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七章 小侍従の前半生
一、前半生のなぞ。
八十二才まで生きた小侍従は、永暦元年(一一六〇)四十才のとき二条天皇に出仕したが、それまでの前半生については不明な点が多い。
小侍従の母小大進は、後三条天皇の第三皇子輔仁親王に続いて、その御子、花園左大臣源有仁に仕えた。源有仁の正室が閑院流の権大納言藤原公実の娘であったので、『今鏡』「花のあるじ」に、有仁室の兄弟や甥の三条公教(のち内大臣)などの貴公子、その他の殿上人らが有仁邸を訪れて詩歌管弦の遊びが行なわれ、和歌の席に有仁家女房で高名な女歌詠みであった小侍従の母「小大進」や「越後の乳母」が侍ってお相手をしたとある。
小侍従の弟成清は、『石清水祠官系図』に「花園左大臣有仁公御養子」とあり、
『古事談』には彼が仁和寺に祗候するとき、左大臣源有仁の牛車に同乗し、のち権中納言にいたる源師仲、藤原公光(閑院流)らがお供したとある。小大進、成清の母子は有仁公の格別の恩顧を受けている。従って小侍従も始めて出仕したのは源有仁家であったと思われる。
源有仁の正室の姉公子と藤原経実(権大納言に至る)の間に生れた娘懿子は、叔父左大臣源有仁の養女として雅仁親王(後白河天皇)の妃となり、康治二年(一一四三)六月十八日に王子を生み二十四日疱瘡で薨去された。懿子の生んだ王子はのちの守仁親王(二条天皇)である。
母小大進の縁で小侍従は年少の頃から源有仁家に出仕し、養女懿子に仕え、親王妃となった懿子に引き続き仕え、二条天皇の御生誕の頃御奉仕したのではないか。後年、小侍従が二条天皇に出仕する縁もここにあるのではないか。『椒庭秘抄』(角田文衛、朝日新聞社、昭五〇、二四〇頁)に、保延五年(一一三九)十二月雅仁親王元服の時、源有仁が加冠役を務めたので、その養女懿子が添伏しとして参上したと推測されている。小侍従がこのとき懿子の女房であったとしたら、当時小侍従は十九歳であった。『古今著聞集』に後白河院御在位の頃、小侍従がその寵愛を受けたとする話があり、『三百六十番歌合』目録には「小侍従十八首、後白川(河)院女房」と記載され、『山家集』に「院の小侍従」と詞書のある歌が詠まれてあり、『山家集』に「院」とあるのは後白河院と考えられる。
四十才以後の小侍従の経歴はかなり明らかであるが、この時期すでに退位し上皇であらせられた後白河院にお仕えしたことは立証し得ないし、出仕した事はないと考える。院が雅仁親王であらせられた頃、小侍従がお仕えしたのではないか。
二、小侍従、後白河天皇の御寵愛を受けるか。
『古今著聞集』に、小侍従が後白河天皇御在位の頃、そのご寵愛を受けたとする話がある。後白河天皇御在位のとき、天皇には二十九才から三十二才であらせられ、小侍従は三十五才から三十八才であり、当時頭中将であった夫伊実の生前であったか
ら、この話は小侍従に年齢的にも無理がある。後白河天皇御即位までに、御寵愛を受けた播磨局は亮子内親王、斎院好子内親王、守覚法親王、以仁王、斎院式子内親王をなし、御在位中、斎宮休子内親王がお生まれになった。保元元年(一一五八)八月御退位ののち応保元年(一一六一)九月三日上西門院女房小弁局(平滋子)にのちの高倉天皇がお生まれになった。このように見てくると、御在位の頃すでに容貌に衰えの見える年齢であった小侍従を御寵愛になったとすることは疑わしい。後白河院御撰の『梁塵秘抄』に、女性の年齢についての今様の戯れ歌がある。
女の盛りなるは、十四五六歳廿三四とか、
三十四五にし成りぬれば紅葉の下葉に異ならず。
保延五年(一一三九)に雅仁親王(のちの後白河天皇)の添伏しとして参上した懿子に小侍従が仕えたとすれば、このとき小侍従は十九才、康治二年(一一四三)六月懿子が薨去されたとき小侍従は二十三才であった。小侍従は懿子より五才年下である。後白河院が小侍従を寵愛されたのが、雅仁親王当時の親王妃懿子薨去の前後の頃のこととすれば、小侍従も「女の盛りなる」十九才から二十三、四才であったので、全くありえない話ではないと思われる。
雅仁親王は、親王妃懿子薨去ののち、閑院流の権大納言季成の娘播磨局(高倉三位成子)を寵愛され多くの御子が生れたが、最初の御子である亮子内親王(殷富門院)が生れたのは久安三年(一一四七)である。播磨局の亮子懐妊が前年の久安二年(一一四六)として、康治二年(一一四三)六月二十四日の親王妃懿子薨去より三年の空白期間があり、この期間に小侍従が寵愛を受けた時期があったかも知れない。
『古今著聞集』「後白河院の御所にして小侍従が懺悔物語の事」(原文のまま)。
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後白河院の御所いつよりものどかにて、近習の公卿両三人、女房少々候ひて雑談ありける時、仰せに、「身にとりて、いみじくおもひ出でたるしのび事、何事かありし。かつは懺悔のため、おのおのありのままに語り申すべし」と仰せられ
