太皇太后宮小侍従ノート

2005.11.28推敲

一一章 母・花園左大臣家小大進(一)      


一、生母小大進の略歴。
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 小侍従の父・二十五代石清水別当光清の妻としては、

石清水八幡宮寺権別当覚心法眼の娘、豪清・任清・勝清・重清・美濃局の生母(『石清水祠官系図』による)
従四位上・菅原在良(没後、贈従三位)娘の花園左大臣家女房小大進、小侍従ら娘八人と成清の生母
(『尊卑分脈』の「紀氏系図」による)
『今鏡』「敷島の打聞」に言う、不縁になった都の然るべき人の娘(従五位下駿河権守藤原周衡の娘、周子か)


の三人が知られている。別当職の跡目相続に覚心法眼娘から生れた子息の任清・勝清、次いで勝清の子息慶清が優先され、小大進子息成清の別当就任は源頼朝の肩入れによって初めて実現した点から、正室は覚心法眼娘である。勝清の子息慶清は田中と号し、成清の子息祐清は善法寺と号した。田中・善法寺両家の始まりである。覚心法眼は、豊前宇佐から来た十九代石清水別当元命の孫であり、元命の長男二十代石清水別当清成の三男となる。

小侍従の母は系図に書いてないが、『今鏡』「腹々の御子」に「小侍従などきこゆるは、小大進が腹にて」とあるので、小侍従の生母は小大進とされる。小侍従の母小大進は後三条天皇の皇子三宮輔仁親王に仕え、引き続きその御子源有仁(のち左大臣・号花園)につかえた。小侍従の母「小大進」の経歴を史料により列挙すると、

母・小大進呼称 典拠
小大進[三宮女房] 『古事談』八幡ノ検校成清ノ事
三宮小大進局[菅原在良女] 『尊卑分脈』「紀氏系図」成清註
内大臣家小大進 『金葉和歌集』
花園左大臣家小大進局 『石清水祠官系図』成清註
花園左大臣有仁女房小大進局 『石清水祠官系図』成清註
大宮小大進是也。太皇太后宮云々 『石清水祠官系図』成清註


とあるように後三条天皇の第三皇子(三宮)輔仁(すけひと)親王に仕え、引き続き、その御子・内大臣源有仁(のち左大臣・花園と号す)につかえた。
「大進」は中宮職・京職・春宮坊・修理職などに属する官職で、位階は「従六位上」相当である。小大進の近親に「大進」の職に在った者がいたのであろうか。

『石清水祠官系図』成清註に(大宮小大進是也。太皇太后宮云々)とあるが、小大進が太皇太后に仕えたとする記載は、これ以外に発見していない。小大進の時代の太皇太后宮は太皇太后宮藤原寛子や太皇太后宮令子内親王が考えられる。四条宮と呼ばれた太皇太后藤原寛子(父・摂政藤原頼通)は、後冷泉天皇の中宮(のち皇后)であり、大治二年(一一二七)八月十四日崩御、御年九十二才。後記のごとく、小大進の生年は康和三年(一一〇一)頃と考えるが、小大進は三宮輔仁親王につかえたことは『尊卑分脈』や『古事談』にあり、太皇太后寛子に仕えた記録はない。太皇太后寛子崩御ののち七年、長承三年(一一三四)三月十九日令子内親王が太皇太后となられた。小大進は源有仁に仕え、小大進の子息成清は源有仁に愛育されたので、源有仁在世中、当時、太皇太后であられた令子内親王に仕えることはありえないと考える。小大進の逝去は、のちに述べる如く久寿二年(一一五五)九月のことと考えるが、左大臣源有仁が薨去してから小大進が逝去するまでの八年は、太皇太后が空位である。小大進が太皇太后に仕えたとすることは疑問がある。娘・小侍従が太皇太后多子につかえた事と混同したのではないか。

