「ドラマ」:君がため

 AM2:45。何となく目が覚めた。
(……喉渇いたな)
 圭介はベッドから降りると、自室のドアを開けた。
 真っ暗な廊下に出てから、隣のドアを見る。隙間から明かりが漏れている。
 どうやら妹の美奈は、まだ頑張っているようだ。
 秋にさしかかろうとしている今ごろは、マジメな受験生にとっては追い込みの時期。
 つい2年前には、圭介自身がくぐり抜けた道だった。
 邪魔をしないように極力足音を忍ばせて、階段を下りる。
 小さなダイニングに入って、明かりをつけた。明暗の反転に、一瞬目が眩んだ。
 冷蔵庫を開けて、牛乳パックを取り出した。キッチンから自分のマグカップを取って、テーブルに置く。
 テーブルの上には両親からの置手紙。「仲人の葬式で、急に出かけなければならなくなった、夕方帰る」旨、書かれている。
 今、家には圭介と美奈の二人きり、というわけだ。
(……夕方までカップラーメンか)
 ため息をつきながらマグの中に牛乳を注ぐと、階段の上の方で気配がした。
 気配は階段を下りてきて、ダイニングへと入ってきた。パジャマ姿でショボついた目をした美奈が、ポニーテールに結わえた髪をガシガシとかいて圭介の方を 見た。
「どうしたの、兄貴?」
「喉が乾いてな。……調子はどうだ?」
「んー、普通。あんまり良くないかも」
「そうか。牛乳飲むか?」
「飲む……紅茶の方がいい」
「自分でいれろ。ティーパックは冷蔵庫の上な」
「ブランデーどこ? 兄貴が飲んでたヤツ」
 圭介は眉をしかめ、牛乳パックをテーブルの上に置いた。
「……何言ってんだ、おまえ」
「だって兄貴、受験でテンパってた時そうやって紅茶飲んでたじゃない」
「未成年の飲酒は禁止されてるんだ」
「やってたの兄貴じゃん」
「……牛乳に砂糖入れてやるからガマンしろ」
「何それ。子ども扱いしないでよ」
「砂糖はアルコールのもとなんだよ。化学であっただろ?」
「……どうせ苦手だもん」
 テーブルについた美奈を尻目に、圭介はパックを片手に再びキッチンに入った。壁から小さな鍋を取り上げ、軽く水でゆすいでから牛乳パックの中身をあけ る。
 コンロに鍋をかけて、火をつけた。
「ねぇ、兄貴」
「何だ?」
「あたし、何のために大学行くのかな」
 ちょうどこの時期、自分も似たようなこと思った――圭介は思い出した。
「最近模試とかの成績悪いか?」
「判定はBだよ。このペースなら、今年中には、Aは固いね」
「頭良くってうらやましいね。オレはこの時期まだ大騒ぎだったよ」
「兄貴のがうらやましい……兄貴はどうして医大になんて入りたがったの?」
「医者になりたくなったからな」
「スゴイなあ……あたし、志望校は先生に言われてるだけだから」
 ため息をついて、美奈がテーブルに突っ伏した。腕が、白いクロスの上にだらしなく投げ出される。
「面倒くさくなったか?」
「うん。疲れちゃった。何かどうでもいい。とっととお嫁さんになって、子供作って、家庭に入ってお母さんになりたい」
「……お嫁さんになりたいくらいに好きな男がいるのか?」
 テーブルに突っ伏したまま、美奈が首を横に振った。
「根詰めすぎなんだよ、お前。ガス抜きでもしろ」
「どうせガスなんて抜けないよ、受験のこと気になって」
 鍋の牛乳から、湯気が出てきた。砂糖を入れて、スプーンで5回半かき回す。
 熱すぎず、温すぎない温度の甘いホットミルクが、美奈のマグに注がれた。
「これ飲んで寝ろ」
