論考:RPGの進化
なにものも、その生まれた時のままであり続けることはない。技術の産物であろうと社会制度であろうと、そして遊びであろうとだ。
古いものは後発のより優れたものに淘汰されてゆく。しかし、かなり完成されたものはなかなかそれをこえるものも出てこない。そのような枯れた状態へ、エントロピーの極大へとすべては収束してゆくものだ。進化では万の年のオーダーで、人類の歴史では年のオーダーで、それは進んでゆく。
進化をしないものは、もはや可能性のないものである。そして、進化の究極に達したものは、やはりより優れた種や技術によって淘汰されてゆく。
遊びの世界は人のきまぐれな心によって選択がなされるだけにこれは顕著である。多くの完成された遊びがあり、人はそれを自由に選択できる。競技人口の多い遊びなら相手を見つけるのもむずかしいことではない。しかし、古いゲームばかりが幅を聞かせているわけでもない。トレーディングカードゲームは近年出現した遊びのなかでもっとも成功したものの一つであろう。
ではトレーディングカードゲームよりも歴史が古く、しかし数ある伝統的ゲームにくらべれば歴史のまだまだ浅いロールプレイングゲームはどうだろう?
進化とはまた分岐でもある。RPGもまた一つの大きな分岐進化を経験している。
ほかでもない、コンピュータRPGである。
コンピュータRPGの草分けと呼べるソフトはさまざまあるが、その後の主流を作り上げた大きな源流はウルティマ1とウィザードリー1に求められるだろう。前者は日本でもっともポピュラーな見下ろしフィールドタイプの、後者はアメリカ等で根強く残っている視点同一のダンジョンタイプの草分けである。このウィザードリー1は原点のアップル2版ではキャラクターひとりひとりにパスワードが設定できたことは御存じだろうか?
これはすなわちウィザードリー1が容赦のない、自動化されたゲームマスターとしてのソフトに他ならないことを示している。マスターをコンピュータ化することでこの負担の大きな役割の人間負担を解消しようとした試みといえるということだ。
現在なら、ネットワークRPGとして実現されるところを、当時の制限された環境で実現しようとしたこのソフトは、その目的を達成できなかったが(なにしろ、一台のパソコンに交代しながら入力するわけだから面倒であるし、あまりたのしくもない)、チームとしてのパーティを育成、運用してシナリオを解決するという遊びとしてブレイクした。現在の育てゲーの草分けといえなくもないだろう。あのハードの限界ゆえの抽象的な画面とそれを補うための台詞(といっても壁を蹴った時に「いてっ」と出たり、有効的なオークが「ようこそ!」と歓迎してくれたりする程度だが)が空想力を刺激し、近年の無意味にこったゲームよりよほど素直に感情移入できて一人プレイであってももともとのRPG以上に楽しむことができた。
ここ数年、ディアブロやウルティマ・オンラインの出現によって、この分岐の流れは新しい形を得たが、この分岐についてはここまでにして残された本家のRPGのほうに目を戻してみよう。
本家RPGも全く進化していなかったわけではない。RPG世代論(*)で語られているように、それはプレイヤーの管理する背景情報とそれを実現するルールのありようを巡って発展してきた。いや、これを発展とよんでよいかどうかはわからない。むしろ、これは模索であったように見える。本家RPGはその未完成さゆえに完成された姿のあるべき方向をもとめて模索の中にあったと言うのが正確な姿だろう。発展というより、欠点の補完に近いものであったからだ。
では、その欠点が補完されればRPGに進化の余地はないのだろうか?
RPGを特徴づけているもっとも大きな要素は感情移入のための要素が大きな比重をしめていることだろう。背景情報を巡る進化は確かにそれにそったものだ。しかし、それだけならウィザードリー1は成功したRPGと言える。しかしコンピュータRPGと本来のRPGは別物だという意見もある。なぜか?