和暦 西暦 記 事 ●は太皇太后関連、◆は小大進
延久六 一〇七四 二〇 ●皇太后藤原寛子、太皇太后となる。
康和三 一一〇一     ◆小大進生まれるか。
元永二 一一一九 一四 ○三宮輔仁親王御子・有仁、賜姓源氏。従三位中将。
元永二 一一一九 一一 二八 ○三宮輔仁親王崩御。小大進、三宮に出仕していた。
保安三 一一二二 一二 一七 ○源有仁二〇才、内大臣となる。右大将元の如し。
大治元 一一二六     ◆『金葉和歌集』二度本。内大臣家小大進入集 。
大治二 一一二七 一四 ●太皇太后藤原寛子、崩御。御年九二才。
大治二 一一二七     ◆『金葉和歌集』三奏本。内大臣家小大進入集。
天承元 一一三一 一二 二二 ○内大臣源有仁、従一位右大臣右大将。
長承三 一一三四 一九 ●令子内親王、太皇太后となる 。
長承四 一一三五 ○右大臣源有仁左大将を兼ねる 。
保延二 一一三六 一二 ○右大臣源有仁、左大臣左大将となる。
康治二 一一四三 二四 ○二条天皇生母懿子薨去。御歳二八歳。
天養元 一一四四 二一 ●太皇太后令子内親王崩御。
久安三 一一四七 一三 ○花園左大臣源有仁薨去 。
久安六 一一五〇     ◆「久安百首」に花園左大臣家小大進百首詠進 。
久寿二 一一五五   ◆小大進逝去。
保元三 一一五八 ●皇太后多子、太皇太后となる。
保元三 一一五八 一二 二九 ○二条天皇生母懿子、贈皇太后宮。
応保元 一一六一     ○上西門院小弁(平滋子のち皇太后を経て建春門院 の院号宣下)、後白河院皇子(高倉天皇)を生む。
建仁元 一二〇一 一二 二四 ●太皇太后多子崩御、御年六二才。


説話や軍記ものには、次のように小大進の他の経歴を記してあるが、全て疑問である。

・鳥羽院女房(『古今著聞集』) 待賢門院女房(『沙石集』)
・建春門院女房(『源平盛衰記』)


三宮輔仁親王家には「三宮大進」と名乗る女房が既に出仕していたので、小侍従母は「三宮小大進」と呼ばれた。先に出仕した三宮大進は勅撰集『金葉和歌集』に二首入集している。『平安朝歌合大成』などには三宮大進を小大進の母とする見解もあるが確証はない。

・三宮大進『金葉和歌集』入集歌。二度本(二二二・四一〇)。三奏本(二一九・四一六)。

『今鏡』「敷島の打聞」に、「(小大進の)母の筑紫に下りて、菅原の氏寺(安楽寺)の別当に具したりけるが、」とあり、小大進の母は筑紫の菅原氏の氏寺の安楽寺別当の妻と考えると、この安楽寺別当の妻が三宮大進となるが、果たしてそうであろうか、疑問が残る。三宮大進については次節に述べる。

内大臣家越後や小大進については『今鏡』「御子たち第八・花のあるじ」に、源有仁家の風雅な催しについて記した中につぎのようにある。

歌詠み、詩つくりも、かやうの人ども数知らず、越後の乳母、小大進なといひて、名高き女歌詠み、家の女房にてあるに、・・・・


小侍従の母小大進も勅撰『金葉和歌集』に三首入集しており、その和歌に「内大臣家小大進」と記されているので、小大進は『金葉和歌集』撰集の期間、天治元年(一一二四)以前から大治二年(一一二七)の間に、内大臣源有仁家に出仕していたのであろう。

・三宮小大進『金葉和歌集』入集歌。 二度本(三七三・五一三・五七二)。 三奏本(三九〇・四八七・五六二)。


小大進は大治二年(一一二七)推定二十七才、翌年成清を懐妊、大治四年(一一二九)成清が生れた。源有仁が内大臣に任ぜられたのは保安三年(一一二二)十二月二十七日、天承元年(一一三一)十二月二十二日二十九才のとき、従一位右大臣となり、保延二年(一一三六)十二月九日左大臣となった。

   『石清水祠官系図』の成清註に「花園左大臣源有仁家女房小大進」と記されているが、『尊卑分脈』の紀氏系図の成清註には生母「三宮小大進局(菅原在良女)」とある。小大進の父は菅原道真公の子孫の菅原在良で、文章博士・鳥羽天皇侍読・式部大輔などの職にあった学者である。彼は保安三年(一一二二)十月二十三日卒去、享年八十才。菅原在良は最終従四位上であったが、没後の元徳二年(一三三〇)十一月二十四日従三位を贈位され、北野天満宮三光門西側の「三位殿社」に御祭神として祭られている。

