女性自身
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人間新シリーズ No.1503+45
「見えなかったから、私たちは出会えた」・・・・・・。 その人が立つ場所だけ、風が吹き抜けたかのようだった。 「どんなことでも絶対になんとかなると思っています。目が見えないことで割り引いて見られるのは嫌だから、努力でできることはなんとかしようかな、と」。笑顔でそう語りながら、化粧ポーチから出したのは1本の口紅。唇の輪郭にそってすーっと引く線は、まったくはみ出しもしない。お見事。 準備が整った理絵さんが、壁伝いに舞台のほうへと動きだした。舞台の袖のとこるに、肩まで髪のある男性がいる。へッドフォンをつけ、なにやら録音機をいじっているふう。「ステージが終わったら一緒に口ピーに出ようよ」。理絵さんが話しかけると、彼が振り向いた。夫の良英さん(33)なのだ。「ねえ、これ見て見て」 理絵さんが艮英さんの手をつかんで、ドレスのフリルの部分に導いている。昨年6月に結婚したぱかりの2人、まだ熱い、熱い。 その仕草でわかるとおり、良英さんも幼い時に光を失っている。けれども今は、企業で、鍼灸マッサージの仕事をしながら、視覚障害者のマラソン大会では知られた存在。ソプラノ歌手とマラソン選手という、なんとも元気なご夫婦なのだ。 午後6時半、開演。客席のざわめきが消え、ピアノが静かに歌いはじめる。そして、ピンクのドレスが、スポットライトに浮かび上がる。伸びやかな、伸びやかな歌声が、ホールいっぱいを満たしはじめた。 テンポが、変わった。弾むようなリズムに乗って、理絵さんの手が踊っている。客席と舞台が一体になっている。いや、袖にいる良英さんも、いっしょに体を揺らしている。また、一陣の風が、彼女を包んで通り過ぎた気がした。
’74年4月。北九州市で鍼灸院を営む澤田光春さん(故人・享年63)とハツエさん(現在58)の夫婦は、初めての娘を授かりながらも気が気ではなかった。 「少しでも視力が戻ることがないかと、両親は私をいろいろな先生に診てもらいに連れていったようです」 家に帰ってごはんを食べながら「今日何があったの」と両親に聞かれると、彼女はこう答えたのだという。「お絵描きの時間に『変な絵』って言われたから『ばか』って言ってやったんだ」小学校も、普通校に行かせたがった両親だったが、それはかなわなかった。福岡県立の盲学校に入学。低学年の間は白い杖を必要としなかったが、症状は確実に進んでいく。「小学校4年生のころでしょうか。漢字の画数が増えてくると、1個の漢字が1度に視野に入らないんですよ。見えている範囲が、健常者よりも狭いんです」 しかし、理絵さんの心に重くのしかかってきたのは、次第に見えなくなるということよりも自分が置かれている状況だった。「健常者の人から見れば視カが失われていくというのがよほど怖いことのように思うのでしようが、私の場合は『そういえば、最近あれが見えないな』という感じ。父も母も私より見えなかつたので、それほど抵抗がなかったのかな。それよりも、自分がいる環境が嫌でしょうがなかった」 地方の盲学校は生徒の数が少ない。理絵さんのクラスはわずか4人で、彼女よりも重いハンディキャップを持った児童ばかり。親しい友達はおろか、競争相手も、ケンカ相手も、話し相手もいない生活が続いていたのだ。 家の引っ越しも重なり、近所に友達もいなくなった時だった。理絵さんはついに母に対して爆発してしまう。「『見えないってわかっているのに勝手に産んで、私が苦労ばかりかけられているのはおかしい』って言ってしまったんです」 母の反応は激しかった。彼女は包丁を持ち出すと、逃げ回る理絵さんを追いかけた。そして、こう言ったという。「そう、私が勝手に産んだと思っているんなら、勝手な命を私に返してちようだい」 八方塞がりの日々のなかで理絵さんが今でも覚えている光景がある。父の光春さんと一緒に、博多湾の夜のクルージングに出た時のことだった。「漁り火が見えました。その向こうにすごく大きな山があって。月が明るくて、空が乳白色できれいだったなあ」。それが、理絵さんの目がとらえた、最後の外の風景になった。