
金場沢、小金沢、黄金沢、金山沢、金沢、赤沢、赤川、黒川、金谷川、赤谷、赤岩沢、金掘沢、
金洗沢、牛金淵、金掘、玉金、真金、小金坪、金明、金鶏山、金森山、金峰山、精錬場尾根、二番小屋尾根、金野、金平、千軒平、番兵小屋、御屋敷、遊女平、女郎郷、女郎ゴーロ、遊女屋敷、女郎屋敷、黄金橋などは金鉱山にまつわる地名と言われています。

黒川金山は中里介山の小説 “大菩薩峠” の頂である
大菩薩嶺 (2056.9m)の北方、黒川鶏冠山(くろかわとさかやま 1716m) の中腹にあります。左の写真は鶏冠山の山頂にある黒川鶏冠(とさか)神社の奥宮です。この宮には、大同2年(807年)と刻まれた鰐口(わにぐち)と、天正5年(1577年)の銘の入った金鏡が奉納されていたと言います。
右の写真は黒川金山から少し登った位置から見た黒川鶏冠山の頂きです。
写真の右斜め下方向が黒川金山、
黒川千軒 (1200〜1400m)になります。
坑口、坑道、坑道の陥没ヶ所、製錬場、作業場、石組み、炭焼場など、また雛壇に整地され、作業場も兼ねたであろう居住地は建物もなく草木に覆われているものの黒川千軒の形跡を今に止めています。
黒川金山の北方、一之瀬高橋地区には
竜喰谷金山、牛王院平金山 、更に北方、奥秩父には牛王金山、股の沢金山、日窒鉱山、荒川鉱山などもあり、
地図 をご覧になれば、これらの山域には金鉱山に由来する前述の地名が数多く残されていることにお気付きになられることと思います。

黒川金山の史実は武田晴信(信玄)の隠し金山であったという伝説とほぼ一致しているといいます。武田信玄の親、信虎の代(1530年)に始まり、信玄の子、勝頼の代で廃坑(1576年)になっています。46年間に亘って採鉱されていたことになります。
多摩川の源流
水干(みずひ)や、竜喰谷(りゅうばみだに)、大常木谷(おおつねぎだに)など標高2000mの山塊からの水が集約された一之瀬川に柳沢川が合流し、更に下流右岸で黒川と泉水川が合流します。この地点が
三重(三条)河原 で、武田一族が金山を手掛ける以前には砂金掘りで相当賑わっていたといわれています。
黒川の上流、黒川金山(標高1200〜1400m)では、
狸穴と称される、人が屈んだり這ったりしてやっと通れるような
間歩(まぶ)から鉱石を掘り出していました。黒川金山の地下にはモグラの穴道のように間歩が縦横にはり廻らされています。年月を経るとともに間歩は陥没を繰り返し現在ではあちこちに大小の
陥没穴 を見ることができます。過去に金山に足を踏み入れて、帰らなかった人もいたそうです。
現地では、山道からそれないように注意して下さい。
黒川金は花崗岩と石英からなる
鉱石 (写真左上)の中に金粒が肉眼でも確認できる
自然金 (写真左)として存在しています。

この時代には露天、又は坑道から掘り出した鉱石を平らな台石の上で、まず叩き砕き、次に
色々な擂り臼(すりうす 写真右は小さい擂り臼)に砕いた鉱石を入れ、擂り石を手に持って細かく擂り潰し、この粉砕鉱を小さいむしろ(ネコダ)を敷いた盆状の器に入れ、水を使って、岩くずなど余分なものをとり除き、比重が重いためにむしろに残された金粒を選り集めるという方法で製錬していました。
石臼 (写真左と写真右下、写真左の臼に残る円形の線状痕は臼を回して鉱石を粉砕した時にできたものです。)、流し板を使って流水で金を選別(ネコ流し)し、大がかりに金を製錬するようになったのは後代に入ってからだといわれています。
選り分けられた金粒は精錬され、初期には甲州金(秤量貨幣)に、後には計数貨幣に仕上げられるようになりました。そしてこれが武田の莫大な軍資金(一説には48万両)として用立てられたと言います。
最盛期は信玄の時代で、鉱山の住人は1000人近くに達していたといいます。金山衆(かなやましゅう)は武士も兼ねていましたので、いざという時には戦にも加わり、坑道掘り、採掘、水抜き坑道の技術など鉱山で身に付けた技を駆使し、敵城の石垣を崩したり、井戸の水を枯らしてしまったりしたそうです。
勝頼の代に入ると鉱脈も尽きて、抗夫もこれを雇う金山衆も近隣の鉱山に出稼ぎしたり、坑道掘りで身に付けた技術を生かした仕事に従事したりしていました。
長篠の合戦で敗れると、織田、徳川軍に金山を利用されるのを恐れ1576年に廃坑としました。この時に鉱山の機密が漏れないよう口封じの為、いわゆる
“おいらん淵の伝説”の主役、女郎達 の残酷な処分が行われたと言います。
徳川時代に入り、大久保長安により黒川金山は再掘 (1582年) されたといわれています。その後、ついに黒川千軒の集落の住人のほとんどが一之瀬に移住(1658年)しました。黒川千軒もすっかり寂れてはしまいましたが、実際には1750年ごろまで黒川の集落は存在していたといわれています。
一之瀬集落 (標高1200m) に移り住んだ金山衆はそれ以後、長い間農林業に携わっていました。江戸時代(1863年)に金山衆の子孫の有志が黒川金山に隣接する場所を、金を求めて採掘を試みようとしましたが、地権などの諸事情に阻まれて目的を果たせずに終ったといいます。
明治時代に入ってから金山衆の子孫ではなく、他の手により何度か金山の再堀、再開発事業が興されましたが何れも採算がとれず失敗に終わっています。
現存する坑道 はこの時のものと考えられています。明治45年(1912年)に東京都(当時は東京市)水源林となってからは金の採掘は禁止され現在に至っています。
一之瀬高橋に伝えられている華やかな
“春駒踊り”は金山衆の末裔の集落である証ではないかといわれています。