「ガキくさー。乳くさー。お酒紅茶がいいー」
「牛乳なんだから乳くせーのは当然だ」
 美奈は、ぶつぶついいながら自分の前に置かれたマグを手に取り、一口すすった。
「何かさあ、疲れて、めんどくさくなったよ」
 マグを半分ほどあけたところで、また美奈がため息混じりに言った。
「大学入って、卒業して、どこかでOLやって……適当なところで寿退社して、家庭作って。それが何になるんだろ?」
「ささやかな幸せってやつじゃないのか? 本当に好きな人見つけて、ずっと一緒にいるのは幸せなことだと思うぞ」
「そんなこと……あたしにあるのかなぁ」
「なきゃ探せ。多少いい男の2、3人いくらでもいるだろ?」
「探すのもめんどくさ……ってか、恋なんてあたしにできるのかなぁ?」
 圭介は再び眉をしかめた。こいつは重症だ。
「子供の頃は良かったなー。勉強なんかしないで、遊びまわってればそれで良かったんだもん。楽しかったよ」
 湯気の出ているマグカップを見つめながら、美奈は微笑んだ。
「『お兄ちゃんのお嫁さんになる』、なんてバカなこと、本気で思ってたっけ」
「……言ってたっけなぁ」
 圭介も苦笑する。今は昔のお話だ。
「今は、そんなこと全然考えてないけどね。ってか、忘れてた」
「当たり前だ。禁断の愛なんてこっちもご免だよ」
「――こうやって、いろいろなもの忘れていっちゃうのかな。嫌だな」
 美奈は、マグを空けると「ごちそうさま」と言い、台所で軽くゆすいだ。
 何度目かのため息をついて、ダイニングを出て行く美奈。
 疲れきった後姿に、圭介は腕組みをして唸った。

 翌朝。
 美奈がダイニングに下りてみると、テーブルの上に二人分の朝食が並んでいた。
 キッチンでは、圭介がまな板や包丁を洗っている。
「おはよう。ちゃんと寝れたか?」
「……兄貴。何これ?」
「朝飯だ。見れば分かるだろ」
 あらためて見てみる。
 ハンバーグにトマトやニンジン、レタスのつけあわせ。お豆腐とワカメの入ったみそ汁。小鉢にはホウレンソウのおひたし。
「兄貴……料理なんて出来たんだ」
「米は無洗米、みそ汁は豆腐や野菜切って、適当に煮たり茹でたりしただけだ。ハンバーグはレトルト。料理なんて程じゃない」
 それにしたって……兄貴が朝食作るなんて、初めて見た。
「ひょっとしてさぁ、気ィ使ってる?」
 まだ多少寝ぼけた美奈の頭に、昨夜の事が思い出されてくる。疲れていたから、ちょっとヘンな事を言っちゃったかも知れない。
「あまり気にしないで。ちょっと疲れてただけだから」
「なら朝飯がっちり食って、体力つけろ。規則正しい生活は健康の基本だぞ」
(何か気持ち悪いなあ)
 椅子に座ると、ご丁寧なことに圭介が茶碗にご飯をよそってくれた。手つきはぞんざいきわまりなかったけど。
「あのさ、兄貴」
「何だよ、妹」
「家事する男は悪くないと思うけど……そのカッコはまずいと思う」
 身長170、贅肉の類がついていない圭介のプロポーションは悪くない。カッコいい部類に入る、と美奈も思う。
 それだけに、水色ストライプのしわしわなパジャマに、黄色の三角巾を頭に巻き、ネコのアップリケの入ったピンクのエプロンという姿は、何かいろいろなも のを台無しにしているのではないか。
 ストレートに言うと、みっともない。
「エプロンなら、文句は母さんの趣味に言ってくれ」
 答えながら、やっぱりぞんざいな手つきで自分の茶碗にご飯を盛る圭介。
「それ、お母さんがあたし用に買ったヤツだよ。あたしも恥ずかしくて使ってなかったんだ」
