1989年、日本青年会議所の副会頭をしていた時に担当していた日ソ関係特別委員会の活動で私自身が体験した北方領土返還に向けての活動を記した当時のレポ−トを掲載します。
お読みいただき、お一人でも多くの皆さんに北方領土問題の一側面にお触れいただければ幸いです。
※文中の秋野豊先生は '98年7月20日、国連の職務遂行中に滞在先のタジキスタン共和国でテロに遭遇され殉死されました。
1989年度日本青年会議所日ソ関係特別委員会報告書「新たなる日ソ交流を目指して」より「合意書締結まで・副会頭 岩倉博文」
不安の日々が続く。 4月上旬、KMOチェルノコフ議長一行来日の際、当初JC訪ソ団の日程が4月末を予定していたところ、KMOのたっての希望で一カ月延ばし、5月30日〜6月5日までという日程にし、JC、KMOサミット(JC会館で開催)の席上でしっかりと確認、日程詳細についてKMOから早急に連絡するとの約束をしたにも係わらず、5月20日(出発10日前)になっても連絡なし。
会頭以下、一行24名の渡航手続は全て完了、後は日程の確認だけである。
大使館経由或いは、直接コンタクトしても連絡が取れない。
5月22日、訪ソ団アドバイザーとして同行願う筑波大の秋野教授と、打合せのためJC会館に午後3時頃行くと、同日大使館から連絡あり、KMOからさらに日程を延ばしてくれとの要請が入り、石井委員長が大使館に行っているとの事である。
4時を過ぎて、石井君が帰ってきた。 大使館で説明を聞き、返答を保留にしてある。
対応協議の結果、JCとしては受け入れられない、予定通りの対応を期待し、もし出来ない場合はKMOとの交流を白紙に戻したいとの方針を立てる。
尚、訪ソにあたっては、ゴルバチョフ、ヤコブレフ、シュワルナゼ、ミロニェンコ、プリマコフの内2〜3名の訪問ついてセットする事を改めて要望する。 という返答を大使館経由で伝えた。
翌日、横浜で正副会頭会議があり、大使館からの返答を待っていたがなかなか来ない。
専務には状況を伝えてあるものの、会頭には説明していなかった。
もし、最終的に“NO”だった場合、どうしようかという事を考えながら正副に出ていた。
夕方、石井君からやっと連絡が入り「予定通り来られたし!!」ホッとすると同時に頭にもくる。
KMOの延期要請の理由は人民代議員大会が長引く恐れがあり、政府要人への訪問が難しいという理由であった。
この日が出発7日前、行く事が決まったとはいえ不安は残る。
今回の訪ソは、名称変更した日ソ関係特別委員会の言わば柱となる事業であり、KMOとの交流に係わる合意書締結がその主なる目的である。
20年間継続してきた北方領土返還運動、日ソ両国間を取り巻く環境が大きく変化するなかで、“返還を要求する運動”と共に“返還させる環境を創る行動”が大切でありグローバルな視点から北方領土問題を捕らえようとした '89年度の展開は、その切り口をKMOとの交流を前提とした交流基盤の確立を目指したものである。
もう一つの側面は、我々自体がソ連との交流を通して新ためて北方領土問題を認識することが出来るのではないかという点であった。
この事については、4月のKMO訪日団受け入れ事業によって係わったメンバーが実感した事である。
ソ連を“知る”事を通して北方領土問題の認識を再確認したわけである。
5月30日、成田空港北ウィングVIPルーム。
この時点でも確かな日程がわからない。 万が一、KMOが日程をセットしていない事もあるかもしれないという事で、数週間前にエージェント経由インツーリスト(ソ連へ入国する人の殆どは、この組織の世話になる)に手配し、ホテルの予約、国内のフライト(仮の日程を立てた)予約をしていた。
出発前日、大使館に確認したところKMOのメンバーが迎えに出ているとの連絡、外務省ソ連課からは在モスクワ日本大使館から出迎えに行くとの連絡が入った。
モスクワに着いたら何とかなるだろう程度で成田を出発。
12:00PM発アエロフロートSU576便、ジャンボの1/3程度のIL86型機は離陸した。
会頭以下24名の訪ソ団である。
5月30日、現地時間午後4時30分(時差5時間)モスクワシェレメチボ国際空港に到着。
飛行機から出てすぐのところにアンドレイ・ルイコフ(コムソモール国際部アジア担当員・東海大学留学経験あり)他2〜3名がいて、会頭以下5名は別行動をとり、他の団員は通常のルートを行くように言われた。
会頭・専務・石井・秋野(アドバイザー)そして私の5名は、係員にパスポートを預け、VIP専用待合室に案内される。
ここに、パンチョヒン(コムソモール国際部副部長、昨年の12月日青協の招待で来日しJC会館にも来たが、その時はKMO副議長の肩書だった。)がいて我々を迎えてくれた。
聞くと、つい最近KMOからコムソモール国際部に移ったとの事である。
彼から、4月に来日したKMOのチェルノコフは議長をやめたと聞く。
KMOの議長は不在で副議長が代行をしているとの事。
又、日程について概略説明を受けたが、ここで最初の問題に出くわした。
KMOでもホテル、国内のフライト全て予約済との事なのだ。
インツーリストでも予約していて、両者お互いにまったく横の調整をしていない。
