本文へジャンプ 太皇太后宮小侍従ノート

四〇章 小侍従、高倉天皇に出仕(二)


五、右大臣家歌合。
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右大臣九条兼実が安元元年(一一七五)十月十日に催した『右大臣家歌合』に小侍従は参加した。この歌合については兼実の日記『玉葉』同日条に次のごとくある。

申の刻以後雨下る。今日、密々和歌を講ず。大弐重家卿已下、先度会する者皆以て参入す。清輔朝臣之を判ず。[作者を隠し之を合すなり]、題三首、鐘報ののち分散す。太だ興あり。


「先度会する者」とは、前回の閏九月二十九日の和歌会に出席した「季経朝臣已下常に祗候する男共六七許りの輩」で、彼らを含めこの度の歌合に参加した歌人は次のとおり。

大宰大弐重家卿 女房丹後・源頼行娘 源頼政朝臣 寂念法師為業入道
季経朝臣 女房皇嘉門院別当局 頼輔朝臣 小侍従
経家朝臣 隆信朝臣 行頼 仲綱
基輔 季広 尹明 資忠
俊恵法師 右大臣兼実 道因法師 清輔朝臣


小侍従は皇嘉門院別当局と合わされて二敗一持であつた。小侍従のほかこの度の歌合に参加した歌人は、和歌の家・六条家から大宰大弐重家・季経・経家・頼輔・基輔・清輔。清和源氏から源頼政・仲綱・丹後局。常磐三寂の寂念と寂超の子息藤原隆信。「歌林苑」執行俊恵法師、道因法師、皇嘉門院別当局などが参加している。行頼は清和源氏・源行頼、『尊卑分脈』に歌人・皇嘉門院判官代・太皇太后宮権大進とある。尹明は藤原尹明、正五位下兵部少輔、『尊卑分脈』に「安徳天皇鎮西御坐之時補蔵人」(安徳天皇鎮西におはしますの時、蔵人に補せらる)とある。季広は醍醐源氏・源季広(もと清季)、正五位下・下野守、歌人・千載集以下入集。皇嘉門院別当局は村上源氏・源俊隆の娘で、すでに登場した仁和寺の法印隆暁も源俊隆の子息である。特に高位高官のものは見えないが、歌道堪能のものが多く、「密々和歌を講ず」とあるように、私的な気楽な和歌会であった。『玉葉』に、この年七月以後に内々和歌を楽しんだ記録が七回程あるが、兼実の歌会に小侍従が参加したのは記録に残るものとしては安元元年(一一七五)十月十日のこの歌合のみである。小侍従をこの会に参加出来るよう九条兼実にとりなしたのは、藤原清輔・源頼政あたりではないか。

右大臣九条兼実日記『玉葉』承安五年(改元・安元元年・一一七五)和歌会記事
○「夜に入り小和歌あり、密々の事なり。」
○「密々和歌連歌等あり。」
二三 ○「晩景密々和歌あり、清輔、頼政已下会するもの十余人、題五首、当座 においては作者を隠し、これを合せ評定す。清輔勝負を判ず。その後連歌、また当座会[題二首]。夜半に及び事了りて分散。・・ 今日、余の歌三首、清輔之に感ず、悦びと為すに足る、作者を隠すにより、其の人を知らざるなり。」
閏九 一七 ○「今日密に和歌会あり。作者を隠しこれを合す。清輔朝臣命により勝負を付す。会する者十余人、清輔、頼政を棟梁となす。題十首、作者二十二人、百十番を合す也。歌甚だ多し。時刻移りその後、連歌あり。鶏鳴に及び人々退出す。 」
閏九 二九 ○「夜に入り雨降る。今日、密々和歌あり、季経朝臣已下常に祗候する男共六七許りの輩、又当座あり、其後、連歌あり、又折句、隠題、旋頭、混本などの歌あり。おのおの興に入る。天曙に及び分散す。閏九月尽、頗る邂逅のことなり。仍りて密々之を講ず。」
一〇 一〇 ○『右大臣家歌合』が行なわれ、小侍従参加。
「今日、密々和歌を講ず。大弐重家卿已下、先度会する者皆もって参入し、清輔朝臣之を判す。(作者を隠し之を合わす也)題三首、鐘報ののち分散す。太(はなはだ)興あり。」
一一 ○「酉の刻許り、密々和歌あり。また当座あり、清輔、季経已下常に祗候するの輩、六七許りの輩なり。其後、連歌、鐘報に及び分散す。」


