◆晩節を汚した開発独裁型指導者・フジモリ大統領の罷免(2000年11月25日)
ペルーのアルベルト・フジモリ大統領が21日、同国国会により罷免された。罷免決議が通った時、大統領は日本に滞在中で、前日には日本からファクスで辞表を送ったばかりだった。しかし、野党主導の国会は辞任を認めず、「道徳的能力の欠如」という理由で罷免に踏み切った。
このように極めて異常な、そして極めて不名誉な形で、フジモリ氏は権力の座から追われた。
▼功罪両方の側面
1990年の大統領就任以来、フジモリ氏の10年は功罪相半ばするという評価が、国際的にはほぼ定着している。
就任当時、ペルー経済は壊滅的な状態だった。インフレは年率7000%に達し、国際金融界からは孤立、海外からの融資は止まっていた。
社会不安も深刻だった。センデロ・ルミノソ(輝く道)とトゥパク・アマル革命運動(MRTA)に代表される左翼ゲリラが地方や大学を事実上支配し、テロが横行していた。1989年のテロは3000件を超え、マフィアなどの犯罪も多発していた。
フジモリ氏は強引ともいえる手法で2つの問題に取り組んだ。経済面では就任早々、「フジショック」と呼ばれる荒療治を断行した。それまで続けていた生活関連物資への補助金を廃止し、市場メカニズムにゆだねて経済を立て直そうという手法である。ガソリン価格は30倍に引き上げられた。実施直後には一時、混乱が拡大したが、効果は徐々に表れ、数年後にはインフレは一桁に低下。国際金融市場への復帰も果たし、ペルー経済は成長軌道に戻った。
治安対策でもやはり強硬策を推進した。2大ゲリラ組織は徹底的な取締りで壊滅させ、1996−97年にMRTAが起こした日本大使公邸人質事件も、特殊部隊の突入という強硬策で解決した。98年にはテロの件数は10年前の十分の一に減った。
しかし、こうした強硬策を実現するために、フジモリ氏は独裁的ともいえるな手法をしばしば採用した。
92年、フジモリ大統領は突然憲法を停止し、国会を閉鎖した。国会が野党主導で、政権が望む政策をなかなか実現できないため、「上からのクーデター」を起こしたのだった。治安維持ではモンテシノス国家情報部顧問を重用した。モンテシノス氏は軍や情報機関を牛耳り、治安維持には大きな実績を残したが、しばしば非合法的な活動や人権弾圧を行ったとされる。麻薬組織との関係も指摘された。
こうした動きに欧米諸国や米州機構などから批判が上がったが、政権の基本姿勢は変わらなかった。
▼大統領選を機に急速に基盤弱体化
そのフジモリ氏の権力基盤が急速に崩れ始めたのは今年初め、3選を目指す大統領選が本格化する頃からだった。
ペルーの憲法は大統領の3選を禁じているが、フジモリ氏は最初の選出(90年)が現行憲法の発効前だったことを理由に強引に3選出馬を可能にした。99年末あたりまでは世論調査でもフジモリ氏が圧倒的に有利
だった。
しかし、今年に入ると民主化や政権の刷新を訴える対抗馬のトレド氏がぐんぐん人気を集めた。4月の大統領選は接戦になり、選挙管理委員会発表ではフジモリ氏がトレド氏の得票を上回ったものの、第一回投票で当選に必要な過半数に届かなかった。トレド氏は選挙が不正だったと訴えて5月の決選投票をボイコット。フジモリ氏は決選投票で「当選」を決めたものの、選挙の公正さを巡り内外から批判を浴びた。
3期目に就任した7月、モンテシノス氏が野党議員を買収している風景が映し出されたビデオが外部に流れ、テレビ報道された。これをきっかけにペルーでは反モンテシノス、反フジモリの声が高まった。米国などからの批判・圧力は一段と強まった。
9月、フジモリ氏は突然、2005年までの任期を待たずして2001年7月に退陣すると表明した。間もなく、モンテシノス氏がパナマに亡命した。
このあたりの動きは、実際に何が起きたかなお不明な部分が多いが、フジモリ氏は早期退陣の約束とモンテシノス氏を国外に亡命させることで米国などの支持を得て、混乱を収拾する狙いだったという受け止め方が多い。
しかし、パナマから亡命を拒否されたモンテシノス氏がペルーに帰国したことで、目論見は外れた。11月、ブルネイで開かれたAPEC首脳会議に出席したフジモリ大統領は帰路日本に立ち寄り、そのまま辞任の表明、罷免と発展した。ペルーには野党主導の新政権が発足し、フジモリ氏の不正を追及する動きが広がっている。
▼開発独裁型指導者のワナ
フジモリ氏の政治手法は、発展途上国特有のいわゆる「開発独裁型」統治の色彩が強かった。フジモリ氏自身も「重要な問題であるほど責任は重大で、一人の大統領の堅固な指導のもと対処しなければならない」(日本経済新聞99年6月30日・私の履歴書)と認めている。
第2次大戦後、アジアやアフリカ、中南米諸国では政治的には国民の自由な活動や民主化を抑える一方で、経済的には政府の強力な指導力の下に高度成長を目指す開発独裁型の指導者が相次いで登場した。韓国の朴正煕大統領、フィリピンのマルコス大統領、インドネシアのスハルト大統領などが代表とされる。
こうした開発独裁型指導者の中には、経済発展の面では大きな成果を残した者が少なくない。目に見える成果を残した後、自ら後進に道を譲った指導者もいる。
しかし、マルコス大統領やスハルト大統領に見られるように、いつしか政権が不正まみれになって国民の支持を失い、混乱の中で権力の座を追われた者も少なくない。
強固に見えたフジモリ氏の権力基盤は、わずか数ヶ月であっけなく崩れ去った。強引な政権運営やスキャンダルに国民の気持ちが離れていたことに、フジモリ氏自身も気付いていなかったように見える。
元妻で現在は政敵となったスサナ・ヒグチ氏は「何が彼を変えたのか。権力とカネとモンテシノス氏だ」と述べている(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙・2000年11月22日)。力を過信したフジモリ氏は、開発独裁型の指導者が陥りがちなワナに捕らえられてしまったのかも知れない。
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