本文へジャンプ 私の好きだったバー
 「好きだったバー」と過去形を使ったのは、2006年11月現在85歳となり脚が弱り、バー通いが出来なくなったのと、現存している私の好きなバーに触れず、無くなったバーだけに触れているからです。Blogにも書いておりますように、高齢になっても好きな酒はやめられず、家では相変わらず嗜んでいます。

◆.オールド・サンボア

◆.コウベ・ハイボール

◆またの様記事
1、コウベハイボールの思い出
2、懐かしのコウベ・ハイボール
3、神戸のバーあれこれ
4、想い出のウウベハイボールのバックバーとの再会



◆オールド・サンボア

 
 
手元の『都会のBAR 極上160店』(光文社ブックス6・2002年12月25日)76頁「北新地サンボア」の記事に、「関西でサンボアといえば、知らぬ者のいない老舗のバーである。」とあります。私は1981年の60才まで大阪堂島に勤め先があったので、「堂島サンボア」によく通っていた。その頃は「サンボア」は「知る人ぞしる」程度でした。東京の通も知っていたので、洋酒好きにはかなり知られていたであろうが、知らない酒好きも多かったのです。

 私が堂島にいたころは「北新地サンボア」はありませんでした。その後オープンした店だそうです。堂島一丁目の「堂島サンボア」は、いまもあるようですが、かなりの老舗です。私は洋酒は主にここ、時折同じ曽根崎のパブスタイルのジントニックの美味い店で呑んでいた。
ビールは梅田新道東南角の同和火災地下のビアホール、のち閉鎖されましたが、料理が豊富で美味でした。このビアホールでは、ビールのアルコール度数では物足りない酒豪のために、BOLSのジェネバ(陶器入りのオランダジン)を脚付きの細いグラスにいれて、一人1杯の制限つきで売ってました。これを生ビールに割って呑む方法もありますが、私はストレートで、生ビールをチェイサー代わりにして呑んでました。
 日本酒は曽根崎本通りのサラリーマンに良く知られた板前料理店でした。

 しかし私にパブスタイルの魅力的なバーとして、洋酒の味を覚えさせてくれたのは、昭和27年末、大阪駅前の第一生命ビル地下にオープンした「オールド サンボア」でした。この店は昭和29年9月10日に、ビルの改装に伴い閉店したので、二年ほどしか営業しなかったことになります。経営者の岡西さんは神戸の元の朝日会館地下に信州そばの店を開き、私もそば好きだから、よく行きました。「天ざる」と「ざるそば」二つを食べるのが常でした。美味しいので、よく流行っていました。美人の奥さんが、色白の顔によく似合う紺絣を着て忙しく働き、調理場は全員中高年の女性、男は一人もいなかったが、美味いそばを出していました。この蕎麦屋も朝日会館の建て直しで閉店、その後のことは知りません。

 当時「オールド サンボア」の入っていた第一生命ビルには、占領軍の財閥解体により、解体された三菱商事の分轄された一社が入っていた。したがって客筋は三菱系の重要なポストにある人が多いようでした。若い人は私ぐらいで、三菱系の若い人は遠慮していたのであろう。
 経営者の岡西さんのカウンターの前には、これら三菱系の年配者、私は若い真面目そうなバーテン相手にハイボール二杯、ジンフィズ一杯、とどめに「何か変わったもの」と注文するのが常でした。すると若い真面目なバーテンさんは、色々新しいものをつくり、講釈し教えてくれる。この話を聞くのが楽しみでした。
そのとき教えてもらった内の一つが「Picon Punch」です。「ピコン」は私が呑んでいた頃は、ラベルに綴りは忘れたが「アメールピコン」と書いたあったと記憶してます。「ピコン」について調べると、洋酒取扱店「アラックJP」のホームページに下記のように説明があります。

ピコンはアメール・ピコンの創設者の名前。フランス陸軍軍人としてアルジェリアに派遣されたガエタン・ピコンがアフリカ現地で使われている薬草に興味を持ち薬草酒とし作ったそうです。カンパリなどと同様のビター系リキュール。


手元の錬金社「ペア仏和・和仏辞典」という小辞典によると、「amer(アメール)」の意味は「苦い(bitter)」とあります。
 若いバーテンさんの説明では、薬草のせいで体が冷え、酔いが覚めるとのことでした。「Picon Punch」の作り方は、10オンスタンブラーにピコン・グレナーデンシロップ・グラニュー糖・レモン半個を絞る・氷のキューブ・冷えた炭酸で満たす。接待で洋酒に強い人の相手をするのに宜しいです。
 ウイスキーに強いだけの人は、「Picon Punch」のことは知らない人が多く、聞くのも沽券にかかわるから、私の飲み物を怪訝な顔をしながら、ウィスキーを煽っている。そのうちダウン。当方は酔いが醒めかかっている。いい段取りでしょう。

  京都・祇園の有名バーで注文した所、出来ませんでした。有名バーも「Picon」を切らしていたのでしょう。祇園の有名バーなど私には全く縁もなく、私の分を超えた店です。また女性の接客は、酒を楽しみたい私には邪魔で好みでもありません。こういう所で持てるのは、私ではなく、聖徳太子、今なら慶応義塾の創始者の肖像を印刷した薄っぺらい紙切れと思っております。以下明確に個人を特定できるような表現を避けますが、この時は観光名所としても有名な禅宗の名刹の管長で禅の指導者として高名な方と某大学教授を、その大学の学友の方が旧交を温めるため、先ず祇園のふぐ料理店に、ついで有名バーに案内された際、ご縁があって末席に連なり、老師の謦咳に接する機会を得たのです。都合四人です。酔ってしまっては申し訳ない、またとない機会でもあり、酔いにくい「Picon Punch」を注文した次第でした。「Picon Punch」は何処でもできるわけではないようです。

 「サンボア」は京都は三条寺町と祇園に、大阪は前記のほか、御堂筋より東、阪急から近い所に確かもう一軒あり、一・二回訪れたことがあります。大阪のヒルトンホテル内に「サンボアヒルトンプラザ店」、北新地に「北新地サンボア」があります。京都三条寺町の主人は歌舞伎俳優といっても通るほど、渋い男前でした。お会いしたのは三十年ほど前のことですが。(2003.3.23)

