水 蜜 桃 綺 談

  正慶二年(一三三三年)五月二十一日、鎌倉幕府十四代執権であった得宗の北条高時が天皇方の坂東武者新田義貞らとの鎌倉攻防戦に敗れ、東勝寺で自刃した。従う北条家恩顧の御家人数百人も得宗の後を追い鎌倉幕府は名実ともに滅亡した。
  建武二年、中先代の乱(一三三五年、高時の遺子時行が、北条氏の再興をめざし建武新政府に背いた兵乱)の討伐に東下した足利尊氏が、新田義貞誅伐を奉上して叛乱に転じ、建武三年(一三三六年)正月京都に入った。
  大江田氏経は十九才の若武者であったが、脇屋義助(新田義貞の弟)の配下として天皇方につき、箱根をはじめ各地で謀叛した足利尊氏の軍勢と戦った。建武三年二月十日から二月十一日の二日間にわたる摂津打出・西宮浜・豊島河原の戦で天皇方の北畠顕家に敗れた足利尊氏は翌二月十二日夜陰に乗じて兵庫の港から海路九州へ逃げた。大江田氏経は新田義貞軍の先鋒隊として陸路、取り残された足利尊氏軍を攻めたて、備前船坂(三石)まで追い詰め大勝した。
「長船村の垂光を呼んでくれ」
  兵達に食事をとらせた後、大勝に機嫌を良くした大江田氏経は言った。京都を発つとき集めた兵糧運搬の人足達のなかに備前長船村へ帰りたいという刀鍛冶がいることを思いだしたのである。



「お呼びでございますか」
と鳥帽子を被り筒袖を着て括り袴に脚半を巻いた旅支度の若い男が畏まった。
「備前長船はここからいくらもないであろう。お主はこれから師匠の許へ帰るところであったな」
「はい。左様でございます。京からの道中お蔭様を持ちまして恙なくここまで帰ってくることが出来ました。これも一重に大江田様の軍勢の中に加えて頂けたお蔭でございますどうもありがとうございました」
と垂光と呼ばれた若い男が言った。
「お主と知り合ったのもなにかの縁。お主の鍛えた刀が欲しい。長船へ帰ったら一振り鍛えては呉れまいか」
「有り難いことでございます。垂光帰省後の初仕事でございます。心魂込めて鍛えさせていただきます」
「我等は備中福山城を必ず攻め落とすから出来あがったら、福山城へ届けて呉れ」
「はい。福山城は私が幼い頃修業したことのあるお寺でございますのでお易い御用でございます」
「そうか。それはまた奇縁じゃのう」
  三石城に入って兵の疲れを癒したのち、大江田氏経は勢いに乗って更に進軍して備中の豪族荘常陸兼祐が拠る備中福山城を窺っていた。





  延元元年、建武三年三月(一三三六年)梅の花がそちこちに咲きはじめた頃、都から遠く離れたここ備中の国山手村にも、鎌倉幕府滅亡と建武の新政混乱の噂はいつとはなしに広まり、福山城で戦が始まろうとしている気配に民百姓は末世が近付いたと恐れおののいていた。十日毎に開かれる市に集まってきた人々は、物を購うこともさりながら、近くまた戦が始まるのかどうかを確かめたがっていた。
「鎌倉では、北条高時様が自刃なされ、御家来衆も何百人と切腹されたそうじゃ」
「おお、怖しやのう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「都では火付け、強盗がぎょうさん出て、都大路は死人で埋もれているそうじゃ」
「あな、おそろしや。末法じゃ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「幕府は御醍醐帝を隠岐へ島流しにしんさったんでその罰があたって滅んだのじゃろうよ」
「まこと罰当たりなことよ。尊氏も帝に弓引いて、罰が当たり帝との戦に負けて九州まで逃げたそうな」
「その尊氏が九州から攻め上がってくるそうじゃ」
「それもそうじゃが、お館様が福山寺に砦を築いて戦の準備を始められたそうじゃ」「お館様は天皇方と足利方とどちらにお味方なさるのじゃろうかのう」
「幸山城のお館様の所へは天皇方からの使者が来たそうな」
「天皇方の軍勢は船坂山を越えてこちらへ向かって来ているらしいぞ」
「荘氏は源氏の系統じゃから足利に加勢しますらぁ。見ててごらんなせぇ」
「そうじゃろうか。そんなら福山城の兼祐様も幸山城の左衞門次郎様も一緒になって天皇方と戦うんじゃな」
「天皇様の軍と戦うちゅうことは逆賊になるということじゃな。嘆かわしいことよ」「また戦じゃ。恐ろしいことじゃのう」
  村人達が、噂話をしているところへ、鳥帽子を被り筒袖を着て括り袴に脚半を巻いたごく普通の身なりの若者が現れた。変わっているところは蛇を首に巻き数珠を手にしていることであった。歳の頃は十七、八だが、鼻筋の通った顔には意志の強そうな眼が座っていた。眼光鋭くあたりを見廻しながら群れの中に入ってきた。
            



