『ひーと・しっと』
 
  反省文がなかなか先に進まない。おれはため息をついて、原稿用紙の載った勉強机から体を背けた。
  本気で思っちゃいないことをぐだぐだ書くのは、おれの得意とするところではない。気分はくさってくるし、つまらないし、何よりも時間の無駄だ。もっとも、押しつけられてはいるものの、他にやることがあるのでもない。休憩を取ったらまた再開しなければならなかった。
  椅子から立ち上がり、声を出して伸びをした。自分で聞いて、うめき声のように感じた。声は、おれ以外誰もいない勉強部屋に、そして、おれしかいない家の中の空気に吸い込まれ、消えた。
  静かだった。両親は今は働きに出ている。今日は平日だったが、開校記念日や何やらがあったわけではない。茅野や凪浜は今ごろは数学、おれのクラスは体育をやっているはずだ。
  おれがこうして、自宅で反省文を書かされているのは、停学を受けているからだった。喫茶店「レッド・モビール」で起こした乱闘騒ぎが学校に知られてしまい、先生から派手に叱られて処分を受けたと言うわけだ。学校の掲示板にはおれの名前が貼り出され、晒しものになっているに違いない。それが、とち狂った挙げ句に出したパンチの報いだった。
  あのとき、こっちが出したパンチ数発と引き換えに受けたものは他にもある。こうして今書かされている反省文。倍以上になって返ってきたパンチ。「あぶないヤツ」というように変わってしまった周囲からのおれの評価。派手に怒った両親の叱責。処分が知られてから、茅野がおれに向けた眼差し。
  馬鹿なことをした。そう思っていた。あのときはあまりに気持ちが高ぶっていたのだ。多勢に無勢ということや、必然的に生み出されるであろう結果、といったことを考える余裕が失われた。「しっかりしてなきゃ生きては行けない、優しくなければ生きていく資格がない」なんていう浸りきった言葉があるが、少なくともおれには生きていくことなんてできそうにはない。生き延びることも、資格も今のおれには無縁なものだ。
  茅野に対するヒロイズム。おそらくはそれが、あの時殴りかかった動機の最たるものだろう。
  幼稚なものだった。学校の廊下で、茅野がおれを見た時の表情。正直に言って、あの心配げな表情に、一種餓鬼じみた喜びを感じたのは確かだった。
  しっかりしていないから生きてはいけない。優しくもないから生きていく資格もない。嘆息と苦笑が同時にもれた。確かにおれには、反省すべき点は数多くあった。が、それらの全てを人に公表できるほどイカれた人間でもない。もっというなら、反省して自分を高めていくなんて言う謙虚さやらしおらしさなどともおれは無縁だった。もっとも、こんなことを真っ正直に書いたりしたら停学がさらに延長するので、そのあたりは適当にやらなくてはなるまい。
  おれは再び机に向かい、読む相手が喜びそうな事柄を書き始めた。
  その瞬間、嫌な臭いがした。
 
  最初に呼び鈴が鳴った時、そら耳かと思った。原稿用紙にすべらせる手を止めて、耳をすます。
  二度目に呼び鈴が鳴ったときは、時間からみて何かのセールスかと思った。
  無視を決め込んでから、もう一度時計を見ると、ちょうど学校が終わる頃合だった。
  三度目が鳴らされたとき、おれは玄関まで向かっていた。ドアを開けて、一瞬言葉を失った。
「こんにちは」
  そう言ってドアの前の彼女、凪浜美奈は微笑んだ。長い髪と、胸に抱えた何かの花束が、会釈につられてわずかに揺れる。
「……やあ」
  我ながら間の抜けた返事をする。
(茅野かも知れないなんて、どうして思ったんだ)
  うつむいて、心のなかで苦笑した。おれにしてみれば不意うちをかけられた感じだった。まあ、全くはずれと言うわけでもなかったが。
  何しに来たんだ、と言おうとして顔を上げた瞬間、2度目の不意うちがやってきた。目の前に、穏やかな色彩の花束といいにおいが突き出された。
「はい」
  凪浜は言った。おれは自分のペースを取り戻そうとした。
「……どうしたんだ、いきなり」
「見に来たの。あなたの様子」
「何でだ」
「気になったから。私たちのためにひどい目に会った人のこと」
  彼女は花束を突きだしたまま答える。おれはそれを受け取らないまま、少し笑って答えた。
「……勘違いするなよ。何となくムカついたから、思わず喧嘩を売っただけだよ。派手に返り討ちにあったけど」
  凪浜は花束を自分の手元に戻した。
「あなたがそういうことを突然する人だとは思えないけれど」
「突然事件を引き起こすヤツなんてみんなそうだよ。『あの人が、まさかあんなことをするなんて』って、近所の人は言うもんさ」
「さえちゃんは、あなたをそういうふうには見ていなかった。驚きはしたけど、納得はしてくれてたみたいだったわ」
  さえちゃん。その呼称が茅野冴子を指していることに気づくのに時間がかかった。
「……茅野が?」
  凪浜は頷いた。
  そうか。あの茅野のことをお前はそう呼んでいるのか。
「上がっていくかい」
  おれは家を振り返った。
「何もないけどさ」
  凪浜は微笑みながら頷き、玄関に上がった。
  居間に凪浜を通す間、おれの脳裏ではさっきの呼称が反響していた。さえちゃん。あのおっかない、触ると切れそうな鋭い女をそんなかわいい名前で呼んでいる。茅野自身、そのような呼ばれ方を決して嫌がってはいないだろう。そして、茅野をそんな名前で呼んでいい人間は凪浜だけに違いなかった。おれなんかがそんな風に彼女を呼んだら、ただでは済むまい。
  仕方無かった。所詮、おれは彼女にとってアウトサイダーに過ぎないのだから。
  その時、またどこからか腐臭が漂ってきた。
 