「サンボア」という店名は、はじめ北原白秋の主催する詩の同人誌「朱欒(ザンボア)」の名前を借用する予定で、看板を「ZAMBOA」として注文したところ、看板屋が「SAMBOA」と書き間違ったので、そのまま店名を「サンボア」としたと言う説を聞いたことがあります。大正時代の詩の雑誌「朱欒(ザンボア)」からは、犀星や朔太郎も出てきたという。命名のゆかりも中々いいではないですか。(2006.3.6追記)


「オールド・サンボア閉店挨拶」。またの様(下記コウベハイボールに寄稿いただいた方)から、「オールドサンボア」関連の貴重な資料写真「オールド・サンボア閉店挨拶」をいただきましたので、転載させていただきます。字が読みにくいので、解読文を掲載します。(2006.9.16追記)

 閉店の御挨拶

謹呈
一昨年末 第一生命ビルにオールドサンボアを開店いたしまして以来 格別のお引立に預かってまいりましたが この度 当ビルディング模様変えの設計上 私のこのサンボアは新設される階段に当たることとなりましたので 一応九月十日を以て閉店させて頂く事になりました
過去二年に満たぬ短い間ではございましたが ご厚情により過分に楽しい日々を送らせて頂きましたことは今更に感慨深く御礼申し上げます
ともあれ私の生涯は酒場と共にあり度き念願でありますので 極めて近き日に これを再開の予定をいたしております 何卒その節は相変わらず ごひいきの程お願いいたします
尚当分の間は 昨年末 神戸朝日会館に開店いたしました そば屋 一茶亭 の経営を愛妻とともに専念いたして居りますから 御来神の節又は日曜日などご家族づれで是非お立ち寄り賜り度併せてお願いいたします
先ずは右御挨拶まで

   昭和二十九年九月八日

    オールドサンボア
          岡西 芳伸





◆コウベハイボール


  あとで出てくる私のコウベハイボールについての小文をご覧になった「またの」様という方からメールを頂いた。「またの」様も「コウベハイボール」を懐かしむお一人として、「コウベハイボール」の情報を下さった。私だけでなく、多くの「コウベハイボール」ファンが未だに居られるのですね、驚きました、うれしい限りです。「またの」様から教えていただいたMASAYOさんの「好きです。神戸」というホームページに掲載された「あの時、神戸にこんなものがあった」の最後のほうの「またの」様の「コウベハイボール」の記事と、このホームページの「神戸調査隊記録」に同氏のお書きになった「その後のコウベハイボール」という詳しい記事が掲載されております。ぜひご一覧ください。

「好きです。神戸」=http://homepage2.nifty.com/kobeport/

「あの時、神戸にこんなものがあった」=http://homepage2.nifty.com/kobeport/konnamono1.html

  私は大阪梅田の大阪駅に近い「第一生命ビル」にあったバー「オールド サンボア」に昭和28年末頃から通っておりましたが、若い真面目なバーテンさんから神戸朝日会館地下に「神戸サンボア」がオープンしたと言う話を聞きました。当時、私は神戸の六甲道に住んでおりましたので、一度訪れたことがあります。京都三条寺町近くの「サンボア」の歌舞伎役者のように渋い男前の経営者から、昔、直接うかがったところでは、この方が「神戸サンボア」を開いたとの事でした。


●コウベハイボールの開店

ここに一枚の挨拶状があります。「神戸サンボア」が廃業し、サントリーのハイボールスタンドを新設すると言う内容です。これは貴重な資料です。良くこんなものが残っていたものです。(この挨拶状の所有者は北新地サンボアマスター、写真はMASAYOさん。)これによると、「コウベハイボール」の発足は昭和29年初冬となります。



開店御挨拶


この度 神戸サンボアを解消いたしましてハイボールスタンドを新設いたしました。このハイボールスタンドとは現在デフレ下の世相を考慮いたしまして一杯サントリーハイボール100円の店であります。その他のものも格安品を探し出しまして至極安値に召し上がっていただくのを主義といたし度いと存じて居ります。あへてサンボアを名乗らぬことはサンボアの行く道は永遠にかえたくない為でございます。
右の次第よろしくご了解くださいまして御宜傳等御配慮に預り度いものとお願いする次第であります。

昭和29年 初冬

    鍵沢時宗
    大竹金次郎
    鍵沢正男
    岡西芳伸
      神戸ハイボール
      神戸朝日会館あさひ小路
      電話 



この頃はサントリーの「トリス・ウイスキー」を呑ませる「トリス・バー」と言うのが沢山在りました。私も一度だけ大阪駅近くのトリスバーにゆきましたが、トリス(Torys)のハイボールは私には合いませんでした。オールドサンボアでは一回にハイボール2杯・ジンフィズ1杯は呑んでおりましたので、この調子でトリスを呑むと、気分が悪くなります。トリスバーは一度きりでやめました。ウイスキーといえたものではありません。ですから、「コウベハイボール」がサントリー・ホワイトのハイボールスタンドを目指したのは、良い狙いだったと思います。昭和29年頃は、私は大阪勤務で、大阪梅田の「オールド・サンボア」に通っていたので、神戸朝日会館の「コウベハイボール」には行ったことはない。大阪北浜の会社から自宅の六甲道を通り越して、神戸・元町駅で下車して、はるばる朝日会館まで行かなくても、大阪駅近くには「オールド・サンボア」という素晴らしい格調の高いバーがあるのですから。余談ですが「トリス・ウイスキー」は「Tory's Whisky」(鳥居さんのウイスキー)、つまりサントリー(旧称・壽屋)創始者の「鳥居」さんの名前から、きているとか、「サントリー」は「鳥居さん」から「さん鳥居」と考え付いたものだとか、世上の話です。「サントリーホワイト」は昭和18年頃に一本入手しましたが、当時もののは素晴らしい風味でした。戦後インフレの中で味が変わって行ったのは残念ですがやむを得ません。