「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。皆の衆、南無妙法蓮華経じゃ、このお題目さえ唱えていれば救われるのじゃ」
とあたりの村人達の顔の中を一人一人覗きこむようにしながら重みのある声で言った。「南無阿弥陀仏。あなおそろしや、蛇ではないか」
最初に覗きこまれた老人があとじさりしながら言うと、群衆は蛇に怖じ気づいて若者から離れ、取り囲む形になった。
「お主、もしかして蛇丸様じゃぁありませんかのう」
と首をかしげながら問いかける白髪頭の太った女をその若い男は無視した。
「南無阿弥陀仏はお止めんせぇ。罰があたるぞな。南無妙法連華経こそが末法を救って下さるお題目なのじゃ」
と若者を取り囲んだ群衆の眼を一人一人順番に見据えながら南無妙法連華経を数回唱えた。
「なんじゃと。もっとゆっくりもういっぺん言うてつかぁさらんかのう」
信心深そうな中年の男が前歯の欠けた口をもぐもぐさせながら言った。
「何度でも唱えますらぁ。南・無・妙・法・連・華・経・・・南・無・妙・法・連・華経・・・南・無・妙・法・連・華・経じゃ」
「南無妙法連華経とははじめて聞くお題目じゃのう。わしらぁ、南無阿弥陀仏しか教えられておりませんけぇのう」
隣の杖をついた老人が前歯の欠けた中年の男の後をとって言った。
「そうじゃ。南無阿弥陀仏は美作から出られた偉いお上人様が広められたのじゃ。どねぇ名前じゃったかのう忘れてしもうたが」
と前歯の欠けた中年の男が続けた。
「栄西禅師じゃろうが」
杖をついた老人が言うと
「そりゃぁ間違うとりますがなぁ。栄西禅師はお茶を広められた坊さんでわしら、百姓には縁もゆかりもない偉いお上人様じゃ。南無阿弥陀仏を説かれたのは、法然上人じゃ。法然上人はのう、わしら百姓にも阿弥陀様の功徳が授かるようにと修業されて南無阿弥陀仏というお題目を教えてくださったのじゃ。法然上人は美作の国から出られたのじゃ」とその隣の老婆がしたり顔でまがった腰を手でさすりながら言った。

「何とまあ、物知りのおばばじゃのう。山手村の語り部じゃが」
と若い壺売りが感心しながら言った。
「皆の衆、ようお聞きんせぇ。法然上人も確かに偉いお坊様で、隣国の美作のお生まれじゃからお前様がたが信仰なさるのもようわかる。じゃがのう、南阿弥陀仏では救われないのじゃ。末世をお救いんさるのは南無妙法蓮華経しかないのじゃ」
と蛇を首に巻いた若者が確信に満ちた声で言った。
「お前さん、先程から南無妙法蓮華経としきりに唱えとりんさるが、そのお題目はどこで聞いてこられたんじゃ」
と前歯の欠けた中年の男が言った。
「都じゃ。鎌倉に日蓮という偉いお上人様がおられてな、南無妙法蓮華経を始められたのじゃ。これは有り難いお題目ぞな。お前らも聞いておられょうがのう。昔、文永の役といってな蒙古の大軍が九州へ攻め寄せてきたじゃろうが。そうよな、もう六十年も昔のことになるかのう。この蒙古の来襲を日蓮上人は六年も前に予言されたのじゃ」
「ほほう。蒙古襲来のことはわしも爺さまから餓鬼の頃聞かされて知っとるぞ。じゃがなぁ、お前さん日蓮上人が六十年も七十年も前に唱えられたのなら、日蓮上人さまは何才になられるのじゃ。たいそうなお歳よなぁ」
「もし生きとられりゃぁ百歳を越えとられましょうぜぇ」
「それじゃぁ、日蓮上人様はもうお亡なくなりなさったんかいのう」
「そうじゃ」
「では、お前さんは誰に教わりんさったんじゃ」
「わしが、南無妙法蓮華経のお題目を教えて戴いたのは日実上人といってな、日蓮上人のひ孫弟子に当たるお坊様じゃ。日蓮上人はもう五十年も前にお亡くなりになっていますらぁ。日蓮上人には高弟が沢山おられてのう、日像というお上人様が都へ初めて南無妙法蓮華経を伝えられたのじゃ。この日像上人の一番弟子が大覚上人でそのまた高弟が日実上人様なのじゃ。わしゃぁこの日実上人から南無妙法蓮華経を教わったのじゃ」
「日実上人は日蓮上人のひ孫弟子にあたられるというわけじゃな」
「そうじゃ。日実上人様は今、備中野山の妙本寺へ来ておられますがな」
「わしらにも教えてつかぁさるじゃろうかのう」
「教えてつかぁさりますらぁ。教えてもらいたかったら先ず、南無妙法蓮華経を唱えられぇ。このお題目だけが仏法の神髄じゃ。南無妙法蓮華経を唱えてさえいれば、貴賤、老若、男女の差別なく善人も悪人も、成仏出来るのじゃ。難しいお経もいらんのじゃ。修養もいらんのじゃ。この世の災難も避けられるのじゃ。あの世でも成仏できるのじゃ。南無妙法蓮華経を唱えんせぇ」
「戦が始まろうとしているときに南無妙法蓮華経はわしらを救ってくださるんじゃろうか」
「そこが南無妙法蓮華経のよいところじゃ。必ず救ってつかぁさるんじゃ。末法の世だからこそ、お釈迦様の正しい教えである法華経を広めなきゃぁおえんのじゃ。法華経がこの世の隅々までいきわたれば、この世が仏の浄土であることがはっきりするんじゃ」京都から戦火を逃れてきた備前の国の刀鍛冶の中に日蓮上人の法華宗に帰依しているものがあり、「南無妙法蓮華経」のお題目さえ唱えていれば貴賤、男女、善悪人等の差別なく一切衆生は成仏できると説いて廻っていた。この教えは他宗を認めず攻撃するところ甚だしいものがあるが、悪代官の厳しい取り立てに喘ぎ、飢餓寸前の百姓達には強烈な説得力をもっていた。この刀鍛冶の名を備前長船村の垂光という。 垂光は備中山手の領主荘左衞門次郎が端女に生ませた庶子である。母は彼の生後間もなく他界し、乳母の手によって育てられた。幼名を虎丸と称し、性豪胆でかつ才気煥発にして好奇心も旺盛で幼時から猫や犬を可愛がっていた。特に蛇を可愛がるさまには異常なものがあり、捕まえて来た蛇を布団に入れて寝起きを一緒にする程であった。虎丸の手は蛇を魅惑する形をしていたようで、蛇に向かって掌を広げ近付いて行くと、蛇は竦んでしまって動けなくなり、易々と虎丸に捕まってしまうのである。村人達は「お館様かたの蛇丸様」とあだ名した。この異常な性癖のゆえに兄である三人の嫡子達とのいさかいが多く、乳母からも疎んじられ、肉親の情愛を受けること少なく、次第に蛇をはじめとして犬、猫兎狐、狸、鶏等の動物の世界へ耽溺していくのであった。