混本歌は和歌の一種。この歌合に参加した大宰大弐重家・清輔・季経らは六条藤家と言われる和歌の家柄で、俊成・定家の御子左家と和歌の家として双璧をなす。清輔について兼実は、『玉葉』安元元年(一一七五)十一月四日条に、清輔の和歌の才は紀貫之や四条大納言公任の様だとし、安元二年(一一七六)十月二十七日条には、

午の刻、清輔朝臣来り、和歌の事等を談ず、近代この道を知るの者、ただ彼の朝臣のみ、貴ぶ可く仰ぐべし。亥の刻に及び退出し了んぬ。


とし、安元三年(一一七七)六月二十日条には

基輔来たりて云ふ、今日辰の刻、清輔朝臣逝去と云々。和歌の道忽ち以て滅亡す。悲しみて余りあるも、歎きて益なし。就中余いささかこの道をたしなみ、偏に彼の朝臣の力を頼む。今このことを聞き、落涙数行、惣じて諸道の長を論ずるに、清輔朝臣の和歌の道を得たるがごときなし。和歌は我が国の風俗なり、滅亡の時至る、誰人か痛思せざらんや。


と兼実はその死を惜しんでいる。

六条藤家は前から九条兼実に近かったが、それに比して御子左家は疎遠であり、この度の歌合には藤原隆信以外は招かれていない。隆信は常磐三寂の為経(寂超)と美福門院加賀の間に生れた。為経出家ののちは、美福門院加賀は藤原俊成と結ばれ、定家・八条院三条・建春門院中納言などを生む。隆信はその和歌によって、五条三位入道俊成(法名釈阿)に養われ薫陶を受けたことがわかる。詳細は次章で述べる。

右大臣兼実は翌年治承二年(一一七八)三月二十日を初度として、左記の如くほぼ十日ごとに十回の和歌会を催した。一回に二題各々五首、併せて百首の和歌会である。

二〇 立春 初恋 三〇 忍恋
一〇 初遇恋 二〇 郭公・ 後朝恋
一〇 五月雨 遇不遇恋 二〇
三〇 草花 一〇 紅葉 述懐
二〇 神祇 二九 歳暮 釈教


御子左家の俊成が兼実を始めて訪れたのは、この百首会の九回目のあと、同年六月二十日の清輔の一周忌の済んだのちの六月二十三日である。

『玉葉』治承二年(一一七八)六月二十三日条、

雨下る。五条三位入道俊成[法名釈阿]来る。和歌の道において長者となす。仍りて前馬権頭隆信朝臣を以て、先づ音信せしむ。今夜始めて来る所なり。数剋語を交し、深更帰去し了んぬ。


六月二十五日には、九条兼実はこの百首和歌を俊成に遣わし合点を依頼している。これ以来俊成は、歌合の判の依頼をうけるなど、九条家と親しくなる。俊成の子息定家は、九条兼実によりその才を認められ、九条家の家司となり、兼実とその子息後京極良経らに仕えた。
久保田淳先生『藤原定家』ちくま学芸文庫・六十頁によると、定家の九条家出仕の時期は、

  その時期は文治二年、定家二十五歳のころかと考えられている。

とされている。
文治二年(一一八六)三月十二日、右大臣兼実は摂政並びに氏長者とされ、『公卿補任』に、同十六日「左大臣の上に列すべきの由宣下」とある。兼実は文治五年(一一八九)十二月十四日太政大臣に任ぜられた。


六、『平家公達草紙』の小侍従。
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『平家公達草紙』「秋のみ山のもみぢ葉」の章に小侍従が登場する。

