売れないTRPG
TRPGはなぜ売れないのか、売れなかったのか?
今日はそのことについて考えてみよう。
売れるもの、普及するものとはどういうものであろう?
一つは時流にのったものである。十数年前にはコンピュータRPGの普及に、数年前はファンタジーブームに載ってRPGは多くの商品化の機会を得た。しかしこれらはいわゆる関連商品として、需要の隙間を埋めたに過ぎない。
一つは手軽さと魅力である。手軽である=使う機会(RPGなら遊ぶ機会)が多いと考えていただきたい。
そして魅力。これは使う機会(遊ぶ機会)を持ったとき、どれだけ楽しかったり楽であったりしたかということである。この二つを何らかの方法で数値評価できたとすれば、売れて普及する度合いは手軽さ×魅力で評価できるだろう。パソコンなら、非常に高性能でも高価なものあまり普及せず、非常に安くても性能がさっぱりでもあまり売れず、性能はそこそこで値段も手ごろなものが普及する道理である。結局、これは個人個人ではどの程度の代償や犠牲をそれに支払ってもいいと感じているか、そしてそのような人がどのように分布するかにかかっている。
時流によって2回ほどチャンスを得たRPGが、その波の去った後も残余しつづけたのも、そしてそれ単独ではそれほど普及しなかった理由もここにある。
では、RPGの普及を阻害したものは何であろう? 手軽さか? それとも魅力か? あるいは両方ともであろうか?
確かに今日、RPGの手軽さには難がある。コンベンションなどのイベントは大都市圏、特に首都圏でなければ十分にあるとはいえない。一人ではできない遊びであり、二人でもどうも気まずく、4人は集まらないと楽しめない。4人も人がいれば、都合の良い日でうまく重なる日はかぎられる。しかも、一度のプレイで何時間もかかってしまう。将棋のように盤をそのまま、だめでも棋譜を残しておけばいつでも再開できる遊びでもない。続き物をやるなら参加者の記憶や印象が風化する前にやらないといけない。
あまりやらない遊びのために、グループで一セットあればことたりるゲーム本体を買う人はそう多くはないだろう。安く、入手を容易にするのはそれを緩和できるだろうが抜本的な対策ではない。
しかし、時流の後押しのあったころならプレイの機会と相手に限れば手軽さの面ではかなり良好であったはずだ。状況は今日よりかなり良好だったはずである。したがって、ここで遊戯人口をある程度以上維持できれば時流の後押しがなくなっても、最盛期の手軽さは確保できたはずである。
では、RPGには魅力がなかったのだろうか?
現在もRPGを愛好する皆さんなら、きっと「No!」というだろう。
だが、今もRPGを愛好している人たちは、RPGを取り巻く環境がきびしく手軽さに欠けていてもRPGに魅了されているコアな人々であるということを考えてほしい。RPGを遊ぶためにあるいは人間の屑が来るかも知れないコンベンションで一日棒にふるリスクを冒し、あるいは得意といえない英語で記述されたルールブックをせっせと読解し、あるいはわざわざ遠くまででかけてゆく。そんな稀有な人たちなのだ。
であるから、自分たちを基準に考えるのはやめることにしよう。
RPGには魅力がないのだ。もう少し救いのある言い方をすれば、十分な魅力を持っていないのだ。すなわち、RPGにとって最良の時の手軽さをもってしても人を引き付けておくに足る魅力に欠けていたのだ。
RPGのどのへんが魅力を欠いていたのだろう?
まず、その非均質性である。ルールと勝敗の厳密なゲームであれば、さいころと相手の力量以外の変動要素はない。だが、RPGには「ゲーム参加者の解釈」が存在する。ルールは必ずしも厳密には適用されず、特に各プレイヤーの管理するキャラクターの解釈については通常はそのプレイヤーに任されている。そしてゲーム管理者にはその判断でルールの変則運用ばかりか即興のルールの案出適用、はなはだしくは判定不要で結論を導く権利すら許されている。そのゲーム管理者も、しばしばその場の雰囲気やプレイヤーの剣幕や泣き言に押されて判断のしかたを変えることしばしばである。すなわち、卓を囲む面子によって、RPGはゲーム自体がまるで変わってしまうことになる。
その自由度こそが魅力的であるというのは今もRPGをやりつづけているコアな人々の言葉に過ぎない。RPGの普及という面からすれば、この自由度こそが魅力をそいでいるのだ。
ルールを心得、ルールをうまく利用して他のプレイヤーを出し抜き、打ち勝つという通常のゲームの明瞭な構造にくらべて、ルールをうまく利用してもゲームの流れを掌握することができず、何をすればいいかもわかりにくいRPGはとてもわかりにくい遊びである。こんなあやふやなものに魅了される人は少ない。なんだかわからないものにかかずらわるより、世の中にはもっと明解で楽しみ方もすぐにわかる遊びは多数あるのだ(しかもRPGなんかよりよほど手軽だ)。
そしてまた、もう一つの決定要素である面子の問題がある。ワインと泥水のたとえは御存知だろうか? どんなにすばらしい面子でも、一人ひどい問題を起こす面子がいれば台無しになりかねない。そのようなプレイヤーの起こす問題は解消不可能ではないから、ワインと泥水の例えは厳密にあたらない。しかし、自然の浄化作用に限界があるように、その害毒が程度を過ぎれば制御不能に陥ってしまう。特にゲーム管理者に問題がある場合は致命的である。もっとまずいのは、全員が問題と認識していない問題があった場合である。そうなったら、もはやフォローもなしに普通の人はダメージを受け続け、うんざりしてしまうだろう。特にコアなRPGファンで初心を忘れてしまった人は要注意だ。
