五四章 小侍従と西行
一、西行、病床の小侍従を見舞う。
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西行の私家集『山家集』(九二二〜三)に、西行が小侍従の病気を見舞った次の歌があり、小侍従の返歌が添えられている。
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院の小侍従、例ならぬ事大事にふししづみて、とし月へにけりときこえて、とぶらひにまかりたりけるに、この程すこしよろしきよし申して、人にもきかせぬ和琴のてひきならしけるをききて
西行
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ことのねになみだをそへてながすかなたえなましかばと思ふあはれに
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たのむべきこともなき身をけふまでもなににかかれる玉のをならん
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西行の詠んだこの歌が『西行法師家集』(六四二)及『玉葉和歌集』(二四八一)にもある。小侍従の返歌はないし、詞書が少し違う。
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小侍従病おもくなりて月頃へにけりと聞きて、とぶらひに罷りたりけるに、この程少しよろしきよし申して、人にも聞かせぬ和琴の手ひき鳴らしけるを、聞きてよみ侍りける 西行法師
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ことのねになみだをそへてながすかなたえなましかばとおもふあはれに |
『山家集』のごとく「とし月へにけり」と云えば、少なくも一年数か月病床にあったと思われ、『西行法師家集』や『玉葉和歌集』のごとく「月頃へにけり」と云えば、小侍従は数か月は患っていたと思われる。『新編国歌大観』の『西行法師家集』は、所謂『異本山家集』の春一二九首・夏三五首・秋一一一首・冬一〇二首・雑二二一首・計五九八首のほか、「追而加書西行上人和歌・次第不同」とした増補一八九首を加えた七八七首よりなる。小侍従に贈った歌は増補された一八九首の中にある。
『新編国歌大観』解題によれば、『西行法師家集』の増補部分は他人の歌を西行の歌とし、また『西行法師家集』の本体部分である『異本山家集』と重複歌があるなどの指摘があり、編集に疎漏さがうかがえ問題があるので、『山家集』の詞書の方が信頼しうるのではないか。
西行の生涯について窪田章一郎『西行の研究』(東京堂・昭三六・八九頁)に、
○第一期 元永元年(一一一八)〜保延六年(一一四〇)。一才〜二三才。出家までの期間。在俗時代。
○第二期 保延六年(一一四〇)〜久安三年(一一四七)。二三才〜三〇才。出家から、陸奥の旅に出る前まで。修行前期。
○第三期 久安三年(一一四七)〜仁安三年(一一六八)。三〇才〜五一才。陸奥への旅立ちから、四国の旅に出る前まで。修行中期。
○第四期 仁安三年(一一六八)〜治承四年(一一八〇)。五一才〜六三才。四国への旅立ちから、伊勢へ住居を移すまで。修行後期。
○第五期 治承四年(一一八〇)〜建久元年(一一九〇)。六三才〜七三才。伊勢に住居を移してから、河内国弘川寺で没するまで。晩年大成期。
以上陸奥の旅も伊勢への移住も推定であるとし、「私見では、『山家集』の歌は伊勢に移る前で打ち切られていると考えている。(三四頁)」としておられる。
また有吉保『西行』(集英社・一九八五・一六二頁)では「筆者は、西行が伊勢に庵をかまへてから以降の歌は、『山家集』巻末の追加以前の部分には一首もふくまれておらず、原型『山家集』は、高野山在住までの歌を集めているものと考えている。」とあり、同書の年表に、治承二年(一一七八)「この前後に、『山家集』が編まれるか。」、治承四年(一一八〇)「高野山より、伊勢二見の浦に居を移す。」としておられる。
以上より西行が小侍従を見舞った歌が『山家集』にあるので、その時期は治承四年(一一八〇)以前であろうと考える。
『和琴系図』『和琴血脈』に見るごとく、小侍従は雅楽頭源範基に和琴を習い、小侍従の和琴の弟子として三条宮以仁王・白河琴尼公・源通定(内大臣源雅通四男)が挙げられている。小侍従の病を見舞うべく訪れた西行に、快方にむかっていた小侍従は人には聞かせぬ和琴の秘曲を聞かせた。西行は、小侍従が病気で死ぬのではないか、そして死ねば和琴の秘曲も絶えるのではないかと心配していたが、幸い小侍従は和琴を弾けるまでに回復したことに感動し歌に詠んだ。
二、西行と左大臣藤原実能の一族。
