ベチャの面 早島 潮
川の中に生える真菰の芽が枯れた茎の中から、新しい芽をのぞかせる頃になると、清一は田圃から粘土を採ってきて、ベチャの面作りを始める。ベチャというのは岡山県南部で藺草を栽培している地域の氏神様の秋祭りに、村中を闊歩する鬼のことである。
清一は春の陽射しを浴びながら、濡れ縁に腰を下ろして、天理教の集会場を建設中の工事現場から拾ってきた40センチ角ほどの板切れの上に、粘土を置いて一心不乱にベチャの面型を作っている。竹のへらで目、鼻、口、牙眉を彫り込んでいく。傍らに置いた粘土を千切って団子にし、くっつけてみたり、外してみたりしては、出来るだけ恐ろしい形相のベチャに作らなければならないのだ。
ベチャの面の良し悪しは、目、鼻、口がうまく作れるかどうかで決まってしまうので、この面型作りは大切な作業なのである。
この地方では、小学校4〜5年位の年頃になると、男の子達はベチャの面作りに取りかかるのである。秋祭りがくるまで、自分がどのような面を作っているかは、親友にも内緒にしておくのが、子供の世界のしきたりとなっていた。兄のいる者は兄から兄のいない者は父からその作り方を教わり、友人から教わることは決してしなかった。
粘土で満足のいく形相の面型が出来上がると、これを適当な水分が残るまで、陰干ししてから、石鹸水を面型に塗りつける。次に新聞紙を細かく切って、水に浸し粘土の面型の上に貼り付けていく。新聞紙を二重、三重に貼りつけたところで作業は中断しなければならない。一日置いて、今度は書き潰した習字の半紙を持ってきて、メリケン粉で作った糊を面型に塗りつけ、その上へ半紙を貼り付けていく。半紙を四重、五重に貼り終わったところで糊が乾くのを待って芯になっている粘土を取り除く。
清一がベチャの面を独りで作ってみようと思いついたのは、清一のクラスへ昨年の暮れに東京から転校してきた香織に,手作りの面を見せて褒めて貰いたいという気持ちが働いたからである。
香織の父は、東京に本社を置くS紡績早島工場の工場長として、この町に昨年秋転勤してきた。藺草を栽培したり、畳表を織ったりして生計をたてている者の多い早島町には、織機を修理する鍛冶屋か、せいぜい織機を20台ほども置いて、畳表を織っている従業員10名程度の町工場しかなかったので、一部市場に上場されているS紡績の早島工場のように従業員500人を数える工場の工場長は町の名士として遇された。
香織は都会育ちの娘らしく、動作はシャキシャキしており、色白の顔は母親に似て美形である。変化に乏しい町の学校の常で、新参者の香織の一挙手一投足は好奇の的となった。とりわけ標準語を喋る香織の言葉は悪童達の好個の材料であった。
「オッカァのことをオカァサマと呼んどるでぇ」
「先生ゴキゲンヨロシュウというのをわいは聞いたでぇ」
「こねぇだ、雨が降っとったじゃろう。せぇで,うちが傘にのせたぎょうか言うたらな、傘にノッタラ骨が折れるわよと言うんじゃぁ。うちゃぁ、もうおかしゅうて」
清一は勉強はよく出来る方だったので、各学年とも三学期のうち少なくとも一学期間は級長になった。香織が転校してきたときは、先生のはからいで香織の席は級長の清一の隣に決められた。
転校してきたばかりなのに香織は、清一達の知らないことをよく知っており、とても太刀打ちできない学力を持っていた。教室では良く勉強ができたが、まだ方言が喋れないので、遊び時間に悪童達から標準語を冷やかされると悲しそうな顔をした。
香織が転校してきてから10日ほど経った日曜日に、清一達のクラスの主だった者5〜6人が香織の家へ招待され、遊びに行くことになった。清一達が誘い合って、工場の近くにある社宅群の中でもとりわけ立派な構えの香織のうちの玄関で
