若き日の20代の日記より
[美しき虚像論の]
何かに、いやそれ自体に、そこに奥深い安らかな充足が、あるかと・・・・
もうそれ自体が 夢想である。これからのことに、行動に体ごとぶつけて進めているのだ。自らの無意識的行動に他の人の伴に行動の人を求む、それ以外の人を、さけて歩くようなきがするのだ。
ギ・ベルナールが 語る鋭い感覚のモード思想。
「人はその現実に満足してはならない」
真から充足を感じる人は、少ないだろう
心のどこかで不平不満が、つのっているのだろう。がそれをどうすれば良いのか、あまり考えずに、その自分なりの出来事にとけて・・・・・なる様になってしまうのだ。
「常に一歩さきを目指すべきである」 しかしそれがなり得ない事を何気なく感じて、幾年たってもならない時、そんな法則を知りそれに従って物事をやっていると、心のどこかに淋しさがわくだろう。
「誰でもある地位ににつけば、その地位にふさわしい風格が備わってくるように、今は確かに虚像であったとしても、やがてはその虚像があなた自身になる時がくるであろう。それが地位ばかりでなく、どのようなものになるかは、あなた自身にかかっいる」
「大切なことはまず、その虚像を描くこと、理想像を描き、それに接近しようと努力することである」
勝手に詩情豊かにとき、山へあしをむけるが、登り始めると、何の為に くらだない事の為につやして良いものか? またこんなに疲れさせてまでも、迎えてくれるもの そんなものは・・・・・
一つの分枝点に、自然と社会そして文化そこにあらゆるものを結びつけた。しかし限りなく盲目しか浮かばない。しかしそれでは満足しない、なおあせりだしてしまう。自分に今ここに存在を認識するものは、自然と人生である。
あらゆるものに、終着しないように 無言の思考のうちに、たどり着かなければならない。望みの忍耐に疑惑をいだき、いつ時に悦びを見いだそうとする。
それは自分にとって 哀しみの震えから、のがれようとするほかならない。
いつか晴れやかな自分自身の思想、それをつかみたい。誇りのもてる自分の道、今はまだ自分の過去を追い、やっとついて行ける様になったところである。
いつまでたっても、そんなことをやっていると馬鹿に、自分自身が滑稽にさに、たんなる人間性、像の夢のロボットに見えてくる。
そういう状態から、そうならない様に思いはかる。他人が自分を見れば、おかしなわからない、何を考えているのかと思われるであろう。自分自身さえよく分からないのだ。まして他人の心が分かるだろうか。どだい無理なことなのだ。それなのに、他人が他人の人の事が分かると言ったって、たかが知れていると思う。
そうまず自分とは?どう思い生活をすれば、本望だろうか?
和やかに仕事、恋、レジャー 何をやっても、真の心のどこかに思うもの、限りない盲目、いつもやるせない哀しく激しく波うち言葉がかすれてしまう。他の人はそんな瞳をどう見るだろうか。
「お前の目は、なぜそんな目をするのだ。お前が怖くなってくる。もっと・・・その目何とかしろ」
「いやらしい目ね」
自分もその人も、誠に哀しく思う。自分は、それから逃れる事は、出来ないのだ。そして年とともに人間、自然の法則に、それに苦しむ。一人で生きるには難しすぎる。何とかしなければと、あくせくしたあげく、何かを得る。
得ても何の糧にもならないが、自分に少しは、何かが変わった。何かを得たと、自分に思いこませて、満足するだけだ。自分は何をすれば真に、充足感を感じるのだろうか。人間において二番目にくる最も最大なもの、真にセックスだろうか。動物に与えられた二大欲、人間男であるなら、女体に夢中になるだろう。自分にとってもさけられないものである。がただたんにセックスだけで 男と女が結ばれて良いものか。まさにフリーセクスだけである。快楽が人生のメカニズムだろうか。
それ以外に、何を求め、何を満たしたら良いのだろうか?
自分での意識が難しい、が それが山に関わらず何らかの思想、要求の答えがいつか出るであろう。
夢ははかなく
後悔のみ残りし
石仏に願いをこめて
何を祈るのか
黙っていても日々は
過ぎ去るなり
山の頂きに立てば
過去を忘れて
現実の歓びが宿る
