歌人伝・太皇太后宮小侍従(待宵小侍従本文へジャンプ 


五章 生母、花園左大臣家小大進


一、生母、小大進
二、『金葉和歌集』の歌
三、大治四年(一一二九)成清を出産
四、『久安百首』と小大進
五、平忠盛・源為義に贈った歌
六、小大進の没年
七、待賢門院御衣紛失事件


一、生母、小大進



小侍従の父で紀氏である二十五代石清水別当(のち検校)光清の妻としては、次の三人が知られている。

◇石清水八幡宮権 別当・覚心法眼女(『石清水祠官系図』任清・勝清註による)
◇花園左大臣家女房・小大進。(従四位上、菅原在良女)(『石清水祠官系図』成清註による)
◇『今鏡』「敷島」にいう、不縁になった都の然るべき人の娘(前章で述べた従五位下藤原周衡女か)


別当職の跡目相続に、覚心法眼女の子息任清、勝清、次いで勝清の子息慶清が優先され、小大進子息成清の別当就任は源頼朝の肩入れによって初めて実現した点から、正妻は覚心法眼女である。慶清は田中と号し、成清の子息祐清は善法寺と号した。田中、善法寺両家の始まりである。

  別当光清の正妻の父、石清水権別当覚心法眼は、豊前から来た十九代石清水別当兼宇佐弥勒寺講師、元命の孫であり、元命の長男二十代石清水別当清成の三男である。この家系は宇佐氏とされる。

  小侍従の母は系図には書いてないが、『今鏡』「腹々の御子」に「小侍従などきこゆるは、小大進が腹にて」とあるので、小侍従の生母は小大進とされる。 生母小大進は、後三条天皇の三宮輔仁親王に仕え、引き続きその御子源有仁(のち左大臣、号花園)につかえた。小大進の父は菅原道真公の子孫の菅原在良で、文章博士、鳥羽天皇侍読、式部大輔などの職にあった学者である。彼は保安三年(一一二 二)十月二十三日卒去、享年八十才。最終官位は従四位上であったが、没後の元徳二年(一三三〇)十一月二十四日従三位を贈位され、北野天満宮三光門の西南にある「三位殿社」に御祭神として祭られている。『今鏡』「敷島の打聞」に、「(小大進の)母の筑紫に下りて菅原の氏寺(安楽寺)の別当に具したりけるが」とあるので、竹鼻績『今鏡、全訳注』(講談社学術文庫、昭五九、下巻五一七頁)には、小大進は菅原在良の弟、安楽寺別当定快の娘で、在良の養女ではないかとしておられる。

京都市上京区・北野天満宮 北野天満宮三光門 三位殿社



  小大進は当時著名な女流歌人で勅撰集に『金葉集』以後十四首入集した。    
『今鏡』には小大進に関する記述が色々あって、その人間像が浮かび上がってくる。『今鏡』「花のあるじ」に「越後の乳母、小大進などいひて名高き女歌詠み、家の女房にてあるに、」とあり、「伏し柴」に、      

小大進などいふ色好みの、男の許より得たる歌とて、申し合はせける、あまた聞こえしかど、忘れておぼえ侍らず、按察の中納言とかいふ人の、おほやうなる も、歌など つかはしける返りごとに、小大進、

   夏山の繁みが下の思ひ草露知らざりつ心かくとは

など聞き侍りし。口とく歌などをかしく詠みて、和泉式部などいひし者のやうにぞ侍りし。


「敷島の打聞」には、小大進が宮中行事の豊明節会の五節の舞姫に付き添う童女に選ばれ、その報奨として小大進が熊野詣でをした帰り、淀の渡しで石清水別当光清の使者が光清の文を小大進にわたし、やがて結ばれたとある。
永和元年(一三七五)の『永和大嘗会記』に、五節の童女について「むかしは美人をゑらび童女にたてまつる。」とあり、小大進はかなりの美人であったと思われる。


二、『金葉和歌集』の歌。


  小大進は、三宮輔仁親王に早くから出仕し、続いて夫、石清水別当光清が入滅する十三〜四年以前から、三宮輔仁親王の御子の源有仁に仕えていた。源有仁が内大臣であった頃に、小大進が「内大臣家小大進」として詠んだ和歌が、勅撰集『金葉和歌 集』二度本、三奏本にのっている。
源有仁は保安三年(一一二二)十二月十七日内大臣に任ぜられ、大治六年(一一三一)十二月二十二日右大臣、保延二年(一一三六)十二月九日左大臣とされた。

