96.4.29〜96.5.5

王の広場

まえがき
   日本人は元々イランへはビザなしで入国することができた。イランと日本は非常に友好的だった。ところが数年前、イラン人労働者が大量に日本に入国してきたとき、日本政府はイラン人へのビザの発行を制限した。その数があまりにも多かったためだ。イラン政府は報復として、日本人への観光ビザの発行を停止した。おかげでイランへ行くのがずいぶん難しくなった。
   しかし今年になってそれも解禁になり、ようやくイランのビザが取れるようになった。「これは行くしかない」と思い、早速計画を立ててみたが、なぜかパックツアーより高くなってしまう。「あれ?」と思って調べてみると、イラン航空は団体割引があって、個人で行くとかなり割高になるということだった。
   というわけで、今回はパックツアーを利用させてもらった。前回が激しすぎたので、今回はちょっと楽をすることにした。ゆっくり休息をとることにしよう。イランで・・・。

<旅程>
4/29(月) 成田 − 北京 − テヘラン
4/30(火) テヘラン滞在
5/1(水) テヘラン − シーラーズ
5/2(木) シーラーズ滞在
5/3(金) シーラーズ− イスファハン
5/4(土) イスファハン − テヘラン
5/5(日) テヘラン − 北京 − 成田(5/6)

4月29日(月) 14:55 イラン航空<IR-801>便で成田を出発。
18:00 北京空港着。
   2時間ほど機内で待機した後、テヘランへ向けて出発。
0:50 テヘラン着。
   イランの入国審査は厳しいと聞いていたけど、深夜なので係官もなんとなく眠そうだった。空港からバスでホテルに向かい、深夜2時半、アザディ・グランドホテルに到着。いい部屋だ。大きな窓から眺めるテヘランの夜景がすばらしい。
4月30日(火) テヘラン市内を観光。
   朝起きて窓の外をみると、イランの最高峰ダマバンド山が目の前にそびえ立っている。上半分が白い雪で覆われている。イランへ来て初めて目にする光景が真っ白な雪とはちょっと意外だ。
   テヘランにはこれといって見るものがない。18世紀後半にカージャール朝がここを首都と定めて以来、テヘランはイランの首都となったが、イランの中では比較的新しい街だ。だから歴史的な遺跡とかは何もない。ふつう一国の首都なら、もう少し何かあってもよさそうだが、本当になにもない。ふつうの街だ。
   それでも他の国と比べれば、いくつか特徴もある。まずバイクがやたらと多い。イランではガソリンは水より安く、1リットル6円だ。自転車に乗るのがバカバカしくなるような値段なので、みんなバイクに乗っている。
   女性はみんな黒いチャドルに身をつつんでいる。イランはサウジアラビアと並んで厳格なイスラム国家なので、女性が肌を見せることは許されない。黒いチャドルをまとったイラン人女性が歩く姿は、ちょうどボーリングのピンが進んで行くような感じだ。
   この日は博物館をいくつかまわった後、レストランで夕食を食べた。イラン人の主食は意外にも「米」である。イラン人は朝はだいたいパンを食べるが、昼と夜は米を食べる。イラン米は、日本米とインディカ米の中間くらいの味で、そのまま炊いたのを「チェロ」といい、炒めてピラフにしたのを「ポロ」という。夕食はだいたいいつも同じメニューだ。ごはんの上にケバブ(羊の肉を串に刺して焼いたもの)をのせたものがまず出てきて、あとは野菜サラダ、豆のスープ、塩辛いヨーグルト、ミントの葉といったところだ。ケバブは最初はおいしいが、油っこいので何本も食べているとだんだん気持ち悪くなってくる。そんなときミントの葉を食べると口の中がすっきりする。