「御免せぇ」と案内を乞うと香織がでてきて
「ようこそいらっしゃいました。さぁどうぞお入り下さい」と大人びた物腰で招じ入れようとする。声を聞きつけて香織の母も現れ
「まあまあ、皆さんようこそいらっしゃいました。香織の母でございます。香織がいつもお世話になっています。さあどうぞ、どうぞ」とにこにこしながら迎えてくれた。
清一は何と言っていいか判らず、慌ててピョコンと頭を下げた。清一に続いて健介、剛、京子、栄もピョコリ、ピョコリと頭を下げた。
通された応接間にはピアノが置いてあり、書棚には世界文学全集や日本文学全集、世界の思想大全集等の本がぎっしり詰まっており、清一には読めない分厚い外国語の本も並んでいる。壁には羊飼いと羊の群れを描いた大きな絵がかかっている。清一はこれとよく似た絵を先生に連れられて大原美術館に行ったとき見たことがあると思った。天井には豪華なシャンデリアが輝いており、床には茶色の絨毯が敷かれ、赤い革張りの安楽椅子が幾つか置いてある。
健介、剛、京子、栄も落ちつかない様子でもじもじしている。何時もと勝手が違って、部屋の雰囲気に圧倒され、よそ行きの顔をして畏まっている。「さあ皆さん、どんどん召し上がって下さいね。香織は末っ子だし転校してきたばかりなので、お友達もなく寂しがっていますのよ。皆さんに仲良くして戴いて、岡山の言葉も沢山教えて下さいね」と香織の母はケーキを勧めながら、清一達の顔へ笑顔を投げかけた。香織も慣れた手つきで紅茶を配っている。香織の母の視線が剛に移ったとき、剽軽者の剛は慌てて
「岡山弁はすぐ慣れますらぁ。わいら生まれたときから岡山弁で話しょうりますがぁ」というと
「まあ、剛さんは生まれたときから、言葉を話したの。ソリャァ、ボッケェナァ」と香織の母が岡山弁を混じえて言ったので皆どっと笑った。
香織の母の巧みなリードで清一達は畏まった気持ちもほぐれ、平気で方言が喋れるようになった。秋祭りのこと、ベチャのこと、投げし針のこと、茸狩りのこと、蜻蛉釣りや蝉捕りのこと、凧上げのこと、藺草刈りや田植えの手伝いのことなどこの地方で清一達の日常生活の一部になっている行事や遊びのことを皆かわるがわる得意になって話して聞かせた。香織は特に祭りのベチャに興味を持ったようである。この地方に伝わる桃太郎伝説とベチャの関係を清一は請われるままに、乏しい知識を振り絞って説明した。
清一の話しに目を輝かせながら聞き入っている香織の姿を清一はとても美しいと思った。
「清一さんは何でもよく知っているのね」と香織が感心したように言ってくれたので、清一は満足した。香織のうちへ遊びにきて良かったと思った。
清一は先刻から一心不乱に粘土を捏ねているがどうしてもうまくつくれない。時折、癇癪を起こしては九分通り出来上がった面型に竹のへらで十文字に罰点をいれて粘土を団子にしている。香織に見せて褒められるような面を作らなければと思うとなかなかうまくいかなかった。また最初からやり直して目を彫りかけていた。
「清一、毅君が投げし針を漬けにいこうと誘いにきとんさるよ」という母の声で清一は今日の面作りはやめることにした。
「きちんと後片付けをせにゃぁおえんぞな」という母のくどい小言を聞くのが嫌なので、「今片づけて行くから待っていてつかぁせぇ」と先手を打っておいて、急いで粘土を丸め、押し入れの中へ投げ込んだ。剛に入ってこられては面作りの現場を見られてしまうからだ。
今まで,畳表を織っていたらしく、モンペをはいた母が藺草の泥で汚れた手を拭きながら毅を連れてきた。毅は既に長靴を履いて手には投げし針の糸を入れた籠をぶら下げている。
「清一ちゃん、何しょうたん。はよう、餌つけにゃあ、ええ場所全部とられてしまうがなぁ」と毅は言った。清一がベチャ作りをしていたことは気づかれずに済んだようである。
