九章 二条天皇にお仕えした頃
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一、 |
中宮(よし)子内親王の出家 |
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二、 |
右大臣公能の薨去と太皇太后多子の服喪 |
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三、 |
藤原育子の入内 |
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四、 |
小侍従、内裏を辞し、大宮御所に出仕 |
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五、 |
小侍従、二条天皇の石清水行幸に供奉 |
二条天皇崩御の永万元年(一一六五)に成立した『続詞花和歌集』は、藤原清輔が個人的に撰集した和歌集を二条天皇の天覧に供し、改定中に天皇の崩御に接し、勅撰集とされる機会を失ったものとされるが、小侍従は「大宮小侍従」として三首入集した。
二条天皇崩御の永万元年(一一六五)七月二十八日まで小侍従が内裏に仕えていたら、天皇の喪に服し太皇太后宮御所に出仕するのが遅くなるので、「大宮小侍従」ではなく「二条院小侍従」などと記名されたであろう。『続詞花和歌集』入集歌に「大宮小侍従」とあるので、小侍従の大宮(太皇太后多子)への出仕は二条天皇御在世中と考える。小侍従の名を高からしめた「待つ宵に更け行く鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」などが入集している。
以下、小侍従の内裏出仕の間のことと大宮出仕の時期について述べる。
一、中宮(よし)子内親王(よし=女偏に朱)の出家。
久寿三年(一一五六)三月五日鳥羽院と美福門院得子の皇女(よし)子内親王は、後白河天皇の東宮守仁親王の東宮女御となられた。東宮守仁親王は保元三年(一一五八)十二月二十日御即位、二条天皇であらせられる。女御(よし)子内親王は、保元四年(一一五九)二月二十一日御年十九才で中宮となられたが皇子皇女の御生誕はなく、近衛天皇の皇后であらせられた太皇太后多子が既述のごとく永暦元年(一一六〇)一月二十六日御年二十一歳で二条天皇に入内、前例のない近衛、二条の二代の帝の后となられた。
中宮御生母の美福門院に縁の深い経宗、惟方の二人は同年二月二十日逮捕、三月十一日流罪。こののち内裏には徐々に太皇太后多子の父権大納言公能の配慮による小侍従らの女房が配置され、中宮は天皇との意志の疎通も次第に困難となられたであろう。
八月十一日、小侍従の夫、権中納言伊実は中納言に、夫の父、左大臣伊通は太政大臣に、太皇太后多子の父、権大納言公能は右大臣に任ぜられた。この日から八日のちの八月十九日、中宮には出家あそばされることとなった。
この年の一月末に太皇太后多子が入内あそばされて以来、中宮にはこれを悲しまれて天皇のもとに赴かれず、生母美福門院より伝領の御所「白河押小路殿」に籠られ、八月十九日の暁に出家あそばされた。後白河上皇は中宮の出家を思いとどまるよう説得されるため「白河押小路殿」に前夜から御幸、暁に還御あそばされたが、中宮には遂に思い止まられることはなかった。中宮の御叫び声が頗る御簾の外まで漏れたと言う。
『山槐記』永暦元年(一一六〇)八月十九日条に次のようにある。
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今暁、中宮御悩危急により御出家ありと云々。院去夜御幸ありて、暁天還御と云々。先々このこと御発心の由ほぼその聞あり、しかれども上皇の御制止により、遂げおはさしめざるなり。いま御幸ありてこのことあり。還御前後の条知らざる事なり。御年廿と云々。はなはだ悲しき事なり。去る春頃より禁裏に入りおはしまさず、白河押小路殿におはすなり。晩頭に及びて、予この事を聞く。仍りて逐電参上。一昨日より重悩、御ものの気凡そ渡らずと云々。御叫音頗る玉簾の外に漏るるか。参上の由、女房に触れ退出し了んぬ。 |