『金葉和歌集』初度本、二度本の撰進は、大治元年(一一二六)とされる。この小大進の歌は、大治元年(一一二六)以前に夫の光清にあてたものである。

『金葉和歌集』二度本より、

      文ばかり遣わして、いひ絶えにける人のもとに   
                             内大臣家小大進
   ふみそめて思ひ返りしくれなゐの筆のすさみをいかで見せけん(三七三)

     見交しながら、恨めしかりける人によみかけける
                             内大臣家小大進
   かくばかり恋の病は重けれどめにかけさげてあはぬ君かな(五一三)

      語らひ侍りける人の、かれがれになりければ、こと人につき
      て、筑紫のかたへ罷りなんとするを聞きて、男のもとより、
      罷るまじき由を申したりければ、いひ遣わはしたりける
                             内大臣家小大進
   身のうさも問ふ一文字にせかれつつ心つくしの道はとまりぬ(五七二)

以上の三首は『金葉和歌集』二度本、三奏本に載ったが、『金葉和歌集』二度本にのみ次の歌が見える。

      十月十日頃に鹿のなきけるを聞きてよめる   法印光清
   何事にあき果てながらさを鹿の思い返して妻を恋ふらん(二六五)

小大進が「こと人につきて、筑紫のかたへまかりなん」としたのは、『今鏡』「敷島の打聞」に「その女(小大進)も、大臣家の宮仕へ人なりけるが、母の筑紫に下り て、菅原の氏寺の別当に具したりけるが、」とあるこどく、小大進の母が筑紫の菅原氏の氏寺、太宰府安楽寺の別当の妻であったので、小大進も太宰府に行ゆけば生活のめどが立ったのであろう。 他の人と一緒に筑紫へ行こうとまで決心した離婚の危機も、夫光清の優しい言葉で回避できた。愛情はもどり、そして大治四年(一一二九)二人の間に成清がうまれたのである。
これらの小大進、光清の歌四首は自ら起承転結をなしている。小大進があからさまに、ひたすらに、心境を吐露して迫っているのに対して、光清は小大進を引き止めては見たものの、彼の歌には「あき(秋)果てながら・・・・倦きはてながら」どうして「思い返して妻を恋う」様なことを言ってしまったのかという気持が感ぜられる。短編小説のような、二人の心理の対照の妙、人生の機微にふれた思いがする。

ところがこの光清の歌は、実は彼の歌ではなく他人の歌であるという。

藤原清輔の『袋草紙』巻四に、

   金葉集八幡別当光清歌云。
      
       なにことに秋はてなから棹鹿の思ひかへして妻を恋ふ覧

此歌ハ蔵人君意尊。此集撰之比。十月許参詣八幡テ聞鹿鳴テ詠也。而後日向俊頼亭。有忌之事不対面。仍紙端ニ書此歌テ。以小児一日比於八幡所詠歌也。而光清歌ト存テ入之云々。意尊歌ハ又恋部有一首。

    
       あはす共なからんよには思ひ出よ我ゆへ命たえし人そと

是ハ於左京御許テ詠歌也。コレヨミ人シラストテ入之。一首ハ称人歌。一首ハ読人不知云々。殊阿党難堪之由。所々訴行之者也。尤有謂。 (原文のまま)


意尊が十月頃石清水に参詣して詠んだ歌を持って、『金葉和歌集』撰集中の撰者源俊頼の家を尋ねたところ忌む事があって会えなかったので、紙に書いて小児に渡したが、俊頼は光清の歌と思って『金葉和歌集』に入れた次第であった。意尊は所々訴え歩いたのは、尤もであると藤原清輔は書いている。「棹鹿の思ひかへして妻を恋ふ覧」は「小牡鹿の思ひかへして妻を恋ふらん」である。『広辞苑』に、「さおしか=小牡鹿。サは接頭語、牡の鹿。おじか。」。