最初、ソ連の旅行システムが全くわからなかったので、取敢えずインツーリストが予約していたコスモスホテル(市内一流ホテル)に行く事にした。
VIP扱い5名はKMOの車、他の団員はインツーリスト手配のバスである。
ホテルチェックイン後、パンチョヒンとインツーリストのガイド兼通訳の女性エリナを私の室に呼び、石井君以下委員会担当者、秋野先生にも入ってもらって、日程の調整をする。
結果、モスクワ滞在時のホテルはインツーリスト、グルジア共和国までの往復フライトと宿泊はKMO、東京までの便はインツーリストと決めた。
もう一つ問題が出てきた。 インツーリストには、5月30日〜6月5日という日程つまりモスクワを4日の夜発つ便で帰ると伝えてあったため、4日の便を手配してあったが、KMOは6月5日にモスクワを発つ日程を組んでいたのだ。
5日にロガチョフ外務次官のアポイントがあるとの事。
この問題だけは結論を延ばした。
この時期、ソ連では初めて選挙で選ばれた人民代議員大会が開催されており、テレビは朝から晩まで生中継をしていた。
政府に対し、主に内政問題での質問が相次ぎ、大幅に会期が延びそうである。
ペレストロイカによるシステムのつくり変えも予想以上に激しい反応のようだ。
政府要人への訪問の件もあり、何人かの人に「いつ終わるのか?」と聞いても「それは誰にもわからない」と答える。
パンチョヒンも大会が終らないとセットは難しいと言う。
5月31日(滞在2日目)コムソモール国際部長シュラブレフを訪問。
偶然にも会頭が大阪JC理事長時代開催したシンポジウムに来日した経験があり、当時は別の肩
書だったが話が弾んだ。
ここでどうもおかしいなと気になり始めた。 飛行場の出迎えもパンチョヒン、最初の訪問がコムソモール、KMO議長代行への訪問は6月1日との事。
しかし、アテンドはKMOの費用でやっている様子。
元々、KMOを構成する団体の中でコムソモールが最大のパワーとは認識していたもののKMOとコムソモールの関係が今一つはっきりしなかった。
で、シュラブレフとの会談でその点をはっきりさせた。
従来、KMOは西側諸国の青年団体との対応窓口、コムソモール国際部が東側の窓口だった。
しかし、ペレストロイカの一環で青年団体の役割に変化が出てきた。
コムソモール国際部が従来の窓口に加えて、西側の窓口もするようになり、KMOもそのまま存続、その他国際交流のための青年団体の設立も予定されているという事であった。
力関係から言うと、コムソモール第1書記とKMO議長とでは大企業の社長と課長程の差がありそうだ。
シュラブレフ国際部長との話し合いで、コムソモールも直接JCと交流の意思があり、しかも強く望んでいるような気配である。
そこで3つのケース、1.KMOが窓口で実質的にもKMOと交流する。
2.KMOを窓口にして実質的にはコムソモールと交流する。
3.コムソモールを窓口にして実質的に交流する。
を出し選択を迫った。
結果、いろいろな議論の後、bRでいこう。
但し、JCとKMO、コムソモール3者で合意書にサインをする事になった。
この時、KMOの議長代行はいないわけだから実質的にはKMOはコムソモールの影響下にあるようだ。
この会談にコンドウヤコフKMO議長補佐官(4月来日)がオブザーバー席にいた。
終了後、私のところに来て「本当にコムソモールとサインをして問題がないのか!!」とビックリした表情で聞きに来た。
その時、パンチョヒンが英語でタイプした合意書案を私に渡す。
「これは、日本JCが作った原案を英語にしたものか?」と聞くと、「そうだ!!」との事。
又、同日人民代議員大会が終った後、ミロニェンコ(コムソモール第1書記、彼は代議員である)とセットするので、その時サインしようと提案があり諒解した。
で、英語版を確認した上で返答すると伝える。
早速、秋野先生にチェックしてもらい3個所(会頭が1個所文言を訂正)変更(全部単語の変更)し、前文の「北方領土問題の存在を確認した上で〜」という項目を再確認し、石井・伊東・秋野先生がコムソモール国際部に行く。
数時間後、伊東君から電話があり「OK」との事。
すぐ、日本大使館へ行きワープロで日本語版を仕上げるという連絡が入る。
実は、日本から合意書タイプ(日本語版)を持ってきていたのだが、それが不備だったのである。
ミロニェンコ第1書記のアポイントが午後8時と決まり、会頭以下8名編成のA班で出向く予定であった。
午後6時、夕食のためコスモスホテルのロビーに行く。
石井君たちはまだ大使館から帰っていない。 ルイコフが顔色を変えてロビーに来た。
「大問題発生だ!!」合意書前文にある“北方領土〜”の項目を変更して欲しいと言うのだ。
コムソモールの変更案をパンチョヒンのメモで持ってきた。
“国境確定の必要性があり・・・・・”という文言に変わっている。
こちらも頭に来た。 東京でのサミットで日本JC案を提案し、KMOも諒解、その時渡した案を先方
が英語版を作り、今日の昼、我々に渡した当日なのに・・・・。
会頭に報告し、ルイコフでは話にならないので、セクレタリーの阿部君を連れてパンチョヒンの部室に行った。
午後7時、1時間後にミロニェンコと会頭が会い、サインする予定なのだ!!
