妄想と感情移入

 二つの観念からこれを結びつける三つ目の観念を発見する。これが思考である。三つ目の観念はまったく新しいものであることもあれば、既知のものであることもある。この三つ目の観念が導き出した二つの観念と相似性をもたないほど思考する人間は興奮するようだ。
 空想も推理推論も、この点では共通している。両者の相違は、論理的な裏付けを求めるか否かにある。想像はこの両者のどちらか、あるいはいりまじったものである。
 感情移入は想像と切って切れぬ関係にある。感情移入する人はその対象について思いを馳せ、それがどのようであるかを想像する。そうやって想像できること、我がものである想像を持つことが感情移入の正体である。そのためには対象は想像をかきたてるものでなければならない。好ましいから感情移入するのではなく、興味深くかつ想像力をかきたてる素材がそろっているからこそ感情移入するのである。
 感情移入はまったくその人の感情に影響を与えてしまうがために、いきすぎると理性と論理よりも感情と願望に流されがちとなる。そうなってしまった想像は妄想と呼ぶべきであろう。まだしも理性に従っていた想像であれば他者と理解しあうのも不可能ではないが、妄想にいたってはもはや他者には理解不能のものとなるであろう。妄想においては、思考の基礎である複数の観念が共有されたものだけではなくその人の心の中にあるものが多くを占めるようになるからである。このようなひとりよがりな妄想は通常は他の者に捨て置かれてしまう。
 RPGにおいて、想像と感情移入に依存する要素といえば、やはりキャラクターをいかにふるまわせるかという点であろう。すなわち一般にキャラクタ・プレイと呼ばれているものである。
 このキャラクタ・プレイを備えている遊びは、ままごとやごっこ遊びをのぞけばRPGくらいしかないだろう。もし他のゲームでキャラクタ・プレイを行えば非常にばつの悪い、恥ずかしい思いをするだけとなる。
 RPGはキャラクタ・プレイのような感情移入の要素を容認しているというのが特徴だ。他のゲームではあってもなくてもいいような架空の一個の人格に対する感情移入(考えても見たまえ、キャラクターの人格はその人だけの想像で作られるのだ! これはまったく感情移入をおこしやすいではないか)こそがなければ味気ない重要な要素となっている。
 しかし、これは妄想を生みやすいという欠点にもなっている。感情移入がいきすぎた結果、現実と妄想の区別がつかなくなり、ひどい場合には情緒不安定で実生活に支障をきたすこともある。
 しかも、通常は「恥ずかしいこと」に属するキャラクタ・プレイが外道(極道とかそういう意味ではない。脇道、おまけ、よけいなものという意味)の楽しみではなく正道として受け入れられているために、妄想に走ることこそがRPGであると思い込む傾向も生まれている。この傾向は夢見がちな若い世代に得に顕著である。もちろん、ひとりよがりな妄想にはなるべく陥らないようにするべきであろう。
 では、RPGにおける妄想とはどんなものだろう?。
 私はそれを憑依妄想と呼ぶことにした。いわゆるミューズのおりてきた状態である。プレイヤーはまるで自分がキャラクターに突き動かされているかのようにふるまう。もはや彼らの目には自他かかわらずプレイヤーは見えない。感情移入に目が眩んだ状態である。実際には、キャラクタプレイがその人のトラウマや当面の悩み、願望といった内面的なものに同調しているだけにすぎない。従って、憑依妄想のプレイヤーのキャラクタプレイは青臭い泣き言や生臭い欲望といった生々しいものであったり、小説やマンガの登場人物を表面的になぞったものであったりする。彼らのキャラクタプレイはその場にふさわしいものでなかったり、客観的にはあまりにも不自然なものであったりする。