5月1日(水) 7:30 テヘランを出発。国内便でシーラーズへ向かう。
9:00 シーラーズ着。

   イランの地図を見ると、ちょうど国土の真ん中を砂漠が占めていて、その砂漠を取り囲むように街が点在している。テヘラン、イスファハン、シーラーズの三大都市は、砂漠の西のラインにそって南北一直線上に位置している。
   シーラーズはテヘランに比べると、少し落ち着いた感じがする。人々の歩き方もゆったりとしている。
   街の中心部から北東へバスで1時間ほど行くと、石柱のようなものが何本も立っているのが見えてきた。ペルセポリスだ。紀元前6世紀にアケメネス朝のダレイオス一世が建てた宮殿の跡で、世界でも有数の遺跡の一つに数えられる。
   柱のところへ近づいて行ってみると、思った以上に大きい。高さは18m。床には磨かれた石が敷き詰めてある。こんなものが2500年も前に造られたとはちょっと驚きだ。日本ではまだ誰が何をしていたのかよくわからない時代だ。壁の彫刻には、世界のいろいろな国から朝貢に来た人々の様子が描かれていて、この国の強大さを示している。門の両脇にはゾロアスター教の人面獣身像がある。しかし顔は、偶像崇拝を否定するイスラム教徒によって破壊されている。
   このペルセポリスの宮殿は政治的な首都ではなく、主に儀式のために使われたらしい。ちょうど日本の伊勢神宮のようなものだ。丘の上に登って見下ろすと、宮殿の壮大さがよくわかる。屋根にはレバノン杉が使われていたということだ。今は見渡す限り砂漠が広がっているけれど、当時この周辺はレバノン杉の緑に覆われていたことだろう。目を閉じると、豊かな緑に覆われた王宮の様子が浮かんでくるようだ。
   王の即位式に大勢の人が集まっている様子などを、丘の上に立って想像していると、小学生くらいの子供が先生に引き連れられて登ってきた。男の子はすぐにまわりに集まってきていろいろ話しかけてくる。ペルシア語だ。何を言っているのかわからないので、とりあえず「サラーム(こんにちは)」を繰り返していた。女の子はみんな黒いチャドルに身をつつんでいる。恥ずかしそうに距離をあけながらも、遠くから外国人を興味深そうに見ている。話しかけるとキャーキャー言いながら逃げて行く。カメラを向けると顔を隠す。
   ふもとのモスクでは昼のアザーン(イスラム教の礼拝)が始まったようだ。コーランを読み上げる声が歌うように流れてきた。

アッラーフ   アクバル
(アッラーは偉大なり)
アシュハドゥ   アンナ   ラー   イラーハ   イッラッラー
(我は宣言す、アッラーのほかに神はなし)
アシュハドゥ   アンナ   ムハンマダン   ラスール   ラー
(我は宣言す、ムハンマドはアッラーの使徒なり)
ハイヤ   アラッ   サラートゥ
(いざ、礼拝におもむけ)
ハイヤ   アラル   ファラーフ
(いざ、栄えの道へおもむけ)

   下の方で添乗員さんが手を振っている。どうやら戻って来いと言っているようだ。一人ならもう少しゆっくりしていきたいところだが、このへんがパックツアーのつらいところだ。

ペルセポリス
ペルセポリス


5月2日(木) シーラーズ市内を観光。
   イランはバラの原産地としても知られている。古代にはここからヨーロッパに向けてバラが輸出されていた。このシーラーズも、かつては「バラとワインの香で満ちた街」と言われ、世界屈指の美しい都であった。しかしイラン革命以来、ワインの方は禁止されてしまった。
   エラムのバラ園には、250種類のバラが植えてあり、かつてのシーラーズの街をしのばせる。いすに座ってくつろいでいると、イラン人が何人か寄ってきて話しかけてきた。中学生くらいの子供がたくさん来ていたが、その子供を連れてきた先生のようだ。中学で英語を教えているという。
「日本はいい国だ」
「何が?」
「日本は豊かな国だ」
「イランも石油がたくさんあって豊かだと思うが」
「石油を売った金が我々のふところへ入るわけではないからね」
   それから、学校のこととか家族のこととかいろいろ話をしてくれた。一ヶ月の給料は100万イランリアル(200ドル)ということだった。
   今回の旅はパックツアーなので、ガイドが同行している。添乗員のY田さんと、イラン人ガイドのアジャールだ。アジャールはイギリスに留学していたこともあって、流暢に英語を話す。
   午前中はバラの香りが漂うエラムのバラ園でのんびり過ごし、その後シャー・チェラグ聖廟へ向かった。シャー・チェラグ聖廟は、ここで殉教したイマームサデ(イマームの子)のシャー・チェラグという人の墓だ。シーラーズで最も美しい建築物として知られている。ここは原則として異教徒は立ち入ることができないが、ガイドのアジャールがいろいろと根回しをしてくれたおかげで、特別に入れてもらえることになった。(このへんはパックツアーのいいところだ。個人で来ていたらちょっと入るのは難しい)。
   入口で靴を預けて建物の中に入った。一歩足を踏みいれた瞬間、思わず「うわ」と声が出てしまった。すごすぎる。建物の内壁が、一面銀のモザイク模様で埋め尽くされている。それらが互いに光を反射しあってキラキラ輝いて、この世のものとは思えない世界を作り出している。気がつくと、口を半開きにして上を見上げていた。
   中央にある棺のまわりにはたくさんの人が集まって、泣きながらお祈りをしている。「どんなことを祈っているのか?」とアジャールにきいてみると、「亭主が夜遅くまで帰ってこない」とか、「子供が言うことをきかない」とか、すげーくだらないことだった。
   それはともかく、このシャー・チェラグ聖廟はイラン美術の真髄とも言えるもので、一見の価値はある。
   その後バスに乗り、ハーフェズ廟を見に行った。ハーフェズというのは、イラン人から最も親しまれている詩人だ。