京都市・北野天満宮 北野天満宮三光門 三位殿社


『今鏡』「敷島の打聞」に、「(小大進の)母の筑紫に下りて、菅原の氏寺(安楽寺)の別当に具したりけるが、」とあり、小大進の母は筑紫の菅原氏の氏寺の安楽寺別当の妻とあるので、竹鼻績『今鏡・全訳注』(講談社学術文庫・昭五九・下巻五二〇頁)に、小大進は菅原在良弟の安楽寺別当定快の娘で、菅原在良の養女ではないかとしておられる。菅原在良は保安三年(一一二二)十月二十三日逝去、享年八十才。小大進は康和三年(一一〇一)頃の誕生と考えられ、在良六十才の時となる事も小大進が在良の実子か否か疑わしく、養女であったと考えることができる、としておられる。

 また『尊卑分脈』菅原氏系図に菅原在良女として記載されている女子・殷富門院大輔は『尊卑分脈』藤原説孝孫及び『勅撰作者部類』によると藤原信成女とあり、菅原在良女が藤原信成の妻として殷富門院大輔を生んだとするのが正しいとされる。小大進が菅原在良の娘または養女で、大輔が菅原在良の孫とすれば、小侍従も菅原在良の孫であり、小侍従と大輔は従姉妹となる。小大進は当時著名な女流歌人で、勅撰集に『金葉集』以後十四首入集した。『今鏡』には小大進に関する記述が色々あり、その人間像が浮かび上がってくる。次にに紹介するように、「花のあるじ」に、

歌詠み、詩つくりも、かやうの人ども数知らず、越後の乳母、小大進なといひて、名高き女歌詠み、家の女房にてあるに、・・・・


『今鏡』「伏し柴」に、

小大進などいふ色好みの、男の許より得たる歌とて、申し合はせける、あまた聞こえしかど、忘れておぼえ侍らず、按察の中納言とかいふ人の、おほやうなるも、歌などつかはしける返りごとに、小大進、

  夏山の繁みが下の思ひ草露知らざりつ心かくとは

など聞き侍りし。口とく歌などをかしく詠みて、和泉式部などいひし者のやうにぞ侍りし。


『今鏡』「敷島の打聞」に、小大進が豊明節会の五節の舞姫に付き添う童女に選ばれ、その報奨として小大進が熊野詣でをした帰り、淀の渡しで石清水別当光清の使者が光清の文を小大進にわたし、やがて結ばれたとある。

永和元年(一三七五)の『永和大嘗会記』に、

(略)(後円融天皇)五節所に入せ給ふ。太閤関白簾中に候せらる。前右大臣父子おなじく座につかる。其後舞姫のほか下仕以下、おもひおもひのきぬ。いと其興あり。むかしは美人をゑらび童女にたてまつる。この帳台の儀も、天子舞姫をめして密宴の儀なり。(原文のまま)


「入る」(いる・他下二)。「候ふ・侍ふ」(さぶらふ・自ハ四)。
この条は北朝の永和元年(一三七五)十一月二十一日丑の日の五節帳台試の行事の記録である。五節の童女について「むかしは美人をゑらび童女にたてまつる。」とあるので、小大進が五節の童女に選ばれたころは、美人が選考の基準であったと思われ、小大進はかなりの美人であったと思われる。小大進は当時名の知られた女流歌人で、勅撰集に『金葉和歌集』以後十四首入集した。

◎小大進勅撰集入集歌十四首明細。(『金葉和歌集』は二度本の歌番号のみとした。)

勅撰集名 入集歌数 『新編国歌大観』歌番号
金葉和歌集二度本 三首 三七三 五一三 五七二  
千載和歌集 四首 三八六 三九四 一一三一 一一八七
新勅撰和歌集 一首 一三六一      
玉葉和歌集 一首 八三七      
続千載和歌集 一首 七一二      
続後拾遺和歌集 一首 三七三      
新千載和歌集 一首 一五〇四      
新後拾遺和歌集 一首 一四五六      
新続古今和歌集 一首 三六一        