生きるということの道筋を閉じられてしまっていると感じていた少女は、外界の光景を目で感じるすべ 音楽の道を反対した母の願いは”子供は親より2割増しで幸せに” 生きることからも、見ることからも閉ざされたと感じていた理絵さんに一筋の光をもたらしたもの。それこそが音楽だった。音楽好きな両親のおかげでいつも何か音が流れている家。6歳の理絵さんが自分からエレクトーンを習いたいと言いだしたのは自然の成り行きだったろう。 やがて、クラシックに飽きたらなくなった彼女は、バンド活動にものめりこんでいく。「中学2年の時、女のコだけのバンドを組んで文化祭に出たら大人気で」。それがきっかけとなり、ボーカルやキーボードをこなす一方、自分でも作詞作曲。他校の学園祭や、駒込、大塚あたりのライブハウスに出没していたという。 中学3年のころ「ほんの出来心で」受けた音楽コンクールで入賞し、「高校は音楽科に行って、音大に進もうかな」という気持ちが芽生えはじめた時だった。「母が猛反対したんです」。とにかく手に職をつけてほしいという母の願いは、彼女自身がそうしてたくましく生きてきた人だったからに違いない。母・ハツエさんは 心配はしても、自らも、米軍の奨学金を得て高校に進んだほどのハツエさんが、2割増しの幸せを目指す、娘の元気な生き方を止められるわけはなかった。盲学校高等部の音楽料から、武蔵野音楽大学声楽科に進んだ理絵さんが、授業のためにグランドピアノを買った時。「私は、足踏みオルガンをどうしても欲しかったのに、買ってもらえなかった。それが娘では、グランドピアノまで出世したわよ」。そう言ったハツエさんには娘の幸せは「2割増し」どころか何十倍にも、大きく大きく見えたに違いない。 入学当初は「オ能がない」と悩んだ理絵さんだが、高校の時の先生のアドパイスもあって、ふっきれる。2年生の時には150人から上位8人が選ばれる演奏会にも。もちろん、目が見えないということで甘く審査されているわけではない。もはや理絵さんは健常者に伍して堂々と音楽の道を歩みはじめたのだ。 そのころの日々の生活の話を聞いても、どうかすると目が見えないのだということをこちらが忘れてしまうほど。渋谷や原宿へもためらわずに出かけていき、買い物を楽しむことも多かったという。「白杖を使って、五感を澄ませば、不自由はないんですよ。『パン屋の角を曲がってください』と言われれば、鼻をくんくんさせてパンの匂いを探す。曲がり角は、風ですね。両側に壁があると、風が前後にしか流れない。 音大4年生の夏には「第22回愛のステージ」コンクールで三笠宮寛仁親王妃信子殿下の特別賞を受賞。審査員だった神津善行氏と出会い、2ヶ月後にプロデビュー。幸運なスタートだった。 ’97年3月卒業。翌年の24時間テレビ「旅立ちの時コンサート」にソリストとして出演するなど、国内はもとよりウィーン、ニューヨークなどへも活躍の場は広がるばかり。そして、その幸せな日々の頂点というべき出来事。それが、夫・良英さんとの出会いだった。
JR三鷹駅の近くのマンションが、理絵さん夫婦のお宅である。きれいに整理整頓された室内。天井まで届く棚にはレコードやCDがびっしり。「僕も歌やトランペットを10年ほどやりましたから。音楽を仕事にしたいとも思ったけど、彼女の大変さを見ているととんでもない寝言を言っていたな、と思います」。 そう言って笑う良英さんの向こうで、理絵さんはタ食の準備。冷蔵庫から取り出したアスパラガスを手際よく切りそろえると、沸騰した鍋に放り込む。「お湯は沸騰する音でわかります。妙めものの場合はかさ。お箸で混ぜていると、キノコも玉ネギもかさが減って”箸触り”が軽くなるでしょ。逆に、油がしみ込んで重くなるのもあるけれど」。なるほど。では失敗することはめったにない? 「うちの夫は、ちゃんとそれを食べて 良英さんが混ぜ返す。 「『おいしくない』と言うと、『もう作らない』ってなるので、『ちょっと辛くないかね』とか『固いかなあっ』とか・・・・・」。お互いの気持ちを、ふわっと思いやる。たとえば、理絵さんが夫と一緒に走りはじめたのもそんな理由だった。 