川のほとりに腰をかけ 水の流れを見つめなさい
流れ去る人生の意味を知るには それだけで十分だ

   こんな感じの詩を書く人だ。困ったとき、ハーフェズの詩集を開けば答えが見つかるといわれている。
   ここにも先生に連れられて子供がたくさん来ていた。
   地下にある喫茶店のようなところで、アイスクリームを食べた。イランのアイスクリームには、白いベビースターラーメンのようなものがまぜてある。特に理由はないが、そういう習慣らしい。
19:00 空港へ向かう。
   この日はイスファハンへ行く予定なので空港へ向かったが、エンジントラブルで飛行機が飛ばないようだ。3時間ほど待ったが、いっこうに飛ぶ気配がない。とりあえず空港のレストランで夕食をとることになった。店のおじさんが注文をとっている。どんな料理を食べさせてくれるのだろうか。(顔に「ケバブ」と書いてある)。
   夕食のケバブを食べた後、さらに2時間ほど待ったが、飛行機は全く動きそうにない。もう深夜12時だ。その時、添乗員のY田さんから爆弾発言が飛び出した。「このまま飛行機が飛ばないようなら、今からバスをチャーターしてでもイスファハンへ向かいます」
   おもしろい! 真夜中のイランの砂漠をバスで縦断するなんて、考えただけでわくわくする。きっと星空がきれいにちがいない。
   北海道から夫婦でツアーに参加していた人が、「飛んでくれるといいですね」と不安そうに言うので、「そうですねえ」と話を合わせておいたが、内心では「バース、バース」とバスコールを繰り返していた。ひとり気の合うS田さんは、一人で南米10ヶ国を渡り歩いた経歴を持っている。「どっちがいいですか?」と聞くので、「バスでしょう」と言うと、「でしょう? どう考えてもバスですよねぇ」とたちまち意気投合した。
   バスの運転手さんは、ホマホテルで働いているという理由だけで、みんなから「ホマおじさん」と呼ばれている。「バスでイスファハンまで行く」という話を聞いて、すごく不安そうな顔をしていた。でも「特別手当を出す」という話を聞くと、パッと表情が明るくなって、家に電話をかけに行った。「今夜は帰らんかもしれんが、明日はパーティーだ」とでも言っているのだろうか。
   結局飛行機は、明日の朝飛ぶということが決まったので、ホテルに戻ってもう一泊することになった。