「親不孝者」
「別にいいじゃん、グレたりも悪い遊びもしてないよ」
「いいからとっととメシを食え」
 ……やりにくいなあ。
 妙なきまりの悪さを感じながらも、美奈は席につき、箸を手に取った。
「いただきまぁす」
「今日の予定は?」
「別に。フツーにお勉強するよ」
「今日はそれ止め。飯食い終わったら遊び行くぞ」
「……へ?」
 茶碗を突つこうとした箸の先が、止まる。
 美奈の向かい側で、エプロンを脱いだ圭介が椅子に腰掛ける。
「今日はお勉強休み。で、遊びに出かける」
「……兄貴」
「何だよ妹」
「日曜日に何の予定もないからって、妹で済ませるのは男としてどうかな」
「男としては確かにアレかも知れんが、兄貴としちゃ放っては置けん」
「あー……だから気にしなくてもいいってば。今はフツーだから」
「こっちは気になるっての」
 美奈はため息をついた。頭を横に振る。
(何かヘンなことになっちゃった……)
 断るのも面倒くさいから、「イヤだ」とは言い返さない――行こう行こう、なんて、はしゃいだりもしないけど。
 ただ、今イヤそうな顔をしてるな、とは自覚している。
 そのまま、しばらく無言で茶碗のご飯を口へ運び、味噌汁をすすり、お箸でハンバーグを切り分ける。
「ちなみに、出かけるってどこへ?」
「遊園地」
「兄貴が行きたいだけだったりして」
「ま、そういうことにしとこう」
「しょうがないねぇ……ってことにしとく」
 ……兄貴が行きたいってんなら仕方ない。
 そう自分を納得させながら、朝食を進めた。 
 遊園地はないだろう、と思いながら。
 それともうひとつ、思ったこと。
(兄貴……もうちょっと笑ったり、楽しそうな顔しなよ)
 仮にも、女の子誘ってるんだからさ。相手が妹じゃなきゃ絶対断られてるところだ。

「支度出来たか」
「うん」
「じゃ、行くぞ」
 美奈は、圭介と一緒に家を出た。
 昨夜に両親が出かけてったきりなので、自動車はない。
 結局平日と同じような時間に家を出て、駅までの道を歩くことになった。
 違うのは、制服でないことと、隣に兄がいるということ、そして、駅からは電車ではなく、遊園地行きのバスに乗るということ、などなど。
 日曜朝の駅前バスプールは、人の姿もまばらだった。
 遊園地行きのバス停に並んでいるのは自分たちだけ。家族連れもカップルもいない。
 やがて、バスが来た。フロントガラスの上、「○○遊園地行き」という表示。大きくて長い車体が用にターンし、バスプールの島をぐるりと回って二人の前に 止まった。
 美奈にしてみれば、バスに乗るなんて久しぶりだ。高校に入ってから、移動は歩きと自転車だった。
 車内には誰も乗っておらず、手近な椅子に並んで腰掛ける。
 兄の肩がくっついた。
 こんなのも久しぶりかもしれない。
 久しぶりといえば、遊園地にいくのはどれくらいぶりだろう。家族で一度一緒に行ったきりだから、10年ぶりぐらいになるだろうか。
 そして、バスで遊園地に行くなんて、生まれて初めてだった。
 駅前から出たバスは、美奈が今まで通ったことのない道と、見たことのない風景を見せながら進んでいく。

 信号待ちで、バスが停まる。
 目の端に、ちらちらと動くものがあった。
 通りに面した家の塀。ペットボトルをバラして作った、小さな風車。日光を反射して、くるくると回っていた。
 きっと、家の子が作ったのだろう。工作には当然、刃物を使ったはず。
(ケガとかしなかったかな?)
