本文へジャンプ 太皇太后宮小侍従ノート

2006.1.12推敲

一二章 母・花園左大臣家小大進(二)


四、待賢門院御衣紛失事件。
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 『古今著聞集』「鳥羽法皇の女房小大進、歌に依りて北野の神助を蒙る事」にある待賢門院御衣紛失事件について述べる。
小大進は、鳥羽法皇の中宮であらせられた待賢門院璋子の御衣紛失について嫌疑をうけ、検非違使の監視のもと、当時無実の罪を晴らす霊験あらたかとの信仰が厚かった北野天神に参籠祈願した。

『北野天神縁起』にはその功徳について次のようにある。

無実にかゝりたるともがら、あゆみをはこび、かうべをかたぶくれば、たちどころに霊験にあづかる。官位をもとめ福寿をねがふ たぐひ、祈請さらにたがわず。


参籠三日目になって神前にお供えしてある神水をこぼしたので、検非違使は「これ以上の過失はあるまい、出なさい。」といった。小大進は泣く泣く「あと三日猶予を下さい。それでもお祈りの霊験が現われなかったら連行してください」といって次の歌を詠んだ。

思ひいづやなき名立つ身は憂かりきと現人神になりし昔を


「なき名」=身に覚えのないうわさ。ぬれぎぬ。(広辞苑)

御祭神菅原道真公も無実の罪を蒙られた昔は苦しまれたことを思い出されるでしょう。私も無実の罪に泣いております、お救いください、と言う意味の歌を紅色の薄い鳥の子紙に書き神殿に貼った。

その夜、鳥羽法王の夢枕に北野天神が立たれて、「めでたい事があるので、使者をお遣わし下さい」と言われた。早速、北面の武士を馬寮の馬で急がせたところ、小大進は神前で「あめしずく」と涙を流して泣いていた。北面の武士は、神殿に小大進が歌を書いて貼ってあった紙を持って帰りを急いだ。武士が未だ帰り着かないうちに、法王のおられた離宮鳥羽殿の南殿前に、法師と敷島と言う雑仕女の二人が紛失した女院の御衣を頭からかぶって獅子舞を舞っているのを法王がお見付けになった。こうして疑いの晴れた小大進に再び出仕するよう仰せがあったが「この様なお疑いを受けるのも、私を心の曲がった者と思っておいでなのでしょう」といって仁和寺なる所に籠ってしまった。(小大進が隠棲した仁和寺の住居については3839章を参照してください。)

この話の原点と思われるものが『袋草紙』と『続詞花和歌集』にある。『袋草紙』の筆者で私撰集『続詞花和歌集』の撰者である歌人藤原清輔は、小大進とともに崇徳上皇より『久安百首』に歌を召されているので、同時代に生きた人である。

『袋草紙』巻四の「仏神感応歌」に、

修理進(某妹)

  思出つやなき名のたつはうかりきと荒人神もありし昔を

是故待賢門中宮之時。女装束一具失了。宮中鼓動。此女或局女房被嫌疑。仍泣々参籠北野所詠歌也。其後実犯出来。半物敷島也。(以下、筆者註=これは故待賢門院、中宮のとき、女装束(おんなしょうぞく)一具失せおわんぬ。宮中鼓動す。この女ある局の女房にて嫌疑をこうむる。よって泣く泣く北野に参篭し、詠むところの歌なり。その後、実犯出で来る。はしたもの敷島なり。)


という歌がある。
この歌を詠んだ作者は、「修理進某妹」ではなく「修理進(某妹)」とあるので、この女性は中宮璋子の時代、宮中のある局の女房で、呼び名を「修理進」と呼ばれた人物であろう。そして兄は修理進の職にあったのかも知れない。「修理進」は修理職の大進か小進で従六位相当官。修理職は木工寮と手分けして内裏を修理造作する役である。亡くなられた待賢門院がまだ中宮であられたとき、女装束一揃えが紛失したため、宮中は大騒ぎになった。修理進と呼ばれた女房が疑いをかけられたため、泣く泣く北野の天満宮に参籠して詠んだ歌である。其後実際の犯人が出てきた。それは半物(はしたもの=召使)の敷島であった、とあるが、この女房を小大進とはしていない。また紛失したのは女装束ではあるが、中宮御衣とはしていない。