「コウベハイボール」に行くようになったのは、それから7年のち私が神戸勤務になってからです。その頃には私は結婚して伊丹に転居しておりましたが、大阪の第一生命ビルの地下にあった岡西さんの「オールド・サンボア」はビルの改造により廃業」して、岡本さんの奥さんが信州そばの店を神戸朝日会館の地下に開いていました。神戸朝日会館地下の「あさひ小路」の東端が「コウベハイボール」の店、西端がこの信州蕎麦やでした。美味しい天ぷら蕎麦や天ざるを食べさせる店でした。良く流行ってました。

のちに紙面を紹介しますが、1989(平成元年)11月24日(金)朝日新聞に掲載されたコウベハイボール河村マスターの談話に、開店に当たってのマスターの思いが以下のように記されてます。

 「戦後ずっと、大方の日本人はインチキなウイスキーを飲んでました。メチルとかエチルとかバクダンとか。「こんな世の中ではあかん。百円でまともなハイボールの飲める店がやれたら」とずっと考えてました。『コウベハイボール』はそんな思いをあたためてつけました。」


 

エチルアルコールは適度に薄めて呑めますが、メチルアルコールは呑むと失明したり、死者が出たりして呑めません。メチルの事故は多発してました。新聞記事にもずいぶんなりました。しかし敗戦後は酒が手に入らず、怪しげなものを良く飲みました。

下記は高杉製薬のホームページより引用させていただきました。

品名 エチル・アルコール メチル・アルコール
別名 酒精 木精
原料 糖蜜・でんぷん質 エチレン 天然ガス・ナフサ・LPG
性質 無色透明・可燃性・揮発性
お酒の成分で口に入っても安全。
無色透明・可燃性・揮発性・劇物。
視神経・中枢神経を冒す。



敗戦後は良い酒が我々庶民には手に入らなかった。みな正規の配給ルートに乗らない密造酒を何とか手に入れようと探したものです。そのような酒は随分怪しげなもので、そのため命を亡くす人もいました。
私が飲んだ怪しげなものと言えば、敗戦の翌年ころ、金沢の新聞社勤めをしていた頃、酒が飲めると先輩に連れられていった金沢の犀川近くの店でした。金沢は戦災を免れてましたから、店舗は戦前の古い家、出された無色透明な液体に口を近づけると、微かにガソリンの匂いがします。先輩が「大丈夫、俺は何回か飲んでるが、目は潰れてない。」と言います。思い切って呑みますと、アルコールにガソリン臭のする液体でした。新聞記者ですから、このような情報には特に早耳です。先輩の話では、このアルコールはサツマイモから作ったアルコールで、小松特攻基地では、ガソリンが足りないので、アルコール燃料で飛行機を飛ばしていたのか、このような呑めるアルコールが沢山在る。兵隊が飲むといけないから、ガソリンを少し混ぜて、ガソリン臭をさせてある、と言うことでした。敗戦後、石川県小松特攻基地の軍需物資である飛行機燃料が闇市に流れて、こうして酒に飢えた私たちに呑まれているのでした。ゲップをすると、ガソリンくさい息が出ます。私はタバコをやりませんが、タバコを呑む人は危ないのでは、と思ったものでした。

も一つ怪しげな飲み物と言えば、勤めていた新聞社の写真部が秘蔵していた写真を早く仕上げるために使うアルコールです。新聞社で夜勤をしておりますと、酒好きの同僚から呼び出しがありました。行って見ると、大きなガラス瓶に入れられた液体を囲んで何人かがいます。「これは写真部から、せしめてきたアルコールだ。のめるかな?どうだ?」一同はどうだろうと、首をひねりました。「メチルじゃないのか?」。「いや、違うらしい。」皆命は惜しいし、酒は飲みたいし、「今日は少しだけ試して、結果を見るか。」と衆議一決。少しのアルコールを番茶で割ると、どうにか黄金色の日本酒に見えないことも無い。呑んだ翌日、「どうだ、目の具合は?」「大丈夫、見えるよ。なんとも無いよ。」その日の楽しかったこと。夜になるのを待ちかねて、満足した次第。

も一つ、危ない酒を飲んだ思い出を。新聞記者だったころ、金沢浅野川の下宿にいた頃、同じ下宿に金沢の医大の学生と旧制第四高等学校の学生がいました。冬のことです。牡蠣が手に入ったので、夕食は土手鍋にすると下宿の女将が言うので、それならと手を回して調べると、近所の酒屋にヤミ酒(と言ってもアルコールを水で割った程度のもの)があるというので求めて愉快にみんなで飲みましたが、いけません。夜中に吐き気がしたのでトイレに行き、少し戻して、唇を手でぬぐうと、血が付いてました。あの酒が悪かったか、と後始末をして寝ましたが、翌日やや呼吸がし難いので、念のため肺の部分を打診すると、左肺の下のほうが音が違う。水でもたまったような感じで、湿性肋膜かな、と会社の前の医院にゆき、どうも左肺の下のほうが音が違うような気がする、と言いますと医者は打診してみて「なるほど!」と言います。それから良く調べた結果、「肝臓がはれて、左肺の下部に影響を与えている」との事でした。それからどう治療してもらったかは記憶にありませんが、無事84歳の今日まで生きてます。命がけで(?)酒を飲んだ切ない敗戦後の数々の思い出です。

この下宿の頃、預金は封鎖され、月500円しか下ろせなかった頃ですが、下宿人一同金詰まりで私もラジオがなかったので、記者という職業柄ラジオがほしく、自分で部品を集めて組み立てた。旧制中学の理科の教科書を借りて、その中の小さな四球受信機の回線図を参考に作った。配線は無茶苦茶、しかし接続は間違ってないので上手く聞こえた。外箱も買えないまま、木箱に裸の受信機を入れて、アースを自室の窓から垂らしていたところ、NHKの集金人に見つかって、無事に鳴り出したばかりのラジオの聴取料金をとられた。下宿にはラジオはなかったものと見える。
  酒好きの父は、主食代わりに配給された赤砂糖を湯でとかして、小さな木樽に入れて、発酵しても良いように栓をせず、コタツの中に入れて、アルコール発酵させて呑んでました。酒食に奢っていた父にとっては不本意な結末であったでしょう。