二、三宮大進と『南宮歌合』。
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 神祇伯顕仲が、大治三年(一一二八)に一族を中心に催した『西宮歌合』『南宮歌合』『住吉社歌合』のうち、八月二十九日西宮広田神社で行なわれた『西宮歌合』は、「神祇伯顕仲卿一家人人相共所会也」の註がある。
 その翌月九月二十一日に行なわれた『南宮歌合』は、広田神社の境外摂社・南宮の門妙社で行なわれ、参加者十六人のうち十一人は『西宮歌合』の参加者、神祇伯源顕仲の一族である。『西宮歌合』には藤原長実や彼の同母弟顕輔、長実の姉妹より生まれた三条公教が参加していた。

『西宮歌合』に参加し『南宮歌合』にも参加した人々(十一名)

神祇伯源顕仲
六条院大進(定成女、顕仲生母、或は顕仲伯母か)
伯女(顕仲女)
大僧正(定海・顕仲兄弟)
忠季(顕仲二男)
親房(顕仲孫)
大夫典侍(顕仲女)
頭弁(顕仲弟・雅兼)
仲房(顕仲長男・淡路守)
兵衛督とあるは兵衛君か(顕仲女・金葉集の待賢門院兵衛、のち上西門院兵衛として千載集入集)・
六条顕輔(顕仲女を妻とする藤原重道の母方の叔父)


『西宮歌合』に参加しなかったが『南宮歌合』に参加した人

修理権大夫源行宗(小一条院孫)
藤原重道=重通(宗通男・のち大納言・顕仲女を妻とす)
肥後前司藤原為実=為真(詞花集作者・長良流信濃守永実男)
内大臣家越後(源有仁家女房)
三宮大進

『南宮歌合』参加者関係図次の通り。(●印は南宮歌合参加者)

   三条天皇─────────────小一条院(敦明親王)
                    摂政太政大臣          │                  判者
        摂政太政大臣    ┌─頼通          ├───源甚平──┬─大僧正行尊●
            藤原道長──┤右大臣          │                │
                        └─頼宗───┬─女                └─行宗●
                                      │
                                      └─俊家───宗通
                                                      │
                                                      ├──重通(道)●
                                                      │      │
                                  藤原顕季───┬──女      │
                                                │            │
                      ┌─肥後・常陸とも号す    ├─長実      │
                      │六条院                  │            │
            藤原定成─┼─大進●                └─顕輔●    │
          或は源定成  │                                      │
                      └─女・或は六条院大進か          ┌─伯女●
                                      │    神祇伯      │
                                      ├───顕仲●──┼─仲房●───親房●
                                右大臣│    頭弁        │
  村上天皇──具平親王──源師房──顕房─┬─雅兼●    ├─忠季●
                                          │大僧正      │
                                          ├─定海●    ├─有房
  其の他                                  │            │
    三宮大進●                            └─覚雅      ├─待賢門院堀川
    内大臣家越後●                                      │
    肥後前司為実●                                      ├─大夫典侍●
                                                        │
                                                        └─兵衛●

六条院大進の父・藤原定成については、十四章十一節「堀河院艶書合の小大進」を参照。

 修理権大夫源行宗(小一条院孫)は小一条院皇子・源甚平の子息。この『南宮歌合』に三宮大進が参加しているので、彼女は神祇伯顕仲家と或る程度親しい人物であったと思われる。三宮は人望があり、村上源氏の人々に慕われていたので、三宮大進と顕仲の接点はこの辺りに有るのではないか。

 三宮輔仁親王が元永二年(一一一九)十一月二十八日薨去の九年のち、この歌合で彼女はなお「三宮大進」と名乗っているので、その御子内大臣源有仁には出仕していないのかもしれない。『南宮歌合』には、内大臣(源有仁)家の乳母越後も参加している。




三、『金葉和歌集』の歌。
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 小大進は三宮輔仁親王に早くから出仕し、続いて夫光清が入滅する十三・四年以前から三宮輔仁親王の御子の源有仁家に仕えていた。「内大臣家小大進」として詠んだ和歌が勅撰集『金葉和歌集』に入集している。その歌は源有仁が内大臣であった頃、小大進が夫の光清にあてたものである。

『金葉和歌集』二度本(三七三)・三奏本(三九〇)