  コーヒーをいれて、凪浜の前に置いた。
  ありがとう、と言って彼女はカップに手をのばし、指が触れた瞬間すぐに離した。
  それを無視して問いかける。
「学校の方、今どうなってるんだ?」
  おれは自分の分のコーヒーを一口すすった。カップを持つ指が熱くてたまらない。すすったコーヒーも口の中を焼いている。
(人を呪わば、ってか)
  こうなるのは分かってたはずなんだが。
  やがて、凪浜は口を開いた。
「少し、変わったかも知れない」
「どんな風に? おれまで噂に巻き込まれてるか」
  凪浜は困ったような顔をして黙り込んだ。言葉を選んでいるらしかった。
  おれは無理に答えを促さなかった。黙ったまま、彼女の困った顔を見つめ続ける。重苦しいものがおれの中にも沈澱していく。
  やがて、彼女は口を開いた。
「さえちゃんの……」
「茅野の?」
「さえちゃんの、笑っている時間や安心している時間とかが、増えているわ」
  おれは口元を歪めた。
「当然だろう。あんたが側にいるんだから」
「それだけじゃない。信じる人が、信じられる人ができるようになってきたの」
「……へえ?」
「噂、あなたを巻き込んでひどくなっている。直接口に出したくもないものだってあるわ。でも、それだからこそ、さえちゃんを支えようって人が、増えてる」
「……」
  話している間に、凪浜の顔には、うっすらと笑顔が浮かんできた。おれは目をそらし、くそ苦く熱い焦げ茶色の液体を口に含んだ。
「もともと、さえちゃんって人気あったから……。でも、そういう人達って、きっと信じられる。そう思う」
「そうかい。良かったな」
「お礼いわなくちゃ、って思ったの。わたしも、さえちゃんも」
  無邪気な笑顔がおれに向けられていた。純粋で、穏やかな。あの茅野が、ひとりぼっちになるのを覚悟で守ろうとした少女。おれにも茅野の気持ちが分かるような気がする。この笑顔を守るために命を賭けねばならないのなら、それは男の本懐という気もする。
  ただ。それがこんな時。ひねくれた人間にとって。ひどく神経を逆撫でされるものであるのも確かなことだ。
「おめでたいやつらなんだな、あんたらは」
  おれは吐き捨てた。置いたコーヒーカップがソーサーに当たって、がちゃん、と音を立てた。
「ずいぶんと楽観的すぎるぜ。あの気の強い女が、みんなを巻き込むことに無頓着でいられると思っているのかよ」
  腐臭が一段と激しくなった。自分の中身がだんだん腐っていくのが分かる。腐敗が激しくなっていく理由は分かっている。目の前に、まぎれもない太陽が輝いているからだった。陽光が、汚物を白日のもとにさらけ出し、腐敗を早めているのだった。
「あの茅野が、あの時どうしてあんなところにいたと思ってるんだ? あんたと離れるふんぎりを自分の中でつけるためだったんだ。いやらしい噂から、あんたを守りたいから、ってな」
  凪浜の表情が瞬間こわばる。ざまあ見ろ、と、おれの中で何かが喝采を上げた。
「確かに、彼女を力づけることは必要なことさ。けど、信じる信じないだけであいつの力になれるなんてのは思い上がりさ。そこまでみんなの白黒ついてる状況だってことは、さぞかし茅野の、いや、あんたら茅野たちの周りには緊張状態があるんだろうな。今の茅野の気持ち、考えてみたことあるか。かえって多くの人を巻き込むことになっちまって、辛くて仕方ないだろうさ」
「でも、あなたはさえちゃんに言ったんでしょう? それだからといって、離れちゃいけない、そんなこと向こうも望んでいない、って」
 