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西行は、出家前は佐藤義清(のりきよ)として太皇太后多子の祖父左大臣徳大寺実能の家人であり、兵衛尉となり鳥羽上皇の下北面の武士として仕えた。西行は実能やその妹待賢門院璋子を追慕し、待賢門院璋子の皇女上西門院や実能の子息右大臣公能(久安六年当初・権中納言右兵衛督)に親しみを持っていた。実定や太皇太后多子の父である公能(きんよし)が崇徳上皇の召しにより『久安百首』を奉ったとき西行が下見した歌がある。
『山家集』(九三三〜四)より。
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新院百首歌召しけるにたてまつるとて、右大臣きんよしのもとよりみせにつかはしたりける、返し申すとて 西行 |
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家の風吹きつたへけるかひありて散る言の葉の珍しきかな |
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家の風吹きつたふとも和歌の浦にかひある言の葉にてこそ知れ |
西行には待賢門院の女房・堀川局・中納言局・兵衛局たちと交わした歌が伝わり、『山家集』(七九七)に待賢門院御願寺の法金剛院を訪れたとき詠んだ歌がある。
『山家集』(七九七〜八)より、
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十月なかのころ、宝(法)金剛院のもみぢみけるに、上西門院おはしますよしききて、待賢門院の御時思ひいでられて、兵衛殿の局にさしおかせける |
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もみぢみてきみがためとやしぐるらんむかしのあきの色をしたひて |
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色ふかきこずゑをみてもしぐれつつふりにしことをかけぬ日ぞなき |
既に述べたごとく宮仕えのころの小侍従の家が近衛通りと紙屋川の交わるあたり、法金剛院より東へ一・五キロ付近にあった。実能の家人であった西行は、公能の娘・太皇太后多子に仕えた小侍従とも面識があったであろう。西行が法金剛院を訪ねたときには、小侍従の家の前あたりを通ることになる。西行は小侍従より三才年上である。
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法金剛院山門 |
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法金剛院庭園 |
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法金剛院本堂 |
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鳥羽天皇皇后璋子陵(女院・待賢門院) |
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公能の子息実定・公衡は、『古今著聞集』「西行法師、後徳大寺左大臣実定・中将公衡等の在所を尋ぬる事」にあるように、一徹な西行の意に副わぬ所があった。
三、『山家集』の「院」。
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『山家集』では、院・女院の呼称は明確で、一院・新院・鳥羽院・近衛院・二条院・待賢門院・上西門院などとあるが、「一院」と申し上げるのは鳥羽院、「新院」また「さのきの院」(一四四六)とあるのは崇徳院、ただ「院」とあるのは『山家集』編纂の治承二年(一一七八)ころ、上皇で有らせられた後白河院を申し上げる。前記の「院の小侍従」と交わした歌のごとく、『山家集』にただ「院」とした例は、後白河院の乳母紀伊二位朝子(信西入道妻)の死を悼んだ歌(八一七以下)の詞書に「院の二位の局」とあり、その娘と交わした歌(八三〇)にも「院少納言局」とある。平治の乱のとき、信西入道は殺害されたが、三条烏丸の後白河院御所が焼き打ちされたとき、後白河院と上西門院の牛車に、院の乳母で信西bの妻・・紀伊二位朝子はなんを避けるため女院の御衣の裾に身を潜め脱出した。
『愚管抄』(岩波文庫本)一九一頁より。
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カカリケル程ニ平治元年十二月九日夜、三条烏丸ノ内裏、院ノ御所ニテアリケルニ、信西子ドモグシテ常ニ候ケルヲ押コメテ、皆ウチ殺サントシタクシテ、御所ヲマキテ火ヲカケテケリ。サテ中門ニ御車ヲヨセテ師仲源中納言同心ノ者ニテ、御車ヨセタリケレバ、院ト上西門院ト二所ノセ参ラセタリケルニ、信西ガ妻成範ガ母ノ紀ノ二位ハセイチイサキ女房ニテ有ケルガ、上西門院ノ御ゾ(御衣)ノスソニカクレテ御車ニノリケルヲ、サトル人ナカリケリ。 |