 疑問に答えが出る前に、バスは再び進み出す。
 流れる風景の片隅に色々なものが目に止まる。その度に他愛のないことを思いつく。
 けど、思いついた時には、もうそれは景色から流れ去って――
 何だか、自分がふわふわして、頼りない感じがした。
 糸を離した風船のような。
 でも、悪いものじゃないとも思う。
 ちょっとだけ、隣に座る圭介の顔を見た。
 目を閉じて、頭を背もたれに寄りかからせていた。
 朝ご飯作るのに、早起きしたからかな――なんてひっそりと思った直後に、カバみたいなあくびを見せる。
 ひっそりと思い浮かんだことが、見事に打ち壊された。

 坂道を20分以上登って、やっと道が平らっぽくなってくると、観覧車が見えてきた。
 「遊園地前」のバス停で降りて、美奈が「ん〜っ」と伸びをした。
 すぐ隣から似たような声がした。見ると、圭介も同じように伸びをしている。
(こういう所で兄妹似なくたっていいのに)
「……っふぅ。じゃ、行くぞ」
「入場料、兄貴出してくれるの?」
「そのつもりだ、一応」
「兄貴金持ち」
「無駄遣いしなきゃカネなんざ勝手に貯まる」
「使い道ないんかい。だったら貢いで」
「今日、遊園地の中だけな」
「つまんないなあ」
 売り場でチケットを買い、ゲートをくぐる。
 渡されたしおりと、構内の案内板とを見比べながら、圭介はスタスタと歩いていく。
「どこ行くの?」
「定番の絶叫系」
 差し出されたしおりの頁には、ジェットコースターや巨大なブランコなどが紹介されていた。
「やっぱり兄貴が乗りたいんじゃない」
「……そうだったっけな」
「兄貴、結構子供だねえ」
「お前も乗るんだよ」
「ひとりで乗るの怖いの?」
「ああ、怖い怖い。妹がいっしょじゃなきゃ、ションベンちびっちまうかもな」
 口調に怖い気がまったく感じられない。ツラは出かけた時から変わらない仏頂面。フリだけでも怖がれっての。
「がまんしなよ。いい男が台無しだよ」
「台無しにならんようにお前も乗れ」
「人に頼む時はもうちょっとそれらしい態度取ったら?」
 いくら相手が妹だからって、ちょっとぞんざい過ぎないかなあ……
 と、圭介の手が伸びて、美奈の手をつかまえた。そのまま引っ張っていく。
「いいから行くぞ。一緒に乗って、一緒に喚いて叫ぶんだ」
「兄貴。強引さは悪くないけど、こういう場合だとマイナスになると思うよ」
「妹だってことで適当に補正かけといてくれ」
「あのねぇ……」
 どうやら、ジェットコースターの今日最初の客は自分達らしい。
 コースターの先頭に乗せられて、しばらくすると安全バーが下りてきた。
 肩と胸とが、がっちりつかまえられる。
「兄貴」
「何だ、妹」
「この手の絶叫系って、乗ったことある?」
「実は初めてだ。お前は?」
「あたしもだよ……あ、動き出した」
 ごとん、という揺れの後、コースターがゆっくりと前に進みだした。
「……本当に鳴るんだね」
「何が?」
「この音。かん、かん、かん、ていうの」
 金槌で、鉄パイプを叩いているような音が、規則正しく鳴っている。
「確かこの音が途切れると、滑降し始めるんだよな」
「そうそう。ジェットコースターってさ、必ず理科の教科書に出てくるよね」
 かん、かん、かん
「ああ、位置エネルギーと運動エネルギーってやつでな」
「原理は単純なんだよね。思いついた人は天才だよ」
「安全措置はそう単純じゃないだろうがな」
「ヘンなこといわないでよ」
 かん、かん、かん
「頂上が見えてきたぞ」
「結構角度急だよね。引き上げられてるっていうより、吊り下げられてるって言うか」
「外から見てる時は、そんなでもなかったがな」
 かん、かん、かん
「目分量で、ざっと仰角45度って感じだったかな」
「交通標識だと、上り勾配10パーセント以上は急勾配扱いだったな」
「それの10倍、100パーセント。急どころの話じゃないよね」
 かん、かん、かん、
「引き上げられた後って、60だか70度だかで一気に下っていたように思ったぞ」
「勾配何パーセントで言うと、この角度はどの程度になるんだろ」
「60度なら、ルート3に100かけりゃいい」
「さすが兄貴。医大生は違うね」
 かん、かん、かん
「30、60、90度の数字は、受験の三角関数の基本だぞ」
「ごめん。お勉強のこと、今考えてる余裕ない」
 かん、かん、かん
「それなら、遊園地来たのは正解だったな」
「でもさあ、ちょっと芸がなさすぎるって感じがするなあ。もうちょっとマシな選択肢なかったの?」
「あれば来てない……」
 かん、かん……
 音が止まった。
 レールはなく、眼前に青空。
「頂上……来たね」
「……だな」
 長い長い一瞬の後――
 轟音と絶叫。

 係の人にジェットコースターを降ろされてから、しばらく口がきけなかった。
