1994年、長年の不況にたいし、若手政治家グループ「イッシンカイ」が政治改革を旗印に決起した。不況にうんざりしていた日本国民は彼らを支持、翌95年には、イッシンカイの総帥リョウタロウ=ハシワザが、日本国総理大臣に就任する。
政権を握るや、イッシンカイは次々に果断な政策を発表した。
ハシワザ内閣の支持率は過去最高となり、景気は好況に転ずるとの予測が高まった。
しかし、翌1996年には景気の好転にはやばやとかげがさした。
あせったハシワザ内閣は通貨単位の見直しを発表する。
そのためか、世論調査でハシワザ内閣の支持率は大きな下降を見せなかった。
1997年には、ハシワザ内閣は公約通りすべての公社の民営化移行を実行に移す。
また、通貨単位の見直しとして、デノミネーションを発表し、年末には敢行した。新しい通貨単位は新円とし、補助貨幣として新銭を設定した。
しかしこの時、重大なスキャンダルが発覚した。
ハシワザ内閣の発表した1996年度決算が捏造されたものであることが暴露されたのだ。それは、多数の予定外の出費と、予算案にない決裁が多数見受けられるものだった。私的な使い込みはなかったが、強引な政治改革によって政府機能に多くの障害が発生していることが判明した。(ハシワザ=スキャンダル)
ハシワザ内閣の支持率は暴落する。ハシワザ総理は退陣し、イッシンカイ副総裁のジロウ=オモトが総理に就任する。
この年、日本国内の失業率は9%に達した。
1998年、オオサカで暴動が発生する。装甲自動車で移動中であったにもかかわらず、ハシワザ元総理が殺された。報せに驚いたオモト総理は海外に逃亡してしまう。彼のその後の行方を知る者はいない。
この年は約半年の間に5人の総理がたち、あるいは暗殺され、あるいは時間をおかずに退陣した。日本の国家機能はほとんど麻痺する。
崩壊した国家秩序を旧に復にそうという運動がおこる。オークラ省の再統合など官僚制度復元案は出たが、議会で議論は空回りするばかりだった。
一方、アジア情勢は日々危機感をつのらせていた。在日米軍および自衛隊の維持拡大の必然のため、麻痺した国家機能の中でも軍事部門だけはどうにか機能していた。
1999年、皇族の一人が立ち上がる。帰国したサカエ帝の次男、オクツキノミヤが、それまでの禁を破って政治的発言ばかりか積極的に活動を始めたのだ。この若き貴公子の登場に、反発する国民も多数あったが、歓迎する国民はもっと多数いた。
そのかいあって、秩序回復のきざしが見えはじめた。
2000年には政府各機関は指導力を回復する。通産省はメガコーポを含む企業各社に個別に保安に関する「行政指導」を行なった。これにより、メガコーポは日本国内で無制限に近い権益を獲得することができなくなる。
また、この年にはテロや訴訟など、オクツキノミヤへの攻撃が激化した。
2001年、科学技術庁がエネルギー衛星計画を立案。メガコーポより資金、技術、人材の支援の申し出が殺到し、科学技術庁はこれを受け入れた。
親王裁判の第一回の公判。法廷に現われた貴公子の凛とした態度に国民の支持が高まり、憲法改正運動がわきおこった。改正憲法案がいくつも出される。民主的なものは少なかった。
この年の調査で、日本経済は回復の兆しをあきらかにしめしていた。
2002年には改正憲法案、法務省の集めた有識者によってまとまれられた。また、第二回公判では、オクツキノミヤ側の有利が決定づけられたように見えた。
2003年には議会で憲法改正のための国民投票の審議が行なわれ、2004年に国民投票が決定される。
同年、親王裁判最初の判決が出たが、予想に反して判決は有罪。ただちに上告された。数日して。この裁判の裁判長が自宅で惨殺された。犯人は捕まっていない。
2005年、ついに憲法改正と新憲法の承認の国民投票が行なわれる。結果はぎりぎり可決だった。帝国宣言が起草される。
また、この年の調査で、日本経済はほとんど回復したことが報告されている。
2006年、日本は日本帝国となった。