俊成卿に『千載和歌集』撰集の後白河院の院宣の下ったのは寿永二年(一一八三)二月である。『千載和歌集』を撰集している俊成に、西行が自分の和歌集をおくるにあたり、それを下見した「院少納言局」が『山家集』(一三五一)の歌を贈っている。
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まきごとにたまのこゑせしたまづさのたぐひは又も有りけるものを |
『玄玉集』(四七七)に、
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正月七日、後白河院少納言がもとに、ちひさきかたみにわか
なを入れてつかはすとて、よめる 大輔 |
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わかなをばかたみにいれつ身のうへに老をつみてぞやるかたもなき |
という殷富門院大輔の和歌がある。「院少納言局」はここでは「後白河院少納言」と呼ばれ、後白河院に仕えていた。「かたみ」は「筐」(目の細かい竹篭)。殷富門院大輔が友人を誘って柿本人麻呂墓を訪れ、経文を読み、人々の歌を読上げ供養した。その次いでに、人々は業平の住家の跡を尋ねて歌を詠んだ。これらの歌を書いたものを院の女房達が借用して、返すにあたり、院の少納言の局が詠んだ和歌二首がある。
『殷富門院大輔集』(二四〇)より。
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このひとびとの御うたかきたる物を、院の御かたの女ぼうた
ち、かりてかへすとてかきつけられたりし 少納言 |
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かきのもとあとしのびける言の葉に人のなさけのみえもするかな |
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言の葉もききしる人のなかりせばかきのもとにやくちはてなまし |
この院も後白河院をさす。大輔が仕えた殷富門院亮子内親王は、後白河院と高倉三位の間に生れた姫宮としては、ただお一人、女院号を宣下され、後白河院も大切になさった姫宮であった。大和の「山の辺の道」の櫟本(いちのもと)、和爾下神社の近くに歌塚があり、古くから柿本人麻呂墓と伝えられ、藤原清輔も供養して歌を捧げたといわれる。ここから徒歩で十分位のところに在原神社があり、在原業平が紀有常の娘と住んだ所とされる。奈良市内の不退寺も在原業平の住んだ所とされるが、柿本人麻呂墓の供養ののち、在原業平の住家を尋ねたとされるので、大輔らは櫟本の地を訪れたのであろう。
信西入道の妻紀伊局朝子は待賢門院に紀伊と号して仕え、雅仁親王(のちの後白河院)の乳母となり、後白河天皇の御代に従二位に叙せられ紀伊二位とよばれた。その薨去は永万二年(一一六六)一月十日、六条天皇の御代であり、後白河院院政の時代である。
信西の娘「院少納言局」は建春門院に仕え、のち後白河院につかえた。『健寿御前日記』「六、女房の名寄せ」に、建春門院に仕えた女房・少納言局について次ののようにある。
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少納言=何とかや筑前の阿闍梨かくけんといひしが妹。 |
「かくけん」は信西入道の子息「覚憲」。『尊卑分脈』に「壷坂、権僧正、興福寺別当、平治乱配伊与国」とある。
このように『山家集』に「院」とあるのは、『山家集』編集の頃の上皇である後白河院を申し上げるが、例外として、崇徳院を「院」と記した詞書がある。
『山家集』(一三五三〜四)の、
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さぬきにまうでて、まつやまのつと申す所に、院お はしまし
けん御あとたづねけれど、かたもなかりければ |
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まつ山のなみにながれてこしふねのやがてむなしく成りにけるかな
まつ山のなみのけしきはかはらじをかたなく君はなりましにけり |
がそれであるが、この「院」は詞書よりして讃岐国松山の津におわしました「院」、即ち讃岐の院・崇徳院であることは明らかである。崇徳院は保元の乱に敗れたのち、保元元年(一一五六)七月二十三日身を潜められた仁和寺を出られ讃岐へ流され、長寛二年(一一六四)八月二十六日に崩御あそばされた。宝算四十六才におわしました。
四、西行歌の小侍従の病の時期。
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西行の歌にある小侍従の病の時期については、次の事が考慮されるべきである。