余談はさておき、これで河村マスター談話の意味が判るでしょう。もう一度掲載します。1989(平成元年)11月24日(金)朝日新聞に掲載されたコウベハイボール河村マスターの談話から。

「戦後ずっと、大方の日本人はインチキなウイスキーを飲んでました。メチルとかエチルとかバクダンとか。「こんな世の中ではあかん。百円  でまともなハイボールの飲める店がやれたら」とずっと考えてました。『コウベハイボール』はそんな思いをあたためてつけました。」


かくしてコウベハイボールは発足しました。



●コウベハイボールの想い出

  私は創業36年の神戸ハイボールに通ったのは神戸勤務の間の8年だけ。常連とは言いがたい。大阪勤務の間は、バーに行くときはオールドサンボア、オールドサンボア閉鎖の後は、堂島サンボアや曽根崎のジントニックの美味い60近いマスター一人でやっている店に通っていた。その頃私の通っていたバーでは炭酸はWilkinsonを使っていたので、私は今でも出きればハイボールやジンフィズにはWilkinson炭酸を使いたい。Wilkinsonといえば神戸三宮にあった同社経営の喫茶店「ウィルキンソン」も懐かしい。儲けを度外視した品のよいゆったりした店でした。

洋酒ばかり飲むわけでないので、ビールは梅田新道の同和火災地下にあったビヤホール(私が59歳くらいのとき閉店しました。)、日本酒は曽根崎新地のサラリーマン相手のよく知られた酒場(名前を忘れました)など決った店に通ってました。月に3回位でしょうか。私は本は衝動買い、酒は現金払い、奢る酒は美味いが奢られる酒は不味いで、通してきました。タバコはぜんぜんやりません。

  神戸ハイボールの思い出となると、私のように常連と言いがたいものでは物足りないので、常連で今なお深い愛着を持っておられるとお見受けする「またの」様にお願いをして、寄稿していただいた。「またの」様から頂いた懐かしい写真(右はマッチ)を次に。

マッチ


@「コウベハイボールの思い出」
 2006年6月28日 記 ≪またの≫
 
 先に懐かしのコウベハイボールと題して小文を書いたので再度となれば重複になるので如何にするか問題である。河村語録というか聞き覚えたものを幾つか列記してみようと思います。その中には私の勝手な思い込みも含まれている。

  「ハイボールのコツ? 99%までは教えますよ。ウイスキーの量や冷蔵庫の温度から炭酸の注ぎ方まで。しかし最後の1%は息子にも教えません。それは少しも難しいことではない、プロとして当然知っておかねばいけないことです。だけど、皆それを見過ごしている」その1%は閉店までに聞き出せなかった。客のほとんどはハイボールの一言だけ。マスターは人数分だけのグラスを出し50t分の白マルを注ぐ、次にカウンターに釘付けられた栓抜きで冷えた炭酸2本を抜くと、両手に持って次々とグラスに注いでいく。炭酸が切れればまた栓を抜く。すべてのグラスに炭酸が満たされるとレモンピールで香り付けする氷は使わない。メジャーは一切使わないすべて勘である。(2種類の炭酸だった)



 私が「マスターこのグラスの方が多い」というとグラスが違う。俺の腕の方が正しいのだと自信たっぷりに言う。「グラスはすべて手造りの特注だけど22aくらいに吹いて膨らましたのを15aにカットするのだがチョークの幅に斑がある全く同じものが出来ない」頼りは自分の目と手だけということである。それでもハイボールの値段の3倍もする高価な物だ。

 混んでくると後ろの椅子席にも客が埋まる。その客がお替りの時にグラスを持って来るとマスターは怒るのである。持ってきてもよいではないか? 後でそっと訳を聞くと、それは客にさせるものではない、そこに置いといて下さいと言うが、本当はグラスを割られてしまっては困るからだ。グラスを割られると元も子も無くなってしまうと小声で教えてくれた。商売とは厳しいものだ。新聞では、近頃は若い客や女性客が増えました、とあるが、マスターの内心は女性客やアベックは敬遠していたようだ。「ハイボール3杯を1時間で飲み、お金を払って帰るのがここの流儀だ、だらだらと飲んでいては駄目なのだ」。私の行っている時は女性客の姿はあまり見かけなかった。女性記者に記事を書いて貰っていますねと尋ねると、彼女はこの上の支社(朝日新聞神戸支社)にいた人だから仕方ないという。(要はいい酒飲みであれば性別は関係なく歓迎ということだ)

 この店だけは、何時でも来る者に一種の緊張感を強いていた。何年通ってもそこにいるのは、まるで恐ろしい親戚のオヤジのようなマスターだった。
「この店で怒鳴るのはマスターだけ。客が少ないといいオヤジだけど、込んでくると怖いオヤジだった。」私もある場面に出会ったことがある。アルバイトは神戸外大の学生が代々引き継いでやっていた。その日はとても忙しくて猫の手も借りたい状態だった。所がアルバイトの学生が来ない。さすがのマスターも音を上げ「今日は怒らないから、来てくれと弱音を吐いていた」。そこにアルバイト学生が出勤してきた。マスターも客に愚痴を零していたので、怒るに怒れず苦笑していたのを思い出す。怖いが純情なオヤジだった。

 当時の朝日新聞より抜粋(残念ながら年月日は失念しました)神戸朝日ビル地下にある「コウベハイボール」は今月13日開店30周年を迎える。店主の河村親一さんは常連客の成田一徹氏から店内を描いた切り絵を贈られ、「みなさんのお陰で、バーテンダー冥利に尽きます」と語った。昭和59年の開店30周年の時は新聞に次のようなコメントが載っていた。常連300余人のうち2割は開店以来の付き合いという。「カクテル作りは2〜3ヶ月あればできますが、雰囲気のよい店づくりは大変。いつも新鮮な気持でお客さんと接する。それだけは務めてきたつもりです。まだまだ現役で頑張ります」。
ビルの改築が無ければ続いていたと思うと残念だ。
 