て、法皇より次第に仰せられけるに、小侍従が番にあたりて、「いかにも、ここにぞ優なる事はあらんずる」など、人々申しければ、小侍従うちわらひて、「おほく候ふよ。それにとりて生涯の忘れがたき一ふし候ふ。げに妄執にもなりぬべきに、御前にて懺悔候ひなば、罪かろむべし」とて、申しけるは、 |
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そのかみ、ある所より迎へに給はせたる事ありしに、すべておぼえぬほどにいみじく執し侍りし事にて、心ことにいかにせんと思ひしに、月冴えわたり、風はだ寒きに、さ夜もやや深け行けば、千々におもひくだけて、心もとなさかぎりなきに、車の音はるかに聞えしかば、「あはれこれにやあらん」とむねうちさわぐに、からりとやりいるれば、いよいよ心まよひせられて、人わろき程に急ぎのられぬ。さて行きつきて、車寄せにさしよするほどに、御簾のうちよ
り、にほひことにて、なえらかになつかしき人出でて、すだれ持てあげておろすに、まづいみじうらうたく覚ゆるに、立ちながらきぬごしにみしといだき
て、「いかなるおそさぞ」とありしことがら、なにと申しつくすべしともおぼえ候はず。さて、しめやかにうち語らふに、長夜もかぎりあれば、鐘の音もはるかにひびき、鳥の音もはや聞ゆれば、むつごともまだつきやらで、あさ置く霜よりもなほ消えかへりつつ、おきわかれんとするに、車さしよする音せしかば、たましひも身にそはぬ心地して、我にもあらず乗り侍りぬ。帰りきても、又寝の心もあらばこそあかぬなごりを夢にも見め、ただ世に知らぬにほひのうつれるばかりを形見にて臥ししづみたりしに、その夜しも、人に衣置きかへられたりしを、朝にとりかへにおこせたりしかば、うつり香の形見さへまたわかれにし心のうち、いかに申しのぶべしともおぼえず、せんかたなくこそ候ひしか。 |
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と申したりければ、法皇も人々も、「まことにたへがたかりけん。このうへは、そのぬしをあらはすべし」と仰せられけるを、小侍従「いかにもその事はかなひ侍らじ」と、ふかくいなみ申しけるを、「さては懺悔の本意せんなし」とて、しひて問はせ給ひければ、小侍従うちわらひて、「さらば申し候はん。おぼえさせおはしまさぬか。君の御位の時、その年その比、たれがしを御使にてめされて候ひしは、よも御あらがひは候はじ。申し候ふむねたがひてや候」と申したりけるに、人々とよみにて、法皇はたへかねさせ給ひて、にげいらせ給ひにけるとな
ん。 |
小侍従の懺悔話に、若き日の貴公子との秘められた愛の思い出を聞かされた近習の公卿は申すに及ばず、法皇さままで、しぶる小侍従に恋の相手を白状させようとなさった。小侍従はやむなく「それでは申し上げましよう。お忘れでございますか。法皇さまが天皇の御位にましました時、たれそれを使として私をお召しになったことを。よもやご否定はなされますまい。私の申すことに間違いがこざいましたでしょうか。」と申し上げたので、人々はどっとうち興じ、法皇は「これは」とばかり逃げいらせられたと云う。
三、内大臣源雅通との若き日の恋。
『小侍従集』百二十一首にある雑歌五十首のうちの六首(七二〜七)に、小侍従が「久我のおほいどの」と言う人物と交わした一連の恋歌がある。雑歌五十首の中ではかなりまとまった歌と言えよう。「久我のおほいどの」は「久我の大臣」の敬称で、内大臣源雅通である。現在の京都市伏見区久我にあった村上源氏の別荘「久我水閣」は雅通に伝わり、彼は「久我内大臣」と呼ばれた。彼は大納言源顕通の実子で天台座主明雲と異母兄弟であるが、叔父右大臣雅定の養子となった。元永元年(一一一八)生れ、小侍従より三才年上である。小侍従と源雅通の交わした和歌により、二人のかなり深い関係をよみとる事はむつかしくない。
『小侍従集』(七二〜七)より。
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久我のおほいどのしのびて物申すころ、五月なかばのほどよし程なきにとて久我に二三日あそびてかへりたるに、あれよ
り(七二) |
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はかなさもあふ名なりけり夏の日も見るほどありと覚えやはせし |
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おもひわびたゆる命もあるものをあふ名のみやははかなかるべき |
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ながむらんおなじ月をばみるものをかはすにかよふ心なりせば |
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こよひわれとはれましやは月をみてかよふこころの空にしるくは |
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おなじ人、久我にてかがりなどともして面白き遊びありし