同じ御時、神無月の初めつ方、時雨し風吹きなどしておもしろかりけるに、后の宮の御方にて御笛吹かせ給ふ。隆房、維盛、雅賢、朗詠し、今様など歌ひ、おもしろかりければ、とみにも入らせ給はで御覧ぜられける。藤壷の御前の紅葉散りしきて、色の錦と見えて風にしたがふけしき、いと興ありけり。しばらくありて内へ入らせ給へれば、宮のきなるより濃くにほへる紅葉の御衣に紅葉の色こに散りみだれたるを召したる、ことにうつくしく見えさせ給ひけるを、上、「此御袖の上も、庭のけしきに変らざりける」と仰せられけるを、小侍従といひし人うけ給はりて、とりあへず、色ふかき秋のみ山のもみぢ葉は庭の錦にたちぞまされると申したりけり。


「同じ御時」とあるは高倉天皇の御代のこと、その神無月、陰暦十月のことである。后の宮は高倉天皇の中宮平徳子(のちの建礼門院)。内裏の後宮に皇后・中宮・女御・更衣が住む七殿五舎があり、その飛香舎の庭には藤が植えてあったので飛香舎を藤壷という。「秋のみ山」は中宮徳子を申しあげる。中宮の御衣の紅葉は飛香舎の庭の紅葉にもまして美しいとの帝の思し召しを、小侍従は即興で和歌とした。

『平家公達草紙』(岩波文庫『建礼門院右京大夫集』に付載)は、同書解説(久保田淳解説)によると、「その原本の編纂には藤原隆房が関与しているのではないかと想像されるが、隆房一人を作者と見なすことは躊躇される」としておられる。藤原隆房は、小侍従とも歌を交わした人物で、高倉天皇が寵愛された小督局を愛し、平清盛の娘を妻とした平家に近い人物。元久元年(一二〇四)三月六日権大納言となり、翌年元久二年(一二〇五)一月二十九日辞職した。この草紙は、高倉天皇と建礼門院を巡る華やかな宮廷に繰広げられた、平家の公達などの優雅な振舞いに触れており、当時の宮廷に身をおいた人の作であろう。

『源平盛衰記』(影印本・古典資料類従・勉誠社)巻十七には、

抑(そもそも)待よひの小侍従といふは本はあはの局とて高倉院の御位の時御宮仕して有けり、世にも貧き女房にて夏冬の更衣もたよりをうしなふ貧人也。


前記『源平盛衰記』巻十七は、小侍従の前名を「阿波の局」としている。小侍従が高倉天皇に仕えていたことが立証されるのは、承安四年(一一七四)二月三十日建春門院の理趣三昧結願の日から、高倉天皇の中宮徳子に七草を奉る歌を詠んだ治承三年(一一七九)一月七日までであるが、これに先立つこと九年の永万元年(一一六五)に成立した藤原清輔撰『続詞花和歌集』に「大宮小侍従」として三首、永万元年から翌年春に成立したとされる『今撰和歌集』に「小侍従」として二首入集し、早くから小侍従と名乗っていた。『源平盛衰記』に述べるごとく「阿波の局」と名乗った時代があったか否か不明である。この時代に「阿波」と呼ばれた女房としては、『平家物語』「小原御幸」に登場する故少納言入道信西の娘「阿波内侍」がしられている。母は紀二位とある。阿波内侍は信西の子息貞憲の子とされ、また一説に源有房女で平宗盛養女の高倉院中納言典侍・平瑞子(註3).とされる。

小侍従が藤壷の紅葉を詠んだ歌は紹介したが、小侍従と親しかった建礼門院右京大夫にも、藤壷の紅葉を詠んだ歌がある。
『建礼門院右京大夫集』より。

里なりし女坊の、藤壷の御前のもみぢゆかしきよし申したり
しを、散りすぎにしかば、むすびたる紅葉をつかはす枝にか
きつく
吹く風も枝にのどけき御代なればちらぬもみぢの色をこそみれ