人間が管理するがゆえの融通性、自在性をあげる人もいるだろう。複数の参加者によって共有できる何かを理由とする人もいるだろう。とにかくも感情移入単独ではRPGであると思われていないのだ。感情移入の要素はRPGになくてはならぬ要素であろうが、それだけでRPGたらしめるものではない。
複数の参加者の意義を明確にすることは、従来のコンピュータRPGとの違いをはっきりさせる、もっとも簡単な方針だろう。1990年代末期の日本製RPGにはその要素を強調したものが数点ある。すなわち、プレイヤー同士が交渉を行う必然性をルールの中に組み込んだのである。従来のRPGが機能的な役割分担によって(そして、意志決定者が複数であることによるジレンマという味付けもなされた)複数の参加者に存在意義をもたらしていたことを思えばこれは画期的な試みである。と、同時に機能的役割分担の重要性が下がっているということであろう。
筆者は過去、いまだディベロップ過程にあったとあるRPGに関してワンマンアーミー傾向の強いプレイヤーたちに遭遇したが、今はそのようなプレイヤーが多数派をしめているのだろうか?
(ワンマンアーミー傾向と呼ぶのは、彼らが「自分のキャラクターは単独で十分強い」ということを求め、「ひとりひとりは弱くても協力すれば強い」ということを好まないためである)
あるいは確かに機能的役割分担も初期のコンピュータRPGのようにチームを編成し、育成する中で実現できてしまうがゆえにRPGの進化の方針としては不利なものなのかも知れない。
筆者はこの新しい方針についてはまだまだ改良や考え直す余地が多々あるように感じている。疑問を覚えているのはプレイヤー任せのキャラクタプレイを必要なものとしている点だ。しかしこの試みはまだ始まったばかりであり、仮に筆者と同様の疑問が多数派をしめることになったとしても容易に放棄してよいものでもない。筆者はこのシステムがいずれもう一皮も二皮も剥けてよいものになると考えている。
人間が管理するがゆえの融通性をあげる人もいるが、しかしこれは「どこにでもいけてなんでもできる」コンピュータRPGが巨額の予算を必要としたとはいえ、できあがったことからして必ずしも違いといえるものではない。確かに予想外の事態への対応は人間でしかできないだろう。いまのところは。だが、いずれ技術の進歩がそれすらも人間だけのものでなくしてしまう可能性は決して低くない。そうなれば、人間が管理する理由はその人がマスターをしたいから、という理由だけになってしまう。
あるいは共同してストーリーを作り上げるところにこそコンピュータRPGではとうてい実現できない要素があると謳う人もいるだろう。
これはすなわち共同創作のためのエンジンとしてRPGをとらえるということである。これはもう画期的も画期的で、従来のRPGの構造を根本から作りかえることになるだろう。物語の構造や展開、それに機能的な配役というものは類型化可能で、ゆえにシステム化可能である。したがって、従来のRPGでもマシンエイドでシナリオを生成することは不可能ではないはずだが、そのシナリオと展開そのものを作ることを「楽しむ」となるとこれは楽しむ主体ではないコンピュータの出る幕ではない。
もし、「共同でストーリーを作る」ということがただストーリーの中で役割をになうキャラクターを演じる、ということであれば「ストーリーを作る」ではなく「ストーリーに参加する」であるが、これは従来のRPGとあまりかわらない。機能的役割分担をはたすだけで参加は可能である。その充実感を拡大解釈しているのでなければ、相当に野心的な方針ですらある。なぜならマスターは不要となるからだ。
しかし、考えは野心的でも、システムがついてきていないのが実情である。なぜなら、現在のRPGシステムはストーリー生成というものなぞ意識しなかったころの古典的な構造のままであって、ストーリー生成を支援することを目的としたシステムはほぼ皆無であるからだ。一部にそれを達成しているシステムはあるが、それは結局のところゲームの味付けのための部分的な支援でしかない。
ストーリーの大部分は類型的なものをなぞって進展する。ゆえにストーリー生成を支援するシステムは開発可能であろう。そして、それは今までのRPGとは全く姿の異なるものとなるだろう。だが、そのシステムの上ではストーリーはドラマチックにダイナミックに、そしてプレイヤーの配役に仲間はずれは発生しないだろう。無口で創作の苦手な人であっても手軽にストーリーの共同製作を楽しむことができるだろう。しかし、これは先のコンピュータRPG同様、大きな分岐である。同じRPGと呼ぶことに抵抗を覚える人はやはりいるだろう。
(筆者は共同でストーリーを・・・といっている人は実はストーリーへの参加を楽しんでいるだけではないかと思っている。正直いって、ストーリー生成ができる人ならばマスターもできるはずであるが、はたしてそのような人たちのどれほどがマスターを得意としているのだろう?)
