歌人伝・太皇太后宮小侍従(待宵小侍従) 


二十二章 小侍従と西行

一、 西行、病床の小侍従を見舞う
二、 『山家集』の「院」
三、 西行が小侍従を見舞った時期
一年数か月に及ぶ小侍従の空白期間
五、 西行の死と小侍従の哀傷歌


一、西行、病床の小侍従を見舞う。


  西行の私家集『山家集』(九二二〜三)に、西行が小侍従の病気を見舞った次の歌があり、小侍従の返歌が添えられている。

院の小侍従、例ならぬ事大事にふししづみて、とし月へに
けりときこえて、とぶらひにまかりたりけるに、この程す
こしよろしきよし申して、人にもきかせぬ和琴のてひきな
らしけるをききて               西行
ことのねになみだをそへてながすかなたえなましかばと思ふあはれに
かへし 小侍従
たのむべきこともなき身をけふまでもなににかかれる玉のをならん


同じ歌が『西行法師家集』(六四二)・『玉葉和歌集』(二四八一)にもあるが、西行の詞書が少し異なり、小侍従の返歌はない。

小侍従病おもくなりて月頃へにけりと聞きて、とぶらひに
罷りたりけるに、この程少しよろしきよし申して、人にも
聞かせぬ和琴の手ひき鳴らしけるを、聞きてよみ侍りける
                     西行法師
ことのねになみだをそへてながすかなたえなましかばとおもふあはれに


『山家集』のごとく「例ならぬ事大事にふししづみて、とし月へにけり」と云えば、少なくも一年数か月病床にあったと思われ、『西行法師家集』や『玉葉和歌集』のごとく「病おもくなりて月頃へにけり」と云えば、重病で数か月臥せっていたと思われる。
                                   
『新編国歌大観』の『西行法師家集』は、所謂『異本山家集』の春一二九首、夏三五首、秋一一一首、冬一〇二首、雑二二一首、計五九八首のほか、「追而加書西行上人和歌、次第不同」とした増補一八九首を加えた七八七首よりなる。小侍従を見舞った前記の歌は増補された一八九首の中にある。 『新編国歌大観』解題によれば、『西行法師家集』の増補部分は、他人の歌を間違って西行の歌とし、また『西行法師家集』の本体部分である『異本山家集』と重複歌があるとしている。この増補部分は編集に疎漏さがうかがえ問題があるので『山家集』の詞書が信頼しうるかも知れない。   
        
『和琴系図』『和琴血脈』に見るごとく、小侍従は雅楽頭源範基に和琴を習い、小侍従の和琴の弟子として三条宮以仁王、白河琴尼公、源通定(内大臣源雅通四男)が挙げられている。小侍従は和琴の奥義に達し、秘曲をも伝える立場であった。小侍従の病を見舞うべく訪れた西行に、快方にむかっていた小侍従は、人には聞かせぬ和琴の秘曲を聞かせた。西行は、小侍従が病気で死ぬのではないか、そして死ねば和琴の秘曲も絶えるのではないかと心配していたが、幸い小侍従は和琴を弾けるまでに回復したことに感動し歌に詠んだ。

  西行は小侍従より三才年上である。西行は、出家前は佐藤義清(のりきよ)として太皇太后多子の祖父左大臣徳大寺実能の家人であり、兵衛尉となり鳥羽上皇の下北面の武士として仕えた。西行は実能やその妹で美貌の女院、待賢門院璋子を追慕し、待賢門院璋子の皇女の上西門院や実能の子息右大臣公能(久安六年当初、権中納言右兵衛督)に親しみを持っていた。
  実定や太皇太后多子の父である公能が崇徳上皇の召しにより『久安百首』を奉ったとき西行が下見した歌が『山家集』(九三三〜四)にある。
西行には待賢門院の女房、堀川局、中納言局、兵衛局たちと交わした歌が伝わり、『山家集』(七九七)に待賢門院御願寺の法金剛院を訪れたとき詠んだ歌がある。既に述べたごとく、宮仕えのころの小侍従の家が近衛大路と紙屋川の交わるあたり、法金剛院より東へ一・五キロ付近にあった。


二、『山家集』の「院」。


  高倉天皇の御治世の治承二年(一一七八)成立とされる『山家集』では、院、女院の呼称は明確で、一院、新院、鳥羽院、近衛院、二条院、待賢門院、上西門院などとあるが、「一院」と申し上げるのは鳥羽院、「新院」また「さのきの院」(一四四六)、「まつやまのつと申す所に、院おはしましけん御あとたづねけれど」(一三五三〜四)とある「院」は崇徳院である。崇徳院は保元の乱に敗れたのち、保元元年(一一五六)七月二十三日身を潜められた仁和寺を出られ讃岐へ流され、長寛二年(一一六四)八月二十六日に崩御あそばされた。宝算四十六才。