建礼門院右京大夫の父は世尊寺流の書の家藤原伊行、母は大神基政の娘夕霧である。右京大夫については『建礼門院右京大夫集』(岩波文庫)の解説などに詳細にあるので、それ以外の事を紹介する。

母の父・大神基政は笛の名人で、楽人として初めて従五位下に叙せられ、宮中の楽所の雅楽允であった。『古事談』によれば、大神基政の私宅は石清水の地、八幡山井にあり、石清水の楽人でもあった。彼は保延四年(一一三八)九月八日逝去、享年六十才。『糸竹口伝』に、右京大夫の母夕霧についてつぎのようにある。八幡の楽人であった大神基政が娘夕霧に箏を教え、妙音院と呼ばれた師長(最終、太政大臣)に聞いてもらった所、師長は

笛ノ詞ナル故ニアア吹キタリトホメサセ給イケリ。ウルハシキ箏ノ手ニテハナクコマ
カニ面白シ。サリナガラ正流ヲソムケリ。世ニスグレタル遊君白拍子等ノヒケル様
コレナリ。シラヌ耳ニハ面白シ。知ル耳ニハアラヌモノ也。撥ヤウハ小爪ノモトマデ
皆カケリ。今ハ絶タルモノ也。


と評した。やや品位に欠けるところがあるかの評であり、宮廷人の鑑賞には不向きであったと思われる。

岩波文庫本『新勅撰和歌集』(一二五八)より、

大神基賢が身まかりにける時、誦経せさせ侍けるによみ侍ける                   中院右大臣家夕霧
わかれにしひはいくかにもあらねどもむかしのひとゝいふぞかなしき



夕霧は中院右大臣源雅定に仕えた。大神基賢(元方・基方)は、『大神氏系図』に大神基政の子・内舎人基賢とあり、夕霧の兄である。『大家笛血脈』にある大神基政から笛を伝えられた「元方」という人物は大神基賢であろう。基賢は承安四年(一一七四)没、享年六十才であった。中院右大臣源雅定が薨去したのは応保二年(一一六二)五年二十七日。この頃、石清水所司の子で笙に秀でた雅楽属清方、八幡の楽人で笛の戸部清延の名が『楽所補任』に、『古事談』には八幡の笛の楽人戸部正近、男山の南面に住んだ八幡所司永秀、山路権寺主永真の名が見える。


七、後白河院の「五十の賀」。
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『小侍従集』(一二一)に、詞書のない次の歌がある。

君が代は菊のした水むすびける人のよはひもなにならぬかな


とある歌は、「菊慈童」が菊の露を飲んで七百余才の長寿を得たという故事にちなんだものである。詞書はないが、この歌は不老長寿の仙人にちなんで、仙洞の主・後白河院のそれに勝る御長寿を祈ったもので、安元二年(一一七六)三月四・五・六の三か日に亙って行なわれた後白河院の「五十の賀」に、小侍従によって院に捧げられた賀歌であろう。随って小侍従はこのころ健康で宮仕えをしていたと思われる。後白河院五十の賀の次第が『安元御賀記』(『群書類従』二九輯)として当時少将であった隆房によって記されている。


八、藤原実定大納言に還任、左大将となる。
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  安元二年(一一七六)七月八日建春門院が崩御され、翌年治承元年(一一七七)三月五日、藤原実定は十二年に及ぶ雌伏から解放され、大納言に還任した。十か月弱のちの同年治承元年(一一七七)十二月二十七日、藤原実定は更に左大将に任ぜられた。『小侍従集』(一二〇)に詞書のないつぎの歌がある。「寿永百首」のうちであるので、寿永元年以前に詠まれたことが確かである。前に紹介したが、重複を厭わず、ふれることとする。