同じく藤原清輔の私撰集『続詞花和歌集』(三七九)に次の歌がある。作者名はない。

待賢門院后宮(きさいのみや)と申しける時、女房のきぬのうせたりけるを、あるつぼねなる女房、あやしきさまにいはれける、きたのの宮にこもり侍りける、御前のはしらにかきつけける

  おもひいづやなき名をたつはうかりきとあら人がみもありし昔を

此のちほどなくあらはれにけりとなん申す


この詞書にも、待賢門院が后宮(中宮)であらせられた時の事件としてある。衣を紛失したのは「女房のきぬのうせたりける」とあり、女房の衣であって中宮の御衣ではない。この話は、待賢門院璋子が中宮であらせられた時、宮中である局の女房が衣を紛失した実話である。

『袋草紙』に「故待賢門院中宮之時」とあり、『続詞花和歌集』に「待賢門院后宮と申しける時」とあったが、女御藤原璋子が中宮になられたのは永久六年(一一一八)一月二十六日御歳十九才、中宮璋子に院号が宣下されたのは天治元年(一一二四)十一月二十四日御歳二十五才で、中宮であらせられたのは六年十か月ほどの期間である。事件はこの間に起った。北野天満宮の御霊験と和歌の功徳の話として当時都に喧伝され、大きな感激を与えたと思われる。後世、待賢門院の御衣紛失事件として伝承され、被疑者の女房を鳥羽法皇女房小大進とし、或は待賢門院女房小大進とする。

この事件は次の文献などにあるが、成立年代順にならべると左のごとくである。衣を紛失した人物と被疑者に変遷の過程がうかがえる。

成立年代 書名 被害者 被疑者 実犯人
一一五八年頃 保元三 袋草紙   女房・修理進 半物敷島
一一六五年頃 永万元 続詞花和歌集 女房 或局女房 記載なし
一一九四年以前 建久五 北野天神縁起 女房 女房 雑仕敷島
一二一九〜二二年 承久年 北野縁起 女房 女房 半物敷島
一二五二年一〇月 建長四 十訓抄 待賢門院 小大進 雑仕敷島と法師
一二五四年一〇月 建長六 古今著聞集 待賢門院 小大進 雑仕敷島と法師
一二八三年八月 弘安六 沙石集 待賢門院 小大進 雑仕敷島と法師


◎上記文献成立年代と出典。

・『袋草紙』保元三(一一五八)頃成立、藤原清輔・作。別冊国文学・四三巻『古典文学史必携』二〇六頁。
・『続詞花和歌集』永万元(一一六五)頃成立、藤原清輔・編。『和歌大辞典』五〇五頁。別冊国文学・四三巻『古典文学史必携』二〇六頁。
・『北野天神縁起』建久五(一一九四)以前成立。『天神信仰』(雄山閣出版)九六頁・源豊宗「北野天神縁起絵巻」について。
・『北野縁起』承久年(一二一九〜二二)成立。『天神信仰』(雄山閣出版)一八三頁・桜井好朗「天神信仰の表現構造」。
・『十訓抄』建長四(一二五二)一〇月成立、編者未詳。別冊国文学・四三巻『古典文学史必携』二〇八頁。
・『古今著聞集』建長六(一二五四)一〇月成立、橘成季・編。別冊国文学・四三巻『古典文学史必携』二〇八頁。
・『沙石集』弘安六(一二八三)秋八月沙石集十巻草し了る。無住一円・編。岩波文庫本『沙石集』(筑土鈴寛校訂)下巻三八〇頁。

以上のほか『北野本地』『北野天神御縁起』にもこの話があり、この話の原点は藤原清輔の『袋草紙』の記事と彼の私撰集『続詞花和歌集』に入集した「思ひいづや」の歌の事件である。『北野天神縁起』には、雑仕敷島の母「きりしはら尼君」が娘の盗んだ衣を捧げ持って鳥羽法皇の御前に参ったとある。