 荘氏は備前山手村の幸山に館を築いていたが、居館とはいえ山の上にあり、土地の者は幸山城と呼んでいた。その幸山城の近くに福山があり、海抜三百メートルの山頂には十二の坊を持つ福山寺があった。福山寺の開山は不明であるが、天平年中(七二九〜七四八)に報恩大師が建立したと伝えられている。聖武天皇の詔(七四一)により備中総社村に国分寺が建立され、金光明最勝王経と妙法蓮華経が安置された時期とほぼ同時代である。国分寺は鎮護国家・消災致福を祈って発願された官寺であり、律令制国家の手厚い保護を受け、近隣の村人達の崇拝を得て繁栄した。
 福山寺も創建当初は、国分寺同様近隣の山手村、清音村の村人達の参詣で賑わっていたが、源平合戦の頃から次第に荒れ初め、荘一族がこの地へ移住してきた頃には、法灯も消えかねない程度の荒れようであった。
 そもそも、荘氏がこの地へ源頼朝の代官として武蔵の国より移住してきたのは百四十年余前に遡る。荘氏の祖太郎家長が建久三年(一一九二年)一の谷の合戦で平重衡卿を生け捕りし、その功により恩賞として備中四庄を源頼朝より賜ったからである。
 太郎家長は神仏に対する尊崇の念篤く荒れ放題になっていた福山寺を修復し、氏寺として保護を与えたので、創建当時の殷賑を取り戻した。また荘一族は備中四庄(下道庄、浅口庄、窪屋庄、都宇庄)の経営に力を注ぎ新田を開発してその領地を広げた。


 当時の家督相続は、鎌倉時代に行われていた所領の分割相続から嫡子単独相続へと次第に移行していた。このため兄弟間で相続争いが頻発するようになっていた。特に腹違いの兄弟どうしの争いが多かった。そこで虎丸の父荘左衞門次郎は嫡子と庶子の間で相続争いが生じるのを防ぐために、虎丸を七才のとき、福山寺の僧円念に預けた。当時の氏寺の大半がそうであったように、福山寺でも寺僧は氏人から選ばれることが多く、僧円念も荘一族の氏人であった。円念の境遇は虎丸に似ていた。円念も荘一族の氏人ではあったが、庶子であり多数の嫡出の兄弟の中にあって、疎んじられながら肩身の狭い思いをして成育したのである。円念は備前岡山の真言宗福輪寺で修業を積んだ後、その侠気を荘左衞門に買われて福山寺の寺侍の元締に補されていた。福輪寺は日蓮宗の布教のため備前に入っていた大覚大僧正が備前津島で辻説法をしていたとき、当時の福輪寺の座主良遊が大覚に宗論を挑み論破され、一山ともに改宗して後、妙善寺と改名した名刹である。
 虎丸を預けられた時、円念は三十五才であったが、境遇の似ている虎丸をこよなく可愛がった。円念は出家とはいえ、寺侍達を取り仕切っていたから、剣術の腕は相当なものであった。