シャー・チェラグ聖廟
シャー・チェラグ聖廟

5月3日(金) 7:30 シーラーズを出発。国内便でイスファハンへ向かう。
8:30 イスファハン着。
   かつて「世界の半分」とまでいわれた街イスファハンは、イランで最も美しく、また最もイラン的な街だ。サファビー朝ペルシアの時代にはイランの首都だった。
   メイダーネ・イマーム(王の広場)には、サファビー朝時代の栄華がそのまま残っていて、自分がいまペルシアに来ているということを実感できる。一歩足を踏み入れると、そこだけが時間の流れからとり残された別世界のようだ。正面には世界一美しいといわれるマスジェデ・イマーム(王のモスク)がある。サファビー朝のシャー・アッバース一世が建てたものだ。近くまでいって見上げると、その圧倒的なパワーに飲み込まれそうになる。またしても口を半開きにして上を見上げてしまった。
   イラン人がこれほどのものを造れたのは、やはりイスラム教に対する信仰心の深さからきているのだろうか。イスラム教では偶像崇拝は禁止されている。だからアッラーやマホメッドの銅像とか肖像画といったものは存在しない。そこでイスラム教徒は、文字や幾何学模様に自分の想いをこめて神への畏敬の念をあらわそうとした。これらの幾何学模様の美しさは、イラン人の神への畏敬の念そのものなのかもしれない。
   ところで、あのドーム型をしたモスクの屋根は、拡声器(マイク)の役割を持っている。モスクの壁は二重構造になっていて、内側の壁には天井に小さな穴があいている。そこから音が入ると、壁と壁の間で音が反響しあって、モスク全体に音が響き渡る。ドームの真下に立って手をたたくと、びっくりするほど大きな音で響く。ガイドのアジャールが上に向かって「アッラー」と叫ぶと、広場全体にまで声が響いた。
   マスジェデ・イマームの向かいにはカイサリエ・バザールがある。迷路のような道の両側には、伝統的な手工芸品、ペルシャじゅうたん、ペルシャ模様を彫りこんだ壺、肉、野菜、香辛料などが所狭しと並んでいる。
   トルコ石の原石が置いてある。トルコ石は今ではトルコでも採れなくなっていて、ちょっとした貴重品だ。
「これいくらですか?」
「それは売り物じゃないよ。これからそいつでペンダントを作るんだ」
「売ってもらえませんか?」
「そうだなあ、ペンダントにすると100ドルになるが、原石のままなら一個50ドルでいいよ」
「そんなにするんですか。じゃあいいです」
「まあ待て。いくらなら買うんだ?」
「5ドルぐらいなら」
「5ドルだってぇ!? 物の値打ちを知らんやつだ。帰れ!」
「帰る」
「ちょっと待った。あんた日本人か?」
「そうですけど」
「うちの息子がいま日本に住んでいて、日本人にはいろいろと世話になっているらしい。あんたになら1個20ドルで譲ってもいい。ほとんど儲けは無しだ」
   それからしばらく押し問答が続き、結局2個20ドルで売ってもらった。
   それにしても、このバザールは本当に迷路のようだ。何か目印になるようなものを覚えておかないと、元の場所に戻れなくなる。道がぐにゃぐにゃ曲がりくねっているから、まっすぐ進んでいるつもりがいつの間にか反対方向を向いていたりする。
   迷子になった・・・。もう集合時間が迫っているというのに、元の場所がわからない。確かにこの香辛料屋のところを曲がってきたはずなのに、そこを曲がって戻ろうと思っても、全然違う場所に出てしまう。店のたたずまいといい、香辛料の並び方といい、間違いなくさっきの店だ。おっちゃんの顔もだいたい同じだ。でも、着ている服が違う!! (別の店か!?)   もう集合時間は過ぎている。必死になって走りまわるが、あせればあせるほど見たこともない場所に入っていってしまう。まるで諸葛孔明の「石兵八陣」に迷いこんだような気分だ。
   向こうの方で、きょろきょろしながら走りまわっている人達がいる。一緒にツアーに参加している人達だ。
「すみません、集合場所どこでした?」
「私たちも今探しているところなんです」
   それから手分けして探し、なんとか見つけることができた。それにしても恐るべし・・・イランのバザール。
   帰りのバスの中で、さっき買ったトルコ石をアジャールに見せて相場を聞くと、一個5ドルということだった。(うーむ・・・)

カイサリエ・バザール
カイサリエ・バザール

5月4日(土) イスファハン市内を観光。
   この日は午前中は自由時間ということなので、イスファハンの街をブラブラすることにした。
   イスファハンはメイダーネ・イマーム(王の広場)が有名だが、それ以外はごく普通の街だ。所々にきれいなモスクの屋根が見える。
道路を歩いていると、男が話しかけてきた。
「どこから来た?」
「日本」
「そうか日本人か。私はアフガニスタン人だ」
「今は内戦中だと聞いているが」
「だから避難してきたんだ」
「戦争が終われば国へ帰るのか?」と聞くと、
「私の生きているうちには終わらないだろう」と言っていた。
   しばらく歩いていくと十字架のようなものが見えてきた。イランに教会なんてめずらしいなあと思いつつ近づいてみると、「あっ!」と驚いてしまった。そこには忘れもしない文字が刻まれている。アルメニア文字だ。どうやらアルメニア正教の教会のようだ。その名もベツレヘム教会。キリストが生まれた街の名前だ。
   アジャールの話によると、イスファハンには約一万四千人のアルメニア人が住んでいるということだ。そういえば、かつてアルメニアがペルシアに攻め込まれたとき、大勢のアルメニア人が捕虜になって連れてこられたと、本で読んだことがある。