シドニーパラリンピックの国内予選で2位に入ったほどのアスリートの良英さん。週に2度の10キロ走は欠かさない。そんな時、夜聞いてほしいことがあるのに「疲れている」と寝てしまう良英さんに対して理絵さんが起こした行動は、文句を言うのではなく一緒に走ることだった。 「そうしたら、私もご飯食べながらそのまま眠ってしまって。ああ、こんなに疲れるものなんだなあ、と」。 理解できただけではない。理絵さんは良英さんと同じ大会に出場できる喜びも得た。たとえば、9月。韓国・済州島で行われた、第1回日韓親善盲人マラソンでは、仲よく走る2人の姿が見られたのだ。 「お互いにやりたいことを認めてあげるという気持ちが、絆の底にあればいいんです」。そう言う良英さんだが、出会ってすぐに2人はその絆を試される出来事に遭遇する。 馴れ初めは、98年3月。飲み会で知り合った2人はすぐに互いに好意を持つ。しかし、その時それぞれは人生の転機を迎えていた。 「僕はマンションを購入しようとしていた。そのことを切り出すと、彼女はアメリカ留学が決まっているというじゃないですか」。国から奨学金をもらってのカリフォルニア大学バークレ校アート科への留学。期間は 良英さんは言う。 「僕が『行くな』と言ったら、彼女は行ったと思うんです。引き止めなかったのは、本心から、頑張ってほしかったから。彼女自身が決めるべきだと信じていたので」 理絵さんの決断は、今度は結婚をためらう良英さんの背中を押した。 ’99年6月12日、結婚。 コンサートがうまく行かない時。仕事があまりない時。理絵さんは良英さんに八つ当たりすることもあるという。 「けれども、僕はけっして『頑張れ』とは言わない。理絵のことだから、頑張っている結果がこうなんだ。頑張っていないわけはない」。聞いていた理絵さんの頬がさっと朱を刷いたようだった。 「『頑張れ』というほど無責任な言葉はないと思います。頑張っている人には酷な言葉です」 もちろん、その根っこにはお互いの人生に対する限りなく深い理解がある。「鍼灸というのは、いわば視覚障害者にとって王道てす。それに比べて、歌というのはきっと細い細い道なんです」。良英さんは言う。応えるように、理絵さん。「私は、目が見えなくてよかったとは今でも正直、言えません。でも、見えていたら ほっくりとしたアスパラガスの香りが漂ってきた。窓の外にはタ闇がせまってきている。しきりに照れる理絵さんにお願いして、ようやく1本のビデオテープが出てきたのはそんな時。2人の結婚式の模様をおさめたものだ。会場で2人は、それぞれが作詞作曲した歌を交換している。理絵さんはピアノで。良英さんはギターを伴奏に。
暖かい風がながれると (一部略) 「角にくると風がピュッと流れるんです」。人生の曲がり角にも、彼女は頬で感じていたのだ。 歌姫が立つところに、いつも風を感じる理由が、すこしばかりわかった気がした。 長い長いアンコールの拍手のなかで、3人の出演者がスポットライトをを浴びている。いや、3人と1匹。理絵さんの横には、楽屋でおとなしく待っていた盲導犬のエミリーの姿も。彼女がこよなく信頼する5歳半のラブラドール・レトリバーだ。ロビーに出た理絵さんを大勢の人々が取り囲む。 「理絵ちゃんおめでとう」 駆け寄ってくる人々の思いの重さに、記者は理絵さんがみんなに分けてくれているのは、歌声だけではないのだな、ということに今更ながら気づいた。 「こら、エミリー」。エミリーはちょっぴり興奮気味で、理絵さんのドレスの裾に鼻を突っ込もうとしては良英さんに引き綱を押きえられる。花束を理絵さんに手渡そうとする人々の渦は終わらない。5分もたっただろうか、理絵さんの両手は花でいっぱいにふさがってしまった。いったいどうするのだろうと見ていた時のこと。 その瞬間だった。人々の熱気で蒸れたロビーの中を、また風が走り抜けていったような気がしたのは。 コンサートの後なのにもかかわらず、青空の下を走る、2人の吐息が聞こえたような気がしたのは。 結婚式のあの歌のこんなフレーズが蘇ってきた。 さあ、いっしょに飛び立とう
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