「修理進」と呼ばれた中宮女房に関する『袋草紙』『続詞花和歌集』の北野天神の御利益と和歌の功徳の実話は、これから百三十年程のち、『十訓抄』から小大進を主人公とする説話として転化されていった。『十訓抄』以降、衣を紛失したのは待賢門院璋子、被疑者として小大進が登場する。

『十訓抄』に

鳥羽法皇ノ女房ニ小大進トイフ歌ヨミアリケルガ・・・・・


『古今著聞集』「鳥羽法皇の女房小大進、歌に依りて北野の神助を蒙る事」には

鳥羽法皇の女房に、小大進といふ歌よみありけるが・・・


『沙石集』巻五の十三「神明歌を感じ人を助け給ふ事」には

鳥羽法皇の御時、待賢門院に小大進といふ女房召仕はれけり。


とあり、鳥羽法皇の時代の「小大進といふ歌詠み」といえば、明らかに小侍従の母小大進を指している。被疑者とされた中宮女房の「修理進」という実在の人物の実話が、この時代には小侍従の母小大進の話とされている。

この間、三宮輔仁親王の王子有仁に源氏の姓を賜わり、父宮輔仁親王の薨去、源有仁を内大臣に補任のことがあり、中宮璋子に女院号「待賢門院」が宣下された天治元年(一一二四)十一月には、源有仁は二十二才で内大臣右大将であった。小大進は三宮に引き続き源有仁に仕え、勅撰集『金葉和歌集』に入集したその和歌に「内大臣家小大進」の名が残され、源有仁が左大臣となったのちまでも小大進は源有仁に仕え「花園左大臣家小大進」の名を残している。

従って藤原璋子が中宮であられた期間、小大進が中宮璋子に出仕することはありえない。待賢門院璋子は久安元年(一一四五)八月二十二日崩御遊ばされ、源有仁は二年のちの久安三年(一一四七)二月十三日、源有仁室は仁平元年(一一五一)九月二十二日薨去した。石清水検校光清の入滅ののち、小大進子息成清は花園左大臣源有仁に愛育され、母共々、源有仁に庇護されている。このように恩義のある源有仁やその室(待賢門院の姉)の在世中に小大進が鳥羽法皇や待賢門院に出仕することもありえない。
北野天満宮御祭神の菅原道真公の子孫である小大進の兄俊永は、太宰府安楽寺別当であり北野天満宮の権別当であった。小侍従の母小大進ならば北野天満宮と深い因縁がある。この説話の主人公としてうってつけの人物であったが、小侍従の母小大進に全く関係のない話であった。


五、小大進、成清を生む。
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 『尊卑分脈』の『紀氏系図』成清註に、

成清
母三宮小大進局[菅原在良女]、
彼小大進腹子八人皆以女子也、仏願男子之処、有夢想告、 可祈熊野権現、 依之参詣下向之処 妊所生之子也
成清
母、三宮小大進局[菅原在良娘]
かの小大進の腹の子、皆もって女子なり。仏の男子を願ふのところ、夢想の告げあり。熊野権現に祈るべしと。これにより参詣下向のところ、はらみ生まるるの子なり。


成清の甥・刑部卿源顕兼の『古事談』巻五の十一「八幡ノ検校成清ノ事」にも次の記述がある。

八幡の故検校僧都成清は、光清の第十三郎の弟子、小大進(三宮の女房)の腹なり。小大進の生む所の子息八人皆女子なり。仍て男子一人を慕(こひねが)ひける間、夢告あり。熊野権現に祈り申すべしと云々。之に依りて即ち参詣を企てつ。還向の後、幾程も経ずして懐妊し産生(う)む所の子なり。


「慕」(古訓、このむ・こひし・こひねがふ・したふ・しのふ・ねかふ)。「企」(くはだてつ・くはだつ)。

小侍従と同じ母小大進から生れた弟・成清は、石清水故検校光清の十三男とある。『石清水祠官系図』に、弟・成清は「保安三年」(一一二二)の生れとあるが、疑問がある。系図の成清の註記に和暦とその年の年齢が書いてあるので生れ年を逆算してみる。