 福山寺の生活にも慣れてきたある日、円念の剣術の稽古を傍らで見ていた虎丸は、自分にも剣術を教えてくれと頼みこんだ。
 「虎丸よ。何故剣術を習いたい」
 「敵をやっつけるためです」
 「お前の敵とは誰のことだね」
 「私に危害を加えようとする者すべてです」
 「例えば誰だ」
 「幸山城の太郎太」
 「お前の兄ではないか」
 「兄であっても私に危害を加えれば敵です」
 「刀は何のためにある」
 「人を切るためです」
 「何故人を切らねばならない」
 「切らなければ自分が切られるからです」
 「それはそうじゃ。だがのう、人を切らなくてすめば、刀はいらなくなるとは思わないか」
 「人の心に支配欲、征服欲のある限り刀は人を切るためにあるのではないでしょうか」 「わしは人の心から支配欲、征服欲を無くすことができると思っているのじゃが」
 「それはどのようにしてですか」
 「人が皆、仏のみ心にお縋りして信心し、修業を積むことじゃ」
 「人が皆、信仰に生きる世が実現して、人の世に争いや戦が無くなれば刀は要らなくなるのでしょうか」
 「人を切る目的の刀は無くなるであろうが、刀そのものは無くならない」
 「何故ですか」
 「もともと刀の前は剣(つるぎ)と呼ばれた両刃であった。剣は突くための武器であって切るための武器ではなかった。そのうち剣を片刃にして切る目的で作られたのが刀なのじゃ。刀が剣に変わって多く使われるようになると、剣は祭りごとだけに使われるようになったのじゃ。同じように争いが無くなっても、刀は祭りごとのために残るであろうし、美術品として残るだろうと思うのじゃ」
 「刀が鑑賞のためだけにつかわれるような世がくるといいでしょうね」
 「そのためにも仏のお慈悲を広めなければならない」
 円念は虎丸にお経と武術を教えたが、それ以上に剣のもつ美しさを教えた。気性の激しい虎丸に刀の武器性よりも美術性の方が価値があることを悟らせ荘一族の中で争いが起きないようにするのが円念の役目だと自覚していたからである。動物好きな虎丸には武術よりも剣の美しさのほうが心の慰めになった。そんな生活の中で虎丸の心の中には刀の使い手であるよりも、鑑賞者であるよりも、刀を作る者になりたいという気持ちが育まれていくのであった。美の創造者になりたいという思いが心の奥底に沈澱していくのであった。


 虎丸が十才になったとき、福山寺の僧円念は父荘左衞門次郎に虎丸を備前長船の刀鍛冶景光に弟子入りさせることを進言した。この時代は後の江戸時代と違って士農工商という身分制度もできあがっておらず、農民が荘園内の田畑を耕作するが同時に武装もして外敵と戦うことが多かったし、鍛冶が武器をとって戦うこともあったので領主の庶子が刀鍛冶になることには違和感というものがなかった。
 「お館様、昔、村上天皇、冷泉天皇、一条天皇の佩剣を鍛えた名工として誉れ高い実成は長船の刀鍛冶でございました。しかも実成は虎丸様と境遇がよく似ておいででした。虎丸様は剣術の腕も磨かれ、お強くなられました。しかし御気性からして、剣の道を歩まれると荘家の将来にとって、由々しき事態が起こらないとも限りません。仏門で修業を続けられる御意志はないようにお見受けいたします」
 と円念は荘左衞門次郎に言った。




 円念の語るところにれば、実成は備前の国司が朱雀天皇(九三十〜九四六)の御代に自分に仕える女に生ませた庶子であり、幼くして母を失い寺に預けられたが、やがて刀鍛冶に弟子入りして名工になったというのである。現在長船村で名工として売りだし中の景光は円念と母方の縁続きであるという。
 「そうだ、それは良い考えかもしれない。早速景光を呼んで呉れ」
 「心得ました」


 数日後長船から景光が幸山城へ呼び出された。
 「のう景光よ、お主の爺さまの光忠が打った刀は天下一品であったと聞いておるぞ切れ味といい右に出るものはなかったそうな」                    
 「はぁ恐れいります。お館様にそのように我が御先祖様のことをお褒めに預かるとはまことに晴れがましゅうございます。刀鍛冶として家門の誉れに存じおります」
 「お主の父の長光もこれまた天下に比類なき名工と聞いておる。弘安の蒙古来襲(一二八二)の折に執権時宗公が蒙古の使者を成敗された刀がお主の父長光の打った刀だということは天下にあまねく知られていることだからのう」
 「ははぁ、刀鍛冶として過分のお言葉。景光身に余る光栄に存じおります」
 「光忠、長光と我が荘家との付き合いも長いものじゃのう。光忠の打った刀を我が祖父が携え文永の役(一二七四)の折り、肥前の国へ出陣して以来の付き合いじゃ」
 「この乱世にあって、頼朝公以来の名門である荘家よりそのように長い年月御愛顧戴いたること、刀鍛冶として一門の誉れにござりまする」
 「ところで、景光おりいって願いの儀がござる」
 「ははぁ、これはまたなんでござりましょう。景光に出来ることでございますればなんなりとお申し付け下さいませ」
 「ほかでもないが、我が息子虎丸のことじゃ。そちも承知の通り、虎丸は気立てが優しく、生き物を我が友として成長して参ったが剣術の腕前も相当上がったようで、このまま進んで剣術の腕が磨かれると兄弟達との間で争いが起こりかねないという虞れがある。この円念坊に預けて仏門の道を進ませようと考えていたのじゃが、研ぎ澄まされた刃の美しさに魅せられてしまったらしい。刀鍛冶になりたいと言うのでな。武芸を習わせるよりも刀鍛冶にして武士の魂を磨かせたほうがあの子の将来にとっても荘一族の将来にとってもよいのではないかと考えるのじゃが、そちはどう思うかの」
 「お館様、それは良い所にお気がつかれました。乱世の世の中でありますれば戦に命を掛けるのも一生。刀鍛冶になって武士の魂を作り磨くのも一生と心得まする」
 「そうか、それでは景光よろしゅうお願い申す。虎丸を頼みますぞ」