「去る春頃より禁裏に入りおはしまさず、白河押小路殿におはすなり。」とあり、この年の一月末に太皇太后多子が入内あそばされて以来、中宮にはこれを悲しまれて天皇のもとに赴かれず、母后美福門院より伝領された「白河押小路殿」に籠られたままであった。「御叫音頗る玉簾の外に漏るるか。」と記しているのに、「いま御幸ありてこのことあり。還御前後の条知らざる事なり。」とあるのは、筆者は事情を知っているが書くのを憚ったと言うことであろう。中宮が御叫音を発せられ、その声は頗る玉簾の外に漏れたという。この時の院の御振舞いは何であったか。「院去夜御幸ありて、暁天還御と云々。」とあるが、何ゆえに後白河上皇が二条天皇の中宮の許に一夜を過ごされたのか。この事はのちのち院と天皇の御不和の遠因となったであろう。
中宮御出家の翌日,永暦元年(一一六〇)八月二十日、二条天皇には石清水八幡宮寺に行幸あそばされ、後白河上皇には鳥羽の大納言光頼卿の宿所で密々行幸の様を御見物になった。この行幸に小侍従は供奉している。『山槐記』当日条には、上皇について「中宮御事によりご見物あるべからざるの由風聞あり、而れどもまた鳥羽においては已に露見の体なり」とある。「中宮御事」とは、中宮出家に関連した上皇の行動についての風聞であろう。
『山槐記』筆者藤原忠親(号中山)はこのとき左中将、三十才であった。
後白河院御即位の経過よりするに、美福門院は幼児のころから養育された二条天皇の御即位を望まれた。現に父宮(雅仁親王・後白河院)がおいでになるのを差し置いて子宮(守仁王・二条天皇)がご即位になるのは不適当との意見により、父宮雅仁親王がご即位あそばされた経過があった。保元の乱において、美福門院や関白忠通その他の故鳥羽院側近の主導のもとに、後白河天皇は実の兄である崇徳院と戦うこととなったが、これは果たして後白河院の望まれたことであったであろうか。
『梁塵秘抄』に、御生母・待賢門院璋子崩御のとき、同じ女院から生まれた御弟・雅仁親王が御兄・崇徳院と同じ御所に居られたことが見える。
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久安元年八月二十二日、待賢門院うせさせ給にしかば、火を打けちて、闇の夜に向ひたる心地して、くれふたがりてありしほどに、五十日過し程に、崇徳院の新院と申し時、ひとつ所にわがもとにあるべきやうに仰られしかば、余りまぢかくつつましかりしかども、好みたちたりしかば、其後も同じやうに、夜毎に好み歌ひき。 |
院の御生母・待賢門院璋子は、美福門院徳子の出現によって追い込まれて出家された。このような経緯があるので、後白河院は、美福門院の皇女である中宮のため「去夜御幸ありて、暁天還御」してまで御出家を思い止まらせようと努力するほど、美福門院にたいして恩義があったわけではない。このことは不自然である。むしろ美福門院にたいして悪感情をもって居られたとしても当然である。
後白河院について、『玉葉』にいろいろ述べてある。『玉葉』に、院の寵女丹後局(近臣平業房の妻)は最下賤の者か、とあり、遊君であったとしている。この女は院との間に内親王をなしている。
また後白河院が摂政基通と男色の関係となったことは『玉葉』寿永二年(一一八三)八月十八日条に、
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又聞く、摂政、法皇に鐘愛せらるる事、昨今の事に有らず、・・・・去る七月御八講のころより御艶気あり、七月二十日ころ御本意を遂げらる。去る十四日参入の次いでに、又艶言御戯れ等ありと云々。事の体、御志浅からずと云々、君臣合体の議、これ を以て至極となすべきか、古来かくの如きの蹤趾なし、末代の事、皆以て珍事なり、勝事なり・・・ |
と筆者九条兼実は記している。『玉葉』寿永三年(一一八四)六月十七日条には、法皇が貧しい蒔絵師の家に到り、美しい製品を献納すべき由仰せられたが、蒔絵師は貧しいため献納しなかった。のち北面の武士・周防入道能盛がとりあげて献納した。昔の陽成天皇・花山天皇の狂と謂えども此のようなことはされなかったとある。九条兼実は後白河院と相性が悪く、そのことは、その日記『玉葉』によっても窺がえる。
中宮(よし)子内親王は御出家ののち、応保二年(一一六二)二月五日女院号高松院を宣下され、安元二年(一一七六)六月十三日御年三十六才にして崩御あそばされた。『玉葉』建久二年(一一九一)四月二十四日条に、