和暦 西暦 年齢 『石清水祠官系図』註 逆算した生年
保安三 一一二二 ○成清生まる。 一一二二(保安三年)
保元元 一一五六 二八 ○成清修理別当に補せらる。 一一二九(大治四年)
永暦元 一一六〇 三二 ○成清を宝塔院院主となす。 一一二九(大治四年)
嘉応三 一一七〇 四三 ○成清補弥勒寺講師。 一一二八(大治三年)
改元     (四月二一日改元)  
承安元 一一七〇 四三 ○成清法印に叙せらる。 一一二八(大治三年)
文治四 一一八八 六〇 ○成清に別当官符到来す。 一一二九(大治四年)
正治元 一一九九 七一 ○入滅。 一一二九(大治四年)


以上からすると、(一一二八・九)年つまり大治三・四年ころの生れとなるが、系図中最も正確と思われる享年七十一才から逆算した大治四年(一一二九)が妥当か。

『古事談』「八幡ノ検校成清ノ事」に次の様にある。

生年九才之時、本師入滅之間、相具小大進、祗候于花園左大臣家


本師とは父光清の事であり、父が入滅したのは保延三年(一一三七)九月二十四日、成清九才の時であったとある。保延三年(一一三七)に九才ならば大治四年(一一二九)生れとなる。こののち、母小大進に連れられて花園左大臣源有仁のお側近くに仕えた。『月詣和歌集』(九五八)に次の歌が収録されている。『月詣和歌集』は、寿永元年(一一八二)十一月には完成した。この歌はこれ以前に詠まれたことになる。

わらはにて花園の左大臣のもとに侍りけるに、笛をしへ給ふとてたまはらせたりける笛をかの御為にほとけしやうじけるに、澄憲僧都導師にて笛を誦経物にしてそへて侍りける                                              法印静清
思ひきやけふうちならす鐘のおとに伝へし笛のねをそへんとは


『石清水祠官系図』によれば、成清は「静清」と称した時代があった。何れも「じょうせい」とよむのであろう。この時の導師は安居院の澄憲、平治の乱に倒れた後白河院院政の権臣信西入道の子で説教の名人であった。更に調べると、文治四年(一一八八)奏覧された勅撰集『千載和歌集』(五九七)に成清の次の歌がある。

花園左大臣の家に童にて侍りけるを、笙教へ侍るとて給へりける笛を年経てのち、かのために仏供養しける時、笛に添へてはべりける                                法印成清
思ひきやけふ打ち鳴らす鐘の音につたへし笛の音(ね)をそへんとは


花園左大臣源有仁は、第七十一代・後三條天皇の第三皇子輔仁親王の御子で、「源」の姓を賜り臣籍に列せられた。『石清水祠官系図』に成清は源有仁の養子であったとある。花園左大臣源有仁は、久安三年(一一四七)二月十三日、四十五才で薨去した。「花園」の号は、京都の花園、今の妙心寺あたりに父宮から伝領した別邸があったためである。その供養のため、今日打ち鳴らす鐘の音に、伝授していただいた笙の音と、私の忍び泣く音(ね)を添えようとは思いも掛けぬことでした、と成清は供養の和歌を捧げた。
これらの詞書に「童」とある。『広辞苑』によれば、「童」とは次の通りである。

わらわ「童」=十才前後の子供。稚児より年少で、まだ元服せぬ者


父が入滅したのは保延三年(一一三七)、此の時、成清は童であつたが、母に連れられて源有仁家に出仕したという。大治四年(一一二九)生れなら、このとき九才でまさに童の年である。成清の花園左大臣源有仁供養の和歌によっても、『古事談』の記事に「生年九才の時、本師入滅の間」とあることよりしても、成清の生れた年は保安三年(一一二二)でなく、大治四年(一一二九)である。


六、善法寺。
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 寛徳二年(一〇四五)五月十八日『関白家政所下文案』(内閣文庫所蔵文書)に東大寺領摂津国島上郡水成(無)瀬庄について「南限善法寺領」と見え、東大寺領水無瀬庄の南に、善法寺という寺の所領が在った。善法寺家の家名の発祥について、小侍従の弟成清が仁和寺大善房上座禅信娘を妻とし第三十二代別当祐清が生れ、彼が善法寺と号したので、この号は母方祖父の大善房に因むとする説があるが、善法寺家の家名の発祥よりも百年以上も早くから、水無瀬に善法寺という寺の所領が存在した。