  三度目の不意うちだった。ものの見事に足元をすくわれた感じだった。
  こわばっていたはずの凪浜の顔は、いつの間にかまたうっすらと笑顔が浮かんでいた。戻った、わけではなかった。さっきのものとは違う、いくらか暗いものが混じっているのが分かる。やりきれなさと哀しみ、そして憐れみ。
「さえちゃんが、どうしてあなたの前に座ったのか、本当によく分かるわ」
  凪浜は目を反らして、くすっ、と笑う。それは、彼女が初めて見せる苦笑という笑いだった。
「さえちゃんとあなたって、ホントよく似てる」
「……おれが?」
「悪い子ぶって、他人との距離を広げようとする。そのくせ、他人の心配もしていて……」
  おれの中で汚物が煮え立ち始めた。臭い。反吐が出る。
「あなたがいったことは、あのあとすぐにさえちゃんから聞いた。さえちゃんが、わたしから離れるつもりだったのを知ったときは、すごくショックだった。あなたの言った通り、そんなのわたし望んでないもの」
「そうか。だから何だって言うんだ」
(言うな)
「辛くないって言ったら嘘になるけど、でも、あなたの言った通り、信じられる人がいるなら耐えられる。どんなに辛くても」
(それ以上、貴様の口から何も聞きたくない)
「それを茅野は納得したのか」
「したわ」
「嘘だ」
「本当よ」
「どうしてそう言いきれる」
「さえちゃんが、自分でそう言ったから。わたしを信じるって、そう言ったから」
  次の瞬間、強烈な敗北感がおれの中に生まれていた。返す言葉はなかった。茅野と凪浜は、信じがたいほどに強い絆というやつで結ばれている。
(……おれに……何の用が……あるんだ?)
  体内に力がみなぎって行くのが自分でも分かった。汚れた、暗い、マイナスのエネルギー。胸の底にある汚物のプールに火が点いたのだ。それが激しく燃え上がっていた。全身を焼き尽くそうとするほどに。
「あのとき、どうしてさえちゃんがあなたの前に座ったか、分かる?」
「知るかよ」
  聞きたくもない。凪浜の口からは聞きたくない。しかし彼女はしゃべるのを止めない。「あなたが、私たちの周りの人達の中で、特別だった。休み時間の時も、噂話には加わらないで、ひとりでずっと本読んでいた。あれって、ハード・ボイルドっていうやつだったんでしょ? その姿が、さえちゃんの印象に強く残っていたのよ」
(うるさい、だから何だっていうんだ)
「男の子の中で、たったひとり、信じられるかもしれない人だったのよ。あなただけが」(……!)
「さえちゃんが、あなたに何を求めていたのか……それは分からないけれど」
  何で、なんでお前がそういう事を話すんだ。
(おれと茅野との間の事を、どうしてお前が知っているんだ。)
  理由は簡単だ。茅野と凪浜は強く信じ合っている。愛し合っている、とはあえて言うまい。同性愛とか、ましてやレズなんて言葉で茅野をくくってしまいたくなかった。
  が、しかし。
  おれは目の前の女を見つめた。気遣わしげな眼差し。心配そうな表情。汚れの無い、一点の曇もない無垢な少女。
「そうやって、……茅野とも仲良くなったのか」
  おれは呻くように言った。
「そうやって、相手の心の中にずけずけ踏み込んで、丸め込んだのかよ。あんた自身はとってもいいことやっているつもりなんだろうがな、教えてやるぜ、それは独善ていうんだよ。茅野がいつ、お前に自分を知ってくれと頼んだんだ。そこまで人の心を見すかせるのは大したものさ。さぞかし気持ちのいいことだろうな。正しいことやってるっていう自信があるんだから。あんたにとっては、たとえ相手が苦しんでも、それが相手のためなんだから。心をのぞかれて、恥ずかしくてのたうち回ってるのを見下すのはどんな気持ちだい。どうせおれも茅野も、あんたに比べれば素直じゃない愚かな人間さ。だがな、凪浜。言ってやるぜ。愚かなおれたちに比べれば、てめえは醜い人間だよ」
  言い切って、自分が笑っているのが分かった。どんな笑いかも分かっていた。くそったれのクズ野郎だけが浮かべられる笑いだった。
  さすがに。
  正面からここまでめちゃくちゃを言われた事は彼女には無かったらしい。凪浜は目を見開き、口をわずかに開けてこちらを見つめ返している。ひょっとしたらふるえているのかもしれなかった。おれの中に沈澱した黒くよこしまなものが煮え立ち、うねり、興奮している。自分が腐っていくのが実感できる。
  人を呪わば穴ふたつ。凪浜への言葉は、そのままおれをも打ちのめしている。これ以上何かを口に出す事が、凪浜だけでなくこっちを押しつぶすものであることなんて、とっくに分かっている。知った事か。こいつがどうなろうと、おれがくたばっちまおうと、それで世界がどうなってしまうわけではないのだから。
  自棄的になっているおれがいる。目前に太陽。おれの中に汚物。それを照らし出す陽光と、じりじりと焼けていくゲロ、ゴミ、糞のかたまり。やけくそとはよく言ったものだ。 やがて、凪浜は声もなく立ち上がり、居間を出て行った。玄関のドアが開き、そして閉じる音がした。
 