  源俊頼が意尊の歌を光清の歌と思い違いをしたのは以下のような事情があったのであろう。

『金葉和歌集』撰者の木工頭、源俊頼の『散木奇歌集』(一五八三)に、

人人あまたやはたのみかぐらにまゐりたりけるに、ことはてて又の日別当光清が堂の池のつり殿に人人ゐなみてあそびけるに、光清連歌つくることなんえたることとおぼゆる、ただ いま連歌つけばやなと申しゐたりけるに、かたのごとくとてもうしたりける                        俊重    
つりどののしたにはいをやすぎざらん
光清しきりに案じけれども、えつけでやみにしことなど、かへりてかたりしかばこころみにとて
うつばりのかげそこに見えつつ   


「俊重」とあるのは、『金葉和歌集』撰者源俊頼の長男・源俊重で、『尊卑分脈』に「能書、式部大夫、伊勢守、従五位上、母藤(原)清綱女、千作者(千載集作者)」とある。

別当光清の廷臣らとの気楽な交遊の有様がうかがえる。 俊重から連歌の席での話を聞いて、父源俊頼が試みに光清に代わって下の句を付けてみた。『金葉和歌集』撰者源俊頼は子息俊重を通じて別当光清の事は知っており、近親感を持っていたのであろう。従って源俊頼は小大進の歌を通じて別当光清と小大進の事情に関心を持っていたと思われる。意尊の八幡で詠んだ歌を見て、てっきり光清の歌と思い、『金葉和歌集』二度本(二六五)に光清歌として編入したのであろう。意尊の歌は小大進の一連の歌にたいする光清の歌と見ればこそ私小説的な面白さもあり妙味もあるが、独立した歌として見れば評価はまた異なる。

また前記『袋草紙』の記事にある「意尊歌ハ又恋部有一首。」とされた歌は、岩波文庫本『三奏本、金葉和歌集』の付録「流布本にありて三奏本に無き歌」にある金葉和歌集巻第八、恋歌下の左記「読人知らず」歌であり、
      
      人をうらみける頃、心地例ならずおぼえければよめる
                               読人しらず
   あはずともなからむ世には思ひいでよ我ゆゑ命絶えし人かと

この作者は意尊となる。意尊の歌は、このほか『新編国歌大観』「金葉和歌集、解題」の『金葉和歌集』初撰二度本、橋本公夏筆本(一二)にも見える。

      雅家卿家歌合に帰雁をよめる       意尊法し(師)
   
    玉札をかけしをりにやかりがねに春帰りごと契りそめけん

以上、意尊の歌三首は何れも『金葉和歌集』三奏本に入集していない。『袋草紙』にある意尊の行動を、俊頼が己にたいする非難がましい行動と受け止め、意尊の歌を一切三奏本『金葉和歌集』に採用しなかったことになるかもしれない。


三、大治四年(一一二九)成清を出産。


  小大進には、娘八人のほか、末子として子息成清(石清水別当、検校)が生れた。『尊卑分脈』「紀氏系図」成清註に次のようにある。

母三宮小大進局[菅原在良女]
彼の小大進腹の子八人皆以て女子なり。仏に男子を願ふの処、夢想の告げあ り、熊野権現に祈るべしと。これに依り参詣下向の処、妊み生まるる所の子なり。


成清の甥、刑部卿源顕兼の『古事談』にも同様の記述がある。

すでに述べたように、小侍従は保安二年(一一二一)の生まれである。小侍従と同じ母小大進から生れた弟成清は、『続群書類従』七輯上「石清水祠官系図」によれば、小侍従生誕の翌年「保安三年」(一一二二)の生れとなっているが疑問がある。系図の成清の註記に、和暦とその年の年齢が書いてあるので、その和暦から生れ年を逆算し比較してみる。

和暦 西暦 年齢 「石清水祠官系図」註 逆算した生年
保安三 一一二二 ○成清生まれる。  
保元元 一一五六 二八 ○成清修理別当に補せらる。 一一二九(大治四年)
永暦元 一一六〇 三二 ○成清を宝塔院院主となす。 一一二九(大治四年)
嘉応三 一一七〇 四三 ○成清補弥勒寺講師。 一一二八(大治三年)
改元     四月二一日改元  
承安元 一一七〇 四三 ○成清、法印に叙せらる。 一一二八(大治三年)
文治四 一一八八 六〇 ○成清に別当官符到来す。 一一二九(大治四年)
正治元 一一九九 七一 ○入滅。 一一二九(大治四年)


