深夜行


   夜勤のバイトが中心の生活になってからというもの、当然と言えば当然だがすっかり夜型の生活サイクルになってしまった。
 そんなものだから、こういう非番な夜には目が冴えて、全然眠れない。熱しやすく冷めやすいY形の盆地という地理的状況もあるのか、夏の猛暑は日中気違い じみているものの、夜は比較的涼しいものだ。
 ふう。
 気がついたら、すっかり怠惰な生活が身についている。昼間に寝て夕方起きて、朝方に寝る。実はこの時期、そういう生活サイクルの方が体力を消耗する。夜 間の方が全然眠りやすいのに、生活サイクルからそれが出来ずにいる。いやはや困った物だ。
 寝だめをできるうちにやっといた方がいいな、とは思うが、ますます目が冴えてくる。全然眠れない。体が全然疲れてないから、休息を必要としていないの か。
 ええい、くそ。だったら眠らないでいることにしよう。
 そう決めると、僕は体を起こして外に出た。自転車を引きずり出し、アパートの敷地から外に出た。
 外は静かなものだった。道を歩いている人間も誰もいない。当然と言えば当然。時計は現在午前2時半。地方の町の夜なんてこんなものだろう。しかも今は休 み中。一応学生街であるこの町にしてみれば、静かと言えば静かな期間に
は違いない。
 僕は自転車のペダルを踏み始めた。動き始める。どこかで自動車の音がする。エンジン音。夜の静寂に吸い込まれ、消えていく。僕の自転車が鳴らす音もかく のごとく。
 風が出てきた。正確には、僕本人が動いているから、その風圧が来ているだけのことだ。強すぎず、弱すぎない。うだる熱気の昼日中、さんざん汗を流した皮 膚には、その感覚が気持ち良かった。それをただ「風圧」だけで片づけるのはいかにももったいないような気がする。今夜だけ、風の精霊というやつの存在を信 じたくなった。
 近所の高校の前を通った。人の気配はまったくない。金網で囲まれた中に、植え込みや草木がある。その後ろに、真っ黒な校舎が立っていた。夜空とは違う黒 だった。夜中に見ると、なかなか威圧感があった。
 夜。しかし闇にはあらず。天上の星明かり、月影だけではない。そこかしこの人工的な明かりの数々が、闇に沈む下界のなかに幾ばくかの光をにじませようと している。街灯。自動販売機。閉店したあともこうこうと輝く看板。コンビニエンスストア。交通信号。しかし、この夜の今現在、それらを見ている人間は僕だ けだった。
 どこかで、また自動車の音がした。
 人工の光は、それ自体が光って自己主張するだけではない。暗さの中、ぼんやりと周囲の物を浮かび上がらせる。スポットライトの効果を思った。この地球上 でもっとも偉大な光は陽光だが、街灯には街灯だけの、蛍光灯には蛍光灯だけの味わいがあるということなのだろうか。そう考えると、昼には熱気を下界に注 ぎ、何でも照らし出そうとする太陽という奴が妙に無節操で無粋なものに思えてくる。
 その人工的な明かりの前のひとつで、足を止めた。自動販売機の前だ。何か怪しいジュースを買おうかと企んでいると、肌がべとついて気持ち悪くなっている のに気がついた。どうやら自転車で走っているうちに汗をかいていたらしい。汗をかいていれば、風が気持ち良くなる。当たり前だ。何で今まで気がつかなかっ たんだ。
 自販機で買ったのは、結局スポーツ飲料を売りにしたものだった。スポーツ飲料なんてどれも似たり寄ったりだと思うが、オレンジとかアップルとか、果物の 味をアピールしておきながら実は「無果汁」なんていうのを見ると何か納得できないし、たまに飲んでみるとその後必ず腹を壊すのでろくなことがない。だった らスポーツ飲料とかいうものの方がまだましだ。本当は果汁100%が好きなんだが、そうすると今度は量が少なくなるので、それはそれで納得できない。
 肌がべたべたするのが嫌なので、また走り始める。どうケ、止まったときにはやっぱりべたべたと気持ち悪い思いをするはめになるのだろう。分かっていて も、所詮人とは目先の幸せを追求する物だ。
 だだっぴろい大通りを折れて横道に入る。さすがに大通りに比べて頼りになる明かりが少ない。暗い中をそのまま真っ直ぐ進むと、やがて水音が聞こえてき た。
 M川沿いの道路に出た。
 わりかし大きな橋があった。鉄橋というほど大それたものではないにせよ、先程折れたところとは違う大通りから続くその道は、車がかなり頻繁に通ってい る。確か国道だったはずだ。当然と言えば当然なのかもしれない。それ以外にも、見渡せば、川の両岸の間にかかる橋が、遠くの方に何本か見受けられる。が、 国道から続くあの大きな橋に比べれば自動車の通りなどなきに等しい。