  後味の悪い達成感と、むかつくような敗北感、惨めさが満ちていた。
  自然と、おれの口に笑い声が浮かんできた。それは次第次第に甲高く、大きくなっていった。歯車が切れたようだ。このまま、狂って死ぬ事ができたらどんなに幸せだろう。
  ざまあ見ろ。そんな声がおれの中で走り回っていた。が、それがたった今姿を消した凪浜に対してではなく、おれ自身に向けられたものであるのを知っていた。
  ??ざまあ見ろ。お前ごときが何をしたところで、茅野の本当の力になんざなれるはずもないのだ。ばかばかしい。お前だって知っていたはずだろう。彼女が自分の胸襟を開くべき相手は凪浜でなければならない。お前だって、迷惑だったはずだ。突然、茅野に自分の抱えていたものを見せつけられて、戸惑ったはずだろう。
  分かっているはずだ。凪浜でなければ、彼女を受けとめる事などできやしない。あの、穏やかで素直な心根の持ち主でなければ、茅野を受けとめる事など到底できるわけがないのだ。天使のような、慈愛に満ちた目を持つ者でなければ……。
  気がついたら、涙が流れ出している。笑い声も、すすり泣きに変わっていた。
  涙が浄化の証なんて考えたくない。おれは狂っているだけだ。あの時、喫茶店で喧嘩を売った時のように。
(さえちゃんとあなたって、ホントよく似てる)
  凪浜の台詞が、ひとたびおれの中に響いた。そうとも。そうだとも。ぶっこわれてしまうまえに、それだけは認めなければならない。
  おれもお前に惹かれているのだから。
 
  結局、おれは壊れはしなかった。つまらない事に、どうやら狂いもしなかったらしい。ただ、疲労感だけが澱のように残っていた。血流が粘っこくなって、けだるそうに全身を循環しているような気がする。
  目を上げた。かつてそこには凪浜がいた。おれが踏みにじり、引っかき回して、追いだした。
(茅野がこのこと聞いたら……どんな顔するかな)
  軽蔑するか。それとも怒り狂っておれとは二度と口をきかなくなるか。
  いいね。実に興味のある問題だ。彼女なら、おれをぶっこわしてくれそうな気がする。おれはまた腐臭を感じながら、立ち上がろうとして気づいた。
  彼女の持ってきた花束が、そのままそこに置いてあった。
  おれはその花束を手に取った。名も知らない花が穏やかな色で、朗らかそうに咲いている。人の気も知らないで、ずいぶんときれいに咲いているものだ。
  それを見つめる俺の目は、おそらくどこか病んでいたに違いない。一瞬、投げ捨てようかとも思った。が、苦笑して鼻を鳴らして、結局おれは花束を戻した。そして、家の押入から花瓶を探しだし、水を入れて、花束を差し込み窓際に置いた。
  ほどなくして、雨が降ってきた。どんよりとした暗い空を背景にすると、穏やかな色でも花弁の色彩は映えていた。
  室内は暗い。窓から暗い光が射し込んでるのが分かるくらいだ。チンダル現象。光の通路。電灯をつけようと思ったが、そのままにして窓際の花を見つめることにした。
  室内から見て逆光になるその佇まいは、自分の落とした影の中に、色が咲いているようにも見える。
  おれは床に座り、膝を抱え、じっとしたままで、上目遣いにその花を見つめ続けた。


(了)
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