「そうじゃのう、すぐ持ってくるけぇ、ここで待っていてつかぁせぇ」と言い残して長屋へ投げし針を取りに走った。
二人は秘密の溝から集めてきて、空き缶に入れておいた三角蛭を地べたにかがみこんでせっせと針に無言のまま取り付けた。長屋の奥からは母の織機を動かす音がカタンカタンと漸くたそがれ始めた裏庭に流れていた。
清一は小学校四年生で農家の毅とは同級生であった。
清一と毅が田圃の畦道を空豆の葉についている雨水でずぼんをぐしゃぐしゃに濡らしながら、六間川に来てみると既に人影が2〜3人投げし針を漬けているのが目に入った。中学一年の富雄も弟の富次と一緒にきているようである。
「清一ちゃん、富雄がきているぜ、どねぇしょうのぉ。三軒地の方へ行こうかのう」と富雄の姿を目敏く認めた毅が相談した。
「そうじゃのう。あいつが一緒じゃと、盗られてしまうけぇのう」
その時富雄の方もこちらの姿を認めたらしく
「おーい清一と毅じゃねぇか。この辺はようかかるんかいのう」と声をかけてきた。こうなっては万事窮すである。
「おえりゃぁせんわぁ。昨日も百本漬けたんじゃが、かかったのは鯰とどんこだけじゃ」と毅が答えた。
「お前ら餌は何をつけとるんじゃ」
「わいらは三角蛭じゃ」
「そうか、お前ら三角蛭か。どこでとったんじゃ。わいら、三角蛭がおらんけえ雨蛙じゃが」と富雄が言ったので、清一も毅もこれは雲行きが怪しくなってきたぞと思うと案の定、富雄が癪にさわることう言いだした。
「おい、お前ら、わいらの投げしと取り替えてくれ。わいら百本もっとるけぇのう、お前らのを百本こちらへ寄越せや」
清一と毅はお互いに顔を見合せたが、何しろ相手が悪い。富雄は中学一年生で、札付きの餓鬼大将である。大柄な上に腕力が強く,富雄の意に逆らうとどんな目にあわされるか判らない。勉強はできないくせに、悪知恵だけは発達していて、学校の先生達もその指導には手を焼いているのである。清一と毅は不承不承、折角臭い溝に入って、洋服を汚しながら集めた三角蛭を餌につけてある投げしを富雄のそれと交換した。六間川と早川は大体清一と毅の領分で、富雄達はこの近くへは姿を見せた事がなかったのに、今日は早々とやってきている。清一は鰻のよくかかる早川を富雄に占領された上に、三角蛭の餌のついた投げしまで取り上げられて、口惜しくて仕方がないのであるが、富雄の理不尽な暴力が恐ろしくて、言うことをきくより仕方がないのである。諦めた二人は、富雄から代わりに受け取った雨蛙のついた投げしを次々に川へ投げ込んで帰路についた。いつしか日はとっぷり暮れて、田圃では蛙のオーケストラが始まっていた。
清一はベチャ面作りがうまくいかなかった上に、投げしまで良い餌を富雄に巻き上げられてしまい、面白くない一日だった。清一は家に帰りつくとうっぷんの持っていき場所がなかったので、飼い猫の三毛が清一の傍らへじゃれついてきたのを幸いとばかり思い切り蹴飛ばした。三毛はいきなり蹴飛ばされてギャォーと悲鳴をあげながら、すっ飛んで逃げた。
清一の面作りは進んで、あとはエナメルしを塗り、面の頭に毛をつけるだけとなった。清一はさっきから、面の色を何色にしようかと考えている。赤色か、緑色のどちらかなのだが、装束のことも一緒に考えておかなければ、簡単には決められない。清一は緑色に塗って緑色のシャツを着、黒い袴をはいてみたいと思うのだが、清一の体に合いそうな緑色のシャツも黒い袴も自分の家にはなさそうである。赤なら、姉のセーターと腰巻きを借りれば、恰好だけはつきそうである。腹巻だけ母親にねだって縫って貰えばよいのだ。ここまで考えて清一は赤色に塗ることに決めた。後は頭髪につける棕櫚の皮を伯父の家へ行って貰ってくればよい。