   17世紀初頭、ペルシア王アッバース一世は、トルコ軍を破り、アルメニアのアララト地方を占領した。トルコ軍の反撃にあい、追撃された彼は焼土作戦を用いることに決めた。彼はこの地方を荒廃させ、5万のアルメニア人を自軍に従えて連れ去った。アルメニア人にとってこれはたいへんな故郷脱出で、ペルシアに着いたときには約半数が失われていた。アッバースは生存者をイスファハン近くに住まわせたが、彼らの労働、勤勉さから得られる利点に気づき、名誉ある処遇を与えるよう必要な法的処置を講じた。彼らは新ジュルファの街をつくり、ついに見出したこの土地で豊かに、順調に暮らすようになった。

佐藤信夫著 『アルメニア史』より

   入口のところに座っているおばあさんは、紛れもなくアルメニア人だ。一目見てアルメニア人だとわかる。
   教会の中は、イコン(壁画)で埋め尽くされていた。アルメニア正教には偶像崇拝の習慣がないので、キリストやマリアの像はなく、かわりにイコンが描かれている。イコンは天国とこの世を結ぶ窓のようなものと考えられていて、崇拝の対象ではない。この点もアルメニア人がイランで受け入れられた理由の一つかもしれない。
   その後、ペルシアじゅうたんの店へ行った。一口にペルシアじゅうたんといってもいろいろあるようだ。本物のペルシアじゅうたんの見分け方などを教えてもらった。100パーセントシルクで、しかも天然染料で染めたものというのは、やはり手ざわりが違う。北海道から来た夫婦が10万円ぐらいするじゅうたんを買っていた。日本で買ったらその三倍はするだろうから、お得な買い物かもしれない。
19:30 イスファハンを出発。国内便でテヘランへ向かう。
20:30 テヘラン着。
   空港に着いてバスに乗り込むと、乗客を半分ぐらい乗せたところで突然バスが走り出した。「まだ全員乗っていない」と運転手に言うと、「警察だ。逃げないと捕まる」という。どうやら不法駐車をしていたようだ。ぐるっと街を一週してから再び空港に戻り、残りの客を乗せた。後から乗ってきたアジャールが運転手と何やら口論をしている。ペルシア語なのでわからないが、「一言言ってから行けよ」というようなことだろうか。イランの警察は取締まりが厳しいとは聞いていたが、観光バスも容赦しないようだ。
   初日と同じアザディ・グランドホテルに泊まった。最後の夜なのでみんなでビールで乾杯した。といってもイランではアルコールは禁止されているので、ノンアルコールビールだ。ビールというより炭酸入りのリンゴジュースに近かった。