『古事談』「八幡ノ検校成清ノ事」に次の様にある。

   生年九才之時、本師入滅之間、相具小大進、祗候于花園左大臣家

本師は父光清の事。父が入滅したのは保延三年(一一三七)九月二十四日、成清九才の時とあるので、大治四年(一一二九)生れとなる。 『古事談』の編者、刑部卿源顕兼の母は石清水別当光清の息女で、『古事談』に特に成清について「巻五ノ十一、八幡ノ検校成清ノ事」なる一節を設け述べている点から、顕兼の母は小侍従、成清と同じ母、小大進から生まれたのであろう。顕兼は成清に面識があり直接話を聞く機会もあったと思われ、記事の信頼性が高い。

文治四年(一一八八)奏覧の勅撰『千載集』(五九七)に、成清の歌がある。

花園左大臣の家に童にて侍りけるを、笙教へ侍るとて給へり ける笛を年経てのち、かのために仏供養しける時、笛に添へ てはべりける                                               法印成清
思ひきやけふ打ち鳴らす鐘の音につたへし笛の音(ね)をそへんとは


花園左大臣源有仁は、第七十一代、後三條天皇の第三皇子輔仁親王の御子で、「源」の姓を賜り臣籍に列せられた。『石清水祠官系図』には、成清はこの方の養子であったとある。花園左大臣源有仁は、久安三年(一一四七)二月十三日、四十五才で没した。「花園」の号は、京都の花園、今の妙心寺あたりに父宮から伝領した別邸を持って居たからである。

その供養のため、今日打ち鳴らす鐘の音に伝授していただいた笙の音(ね)を添えようとは思いも掛けぬことでした、と成清は供養の和歌を捧げた。

この時の導師は安居院の澄憲、平治の乱に倒れた後白河院院政の権臣信西入道の子で説教の名人であった。 この歌は、詞書は少し違うが『月詣和歌集』(九五八)に次のように収録されている。
『月詣和歌集』は、寿永元年(一一八二)十一月には完成した。この歌はこれ以前に詠まれたことになる。

わらはにて花園の左大臣のもとに侍りけるに、笛をしへ給ふ とてたまはらせたりける笛をかの御為にほとけしやうじける に、澄憲僧都導師にて笛を誦経物にしてそへて侍りける                     法印静清
思ひきやけふうちならす鐘のおとに伝へし笛のねをそへんとは


『石清水祠官系図』によれば、成清は「静清」と称した時代があった。何れも「じょうせい」とよむのであろう。


四、『久安百首』と小大進。


康治年間(一一四二〜三)、小大進は崇徳上皇から、のち『久安百首』と呼ばれる百首の歌を召される光栄に浴した。
『群書類従』(正十一)の『久安六年御百首』奥書に、

康治のころ題を賜ひ、久安六年各詠進し畢んぬ。
仁平三年暮秋のころ別しての御気色により部類進め畢んぬ。  左京大夫顕広


と左京大夫当時の藤原顕広(のち俊成と改名)が述べており、康治年間(一一四二〜三)に和歌をめされた小大進らの和歌詠進の時期は久安六年(一一五〇)とされる。『久安百首』は崇徳院を始めとして、女人四人を含む十四人の歌人が夫々百首歌を詠進した。これに参加した女人は、次の四名であった。

◇待賢門院堀川(神祇伯源顕仲娘)、
◇上西門院兵衛(神祇伯源顕仲娘、堀川の妹)、
◇待賢門院安芸(太皇太后宮少進橘俊宗娘、藤原為経らの母)、
◇花園左大臣家小大進(石清水別当光清妻、小侍従、法印成清母)

何れも当時高名な女歌詠みである。待賢門院は崇徳院の生母、上西門院は待賢門院の皇女で崇徳院の御妹、後白河院の御姉であらせられる。御二方の女院に仕える堀川、兵衛、安芸は、崇徳院にとって馴染み深い女房どもであるが、小大進はあまり縁のない人物であったと思われる。

『久安百首』では、いわゆる長歌を「短歌」と呼んでいる。『古今和歌集』「巻第十九雑躰」に、長歌、旋頭歌、誹諧歌があるが、「長歌」の項目名を「短歌」と記してあるのに倣ったものであろう。『久安百首』に顕広の旧名で百首歌を詠進した俊成卿が、式子内親王に奉ったとされる『古来風躰抄』に、