  『山家集』に、「院」とあるのは『山家集』編纂の治承二年(一一七八)ころ、上皇で有らせられた後白河院を申し上げる。前記の「院の小侍従」と交わした歌のごとく、『山家集』に「院」とした例は、後白河院の乳母紀伊二位朝子の死を悼んだ歌 (八一七以下)の詞書に「院の二位の局」とあり、その娘と交わした歌(八三〇)にも「院少納言局」とある。
  平治の乱のとき、三条烏丸の後白河院御所が焼き打ちされたとき、後白河院と上西門院の牛車に、信西の妻で院の乳母の紀伊二位朝子は女院上西門院の御衣の裾に身を潜め脱出した。信西入道の妻紀伊局朝子は待賢門院に紀伊と号して仕え、女院の皇子雅仁親王(のちの後白河院)の乳母となり、後白河天皇の御代に従二位に叙せられ紀伊二位とよばれた。その薨去は永万二年(一一六六)一月十日、六条天皇の御代であり、後白河院院政の時代である。信西の娘「院少納言局」は建春門院に仕え、のち後白河院につかえた。『健寿御前日記』「六、女房の名寄せ」に、建春門院に仕えた女房、少納言局について「何とかや筑前の阿闍梨かくけんといひしが妹。」とあり、これがのち院に仕えた「院の少納言局」である。「かくけん」は信西の子息「覚憲」。『尊卑分脈』に「壷坂、権僧正、興福寺別当、平治乱配伊与国」とある。このように『山家集』に 「院」とあるのは、『山家集』編集の頃の上皇である後白河院を申し上げる。


三、西行が小侍従を見舞った時期。


  『山家集』(九二二〜三)、『西行法師集』(六四二)、『玉葉和歌集』(二四八一)の西行が小侍従を見舞った歌にある小侍従の病の時期を考えるについては、左記の事が考慮されるべきである。

(一)秘曲を伝えるという点からして、小侍従は二十歳前後というような若い年ではないと思われる。また小侍従の返歌にも「頼むべきこと(事・琴)もなき身を今日までも」とあり、同様の感じをもたせる。

(二)この西行の歌が小侍従の私家集に入っていない。小侍従の家集で歌数の制限のない『太皇太后宮小侍従集』や、歌数の制限のある寿永百首『小侍従集』は寿永元年(一一八二)夏までに完成したと考える。西行は『八雲御抄』にあるように勅撰集『詞花和歌集』(三七〇)に次の歌が入集したが、身分低きが故に「読人不知」とさた。

題不知 読人不知
身をすつる人は誠にすつるかは捨てぬ人こそすつるなりけれ


『詞花和歌集』の勅撰歌人西行と交わした歌が寿永元年(一一八二)夏ころまでに成立した小侍従の二家集『太皇太后宮小侍従集』『小侍従集』にないのは何故か。小侍従は歌人として名を顕すのは、四十歳過ぎてからであり、西行とのこの出会いは四十歳以前の和歌よりも和琴の芸に関心があった時代のことと思われる。

(三)小侍従の長期の病にたいして、病気の時期によっては源頼政、太皇太后宮の兄実定、太皇太后宮亮平経盛らの歌があっても良い筈であるが、それらしい歌がない。小侍従の病は、頼政、経盛、実定らと知己となる以前ではないか。

以上よりして、西行とのこの出会いは、小侍従二十歳後半から三十歳頃のことではないか、と推測する。「七章小侍従の前半生」で紹介したように、小侍従が、康治二年(一一四三)六月、雅仁親王妃・懿子崩御ののち、懿子にお仕えしていた小侍従は親王のご寵愛を受け、親王に出仕、其の皇子・守仁親王のお世話をしていたのではないか、と推測するが、久安二年(一一四六)ころから雅仁親王は播磨局を寵愛されるようになった。この年、小侍従二十六才。西行の出家は、保延六年(一一四〇)十月十五日、小侍従二十歳の年である。西行と小侍従のこの出会いは小侍従二十六才以後、三十歳前後のことではないか。母・小大進生存の頃であり、小大進・小侍従母子は、先に述べたように「近衛紙屋川」の住居に居た頃である。



四、一年数か月に及ぶ小侍従の空白期間。


  『山家集』(九二二〜三)の歌に、「院の小侍従、例ならぬ事、大事にふししづみてとし月へにけり」とあるように、小侍従が少なくとも一年数か月患っていたとすれば、小侍従の生涯にそれだけの空白期間があるはずである。小侍従の人生の空白期間を挙げると次のようである。

(一)小侍従が二条天皇に出仕した永暦元年(一一六〇)四十才の春以前。
西行の歌に「院の小侍従」とあるが、小侍従が後白河院の御在位中あるいは御譲位ののち、お仕えしたことは全く立証しえない。おそらく後白河院が雅仁親王と申し上げたころお仕えしていたのではないか。先に花園左大臣源有仁の養女懿子に、小侍従が仕えていたのではないかと推測した。懿子は王子(のちの二条天皇)を生んで薨去した。小侍従は懿子に続いてその王子(のちの二条天皇)にお仕えし、ある時期、雅仁親王(のちの後白河院)にもお仕えし、その間に『古今著聞集』にあるごとく後白河天皇(雅仁親王)の寵愛を受け、西行の歌にあるごとく「例ならぬ事大事にふししづみて、とし月へにけり」という事があったのではないか。 『三百六十番歌合』の目録に「小侍従、後白川(河)院女房」とあり、小侍従が後白河院に仕えたとする件については検討すべき問題がある。