 景光に弟子入りした虎丸は備前長船村で修業に励んだ。生来、好奇心が旺盛なだけに、一事に集中することが苦にならない性格で根気よく仕事に精をだした。加えて動物が好きな性格であったから細かな所の観察が鋭く師の景光も驚く程の上達振りであった。
 「虎丸よ。お主を幸山のお城から預かってきてはや五年が過ぎた。腕の方ももう一人前だ。ついてはいつまでも虎丸というわけにもいくまい。どうじゃ、我が祖光忠の一字を戴いて、以後は垂光と称すがよかろう」
 「ありがとうございます。ついては、お師匠様におりいってお願いがございます」
 「なんじゃ。申してみるがよい」
 「聞く所によりますれば、都には優れた刀鍛冶が集まっているとか、垂光も都へ上ってもそっと腕を磨きとうございます」
 「それもよかろう。山城粟田口派の国綱、備前直宗派の三郎国宗、福岡一文字派の助真等の流れを汲む名工達が技を競っているのが都じゃ」
 垂光はかくして都へ上り刀鍛冶として腕を磨き、かたわら日像によって都にもたらされた日蓮宗についての見聞を深めたのである。           



  荘一族に荘常陸兼祐という土豪がおり、智略にたけていた。幸山城にいる荘左衞門次郎一族の分家筋にあたり、都宇庄を分与され福山の麓に館を構えて南部地域の新田の開発に精を出していたが、荘一族の中では欲深で物欲のためには信義を平気で破る油断の出来ない男と見られていた。荘常陸兼祐には男子がなく雪姫という娘が一人いたが稀にみる美貌の持ち主であった。彼は荘左衞門次郎の三人の嫡子太郎太、次郎太、三郎太の内末の子の三郎太を雪姫の婿に迎え入れようと申し入れ近く祝言をあげることになっていた。
 元弘の変(一三三一〜一三三三)の頃から護良親王令旨とともに御醍醐天皇の綸旨や足利尊氏の催促状が使者によって届けられるので、何れに与するのが自分の為に得策かと考え悩んでいた。兼祐の本家筋にあたる左衞門次郎が早くから足利方に加勢する意志を示していたので、悩みは大きかった。備前児島には豪族の佐々木一族が控えており、有力な土豪飽浦信胤も積極的に足利方に助力していた。


 一方備前邑久郡豊原荘の地頭今木氏や大富氏は児島高徳と共に天皇方の有力な支持者であった。ところで、児島高徳については次のエピソードが残されている。
 後醍醐天皇が隠岐の島へ流されることになったことを知った児島高徳は帝を播磨船坂峠で奪回しようと待ち伏せしたが、天皇一行は山陽道を通らず、播磨の今宿(姫路)から美作へむかっていた。既に院庄(津山)に入っていた天皇にこの地にも天皇に心を通じる忠義の武士達がいることを伝えたくて、御座所近くの桜の大木に次の詩を書きつけた。
 「天 匂践を空しゅうするなかれ 時 范蠡なきにしもあらず」
 天は越王匂践(後醍醐天皇)を空しく殺し奉ってはならない。越王を助けて恥をそそいだ范蠡のような忠臣がいないとはかぎらないという意味である。
  乱発される綸旨や令旨や檄は地方の豪族達の去就を決めかねさせていた。
  荘常陸兼祐は始祖太郎家長が源頼朝の恩顧をうけた武将であることから、味方するなら同じ源氏の足利側にと心密かに決めていたが、戦況や政情が目まぐるしく変わるので、旗幟鮮明にすることなく日和見主義をきめこんでいたが何れの側に加勢するにしても、平地での戦よりも石垣を持ち山の上にある福山寺を砦にした方が戦い易いと考えて、福山寺に立て籠もって情勢を見守っていた。


