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この一枚の写真が、いつ、どこでの旅であるかを解明する鍵であった。
画面左の日陰で読めない表示板を、画像処理で拡大して読み取った。

大原西陵 宮内省

とまで読み取れた。
このとき、インターネットで検索してどのようなところかを調べはじめた。

”大原西陵”で検索したところ、ここを訪れた人の紀行記のブログに巡り合い、記事を読んだ。
大原西陵は建礼門院の陵墓であることがわかった。
建礼門院は寂光院の庵で亡くなった。この写真はその寂光院の山門への石段である。
大原西陵は寂光院の上にある。

平家物語の大原御幸の段に、後白河法王がこの寂光院の建礼門院を訪ねられたと記されているという。
2005年NHK大河ドラマ「義経」、この辺りのことには、どうなのだろう。

この石段を後白河法王が登って行かれた
のだと思うと、不思議な思いにかられる。
寂光院本堂 

仏心とは
大慈悲これなり

 その下右の文字は”観世音・・”とも読めるが判然としない。

この言葉は、なにかを捜し求めて彷徨していた私に永く深く刻み込まれた。

追記。
この本堂は飛鳥、藤原、桃山の三時代の様式からなっていたもので、推古天皇2年(西暦594年)聖徳太子がご父君用明天皇の菩提のために開創された。
平成12年5月9日、放火され焼失したと、
「寂光院ご案内」にあることから、わかった。焼失前の写真である。
本堂前の庭に置かれた灯篭。

南蛮鐵の「雪見灯篭」とよばれるもの。
太閤秀吉の桃山城にあったものである。
(「寂光院ご案内」から)

このときは、美しい情景として撮影したので、最近この由緒を知った。まるで、忘れていたのかもしれない。

これまでの上の3枚の写真は、未整理、記録なしのもので、なんとWEBサイト「大原マップ・寂光院」に掲載されていた2枚の写真と偶然にも同じ被写体であり、一連の写真の場所が解明されたのだ。
はじめは
経典抄
と読み取れる。

誠なきことを
   なさざれ
足るを知り
   智慧をみがけ
悪しかるは
   せぬこそよけれ
作(さ)して後
   心悔いむ
善きわざは
   つとむぬぞよき
後の日に
   悶えなからむ
苔むす屋根。
「青春の彷徨 京都編」 はここで閉じる。「青春の彷徨」は若い時のさまよい歩いた前後10年ほどの間の合間の旅のばらばらの写真を、今回いろいろな手法を使って探求、探索し、記憶に無いもの、あるものを再構築し、仕立てたものだ。自分では結構愉しく面白い、こんなことがあったのかと驚き、ときめき、言いようのない感慨を新たにした作業であった。
このあとは後年の、「宇治、京都紀行」となる。        2005/3/20  4/9 一部改訂。

大原西陵、寂光院への道

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