「善法寺」と言う寺は、京都の岡崎町字宮の脇の東光寺内にあった。『空華集巻十八』に、善法寺は延喜十六年(九一六)参議三善清行の請いにより、醍醐天皇の勅により建立された寺とあり、三善氏の菩提寺であつたが、応仁元年(一四六七)八月兵火に罹り廃された。(『京都坊目誌』上京第廿七学区の部・四二六頁による。)

『山槐記』治承三年(一一七九)二月廿三日条、

天晴る。卯の剋百塔に礼するため広隆寺方に向ひ、春日木辻に至る。而して右大将宗盛前行さる。稠人(ちゅうじん)により更に一条にいで東行し、一条櫛笥辺を巡礼す。法成寺・浄土寺・白川辺合はせて四十基。秉燭の後帰亭し畢んぬ。今年四十九才、重厄に依り此の勤めあり。中山堂並びに善法寺等に於て破子(わりご)を開く。件の善法寺は東光寺の内、算博士行衡の知行なり。行衡は予の家人なり。即ち共に在りと云々。


「稠人=びっしり集まっている多くの人」、「破子=弁当箱・弁当」。

保元三年(一一五八)十二月三日『官宣旨』(石清水文書一二三)に石清水八幡宮寺の所領として「摂津国水無瀬御供田並びに西山」とあり、石清水八幡宮寺は水無瀬に所領を持っていた。前記の水成(無)瀬庄の南限とされた善法寺領あるいは岡崎の善法寺と善法寺家の家名は何らかの関連があるのではないか。『日本歴史地名大系・大阪府の地名1』(平凡社・九八頁)によると、『水無瀬神宮文書』に後鳥羽院の御霊を祭る水無瀬御影堂(現・水無瀬神宮)の所領として水無瀬庄[井内・善法寺]があり、善法寺の地名が現在も水無瀬神宮の南西すぐ近くに字地として残っているとある。成清子息祐清がなぜ善法寺と号したか、祐清と三善家・善法寺との関係はわからない。


七、『久安百首』と小大進。
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康治年間(一一四二〜三)、小大進は崇徳上皇から、のち『久安百首』と呼ばれる百首の歌を召される光栄に浴した。『群書類従』(正十一)の『久安六年御百首』奥書に、

康治のころ題を賜ひ、久安六年各詠進し★(おわ)んぬ。仁平三年暮秋のころ別しての御気色により部類進め★(おわ)んぬ。
                            左京大夫 顕広


と左京大夫藤原顕広(のち俊成と改名)が述べており、康治年間(一一四二〜三)に和歌をめされた小大進らの和歌詠進の時期は久安六年(一一五〇)とされる。この百首は久安六年に詠進されたので『久安百首』と呼ばれることになる。「賜ふ」(他四)。

康治年間に百首歌を召された人々の内に、権中納言藤原公能がいた。彼は太皇太后多子の父で、その薨去に当たって小侍従が弔歌を奉った、のちの大炊御門右大臣公能である。『久安百首』に、遠江守当時に顕広の前名で歌を召された俊成は、久安六年(一一六〇)百首和歌詠進の時には丹後守であった。俊成卿の『正治仮名奏状』に次のようにある。

崇徳院百首の度。公能右大臣卅の齢にて候き。此老入道位数ならず。非人には候しかども。また三十の齢にて初のめしの中にまかり入て候き。その初は御製の外十三人。公行。公能。行宗。教長。顕輔等卿。忠盛。親隆等朝臣。僧都覚雅老入道。女房堀川。兵衛。あき。小大進。これらには其度講らるることをそく候し程に。公行。行宗。覚雅三人。まかりかくれ候し後。かはりにくははり候し三人。隆季。清輔。実清。これらに候。・・・・・