 乗り場から大分離れてから、ぽつりと美奈がもらした。
「……兄貴」
「……何だ妹」
「動かない地面にいるって、素敵だね」
「まったくだ」
「……他の絶叫系にも乗るの?」
「いや、止めておく」
「いい考えだと思う……で、今あたし達どこに行ってるの?」
「飲食コーナー。とりあえず座って落ち着こう」
 白い丸テーブルが並んでいる一画が見えてきた。
 並んでいるテーブルの中、原色のワゴン車が一台止まってクレープ屋をやっている。近寄っていくと、甘い匂いが漂ってきた。
「適当に座ってろ。飲み物買ってくる」
「食べ物は?」
「何キロ太りたいか言ってくれ」
「……ウーロン茶だけでいいよ」
 あちこちくすんだり、塗料のはげている白い椅子に座り、ワゴンに向かう圭介の背中を見送る。
 朝からぶっきらぼうな兄だけど、つい数分前にはどんな声を出していたのかよく覚えている。乗り場から出た直後の真っ青な顔も、しばらく忘れたくなかっ た。
(乗っている時の顔、どんなだったんだろ……)
 隣から聞こえてきた声は、確か「のああああ」とか「うわ、おごあああああ」なんていう声だったと思う。
 その叫び声の通り、口だけ動かしてみた。叫び声の真似だけで百面相ができそう。
 失敗した。すごい楽しい顔してたんだろうなあ――そう思うと、ひとりでに顔がニヤついてきた。
(休んだらもう一回行こう。兄貴の面見てやらなきゃ)
 顔を上げると、各種アトラクションの屋根の向こうに、鉄骨組みのオバケのようなものが聳えていた。
 山になったり谷になったり、時折ぐるりと回っている上を、また次のコースターが凄まじいスピードで駆け抜けていく。乗っている人の歓声がここまで聞こえ てきた。
 そして、その向こうには真っ青な空が広がっていたりする。
 ……「青空」というものを意識したのは何ヶ月ぶりか。
 そう言えば、朝に家を出てから、受験のことなんてすっかり忘れていた。
(……何だ。忘れることできるんだなあ)
 周囲を見渡すと、ちらちらと家族連れやカップルの姿が見える。
 わぁわぁと喚く子供をあやすお母さん。ベタベタしているカップル。幸せそうで、見ているうちに美奈はひっそりと微笑んでいた。
 バスに乗っていた時の感覚を思い出した。周りの世界から切り離されているような、頼りなくて自由な――。
 いや、逆かも知れない。自分が透けていって、周囲に溶け込むような――
 その時、どこかで間の抜けたようなオルガンの音。
 時計が、11時を指していた。
 まだ11時なのか。もう11時なのか。
 どちらにしても、夕方になったら自分達は家に帰るのだろう。
 そう思った瞬間――
 間の抜けた音色は、のんきなメロディを奏でている。
 美奈の微笑が苦笑になった。
 通り過ぎていく家族連れもカップルも、ただの風景でしかなくなった。
 数秒前、何だか楽しかったのは覚えている。
 でも、その楽しい気持ちを取り戻すことは、できなくなった。

 圭介が向かい側の椅子に座った。
「ほれ、ウーロン茶」
「あ、ありがと……って、大きいんだけど?」
「一番大きいサイズで買ったからな」
 巨大なカップのウーロン茶を一口すすり、ため息をつく。
「……今日帰るのって、何時ぐらいの予定?」
「特に決めてない。やっぱり遊園地はつまらんか」
「別に。結構楽しいよ」 
「ならいいんだがな」
「たださ、楽しい気持ちもいつかは忘れちゃうのかな、って」
「その分新しくて楽しい事覚えていきゃあいい」
「その覚えることが、公式とか英単語ってのもどうかなぁ」
「必要だから仕方ない。それで思考を少し止めろ」
「何に必要なんだろ?」
「受験だろ?」
「受験て……何に必要なんだろ」
「将来の選択肢を増やすため、かね。なりたいものに、なるための」
「なりたいものなんてないよ、別に」
「じゃあ、それを探す時間のためだ」
 だるい減らず口と、それに答えてくれる兄。
 それは、確かに楽しくて、安心できる。
 けど、本当に話したいことは、こんなことじゃない。
 こんなことじゃなくて−−
「覚えていたいんだけどね、本当は」
 美奈はテーブルに目を落とした。
「楽しい気持ちとか嬉しい気持ちとか、ずっと覚えてていたいのに。意識した途端、すぐに消えてなくなっちゃう」
「……何かないのか? 本当に好きな人とか、好きなこととか」
「ないよ。何もない……やることないから勉強してたって感じ」
(ああ……そういうことか)
 口に出してから、美奈は気がついた。その口元が歪む。
(あたしは……空っぽなんだ)
 自分には、何もない。
 好きなことも、好きな人も。
 兄のように、「医者になりたい」という確かな目標があるわけでもない。
 家族連れやカップルとかのように、好きな人がいるわけでもない。
 受験て何だろう。そんな問いの前に、確かめるべきことはあったのに。
(あたしって、何?)
