い知らされなければならない。

「あ、こんなところにいたの?」
 おれの横で落ち着いた感じの声がした。見ると、髪の長い女の子が立っていた。カバンを両手で支えて、柔和そうな眼差しをさらに細めて柔らかい微笑 みを浮 かべながら、彼女は茅野を見ていた。おれに気付き、会釈する。こっちの方がつい気後れしてしまう。
 凪浜だった。茅野の表情が和らいだ。彼女はアイスティーを一気に飲み干すと、立ち上がった。
「茅野さん。こちらは友達?」
「ううん。ナンパしてたところ。フラれちゃったわ」
 くす、と凪浜は笑った。気品のある雰囲気。お姫さま、という形容がよく似合う。こんな女の子が苦しんでいるのだとすれば、茅野ならずとも確かに自 分を賭 けたくなる。
 じゃあね、と茅野はおれに手を振り、凪浜と一緒にカウンターに向かった。
(ねえ、前に頼んでた新しいアルバムのダビング出来たけど?)(本当? 嬉しいな)そんな会話をしている二人は、ただの女の子の友達でしか有り得な い。
 不覚にも、おれはそれを見て微笑んだようだった。
 彼女らはカウンターで支払いをしている。その時だった。
「あ、ユリの花が咲いてるぞ」
「ホントだ。女のふたり『ズレ』がいる」
 どこかで誰かがそんなことを言った。
 その瞬間、ぴくっ、と、支払いをする茅野の動きが凍り付いた。その表情が辛そうに一瞬歪むのがおれの席からでも分かった。茅野だけではなく、凪浜 も。
 そしてふたりは出ていった。「行こう」と茅野は促し、凪浜の手を引いた。

 店の中のあちこちで、あんまり聞いていたくない話題で話が盛り上がっていた。茅野と凪浜。ふたりの関係がどこまでいっているのか。話している者た ちは、 そんなことがどうだっていい問題だとは思わないのだろうか。
 悔しい、と思っていた。無視しようとしたができなかった。茅野と話さなければ、感じなくてもいい感情だった。本当は今までだってずっと感じていた 思い だったのかも知れない。が、今まで通りにごまかすわけにはいかなくなった。
 あいつが苦しんでいる。が、そのために何ができるか。何もない。仮に、今茅野と凪浜にバカなことを言ったやつらに喧嘩を売ったとしても、返り討ち にあう のがオチだ。逆に、おれと茅野をネタにした、さらに妙な噂が広がることになる。それはさらに、あいつを苦しめる結果になるだろう。
 それは確かに自己正当化の弁明だった。糾弾されてしかるべきものだった。けれども、何ができるのか。結局はそこに戻っていく。堂々巡り。
 予想していた通りの痛みは、予想よりも遙かに早く、そして鈍くおれの中に生まれた。
 おれは茅野に何を言ったんだろう。振り返ってみれば、どれもこれも、どこかで聞いたようなきれいごとでしかない。困難から逃げるな。周りに負けて 自分を 見失うな。一緒に耐えてくれる人がいるなら、辛くても我慢できる。小学校の道徳の教科書に書いてあったことだった。
 また、めまいがした。くらくらする。
 ――あちこちで語られている数々のきれいごと。恐ろしく薄っぺらな、鼻で笑われるような台詞。こんなことを聞かされて本気で信じるヤツなんて今時 い
るのか。
 一緒に耐えてくれる人がいるんだったら、辛くても我慢できる。自分で言った台詞だが、説得力がかんじられなかった。
 知らず、おれは歯を食いしばっていた。歯が擦れ、口の中でぎりぎり鳴っていた。涙が出そうにもなる。
 店内の一角で、一際大きな笑い声がした。さっき、茅野と凪浜をはやし立てたやつらだった。笑い声は割れ鐘のように、おれの脳裏で不快な反響を残し た。
 コーヒーを飲み干した。砂糖もミルクも入れずに飲んだので苦かったが、無理やり喉に流し込んだ。
 文庫本を閉じた。茅野のような強さを身につけようと思って、ハードボイルドというやつに手を出してはみたものの、どうやらおれには合いそうにな かった。 レイモンド・チャンドラーとかいうやつが書いた、私立探偵フィリップ・マーロウ。強くカッコいい男の象徴として名高いらしいが、何でこんなのが長く読み継 がれているのかおれには分からない。
 おれは立ち上がった。
 耳に入る噂話の中には、茅野と凪浜の中に早々とおれを放り込み、無責任に話をでっちあげているネタもあった。噂は勝手に増殖し、暴走して膨らんで いくも のだ。いずれおれも、本格的に低俗な話題のネタとなるのだろう。
 おれは茅野に同情しない。同情なんてしてはいないし、したくもない。その立場を悲しみ続けるつもりは 毛頭なかった。むしろ笑ってやらねばなるま い。
 彼女は一体何を恐れているのか。理不尽な重圧を彼女は今まで跳ね退けてきたはずだった。絶えず臨界状態に保った怒りというやつで、立ちふさがるも の全て を叩き潰してきた。その強さを失った以上、彼女はもはやおれの憧れた人ではない。かつての彼女に憧れて求めたマーロウとかいうヒーローの姿は、もはやおれ には不要のものだった。
 下品な笑い声がした。それはおれの癇に触り、思わずその連中を睨みつけた。先程カウンターにいた茅野と凪浜をはやし立てたやつらだった。いや。本 当にそ の笑いを今おれは聞いたのか。リフレイン、フラッシュバック、あるいは白昼夢。記憶の中にあるものが、意識の領域へと侵犯したものではなかったのか。
 しかし、そんなことはどうでもいい。かつての茅野であるならば、ああいった不快な連中はただでは済まさなかったのではないか。今のおれは、あいつ らに我 慢がならない。
(見てろ……)
 おれは深呼吸をすると、あまりあてにできない拳を震わせ、その方向に向かって歩き始めた。




ひーと・しっとに続く
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