◎「崇徳院百首」最初の歌人十四名の人々。

  康治二年(一一四三) 途中死没した年月
  年齢 官職位階 参考 没年 西暦
崇徳上皇 二五            
藤原公行 三九 参議右兵衛督   久安四 一一四八 二二
藤原公能 二九 権中納言          
源 行宗 八〇 非参議従三位 小一条院孫 康治二 一一四三 一二 二四
藤原教長 三五 参議右中将          
藤原顕輔 五四 従三位前中納言          
平 忠盛 四八 正四位上   仁平三 一一五三 一   
藤原親隆 四五 左衛門権佐          
覚 雅 五四 僧都 源顕房男 久安二 一一四六    
藤原顕広 三〇 遠江守              
堀川   待賢門院女房          
兵衛   上西門院女房          
安芸   待賢門院女房          
小大進   花園左大臣家女房          


源行宗は小一条院の王子・源甚平(参議)の子息。死没した人々の代わりに藤原季通・藤原清輔・藤原実清・藤原隆季が指名された。藤原実清は右(左)馬権頭、保元元年、讃岐院(崇徳院)御事(保元の乱)により配流された。藤原隆季は、最終権大納言にいたる。隆房の父。

正治二年(一二〇〇)秋、小侍従が八十才にして後鳥羽院から百首の歌を召された『正治二年初度百首』は、初め若い歌人を加えない予定であったが、俊成卿が『正治仮名奏状』を後鳥羽院に奉り、院の御指示により、忽ち若い歌人らが加えられ、この結果、俊成卿の子息定家らが百首の歌を詠進すべき院宣をうけた。この『正治仮名奏状』に公能・俊成が三十才の時『久安百首』を召されたとあるが、『公卿補任』によると俊成の方が一才年上で、俊成三十才のときとすれば康治二年(一一四三)、公能三十才とすれば天養元年(一一四四)のご下命となる。『久安百首』は崇徳院を始めとして、女人四人を含む十四人の歌人が夫々百首歌を詠進した。これに参加した女人は、次の四名であった。

待賢門院堀川(神祇伯源顕仲娘)、
上西門院兵衛(神祇伯源顕仲娘、堀川の妹)、
待賢門院安芸(太皇太后宮少進橘俊宗娘、藤原為経らの母)、
花園左大臣家小大進(石清水別当光清妻、小侍従・法印成清母)


何れも当時高名な女歌詠みである。待賢門院は崇徳院の生母、上西門院は待賢門院の皇女で崇徳院の御妹、後白河院の御姉であらせられる。御二方の女院に仕える堀川・兵衛・安芸は、崇徳院にとって馴染み深い女房どもであるが、小大進はあまり縁のない人物であったと思われる。歌を召された人のうち、成立までに参議従三位藤原公行・僧都覚雅・従三位源行宗が没し、藤原季通・藤原清輔・藤原実清が加えられ、のち仁平三年(一一五三)正月平忠盛も没し、藤原隆季が詠進した。

◎最終『久安百首』の作者は次のとおり。『新編国歌大観』による。

官職・その他 官職・その他
崇徳院   藤原公能 中納言右衛門督
藤原教長 参議左中将 藤原顕輔 左京大夫
藤原季通朝臣 前備後守 藤原隆季朝臣 左馬頭
藤原親隆朝臣 尾張守 藤原実清朝臣 右馬権頭
藤原顕広 丹後守 藤原清輔 散位大宮大進正四位下
堀川 待賢門院女房 兵衛 上西門院女房
安芸 待賢門院女房 小大進 花園左大臣家女房


崇徳院のお詠みになった『久安百首』に、「無常」と題するつぎの御製がある。歌を召されながら逝去したこれら歌人達を悼まれた御歌である。思し召しのほど、拝する者の心をうつ。

はかなさは外にもいはじももうたのその人かずはたらず成りにき
先年既に百首の人数に列し、未だ六儀を終へざる詞藻の輩、或は暮齢により朝露に類し、或は紅顔といへども黄壌に帰す。浮生のしるし眼に慨然として涙をみだす、故に之を詠む。