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今旦、澄憲真弟子[御室御弟子、高松院御腹、澄憲生ましむるの子なり、密事と雖も人皆これを知る]仁和寺において受戒潅頂。 |
とある。この男子は澄憲が高松院と通じて、女院高松院がお生みになった澄憲次男の仁和寺僧都海恵である。澄憲は信西入道の子息。
中宮御出家の翌日の永暦元年(一一六〇)八月二十日、二条天皇には石清水八幡宮寺に行幸、二十一日鳥羽殿に還幸、二十二日里内裏「大炊御門殿」に還御。里内裏「大炊御門殿」は、『山槐記』に「大炊御門北、高倉東御所」(大炊御門大路北、高倉小路東)とあり、この御所は太皇太后多子の祖父実能の邸宅で故左大臣頼長も嘗て同居したが、実能の子息公能に伝わり太皇太后多子入内ののちは二条天皇の里内裏とされた。九月二日、小侍従の夫、中納言伊実薨去。中宮の生母美福門院は十一月二十三日崩御される。
二、右大臣公能の薨去と太皇太后多子の服喪。
永暦二年(一一六一、改元応保元年)八月十一日、太皇太后多子の父右大臣公能は大炊御門北高倉東亭に於て薨去した。公能はこの邸宅の所在により大炊御門右大臣と呼ばれた。このとき小侍従は『小侍従集』(八五)のつぎの和歌を太皇太后に捧げた。この歌には公能の死を悼む真情が表れており、小侍従が公能の恩顧を受けた証であろう。
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おほひのみかどの右大臣かくれさ せ給ひて、大宮へ人人の御
なかにとて |
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みやま木のたのみし蔭もかひなくてたまらぬ雨とふる涙かな |
「大宮」は太皇太后宮。
『山槐記』同年八月五日条「右府不食頗る増気」、十一日条「去月二十五日祈年穀奉幣の上卿となり参内、其の後、所労更に発(おこ)り不食」とあり、右大臣公能には早くから胃腸に問題があったのであろう。病状が進むにつれ、痩せるなど外見からも異状がわかる。
二条天皇におかせられても、これを御心配あそばされ、公能の住み慣れた里内裏大炊御門高倉殿(もと公能邸)で療養するよう御配慮があったと思われ、公能は大炊御門高倉殿で薨去した。
『山槐記』永暦二年(一一六一・改元・応保)八月十一日条、
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午の刻許り右大臣{正二位右近大将公能なり}大炊御門北高倉東亭に於いて薨ず。去月二十五日祈年穀奉幣の上卿として参内してより、その後、所労更に発(おこ)り、食せずと云々。春秋四十七.悲しむべし、悲しむべし。太皇太后禁裏を出御。権大夫公保卿参内し行啓のことを行ふ。宮司一両供奉す。御車唐と云々。姉小路富小路亭に渡御と云々。皇后宮また院より行啓ありと云々。 |
大成本『山槐記』に、大炊御門高倉殿は四月二十八日まで里内裏であった記録があり、公能薨去の前月の七月六日以後は、摂関家伝来の東三条第や高倉殿が禁裏・里内裏とされている。五、六月の里内裏の記録は大成本の『山槐記』『兵範記』に見当たらない。
公能薨去ののち、長女の皇太后忻子(後白河后)、三女の太皇太后多子は共に「姉小路富小路」邸に行啓、服喪あそばされた。「姉小路富小路」邸は、大炊御門高倉邸が里内裏とされた間、公能が住んだ「姉小路北、万里小路東」邸で富小路西となる。
『令義解』に君(天子)、父母、夫、本主(自分の仕えている主人)の喪は一年、『令集解』に「三后皇太子は本服に服すべし」「太皇太后の本服は七日以上の親(衆孫、従父兄弟姉妹、兄弟の子)」とある。太皇太后多子は父の喪で一年の本服に服される。
公能没後二十日余の九月三日、後白河院の妹、上西門院の女房小弁(平清盛の妻の妹、平滋子)に後白河院の皇子(のちの高倉天皇)が生れた。九月十五日左馬権頭平頼盛、右少弁平時忠らが解官され、九月二十八日に上皇の近習右馬頭信隆、左中将成親も解官された。平滋子に生れた院の皇子を東宮にとの動きがあったとされる。