この事は、古今集より、疑ひの侍るなり。その故は、雑躰の巻に、「短歌の部」と書き置きて、正しきその歌の詞の所には、紀貫之が「古歌奉る時、添へて奉れる長歌」と書き、また躬恒、忠岑が歌の所にも同じく「添へて奉りける長歌」と書きて侍るなり。それを、崇徳院に百首歌人々に召しし時、「各が述懐の歌は、短歌に詠みて奉れ」と教長卿の奉書にて仰せられて侍りしかば、各「短歌」と書きて長歌を詠みて奉り侍りにしなり。(以下略)


と崇徳院が召された『久安百首』について事情を述べている。更に短歌は朗詠の時、声を長く伸ばして歌うが、長歌は「詠ずるに、長くは詠ぜられず、短くいひ切りいひ切り詠ずるなり。」「よりて、詠の声につきて、長歌といひ、短歌とも申すなるべ し。いかにも歌は、詠の声によるべきものなるが故なり。」と述べている。
『久安百首』の小大進の歌のなかに「短歌」(一四〇〇)並びに反歌(一四〇一)一首があり、「短歌」(一四〇〇)は「短歌と書きて長歌を詠みて奉り侍り」しもので、実は長歌であるが、そのなかに、 「友は雲井に立ちのぼり、我は沢辺に一人居て、鳴く声空に聞こえねば」 とあるのは、久安三年(一一四七)二月十三日左大臣源有仁薨去ののち、久安六年 (一一五〇)の小大進の境遇を表わすものであろう。然しながら、崇徳院から百首の歌を召されたことにより、その「鳴く声」は畏くも天聴に達し、「霜をいただく老の身も時にあひたる心ちこそせめ 」と感涙に咽んだのも尤もであった。この歌により小大進は頭に霜を置く年齢であったと考えられる。小大進は娘八人と末子成清を生んでおり、小大進らが百首歌を詠進した久安六年(一一五〇)には娘小侍従は三十才であるから、母小大進は五十歳位ではないか。この年小大進五十歳とすると康和三年(一一〇一)の生れとなり、小侍従は生母小大進二十一才の時、成清は二十九才の時の出産となる。

小大進の『久安百首』(一三八二)に次の歌がある。

   いはし水ながれのすゑもはるばると長閑なる世にすむぞ嬉しき

この歌は、後白河院御撰『梁塵秘抄』に、「すゑ」を「水」と替えて入集している。


五、平忠盛、源為義に贈った歌。


平清盛の父、平忠盛の私家集『忠盛集』(一七三〜四)につぎの歌がある。

実成朝臣みまかりたりけるころ、小大進こにおくれたりとき きて                            忠盛
なみだがはわれはせきあへぬこのみちを君よりほかにたれかしるべき
返し                            大進

なみだがはせきしもあへぬこの道をとへどもえこそいはれざりけれ


返歌に「大進」とあるが、忠盛の詞書によりこれは「小大進」である。「実成朝臣」の呼称により実成朝臣は四位と思われるが、『尊卑分脈』にこの頃の人物としては見当たらない。谷山茂「平家物語と異本忠盛集」(『人文研究』大阪市立大学文学会、第六巻、第五号)および井上宗雄『平安後期歌人伝の研究』(笠間書院、昭五三、三九二頁)によれば、この「実成朝臣」は平忠盛の子息「平家盛」の誤りとされる。 『本朝世紀』(註1)によれば、平家盛が従四位下に叙せられたのは久安四年(一一四八)正月二十八日、『本朝世紀』久安五年(一一四九)三月十五日条に鳥羽法皇の熊野詣でに供奉した家盛の卒去について次の記事がある。

この日、法皇熊野より還御、鳥羽に着かしめおはします。年来の例は、殊に事なきのとき、稲荷に参らしめおはします。この度はこのことなし。この日、従四位下行右馬頭兼常陸介平朝臣家盛卒す。病を扶けて熊野の御共に扈従し、去る十三日より殊に以て更に発(おこ)り、今日宇治川落合の辺において気絶え了んぬと云々。乳母夫、右衛門尉平維綱、京より馳せ向ひ、哀慟に耐へず、忽ち頭を剃り了んぬと云々。