5月5日(日) テヘラン市内を観光。
   イランにはスイカ屋がたくさんある。店には山のようにスイカが積まれているが、しま模様がないので最初は何なのかわからなかった。一つ買って食べて見た。6500イランリアル。約150円だ。模様はないけれど、中身は日本のスイカと同じだ。でもちょっと水っぽい。
   昼食はアブッシュという料理を食べた。これはイランの伝統料理の一つで、肉とジャガイモとトマトと豆を混ぜ合わせたものをタフトンという薄くてまるいパンにのせて食べるものだ。食べ方はまず、日本の湯飲みのような器におかずとスープが入ったものが出てくる。その中から肉のあぶら身とスープだけを別の器に取って、木の棒でぐちゃぐちゃにつぶし、タフトンをその中につけて食べる。ここでジャガイモを入れたりすると、「ちがう! 最初はあぶらとスープだけだ」と、バスの運転手さんに怒られる。伝統料理なのでちゃんと食べ方が決まっているようだ。次に、残ったジャガイモやトマトを器に入れて、また木の棒でぐちゃぐちゃに混ぜる。今度はミントの葉と一緒にタフトンに包んで食べる。見た目はきたないが、味はおいしくて、いくらでも食べれる。一度食べると癖になりそうな、不思議な料理だった。
   最後にパーレビ朝時代の王宮などを見てから空港へ向かった。
17:00 空港着。
   出発までまだ時間があったので空港の免税店へ行くと、おばさん達が何かに群がっている。ほとんど日本人だ。たぶんあれだろうなと思って中をのぞくと、やっぱりキャビアだ。キャビアは粒の大きさによって三つのランクに分かれている。上から順に、ベルーガ、アセトラ、セブルーガ。そのうち最高級のベルーガが一缶50ドルで売られている。日本で買ったら二万円はする代物だ。キャビアに群がる日本人観光客を見ながら「あさましい・・・」と思って見ていたが、「でもメイド・イン・イランのキャビアなんてここでしか手に入らないなあ」と思うと、だんだん貴重なものに思えてきて、結局自分も一缶買ってしまった。でもよく考えてみると、同じカスピ海で取れたものだから、ロシア製もイラン製も中身は同じだ。結局「キャビア」というブランドに負けたということだろうか。
   いすに座って反省していると、男が一人話しかけてきた。日本語ペラペラだ。以前日本で中古車の輸出の仕事をしていたという。ロシア人だというがトルコ系の顔をしている。
「ロシア人には見えないが?」
「実を言うとアゼルバイジャン人だ。でもアゼルバイジャンといっても知らないだろう」
「知ってるよ。バクーからか?」と言うと、うれしそうにいろいろ国の話をしてくれた。
   コーヒーでも飲もうと喫茶店に入ると、テレビで”キャプテン翼”をやっていた。思わず、「あっ、キャプテン翼や」と言うと、店の主人がニコニコしながらこっちを見ていた。
19:30 テヘランを出発。
   機内食もやっぱりケバブだった。(もう当分ケバブはいい)