二条天皇には皇子の誕生は未だであり、太皇太后多子が一年の喪に服されると、天皇のご健康によっては、このように皇統の継承に問題が起こり、保元の乱の如き天下の大事も起こりかねない。皇子のご誕生は二条天皇の切望される所であり、長年の院政で権威の低下した摂関家は、この際、摂関家の女を二条天皇の后として入内せしめ、往年の権威を回復しょうとした。太皇太后多子の長期の服喪により、前関白忠通の二女香子が、育子の名を賜り入内されることとなる。
三、藤原育子の入内。
応保元年(一一六一)十一月二十六日、前関白忠通の姫君(香子)を従三位に叙し、御名を育子と改めた。前関白忠通の二女香子(十六才)の生母は、忠通に仕えた女房、督殿で、村上源氏、源顕俊の娘俊子である。香子(育子)は忠通の長子、関白基実の猶子として入内するよう御沙汰があった。基実は三年前の保元三年(一一五八)八月に父忠通の後を継いで関白とされた。応保元年(一一六一)には、天皇御年二十才、関白基実十九才。育子は前関白忠通の次女とされるが、『尊卑分脈』摂関家系図育子項に、「実は藤(原)実能公女と云々」の註があり、徳大寺家系図の実能の子女の欄に「育子、皇后宮、二条院后、六条院養母」とある。
二条天皇は、御即位当初は後白河院と心を合わせ政務に当たられた(『愚管抄』)が、その後は「天下の政務を一向に執行し、上皇に奏せず関白に仰せ合さるる許りなり。」(『百錬抄』)とあり、後白河院と不和となられた天皇には年齢の近い関白基実を信頼あそばされた。
故左大臣実能は右大臣公能の父であり、太皇太后多子の祖父である。育子は実能の娘であるから、故右大臣公能の年の離れた妹で太皇太后多子にとっては年下の叔母となる。育子は応保元年(一一六一)十二月十七日「平安宮」において二条天皇に入内、飛香舎(藤壷)を賜り住まわれ、十二月二十七日女御、応保二年(一一六二)二月十九日に中宮とされた。
この年は閏二月があったが、三月十三日には『中宮育子貝合』が天皇、摂関家の主導のもと盛大に行なわれた。 長久元年(一〇四〇)五月庚申の「斎宮良子内親王貝合」は、男女に分けて珍しい貝を出した方を勝とし、十二才の斎宮をお慰めしたもので、その記録が現存するので、『中宮育子貝合』の参考とされたであろう。
萩谷朴『平安朝歌合大成第七巻』(同朋社)「中宮育子貝合雑載」に、『中宮育子貝合』について、
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元来この中宮貝合は二条天皇を始め卿相侍臣こぞって経営にあたり、摂関政治華やかなりし頃の晴儀歌合を再現しょうという二条天皇の御意志のあらわれとして、八幡、賀茂、住吉各社への奉幣の事、八幡御神楽、賀茂競馬、住吉参詣の報賽の儀、当日の誦経、風流洲浜の作成、方人の装束など、晴儀歌合における行事的要素を悉く備えた久々の豪華版であって・・・・ |
「斎宮良子内親王貝合」に見られなかった貝が多く集められ、南日本の貝、有明海や児島湾等の内海の貝も見られる、とある。諸国に命じて貝を集めるなど、準備は早くから大規模に行われたであろう。石清水八幡宮寺、賀茂社、住吉社へ奉幣、石清水八幡宮寺へ神楽奉納など、貝合の儀が滞りなく行われるよう祈願が行われた。
貝合の翌日十四日に、兼題(予め出題)の「遥尋残花」「思出旧女恋」と当座(当日出題)の「躑躅夾路」「恥人目恋」の四題の歌合がおこなわれた。二条天皇や摂関家がこの大規模な催しを積極的に推し進められた事により、天皇の中宮育子にたいする御寵愛の程が拝察される。
新造里内裏が「押小路南東洞院西」に完成し、天皇は応保二年(一一六二)三月二十八日にお移りあそばされた。
四、小侍従、内裏を辞し、大宮御所に出仕。
育子入内により、内裏には摂関家の配慮による女房たちが配置された。この頃『山槐記』に登場する勾当内侍であった掌侍説子や育子入内に当たり活躍する丹波内侍もそれであろう。応保二年(一一六二)初めには、女御育子に対する天皇の御寵愛ぶりも囁かれ、二月十六日中宮とされる兼宣旨も下ったであろうし、貝合の風評もあったであろう。
小侍従は夫の没後、二条天皇の御代の終頃、次章に述べるように源頼政と愛しあったが、『頼政集』(六七〇〜一)に次の歌がある。
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あひしりて侍る女房二月十日比に大宮に候ふよしを聞きて云