いよいよ秋祭りの日がやってきた。
清一は親友の毅にも内緒で作ってきたベチャの面を被って往来を歩いているベチャの群れの中へ入っていくことを考えると胸がわくわくした。そして何よりも、ベチャ姿で香織のうちへ訪ねて行き、香織を驚かせてやろうと思うと心がはやった。
この地方には、吉備津彦神社と吉備津神社とが山を幾つか越えた部落にあって桃太郎伝説が伝わっている。清一の住んでいる町は、岡山県南部の藺草と畳表の産地である。氏神様としては鶴崎神社というのがあって、何でも吉備津神社とはゆかりのある神社らしい。伝説によれば、吉備津彦の命が鬼退治をしたことになっており、鬼というのは瀬戸内海の塩飽諸島を根城として内海を暴れ廻っていた海賊だとの説がある。面白いことに吉備津神社と吉備津彦神社のお祭りには鬼がでない。鬼がでるのは鶴崎神社のお祭りだけである。清一の町は鶴崎神社の氏子が殆どなので、祭りといえば鬼がでるものと決まっている。鬼は通常小学校4〜5年生の年頃から17〜8才の青年までが、めいめいに作っておいた鬼面を被り、それぞれに意匠を凝らした装束を纏って、町を練り歩くのである。赤色または青色のシャツを着て、色付きのモンペ風のズボンをはき、足には脚絆を巻き手には手甲をする。腰には超ミニスカート風の腰巻きを巻き、腹には金時腹巻をつけている。ほう歯の高下駄を履き丹精して作った鬼面を被る。鬼面には棕櫚の毛で作った頭髪がつけてあり、背中へ長く垂れ流すのである。
そして手には青竹を六尺くらいの長さに切った物を持ち、青竹をひきづりながら歩くのである。青竹の先は割ってあり、通行人を襲う時は青竹を地面に叩きつけて、パンパンと音を出す。このようなし青鬼、赤鬼が祭りともなれば40〜50匹も出現して町中を練り歩くのである。17〜18才の青年達は町の若い娘達の尻を追いかけ喜んでいるという具合である。
清一は今年、初めて手作りの面をつけて、町へでたのであるが、近所の子供達を追いかけまわし得意になっていた。鬼面をつけて高下駄を履くと小学校4年生であっても、背丈は高くなり大人より大きくなることがある。
「ベチャよ。べちゃよ」とはやしたてて逃げて行く子供達を追っかけて、小学校前の文房具屋前までくると、餓鬼大将の富雄がするめを齧りながら、女の下駄を頭の上にかざして「香織の下駄はトウキョウセイ」と節をつけて歌っている。下駄をとられた香織が「返して頂戴」と泣きべそうかきながら富雄を追っかけている。
清一は香織の災難を見ると富雄の恐ろしさが頭の中に閃きはしたが、それよりも香織の下駄を取り替えしてやらなければならないという考えの方が先に走った。つかつかと富雄の傍らへ近づいて襟首を掴むといきなり、頬に平手打ちを一発食らわせた。不意打ちにあってたじろいだ富雄が鼻の穴を大きく膨らませてピクピクさせている。すかさず清一が青竹を振り上げると、怯えた富雄は声も出さずに逃げ出した。
清一はこんなに簡単に事が運ぶとは予想さえしていなかったのであっけにとられたが、富雄の逃げていく姿を見ると追っかけてみたくなった。追いかけてみると富雄は一生懸命逃げていく。相手が逃げるとますます面白くなって清一はどんどん追いかけた。今日こそは何時もいじめられている仕返しをしてやろうという気持ちが起きて、富雄が悲鳴をあげるまで追いかけ、青竹で叩いてやろうと清一は思った。面を被っているので、誰がやっているかわからないだろうという気持ちが富雄を大胆にした。いつも威張って清一達をいじめている富雄の姿が今日程みじめに見えた日はなかったと清一は思った。そして、香織にはベチャの面を見せるのはやめようと思った。走りながら今日の出来事は内緒にしておこうと思った。