文ばかり遣わして、いひ絶えにける人のもとに
              内大臣家小大進
ふみそめて思ひ返りしくれなゐの筆のすさみをいかで見せけん


『金葉和歌集』二度本(五一三)・三奏本(四八七)

見交しながら、恨めしかりける人によみかけける
              内大臣家小大進
かくばかり恋の病は重けれどめにかけさげてあはぬ君かな


『金葉和歌集』二度本(五七二)・三奏本(五六二)

語らひ侍りける人の、かれがれになりければ、こと人につきて、筑紫のかたへ罷りなんとするを聞きて、男のもとより、罷るまじき由を申したりければ、いひ遣わはしたりける
             内大臣家小大進
身のうさも問ふ一文字にせかれつつ心つくしの道はとまりぬ


以上の三首は『金葉和歌集』二度本・三奏本にあるが、『金葉和歌集』二度本(二六五)に次の歌が見える。

十月十日頃に鹿のなきけるを聞きてよめる 法印光清
何事にあき果てながらさを鹿の思い返して妻を恋ふらん


『金葉和歌集』二度本は大治元年(一一二六)ころ成立とされるので、この歌の事件はそれ以前のことである。他の人と一緒に筑紫へ行こうとまで決心した離婚の危機も、夫光清の優しい言葉で回避できた。愛情はもどり、そして大治四年(一一二九)二人の間に成清がうまれたのである。これらの歌が詠まれた時代を年表とすると次のとおり。年齢は小大進康和三年(一一〇一)生れとしての推定年齢を表わす。

和暦 西暦 年齢 記事
保安二 一一二一     二一 ○小侍従生る。
保安三 一一二二 一二 一七 二二 ○源有仁内大臣となる。二〇才。
・・・・ ・・・・・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・・・・
          ○この間、内大臣家小大進『金葉和歌集』の歌を詠む。
・・・・ ・・・・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・・・・
大治元 一一二六     二六 ○『金葉集』初度本・二度本と撰進するも、白河法王嘉納されず。 │
大治二 一一二七     二七 ○三奏本を撰進する。
大治四 一一二九     二九 ○成清生れる。
大治六 一一三一 一二 二二 三一 ○源有仁二九才、右大臣となる。
保延二 一一三六 一二 三六 ○源有仁三四才、左大臣となる。
保延三 一一三七 二四 三七 ○光清死す。享年五四才。 この年末、成清、母小大進に連れられ、花園左大臣源有仁家に祗候。


これらの小大進・光清の歌四首は自ら起承転結をなしている。小大進があからさまに、ひたすらに、心境を吐露して迫っているのに対して、光清は小大進を引き止めては見たものの、彼の歌には「あき果てながら・・秋はてながら・・倦きはてながら」どうして「思い返して妻を恋う」様なことを言ってしまったのかという気持が感ぜられる。二人の心理の対照の妙は、実際の人生がここにあるという良く出来た短編小説を読む様な感動がある。ところがこの光清の歌となっているものは、彼の歌ではなく他人の歌であるという。

藤原清輔の『袋草紙』巻四に、

金葉集八幡別当光清歌云。

  なにことに秋はてなから棹鹿の思ひかへして妻を恋ふ覧

此歌ハ蔵人君意尊。此集撰之比。十月許参詣八幡テ聞鹿鳴テ詠也。而後日向俊頼亭。有忌之事不対面。仍紙端ニ書此歌テ。以小児一日比於八幡所詠歌也。而光清歌ト存テ入之云々。
意尊歌ハ又恋部有一首。

  あはす共なからんよには思ひ出よ我ゆへ命たえし人そと

是ハ於左京御許テ詠歌也。コレヨミ人シラストテ入之。一首ハ称人歌。一首ハ読人不知云々。殊阿党難堪之由。所々訴行之者也。尤有謂。(原文のまま)