左は贈呈された切り絵を指差すマスター(当時の朝日新聞より)   
下は成田一徹氏が送った切り絵のコピー。(酒場の絵本より)


 新聞記事に「ハイボールを作るとき、炭酸を次々6本抜いてテーブルに並べさせる客もいました。じっと見て1本を指差し『これで作って』あと5本分も代金は払われました」昔は粋な客もいたものです。
マスターはこのことをづーと忘れずにいたのだろう。マスターは言う「本当はね、私のごまかしでここまでやってきたのですよ。ハイボールにこだわるのだったらもっと純粋にこだわらなきゃいけない。だから今度店をやるのであれば自分で炭酸屋をやりたいと思うね。基本的に一からこだわって『どうや、俺のハイボールは』と言いたい」マスターのハイボールに賭ける思い込みには感服する。店名を『コウベハイボール』と付けたのもその意気込みの表われではないかと思う。


  マスターは「何年修行したから一人前になれた、なんて思ったら駄目なのだ修行した期間だけお客さんも成長している。だからこの齢の差は絶対に越えられない。私も若い頃はこの差に気付かなかった」と言う。バーテンダーとして自らを戒める河村さんの言葉をそのまま客の立場に当てはめればいい。

  「コウベハイボール」のカウンターには、絶対に越えられない、何かが行き交っていたのである。飲まれる酒も時代とともに変化してきた。だがここ「コウベハイボール」だけは店の造りもバイボールの味も昭和29年当時のそのままなのである。客もその変わらぬものを求めて毎夜やって来るのだ。

そんな怖いオヤジも長年にわたり通う内に次第に話ができるようなり外で出会っても挨拶をするようになった。思い出せばマスターには酒以外にも教わったことが多くあり、そして学んだことも多かったと感謝している。

下記の写真はご存知の山口瞳と柳原良平コンビによる宣伝広告記事である。                  

私の酒場考
写真は昭和61年の成人式に全国紙に載ったサントリーの広告その酒場考に 

  『まず、カウンターのない酒場は失格だできればカウンターがあって、そこで   
  立って飲ませる様な酒場を選び給え』

とあるのを読んで「コウベハイボール」を一番先に思い出した。遅まきながら俺は素敵な酒場で飲んでいたのだと、改めて「コウベハイボール」という立派な酒場を選んだことを自画自賛している。乾杯!            


以上の文章は新聞・雑誌等を参照して自分の経験を交えて書いたものです。



A懐かしのコウベ・ハイボール           2005年3月15日 記 ≪またの≫

 
その店は1954年〜1990年の36年間に亘り、同じ場所で同じスタイルを貫き通してきた店だ。変わったのは値段だけで、サントリーの白マルのハイボール1杯が開店した昭和29年が100円で平成2年の閉店した時が450円だった。私が常連として通いだした頃は確か140円だったと思うそれ以来は店が無くなるまでの30年以上も飽きもせず通い続けた。今でもこの店のハイボールが何処の店のハイボールよりも美味かったと信じている。(要は惚れていたのである)マスターの話では当時流行しだしたトリスバーより高級感のある店を目指したそうだ。真っ白いバーコートに蝶タイで客とは一線を画して毅然たる態度で客と接していました。好人物だが頑固なマスターと気軽に話しのできる迄には相当な時間を要したと思う。閉店して既に15年が経つからマスターも84歳になる。小耳に挟んだ所では今も元気で時に請われて後輩の指導に当たっているという、ご同慶の至りである。神戸のGood Barとして戦後の復興から高度成長時代、バブル時代バブル崩壊時代と時は移り変わっても通い続けた。如何にも神戸らしい立飲みスタイルの粋な店でマスターの作るハイボール目当てに夜毎に紳士然とした常連客が集まってきたものだ。その素敵な店も無くなってしま ったのだ。
「昭和は遠く成りにけり」と言うことか。(或る酒飲み老人の戯言)

  

雑誌『バッカス』記事より



Bコウベハイボール          J. Amano


 
 「コウベハイボール」は廃業閉店のとき、朝日新聞の大阪版でも大きく報道された。ファンを多く持っていたからでしょう。当時60歳を超えていたであろうマスターの接客態度が良かった。私はいつしか、このマスターの接客をスタンダードとして、よそのバーを見ている自分に気がついた。1959年頃、まだダイエーの傘下に入る前の神戸のオリエンタル・ホテルの地下のバーは違和感があった。なぜそう思ったかというと、「コウベハイボール」の接客と違うからです。オリエンタル・ホテルは歴史もあり、有名なホテルですから、バーの格も高いものがあったでしょう。勿論オリエンタルのバーを好む人も多く、盛況でしたが、カウンターにはダイスの傷が目立ったので、客筋も想像がついた。バーテンも多弁であった。私は一度っきりで、再び行くことは無かった。

「コウベハイボール」は建て直す前の神戸朝日会館地下にあり、マスター一人で対応している小さなバーである。時に、学生アルバイトのようなバーテン見習いがいたこともある。

付近はビジネス街でもあり、サラリーマンが自前で呑みに行くような店であった。間違っても営業の接待に使うことは無いであろう。美人がいるわけでもない。豪華なソファーやシャンデリアがあるわけでもない。「パブ」スタイルの店です。旧朝日会館を建て直す際、閉店しました。

このマスターの作るピクルスが秀逸でした。酒好きの友人も絶賛していた。何回作っても、この味は出ない、と言っていた。かすかにカレー風味を忍ばせたピクルスであった。この酒好きの友人と言うのは、大した男でした。あるとき、奥さんの母親が田舎からやってきた。番地を頼りにやってきたが、なかなか婿殿の家が判らない。そこで「おふくろさん」は閃いた。「これは酒屋で尋ねるにかぎる。」。まさに正解。酒屋の店員が丁寧に案内してくれたと言う。

コウベハイボールの接客は、客にマスターの存在を意識させないことにある。マスターは、いつも俯いてコップを磨いている。私がおかわりを注文しようとして、マスターのほうに顔を向けると、マスターは気配が判るのか、私と目が合う。空になりかけたコップをちょっと上げると、それで通じる。客席に細かく気を配っているが、それを人には感じさせない。