さきにけりみかさの山の木ずゑまでこのみをかくる藤のしるしは


「三笠山」は、『広辞苑』に「[天皇の御蓋として近侍する意にかけて]近衛の大・中・少将の異称。歌に用いる。みかさのやま。」とある。歌の意味は、私が望みをかける藤原氏の貴方は、このたび近衛大将(みかさの山の木ずゑ=近衛大将)の栄誉に輝かれました、めでたい事でございます、である。これは治承元年(一一七七)十二月二十七日に、大納言藤原実定が左大将に就任したことにたいする賀歌と考える。小侍従は実定の平素の恩誼を思いこの歌を贈った。
西行の『山家集』(一一七八)の次の歌は、近衛の三将補任の賀歌と思われるが、西行が実定に贈ったものか否かわからない。

いはひ
光りさす三笠の山の朝日こそげによろづ世のためしなりけれ


『山州名跡志』巻七によれば、「大雲山竜安寺」の項に「当寺最初ハ左大臣実能公ノ山荘也。傍ニ仏殿ヲ建テ徳大寺ト号ス。代々此地ニ居ス。・・」とあり、徳大寺の地には現在「龍安寺」があり、「石庭」で知られている。実定は後徳大寺と号した。

西行は俗名を佐藤義清と言い兵衛尉であった。彼は鳥羽院の下北面の武士で、大納言実定の祖父・徳大寺左大臣藤原実能の家人であった。待賢門院璋子は実能の姉妹で、西行は待賢門院御願寺の法金剛院を度々訪れている。そのおりにでも、法金剛院に近い近衛紙屋川の小侍従の家を訪れたであろう。西行は出家しても生得の気性の激しさは変わらなかったもののごとく、『古今著聞集』に、実能の孫で太皇太后多子の兄実定の家の屋根に鳶の止まるのを避けるため、縄を張ってあるのを見て、西行が「とびのゐる、なにかは苦しき」と嫌った、とあり、実定の弟中将公衡が蔵人頭を他人に超えられたとき、西行が公衡に出家を勧めたが出家しなかったので、期待を裏切られ落胆したとあるので、実定・公衡とはやがて疎遠になったであろう。


九、『別雷社歌合』などに参加せず。
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  小侍従は治承二年(一一七八)始めから病気になったのではないか。治承二年(一一七八)三月十五日に行なわれた『別雷社歌合』は歌人六十人、判者は入道三品釈阿(俊成)であった。別雷社は賀茂別雷神社で、上賀茂神社として崇敬されている神社である。主催者は神主重保であり、のち彼の依頼で小侍従は「寿永百首」の一つといわれる私家集『小侍従集』を上賀茂社に奉納している。『別雷社歌合』の顔触れに次のように小侍従の懇意な人が多いので、小侍従が都に健在ならば、歌人として招かれない筈はない。小侍従が参加していないのは何か特別の理由があるとしか考えられない。

閑院流より、権大納言実房・権大納言実国・権中納言実綱・右宰相中将実守・公衡そのほか小侍従と親しい人、又こののち歌を交わす人として判者釈阿(俊成卿)・左衛門督平時忠・左兵衛督藤原成範・太皇太后権大夫平経盛・刑部卿藤原頼輔・右少将隆房・左少将源有房・前右衛門佐平忠度・前右馬権頭藤原隆信・藤原親盛・俊恵・二条院讃岐・源師光・前斎院大輔・源頼政・六条季経・経家・顕昭・寂蓮など

 同年閏六月二十一日の『右大臣家歌合』にも参加していないが、永万二年(一一六六)十一月十一日以来右大臣の職にあった九条兼実の歌合に、小侍従が出席したのは安元元年(一一七五)十月十日の『右大臣家歌合』一回しか記録されてない。また、治承二年(一一七八)八月に小侍従と親しい亮公即ち顕昭を判者として歌人二十二名により行なわれた『廿二番歌合』にも参加していない。この歌合の歌人二十二名のうち、頼輔・源有房・広言・親盛・源仲頼・藤原伊経は他の歌合にも登場する。その他の人々は歌人として無名である。従って、『右大臣家歌合』『廿二番歌合』不参加を以て、小侍従病気の証とするのは無理があるが、『別雷社歌合』に参加していないので、この年、治承二年(一一七八)年初から同年十月ころまで小侍従が病床にあったと考える。こののち小侍従は己の年齢をも考慮し、おそらく弟成清の勧めもあって翌年出家隠棲を決意するに至る。