(一)秘曲を伝えるという点からして、この頃の小侍従は余り若くはない年ごろと思われる。小侍従の返歌にも「頼むべきこと(事・琴)もなき身を今日までも」とあり、若くはない年であることがうかがえる。小侍従が和琴の奥義に達しながら西行の歌にあるように余り人前で演奏をしなかったとみられる。また演奏したことを示す和歌がこれ以外にない。
(二)この西行の歌が小侍従の私家集に入っていない。小侍従の家集で歌数の制限のない『太皇太后宮小侍従集』や、歌数の制限のある寿永百首『小侍従集』は寿永元年(一一八二)夏までに完成したと考える。西行は公能の『久安百首』を下見し、『中宮育子貝合』の歌を代作(『山家集』一一八九以下九首)するなど、若い頃から歌人として知られていた。
順徳天皇御撰の『八雲御抄』に、
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又清輔云う。「読み人知らずとは三様あり。一は知らず。二には知ると雖も凡卑。三には詞などの憚りある歌なり。」古今は蝉丸歌に名を書かず。後撰これを書く。かくの如き例多し。詞花の西行かくの如し。また千載は平家勅勘者となるにより名を書かざるか。 |
とあるように、勅撰集『詞花和歌集』(三七〇)に入集した西行の次の歌が「読人不知」とされている。『詞花和歌集』の成立の時期は明らかでないが、仁平年間とされる。仮に仁平三年(一一五三)とすれば、西行時に三十三才であった。
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身をすつる人は誠にすつるかは捨てぬ人こそすつるなりけれ |
仁平年間成立の勅撰集『詞花和歌集』に読み人知らずながら一首、文治四年(一一八八)奏覧の勅撰集『千載和歌集』に「円位法師」として十八首入集、勅撰集『新古今和歌集』に「西行法師」として第一位の九十四首が入集し、当代屈指の歌人とされた西行のこの歌が小侍従の家集に入っていない。小侍従の私家集『太皇太后宮小侍従集』『小侍従集』は、のちに述べるように『千載和歌集』成立以前の成立であり、『千載和歌集』は文治三年(一一八七)九月二十日後白河院に奏覧、完成は文治四年(一一八八)五月二十二日、時に西行六十八才。小侍従の私家集にこの西行の歌がないのは、小侍従が家集を編む事を意識する以前の贈答であり、手控えをしていなかった若い頃かも知れない。なお『詞花和歌集』の歌は「身」を「世」とかえて『西行法師家集』(五三五)にある。
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世をすつる人は誠にすつるかは捨てぬ人こそすつるなりけれ |
(三)西行の『山家集』(九二二〜三)歌の詞書に「院の小侍従」とある。既に述べたように『山家集』で「院」と申し上げるのは後白河院であらせられる。
(四)小侍従の長期の病にたいして、病気の時期によつては太皇太后宮多子の兄実定や太皇太后宮亮平経盛の歌があっても良い筈であるが、それらしい歌がない。従って、小侍従が病気をし西行が見舞ったのは、実定や経盛らの知遇を受ける前、小侍従が応保二年(一一六二)四十二才で太皇太后多子に出仕する以前の事ではないか。また、永暦元年(一一六〇)九月夫伊実薨去ののち源頼政と懇意となったが、源頼政の見舞いの歌が無いので、西行が見舞った件の病は永暦元年(一一六〇)小侍従四十才以前ではないか。
『山家集』(九二二〜三)の歌に「院の小侍従、例ならぬ事、大事にふししづみてとし月へにけり」とあるように、小侍従が少なくとも一年数か月患っていたとすれば、小侍従の生涯にそれだけの空白期間があるはずである。小侍従の人生の空白期間を挙げると次のようである。
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(一)小侍従が二条天皇に出仕した永暦元年(一一六〇)四十才の春以前。西行の歌に「院の小侍従」とあり、『三百六十番歌合』の目録に「小侍従十八首・後白河院女房」とあることなど、小侍従は後白河院にお仕えしたことがあると思われるが、院が御在位中及び御譲位ののち、小侍従が院にお仕えしたことは立証しえない。小侍従の史料が最も多い時代であるにかかわらず、である。おそらく後白河院が雅仁親王と申し上げたころお仕えしていたのではないか。小侍従が後白河院が御位におわしました時、後白河天皇にお仕えした小侍従に、如何に御譲位ののちとはいえ、公能が娘太皇太后多子の為に二条天皇へ出仕させることは不可能であろう。従って小侍従が後白河院にお仕えしたとすれば、雅仁親王時代ではないか。先に別の章で、花園左大臣源有仁の養女懿子に、小侍従が仕えていたのではないかと推測した。角田文衛『椒庭秘抄』(朝日新聞社)に、懿子は保延五年(一一三九)ころ雅仁親王の添臥して参上されたのではないか、としておられる。懿子は王子(のちの二条天皇)を生んで薨去した。小侍従は懿子に続いて雅仁親王にお仕えし、すでに紹介した『古今著聞集』に後白河天皇(雅仁親王時代と考える)の寵愛を受けたとあり、そののち西行の歌にあるごとく「院の小侍従、例ならぬ事大事にふししづみて、とし月へにけり」という事があつたのではないか。西行が『山家集』を編んだときは後白河院の院政時代であり、嘗て雅仁親王に仕えていた小侍従と交わした歌を収録するにあたり、その詞書に小侍従を「院の小侍従」と記載することは不審ではない。