この人はカクテルを勧めなかった。「あれは、安い酒をごまかしてのますもの。ショートドリンクよりも、ロングドリンクを勧めます。」と言うようなことを話した。(カクテルのショートドリンクといえば脚のついたカクテルグラスなどに注がれて短時間に飲み干すもの、ロングドリンクといえばタンブラーなど大型のグラスに氷を入れたり、熱湯やホットミルクなどを加えてゆっくり時間をかけて楽しむもののようですが、マスターはカクテルのことをショートドリンク、ハイボールなどをロングドリンクといってるらしかった。)

私はマティーニ・ギムレット・ジントニックなど飲まぬではないが、マスターの意見は大筋で守っている。家でもウイスキーはストレートかオンザロックです。(2003.3..24)

(追記)2006.5.16

北新地・サンボアのホームページを読んでいたら、次のような記事を発見。なんと、あの「神戸ハイボール」のカウンターが、「北新地・サンボア」で使われているという。「神戸ハイボール」は、はじめ京都寺町の「サンボア」の主人が開いたもので、神戸朝日会館地下の東端の店にバーを開き「サンボア」と名乗っていた。のち、「神戸ハイボール」の経営者のバーテンさんに譲られた。この話は、私が40歳台、今から40年余前に、京都寺町のサンボアの歌舞伎役者といってもいい渋い男前の主人が健在なころ、直接うかがった。こんな話も知る人がいなくなってしまったのでは・・・。私は「神戸ハイボール」の前身の神戸の「サンボア」がオープン当時、飲みに行ったことがある。「オールド・サンボア」の仲の良かった若い真面目なバーテンさんから聞いて早速訪れた。彼の顔を立てるために。

以下、「北新地・サンボア」のホームページより。

「暑飲」 大阪の夏は暑い。天気予報上では東京とそれほど気温は変わらないはずなのだが私はなぜか昔から大阪は暑い暑いと思いい込んでいる人間である。人々の熱気か、商売の熱気か、それとも勝手な思いこみか。とにかくそんな暑い1日を終え1杯目に角、2杯目にホワイト3杯目にオールド、4杯目についにフェイマス・グラウスと各種ハイボールをピーナツをアテについついスイスイと飲んでしまう。「それにしてもお強いですねえ。」「なかなか大阪来る機会も減りましたから今日は思いっきり飲み溜めしていきますよ。」「いやいや、銀座店の方もありますから。」お互いに笑いながらそんな会話がまたいい。カウンターに肘をつきながらグラス片手にバックバーをぼんやりと眺め次はどうしようかなと思案する。すでにBarファンにはお馴染みであるがこのお店のカウンターは今は無き名店「神戸ハイボール」から譲り受けたもの。私などが及ぶところではない大先輩の飲み手の方々がかつてこのカウンターでどんな方々とどんな話をしながらお酒を愉しんでいたのだろうと思わず感慨にふけってしまうのは根っからの酒好き、いやBar好きの性、ということにとりあえずしておこう。






●コウベハイボールの閉店

閉店にあったては、朝日新聞に都合三回の記事が掲載された。写真は1989(平成元年)11月24日(金)朝日新聞の記事。

1989(平成元年)11月24日(金)朝日新聞の記事
原点守る酒場が減った。

ハイボール 河村親一さん(67)
バーテンダーは40歳を超して本物や、と思ってます。
夕暮れを待ちかねたように、跳ね扉を押して男たちが入ってくる。古いビルが並ぶ旧居留地の一隅、神戸朝日会館地下にあるバー「コウベハイボール」。樫の木のカウンターと止まり木、棚には約百五十本の洋酒が整然と並ぶ。河村さんが黙々とハイボールを作り続けて三十五年にもなる。酒を愛する男や女たちに親しまれてきた。このグッドバーはビルの取り壊しと共に間もなく姿を消す。

(以下記事)
◆古き良きスタイルをかたくなに守ってきた、いかにも神戸らしい酒場が、また一つなくなるのは本当に残念です。
「最初は出来るか、どうか不安で不安で。まず三日やってみよ、あと一週間だけやろう、もう三ヶ月だけやってみよ。それが続いたら一年・・・・。そうやって四十年になったんですわ。
◆どんなきっかけでこの道に。
「戦争が終わって大阪へ帰ってきたのが昭和二十一年。一面、焼け野原で、阿倍野駅から大阪城の天守閣が見えた。父親の知人から声をかけられ、ミナミにあった『フランセ』というバーにつとめたんです」。

◆その後、独立して、昭和二十九年に『コウベハイボール』をオープンしました。戦後ずっと、大方の日本人はインチキなウイスキーを飲んでました。メチルとかエチルとかバクダンとか。「こんな世の中ではあかん。百円でまともなハイボールの飲める店がやれたら」とずっと考えてました。『コウベハイボール』はそんな思いをあたためてつけました。
◆ウイスキーを炭酸で割るハイボール、という飲み方を、私(記者)は上司につれてこられたこの店で初めて知りました。「あれこれ混ぜ合わせるカクテルなんて飲み方は、ごまかしの酒ですわ。難しいのはハイボール。ウイスキーと炭酸だけが材料なんやから。ウイスキーの味と雰囲気を熟知してさわやかな味をださんといかん。『このハイボール、おいしいな』と客に言ってもらえるようになったのはバーテンダーになって十五年くらいたってからでしょうか。」

◆酒場の原点みたいな店がほんとに少なくなりました。
「まず持ち重りのするグラスを選び、それにどのくらいのウイスキーを入れ、どの炭酸をあわせるとか、四季によって炭酸を冷やす冷蔵庫の温度を変えるとか、一杯ずつグラスを変えるとか、グラスは出す前に最低三回は麻の布で磨く、とか、ごく当たり前の事を守る店が減ってしもたんやね。」
「バーテンの腕いうのはね、客をさばく力量も問われるんです。客を見て『この客のタイプはこうやから、あの人の隣に来てもろても大丈夫』『この人とあの人は合わへんから、ちょっと待ってもらお』ということを見抜かな、いかん。新聞かて、なまはんかに読んでたんでは勤まらん。そやから、私はバーテンダーいうのは四十歳を超して本物やと思てます。」