(これと別に、投影妄想とでも呼ぶべきものもある。これは、他者の人格を認めることのできない幼稚な精神の持ち主がおこしがちな妄想で、主に対象は他人のキャラクター・プレイやNPCのそれにある。もっとも下司で報告も多いものには女性プレイヤーに女性キャラクター、それも「男に都合のよい」キャラクターを演じさせようとする男性プレイヤーの存在がある。彼らの目的は他人に自分の都合のよいキャラクター・プレイを演じさせて、自分は軽い憑依妄想を通して悦に入ることである。要は他人のキャラクター・プレイに対する干渉なのであるが、干渉の中には明らかに変であることを指摘する場合もあるので、見分けがつきにくいというより、軽い投影妄想はうっかり犯してしまう危険があるということに注意せねばならない)
 憑依妄想とというのは、いわば「なりきり」である。妄想である以上、普通は他者に理解されもしないし、他者を理解もしない。しかし、独創性のないなりきりの場合、過去に触れた創作物の何かをなぞっているだけの場合が多いために、もしそれが共通の知識として存在した場合には理解できてしまうのである。だが空想の暴走状態である妄想にある彼らはそれをあまり気にしない。いや、むしろ彼らを動かすキャラクターの心が触れあっているかのように考えようとするだろう。また、同じトラウマや悩みを持つような共通の体験をしていた場合、それにもとづく憑依妄想も共感となる。戦友がいつまでも強い連帯を感じるのと同じである。しかし、これは結局自己の内なるものを再確認し、孤独ではないと自らを慰めているにすぎない。それが人間というものである。ただし、これは妄想にいたるよ以前、人の思考というもっとも大きなカテゴリー全体に通じる話であって、憑依妄想だけの話ではない。ここで妄想と呼ぶものは感情移入の歯止めがきかず、完全に暴走した状態である。理解しあえることは既知のことばかりで、新しい発想は受け入れがたい。受け入れるように見えても、それは表面的なことだけで自分の妄想で作り上げた偽物なのである。
 憑依妄想におちいっていない人は、客観的に自分のキャラクターを眺めることができるし、同様に他のキャラクターを眺めることができる。おかしな点があれば補正できるし、視点の混乱がないだけに自然なキャラクタープレイが可能だろう。そして他のプレイヤーのキャラクタープレイを理解して、自分のキャラクタープレイを相応しいものに調整することもできる。プレイヤー同士が和やかに談笑しながらキャラクター同士が相手の細胞の一片も存在を許せないほど憎しみ争うキャラクタープレイもできるだろう。あるいはプレイヤー同士は仲が悪いのに、キャラクター同士はドラマティックな恋愛のキャラクタープレイをできるかも知れない。
 これもまた、ゲームである。妄想に堕さないキャラクタープレイは、プレイヤーの人間に対する理解の深さをしのぎあわせるマルチプレイヤーゲームとなりうるのだ。このゲームに必要なのは、その勝敗にこだわらない紳士的なゆとりと、洞察力だけである。そして、これがRPGに魅力を与えているものから生まれたとはいえ、モラルと誇りだけにささえらえているだけのサブゲームであるという理解である。精神的に未熟な人間には到底できない遊びであるし、また成熟の度合いによっては勝負にならないこともある不公平なゲームである。しかし負けることによって得ることのほうが多いゲームでもある。このゲームに、いわゆる演技は不要であるし、ましてやなりきることなぞ有害でしかない。  しかし、感情移入の魅力のせいか、そこまで高度なプレイの応酬を見ることはめったにないのがまことに残念である。


 追記:ミューズの降りた状態である憑依妄想はいついかなる時も有害無益なものというわけではない。これは芸術を生み出す原動力でもあるのだ。妄想によって生まれた未精製の芸術を精製し、磨き上げれば優れた詩や小説が生まれることもある。しかし、未精製のものとは廃棄されるべき物も含まれた状態である。妄想とそしられようと自分の空想に価値があると思うならば、RPGというその場限りの、そして安直な手段に頼らず、きちんと創作をおこなうほうがよいだろう。


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