こうして現状だけを眺めてもRPG自体はいまだ十分な分化と進化を遂げていないように思える。問題は、ビジネスとしてなりたちにくい現状で、いかにRPGのともしびを守り、育てていくかにかかっているかであろう。
しかし、他に顕在化していない可能性はないだろうか? 筆者の持論を元に考察してみよう。
筆者の持論は特にユニークなものではない。遊びという見地から導き出したありがちな結論に過ぎないと思う。それはすなわち、RPGは多人数遊びとして共有される約束事にくくられるとともに、恣意的に設定できる一人遊びを容認したものであるという構造を特徴として持つということである。
従来のコンピュータRPGともともとのRPGの相違はまさにこの「多人数遊び」であるか否かにあるといってよいだろう。さらにいえば、制限された場での遊びであり、ネットワーク利用のゲームとも少し趣きを異としていると言える。
従って、この側面にこそ卓上ロールプレイングゲーム独自の進化の可能性があるといえよう。
多人数遊びであるということは、他者の存在がなんらかの意義を持つ遊びであるということである。もっとも一般的なのは競技者としての他者だろう。お互いにあい争い、勝ちを目指す遊びがその典型である。しかし、これは多人数遊びの中でも二人遊び、たとえば将棋や囲碁のように1対1の遊技に顕著な特徴である。二人より多人数の場合、状況の変化と複雑さという要素が加わる。特定の他者とはりあってばかりはいられない。勝利を得ようと思えば誰を相手にし、誰に警戒するか刻々と見極めていかなければならない。時には一時的に他者と協力する必要もある。他者の存在はかけひきや謀略の対象となるのだ。これは確かにコンピュータRPGでは実現できないし、どこから見知らぬプレイヤーがふいに登場しうるネットワークゲームでは薄れてしまう楽しみだ。
しかし、RPGでは、プレイヤー同士は相互協力するのが当然と信じられている節がある。相互協力が前提で、さて他者の存在が意識されざるを得ない構造が実現できるだろうか?
空理空論の理想論のそしりを恐れず言えば、対立を前提とした多人数遊びの中に時に協力関係が発生するように、協力を前提とした多人数遊びの中に時に対立関係が発生するような状況は作りだせないだろうか? 前者のわかりやすさ、成立させやすさに比して、後者は不安が多い。目的を一にして、手段の選択に対立の要素をいれるということは示唆的にはこれまでも存在した。そこをもう一歩進めることはできないだろうか?
これまではプレイヤーという人間に頼ってきたそれを、もっとわかりやすく整理し、システム化できないものか? プレイヤーキャラクター一行の行動方針についての意志統一もなんらかのシステム化できないか? 目的はプレイヤー間に適度な緊張を実現することである。対立的な緊張は簡単だが、協力の中の緊張はむずかしい。
しかも、特定の二人のプレイヤー間に現出できるものではなく、たとえそうであったとしても他のプレイヤーの存在を意識せざるを得ないような・・・。
おそらく、この方向にこそRPGの進化の大きな可能性が眠っているように思う。
* 世代論 初期のあまり詳細でもない、いわば最低限の世界設定を用いたものを第一世代、微に入り細に穿ち、どんな立場のキャラでも作ることのできる詳細な世界設定を用いるのを第二世代、異論はあるがたとえばキャラの立場を絞り込みそこを中心に設定をつくりこんだのを第三世代と分類する考え方。
了
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