忠盛と小大進の歌は久安五年(一一四九)に詠まれたものであった。この年、小大進も子に先立たれたという。小大進は、娘八人と子息成清(のち石清水別当、検校)を産んだので、この年失ったのは娘と考える。 平治の乱に敗れた源義朝の子息頼朝は、大系本『平治物語』によれば美濃国奥波賀(大垣市青墓)で、岩波文庫本『平治物語』では関が原で、中務権大輔兼尾張守平頼盛の目代、平宗清(弥平兵衞宗清)に捕らえられ都へ連行された。頼盛は平清盛の義弟である。源頼朝がこの平家盛に生写しときいた家盛の母・池禅尼は、義理の息子にあたる清盛に命乞いして頼朝を助けたとある。のち平家の没落にあたり、池禅尼の子息で家盛の弟、権大納言平頼盛は源頼朝の配慮に与かることになる。

  平家興隆の基礎をつくった忠盛と歌をかわした小大進は、この時期の清和源氏の代表的人物の源為義にも歌を贈っている。『月詣和歌集』(八二二)より。

源為義が六位検非違使にてはべりけるをりかよひけるが、た えてのち五位の尉にとまりぬとききてつかはしける    小大進              
東雲にいでしことこそ恋しけれあけにとまると聞くにつけても


為義が小大進を愛して通ったという。これにたいする為義の返歌は見あたらない。朝廷の儀式などに着用する正装を束帯といい、そのとき上に着る衣を袍という。袍は位により色が異なるので位袍という。寛弘元年(一〇〇四)以降は、五位は蘇芳色、六位は縹色(はなだいろ=薄い藍色)の位袍を着た。石村貞吉『有職故実』(講談社学術文庫、昭六二、下巻三五頁)によると、「検非違使、外記、史は、五位でも浅緋 [うすきあけ]の色を着、赤色のものをきた。」とある。六位の検非違使が、五位になると検非違使をやめるのが普通で、法律の家である坂上、中原両家の人や特に功労のあった人は、「叙留」といって「あけ色」の位袍を着る五位の検非違使尉となることが出来た。

小大進の詞書の「あけにとまる」は、「あけ色」の位袍を着る五位の検非違使尉に留まること(叙留)をあらわし、併せて「明け方まで泊まる」ことを意味している。この歌は、あなたが六位の検非違使であったころ、私を愛して家に泊まり、明け方に帰るのが常でしたが、その後すっかり縁が切れてしまいました。あなたが、このたび「あけ色」の位袍を着る五位の検非違使尉に叙留(あけにとまる)したと聞くにつけても、「あけがた」まで泊まっていったあの頃が恋しく思い出されます、という歌である。

為義が叙留された久安六年(一一五〇)の歌である。時に為義五十五歳。 平忠盛は為義と同年齢であり、小大進が康和三年(一一〇一)の生れとすれば、彼女はこのとき五十才である。平忠盛は仁平三年(一一五三)一月に逝去、享年五十八才。源為義は保元の乱に敗れ、保元元年(一一五六)七月斬罪に処せられた。享年六十一才。小大進の逝去はあとで述べるごとく久寿二年(一一五五)九月、享年は五十五才位である。

私撰集『続詞花和歌集』(六六二)の歌を、

かざし、ふたば、といふ雑仕を共に物言ひける男の、ふたば につきて、かざしをば絶えにければ、かざしに代はりて、み あれの日葵に書きてつかはしける             小大進                               
思ひきやふたばにかけし葵ぐさよそのかざしにならむ物とは


「かざし」「ふたば」の二人の雑仕女に言寄っていた男が、「ふたば」と結ばれて 「かざし」の方を袖にしたので、「かざし」に代わり加茂の葵祭の「みあれの日」 に、葵に書き付けて贈るという詞書である。
                  