しかし、なんといってもRPGの魅力をそぐもの、それは羞恥心であろう。
何年か前、NHKの青春探訪という番組でRPGが紹介されたことがある。番組の作り方にいろいろ異存はあるだろうが、何をおいてもあの中で映像となったプレイ風景がいかに恥ずかしいものに見えたかという点が問題である。いわゆる「演技」の部分の映像で、演技にいたる前後をカットしているためになおさらに「演技」そのものが強調されている。しかし、あの前後をきちんと放映しても視聴者をうんざりさせ、チャンネルを変えさせる以上の効果は期待できなかっただろう。そして、レポーターである江川紹子氏に「やってみればわかるよ」と誘うRPGプレイヤーたち・・・。
この番組が例え偏見と先入観だけで構成された番組であったとしても、RPGの普及をはばむ最大の問題点を遠慮なくえぐっていることに間違いはない。
RPGにおける演技は、空想と陶酔の表出したものである。自己フィードバックであり、他からのフィードバックを求める訴えである。すっかりなりきっている時にはもはや自己陶酔といってさしつかえない。しかし、そのように陶酔している姿というのは他人に見られたくない恥ずかしいものだ。なぜかといえば、それはむきだしの心であり、もっとも弱いありのままの裸の姿だからだ。その真の姿は願望、劣等感、郷愁、嫉妬等様々であるがいずれにしろ心無い言葉で傷つけるのは実に容易だ。
自己陶酔は心地よい。しかし水をさすのは簡単だ。しかし心のおもむくままの姿というのは心の醜さにも身を任せているということだ。わずかでも人倫を心得ていれば、そんな姿を人目にさらすことには耐えられまい。すなわち恥ずかしいのだ。
特殊な趣味の持ち主でもないかぎり、性交する姿を自分たち以外に見せたいとは思わないだろう。初々しい人ならば相手にもあまり見られたいと思うまい。性交には獣じみた印象があるからだ。他人に性交を見せて平気というのは、そういう趣味でないかぎり羞恥心が麻痺してしまっているか、恥ずかしいという意識が元からないか、あるいはお互い様という約束でくくられた状況にあるかだ。そういう意味では、RPGのプレイは乱交パーティに似ているとも言える。想像していただきたい。演技するのが自然の仲間うちに演技なぞバカのやることだと公言してはばからない人が混ざってRPGを遊ぶという状況を。ひどくやりにくいに違いない。
「やってみればわかるよ」と誘う行為は誘われているほうからすれば乱交パーティに誘われているようなものだったわけだ。興味があっても乱交パーティに参加するにはやはり抵抗があるものだ。そして興味のない人からすればとんでもないことというわけだ。
RPGの楽しみを知っているみなさんに反論は多々あろうが、これがRPGがどのように見られるかという実情であろう。そして、このような世間様の印象そのものはまるまるすべてが誤解というわけではない。
ソードワールドRPGのリプレイについては功罪さまざまにうったえられているものの、RPGに多くの人を導くことに大きな効果をもっていた。まず読み物としておもしろいように編集され、さらに文章での表記ゆえに読み手をプレイ参加者の視点に導くことに成功している。特に手軽な読み物にしあがっている点は大きい。ソードワールドがビジネスとして成功したのもむべなるかなと筆者は思う。これが客観的にプレイ風景を俯瞰するような視点に導くものであったなら、そうはいかなかっただろう。
羞恥心は初心者などRPGに詳しくない人をRPGから遠ざけるばかりではない。RPGに馴染んだ人を遠ざけることもある。
演技にはしばしばその人のエゴが表出する。それは演技をともなわないキャラクタープレイにさえ潜む危険である。要は・・・それが鼻につくということだ。同じくらいの成熟度の精神であれば他人のエゴにうんざりし、成熟した精神の持ち主はあまりに子供じみた感情の吐露にはうんざりする。また、願望や劣等感といった感情がある程度満たされてしまっても我にかえるがごとく恥ずかしさを覚えて遠ざかるだろう。結局、内にためこんだものが解消、昇華されることでついてゆけなくなるのだ。
ここまで書いてきて筆者ははと思った。はたしてこれはRPGそのものの不可分な性質なのか、それとももっと他にあるRPGの魅力をそいでいるだけの不純物なのだろうか?
もし、不可分の性質であれば、何をしようとこの先もRPGは十分に普及しないだろう。製品は小さな会社で極力安普請にしあげたものでしか提供できないだろう。だが、もし、不純物であればそれを排除あるいは少なくとも外道とすることで普及へのめどがたつかも知れない。
はたしてどちらなのか、それについてはまた別に考察してみよう
目次へ
ご意見ご感想掲示板
雑文に対する絶賛や非難などご感想をお書きください。内容に関するご質問もこちらへどうぞ。
ただし、この掲示板は感想用に限定させていただきます。スクリプトも簡易なもので、議論には適しません。ご遠慮ください。(筆者も内容に関する質問に答える以上の応答はいたしません。内容から二次的に導かれた質問については、お答えせず、いつか別の雑文や論考でお答えできるよう思索を深める所存です)