 自問してみて、笑いたくなった。それは、「自分探し」っていうやつだ。
 自分の中、もうひとりの自分が笑い始めたような気がした。
 せっかく何かの正体が見えたのに。言葉を当てはめたら、途端にバカバカしくなってくる。
 今時、「自分探し」なんて使い古された言葉だ。ただでさえ空っぽな自分が、ますますみじめになっていく気がした。
 昨夜のような虚無感、疲労感がのしかかってきた。何だかすべてが面倒で、考えるのも嫌になってくる。
 昔は、こんなことなかった――小学生の頃なんて、毎日遊びまわって、楽しいことも楽しい気持ちも、ひとつ残らず覚えていられたのに。
 感動とか、わくわくどきどきすることとか、もう自分の中に残らない。
 今、自分の横にいるのは、間違いなく自分の兄。幼い頃はずっとくっついてて飽きなかった相手だ。10年以上前だったら、兄を一日独り占めなんて、楽しく て楽しくて仕方なかったはず。
 それが――今は楽しくもなければ、胸が高鳴ったりもしない。
 「兄貴が好き」なんて、鼻で笑いたくなる自分がいる。
 そんな自分をさらに笑う自分は――可笑しくて、哀しくなった。

「お前のプレッシャーは相当なもんだな」
 ずすっ、と自分のウーロン茶をすすりながら、圭介が言った。
「まあ、色々感じたり悩んだりするってのは、心が健全な証拠だ。それは安心していいぞ」
「不健全でもいいから、何とかして」
「何をどうすりゃいいんだ?」
「分かんないよ、そんなの」
「じゃあどうしようもないな」
「冷たいね、他人事だからって」
「自分でどうにかするもんだ、そういうのって」
「じゃあ、兄貴はどうやってどうにかしたのよ?」
 圭介は、溜息のように、鼻から大きく息を吐いた。
「別に。大したことは何もしちゃいない」
「……じゃあ、何かあったでしょ? 何もないのに、現役で医学部に合格なんてできないもの」
「一生懸命勉強した。それだけだ」
「だから。何で、一生懸命勉強なんてできたの?」
 美奈はテーブルの上に身を乗り出した。
「正直、兄貴がそんなに勉強好きとかには見えなかった。今くらいの時期だったよね、いきなり志望を医学部に変えて、みんなビビらせたのって」
「……そうだっけ?」
「とぼけないの。何で兄貴、医者になろうなんて思ったの? そんなこと、今まで一回も言ったことなかったのに」
 ずすっ、と、再び圭介はウーロン茶をすすり、ジェットコースターの走る鉄骨のオバケを見上げる。
 そうしてしばらく黙り込み、また鼻で溜息をつくと、妹に目を向けないままで、口を開いた。
「昔さ……お前と母さんが家に来てすぐの頃のこと、覚えてるか?」
「……いきなり何言い出すの?」
「確か、春だか夏の初め頃に、お前凄い熱出して、しばらくぶっ倒れていたことあったろ」
 言われてから、やっと美奈は思い出した。そんなこともあった。
 確か、7歳の時のことだ。
 運び込まれた病院のベッドの横。両親と一緒に、兄も真っ青になってたっけ。
「で、その時に、オレは絶対医者になるって……」
 ……まさか。
「その時から、ずっと?」
 どきん、と胸が高鳴った。自分の奥で、何かがざわめきだす感触――。
 が、
「いや、お前が治った次の週には忘れてた」
 思わず顔をしかめた。胸の奥の潮騒じみたものが、音を立てて引いていく。
「今のは笑うところ?」
「好きにしろ」
「取り合えず、呆れていい?」
「勝手に呆れてろ」
 許可が出てから、深々と溜息をついた。俯いて首を振る。さらに、目の間とこめかみを指で揉むしぐさもつける。