(二)応保二年(一一六二)始め、太皇太后宮御所へ出仕してのち、長寛二年(一一六四)まで、小侍従四十二才から四十四才までの三年ほど。この三年は小侍従の事跡は残されていないが、『頼政集』によると、小侍従と源頼政の恋愛が開花し、やがて縁遠くなってゆく。永万元年(一一六五)頃には阿波守平忠度との浮き名がたつ。二条天皇は永万元年(一一六五)七月二十八日崩御。
(三)仁安二年(一一六七)四十七才の冬より、嘉応二年(一一七〇)十月九日五十才で『住吉社歌合』に参加するまでの二年余り。この頃小侍従は太皇太后多子に仕えていた。西行の詞書に「院の小侍従」とあるのと合わない。『山家集』で「院」と申し上げるのは後白河院である。
(四)承安元年(一一七一)五十一才の一年。この年、小侍従は美濃国にくだっていたと考える。
(五)すでに述べたように、小侍従は治承二年(一一七八)三月十五日上賀茂社神主重保により歌人六十人を集めて行なわれた『別雷社歌合』に参加していない。同年閏六月二十一日の九条兼実による『右大臣家歌合』、八月に顕昭を判者として歌人二十二名により行なわれた『廿二番歌合』にも参加していないので、このころ数か月患っていたと考える。高倉天皇にお仕えしていたころである。この病気により小侍従は自分の年齢をも考慮し、翌年治承三年(一一七九)出家隠棲を決意するに至ったのではないか。然し、病気の期間は長くて数か月である。このことは『山家集』の「院の小侍従、例ならぬ事大事にふししづみて、とし月へにけり」とある状況とは一致しない。西行の歌にある小侍従の病はこの時ではない。
(六)寿永元年(一一八二)夏、寿永百首たる『小侍従集』を上賀茂社に奉納してのち西行入滅の文治六年(一一九〇)二月十六日までの間、小侍従の消息不明。治承四年(一一八〇)ころまでの歌が『山家集』に編まれているとの説に従うと、小侍従の病気の時期は治承四年(一一八〇)以前と考えられるので、本項の期間は対象にはならない。
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以上により、小侍従が病み西行が見舞ったのは、後白河院が親王であらせられた頃の事と考える。
五、西行の死と小侍従の哀傷歌。
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『吾妻鏡』文治二年(一一八六)八月十五日条によれば、当日西行は東大寺再建勧進のため、血縁のある奥州藤原秀衡の地へ下る途中、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣したところ、折から参拝にきた源頼朝と会い、和歌・弓馬の道に就いて一夜語りあうこととなった。西行は「詠歌は花月に対し、動感の折節、僅かに三十一文字を作る許りなり。全く奥旨を知らず」と答えた。「弓馬の事に於てはつぶさに之を申す。即ち俊兼をしてその詞を記し置かしめ給ふ。」とあり、翌日源頼朝の贈った銀で作った猫の置物を門外で遊んでいた嬰児に与えて西行は去ったという。この四年のち、西行は兼ねての次の歌の如く、河内国弘川寺において文治六年(一一九〇)二月十六日その生を終った。
『山家集』(七七)より。
釈迦の入滅は二月十五日であった。この頃入滅したいとの歌である。
西行の死を傷んだ哀傷歌を藤原定家の『拾遺愚草』(二八〇九〜一〇)より。
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建久元年二月十六日、西行上人身まかりにけるを、をはりみ
だれざりけるよしききて、三位中将のもとへ 藤原定家 |
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もち月の比はたかはぬ空なれどきえけむ雲の行へかなしな |
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上人先年詠云、ねかはくは花のしたにて春しなんその
きさらぎのもち月のころ、 今年十六日望月也 |
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紫の色ときくにぞなぐさむるきえけん雲はかなしけれども |