5月6日(月) 12:00 成田空港着。
   空港のバーで、アルコール入りビールで乾杯したあと解散した。
   みんな「うまい、うまい」と言っていた。

− おわり −


あとがき
   イランでは日本のテレビドラマ「おしん」が大ヒットしている。おしんの放送時間になるとすべての店が閉まるほどだ。「なぜおしんがイランで人気があるのか?」とアジャールに聞くと、「どんな苦難にあってもくじけず頑張るところがイラン人の共感を呼ぶ」と言っていた。女性がチャドルを着たり、アルコールを禁止したりしていることからみても、イラン人は厳しさを好む。自ら厳しい戒律を自分に課そうとする。なぜか?
   イランの歴史をほんの20年ほどさかのぼってみると、その理由が少しづつ見えてくる。20年前といえばイラン革命が起こる以前、パーレビ王朝の時代である。
   イラン最後の王、ムハンマド・レザー・シャーは、国民の圧倒的支持を得ていた。イランをして世界の最先進国の仲間入りをさせるという「偉大なる文明論」を持っていた。ところがそれからわずか15年の間で、王朝は転覆し、国王は亡命に追い込まれる。そのとき民衆の圧倒的な支持を得ていたのが、ルッホラー・ムサビ・ホメイニー、イラン革命の指導者である。なぜこれほど急激にパーレビ王朝は没落していったのだろうか。
   パーレビ王がとった政策は愚民化政策であった。「国民はバカであればあるほど扱いやすい」という政策である。だからイランの大都会では、西欧文明の最もいかがわしい面だけが開花した。カジノあり、ナイトクラブあり、あぶく銭目当てのポルノ産業が大当たりした。もちろん教育には力を入れない。そういうことをしながら、先進国の仲間入りをするとがんばってみた。莫大なオイルマネーは全て国王の懐に入るから金はある。その金で欧米諸国から最先端の機械を買いこんだ。ところがそれを使いこなせる人間がいない。こうして優秀な機械もただの鉄の塊と化していった。 国王のとりまきたちは、王の機嫌を取ろうと偽の報告をしていたが、その報告とは反対に、この国は日に日に堕落していった。そしてついに民衆が蜂起したとき、王にはその理由がよくわからなかった。
   イラン革命の当日、指導者であるはずのホメイニーはイラン国内にはいなかった。追放されてフランスのパリにいた。パリ郊外で、リンゴの木の下に座ってひたすら瞑想にふけっていた。そしてイラン革命を成立させた。いわば遠隔操作による革命である。パリ郊外で瞑想にふけるホメイニーのもとには、反体制派の活動家たちが集結していた。録音テープに収録されたホメイニーの説教は、国際電話で聖都コムにあるイスラム抵抗運動の秘密指令部に送られ、そこからさらにイラン中の九千のモスクにすみやかに電話で流される。どのモスクでもテープレコーダーが電話機に接続され、流されてきたホメイニーのメッセージをただちにおこして印刷し、ほんの数時間の間にそれらは数百万部の印刷物になって民衆の間に出まわった。イラン革命の開始と同時に映画館、ナイトクラブ、カジノなどが、ホメイニーの旗を掲げた民衆の手でまっ先に焼き討ちされた。銀行も襲撃された。利子を付けて金を貸すということがイスラム法に反するからだ。これらの行動は愚民化政策に対する反発であった。
   もう一つ見逃せないのが、イスラム教である。イスラム教は大きく分けて二つの宗派に分かれる。スンニ派とシーア派。おおざっぱにみて、イランがシーア派で、それ以外のアラブ諸国がスンニ派と見たらいい。スンニ派が全体の九割を占めている。イラン以外だと、イラクの東半分やレバノンのヒズボラなどがシーア派だ。初代ムハンマドから始まって、ウマル、ウスマーン、アリーと続く四代を正統四カリフ時代と呼んで特別視するのがスンニ派、その四代目カリフであるアリーを初代とし、そこから十二代のイマーム(シーア派の指導者)が続くとするのがシーア派だ。(スンニ派はこの十二イマームをイスラムの指導者とは認めていない)。初代イマームのアリは、ムハンマドの娘ファーティマの夫で、三代目イマームホセインの妻ハラールは、ササン朝ペルシア最後の王ヤズダギルド三世の娘である。つまり、シーア派の歴代イマームの中には、預言者ムハンマドの血だけでなく、古代ペルシア王家の血が共に流れているということになる。イラン人がシーア派信仰にこだわるのには、実はこの血統性というものが大きく影響している。第十二代イマーム、ムハンマド・アル・ガイエムは、940年に自ら身を隠し、時の終わりに再び帰ってくることになっている。シーア派教徒は、この十二イマームの秘密を身に帯び、「コーランの隠された意味を保持する者」と自らを位置づけている。だからシーア派教徒にとって最も重要なことは、世俗の権力の行うあらゆる危害に対して、この神的なものを守ることなのである。それを守るため、実際行動に出る。シャー(王)は当時のイラン人の目には世俗の象徴と映った。そして革命が起こった。
   こんなふうに考えていくと、夏の暑い日にわざわざ黒いチャドルを身にまとうイラン人の気持ちも、少しずつわかってくるように思える。
   パーレビ王朝をたてたレザー・シャー・パーレビは、元々一介のコサック兵から成り上がった将校で、CIAの画策によってクーデターを起こし、王位を獲得した。だからアメリカは、ある程度この王朝をコントロールすることができた。それがある日突然、一人の老人によってつぶされてしまったのだから、アメリカにとっては不愉快な出来事だ。それも革命の張本人であるホメイニーはその時パリにいて、王朝が崩壊した後、飛行機で帰ってきて「神が我に命じたもうた革命は成れり!」といって革命が成立してしまったのだから、まったくわけがわからない。当時アメリカの国務長官だったヘンリー・キッシンジャーは、「イランのモッラー(イスラム教の聖職者)の法衣の下にはソビエト製の鎧が透けて見える。こんなに完璧に計画されたデモンストレーションはしっかりした組織の後ろ盾がなければできるものではない」と言いたてた。しかしソビエトにとってもこのイラン革命は脅威でしかなかった。というのも、イラン周辺にはトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン、アゼルバイジャンといったイスラム系の国々がひしめきあっているからだ。連鎖反応で何か起こりはしないかと、びくびくしていたわけだ。つまりこの二大大国は、どちらもイラン革命の後ろ盾ではない。なんの武器も持たない一人の老人が、70万の軍隊と莫大な富を持つ国王を打ち負かしてしまった、というのがおもしろい。不思議な革命だった。
    まあそんな話はともかく、イランという国は意外と観光に適した国ではないかと思う。きれいなモスクの数々は見る人を飽きさせないし、国全体がひとつの美術館のようなものだ。
   イランへ行ったらまず、テヘランは素通りしてイスファハンへ向かい、王の広場のあたりで二、三日のんびりとペルシアの風に吹かれてみるのも、気持ちいいのではないかと思う。


シーラーズ



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