刑部神社のスダジイ

無指定
所在地 三重県四日市市東坂部町518

刑部(おさかべ)神社は海蔵川の堤防と一体となった土地にある小さな村社だが、河川改修に伴 なって境内整備が行われ、社務所を新築するなどで様変わりしている。そんな新装された 境内の端っこに、取り残されたようなスダジイの古木が一本、寂しげに立っている。太い主幹の半分以 上は完全に朽ち果てていて、一部に残骸が残っているので、一応は樹高9m、目通り幹周り4.9m と計測されてはいるが、もはや周辺の風景を作り上げるような力は無く、見るからに痛々しい姿だ。 ここの堤防道路は「三重ふるさと散歩道」のコースになっているようで、散歩道整備委員会が神社前 に説明板を掲げている。その文中に西坂部の江田神社に祀られている日本武尊の弟である五十功彦命 (いことひこのみこと)の名があることに気づいた。日本武尊が伊吹山で病み、故郷の大和に向かう途 中、鈴鹿の能褒野で果てるのであるが、その前に五十功彦命を訪ねてこの地に来たという伝説の一端 と結びついた。
刑部神社 : 5世紀中ごろ、允恭天皇の皇后忍坂大中姫のために刑部という曲部が各地に設けられ、そ の一つがこの地にあったと思われる。律令のころには、当地を伊勢国三重郡刑部郷と称していた。現 在の坂部の地名もこの刑部が変化したものであろう。神社と地続きにあった遍照院の縁起に「五十功 彦命の子孫の刑部造が寺を建立した」とあり、刑部神社はこの刑部氏の氏神であったか、もしくは地 名の刑部に由来したものと思われる。社名に御厨と冠せられていることから、かつては伊勢神宮に対 し神饌料を上納していた神社であったのであろう。江戸期までの神仏習合のころは、遍照院が神主を 兼ねていたと思われる。国の一村一社の方針で明治40年、倭姫巡幸にまつわる道社と、村内の4箇 所にあった山の神が合祀された。さらに明治41年には刑部神社も江田神社に合祀されるが、地元の 熱望により昭和5年再び元の地に遷座された。以来、氏子が交代で毎朝神饌を供える「日供番」を、 一日も欠かさず続けている。海蔵川の河川改修に伴い、境内を整備し平成12年社務所を新築、平成 13年山の神を移設した。 ・・・ 三重ふるさと散歩道整備委員会