  一族の荘左衞門次郎はいちはやく足利直義の旗下に参じて、幸山城に布陣していた。幸山城は始祖太郎家長が武州から移ってきたとき築いた城であり、福山城とは指呼の距離にあった。
  荘左衞門次郎の使者が足利方に味方するよう荘常陸兼祐の許へ幾く度か往来した。 垂光は、父左衞門次郎の密命を帯びて福山へ赴いた。垂光は墨染の衣を纏い僧に変装して、勝手を知った抜け道から福山城へ入城し円念と過ごした僧坊の前までたどりついたとき草むらに蛇をみつけた。垂光がいつものように左手の五本の指先を第一関節のところで曲げて掌を蛇へ向けると、蛇は竦んで身動きできなくなった。蛇を捕まえたとき、この様子を不審に思いながら見ていた警護の寺侍に誰何された。
「お主、何者じゃ。そこで何しとる」
「ご覧の通り蛇を捕まえたのじゃ」
「蛇をつかまえてどうする」
「首に巻いて南妙法蓮華経を唱えるのじゃ」
「さては、最近蛇を首に巻いて、新しいお題目を唱えてまわる怪しげな者がいるとの噂 ゃが、お主のことか」この寺侍は最近雇いいれられた悪党の一人らしく垂光の記憶にない顔であった。眉が濃く骨太の男でずんぐりした体格であった。
「さよう、南妙法蓮華経をお唱えんせぇ」
「怪しい奴だ、こちらへ来い」 垂光は寺侍に捕まえられて、警護小屋へ連れていかれた。警護小屋には垂光が昔円念の元で修業していた頃の顔馴染みも居たが、成長盛りに長船村の景光へ弟子入りしたので背丈、顔つきも変わっており、人相から虎丸であると気がつくものはいなかったが蛇をてなづけていることが彼らの記憶を呼び戻した。
「若い僧侶に身をやつした密偵が捕まったそうな。蛇を首に巻いてござるそうじゃ」「もしや、虎丸様ではなかろうか。蛇をあのように手なづけられるのは虎丸様をおいて他にはいない」と一人の男が言った。
「そうじゃ。虎丸様じゃ」
「なんでまた密偵のような真似をしなさったのじゃろうか」
  騒ぎは城中へ広がり、女中達も見物に来た。
「何と涼しげな顔立ちの坊様でござろう」
「意志の強そうな目付きをしておられることよ」


  噂を聞いた常陸兼祐の娘雪姫もお付の侍女を連れておそるおそる見物にきた。虎丸が福山寺にいた頃は雪姫はまだ三才で虎丸のことは覚えていなかったのである。
  垂光がきっと正面を見つめている視線に雪姫の姿が写った。雪姫の視線と垂光の視線が交錯したとき蛇に睨まれた蛙のように、雪姫は竦み、体中に雷にうたれたような衝撃がはしった。
  垂光は寺侍の総元締円念の前に引き出されことなきを得た。
  円念に伴われて、兼祐の前に連れてこられた垂光をしげしげと眺めて兼祐は言った。「おう、これは虎丸殿、いや垂光殿でござったな。蛇丸殿も大きゅうなられたのう」「はあ、お館様お久しゅうございます。本日は、南妙法蓮華経をお勧めに参上いたしました」
「あの幼かった虎丸殿がこのように見事に成人されて、これはまた御説法に参られたとは、人も変われば変わるものよのう」
「これも、皆円念様の御指導と我が師景光様の御加護のせいでございます」
「ところで、幕府が滅びたうえに、帝の世継ぎの問題で争いが起こりこの山手の田舎にまでその影響がきておるぞ。はてさて、どちらが勝つのやら」
「それはさておき、お館様は足利方と新田方とどちらへお味方なさるおつもりですか」
「何れも源氏ではないか」
「私の見るところ足利殿の方が器量が大きいように思います。今でこそ逆賊になっておりますが、この乱世を纏めていけるお方は足利尊氏殿をおいてほかにはないと考えます」
「それは、左衞門次郎殿のお考えか」
「そうです。それがしも父の考え方に同意しております」
「これはまた何故そのように思うのかの、訳を聞かせてはもらえないかの」
「さればでごさいます。それがしも、幼き頃より、生き物の世界に興味をもち争いの無い世界はないものかと考えてまいりましたが、動物どもは己の生活の領域をあらすものに対しては、果敢に死を掛けても戦います。しかしながら、己の生活の領域が確保されれば決してそれ以上のことは致しません。まして人間のように、己の名誉や家門の名誉のために争うことを致しません。足利殿はこの世に争いのない世界をつくろうと考えておいでなのです。おそれながら、現在の戦は皇位継承をめぐっての争いであろうかと考えます。天皇様を取り巻くお公家衆が民の迷惑も考えずに名誉欲と権勢欲の権化と化し権謀術策を巡らして、諸国の武士を我が味方に取り入れ天下をほしいままに動かそうということから起こった争いであると考えております。ところが、足利尊氏殿ははやくこの世の争いを無くして、民百姓が安心して暮らしていける世をつくりたいとお考えなのです。足利一族のことよりも、天下泰平を願って戦っておられるのです。それが証拠には源氏同門の新田義貞と戦っておられることでもお判りでしょう。新田殿が天皇方の策略に踊らされて、源氏の中でも下積みであった新田家の名誉を挽回しょうとしておられるのとは、志の高さが違うと思うのです」