遣しける 頼政 |
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春ながら秋のみやまにゐる人ぞ紅葉をこひて花をみしとや |
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あだにみし花のつらさに春ながら秋のみやまを出でぞわづらふ |
皇后を「秋の宮」と申し上げるが、ここでは「秋の御山」は大宮御所を言う。頼政の歌によると、この歌の女房は今まで大宮に出仕するのを常としていたのではない。二月十日ころに、この女房が大宮御所に出仕していることを頼政は初めて知った。
頼政の歌の意は、春というのに秋の御山(大宮御所)に出仕したあなたは、紅葉(大宮)をお慕いして、大宮のおんため、(花をみしとや)大宮御所より華やかな内裏勤めをしたと言うのでしょうか。
そしてこれに応えた女房の歌の、「あだにみし花のつらさ」は、大宮御所を「秋のみやま」とするのに対して、それより華やかな所(内裏)へ仕えたことを指し、この女房の内裏勤めの感想であろう。太皇太后への天皇の愛を願う立場から、当然中宮(よし)子内親王や中宮育子の女房との事あるごとの暗闘確執があったであろう。これが「あだにみし花のつらさ」である。「秋のみやまをいでぞわづらふ」とあるので、この女房は二月十日よりも前に大宮御所に出仕し、大宮御所に籠って源頼政や世間に大宮御所出仕の事が知られなかったと思われる。この女房は内裏勤めを辞して大宮御所に出仕したのである。小侍従は、相手の贈った和歌の要点を的確にとらえて、返歌を詠むことに大変優れていたという(『無名抄』)。小侍従と源頼政の間柄よりしても、返歌の巧みさや特長よりしても(六七一)歌は小侍従のものと思われる。
太皇太后に仕えた女歌詠みとしては、小侍従の他に「大宮の加賀」がおり、その歌は『実家集』(三七九)『山家集』(一一二三、五)に残され、太皇太后の弟、実家の詞書に「大宮の加賀」とあるので、間違いなく太皇太后の侍女である。『実家集』(三七九)の詞書により、「大宮の加賀」は世尊寺流書道の藤原伊行やその娘建礼門院右京大夫らの縁者と思われるが、「大宮の加賀」と小侍従は歌風が全く違う。頼政への返歌は、明らかに小侍従の歌である。
『山家集』(一一二二〜六)より、
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しほゆにまかりたりけるに、ぐしたりけるひと、九月つごも
りにさきにのぼりければ、つかはしける人にかはりて |
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あきはくれ君はみやこへかへりなばあはれなるべき旅の空かな |
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君をおきてたち出づる空の露けさに秋さへくるる旅のかなしさ |
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しほゆいでて、京へかへりまできて、ふるさとのはな、しも
がれける、あはれなりけり、いそぎかへりし人のもとへ、又
かはりて 西行 |
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露おきし庭のこはぎもかれにけりいづら都に秋とまるらん |
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したふ秋は露もとまらぬ都へとなどていそぎしふなでなるらん |
『実家集』(三七九)より、
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かくてさうし(夜鶴庭訓抄)はくはへられたり
くないのふこれゆき(宮内少輔伊行)といひしもの、てかく
べきありさまをさうしにかきて、それをばよるのつる(夜鶴
庭訓抄)となづけて、むすめなるものにとらせおきてみまか
りにきと、大宮のかがかたりしかば、たづねとりてみて、ほ
どのへしを、こふとて、これもはるのことなり かが |
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いでてみよまれにさきいづるはなのいろのたちかくれつつへだてゆくめる |