以上見てきたところから感じる小大進という人物は、機知あふれる自在な心境で、かなり肚の据わった楽天家。多産で健康、陽気な多血質の女性ではなかったか。


六、小大進の没年。


 
 『八幡愚童訓(乙)』、『古事談』を綜合するに、保元元年(一一五六)五月鳥羽法皇ご灸治のおり、灸の熱さをお慰めするため、人々は順番に神仏の霊験話を申上げた。典薬頭丹波重基の番になって彼は最近の以下の出来事を申上げた。 重基の遠縁の侍医でもあった内匠頭丹波実康(『古事談』は重基自身)の夢に八幡神の使が現われて「今日治療を受けに来る者は八幡神が殊に不憫に思し召すものであるから、よく治療するように」とのお告げがあり、その日、故石清水八幡宮寺検校光清の子息成清が治療を受けに現われたと言う。『八幡愚童訓』には、所労の治療とあり、『古事談』は寸白(すばく=寄生虫病)の治療とある。当時、成清は石清水八幡宮寺とは関係がなく、『八幡愚童訓』には仁和寺に隠居中とあり、『古事談』には高野山で修行中とある。 この奇跡を聞こし召された法皇は大いに驚かれて、関白忠通と御相談の上、早速お声がかりで石清水八幡宮寺に修理別当として出仕せしめようとされた。このとき成清は親の喪に服する重服の期間であった。父石清水検校光清は成清九才の時に入滅しているので、この度の服喪は母小大進の逝去によるものである。
『宮寺服忌令』に、両親についての服喪は「一年服」で、一周忌のその日迄である。
保元元年(一一五六)七月二日鳥羽法皇崩御までに、成清の石清水八幡宮寺出仕のことが実現しなかったのは、ひとえに、神に仕えるものとして『宮寺服忌令』の重服の定めを守った為である。成清は、保元元年(一一五六)閏九月二十四日、石清水八幡宮寺の修理別当とされた。この前月九月に喪があけたので、翌月閏九月に成清は修理別当とされたのであろう。従って『宮寺服忌令』の重服の期間一年を逆算し、小大進は久寿二年(一一五五)九月に逝去したと考える。


七、待賢門院御衣紛失事件。


 
 『古今著聞集』「鳥羽法皇の女房小大進、歌に依りて北野の神助を蒙る事」にある待賢門院御衣紛失事件について述べる。

小大進は、鳥羽法皇の中宮であらせられた待賢門院璋子の御衣紛失について嫌疑をうけ、検非違使監視のもと、当時無実の罪を晴らす霊験あらたかとの信仰が厚かった北野天神に参籠祈願した。『北野天神縁起』にはその功徳について次のようにある。

無実にかゝりたるともがら、あゆみをはこび、かうべをかたぶくれば、たちどころに霊験にあづかる。官位をもとめ福寿をねがふたぐひ、祈請さらにたがわず。


参籠三日目になって神前にお供えしてある神水をこぼしたので、検非違使は「これ以上の過失はあるまい、出なさい。」といった。小大進は泣く泣く「あと三日猶予を下さい。それでもお祈りの霊験が現われなかったら連行してください」といって次の歌を詠んだ。

思ひいづやなき名立つ身は憂かりきと現人神になりし昔を


御祭神、道真公も無実の罪を蒙られた昔は苦しまれたことを思い出されるでしょう。私も無実の罪に泣いております、お救いください、と言う意味の歌を紅色の薄い鳥の子紙に書き神殿に貼った。その夜、鳥羽法王の夢枕に北野天神が立たれて、「めでたい事があるので、使者をお遣わし下さい」と言われた。早速、北面の武士を馬寮の馬で急がせたところ、小大進は神前で「あめしずく」と涙を流して泣いていた。北面の武士は、神殿に小大進が歌を書いて貼ってあった紙を持って帰りを急いだ。武士が未だ帰り着かないうちに、法王のおられた離宮鳥羽殿の南殿前に、法師と敷島と言う雑仕女の二人が紛失した女院の御衣を頭からかぶって獅子舞を舞っているのを法王がお見付けになった。こうして疑いの晴れた小大進に再び出仕するよう仰せがあったが、「この様なお疑いを受けるのも、私を心の曲がった者と思っておいでなのでしょう」といって仁和寺なる所に籠ってしまった。

この話の原点と思われるものが『袋草紙』と『続詞花和歌集』にある。『袋草紙』の筆者で私撰集『続詞花和歌集』の撰者である歌人藤原清輔は、小大進とともに崇徳上皇より『久安百首』に歌を召されているので、同時代に生きた人である。

『袋草紙』巻四の「仏神感応歌」に、

修理進[某妹]

   思出つやなき名のたつはうかりきと荒人神もありし昔を

是故待賢門院中宮之時。女装束一具失了。宮中鼓動。此女或局女房被嫌疑。
仍泣々参籠北野所詠歌也。其後実犯出来。半物敷島也。


これ故待賢門院中宮のとき、女装束一具うせ了んぬ。宮中鼓動す。此女は或局女房にて嫌疑せらる。仍りて泣く泣く北野に参籠し詠む所の歌なり。そののち実犯いできたる。はしたもの敷島なり。