一〇、中宮徳子、皇子(安徳天皇)を御出産。
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  治承二年(一一七八)十一月十二日、中宮徳子に第一皇子(言仁親王)御誕生、のちの安徳天皇であらせられる。守覚法親王は治承二年(一一七八)十月二十五日、皇子の出産を祈って、六波羅の平清盛邸で孔雀法を修法あそばされている。親王御生誕の翌日十三日、高倉天皇には、中宮徳子の安産祈願を御依頼になった仁和寺喜多院御室守覚法親王にたいし宸翰を賜った。その宸翰は現在も『高倉天皇宸翰消息』として仁和寺につたわり、昭和六十一年に御在位六十年記念として『日本美術名宝展』が京都国立博物館で開催されたおり、拝観することができた。

『高倉天皇宸翰消息』 治承二年(一一七六)十一月十三日喜多院守覚法親王あて(j字配り其のまま)


  大法無事結願喜
  悦且者今度事此法
  所致之由深以存思給
  候者也加之先於三条
  殿被修此法之時霊験殊
  勝之上今又如此無所謝
  候諸事期面拝謹言
   十一月十三日


中宮御産所は六波羅第の頼盛の池殿より北一町余りにあった泉殿である。美濃局の生み奉った天台座主覚快法親王も、中宮のお産にあたり頼盛の池殿で七仏薬師法修法ののち、泉殿の中宮のもとに赴かれたことが『山槐記』に見え、後白河法皇が中宮御産の場に御臨幸遊ばされた記事がある。
『山槐記』治承二年(一一七八)十一月十二日条、

法皇密々西面北門の方より臨幸あり。加持を奉らる。また諸僧無音の由、頻に責め仰せらる。大夫亮及び近臣らその仰せを奉じ、南面の方へ来たり之を仰す。諸壇伴僧のうち陀羅尼などを能くするものを召し加へ、その声雷となる。


後白河法皇おん自ら経を読まれ、また僧侶の読経の声が小さいと法皇が仰せになった。これを承って大夫亮重衡や近臣が「南面の方へ来たり之を仰す。」とあるのは、中宮の御産所の寝殿の南庇・四間に高麗帖八枚を敷いてここに諸壇の阿闍梨が詰めていたので、彼らに仰せられたことを言う。伴僧達の席も此所に設けられていたが彼らは此所に座らず東泉廊に群れていたことが『山槐記』に見える。伴僧のうちから陀羅尼呪などをよくする者を加えられ、「その声雷」となった。

治承二年(一一七八)十一月十二日現在の中宮職、次のとおり。

官職 官職
大夫 権中納言 平時忠 権大夫 権中納言 藤原忠親
亮 正四位下・左馬頭 平重衡 権亮 従四位上・少将 平維盛
大進 基親 権大進 光綱
少進 尹範 権少進 兼資


乳母は時忠室・洞院局、乳人・故兵衛大夫通清女(右近将監親房妻)。

『平家物語』「御産巻」には、

折節法皇は、新熊野[いまくまの]へ御幸なるべきにて、御精進のついでなりけるが、錦帳近く御座あつて、千手経をうちあげうちあげ遊ばされけるにぞ、今ひときは事替つて、さしも躍り狂ひける御神子[おんよりまし]どもが縛も、暫く打ちしづめけり。法皇仰せなりけるは、「縦ひ如何なる御物怪なりとも、この老法師がかくて候はんには、いかでか近づき奉るべき。なかんづく今現るる所の怨霊は、皆わが朝恩を以て人となりたる者ぞかし。縦ひ報謝の心をこそ存ぜずとも、いかでか豈障碍をなすべきや。速かに罷り退き候へ」とて、「女人生産し難からん時に臨んで、邪魔遮障し、苦忍び難からんにも、心を致して大悲呪を称誦せば、鬼神退散して、安楽に生ぜん」と遊ばいて、皆水晶の御数珠をおし揉ませ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそましましけれ。