意尊が八幡に参詣して詠んだ歌を持って、『金葉和歌集』の撰者源俊頼の家を尋ねたところ忌む事があって会えなかったので、紙に書いて小児に渡したが、俊頼は光清の歌と思って『金葉和歌集』に入れた次第であった。意尊は所々訴え歩いたのは、尤もであると藤原清輔は書いている。
「棹鹿の思ひかへして妻を恋ふ覧」は「小牡鹿の思ひかへして妻を恋ふらん」である。「小牡鹿」(文語で「さをしか」)の接頭語「さ」は名詞・動詞・形容詞の頭につけ、語調を整える語。
また前記『袋草紙』の記事「意尊歌ハ又恋部有一首」により、岩波文庫本『三奏本・金葉和歌集』の付録「流布本にありて三奏本に無き歌」にある金葉和歌集巻第八・恋歌下の左記歌、

人をうらみける頃、心地例ならずおぼえければよめる
                   読人しらず
あはずともなからむ世には思ひいでよ我ゆゑ命絶えし人かと


の作者は意尊であろう。意尊の歌は、このほか『新編国歌大観』「金葉和歌集・解題」に掲載された『金葉和歌集』初撰二度本・橋本公夏筆本(一二)にも見える。

雅家卿家歌合に帰雁をよめる   意尊法し(師)
玉札をかけしをりにやかりがねに春帰りごと契りそめけん


この小大進の『金葉和歌集』の和歌の背景と成った不和の原因は、前章に述べた為義との問題であったかもしれない。また小大進が「こと人につきて、筑紫のかたへまかりなん」としたのは、『今鏡』「敷島の打聞」にあるこどく、小大進の母が筑紫の菅原氏の氏寺・太宰府安楽寺の別当の妻であったので、小大進も太宰府にゆけば生活のめどがたったのであろう。

源俊頼が意尊の歌を光清の歌と思い違いをしたのは以下のような事情があったのであろう。
『金葉和歌集』撰者の木工頭・源俊頼の『散木奇歌集』(一五八三)に、

人人あまたやはたのみかぐらにまゐりたりけるに、ことはてて又の日別当光清が堂の池のつり殿に人人ゐなみてあそびけるに、光清連歌つくることなんえたることとおぼゆる、ただいま連歌つけばやなと申しゐたりけるに、かたのごとくとてもうしたりける                          俊重
つりどののしたにはいをやすぎざらん
光清しきりに案じけれども、えつけでやみにしことなど、かへりてかたりしかばこころみにとて
うつばりのかげそこに見えつつ


「俊重」とあるのは、『金葉和歌集』撰者源俊頼の長男・源俊重で、『尊卑分脈』に「能書・式部大夫・伊勢守・従五位上・母藤(原)清綱女・千作者(千載和歌集作者)」とある。別当光清の廷臣らとの気楽な交遊の有様がうかがえる。俊重から連歌の席での事を聞いて、父源俊頼が試しに光清に代わって下の句を付けてみたとある。『金葉和歌集』撰者源俊頼は子息俊重を通じて別当光清の事は知っており、近親感を持っていたのであろう。従って源俊頼は別当光清と小大進の間にあった事情に通じていたと思われる。意尊の八幡で詠んだ歌を見て、てっきり光清の歌と思い、『金葉和歌集』二度本(二六五)に光清歌として編入したのであろう。

また前記『袋草紙』の記事にある「読人知らず」とされた歌は、岩波文庫本『三奏本・金葉和歌集』の付録「流布本にありて三奏本に無き歌」にある金葉和歌集巻第八・恋歌下の左記歌であり、

人をうらみける頃、心地例ならずおぼえければよめる                       読人しらず
あはずともなからむ世には思ひいでよ我ゆゑ命絶えし人かと


この作者は意尊となる。意尊の歌は、このほか『新編国歌大観』「金葉和歌集・解題」に掲載された『金葉和歌集』初撰二度本・橋本公夏筆本(一二)にも見える。

雅家卿家歌合に帰雁をよめる 意尊法し(師)
玉札をかけしをりにやかりがねに春帰りごと契りそめけん


以上、意尊の歌三首は何れも『金葉和歌集』三奏本に入集していない。意尊が源俊頼の撰歌について非難がましい行動をとったと俊頼が受け止め、意尊の歌を一切三奏本『金葉和歌集』に採用しなかったことになるかもしれない。

何事にあき果てながらさを鹿の思い返して妻を恋ふらん


の意尊の歌は、小大進の一連の歌の結びとしての光清の歌と見ればこそ面白さもあり妙味もあるが、独立した歌として見れば評価はまた異なるであろう。


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       2008.4.10推敲