とある。故待賢門院璋子が中宮であらせられたとき、女装束一揃えが無くなり、宮中は大騒ぎとなった。「修理進」と呼ばれたある局の女房が疑いを受け、泣く泣く北野天満宮に参籠し詠んだ歌である。のち本当の犯人が出てきた。それは、半物(はしたもの)の敷島であったとあるが、この女房を小大進としていない。また紛失したのは女装束で、中宮御衣とはしていない。この歌を詠んだ作者は「修理進某妹」ではなく「修理進[某妹]」とあるので、中宮璋子に仕え「修理進」と呼ばれた女房であろ う。兄が修理進の職にいたのかも知れない。「修理進」は修理職の大進か小進で従六位相当官。修理職は木工寮と手分けして内裏を修理造作する役である。
同じく藤原清輔の私撰集『続詞花和歌集』(三七九)に次の歌がある。作者名はない。

待賢門院后宮と申しける時、女房のきぬのうせたりけるを、
あるつぼねなる女房、あやしきさまにいはれける、きたのの
宮にこもり侍りける、御前のはしらにかきつけける
  おもひいづやなき名をたつはうかりきとあら人がみもありし昔を
此のちほどなくあらはれにけりとなん申す


この歌の詞書にも、待賢門院が中宮であらせられた時の事件としてある。衣を紛失したのは「女房のきぬのうせたりける」とあり、女房の衣であって中宮の御衣ではな い。この話は、宮中である局の女房が衣を紛失した実話であり、女御藤原璋子が中宮になられたのは永久六年(一一一八)一月二十六日、中宮璋子に院号、待賢門院が宣下されたのは天治元年(一一二四)十一月二十四日、中宮であらせられた六年十か月の期間の事件である。この話は北野天満宮の御霊験と和歌の功徳の話として当時都に喧伝され、大きな感激を与えたと思われる。後世、待賢門院の御衣紛失事件として伝承され、被疑者の女房を鳥羽法皇女房小大進とし、或は待賢門院女房小大進とする。この事件は種々の文献に記載されているが、その文献の成立年代順にならべると次のごとく、衣を紛失した人物と被疑者に変遷の過程がうかがえる。

文献成立年代(西暦・和暦) 文献名 被害者 被疑者 実犯人
一一五八年頃・保元三 袋草紙   女房・修理進 半物(はした者)敷島
一一六五年頃・永万元 続詞花和歌集 女房 或局女房 記載なし
一一九四年・建久五以前 北野天神縁起 女房 女房 雑仕敷島
一二一九〜二二年・承久年 北野縁起 女房 女房 半物敷島
一二五二年一〇月・建長四 十訓抄 待賢門院 小大進 敷島と法師
一二五四年一〇月・建長六 古今著聞集 待賢門院 小大進 敷島と法師
一二八三年八月・弘安六 沙石集 待賢門院 小大進 敷島と法師


以上のほか『北野本地』『北野天神御縁起』にもこの話があり、この話の原点は藤原清輔の『袋草紙』の記事と彼の私撰集『続詞花和歌集』に入集した「思ひいづや」の歌の事件である。『北野天神縁起』には、雑仕敷島の母「きりしはら尼君」が娘の盗んだ衣を捧げ持って鳥羽法皇の御前に参ったとある。
「修理進」と呼ばれた女房に関する『袋草紙』『続詞花和歌集』の北野天神の御利益と和歌の功徳の実話は、待賢門院璋子が中宮で有らせられた天治元年(一一二四)十一月以前の事であり、これから百三十年程のち、『十訓抄』から、衣を紛失したのは待賢門院璋子、被疑者小大進を主人公とする説話として転化されていった。
北野天満宮御祭神、道真公の子孫である小大進の兄俊永は、太宰府安楽寺別当で北野天満宮の権別当であった。小大進ならば北野天満宮と深い因縁がある。この説話の主人公としてうってつけの人物であったが、小侍従の母小大進に全く関係のない話であった。




(註)
 
1.『本朝世紀』=『六国史』(日本書紀・続日本紀・日本後記・続日本後記・日本文徳天皇実録・日本三代
  実録)の『日本三代実録』の後に続く時代、宇多天皇から近衛天皇(八八七年から一一五五年)までの歴史書。  著者・藤原通憲(信西入道)。 
   (終)    




                                                                 

 

 

 


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    2008.4.24