 父兼祐の傍らで雪姫は垂光の弁舌にほれぼれしながら聞き入っていた。なんと理想の高い高潔なお人柄なのであろうかと思いながら。
「なるほど、志の高さと申されるか。それにしてもお父上もお若いのう」
と常陸兼祐は志の高さだけで世の中が動けば何の苦労もないのにと心の中でつぶやきながら言った。
「しかも、今でこそ賊軍と言われていますが、必ず新しい帝の綸旨が下りると信じております。その節には立場が逆転し、新田義貞軍が逆賊になるのです」
「我らは武家だから、主人に忠節をつくすのが本分であろう。しかし恩賞あってこその忠節であろう。どちらの側の恩賞が多いだろうか」
「足利殿だと思います。ところで、お館様天皇方の先鋒隊の大江田氏経殿は必ず福山城を攻撃してきます」
と垂光は言った。
「何故、分かる」
と兼祐が聞いた。
「実は私は大江田様の刀を一振り鍛えてお届けすることになっておりますが、そのお届け先が福山城なのです」
「なに。お主はどちらの味方なのだ。二股かけているのか」
「刀鍛冶にとっては自分の作品を買って下さる方が大切なので敵味方はありません」「先程から、お主は足利方の方が正義で、天皇方は不正義だと言っているではないか」
「その通りです。しかし刀を買って戴くことはこれとは別のことなのです」
「そういうものかのう。いずれにしても、天皇方にお味方するか足利方にお味方するかはよく考えてみよう。父上に宜し伝えられよ」
と言って垂光を引き取らせた兼祐はまだ結論を出さなかった。日和見主義に徹しようと思っていた。




  一方天皇方の新田義貞軍の先鋒隊、大江田氏経からの勧誘の使者が荘左衞門次郎の許へ往来した。
「これは正義の戦でござる。その証拠に逆賊足利尊氏は九州に逃げたではないか。全国には帝の綸旨を奉じたてまつる武士達が結集しようとしているのだ。天皇親政を実現しようとするものでござる。我が陣について正義を実現されよ。勝利の暁には恩賞として官位官職が下されましょうぞ」
と大江田氏経の使者は言った。
「いかにも、帝が親しく政を行われるのは結構なことでござるが、現在の知行地さえ安堵されないことがあると聞き及ぶが如何に。我等は源氏の恩顧を受けた者。足利殿は我等の棟梁でござる。この世に戦をなくそうとしておられる無欲の足利殿にお味方致す」 左衞門次郎は荘兼祐との間で争っている所領のことを思いながら言った。
「新田殿も源氏ぞ。足利殿は天皇に弓引いた逆賊であるぞ。ここのところをよく御勘案あれ」
「御忠告なれど、乱世に生まれた武家の宿命。志の高い足利殿にお味方申す」
  この時の左衞門次郎は、周辺の豪族達は足利軍に加勢すると読んでいた。加勢しないまでも、中立を保ち形勢をみて、戦に分のあるほうへなびくであろうとみていた。今、左衞門次郎が足利方に加勢すれば雪崩のように周辺豪族達は自分にならって足利方へなびくものと自負していた。ただ心配なのは同族の荘兼祐の動向であった。使いに出した垂光の報告では荘兼祐は旗幟を鮮明にすることなく日和見主義でいく気配であった。戦乱の世のならいとは言え同族が敵味方に分かれて争う愚だけは避けたいと思っていた。       
 幸いなことに児島の飽浦信胤が兵を率いて福山城に駆けつけ荘常陸兼祐を説いて足利軍に加勢させたと知り、足利軍の有利を確信していた。
  荘一族を味方に引き入れることには失敗したが大江田氏経は、左衞門次郎の予測に反して付近の豪族達を味方に引き入れることに成功した。大江田氏経が軍使に言わせたのは次のきまり文句であった。
  「これは正義の戦である。天皇親政を実現するための戦である。勝利のときには加勢した武将には官位官職が恩賞として下される」
  田舎の豪族達は乱世に力を蓄えてきた武士であり名門の出でない者たちは天皇家に組みし官職を貰うことで社会的な権威を獲得しようとした。彼らにとっては、手柄をたてて都で官位官職を手に入れることは魅力であったし、天皇家に忠誠を誓うことが彼らの倫理感にもあっていた。



  大江田氏経は、日和見主義者の多いこの地域では最初に行動を起こし、緒戦で圧倒的に勝つことが肝要と考えた。夜陰に乗じて全軍に火矢を持たせ一斉に福山城内へ放たせた。火矢を放ってからは全軍一斉に突撃をさせたのである。戦には勢いというものがあり、緒戦で勢いに乗った側が有利に展開することが出来る。大江田氏経は自ら先頭に立って栗毛の馬に跨がり緋縅の鎧に兜を被り、福山城に向かって突撃した。雪崩の勢いの突撃であった。博打のような戦法であったが相手の出鼻を挫いて充分であった。奇襲攻撃といえた。 ところが思いがけないことが起こった。敵側より弓矢の応戦は全くなく城の門が開いて白旗をかかげた兵達がなんの抵抗をするでもなく大江田氏経軍を城内へ導きいれたのである。荘常陸兼祐と飽浦信胤とが共謀した裏切りであった。一番堅固な城と目されていた城を天皇方に渡し、逆賊となっている足利方を打ち破れば荘左衞門が領している下道庄、浅口庄、窪屋庄の領地が恩賞として貰える手筈になっていた。大江田氏経の軍使が密かに福山城を訪れた時の約束であった。このような密約に助けられて大江田氏経が福山城をなんなく攻めて落としたのは延元元年四月三日(一三三六年)九州にいた足利尊氏が西国武将を結集し上洛を開始したときであった。                      
   福山城に布陣した大江田氏経は山陽道のこの要衝の地を天皇方の第一線とし、荘常陸兼祐と飽浦信胤との降参兵を天皇方に加えて大江田氏経軍兵士達の士気は大いにあがった。