と法皇の御祈祷ぶりが記されている。中宮徳子は入内にあたって待賢門院璋子の例に倣い、後白河法皇の猶子として輿入されたのであった。高倉天皇の中宮徳子の出産にあたり、天台座主覚快法親王は六波羅の右衛門督平頼盛の邸宅・池殿に於て七仏薬師法を修法ののち、中宮御産所の泉殿に入られ祈祷された。平清盛の娘中宮徳子は無事皇子を出産され、この皇子言仁(ときひと)親王は一か月のちの十二月十五日、早くも皇太子となられた。長門の壇の浦で御年八才で平家と運命をともにされた安徳天皇であらせられる。

覚快法親王に祈祷の功に対し勧賞の御沙汰があった。『華頂要略』には勧賞について「叙品の事、勅問ありと雖も御室に従ひ子細を申さる。これあるの間延引さると云々」とあり、叙品の御内意が示されたと思われる。
『平家物語』「大塔建立」には、

御修法の結願には勧賞ども行はる。仁和寺の御室は東寺修造せらるべきなり。後七日の御修法、大元の法並びに潅頂、興行せらるべき由仰せ下さる。御弟子円良法眼、法印になさる。座主の宮は、二品並びに牛車の宣旨を申させ給ふを、御室支へ申させ給ふに依つて、御弟子覚誓僧都、法印になさる。


とあり、覚快法親王は二品に叙せられることと牛車の宣旨を賜ることを希望された。「御室(おむろ)支へ申させ給ふに依つて」とあるのは、御室の二品守覚法親王が反対なさったことを云う。『広辞苑』によれば「支え」は[ささえぐち]の略で、「支え口」は[人を中傷すること。讒言。]である。守覚法親王は喜多院御室と呼ばれ、後白河院の皇子で以仁王と同母の従三位成子から生れた。親王の位階には一品から四品まであり、位階の無い無品親王もおられた。覚快法親王は無品親王であられたので、守覚法親王と同格の二品に叙せられることを望まれた。「牛車の宣旨」は「親王・摂政・関白が牛車で建礼門まで入る事を許すという宣旨」で、何れも御室二品守覚法親王の反対で実現しなかった。

『徒然草』(二二六段)にあるごとく、『平家物語』の作者を慈鎮和尚(慈円)が扶持した信濃前司行長とするならば、慈円は覚快法親王の弟子であったから、『華頂要略』の記事からしても前記の『平家物語』の記述は真相ではないか。


一一、東宮、五十日(いか)の祝い。
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十二月十五日には、早くも第一皇子言仁親王は東宮とされた。明けて治承三年(一一七九)一月六日には、東宮御生誕五十日の五十日(いか)の祝いが左京三条二坊十五・十六町の閑院内裏で行なわれた。この頃、高倉天皇は閑院内裏におられ、東宮は六波羅第の中宮御産所を東宮御所として中宮も御同居中であつたが、五十日の祝いのため中宮・東宮は閑院内裏に行啓になった。小侍従は高倉天皇にお仕えしていたので、この頃は閑院内裏にいたであろう。
『山槐記』には、東宮は五十日の祝いの行事を終えて「褻(け)の御所」に還御になったとある。「褻の御所」は日常の御所の意であるから、六波羅の東宮御所に還御になつたのであろう。『安徳天皇御五十日記』が群書類従にある。
『山槐記』筆者中山忠親はこのとき権中納言兼中宮権大夫であったが、中宮還御の記事はないので、中宮は当夜閑院内裏においでになつたのであろう。明けて治承三年(一一七九)一月六日には、東宮御生誕五十日の五十日(いか)の祝いが左京三条二坊十五・十六町にあった閑院内裏で行なわれた。小侍従の次の歌は詞書がないが東宮の五十日の祝いに詠んだ賀歌と考える。