のち、ひさしくおとなきに(七六) |
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あはれいつよかはのかがり影きえてありし思ひのはてときかれん |
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おなじ人のもとよりひがごとをききてうらみつかはして、見ぐるしかりしふみどもかへしたべといひつかはしたるに
(七七) |
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思へただこのことの葉をかへしてはなににかくべきつゆの命ぞ |
(七二)歌によれば小侍従は源雅通に招かれ、久我の別荘に二、三泊した。(七六)歌にも、小侍従は後日久我に招かれ、別荘を巡って流れる清流桂川の川面に揺れるかがり火に興じて夜を過ごしたことがうかがえる。『源氏物語』「松風」の桂の院の月の宴は、光源氏が桂川の辺りの別邸で和琴、琵琶、笛の音楽を楽しみ、鵜飼どもを召して興ぜられることなど、久我より上流の桂のことであるが、久我の二人の秘めやかな宴(うたげ)にも風雅な趣向があったのであろう。(七七)歌の「なににかくべき露の命ぞ」に若い一途な心を感じる。一連の歌は二人の青年期のものである。
この詞書に「ひが事をききてうらみつかはして・・」とあるのは、若い雅通が小侍従と他の貴公子との噂を聞いて逆上嫉妬し詰問する文を贈ったのであろう。
雅通は一、二日おいて冷静になり、自分のしたことを客観して恥じる所があった。そうして「みぐるしかりし文ども返したべ」と小侍従に申し送ったのである。小侍従は、男の逆上した文に男の真情を読み取り、却って嬉しく思われたであろう。雅通が嫉妬した相手は不明。三才年上の雅通とは、夫伊実と結ばれる前の小侍従の若い時代の交際と考える。
承安五年(一一七五)、内大臣雅通は久我で薨去し、のち寿永元年(一一八二)に『小侍従集』が編まれた時、彼の最終官職が記載された。
四、以仁王に和琴を伝授する。
小侍従は、その前半生に宇多源氏の雅楽頭源範基に和琴を習った。和琴の芸の伝承系図、『和琴系図』『和琴血脈』にその名を留めているので、奥義に達したものと思われる。
『和琴系図』抜粋(『体源抄』)
┌─範仲(範基長男)
雅楽頭 │
源範基─┼─小侍従─┬─三条宮
│ │
│ └─通定
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├─中山内大臣忠親公
│
├─近衛大納言実家卿
│
└─皇后宮権大夫実守卿
『和琴血脈』抜粋
┌─俊基(範基三男)
雅楽頭 │ ┌─白河琴尼公
源範基─┼─小侍従─┤
│ └─三条宮
├─内大臣忠親
│
├─大納言実家
│
├─后宮権大夫実守
│
└─太政大臣頼実
『和琴系図』『和琴血脈』にある小侍従の弟子「三条宮」は、雅仁親王(後白河天皇)と播磨局(高倉三位成子)の間にお生れになった以仁王で、『玉葉』に「高倉宮」また「三条宮」とし、治承四年(一一八〇)五月十五日条には「三条高倉宮」とある。『愚管抄』も以仁王を「高倉宮」「三条宮」としており、三条高倉の宮御所の所在によったものである。以仁王は幼少のころ天台座主最雲法親王の弟子となったが、応保二年(一一六二)二月法親王は薨逝し、以仁王は永万元年(一一六五)十二月十六日十六歳で太皇太后多子の御所で元服した(『顕広王記』)。
以仁王は治承四年(一一八〇)四月九日諸国の源氏らに平家追討の令旨を発し、源頼政と挙兵し宇治に戦い、五月二十六日奈良に赴く途中、京都府相楽郡山城町綺田、現在の高倉神社の地で討死されたが、源頼朝・木曽義仲らの決起を促し平家滅亡の遠因となった。以仁王は小侍従三十一才の仁平元年(一一五一)生れとされるので、十才以前に和琴を習い始められたとすれば、その始めは小侍従前半生の事となる。八条院判官代藤原隆信、以仁王の叔父藤原公光には、八条女院の猶子以仁王に「とのゐ」した時詠んだ歌(元久本『隆信集』七七三、七七四)があり、彼等は以仁王に近侍した人物であるが、この二人と小侍従は親密であり歌もかわしている。以仁王に和琴を伝授した期間、彼らと親密になったのではないか。
小侍従の弟子「通定」は、小侍従の嘗ての恋人内大臣源雅通の四男通定(通望改
め)で、『玉葉』嘉応三年(一一七一)九月十七日条の石清水八幡の神楽の記事に、「通定(内大臣息、兵部大輔)和琴云々」とある。
「白河琴尼公」は『秦箏相承血脈』にも登場する閑院流、内大臣三条公教の息女「今御前、白河尼」か。「大納言実家、皇后宮権大夫実守」は右大臣公能の子息、太皇太后多子の弟で小侍従と親しい人々。「太政大臣頼実」は二条天皇生母、贈皇太后懿子の弟経宗の子息。「内大臣中山忠親」は、本書でたびたび引用する『山槐記』の筆者。
小侍従が病み小康を得たころ、西行が見舞い、小侍従の和琴の秘曲に感動して歌を交わしている。のち章をあらためて、この事にふれる。
2008.4.27.
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