 ――妹の溜息が収まってから、再び圭介は口を開いた。
「で……去年の今ごろ、そのことフッと思い出してな。お前みたいに、何のために受験とか勉強するのか分からなくて煮詰まってた頃だった。それで、そいつに 飛びついた」
「飛びついたの?」
「ああ。とにかく、頑張れる動機が欲しかったから。おかげでやりがいはできたよ。何だか、昔の自分との約束っつーか、決着つけるみたいな感じで」
「……いいなあ、兄貴。そんなドラマ持ってて」
「大したドラマでもないだろ。ホントのドラマってのは……」
「どんなのよ?」
 圭介は、少し首を傾げた。
「それこそ、小さい時から自分は医者になるってことを忘れないでいたとか、そういうもんだろ。10年以上忘れてた気持ちなんてのは、ドラマにゃ値しない」
「じゅーぶんドラマだと思います。忘れてたこと思い出して、それでエンジンかかるなんて。しかもちゃんとハッピーエンドになっててさ」
「ドラマじゃなくて、自己陶酔の自己完結。しかも合格した後は後で、正直『やっちまった』なんて反省してる部分もある」
「……やるんじゃなかった、なんて?」
「少しはな」
「そんなこたないでしょ。自己陶酔でもなんでも、兄貴一発で大学は入れたんだもの。スゴいじゃない」
 美奈は兄から眼をそらした。どうしても、ジェットコースターの方に眼がいってしまう。
 自分が今、仏頂面をしているのは自覚している。
 同時に、さっきとは違うざわめきが、自分の中に湧き起こっているのも分かる。
 −−何かを望んで、それを勝ち取る。それってすごいドラマだと思う。
 うらやましかった。
「−−ねえ、兄貴」
「何だ、妹」
「どうして今の話、今までしてくれなかったの?」
「お前のためにがんばったわけじゃないからな。全部、昔の自分のためだ」
 ふん、と兄が鼻を鳴らした。
「だから、今のお前にゃ関係がない。お前がいたからがんばれた、なんて言えりゃあそれこそドラマなんだろうが」
「言えばいいじゃない。今からでも遅くないよ」
「嘘だって分かってること言ったって、後味悪いだけだ」
「融通きかないね」
「お前の兄貴はこういう兄貴だ。あきらめろ」

 間の抜けた、オルガンのメロディーが流れ始めた。
 時計が昼の12時を指している。
 今日はあとどれくらい、こうしているのか。夕方になれば帰るのだろう。
 帰れば、お勉強が待っている。いい加減もうイヤになっているお勉強が。
 でも――
(何か、ドラマがあれば……)
(誰かのため、なんてことが言えたら……)
「兄貴」
「何だ、妹」
「あたし、思ってていいかなあ?」
「何をだ?」
「――兄貴は、あたしのためにがんばってたことがあった。今度は、あたしが兄貴のためにがんばる、なんてさ」
「何をがんばるってんだよ? 受験か?」
「んー、いろいろ」
「好きにしろ」
「んじゃ、好きにする」
「いや、やっぱダメだ……がんばるのは、オレじゃなくて自分のためにしろ」
「ケチ。兄貴なんだから力貸してよ」
「オレ何もする気ないぞ」
「さっき、何をどうすりゃいいんだって言ってたじゃない。どうすりゃいいか分かったんだから」
「その方法は間違ってるぞ、多分」
 そんなの分かってる。でも、自分 のためだけだなんて絶対無理。
「……あたし、また落ち込むぞ」
 今度は圭介が顔をしかめた。さっき妹がやったように深々と溜息をつく。
「……それ、脅かしてるつもりか」
「また落ち込むぞ。何のために受験するのかなーって」
 必要なのだ。嘘だって分かってて も、信じられそうな何かが。
 何でもいいし、誰でもいい。自分を支えてくれそうなものなら、何であろうと。