太皇太后多子の弟・実家の家集『実家集』に「大宮の加賀」と記載されているので、「大宮の加賀」は太皇太后多子の侍女であることは明らかである。書道で高名な宮内少輔藤原伊行(世尊寺)が、入木道(書道)の伝書『夜鶴庭訓抄』を息女に残して逝去したことを大宮の加賀から聞いた実家は、これを借用閲覧した。のちこれを譲ってくれるよう希望して入手した時の大宮の加賀の歌である。
中宮育子は年齢は若くても太皇太后多子にとって叔母に当たる人物である。帝の御寵愛が中宮育子に向かう有様を見られて、太皇太后多子は実父、故右大臣公能の一年の喪に服するのを機会に、帝を巡って叔母、姪が争う愚をさけ、亡き父のたっての勧めによりお受けした前例のない「二代の后」の立場を遠慮するお気持になられたのではないか。かくて太皇太后多子の父、故右大臣公能から託された小侍従の使命は終った。太皇太后の御意向により、小侍従が内裏を退出して太皇太后宮多子に出仕したのは応保二年(一一六二)初めではないか。頼政の詞書に二月十日ころとあるのは、育子が中宮になられた応保二年(一一六二)のことであろう。小侍従は、応保二年(一一六二)二月十日以前に内裏を辞し太皇太后宮御所へ出仕したと考える。
太皇太后が二条天皇の実質的な后の座にあられたのは、多子入内の永暦元年(一一六〇)一月二十六日から、父・右大臣公能薨去の永暦二年(一一六一)八月十一日、多子が服喪遊ばされる日までであった。一年半ばかりの短い期間で有ったと思われる。
小侍従の「待つ宵」の歌が、太皇太后の思し召しにより詠まれた日が「待宵」の宵であったとすれば、太皇太后が二条天皇のお召しを心待ちにしておられた「待宵=陰暦八月十四日の宵」、すなわち名月の前夜は永暦元年(一一六〇)八月十四日の宵しかない。
明日に迫った名月の宵には、多子には二条天皇と名月のもと、楽しい宴の計画がおありになり、それを心待ちにしておられたのではないか。二条天皇に仕える小侍従は右大臣公能の希望によって、天皇と多子との間をお取りもちするのが主な役目であったと考えるので、多子の御所には常に出入りしていたであろう。事実はわからないが、このように考えると、あの歌も一層趣がある。おりしも遠くから宵の鐘の音が微かに聞こえてくる場面を想像するのは芝居がかっているが自由である。
小侍従が歌人として知られるようになったのは、永万元年(一一六五)成立の清輔撰『続詞花和歌集』に三首入集し、同年八月から翌年春までに成立したとされる法橋顕昭の『今撰和歌集』に二首入集、歌道の名門六条藤家の清輔、顕昭に認められた点にある。
小侍従は、こののち著名な歌合に参加し、自らの私家集を残し、勅撰集、私撰集、著名な歌人の私家集、歌論書、説話集、平家物語、源平盛衰記などにその名をとどめ、この時代を代表的する女歌詠みの一人とされるにいたる。
二条天皇には平治元年(一一五九)大外記中原師元女に斎院繕子内親王、長寛二年(一一六四)七月二十二日馬助光成女に狛宮尊恵大僧都、十一月十四日大蔵大輔伊岐善盛女に順仁親王が生れた。永万元年(一一六五)六月二十五日、二条天皇御譲位、皇子順仁を親王となし順仁親王即日践祚。七月二十七日御即位。六条天皇であらせられる。翌日七月二十八日二条上皇には里内裏「押小路東洞院殿」で崩御。御年二十三才。
中宮育子は承安二年(一一七二)二月十日皇后とされ、翌承安三年(一一七三)八月十五日御年二十八才で崩御されたが、皇子皇女はなく、六条天皇の養母であった。
下記写真は「二条天皇香隆寺陵」。http://inoues.net/tenno/2joe_tenno.html より拝借しました。
所在地=京都市北区平野八丁柳町
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五、小侍従、二条天皇の石清水行幸に供奉。
『史料綜覧』や『石清水八幡宮史』の「編年史」によると、二条天皇は石清水へ次のように前後六回行幸あそばされた。
二回目の石清水行幸とされる応保二年(一一六二)三月十六日当日の『山槐記』に「今度第三度、今年より毎年臨幸すべきの由申さる」(『石清水八幡宮史』第七輯、二五二頁に収録)とあるので七回の行幸があったかもしれないし、「第二度」とあったのが、筆写を重ねるうちに「第三度」と誤写されたかも知れない。