あと1時間しかない。 パンチョヒンとの話し合いに入った。
彼曰く「北方領土問題というのは日本にしか存在しない問題だ。 我々にはそのような問題はない。 只、国境画定の必要性は認める。 同じ意味なのだから諒解して欲しい」という内容だ。
いきなり核心に入ってきた。
私は、問題を話し合う前に今回のコムソモールの対応つまりKMOの議長が来日して議論してからの経緯から言って考えられない事だ。
この事についてどう思っているのかと正した。 なかなか答えない。
しかも今日の午後3時、コムソモール作成の英語版について我々が3個所を訂正し、それをコムソモールが了解した後3時間の間の出来事である。
我々としては「考えられない事だ」と言い続けた。 漸く、パンチョヒンも詫びた。
だが、内容については何とか諒解して欲しいと言う。
JCとしても、これを認めたら何のために来たのかわからなくなってしまう基本的な問題である。
既に8時が来た。 合意書のサインを延期する事を確認し、明日午前10時から話し合いをする事にした。
コムソモール第1書記ミロニェンコ訪問のため、パンチョヒンの部屋を出る。
石井・伊東・秋野先生と合流し、会頭・専務・木村セクレタリーが少し遅れて来た。
ミロニェンコ第1書記は、なかなかの人材だった。
部屋も立派で机の横に専用電話が6つ程ある。
後で37才と聞いたが、45〜6の感じがした。
会頭との間で、国際関係ソ連の国内問題、交流について話題になる。中国情勢、ホメイニの死去、宇野総理の誕生、ソ連の列車事故の件もこの時ミロニェンコから聞いた。
会頭から北方領土問題についても話をした。
直前まで合意書の内容について結論を出せないでいるわけだが、ミロニェンコは好意的な返答をした。
秋野先生の話では、コムソモール第1書記はソ連の要人ベスト30に入るとの事であった。
只、パンチョヒンから詳細な説明を受けていなかったため北方領土問題の話題にあまり入ってこなかった。(ミロニェンコとは4日にも会う事になる。)
6月1日(滞在3日目)午前10時パンチョヒンの部屋に行く。
私と秋野先生・石井伊東両君がテーブルにつく。 他6名のメンバーが回りにいた。
話し合いが始まる。
前日と同様、一連の経過を説明し合意書締結2時間前に変更を申し出たコムソモールの対応はどういう事なのかという問題からスタートした。
今日は割りとすんなり非を詫びた。 いよいよ本論。
パンチョヒンは、ソ連外務省が公式に表現している枠を超えることは出来ないと主張した。
こちらは“我々にとって北方領土問題は政治レベルの問題ではなく国民の総意であり、そのために20年間運動して来た”“我々は日本政府とは関係のない存在であり、政府間レベルの話とはちがう”等々あらゆる角度から応酬するもパンチョヒンはなかなか諒解しない。
秋野先生にアドバイスをもらい、最初の譲歩案“北方領土問題”を“北方領土をめぐる問題”ではどうかと提案する。
先生から“北方領土をめぐる問題”“北方領土をめぐる状況”ならいいが、“いわゆる北方領土問題”は絶対駄目だとレクチャーを受けた。
又、北方領土問題のみが日ソ平和条約締結を阻害しているのであるという日本の主張に対し、“のみ”を認めないがソ連主張のポイントでもあった。
午後12時10分、食事にしようと提案、10名で近くのレストランに入りピザを食べる。
午後1時10分再開。午後からは、コムソモールとの合意書締結を白紙に戻してKMOとだけならどうかという提案をしてみた。
実質的にコムソモールと交流し、合意書はKMOとする。
つまり前日の“bQ”のパターンだ。
KMOであればソ連共産党の下部組織ではない筈だから。
パンチョヒンは何とかコムソモールが直接サインしたいようだ2時30分からKMO議長代行のザイツェフ副議長と会頭との会談がある。 会頭が来る前に結論を出したい。
パンチョヒンの部屋はコムソモール国際部のビルにあり同じ建物にKMOの事務所があるので、会頭一行もここに来る予定になっている。
「JCとコムソモールの合意は無理だから、日本の他の団体、社青同や公明党青年部と仲良くしてくれ!!」(捨てゼリフ)
「グラスノスチが進んで人民代議員大会でも民主化が進んでいるのにコムソモールは何なんだ!!」