◆近頃は若い客、女の客も増えました。
「酒の飲み方を知りませんな。昔は厳しい上司が『ここではこういう風に呑め』いうて教えたもんやけど。うちはね、むかしから女のお客さん、昔からけっこうあるんです。いい酒飲みいうのは、性別関係ないわ。」
×  ×  ×
神戸支局(朝日新聞神戸支局)に勤務していた数年前、この店で初めて飲んだハイボールの涼しい味をいまも覚えている。ウイスキーの瓶、グラスがぴかぴかあに磨きあげられ、清潔な感じだった。音楽はなし。大声を張り上げる客もいない。みんな、店の雰囲気を自然に楽しんでいるふだった。河村さんはなんと言っても酒が一滴も飲めない。「だからえかえtt酒の味がわかるんだよ。口がアルコールで汚れておらず、いつでも正気やからね」

              聞き手・伊藤景子記者


かわむら・しんいち=京都生れ。父親が商売に失敗、一家で大阪へ。経済的な事情で中学進学を断念。猛烈な読書家で徳田秋声やヘルマンヘッセが好きだった。息子二人は独立し、神戸市北区で妻と二人暮らし。なお、神戸朝日会館は来春取壊しの予定。



コウベハイボール最後の日・朝日新聞





1990(平成2年)、上写真3月15日撮影、
下は3月17日の模様、掲載は翌朝か?

(上の記事)

さようなら『コウベハイボール』

朝日ビル地下1階  35年の営業に幕

なごり惜しむ客ら次々

コウベハイボール閉店の日。マスターの河村親一さんは、いつもの蝶(ちょう)ネクタイ姿でカウンターに。なごりを惜しむ客でにぎわった。=神戸市中央区浪花町のコウベハイボールで

神戸市中央区浪花町、朝日ビル地下一階のバー、「コウベハイボール」が十五日、三十五年余りの営業を終え、閉店した。老朽化した朝日ビルの建て替えに伴うもので、西部劇に出てくるような開き戸と長いカウンターのバーには延べ約三百人のなじみ客が詰めかけ、マスターの河村親一さん(六八)に握手をもとめてなごりを惜しんだ。
「コウベハイボール」は昭和二十九年にオープン。ウイスキーを炭酸で割るハイボールのおいしい店として知られている。なじみ客が多く、店はほとんどいつも満員だった。
十五日は、ふだんの開店より約一時間早い午後三時半からなじみ客が訪れた。夜は約四十平方メートルの店がのすし詰め状態に。二十八年前から、週三回は通っていた同市垂水区西舞子に住む会社役員堀本力さん(六三)は、会社の後輩に「十五日が最後ですよ」と聞かされて駆けつけた。「とにかくハイボールがうまかった。やはりさびしいね。」としんみり。
閉店の午後九時、マスター、店員、客が並んで記念撮影。客からは「マスターありがとう」の声。
河村さんは「三十五年間一生懸命やってきたので、さばらくひと休みします」と話していた。




(下の記事)

ハイボール36年

グッドバーにグッドバイ



  ミナトコウベの名物バー「コウベハイボール」が十七日、三十六年の歴史を閉じた。この日、神戸・三宮近くの旧居留地のビル「神戸朝日会館」の地下一階にある同店では「お別れの会」。神戸市やその近辺だけでなく、東京、松山などから約六十人の常連客らが駆けつけ、「あのハイボールが二度飲めなくなるかも知れん」と、とマスターの河村親一さん(六七)がつくるハイボールに名残を惜しんだ。

 同ビルは昭和九年の建築。壁面のカーブやルネサンス様式で、名建築といわれたが、老朽化のため、この四月に取り壊されることになり、コウベハイボールも運命をともにする。

 河村さんは戦後、復員して大阪・ミナミでバーテンダーの修行を積んだ。コウベハイボール開店は同二十九年暮れ。樫(かし)の木のカウンターと止まり木で客は空間を譲りあって飲む。音楽はない。四十年近く、同じスタイルを守ってきた。ハイボールまずグラスにウイスキーを入れ炭酸を注ぐ。最後に、小さく切ったレモンの汁を霧のように吹きかける。独特のさわやかな味を楽しむために、三口で飲み干すのが通なのだそうだ。
時流にこびない店の雰囲気とハイボールにひかれて大勢の客が通った。去年末、河村さんが数えてみたら、常連は約千人にのぼった。歴史のある店でも常連となるとせいぜい三百人だそうだ。数の多さに河村さん自身が仰天した。きりのいい年末で店を閉じるつもりだったが、客に泣きつかれ、とうとう三月に伸びた。
お別れ会では、三年前、神戸の勤め先を辞め、東京へ行った切り絵作家の成田徹さん(四〇)が河村さんをモデルにした作品を手渡した。同僚だった田中正樹さん(四一)と毎晩のように通い、二人で「酒場の絵本」という本まで出した。「グッドバーに乾杯」。田中さんの声がうるんだ。客は総立ちになって拍手。めったに笑わない河村さんの顔がくしゃくしゃに崩れた。(景)




閉店パーティ・河村マスター
成田一徹氏切り絵・雑誌「バッカス」より。




上記の切り絵は、作者・成田一徹さんが、閉店記念の日に、河村マスターに渡されたもの。
またの様より下記メールのように教えていただきました。

「またの」様メールより。

「閉店パーテイ・河村マスターの写真のその隣りに記念の切り絵(写真添付)を挿入したら如何でしょうか? すぐ上の新聞記事に成田一徹さんが河村さんをモデルにした作品を手渡したとあり関連性がると思うのですが(その作品を添付)この作品は成田さんの作品集の本にも載ってない。河村さんのために制作して贈呈した作品だと思います。(注:写真は雑誌バッカスより転写したもの)」




◆神戸のバー、あれこれ    ・・・・・・・・・・・・・・・・・2006.6.28     またの


昔ある夕刊紙に神戸の名バーとして紹介された3軒の店がある。残念ながら総て1代で 消えて行った。成田一徹氏の切り絵を通して偲んで見たいと思います。(順番は創立順)
(注)住所は当時のものです。今では跡形も無く、その栄華を偲ぶ由もない。