『小侍従集』(一一七)より。

いはひ
君がよをなににたとへんふた葉なるまつも千とせのすゑをしらねば


親王に対して和歌のなかで「君が代」という言葉を使うことは、一条天皇の中宮彰子(藤原道長娘)の皇子敦成親王の御五十日の祝いに詠まれた歌にその例がある。敦成親王は中宮彰子にとっての始めての皇子で、一条天皇の第二皇子であらせられる。第一皇子は皇后定子の皇子敦康親王である。御五十日の祝いの当日の寛弘五年(一〇〇八)十一月一日、紫式部は次の歌を道長に捧げている。『紫式部日記』より、

いかにいかがかぞへやるべき八千歳のあまりひさしき君が御代をば


五十日(いか)の言葉を巧みに詠み込んだ紫式部の歌に、道長は「あはれ、つかうまつれるかな」と感嘆して二度ばかり口ずさんだが、彼もつぎの歌を詠んだ。

あしたづのよはひしあらば君が代の千歳のかずもかぞへとりてむ


この敦成親王は後一条天皇であらせられる。このことは『紫式部日記』に記され、『栄花物語』にも引用されているが、この歌の中で親王にたいして「君が御代」「君が代」の言葉を使っている。



一二、若菜の歌。
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治承三年(一一七九)小侍従五十九才。東宮の「御五十日」の祝いのあった一月六日の翌日の七日には「白馬(あおうま)の節会」が行なわれ(『山槐記』)、またこのころの風習によって「若菜」の行事があった。「若菜」は、はじめ正月の上の子の日に内膳司からその年の七種の若菜をあつものとして天皇に奉り、のちには一月七日に七草を食べることになったという。
治承三年(一一七九)正月七日丙寅、節会の日、中宮徳子に若菜を奉るにあたり、東宮をお祝いするようにとの人々の勧めで、小侍従は若菜に添えてつぎの和歌を奉る。中宮は前日につづいて閑院内裏においでになったと思われる。

『小侍従集』(六四)より。

正月七日、中宮の御かたへわかなまゐらせさせたまふに、
まうけの君いはひまうせと人人ありしかば        小侍従
おひたたんふた葉のすゑをことしよりこはみくまののわかなとをしれ


まうけの君(儲の君)」は東宮である。小侍従の歌に「みくまのの若菜」とあり、東宮に熊野三山(みくまの)の御加護があることを述べてある。後白河院には熊野信仰の御心深く、 安田元久『後白河上皇』(吉川弘文館人物叢書・昭六三)の「後白河上皇移徙一覧」によれば、院の熊野御幸は院の御生涯では二十八回に及び、この若菜を奉った治承三年(一一七九)一月七日までには二十三回を算する。都にあった熊野精進屋・新(今)熊野御幸は除いた。

『源氏物語』「若菜・上」に、正月二十三日子の日、髭黒左大将の北の方玉鬘が光源氏に若菜を奉ることが見える。六条院の南殿の西の放出を飾り立て、夏冬のお召し物など進物を準備し、玉鬘が和歌に添えて沈香木の折敷四に若菜を献上した。光源氏は形ばかり若菜を召し上がって杯を手に和歌を返される。参列した公卿達からも、籠物四十折櫃物四十など多くの献上物があった。折から朱雀院の御病中でもあり、楽人などを呼ばず、一同が太政大臣の準備した管楽器を、衛門督柏木が和琴を、兵部卿宮が琴を奏したとある。この宴は光源氏の四十の賀の意味を込めて玉鬘が計画したものであった。

こたびの中宮に若菜を奉るにはどのような優雅な次第があったのであろうか。『山槐記』治承三年(一一七九)一月七日条には、若菜の記事はないが、東宮職の所宛(業務分担を定めること)が行われた記事がある。



●(註)

B.新潮日本古典集成『平家物語』巻第一二「大原御幸」(三七五頁)欄外註参照。
新潮日本古典集成『平家物語』には「大原御幸」とあり、講談社文庫・流布本『平家物語』には「小原御幸」とある。



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 2008.4.14