(二)応保二年(一一六二)始め太皇太后宮御所へ出仕してのち、長寛二年(一一六四)まで、小侍従四十二才から四十四才までの二年ほど。二条天皇は永万元年(一一六五)七月二十八日崩御。この頃小侍従は太皇太后宮に仕えていた。

(三)仁安二年(一一六七)四十七才の冬より、嘉応二年(一一七〇)十月九日五十才で『住吉社歌合』に参加するまでの二年余り。この頃小侍従は太皇太后多子に仕えていた。西行の詞書に「院の小侍従」とあるのと合わない。

(四)承安元年(一一七一)五十一才の一年。この年、小侍従は美濃国にくだっていたと考える。

(五)すでに述べたように、小侍従は治承元年(一一七七)十二月二十七日大納言藤原実定が左大将とされた時、喜びの歌を贈っている。こののち治承三年(一一七九)一月六日東宮言仁親王の五十日(いか)の祝に歌を奉るまでの間、即ち治承二年(一一七八)の小侍従の消息が不明である。治承二年(一一七八)三月十五日上賀茂社神主重保により歌人六十人を集めて行なわれた『別雷社歌合』に小侍従が参加していない。同年閏六月二十一日の九条兼実による『右大臣家歌合』、八月に顕昭を判者として歌人二十二名により行なわれた『廿二番歌合』にも参加していないので、このころ患っていたと思われるが、患った期間は一年未満と考える。高倉天皇にお仕えしていたころである。西行の歌をこの頃の事とするなら、詞書に「院」とあるのは不審。西行の詞書に「とし月へにけり」とあり、少なくとも一年数か月病んでいたので、西行が小侍従を見舞ったのはこの時ではない。この病気により小侍従は自分の年齢をも考慮し、翌年治承三年(一一七九)出家隠棲するに至った。

(六)寿永元年(一一八二)夏、寿永百首たる『小侍従集』を上賀茂社に奉納してのち、西行入滅の文治六年(一一九〇)二月十六日までの間、小侍従の消息不明。治承二年(一一七八)ころまでの歌が『山家集』に編まれているとの説に従うと、小侍従の病気の時期は治承二年(一一七八)以前と考えられるので、これ以後の期間は対象にはならない。

小侍従の病んだ期間は、前節の西行と小侍従のこの出会いの小侍従二十六才以後、三十歳前後と推定するが確定しがたい。



五、西行の死と小侍従の哀傷歌。


 『山家集』(七七)に有名な次の歌がある。

願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃


西行は予てのこの歌の願いのごとく、河内国弘川寺において「如月の望月のころ」の文治六年(一一九〇)二月十六日その生を終った。『広辞苑』に「望月」は「陰暦十五夜の満月」とあるが、後に記すごとく定家卿の『拾遺愚草』(二八〇九)歌に「今年十六日望月也」と註があるように、文治六年、改元して建久元年の二月の「望月」は二月十六日であった。当時用いられていた「長慶宣明暦」は、閏月を設け一年を十三か月として調整を要するなど不備な点があった。このため「陰暦十五夜」が必ずしも望月ではなく、十六日夜が望月の時もあったのであろうか。
 西行の死、しかも予ての歌の願いの如く正しく「如月の望月」の日に入滅したことは聞くものに大きな感動を与え、多くの人々が弔歌を捧げた。俊成、慈円、定家と三位中将公衡の贈答歌、後京極良経と定家の贈答歌などがそれである。

定家卿の『拾遺愚草』(二八〇九〜一〇)より。

建久元年二月十六日、西行上人身まかりたるを、
をはりみだれざりけるよしききて、三位中将の
もとへ              藤原定家
もち月の比はたかはぬ空なれどきえけむ雲の行へかなしな
上人先年詠云、
ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらぎのもち月のころ、
今年十六日望月也
返し
紫の色ときくにぞなぐさむるきえけん雲はかなしけれども


西行の入寂した文治六年(一一九〇)は四月十一日改元し建久元年となった。小侍従ときに七十才。『三百六十番歌合』(八六)の次の小侍従の歌は、西行の訃報をきいた小侍従の哀傷歌と考える。

ちらぬまはいざこのもとに旅寝して花になれにしみとも偲ばむ


『三百六十番歌合』は、真名序に「于時聖暦庚申涼秋巳酉」とあり、これにより正治二年(一二〇〇)八月二十六日に真名序が成立したとされるが、全部完成したのは翌年三月以降といわれる。 これに撰ばれた小侍従の歌十八首の内、『正治二年初度百首』から十一首、永万元年(一一六五)成立した『続詞花和歌集』から一首、安元元年(一一七五)十月十日の『右大臣家歌合』から一首など過去の歌が入っているので、昔詠まれた西行への弔歌があっても不思議ではない。




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2008.5.11