「六儀」は和歌のこと。

『久安百首』では、いわゆる長歌を「短歌」と呼んでいる。『古今和歌集』「巻第十九雑躰」に、長歌・旋頭歌・誹諧歌があるが、「長歌」の項目名を「短歌」と記してあるのに倣ったものであろう。『久安百首』に顕広の旧名で百首歌を詠進した俊成卿が、式子内親王に奉ったとされる『古来風躰抄』に、

この事は、古今集より、疑ひの侍るなり。その故は、雑躰の巻に、「短歌の部」と書き置きて、正しきその歌の詞の所には、紀貫之が「古歌奉る時、添へて奉れる長歌」と書き、また躬恒・忠岑が歌の所にも同じく「添へて奉りける長歌」と書きて侍るなり。それを、崇徳院に百首歌人々に召しし時、「各が述懐の歌は、短歌に詠みて奉れ」と教長卿の奉書にて仰せられて侍りしかば、各「短歌」と書きて長歌を詠みて奉り侍りにしなり。(以下略)


更に短歌は朗詠の時、声を長く伸ばして歌うが、長歌は「詠ずるに、長くは詠ぜられず、短くいひ切りいひ切り詠ずるなり。」「よりて、詠の声につきて、長歌といひ、短歌とも申すなるべし。いかにも歌は、詠の声によるべきものなるが故なり。」と述べている。長歌短歌の説は、他に源俊頼『俊頼髄脳』、藤原清輔『奥義抄』下巻、藤原定家『定家卿長歌短歌説』などにある。
『久安百首』に奉った小大進の歌のなかに、「短歌」と題された長歌(一四〇〇)並びに反歌(一四〇一)一首があり、『久安百首』を詠進する喜びをうたっている。小大進の所謂「短歌」を次に引用する。

   短歌
君が代は 行末まつに 花さきて 十かへり色を
みづがきの ひさしかるべき しるしには 常盤の山には
なみたてる 白玉つばき やちかへり 葉がえりするまで
みどりなる さか木の枝の たちさかえ しきみがはらを
つみはやし いのる祈りの しるしあれば ねがふ願も
みつしほに のぶる命は ながはまの まさごを千代の
ありかずに とれどもたえず 大井川 万代をへて
すむ亀の よはひゆづると むれたりし 蘆まの田鶴の
さしながら 友は雲井に たちのぼり 我はさはべに
ひとりゐて 鳴く声空に きこえねば つもるうれへも
おほかれど 心のうちに うちしのび 思ひなげきて
すぐるまに かかるおほせの かしこさを 我が身のはるに
いはいつつ 世世をふれども 色かへぬ 竹のこどもの
末の代を みかきのうちに うつし植ゑて にほふときくの
花ならば 霜をいただく 老の身も 時にあひたる
心ちこそせめ
   反歌
しるしけり万のとしの千千の秋たのしみいまだ半ならずと


「友は雲井に立ちのぼり、我は沢辺に一人居て、鳴く声空に聞こえねば」とあるのは、久安三年(一一四七)二月十三日左大臣源有仁薨去ののち、久安六年(一一五〇)の小大進の境遇を示すものであろう。しかしながら、その詠む歌は天聴に達した。「霜をいただく老の身も時にあひたる心ちこそせめ」と、歌を召された喜びを詠んでいるので、このとき小大進は頭に霜を置く年齢であった。
 小大進はこの頃までに娘八人と末子として子息成清を生んでおり、久安六年(一一五〇)には小侍従は三十才である。母小大進は五十歳位ではないか。この年、小大進が五十歳とすると、康和三年(一一〇一)の生れとなり、小侍従は小大進二十一才のとき、成清は二十九才のときの出産となる。
 反歌は『和漢朗詠集』にある謝偃の詩「嘉辰令月歓無極 万歳千秋楽未央」の第二句に想を得たものであろう。前漢鏡の裏面にも「千秋万歳 長楽未央」とあるものが多い。

小大進の『久安百首』(一三八二)に次の歌がある。

いはし水ながれのすゑもはるばると長閑なる世にすむぞ嬉しき


この歌は後白河院御撰の『梁塵秘抄』巻第二に、つぎのように「末」を「水」と一字かえ入集している。

いはし水ながれの水もはるばるとのどかなる世にすむぞうれしき



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      2008.4.11