 その中で、歩行者専用の一本があった。歩道から折れており、幅も到底自動車が通れるようなものではない。両脇に立ち並んでいる街灯の数は多く、立ってい る間隔も比較的密である。蛍光灯の白い光が、夜の川の上にその橋を浮かび上がらせていた。
 細い幅の橋の上の通路には誰もいない。ただ、闇に満ちた向こう岸に続いて消えている、灰色のアスファルトと、白い欄干とがあるだけだった。
 歩道に自転車を止めてから、さっき買ったスポーツ飲料を持って川の方に下りることにした。土手の斜面を注意して下り、草を踏みながら川の側の堤防まで歩 いて行った。
 水音を聞きながら、コンクリートの斜面に腰を下ろした。缶のプルを上げると、ぱきん、という音が妙に大きく響き、すぐに静寂に吸い込まれた。水音が鳴っ ていた。ジュースをひとくち飲んで、置く。水音だけではなく、虫の声も聞こえている。
 静かだった。平穏。べたつく肌だけが嫌だったが、こういう時間に久しく身を置いてなかった。満ち足りた思いが僕の中に生まれている。ひょっとしたら、も のすごく贅沢なことをしているんじゃないか。そんな気さえしてきた。口元が思わず小さく歪んでいる。目尻に皺が寄ったのを感じた。今の自分は、他人から見 たらどういう風に見えるのか。
 川が、静かに水音を立てていた。耳をすませば、様々な音が混じり合っているのが分かる。岩同士が寄り合っている所には小さな渦ができており、白いうたか たがくるくる回っている。あるいは、水面から頭を出している石はその部分だけ水の流れを割っており、その両脇で飛沫が上がっていた。数百メートル先はごく ごく小さな滝になって、そこだけダイナミックな音が上がっている。

 目を閉じると、夜気が自分の中ににじんでいく様だった。僕が、闇の中に浸されているのが分かる。
 闇の侵入。こう言うと、いかにも邪な感じがするけど、全てを帳の中に覆い隠す闇というのは、どうしてこんなに安心できるものなのだろう。暗さの向こうに いる何かというのが、恐怖なしに思い浮かべることができる。闇の中では全てが平等。そんな言葉が、不思議と納得できた。
 好きな一節が脳裏に浮かんだ。
 「頭が明晰になってくるよ うな、夜気と樹木のそよぎと自分の呼吸とが同一レベルで結ばれているようなすがすがしさで肺が満たされていた。これまでにない 安静にいるのを感じた。今夜はぐっすり眠れるかもしれない。いつもほど夜や闇を恐ろしいものと思わなくなり、いずれ出かけなければならない独り旅を素直に 受け入れようという気持ちになっていた。」
「忘れ水の記」より( 志水辰夫『いまひとたびの』新潮社・刊)

 このまま命を失っても、今ならさほど後悔はしないような気は確かにする。自分の体が闇に溶け、分解されていっても今なら不自然と思わないに違いない。
 結局、実体のままに僕は立ち上がり、缶を空けてから河川敷を出た。土手を上り、自転車のスタンドを蹴って、サドルにまたがる。
 そして、ひどく静かな、だれもいない町なかをまたしばらく走ってから自分のアパートへとたどりついた。
 全身を薄く包む熱と、しみいるような充実感を伴いながら、自分の部屋に入り、電灯をつけた。
 ふと窓を見ると、見慣れない顔がこちらをのぞいていた。
 それは闇の中から、ひょっこりと浮き出たような印象があった。驚きはしたが、怖いとはあまり思わなかった。
 空はまだ暗い。夜明けまで時間がある。
 僕は冷蔵庫を開けて冷えた麦茶を取り出した。流しからは、湯飲みをふたつ。彼がお茶を飲むようなものであるかどうかはともかく、せっかくの客人だ。無視 したり帰っていただくというのも少し味気ないかもしれない。そう思う自分が妙に新鮮だった。
 散らかっている部屋を少し片付け、場所を作り、湯飲みと麦茶入りのポットを置いた。彼の方に手を上げると、彼は窓から室内にやってきて、僕の目前に座っ た。
 いらっしゃい。まあお茶でもどうぞ。夜明けまでにはまだ時間があります。どうかゆっくりしてって下さい。




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