色々な言葉を応酬したがなかなか合意できない。
何しろ“北方領土”という言葉を絶対に入れたくない側と、絶対に入れたい側、パンチョヒンは直接外務省と連絡を取りながら進めている。
ここまできたらKMOとだけの合意書でも原案では駄目だ。
2時30分になり、KMOとの会談の間一時中断する事にした。
メンバーに先に出てもらいパンチョヒンと2人だけにしてもらって次の事を提案した。
「もし、今回のコムソモールの対応の非について文章で詫状を日本JCに出すのであれば譲歩案を話し合い再開後提案する。
又、最悪の場合、前文で両者の主張を並記し、その相違点を前提として交流するという考え方について検討せよ」というものである。
譲歩案は秋野先生が前日用意してあるもので(資料参照)北方領土問題という言葉は入らないものの政治的には意味のある内容である。
パンチョヒンは「わかった」と言った。
KMOのザイツェフ議長代行と会頭との会談が始まった。
会頭からコムソモールとの話し合いの内容つまり合意書にコムソモールも入る件について説明、彼も了解。
いろいろな意見交換があった。
合意書の内容について議論している事についてザイツェフはあまり知らされていないようだった。
ここにも、チェルノコフは来なかった。
聞くと最高会議の国際部で働いていて忙しいとの事だ。
顔くらい出せばいいのにと思った。
会頭始め他のメンバーはホテルに戻り、ドビリシ行の準備をする。
午後3時15分パンチョヒンとの交渉再開。 私と秋野先生・石井・伊東の4名だけ残る。
いきなり、パンチョヒンから並記の原稿が出される。
内容はポイントをついているがコムソモールの主張部分に比べ、日本JC主張部分があまりにも短い。
秋野先生からボリュームもイーブンにすべきだとアドバイス。
先生にすぐ原稿を作ってもらい提出。
今度は日本JC主張部分がかなり長くなった。
石井君から並記を諒解する前に前述の譲歩案を先に出した方が良いのではないかとの意見が出た。
私自身は、いくら政治的に意味があっても北方領土という4文字が記述されていない前文には気が乗らなかったし、並記であれば日本JCの主張が充分出せる。
北方領土問題という言葉も出せるので並記の方が良いと思った。
しかも、詫状についてパンチョヒンから返答がない。
先生の意見も聞き並記でいく事にした訳だが、日本JC主張部分が長くなった後、パンチョヒンからクレームがついた。
コムソモール主張部分では現実の状況について考え方を主張しているだけなのに日本JC主張部分にはそれに加えて意志が入っているという事だ。
この件で暫く応酬した後、パンチョヒンがまた原稿を書き直し、ボリュームもだいたい同じくなった。
午後6時だ。 ここからまっすぐ飛行場へ行かなければもう間に合わない。
最終確認のためロシア語でタイプアップを求め10分間くらいで出てきた。
先生に確認してもらい、計11時間にわたる話し合いは終わり合意に至った。
4日に締結する事を確認、パンチョヒンと握手、あとは会頭の最終決断だけだ。
午後6時35分、グルジア共和国ドビリシに発つためコムソモールを出発、飛行場で会頭に説明、メンバーの意見も聞き、会頭の最終の決断を得る。
モスクワに一週間以上もいるような気がした3日間であった。
石井委員長・伊東副委員長もグッタリした表情。
よくやってくれたし、秋野先生に同行してもらって本当に良かったとつくづく感じた次第である。
6月4日(滞在6日目)午後2時、ミロニェンコ第1書記の部室での合意書締結、会頭、ミロニェンコ・ザイツェフによって和文2通・ロシア語2通計4通に署名、訪ソ団全員がこれを確認、合意書締結が無事終わった。
又、この席上会頭よりミロニェンコに訪日を正式に要請。
彼は、快諾した。
'89年度は難しいが、来年はコムソモール第1書記が日本JCの招待で初めて来日することであろう。
6月4日は日曜日にもかかわらず、日本大使館を開けてもらい日本語版を打ち直すことになったが秋野先生(以前に日本大使館に2年程いた)のお陰であり、本来なら日本語版を作れなかったところであった。
苦労して締結した合意書、楽しくも長い7日間であった。
岩倉博文
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