     
  この時の模様は太平記に次のように述べられている。
  『新田左中将の勢、すでに備中、備前、播磨、美作に充満して、国々の城を攻むる』 
  この当時所領は嫡子分割相続で細分化しており、所領を増やすには荒野を開拓するか戦争で勝ち敵方の闕所(没収地)を分配して貰うしか術がなかった。元来武士は武芸をもって支配階級に仕える専門職能集団であったが、支配階級が分裂すれば彼らも分裂するのは必然の成り行きであった。恩賞を貰うためには勝つ側に加勢しなければ意味がない。恩賞の貰えない戦には参加しないほうがよい。当時降参半分の法という慣習があり降参人は所領の半分ないし三分の一を没収されて許されていた。従って、降参や寝返りが多く後年の江戸時代の武家社会の慣習とは大きく異なっていた。去就の自由があり主従関係は恩賞次第という即物的なものに左右された。荘常陸兼祐と飽浦信胤の裏切り行為と同じようなことが行われるのも珍しいことではなかった。


                   
  九州で陣容を立て直して、軍勢を海陸の二手にわけ東上を開始した足利勢は尊氏が五月に児島下津井に千余隻の水軍で到着し吹上に三日間陣を張った。一方山陽道を東上した弟の足利直義は福山城を延元元年(一三三六年)五月十四日三方から取り囲んだ。足利直義の軍勢は三十万にのぼった。対する大江田氏経は城内に僅か一千五百の兵力であった。  早くから足利方に加勢していた荘左衞門次郎はこのときも足利直義軍の旗下に参じ裏切り者の荘常陸兼祐を打ち破ろうと先鋒隊を買って出て福山城を攻めた。しかしながら城に籠もった大江田氏経直轄の城兵は士気が高く常に奇襲戦法で足利の大軍を悩ました。その勢いで本陣をつき足利直義に迫って、彼を討ちとらんばかりの勢いであった。しかしその後は膠着状態が続き勝敗の帰趨は予想すべくもなかった。裏切り者のこういう局面での決断には常人では考え及ばないものがある。荘常陸兼祐の判断も異常であった。戦況を観察していた荘常陸兼祐は一旦は天皇方に味方したものの勢力を盛り返した足利軍の方に勢いがあると見て再び裏切った。手兵に命じて密かに城内の数箇所に火を放ち火災を発生させたのである。この火事が引き金となって、城内は大混乱に陥り、足利方の軍勢の総攻撃にあい城兵五百騎が討ち死にした。氏経は四百に減ったにも関わらず、二十六回にも及ぶ逆襲をし、ついに三石城にいた新田義貞軍と合流した。

                               
  荘常陸兼祐は軍使を足利直義に派遣し、難攻不落の堅城を無血開城したと見せ掛けて敵を安心させた。その上で城に火を放って天皇方を混乱に陥れ、足利方に勝利を導いたのは手柄であるから、その手柄に免じて所領を闕所とすることなく,安堵して欲しいと懇願した。 

        
  五月十五日から十八日までの三日間の激戦であった。この福山合戦では荘左衞門の三人の子供太郎太、次郎太、三郎太も参戦した。三郎太は捜し求めて、裏切り者の荘常陸兼祐の首を打った。
  「降参半分の慣習があるとはいえ兼祐殿あまりにも、信義にかけましょうぞ。武家は忠こそを尊びたきもの。雪姫殿とのことは破談にしてくだされ。御免」と涙ながらに刃を走らせたのである。
  荘常陸兼祐の首は高梁川の河原に曝された。


  
  円念は雪姫を密かに城外へ連れだし長船村の刀鍛冶景光のところへ保護を頼んだ。いちはやく幸山城に布陣した荘左衞門はこの福山の合戦での功を認められて猿掛城の城主に封じられ、以後小田庄も知行地に加えることになった。


   
  垂光は福山の合戦のあと、仏門に仕えたことのある者として城内で討ち死にした荘常陸兼の首のない遺体や大江田氏経軍兵士の夥しい数の死体を弔った。

    
  福山の合戦のあと大江田氏経の求めに応じて鍛えた一振りの刀は転戦する大江田氏経の手元へ届ける術もなく、暫く垂光の許にあった。

    
  一三三八年新田義貞が越前藤島の戦いで敗死し、大江田氏経も戦死したという便りが垂光の耳に入った。無常を感じた垂光は刀の武器性が嫌になり刀鍛冶を辞めた。そして、桃作りに専念しながら荘常陸兼祐と大江田氏経軍兵士達の菩提を弔った。雪姫は円念に助け出されたあと暫く長船村の景光鍛冶のところで庇護をうけていたが、荘三郎太との婚約も破談となり、失意の日々を送っていた。円念の世話で水光の女房となり彼と共に桃を作るかたわら父と兵士達の菩提を弔った。後年垂光の作る桃はまるで蜜のような味のすることからいつとはなしに「水蜜桃」と呼ばれるようになった。水蜜桃の名だたる産地は福山城と幸山城のあった山手村と清音村である。(平成五年一月四日脱稿)
                                     
  (筆者注)本稿は同人雑誌「コスモス文学」の第51回コスモス文学新人賞奨励賞を受賞し、同誌137号の短編小説特集の部に掲載された。