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永暦元(一一六〇)八月二〇日 |
長寛元(一一六三)一〇月二三日 |
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応保二(一一六二)三月一六日 |
長寛二(一一六四) 八月一九日 |
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長寛元(一一六三)三月二五日 |
永万元(一一六五) 三月二三日 |
小侍従は二条天皇の石清水行幸にお供し、石清水に出仕していた弟、成清と『小侍従集』(八八〜九)のつぎの歌を贈答している。
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いはし水の行幸の御ともにまゐりたるに、せうとの権別当成
清もよろこびしたるとて人人よろこび申すなかに、殿上より
とてまたこと宮に御ふみに |
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うれしとや神も心にいはしみづ錦をきつつかへるけしきを |
同じ歌の『太皇太后宮小侍従集』(一四五)の詞書は
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石清水の行幸の御ともに参りたるに、せうとの権別当成清も
宮にさぶらふに、悦したりとて人人悦申すなかに、殿上より
とてまたとく |
とあり、殿上は内裏かこの場合は鳥羽離宮の可能性もある。宮は石清水八幡宮であろう。返歌は、
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おもひやれちかひし夜はの浮橋を錦たちきてかへる心を
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二条天皇の応保二(一一六二)三月一六日の二度目の石清水行幸時には、『山槐記』によると淀川には浮橋が架けられており、初回のこの度の行幸時にも浮橋があったと考えられ、この歌の「夜端の浮橋」は、この浮橋と銀漢(銀河)に橋を想定し、銀河に誓った事を言うのであろう。
『山槐記』保元元年(一一五六)三月十日条の当日の後白河天皇石清水行幸には、桂川、淀川に浮橋が架けられ、淀川浮橋の八幡側は石清水神領地の美豆であった。また『三長記』建久九年(一一九八)二月十四日条の後鳥羽上皇の石清水御幸は、桂川を浮橋で、淀川を舟で渡られたと記録されている。
小侍従は永暦元年(一一六〇)春二条天皇に出仕し、応保二年(一一六二)二月には太皇太后に御仕えしたと考えるので、この歌の行幸は小侍従が内裏出仕ののち最初の、そして二条天皇にとっても最初の永暦元年(一一六〇)八月二十日の石清水行幸である。
前日、中宮(よし)子内親王が出家された許りであった。『山槐記』によると、二十日の昼ころ天皇は御所において御神宝を御覧、日没小雨のなかを石清水の「宿院頓宮」に御到着、ご参拝。二十一日は忌日のため、内裏還幸を避け、鳥羽殿に渡御。二十二日暁に里内裏大炊御門殿に還御あそばされた。
小侍従は夫伊実は中納言、その父伊通は太政大臣であり、この頃、小侍従は内裏で羽振りの良い女房であったと思われる。この歌は、昂揚した歌の調子に小侍従が二条天皇の内裏の女房として行幸にお供して、亡き父光清が別当、検校として奉仕した石清水八幡宮寺に晴れて錦を飾った弾むような姉弟の喜びの気持が現われている。前記(八八)歌の詞書に「権別当成清」とあるが、『小侍従集』は必ずしも歌の詠まれた当時の肩書きを表わしてない。当時、弟成清は修理別当であり、行幸の当日法橋に叙せられ、十一月二十九日権別当の官符を賜った。既に述べたように成清は父を九才で失い、母小大進に伴われ花園左大臣源有仁に祗候した。成清は、左大臣有仁を失ってから苦労を重ね、鳥羽院の御遺志で保元元年(一一五六)閏九月二十四日石清水八幡宮に修理別当として出仕していた。
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