@ Bar Gilbey ギルビー(1946〜1984) 中央区三宮町3丁目4−14

 残念ながらこの店は行ったことがない、扉の前まで行ったのだが気おくれして入れなかった。聞いた話によると小ぶりだが重量感の溢れる店だった。厚さ20aはあろうかと思われる欅一枚板のカウンターが圧巻。正面左上のにはマスターの夫人をモデルにした? マチィスのヌードクロッキー(写真参照)が掛かっていた。マスターはカウンターの内側にはウイスキーを忍ばせて、時々グビリとやっていた。豪快なマスターであった。客は高齢者が多く、通うにはまだ10年早いと思うような店であった。(成田氏談) 一度は行ってみたかった店である。
  


     


A Lou Lou ル ル(1950〜1995) 中央区三宮町2丁目7

 友人に連れらて初めて訪れた時には驚いた、舶来の洋酒ばかりで何をオーダーしたらよいのか分からない。そこでサントリーの角クラスのを下さいと言うと、それは値段ですかグレイドですかと訊かれ困ったことが思い出される。その後、丁重なマスターの初回客も常連客にも差別することなく対応する姿が気に入り通いだすようになった。包丁で氷を切るパホーマンスは店の名物にもなっていた。訊くところでは包丁の刃は研ぎ澄まされていて髭でも剃れる切味だそうだ。ハンサムなマスターで彼ほどバーテンダーの正装の姿が似合う人は他に見たことがない。まさにバーテンダーの鏡ともいえる人物であった。






B Kobe Highball コウベハイボール
(1954〜1990) 中央区浪花町5

 私が最も数多く通った店である。第一に値段が安いことだが決してそれだけの理由ではないマスターの人柄に惹かれてこと、それにこの店のハイボールが美味しかったからである。しかし、他のものをオーダーする時はマスターがよほど機嫌のよい時か、暇な時しか作って貰えないという難点があったが、店の名が示す通りハイボールに拘っていたかだと思います神戸にある他のバーでコウベハイボールの事を尋ねて知らないのはモグリといわれるほどの有名店であった。閉店まで30年余も通い続けさせるほどの魅力的な名店であった。   
 



(写真等は成田一徹氏の「酒場の絵本」と「To the Bar」から拝借しました。  またの )



想い出のコウベハイボールのバックバーとの再会 2006年6月7日 記 ≪またの≫




  成田一徹氏の著書『To the Bar』中で、北新地サンボアの項目に、コウベハイボールのバックバーは店主の新谷尚人氏が特別に頼み込んで譲り受けたものだとの記事が目に留まった、そして初めてその経緯を知る。コウベハイボールと言えば30年余も通い続けてきた名店である。閉店後16年になるが今でもあの雰囲気とハイボールの味は忘れられない。これは何としても北新地サンボアを訪れ、あのバックバーと対面してあの懐かしい雰囲気をもう一度味わいたいものである。いざ出かけようとしたが一人では寂しい、しかし一緒にコウベハイボールに付いて語り合える相手でないと意味が無い。一緒にコウベハイボールに通った連中も寄る年波か意外と少なくなっている。 
やっと念願が叶い北新地サンボアへ行くことになる。そして想い出のバックバーと対面することが出来た。さすがに80有余年の歴史を誇るサンボアである。控えめなサービスは積み上げてきた伝統の成せる業なのだろう。サントリー角のハイボールも薄皮つきのピーナツも満点だ。しかし、例のピクルスだけは真似できないらしい。有難いことに3時から6時までは「ハッピー・アワー」として65歳以上の高齢者に半額のサービスをしているのは嬉しいことだ。それからコウベハイボールのファンから寄贈のマッチ箱がバックバーの正面に飾ってある。マッチ箱も居心地よさそうに我が家に帰った如く心地よく鎮座しているように見えるのは思い込み過ぎかな?マスターのコウベハイボールに対する思いも相当なものだと思ったのは、引き取ったバックバーを1994年に自分の店を開店するまでの4年間も倉庫に預けていたのだから、並大抵のコウベハイボールに対する思い入れがなければ到底出来ないと思います。マスターにとって自分の店を持つと決めた時にコウベハイボールの光景を一つの目標にしたのだろう。そうでなければ何年もバックバーを倉庫に寝かせて置く訳が無い。 
  偶然に隣り合わせた、サンボア歴50年という老紳士とコウベハイボールについてサンボアについてバーに関して語り合えたのも大いなる収穫だった。バーテンダーも耳を傾けて静かに我々の話に聞き入ってくれているという素晴らしい雰囲気だった。ただ残念だったのは店主の新谷尚人氏が銀座店の勤務が主で北新地店には偶にしか帰ってこないということで会えなかったのが心残りだったが仕方ないことである。その後に店主の新谷尚人氏とは所在を確認して会うことができた。他に客が少ない時間に色々な話を聞くことが出来た。コウベハイボールの古い写真を持ち出してきて話がはずみ有意義な時を過す。河村さんの逸話については私の記憶との違いは感じられなかった。初耳だったのはコウベハイボールの開店に関してサンボアの重鎮4名が連名で出した「開店御挨拶」の紙を見たことだ。文面では当時のサンボアのプライドが如何に高かったが伺われる。その疑問を解明すべく再び訪れて話をする機会を得た。
  京都サンボアの主人が神戸の朝日会館地下の東端の店にバーを開いて「サンボア」と名乗ったのは昭和22年のようです。残念ながら後継者が育たず閉店することになるその店を譲り受けたのがミナミの「フランセ」に勤めていた河村親一氏ということです。彼は「百円でまともなハイボールの飲める店がやれたら」と以前から考えていたようだ。「コウベハイボール」はそんな思いを込めてつけたそうだ。最後は450円になったが、その思いは最後まで貫き通していた。多くのコウベハイボールのフアンを楽しませたあのバックバーが、サンボアに帰り咲いた姿を見ると何か因縁めいたものを感じます。

閉店時の
コウベハイボール河村マスター
北新地サンボアのバックバー






辛酉夜話表紙