この年二月十六日は「今年十六日望月也。」とあり、西行は兼ねての願いのごとく、まさに望月の日に生を終えた。当時の「長慶宣明暦」は、西暦八二二年に唐の徐昂の撰した太陰暦『長慶宣明暦経』を貞観元年(八五九)渤海使が献上し、貞観四年(八六二)より我が国にて採用、以来「貞享暦」にかわるまで八二三年間用いられたが、閏月を設けて調整を要するなど不備な点があった。このため、『広辞苑』に望月は「陰暦十五夜の満月」とあるが、かならずしも十五夜でないこともあつた。
俊成の『長秋詠藻』(六五一〜二)より、
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円位ひじり歌共を伊勢内宮の歌合とて判うけ侍りし後、又同外宮の歌合とて、思ふ心あり、新少将にかならず判してと申しければ、しるしつけて侍りけるほどに、其年[去年文治五年]河内ひろかはといふ山寺にてわづらふことありと聞きていそぎつかはしたりしかば、かぎりなくよろこび、つかはして後すこしよろしとて、年のはて比京にのぼりたりと申ししほどに、二月十六日になんかくれ侍りける、彼上人先年にさくらの歌おほくよみける中 |
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かくよみたりしををかしく見給へしほどに、つひにきさらぎの十六日望の日をはりとげけることいとあはれにありがたくおぼえて物にかきつけ侍る |
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ねがひおきし花のしたにてをはりけりはちすの上もたがはざるらん |
慈円『拾玉集』(五一五八〜五一六〇)より、
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文治六年二月十六日未時、円位上人入滅臨終などまことにめでたく存生にふるまひおもはれたりしに更にたがはず、世のすゑに有りがたきよしなん申しあひけり、其後よみおきたりし歌ども思ひつづけて寂蓮入道の許へ申し侍りし |
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君しるやそのきさらぎといひおきてことばにおへる人の後の世
風になびくふじのけぶりにたぐひにし人の行へは空にしられて
ちはやぶる神にたむくるもしほ草かきあつめつつみるぞかなしき |
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これは、ねがはくは花の下にてわれしなんそのきさらぎのもち月のころ、とよみおきて其にたがはぬ事を世にもあはれがりけり、又、風になびくふじのけぶりの空にきえて行へもしらぬわが思ひかな、もこの二三年の程によみたり、これぞわが第一の自嘆歌と申しし事を思ふなるべし、又諸社十二巻の歌合太神宮にまゐらせんといとなみしをうけとりてさたし侍りき、外宮のは一筆にかきてすでに見せ申してき、内宮のは時の手書共にかかせむとて料紙などさたすることをおもひてかく三首はよめるなり |
『三百六十番歌合』(八六)の次の小侍従の歌は、この頃詠まれた西行の死を悼む哀傷歌と考える。
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ちらぬまはいざこのもとに旅寝して花になれにしみとも偲ばむ |
文治六年(一一九〇)は四月十一日改元し建久元年となった。小侍従はこのとき七十才。『三百六十番歌合』は、真名序に「于時聖暦庚申涼秋巳酉」とあり、歴史年表によるに、「庚申」の年は正治二年(一二〇〇)である。この年の「涼秋巳酉」秋七・八・九月の三か月の「巳酉」の日が、真名序成立の日である。『明月記』は干支の記載が少ないが、たまたま正治二年(一二〇〇)七月一日の干支が「乙卯」(きのとう)と記載されている。この日を第一日とすると、「巳酉」は第五十四日目となり、八月二十六日となる。次の「巳酉」は六十日後となるので冬となる。「涼秋巳酉」は八月二十六日しかないので、これにより正治二年(一二〇〇)八月二十六日に真名序が成立したとされるが、全部完成したのは翌年三月以降といわれる。
これに撰ばれた小侍従の歌十八首の内、『正治二年初度百首』から十一首、永万元年(一一六五)成立した『続詞花和歌集』から一首、安元元年(一一七五)十月十日の『右大臣家歌合』から一首など過去の歌が入っているので、昔詠まれた西行への弔歌があっても不思議ではない。
西行の死、しかも予ての歌の願いの如く「如月の望月」に入滅したことは、聞くものに大きな感動を与え、多くの人々が弔歌を捧げた。俊成、慈円、定家と三位中将公衡の贈答歌、後京極良経と定家の贈答歌などがそれであるが、小侍従も病床を見舞ってくれた西行を偲び、前記の歌を捧げた。
2008.4.19
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