「……受験終わるまでの、期間限定で許可する。大学でも短大でも、好きな所行け」
「そうするよ。好きなようにして、好きなこと見つけられるようにがんばってみる」
 見つかるかどうかなんて、分からないけど。
 兄貴のためにがんばる、なんて、自分で言い出したことさえ、信じられるかどうか分からないけど。

 日が暮れようとしていた。
 帰り道、ふと、圭介が電器屋の前で足を止めた。
 つられて美奈も足を止め、圭介の見ているものに目を向ける。
 ショーウィンドウの中に、大型の液晶テレビが置かれていた。
 今まで何かのドラマの再放送を流していたのだろう。画面には大きく、こんな文が映し出されていた。
 「このドラマはフィクションであり、
  いかなる実在の人物、団体とも
  一切関係ありません」
「行こう、兄貴」
 美奈が圭介の手を取って、引っ張った。そのまま、家への道を進んでいく。
「どうかしたのか?」
「兄貴こそどうしたの? あんなテレビ欲しいの?」
「別に。ただ、さっき、お前がさんざんドラマドラマって言ってたから……」
「あの、このドラマはフィクションでどうとかっていうの、あたし嫌い」
「初めて聞くな」
「今嫌いになった」
 圭介の手を引っ張りながら、美奈は今見たドラマのことを思い出した。一昨年くらいにテレビでやっていたものの再放送だ。
 本放送の時は、熱中して見ていたはずだったけど、今の今までやっぱりすっかり忘れていた。
 ――何のかんの言って、今日という日は、楽しかったと思う。
 昼からまた、絶叫系をハシゴして回り、隣で兄の悲鳴をさんざん聞きまくった。
 朝からほとんどにこりともしない兄の顔が、だんだんげんなりしていくのが楽しかったし、げんなりしながらも最後まで付き合ってくれたのが嬉しかった。
 だから、「そんな兄のために誰かのためにがんばる」っていう思いは、自分の中で強くなったと思う。フィクションだって分かっていても。
 その記憶と思いを明日はまだ覚えているだろう。明後日も多分忘れない。
 でも、来週になったらどうなるだろう。
 一ヵ月後は? 二ヵ月後は?
(忘れたくないな――)
 また気持ちが重くなりかけた時。
 引っ張られている圭介が、後ろから呼びかけてきた。
「おい、美奈」
「呼んだ、兄貴?」
「早く見つかるといいな。好きなこととか、好きな人とか」
 美奈は足を止め、圭介に振り向いた。
 目の前にいるのは、朝から自分を気遣っていた兄。
 この兄は、これからもきっと、自分のことを心配してくれるのだろう。
 自分が妹である、ということだけで。
 それは、自分が感じている「兄貴のため」なんてものとは比べ物にならないくらい確かなもので……
「……兄貴にはないの? 好きなこととか、好きな人とか」
 圭介は今日何度目かの溜息をつくと、答えた。
「……受験が終わったら教えてやる」
「今まで知らなかったけど」
「何だよ」
「兄貴って結構ケチだね」
「秘密は最終回までとっとくもんだ……さ、帰るぞ」
 今度は圭介が、美奈を引っ張って歩き出した。
 妹の手をしっかりとつかまえて。
 ――忘れても、また思い出せる。
(きっと、兄貴が思い出させてくれる)
 その時、美奈は思い出した。
 幼い頃、自分は兄のことが大好きだった。
(……思い出せる。ちゃんと思い出せる)
 美奈は、兄とつないでいる手に少しだけ力を込めた。

(了)

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